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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] ワルキューレの午睡・第三部六節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e 前を表示する / 次を表示する
Date: 2008/12/08 17:13






 そして八月八日の朝が来た。高村恭司は今やほとんど眠らない。体力的な問題が生じないのであれば、睡眠は彼にとって時間の浪費でしかないからだ。洗顔し、朝食を取り、歯を磨き、身繕いをしていると、夜明け直前に部屋へ忍び込んでいた奈緒が、眠たげな顔で洗面所に現れた。彼女がプライベートでは眼鏡を利用することを、このマンションに来て初めて知った高村である。
 飾り気のないポニーテイルの下でレンズ越しの目を不快そうに歪めると、奈緒は高村を押しのけ、蹴飛ばして顔を洗い始めた。
 高村は屈んだ奈緒のうなじに水を垂らした。大げさに肩を震わせた奈緒が無言で高村の肝臓を狙う。日に日に鋭くなる足刀をさばいて掴むと、高村はそのまま動きを止めた。
 握る足首は怯むほどに細く白い。磁器めいた肌理の細やかさは少女というより子供のそれで、高村は今さらながら、奈緒の若さを実感した。
 片足立ちの姿勢を保持し、前髪から水をしたたらせながら、奈緒が簡潔につげた。

「離してよ。もしくは死んでよ」
「何その二択……」戦慄した高村はすぐに前者を選んだ。さらに声をひそめて、「それよりここ、俺は今日で引き払うぞ」

 万年不眠症ながら、奈緒の理解は早かった。侮蔑をあからさまに顔面に示している。

「アンタってなんか逃げてばっかりね」ダサ、と付け加えた。「え、ていうかあたし、服とかここに置いてあるんですけど?」

 知るかボケ、と高村は思った。

「知るかボケ」口にも出した。

 また小競り合いが起きた。

「ていうかさ」よれたシャツの襟元を気にしながら、奈緒が半眼で呟いた。「そんなアッサリ裏切るんならそもそもここに来た意味なくない?」
「この土地に無事戻ってきてルート押さえた時点で手引きの九割は終わってるんだよ」曲がった眼鏡のつるを直しながら、高村も答える。「立地でわかるだろ。それくらい察しろよ。一学期の評定いくつだったんだよおい。どうせ保健体育だけ5だろ? エロ! やーいエロ女ー!」
「小学生かよ!」

 更にけんか雲が飛んだ。

 ともあれ奈緒については、高村も対人関係以外ではそれほど心を砕く必要もないと判断している。彼女には触れずにいることがもっとも穏当な対処なのである。殴り合って得た結論としては実がないが、その種の人間は決して少なくない。わかっていながら奈緒を挑発してしまうのは、ひとえに高村の未熟さによるものだった。
 高村から巻き上げた大金で散財を繰り返す奈緒は、結局大量の衣類を放置して正午前に部屋から消えた。HiMEである奈緒は石上の部下からも持て余されている。完全に存在を無視されながらも、奈緒を見送る屈強な男性は安堵した様子だった。
 高村がなつきと待ち合わせている時間まで、残り一時間弱を切った。丹念にストレッチで身体をほぐし、軽い運動で筋肉を温め、高村は監視の男の様子をうかがった。
 上背は177cmの高村よりも五センチ以上高い。横幅は同程度だが、職掌が職掌であるだけに心得のない見掛け倒しということはないだろう。さらに室外にもひとり見張りは立っているはずである。水も漏らさぬ警戒態勢には遠くとも、一声上げる暇があれば、逐電の算は容易に乱れる。真正面からの揉め事になれば疲れるのは明らかなので、なんとしても避けたいところだった。
 高村はとりあえず彼を立てなくすることにした。
 純粋に身体的な力量で打撃による喪神を狙う場合、顎を狙って正面に立つ危険を冒すか後頭部を鈍器で襲って殺人を犯す覚悟をせねばならない。また胸鎖乳突筋のそばには天鼎穴という経絡があって、その道の達人はこのツボを一打するや意識を断つと言うから、好奇心に任せて狙うという手もある。
 どれも遠慮したい高村は、ホモセクシャルを装って男の背中に寄りかかった。雑談もこなす仲である。上役の珍客という距離感をはかりかねてか、男が戸惑いを見せた。
 高村は耳元で囁いた。

「あの、実は俺、あなたに告白したいことが。え、と。同性愛ってどう思いますか?」

 目の前でたくましい首筋に鳥肌が立つのを眺めながら、硬直した太い頚部を両腕でロックした。
 トラウマでもあったのか、拍子抜けするほど見事に極まって、ものの三十秒で意識は落せた。失禁がともなわなかったことを幸いに思いつつ高村は素早く行動した。クリーニングされた衣服に付属していたハンガーをほぐして、気絶した男の両手首を厳重に拘束した。白目を剥いた顔の呼吸を確認し、奈緒が置いていった靴下を二足ほど口中に詰め込んだ。できれば下着を用意したかったのだが、奈緒はそちらはすべて回収してしまったようである。
 最後に男の靴下を剥ぎ取ると、両足の親指を脱臼させた。
 意識を取り戻し、女子中学生の靴下をほおばりながら拘束されている自分に気づいたときの彼の絶望を思いながら、高村は部屋を後にした。もちろん、携帯電話と胸に隠し持っていた拳銃は回収してある。オーストリア製らしきそれを適当にもてあそび、マガジンから残弾を全て抜き、チャンバーに初弾が装填されていないことを確かめ、ふたたびマガジンを戻した。
 部屋を出た。いつぞや奈緒との喧嘩を仲裁した女性が、気さくな調子で手を振ってくる。どことなく杉浦碧を連想させるなかなかの美人で、基本的に年上好みの高村は進んで良好な関係を築いていた。
 高村もまた陽気に応じながら、拳銃の持ち手を差し出した。女性がきょとんとそれを受け取った。
 高村はのんびりと告げた。

「俺、今から脱走します」

 女性の顔色は即座に改まった。訓練された反射神経が正しく作動した。手中の拳銃を素早く構えた。威嚇のためか、一歩後ずさりつつ、女性はあらぬ方向へ銃口を定めた。
 当然空砲である。
 両手を拳銃に占有されがら空きの腹部へ、高村は渾身の前蹴りを放った。女性が肺の息を全て搾り出した。
 なおも双眸の光は死んでいない。実包の込められていない拳銃を床に落すと、前かがみになりながらも腰から小口径の拳銃を抜いた。
 その間に高村は間合いを詰め、狙いを定めている。
 掌を右下から女性の細い顎へ向けて、素早く引き上げた。
 確かな手ごたえとともに女性の顔面が九十度近く跳ね上げられた。
 眼球を覚束なく乱動させながらも彼女は発砲を諦めない。刹那の静止を経て膝を折りながらも意思は不尽であった。下半身の安定をあっさり放棄して、なおも照準をつけてくる。
 その動きをユニットで予測していた高村は、すんなり女性の親指を獲った。心得のあるものに対して関節技の類は極端にその効力を失うが、まともな判断力を欠いていれば話は別だ。発砲も許さないままに指、手首、肘、肩を順番に制圧した。女性を腹ばいに引き倒し拳銃を取り上げ、ボディチェックをしたあとで、先ほどと同じように喉を締め上げた。
 高村は拘束のさい、「おっと」と呟き、偶然女性のおっぱいに少しだけ触れていた。薄着の下で振舞われるかなりの業物である。主張の激しいわがままな脂肪が、絡み合ったのでたまさか接してしまった、という体裁だった。
 もつれ合う。
 とっさに腕を引いた。
 違和感があった。
 偽乳――。
 たまらぬパッドであった。

「ちょっ……」
「いやすいませんすいませんわざとじゃないんです」

 さらに強硬な抵抗にあい、完全に締め落とす形に持っていくまでには二分近くかかった。女性の虚栄心と高村の左腕に、深い爪あとが残った。彼が暴行犯ならばあとあと致命的な証拠となっただろう。

「本当にすみませんでした」

 夢枕ごっこでも希釈できないほど凄まじい罪悪感を感じたので、携帯電話を奪って手早く拘束すると、深々と一礼する。
 それ以上は何もせずに、二週間以上を過ごした仮の宿りをあとにした。


   ※


 石上亘と真田紫子は、その一部始終を監視カメラ越しに見ていた。石上は内心でほくそえみ、紫子は高村がそのマンションに軟禁された経緯も知らないままに、はっきりと憤りをあらわにした。

「女性に暴力を振るうなんて……」
「いや、まあ、そうかもしれないがね」

 隠して鼻で笑うつもりが、苦笑へ化けた。石上は自分でも、紫子へ対する反応がずいぶんと気安いことを認めている。情が移っているのだろう。その程度の自己分析はできた。ある意味好都合だった。女は盲目的でありたがるが、時として途方もなく鋭い。真実彼女に愛を向けられるのであれば、それに越したことはないのだ。
 重要なのは、愛よりも高い位置に目的を掲げ続けることである。
 去っていく高村の背中を画面越しに見つめながら、石上は眉を持ち上げた。
 画面の中、カメラの視点から見れば手前側にある通路の角から小さな頭が飛び出して、高村の背後をうかがっている。

「結城、奈緒か――」

 その頭の名前を呟いて、石上はあるかなきかの笑みを浮かべた。


   ※


「……」

 約束の時間に五分遅れてやってきたなつきは、高村の格好を見るなり渋面を浮かべた。こげ茶色のキャスケットとペイズリー柄のネッカチーフに挟まれた顔が、胡散臭げに高村を品定めしている。
 高村はなつきによる無言の要求に折れるかたちで、相互の格好を見比べた。なつきのスタイルは夏服というには露出の少ないもので、白無地の七分袖シャツの上にスクエアネックの寒色をしたチュニック、ボトムにカーキベージュのストレッチパンツを合わせて、足元は頑丈そうなレザーブーツといった出で立ちである。
 対する高村は、いつもの安物のシャツとスラックス、サマージャケットだった。彼は散々幼馴染に仕込まれた過去からこうしたケースでの対処法を参照して、なるべく刺激しないようになつきを褒めた。

「いやあなつきさん、今日はまたいちだんとぺっぴんさんですな! わっはっはっは!」

 無視された。

「おまえ、ちょっと来い」

 有無を言わさず、なつきは高村の腕を引いた。足早に向かう先は商店街である。進路には折悪しく一見では入りにくそうな服飾店が看板を出している。

「さすがにその格好で連れまわすのはゴメンだ。ちっ、こんなことなら普通にバイクで来るんだったな。歩きでさえなければ……」
「制服の下にパーカー着てるタイプのおまえにおしゃれ指導をされるとはな……」引きずられるままの高村である。「というか、そんなに駄目な格好かな。一張羅だから今さら酷いとか言われても困るよ」
「別にそういう意味で着替えろと言っているわけじゃない。バランスの問題だ。学校と同じ格好でいられると引率されているみたいじゃないか」
「まあ、それも一理ある」高村はなつきの意向を尊重することにした。「そういえば、鴇羽とか碧先生には今日のこと伝えたのか? さっき二人からメールが来たぞ」
「下衆の勘ぐりだ」なつきがへの字に口を結んで吐き捨てた。「一応誘ったら、『ごゆっくり』だとさ。何を勘違いしているんだか……どうもあいつらときたら、楽観的にすぎる。本来ならもっと神経質になってしかるべきなのにな。気晴らしが必要なのはむしろ連中だと思っていたんだが、杞憂だったようだ」
「今に至るも進展がないんだろう? 少なくともわかっている限りでは、HiMEの戦闘も起こっていない。他のHiMEも見つかっていないし、名乗り出る気配もない。凪あたりから誰がどうなったという話も聞いてない。結局は小康状態ってことだ。なら気が緩むのもしょうがないさ。人間そうそう長いこと気を張ってたら疲れるもんだ」
「程度問題だろう、それも」

 喧噪と盛夏の熱射から逃れて、シックな色合いに統一された店内へと踏み込んだ。整然と並ぶハンガーラックの群れと飾られたマヌカンが彼らを迎え入れる。琥珀色をした間接照明の下でエアコンに吹かれながら、高村は三歩離れた位置で真剣に見立てを始めたなつきの様子をうかがった。
 先日の混乱はまったくなりを潜めている。あの場でこそ深く言及しなかったが、誰よりなつき自身が含羞の念を持って場景を記憶しただろう。良くも悪くも彼女の自意識は強い。おそらく帰宅するなり、徹底的に自己の分析を始めたはずである。だからこそ醜態を目の当たりにした高村を前にしても平静でいられるのだ。
 分析の視線を顧みず、なつきはしかつめらしく唸った。

「無駄な筋肉のせいで身長なみのサイズが合わない。道理でいつもしまらない服の着こなしだと思っていたら、そういうことか」

 ほとんど拷問のようにしごかれ、半ば強制的に鍛えられた体躯でも、明け透けに貶されると心痛に来るものがあった。高村はうなだれる。

「じゃあ、わざわざこんな高い店じゃなくていいよ。別の場所でパーカーとジーンズでも買うから」

 なつきは取り合わなかった。店員を呼び寄せ、一そろいの衣服を指差すと、慣れた様子で高村の採寸を命じる。高村はぼんやりとその光景を眺めていた。眺めている内に股下と胴回りと腕の長さを巻尺で計測された。レジスターの前に連れられて言われるがまま財布に入っていた全ての紙幣を供出した。
 足りなかった。
 おずおずと告白すると、店員が気の毒そうに目を逸らした。
 なつきが信じられないものを見る目で高村を凝視した。

「やめてくれ、そんな目で見ないでくれ!」
「……まあいい。ここは埋め合わせしてやる。そのかわり、今日は全部おごれよ」勝ち誇ったなつきが、気前よく残金の負担を申し出た。高村の視界に入った可愛らしい意匠の財布には、明らかに二十枚以上、福沢諭吉の肖像画が収まっている。

 恩着せがましさに乏しい物言いに、高村はなつきの本心を見た思いだった。年齢に見合わない濫費は明らかに保護者へのあてつけが本意である。成熟のポーズを好む彼女にしては反抗のやり口が幼いが、相手が父親であれば話は別なのだろう。
 なつきの真意がどこにあれ、受けるわけにはいかない厚意だった。というよりも、この手の行動を当然と思う女に育てさせてはならない。妙な義務感が高村に芽生えた。

「ちょっと待っててください」
「あ、おい」

 店員となつきに断りをいれて、高村は最寄りのコンビニエンスストアへ走った。目的はむろんATMである。カードは奈緒が持ち去ったまま返そうとしないので、彼はふだん通帳を持ち歩いている。数秒の躊躇を経て限度額一杯まで預金をおろすと、明細に打たれた残金の表示に目を剥いた。以前からまた数十万も減っている。
(結城マジで容赦ない)
 今すぐ呼び出して取り上げたいところだが、そんな暇はない。何より、元々奈緒を金で釣ろうとした後ろめたさがある。絞るようなため息を飲み込むと、小走りに店へ戻った。
 出迎えはなつきの呆れ顔である。店員は微笑ましげだった。

「意外と見栄を張るんだな」
「これは常識だ、馬鹿」半ば本気で高村はなつきを叱った。「おまえまさか友達にもこういうことしてるんじゃあないだろうな」
「いや」なつきは顎を引いて口ごもった。「静留はわたしより全然裕福だし、舞衣はこういうのは嫌がるから」
「あるものが出せばいいっていうのも真理ではある」高村は念を押した。「おまえのお父さんがおまえに自由にさせている金だ。どういう目当てで何に遣おうと他人が口を出すことじゃない。好意を買おうとするような浅ましさが玖我にないことはわかってる。ただ、投げやりな金の使い方は金輪際止めろ」
「わかってる。ちょっとした手間の省略のつもりだった」なつきはばつが悪そうにそっぽを向いた。「もうしないよ。悪かった」
「こっちこそ」高村は嘆息した。「悪いな、甲斐性のない担任で」

 その台詞を聞いて、店員がぎょっとした顔を見せた。あえて理由は聞かずに、高村は直しにかかる時間を聞いた。一時間ほどだとの答えを受けると、二人は遅めの昼食を取ることで意見の一致を見た。
 衣装の対極を行くようになつきが選んだ店はファストフードだった。八月の客層にはやはり若年が多い。ピークを外してもイートインでは席がなく、紙袋を抱えて店を出た高村は木陰のベンチを指差した。
 月杜町の外観は非常に小ぎれいである。商店街のアーケードも、地方都市に似合わないほどテナントが充実している。本土や四国からわざわざ足を伸ばすものも少なくない。都心の絶対数には及ばないとはいえ、高村は風華が人口で見れば小都市であることを忘れかけた。

「暑いな」

 今さら気づいたかのように、なつきが呟いた。目線は真正面を向いている。陰の網がかかった白い頬の輪郭が、やけに鮮明だった。たたずむだけで汗ばんでくるような陽気にあって平然さを保つあたりは、つくづく上品な令嬢そのものの造作である。
 当人はそんな評価は露知らず、包装を手早くむしる。小さな口を開いてバンズにかぶりつく。がさつな振る舞いであった。
 すると、かじりついた姿勢のままなつきが瞳を横に滑らせた。高村の観察を受けて、半眼をつくる。

「なに見てる」
「ハンバーガーのその中の肉はパティと言うんだぞ」ごまかしに雑学以下の豆知識を披露した。
「知ってる。舞衣に聞いたことがある」しかも無駄だった。
「ふうん、結構仲良くしてるんだな」
「意外とでも言いたげだな」
「そう悪く取るなよ」高村もまた、ポテトをかじり始める。揚げたてなのか、歯ごたえだけは感じられた。「遊びに行ったりとか、よくしてるんだ?」
「たまにだな」唇についたマヨネーズを、舌が舐めとった。はしたないというよりも、妙になまめかしい仕草である。「服を買ったり、した、けふんっ、小物を買ったり、他のことを話さないわけじゃないが、……まあ、結局HiMEについての話ばかりになる」
「たしかに」苦笑が盛れた。「そんな共通点でもなけりゃ、玖我と鴇羽はあまり袖が近づくタイプじゃないのかもな。おまえはそんな感じだし、鴇羽も面倒見が良いようで妙に達観したところがあるし」
「背負い込むやつだよ。物好きだ」またひと口、なつきはハンバーガーを咀嚼した。口が小さいせいであまり量が減っていない。「元々いろいろ抱えているせいで、チャイルドの力もあっていちばん危険因子として見ていたんだがな、見込み違いだったようだ」
「あの年で一家の大黒柱だし」舞衣への褒辞には高村も異論がない。「正直、ここに来て色んな子供を見たけど、いちばん凄いと思ったのは鴇羽だ。あいつより優秀な生徒はそれなりにいるが、あいつよりバランスがいい人間は滅多に見ない」
「べた褒めじゃないか。本人に言ってやれ」
「俺が言ったって、胡散臭がられるだけだ。褒め言葉ってのは間接的に聞かされるのが一番いいからな。というわけで、玖我からちゃんと伝えておいてくれ」
「考えておこう」なつきが力の抜けた笑みを見せた。「で、服を受け取るわけだが、そのあとはどうする? 言いだしっぺであるからには考えがあるんだろうな」
「ああ、まあ、風華をちょっと出ようかなとは思ってる」高村は何気なく言った。
「なに?」なつきが眉を持ち上げた。「……それも考えないではなかったが、恐らく尾行がつくぞ。この時期だから足止めされるかもしれない。少なくとも儀式以前でさえ、わたしがこの土地を離れる際には十重二十重に監視がついた。見つけるたびに潰してはいたが、振り切れるものじゃないだろうな」
「べつにされて困るものでもないだろ。空気みたいなものだ」高村は無器用なウインクで応じた。「それに、どうしても気になるなら気になるで、対処法はあるさ」


「で、フェリーか」

 陸路での包囲封鎖を受けるより、最初から入出が限定される航路ならば必要以上に気を配ることもない。また港でなつきと高村の後に乗船した人間さえ認識しておけば、彼らのいずれかは尾行者なのである。顔も分からない不特定多数の監視者よりは、幾分か組しやすくなるだろう。本土の波止場へは既に人員が派遣されているだろうが、風華を根城にする勢力は、領域外ではその影響力を極端に落とす。焦りからなつきへの直接接触を選べば暴力の餌食である。その事実は異なる意味の危険をもたらしかねないが、なつきにとっては一番地から遠ざかるというだけでも、充分に肩の荷が下りた様子だった。
 そのなつきは、遊覧船の手すりにもたれて潮風にあおられている。隣の高村は新調した服に居心地の悪さを感じている。高価な服は確かに良質で、着心地は以前のスーツとは比べ物にならない。ただし高村の意識までもが服に合わせて変わるわけではない。着られている印象は払拭できなかった。
 なつきはそんな高村を面白がって、

「どうせなら靴も合わせるべきだな。これが本当の足もとを見られるとボロが出るという」
「誰が上手いことを言えといった」高村は弱りきった顔で反論した。「じゃなくて、いやもう、勘弁してくれ。俺のような未熟な研究者はさもしくひもじく貧しくあるべきなんだ。清貧をもって尊しとなすというやつだ」
「就職もしないディレッタントがなに言ってるんだ」なつきは容赦なく痛いところを衝いてきた。

 懸念に反して、到着した先でも掣肘らしきものは受けなかった。風華市からついてきた尾行者も半ば開き直って、視界に納まる位置でくつろいでいる。高村が直接知る一番地の監視員とは妙に温度差を感じた。

「連中は別にプロの諜報員や軍隊ではないからな」なつきが説明した。「そもそもが常時活動的な組織ではないし、本当の意味で本格的に活発化したのはせいぜいここ三十年というところだろう。無能ではないだろうが、副業に精を出しすぎて主客転倒したせいで、何しろ組織として実務に当たった経験に乏しい。そこが警察などとは違うところだ。それに前の儀式は三百年前だと言うし、参考になるはずもない。……とはいっても、構成員には特殊な訓練を受けたものもいるようだし、高い実力を持つものもいるはずだが、そうした精鋭は恐らく外事の折衝に当たっているはずだ。取り分け、迫水の話だと連中はまず侵入を防ぐことに重きを置いているようだからな」
「あ、やっぱりあれ迫水先生なんだ」最後の部分にだけ高村は反応した。「正体とかにはさほど興味がないけど、いったいどういう縁でおまえと組んでるんだ? 問題ないのか、あれ」
「さあ。よくわからん」なつきは平然といった。「以前女子寮に下着を盗みに入ったところを捕まえて、以来それをネタに脅迫して言うことを聞かせている。狸だがな」
「え、下着ドロて……」高村の内部で迫水に対する評価が相当下方修正される情報だった。

 時刻はちょうど昼下がりである。二人は停留所からバスに乗って市街地へ繰り出した。明確なプランのない遊びについては、一応普通の大学生であった高村のほうに得手がある。優花・グリーアや天河朔夜との経験も生かして、当たるを幸いに店々を冷やかした。
 追ってくるような人影は、もうなかった。
 恋人関係ではなく、趣味が合うでもなく、しかも年齢差のある異性のコンビでは、間を持たせる一点だけでも相当に苦労を強いられた。元々舞衣か碧には緩衝材の役割を当て込んでいたのだが、おかしな気回しのせいであては外れた。しかし彼女らが同道していれば、今度は都合よくなつきから引き離す工夫をせねばならなかっただろう。

「帯に短しだな、ほんと」
「なにがだ?」ソフトクリームをがつがつと食べながらなつきがいった。高村の苦労の甲斐あってか、まだ退屈な素振りは見せていない。
「おまえ、こういう風に男友達と遊んだりとか、するの? いや友達がいないのは知ってるけど」
「するか!」なつきが憤りを見せた。「おまえはうちの校則をなんだと思ってるんだ、まったく」
「無免許でバイク通学なんかしてる子に言われたくないんですけど……」
「わたしは一年留年しているので、来週には十七だ」なつきが胸を逸らした。
「いやあの単車明らかに大型だろ。車検どうしてるんだおまえ」
「いいんだよそんな細かいことは」
「なんで処分受けないんだよマジで」藤乃静留の明らかなえこひいきだった。「それは置いておくとして、今だってそうだが、何も男と女が遊んだら即恋愛ってわけでもないだろうに。何時代の人間だよ、おまえは。変なところで保守的だな」
「なんだか理不尽に責められてる気がするぞ……」なつきが眉をひそめた。「なんだ、おまえ結城奈緒みたいな尻軽なのがいいとでも言うのか?」
「ううん」高村は返答に困った。「あいつはあいつでやり過ぎなんだよ。病気とか心配だよな。避妊はしてるんだろうか……。でも、なんだか美袋の話だと、あいつも男子にチヤホヤされるわりに友達いないみたいだ。足して二で割れとは思わないけど、案外おまえたちって似た者同士かもしれないぞ」

 なつきが思い切り舌を突き出した。

「気色悪い話をするな。このわたしとあの暴走ガキのどこが似ているというんだ」

 言い終えるや否や、派手に転んだ。咄嗟に転倒を察知した高村が腕を支えて事なきを得たが、不審な様子で足もとを何度も確認している。

「おいおい、何でこんな何もないところで転ぶんだよ。人の前でドジをアピールするやつは八割イタイぞ」
「ち、違う」なつきがふらつきながら体勢を立て直した。「今何かが引っかかったんだ。……何もないな。気のせいか」

 しきりに訝しがりながら歩みを戻すなつきから目を切って、高村は前後左右を見渡した。繁華街まで足を運ぶと、さすがに追跡を明察するにはあまりに技能が足らない。そもそも尾行の意図は威圧であるので、受け手が神経質になりすぎては本末転倒である。
 十六時を回ると、街路を行き来する人の数はさらに増えた。聞きなれない言葉の奔流は関西の趣に染められている。

「そういえば、藤乃は明らかに京言葉だけど、うちの学校ってなんであんな標準語ばっかりなんだ。玖我だって地元このへんだろう?」
「うちは両親が元々関東圏の出だ」なつきが昔を懐かしむようにいった。「訛りを出せないわけじゃないが、べつにその必要も感じない。それに風華は全国から学生を募っているからな。舞衣もそうだし、命はそもそも日本語が覚束ないし、……結城奈緒はどうだったかな」
「ああ、あいつもそうだ、そういえば」

 ようやくと言うべきか、雑談に興じるなつきから力が抜け始めた。高村もそれほど腐心したわけではないが、意識して観察すると、玖我なつきという少女は、隙が多く面白い不運に恵まれる反面、感情の素地を無防備にさらすことをしない。
 男言葉に近い語り口調からもうかがい知れるが、人格を演じている意識が強いのかもしれない。高村の乏しい経験知から反映されるこの種の人間は、性向こそ多彩でもたいていが本心を滅多に漏らさない点で一致している。なつきがそうした人間かどうかはともかく、彼女が人付き合いを忌避していることは、関係を持った三ヶ月弱の期間だけでも充分に知れた。

 思えばなつきが声を上げて笑うような場面に、高村は出くわしたことがない。舞衣や静留の前では恐らく違うのだろう。玖我なつきの根底には、異性への緊張が常にある。容姿に恵まれた少女の思春期にはありがちな性質ではあるが、なつきの年齢を考えると晩生と評さざるを得ない。
(ふつう、美人ってのはどんどん男慣れしていくもんなんだけどな)
 ごちては見るものの、高村の見解も身近な例から拾い上げただけの恣意的類推である。なつきがあまりに頑なな原因を彼女の父親像に求める一方で、心理を解き明かす無意味さも悟っている。
(そういうのは俺の仕事じゃないんだろ)
 半ば放棄し、半ば逃げるように結論付ける。
 煩瑣な駆け引きは抜きにして、高村はなつきを引きずり回し、なつきが高村を引きずり倒すこの時間を、精一杯楽しもうとつとめることにした。

 本屋に入り、なつきが漫画を好むことを知った。行きがけのペットショップでは、やはり犬を好んで鑑賞していた。日も暮れてゲームセンターへ足を伸ばすと、なつきがクレーンゲームを荒しつくした。取れるだけの景品を回収し、無償で子供に配り、感謝されていた。スロットゲームでは異常としかいいようがない動体視力でコインを乱獲し、店員の目が痛くなったので店を出た。
 高村は年相応の玖我なつきを、飽きずに眺めていた。打てば響くようなやり取りも小気味良かった。それだけに、相好を崩しかけて顔を引き締めるなつきとは対照的に、彼の心は深く暗く冷たい場所へ沈みこんでいった。
 夜が目の前になった。
 心なしか満足げななつきに、高村は言った。

「ちょっと、ついてきてほしい場所があるんだ」


   ※


 高村がなつきを招いたのは、歓楽街にはいくつもあるような雑居ビルのひとつだった。店子は風俗業や飲食店ではなく、違法金利に近い金融機関や、または見るからに流行っていない代書屋の事務所が主である。ただし彼がエレベーターから降りたフロアは、そのいずれにも属さない空間だった。

「ここは?」

 狭く短い廊下から、たてつけの緩いドアを開けると百平米ほどの部屋に通じる。拡がったほとんど漆黒の室内を見すえて、なつきが怪訝そうに呟いた。視線の先には通りに面した窓がある。ただし全面が黒いテープで目張りされており、外界からの視線と光の一切は遮断されていた。

「俺の知り合いが使ってた事務所」高村は簡潔に答えた。
「事務所? なんのだ」
「人材派遣とか職業斡旋かな、ニュアンスとしては」
「それはまた聞くからに怪しいな。……電気は生きてるのか」

 入り口の横にある壁際のスイッチに触れると、蛍光が点灯した。明暗差に瞳を細めながら、なつきが空間を一望する。
 漆喰の壁とリノリウムの床は、なんの変哲もない一室のそれである。四隅には塵埃が薄っすらと積もっている。生活感の名残のように端々にはレシートが落ちている。地歩を確かめるようにつま先を鳴らすと、なつきは細かい刺繍が施されたショルダーバックを床に落とした。
 長い吐息を、高村は聞いた。

「玖我?」

 呼びかけに返事はなかった。落ち着いた歩調でなつきは部屋の中央へ進んでいく。表情を確かめることに気後れして、高村は入り口から動けずにいた。
 背後でエレベーターの扉が閉じた。
 なつきがゆっくりと高村を振り返った。
 その顔はもう、平常の玖我なつきだ。

「で」となつきは言った。「ずいぶん遠回りしたが、ここが本題なわけか。わざわざ風華を離れたってことは、おまえも相応に本気なんだろうな」

 挑みかかる眼差しに射られて、高村は脱力した。
(なんだよ)
 首をひねり、肩を落とそうとして止め、頬を掻き、髪を上げて、最終的に眼鏡を外し、深く深くため息をこぼした。

「なんか凄い道化だな俺、徒労感」声色は自然と細くなった。「ばればれだったわけか。今日一日無駄か」
「ばればれじゃないと思っていたのなら、本当に道化だ」なつきがおかしげに笑った。「何かにつけうるさいおまえが、説教もしないし、ホストに徹するし妙に大人しいし、そもそもわたしを遊びに誘うなんていう時点で普通は怪しむだろう」
「そりゃそうだよな」高村はすぐに開き直った。「あーあ、いい面の皮だよ。畜生」
「十年早いってことさ、先生」なつきが胸を張って指を立てた。「でもまあ、その、なんだ。楽しくなくはなかった……という気がなきにしもあらずだな、うん」
「それならそれでよしとしよう」高村は胸をなでおろした。「でも、そこまでわかってて何で付き合ってくれたんだ? いつもの玖我ならいいからさっさと要件を言え、くらいは言いそうなものだけどな。客観的に見て、俺の行動はとても怪しいと思うんだ」
「……さあな。気まぐれということにでもしておけ」

 濁す唇に反して、瞶めてくる双眸はひたむきだった。婉曲な単細胞と高村を笑うなつきこそ、彼から見れば直線的に過ぎて危うく思える。
 だから高村は、思いのままを告げた。

「玖我、おまえって、なんというか」
「なんだ」
「馬鹿丸出しだよな」
「喧嘩売ってるのか!? 買うぞわたしは!」
「いや良い意味でだよ、良い意味で」
「どう受けても悪くしか取れないだろうが!」

 高村がなつきに感じる感情の舎密は、花火のように鮮やかで美しい。印象に通じるのは、高村からの遐さだった。畢生を賭して存在にしがみつく彼にとって、志操に殉じるを迷わない少女たちはいずれも眩しい。高村はそれを若さや視野がもたらすものだとは思いたくなかった。この世にはそうした、単純に美しいものがあるのだとしておきたかった。
 だからといって、高村は美の信奉者ではない。

「用件というのは、つまり単純だ。玖我、俺がおまえを心配しているってことだよ。それに尽きる」
「はあ?」拍子抜けしたようになつきが帽子に触れた。「前にも聞いたぞ、それは。今さらなんだ? また説教か」
「今度はどちらかというと説得だな」高村は軽薄に笑った。「なあ玖我、おまえ、逃げる気はないか?」

 息を呑んで、なつきは高村をまじまじと見返した。意図するところが正確に伝わったと見て、高村も満足を含んで少女の視線に合わせる。なつきがやや険相をつくった。

「何から。どこへ」
「HiMEのごたごたから、この国の外へ」
「どうやって」見る間に怒りを蓄積させ、それを抑える調子で、なつきが問うた。
「ツテはある」高村は平静のままだった。「一番地も、何とかしてみせる」
「シアーズか?」
「違う。さすがにそれより上の信頼と安全は望めないけど、こっちもまずまずだと思うぞ」
「念のため聞いておく。……それは、まさか、わたしひとりだけ尻尾を巻いて逃げろと言っているんじゃ、ないよな?」

 高村の五感を、戸外の空気が急速に離れていく錯覚がとらえた。なつきの牽制には願望が色濃く反映されている。どう転んでも、高村には応えられない類の感情だった。

「今この場にはおまえ一人しかいない」と高村はいった。「でも、たとえ今日他に人がいたとしても、最終的にこの話を持ちかけるのはおまえだけだったろうな」
「どうして?」
「ああ、勘違いしないでくれ」高村は補足した。「べつに、他に望む人がいるんなら、それが鴇羽だって碧先生だって、俺は配慮していいと思ってるよ。折を見て話すこともあるかもしれない。でも、俺は玖我を選んで話した。おまえが一番浮いているし、戦う理由が稀薄だ。今日ずっと一緒にいて、ここのところ色々な話もして、改めてそう思った」
「理由ならある。意味も」

 なつきは切りつけるように囁いた。
 高村は苛立ちを露出させる教え子を、感情を圧した目で見つめた。

「なら、こう言い換えてもいいんだ。俺は、その理由じゃ納得できなかった。意味もないと感じた。だからこの話を持ちかけてる」
「おまえを納得させる義理なんてない」

 わななきかけた唇を、なつきは指で押さえたようだった。瞳が動揺に揺れている。
 その仕草を目の当たりにした高村はいぶかった。なつきが当然向けてくるべき鋭い洞察が感じられない。彼女の思考は内向きに走っているように見えた。

「もちろんそうだ」高村はいった。「でも、俺はそんなにおかしなことを言ってるかな? 俺から見ればおまえたちもおかしい。生活の面、好奇心、義務感や恐怖は、そりゃあっただろうさ。でも十人以上いるっていうHiMEの誰一人、オーファンを狩るって時点で逃げ出そうとしなかった。周りの誰もおまえたちの逃走を疑わなかった。それって、なんか変じゃないか?」
「知るものか、そんなこと。なんなんだ突然」なつきが不快感をあらわにした。「だいたい本当にさらってしまえるなら、それをしてやるべき相手はわたしじゃない。日暮あかねであり、倉内和也だったはずだ。おまえだってそれくらいわかるだろうっ。……どうしてだ? なぜ今になってそんなことを言う。何を試しているつもりだ。謎かけはもうたくさんだ!」
「皮肉なもんだよな」高村ははぐらかした。「散々他の子に覚悟を問うてきた玖我だ。だけど自分はどうなんだ? おまえにとっての力は、他のワルキューレとは意味合いが違ってる」
「ワルキューレ?」降って湧いた単語に、なつきが眉根を寄せた。
「HiMEのこと。おまえらのことだ」高村はいった。「誰かや何かを守る力だって、碧先生は言ったよ。鴇羽も同じだろう。美袋はよくわからないけど……はじめから、HiMEとして戦うつもりでいた子だからな。翻って、玖我、おまえはどうだろう。理由がないっていうのは、一番地うんぬんじゃなくて、そういうことなんだよ。玖我は自棄じゃないか。おまえは自分の中で明確に敵を作ってる。おまえにとってのHiMEはそれを倒すためのツールで、積極的に活用してる。おまえは結城をよく言わないけれど、正直、俺から見た玖我と結城のスタンスには、それほど差はないよ」
「冗談だろう?」なつきが声を震わせた。「――どこが同じなんだ。あいつはただ憂さを晴らしているだけだ。わたしとは違う」
「そうかな?」高村は挑発的に反問した。

 なつきがわずかに、言葉に詰まった。

「仮にそうだと認めたとして、わたしが結城と同じだということが、なぜ放棄へつながる?」
「充分につながるだろう。おい玖我、本気でどうした?」高村は続けた。
「……そうだ。わたしは、確かに、人に褒められることをしているわけじゃないさ。オーファンを狩ったのだって、一番地の目論見を潰すことが念頭にあった。人助けなんてがらじゃないし、つもりもなかった。だが、おまえも知ってるだろう? わたしは母を連中に殺された。そのために、身につけられた力を遣うのが、他のHiMEとどれほど違う? わたしは取られた。だから取り返そうと思っただけだ。それを諦めるつもりがないだけだ!」
「落ち着いたほうがいい」高村は低い声で言い聞かせた。「自分で自分の言葉に興奮してるぞ。そしてこれもやっぱり早とちりしてほしくないんだが、俺は力の処方について可否を論じてるわけじゃない。復讐を今すぐどうしろとも、思ってないんだ。目的がはっきりしているぶん、他のHiMEはどうあれ、おまえがどこかで必ずチャイルドを失い、力を失う危険性が高いってことを言いたいんだよ。ましてや、おまえは自分に想い人がいないと思ってる。そのせいで事態への関わり方が傍観気味になってるのは自覚していただろ?」
「それが、おまえの気にすることか!」一際高く、なつきが言った。「わたしはわたしの思うようにする。ずっとそうしてきた。正しいかはわからなくとも、するべきことではあるはずだ。……だいたい、おまえにそんなことを言う資格があるか? 自分だって私怨で動いているはずだ。なら、大義があれば身を砕いていいとでもいうのか? それは、一番地と同じ論理だ」
「それも一番最初に答えた」まずい方へ向かっていると悟りつつ、淡々と高村は答えた。「俺はどこまでも私情で動いているよ」
「なのにその当人が、わたしにそれを禁じるのか」苦々しくなつきが言い募った。「言うに事欠いて、逃げろだって? それはありえない。一番地に……、たとえ勝てなくたって、通さなければいけないものがあると、そう思うんだ。HiMEの争いより、世界の存亡より、それは一番大事なことなんだ。……おまえだって、それを知っているはずだ」
「だからそれは違うって……、ああ、なんだおまえ、なんか変だと思ったら、同情してくれてたのか」高村は軽く息を吐いた。「それが態度の軟化の原因か? きついこと言うようだけど、いい訳に見えるな。俺とおまえの境遇やそれに対して思うところは全然別だぞ。混同するな」
「わかってるさ」

 視線を逸らしながらなつきがいった。歪んだ目元が、いくばくか傷ついた色を見せていた。高村はその反応に戸惑ったが、切り出した以上は話を止めるわけには行かない。時間も差し迫っている。今日を置けば、次の機会はやってこないかもしれないのだ。

「ええっと……」高村は言葉を選びながら語りかけた。「突然な話だし、混乱するのもわかる。もっと疑えと言った手前、俺も安易に信用してもらおうなんて思ってない。だからさ、少しでいいんだ。話を聞いてくれないか。それから、乗るかどうか、判断してくれればいい」
「必要ない」なつきがはっきりといった。「もういい。そんなことを言いたいがためにわたしをここへ連れてきたんなら、話は終わりだ。これ以上は時間の無駄にしかならない。……もう、帰る。じゃあな」
「いや、待ってくれよ」

 躊躇なく出口へ向かいかけたなつきを、高村は体で遮った。意想外の反応に少し混乱していた。理を持って真意をちらつかせれば、なつきは裏を認めた上で乗ってくる。その確信があったのだ。遅まきながら話の切り出し方を失敗したことを認めて、高村は挽回を試みた。

「頼むから、そう意地にならないでくれ。悪かったよ。俺の話し方がまずかったんだ。回りくどいのは知っての通り悪い癖だった」
「何を謝ってるんだ?」なつきの声も顔も、硬質だった。「おかしなこともまずいことも、おまえは言ってないさ。『復讐は無益だ』、『勝てる見込みがない』、そういうことだろ? 聞き飽きた陳腐な台詞なんだ、そんなものは。風邪で倒れた日にそう言っただろう? 無謀を承知でいるわたしを、心配してくださるわけだよな、『先生』は!……だが、そんな気遣いそのものが的外れなんだよ。考えろと、おまえはわたしに言ったな。自分こそ考えてみろ。想像力を働かせてみろ。誰かに言われて止まるものなら、後ろ指差されたり、嫌われたり、孤立したり、その程度で思い切れるなら苦労はしないんだ。意地になるなだと? 馬鹿だおまえは。意地以外の何が、わたしにあるっていうんだ! 何も分け合おうとしないおまえが、言葉だけで翻意させようだなんて、思い上がりだ……」
「だからそういうつもりじゃないんだよ。何を聞いてたんだ」高村は必死で弁解した。話が妙なほどかみ合わない。「復讐を止めろなんて偉そうなことは言ってないだろ? なんでそうなるんだ。俺が言いたいのはそうじゃない。ちゃんと聞いてくれ。いつものおまえならわかるはずだろう。冷静になって、」

 なつきが激した。

「おまえは、卑怯だ!」叩きつけるように、そう言った。「自分の言いたいことばかり押し付けてくる。知ったような顔で近づいて、なのに、こっちの言うことなんて聞きもしない! 自分のことしか考えてない!」

 苦々しさが促した嘆息を、高村は苦労して隠した。ひどく身勝手な感慨が彼の胸裏に兆していた。何がなつきの銃爪を弾いたのだとしても、彼女が均衡を欠いていることに疑いはなかった。こうなると、鎮めるための言葉をいくつ重ねても効果は薄い。
(優花は、どうだったっけかな)
 比べかけてすぐに止めた。相手が恋人であれば全て覆ってしまう。単純な積年の共有知は人間関係において、純金よりも重い。高村は、なつきとそれを持たないからこそ努力をせねばならない。
(しょうがないな。これも俺の自業自得だ)
 穏便に話を運ぶことを諦めて、高村は奇手を打つことを決めた。

「頼むからちゃんと考えて喋ってくれよ、玖我」ことさら軽く告げた。「そんな台詞はおまえに似合わない。自分をわかってくれって言うだなんて」
「なっ」消耗した光の下ではっきりとわかるほど、なつきの耳が赤らんだ。

 反駁の間は与えない。冷静に立ち返る隙も退ける。高村は畳みかけた。

「とは言ったけど、でも玖我なつきらしさって何だろうな。クールだけどそれを通せない。優秀だけど間が抜けている。孤高だけど妙に付き合いがいい。他人から見たおまえってのは、いやたぶん他の大多数に取ったって、こんなもんだよ。違いってのはせいぜいオチの部分のあるなしくらいだ。でも、藤乃や鴇羽は違うと思う。俺も、今日の付き合いがなけりゃ、同じように思ったはずだ。だっておまえは何も語らないものな。人を遠ざけて、無関心なそぶりで別のことに熱中してる」
「知ったふうなことをいうな」なつきがこもった声で反論した。
「でもそれはポーズだ」高村は無視した。「そして結局、それがおまえっていう人間の輪郭なんだよ。中身なんてどうでもいいんだ。出力が個性なんだよ。内面は回路だ。そうだろ? 人間そんなもんだ、なんてのは一番つまらないまとめだけど、おまえの場合は特にそうだ。〝らしさ〟っていうのは、関係性が構築する。交渉も没交渉も含めて、あらゆる環境との圧力が、発信される情報を整形して総体をつくりあげる。ところがおまえは情報を回路でぐるぐる巡らせて閉ざしている」
「言っている意味がわからない」
「わからないように喋ってるんだよ。実はおれもわからない」と高村は言った。「でも聞く姿勢はできたよな? だから聞け。俺はなんとなく確信した。ひょっとしたら、おまえも感づいていると思うけど」
「……なんだ」

 高村は指を立て、なつきの注目を誘った。言葉を切って、二の句を待たせる。
 そして決して聞き漏らすことがないように、はっきりと言った。

「おまえたぶん、一番地に記憶を操作されてる」


   ※


 一見したなつきから、それほどの驚愕を、高村は感得しなかった。予知していたのでなければ、感情が追いついていないのだろう。腕時計が示す時刻を確認すると、彼は反応を待たずさらに続けた。

「傍証の連続になるが、根拠を挙げてみよう。はじめは『蝕の祭』あるいは『星詠の舞』と呼ばれるこの儀式、因習、なんでもいいが星の命運を司る大イベントにおける『玖我なつき』の配役からだ。まず、おまえは最初のHiMEだった。時期的にどうかということはこの際問題じゃない。HiMEないしワルキューレという少女たちの代表としておまえはいる。未だ過半は個人として動いているであろう明らかじゃないHiMEたちも含めて、彼女らが最初に悟る他のHiMEは、恐らく高い確率でおまえになる。なぜならおまえは、強いて自らの異能を隠さない。他のHiMEと見れば警句を発すべく素早く動く。一番地の痕跡を感じれば能力を用いてこれを暴きにかかる。チャイルドやオーファンについての不可視性はこの論でさしたる反証にならない。これはあくまで属性であって隠蔽には繋がらないからな。
 この線を突き詰めていくとどこに届くんだろうな。始端がおまえなら、終端はなんだ。どんな線分になると思う? 俺が思うのは、たとえば案内人だ。おまえは一連の事象で導入の項目を担っている。聞いてるか? おまえの妙な義務感を、俺は指摘してるんだよ。おまえは鴇羽に警告し、美袋を危険視して、俺を警戒した。一番地の思惑を頓挫させたいって言うなら、本気でそれだけを考えるなら、もっと直接的な手立てがあったはずだ。だからお節介だ、根が優しい娘だと納得しながらも、はじめから、ずっと、疑問に思ってた。最初からオーファン退治に身を投じていた碧先生や、力を受け入れて利用していた結城にも、一切リスクには触れなかったからな。だからおまえは、まるで、まだ日常にいるHiMEたちを非日常に誘ってたみたいなんだ。凪やオーファンとは違う立場で、同じ役割をこなしていた」

 高村は息を落とした。
 なつきは立ち尽くしている。
 彼女の唇は冗談を笑おうとして失敗したかたちを描いていた。白く整然とした歯列の間から、力ない言葉が漏れた。

「言いがかりだ。牽強付会な……」
「断章取義であることは否めないかもな。でもそう思うなら、ものはためしだ、最後まで聞いていけよ。お代は要らない」高村は意に介さない。「さて、おまえはある程度HiMEとチャイルドと媒介の関係性に自覚的だった。でありながら、恐らくはもっともHiMEを倦厭させるのに適当な手段であろうこの情報の開示をしなかった。一番地にとって手間なのは集めたHiMEが本当にどこかに行ってしまうことだからな。労を割けば防げない問題じゃないとはいえ、嫌がらせだろうと、それが無駄だからってだけの理由で内緒にするのは、玖我の行動指針に合わない。違うか?
 また、具体的におまえがこの情報に言及したのは、日暮をのぞいたすべてのHiMEにこの事実が明かされてからだ。おそらくは自覚的じゃないんだろうが、おまえの中には他者に対して教えられる情報に制限を設ける……、そうだな、暗示のたぐいがかけられているのかもしれない」
「そんなはずは――」
「ないならないで、それは問題なんだ」高村は機先を制し続ける。「なぜなら、意図的に情報を伏せることは、おまえにそれをする理由がまた別に生じるってことだからな。境遇を同じくするHiMEを引きずり、仇敵である一番地に些少にせよ益することだ。それをする意味ってなんだ? 思いつくか? 差し支えない答えがあるなら言ってくれよ。俺もおまえも、それで安心できる」
「検証のしようがなかったからだ。言っても仕方ないと思った。だから……」そこでなつきの言は途切れた。
「それは今考えた理由だろ」高村はその内心を拾い上げて、突きつけた。「今のは意地が悪い質問だったな。べつにおまえが潔白を証明する必要はないよ。責任は常に疑う側が負うルールだ。だから俺は疑わしい材料を取り出して並べているわけだ。恣意的なのは、当たり前だ。知ってるか? 研究論文ってのも、こう書くんだ――でも、改めて、どう思う? 確かに、宿敵にいいように利用されているかもしれないって懸念は考察するだけでも抵抗があるはずだ。印象論かつ卒爾ながら、だからってそれだけで玖我なつきがこの説を今の今まで一考もしなかったっていうのが、俺としてはかなり不思議なんだよ。だから確かめたかったというのはある。でもおまえはここ最近の段取りで、俺にその手の懸案は一切話さなかった。もちろんあらかじめそうした疑いを持っているからってそいつを他人に簡単に話せるかといえば別だ。特に俺は知っての通り怪しい奴だからな。だけどあえてきわどいところに水を向けても、おまえの口から自分の身辺に対する疑雲は上がらなかった。そいつははっきり手落ちだ。今なら認められるか?」

 なつきは答えない。目は高村に向きながら、高村を見ていなかった。焦点が完全に他者を通して自己へ当たっている。

「俺の考える工程はこうだ」高村は仕上げにかかった。「玖我がお母さんを亡くしたっていう数年前、その記憶はどうやら君の中で曖昧だ。つらい出来事だったんだろう。さらに大怪我を負ったというんだから、記憶が曖昧なのはしょうがない。だけど考えてもみてくれよ。おまえは確かにHiMEで、一番地にとってはある意味重要人物だったのかもしれない。だがそうだというだけで、間近に控えている重要なイベントの遂行に害を及ぼしかねない事案を放っておくかな? ましてや一番地っていうのは、人間の記憶をいいようにつくりかえて処理する術を持っているんだろう? リスクコントロールの面で見て、自分たちへの悪感情をそのまま放置しておくメリットは存在するんだろうか?
 能力への影響、それはあるかもしれない。好悪の情がHiMEにとっての力の源だというから、センチメンタルかつ都合のいい話だが、つくりあげた記憶ではその真価を発揮できなくなるとか、そういうカバーストーリーがあってもいい。でもそれはどちらかといえば玖我にとってのカウンターパートだ。『亡くなった母親』という存在がおまえの中であまりに大きいからこそ成り立つ論理であって、構造的にはこの問題はそう難しいものじゃない。だって、おまえには、言い方は悪いが、まだお父さんがいるんだからな。おまえが大怪我から立ち直り、日常に復帰するまで、尽力したのは誰だ? 知らない誰かか、医者か看護士か。違うだろ? 今おまえが素直に慕えないお父さんのはずだ。その後、どこの家庭だって潜在的に持っている問題が表面化して、疎遠になったのかもしれない。でも心向き次第で、それは変わりかねないものだ。たとえば……おまえが過去より未来を向くことを決断したり、とかな。ちょうど鴇羽みたいに。
 つまりおまえが受け止めた母の死っていうものは、充分に補填が可能な欠落だったんだ、――とまで言ってしまうのはおこがましいが、事件前後が不透明であることがその疑問に拍車をかけている。おまえが立ち直るのを待ち、頃合を見計らって利用し、他の面へ目を向けさせるのに充分な時間はあった。
 おまえが報仇を心に決めてから、経った時間はいくつだ。五年か、六年か、あるいはもっとか?……それだけの年月を、しかもまだまだ世界を広げていく子供が、面影だけ見ながら費やせるなんて、なかなか常人には理解しがたい。だから思うわけだ。あるいはこのとき、まだ幼かった玖我なつきは何らかの処理を施されたんじゃないか? それは顕在化こそしないもののHiMEの一人であるおまえを有用に誘導するための伏線だったり、しはしないか?……もちろん、俺は、おまえが持っているお母さんへの心情を貶めたいわけじゃない。ともかく、それは私的な宝だ。他人がどうこう言っていいものじゃないさ。だけどその有り様について一言するくらいは許してくれよ。
 おまえは、固定されている。当時の記憶は不確かになっている。一番地には記憶を操る技術がある。また先に言ったとおり、そしておまえも自覚していたとおり、玖我なつきは本当の意味で儀式の妨害は達成できていない。おまえは状況の中で日常を崩壊させるきっかけであり、その背後にある正体不明の組織を意識させるタームだった。何人かのHiMEはおまえをきっかけに非常識へ導入された。おまえは彼女らにとってのショックでありイニシエーションだった。客観的な事実がこれだ。そして順序はこうだ――玖我なつきが暗示する、オーファンが提示する、炎凪が啓示する。そしてまた最後に、玖我なつきが教示する。なあ、こいつはれっきとしたシステムじゃないか、実際? こう丁寧に段階を踏まれると、うまいこと、巻き込まれた人間は非常識を受け入れてしまいそうだって、思わないか? 他にも似たような役割を負ったHiMEがいるのかもしれない。あるいは他の誰かからこの説を退ける反証が表れるかもしれない。でも俺がこれまで、玖我なつきを間近で見てきて、思うことはこれだ。抽出できる要素はこれなんだ。おまえの行動や思想は確かに反組織的だが、存在が状況に利すぎている。おまえの存在は、いいように使われていたように見える」

 ちがう。
 ほとんど音をなさない声だった。なつきの口が紡いでいた。顔色は蒼白になっている。左手が乱雑に、流れた髪の先を絡げていた。右手は俯いた顔の行き先になっていた。
 ちがう。
 もう一度、なつきが繰り返した。

「違うと思いたいに訂正しろよ」高村は冷厳と告げた。「俺は、おまえがそう思うことも信じることも否定しない。でも、真実はどうあれ、不都合な事実かもしれないものをおまえは意識した。どう折り合いをつけるにせよ、おまえは一度はこのことについて考えなくてはならない。押し付けがましいだろう? 腹立たしいだろう? そう思うのは構わない。俺に怒りを向けたり怨みに思ったり、それを活力に転化するのはおまえの自由だ。俺はむしろそうあってほしいと思う。でも、頬かむりだけは駄目だ。それをしていいのは、最初から舞台に登っていないやつだけだ。この疑念と不自然は、おまえが『自分だと思ってるもの』に選ばせて進んでいる道に咲いたものなんだから、どういうかたちでもおまえが処理するべきだ」

 一息に喋り終えてから、はじめて高村は喉の渇きをおぼえた。
 なつきの意識と体は頼りなげに揺れている。
 その様を吟味して目の前の現実に専心していたいと高村が思うのは、ただの懈怠にすぎない。なつきは彼が全力で守る存在ではない。短く広い矩形の道のりで出会った他人のひとりだ。あやして、慰めて、守るのは彼の仕事ではなく、尊重という言葉に言い換えて、少女を突き放すことこそが、高村が行うべきことだった。
(わかってるけど)
 心情は揺れる。
 若輩でも彼はなつきの師であり、年長者である。そうした存在として対峙した以上は、力が及ぶかぎり意識的に振舞うべきだと決めていた。高村の心や目的がどこにあるかを、生徒に触れ回ることはできない。理解も得られないだろう。
(だから聖職者ってのは荷が勝ちすぎる)
 四年前までは、漠然と、研究者に挫折した場合を思って教師を志していた覚えもある。今では信じられない気持ちだった。数十人の子供の未来に対する責任の一端を担う。言葉でさえ、まともに受け止めれば気が遠くなる職務だ。
 立ち竦むなつきをよそに、目張りされた窓枠に近づいた高村は耳を済ませた。時刻は完全に夜へ没している。外界では喧噪がぽつりぽつりと生まれ始めていた。約束の刻限までもう数分である。

「なあ……」

 背後からかかった声に、高村はうなじをあわ立たせた。
 なつきの呼びかけだった。
 顧みた顔は未だ青白い。目つきも確固たるものとは言えない。
 だが地に足がついている。歯を食いしばり、憔悴と虞れをのぞかせながら、なつきはまだ立っている。
(それでこそだ)
 内心で快哉を叫びながら、高村はなつきへ向き直った。

「なんだ?」
「わたし、おぼえてないんだ」呆けたような口調で、なつきが言った。「この前の喫茶店で、ふいに気づいてしまった。母さんの死の瞬間を……わたしは知らない。見ていない。でも、母さんはいなかったんだ。それだけは……ひとりだったことは、はっきり思い出せる。腰と背中と胸がとても痛かった。担ぎ込まれたときのわたしはひどいもので、今でこそ水着になれるくらいほとんど傷跡も見えないが、肋骨は半分以上砕けて肺に刺さり、腎臓の片側と脾臓が破裂して、下腹部には金属片が刺さっていたんだとさ。太ももなんか、こう、付け根から膝のあたりまで、長々と割けて、骨が見えそうだったらしい。……それがすっかり治るのだから、HiMEの力は、少なくとも女としては、ありがたいんだろう」
「そういえば、言ってたな」高村は静かに相槌を打った。「俺も腎臓は片方ないが」

 少しだけ、なつきが笑んだ。さらに独白を続けた。

「点滴と包帯と、呼吸器とカテーテルとケーブルと……見知らない管をたくさん体につながれて、とても怖かったのをおぼえてる。そのくせ長く寝すぎたあとみたいに頭は霞がかっていて、体は指の先までぜんぜん動かせなかった。すぐに意識が途切れて……そういうのを、何度か繰り返した。やがてはっきりと覚醒すると、いちばんに聞いた。わたしはいった。『ママはどこ?』って。そうしたら誰かが気の毒そうに答えたんだ。『お母さんは亡くなった』って……はは、子供になんて言い草だって思うよな。でも、わたしはなぜか、それをすんなり受け入れたんだ……死体を見たわけでも、ないのにな」
「葬式は。通夜はどうだった。納骨は?」高村は優しく訊ねた。

 なつきは緩やかに首を振った。

「わたしは入院して、意識不明だったから、そのあたりのことはすべて父任せだ。墓参りも、だいぶあとになって、一度行ったきりさ。どうしても、あれが母さんのいる場所だなんて思えなかったから。でも、もしかしたらこれも忘れているだけで、わたしはもっと酷いものを見たのかもしれない……たとえば目の前で母さんが死んでしまうところ、とかな。ショックによる心因性の部分健忘なのか、あるいはおまえの言うように、一番地がわたしに何かをしたのか……それは、わからないが」
「まあ、真に受けて考えるのも、なかったことにするのも、さっき言ったようにおまえの自由だよ」高村はいった。「ただ、何らかの決着はつけろってだけだ。無責任極まりない言い様だけど、それは結局過去のことで、今からどうすることもできない種類のものだ。もちろん今後に何か反映されないとも言い切れないけどな」
「……ああ、わかってる」なつきは深刻な様子で黙り込んだ。「おまえが逃げろだなんて言い出したのは……その不安があるからか?」
「それもあるけど」

 そのとき、高村は、なつきの背中越しに、放たれたままの扉の向こうに起きた動きを感得した。
 エレベーターの作動音だった。なつきは気づく余裕も失しているようで、ぼんやりと高村を見上げたままだ。

「……けど?」なつきが言葉尻をつかまえた。
「一番の理由は」高村は目線を示すように動かした。「あの人のことを、俺が知っていたからだよ。記憶のことも、ほとんど後だしジャンケンみたいなものだ」
「え――?」

 なつきが、ゆったりと首をめぐらせた。
 二人が意識を向ける先に、妙齢の女が立っている。
 女は二者の目を受け、眉をかすかに集めた。硬質な表情と灰色のサマースーツをまとい、一瞬だけなつきへ、すぐに高村へ、刺すような視線を突きつけてくる。
 それを高村は、素直に怖いと感じた。

「こんばんは、九条さん」高村はいった。

「こんばんは、高村くん」九条むつみが答えた。「それに、玖我なつきさん」

「え? あ――」なつきが、むつみの姿を見て目を瞬かせた。混乱と不審のあとで、理解の色が瞳に灯る。「シスター。確か、シスター……むつみ?」

 むつみの口元に苦笑が浮かんでは消えるのを、高村は見逃さなかった。痛みのようにも安堵のようにも見えた。
 だが、高村の意図はひとつだった。突きつけられた制止の目をあえて振り切り、なつきへ問いかける。

「そんな他人行儀な言い方はどうだろうな」と高村はいった。「玖我、シスターむつみ、九条むつみさんだ。顔は知ってるな?」
「あ、ああ」なつきが頷いた。「近ごろ赴任してきたシスターだろう? 面識はあまりないし、最近姿も見なかったが。そうか、そういえば彼女も教会の人間だったな。……あなたもシアーズ、なのか」
「ええ、まあ」複雑な面持ちのまま、むつみが頷いた。

 高村は胃からせりあがるものを意識した。異常な緊張がこみ上げていた。
 なつきを挟んでうかがえるむつみの顔に、諦観と理解が差している。今夜この場に彼女を呼び出す際に、なつきのことには一切触れていない。にもかかわらず、むつみはすでにおおよその事情と、高村の狙いを察したようだった。相も変らぬ異常な飲み込みの早さである。前向きな心理が働いたようには見えないが、それでも利用するにしくはない。

「で、どうしますか、九条さん」頭越しにむつみへ、高村は問うた。「あなたから話しますか」
「紹介は任せるわ」不気味なほど淡白に、むつみが答えた。「それが、あなたのお望みってことなんでしょうから」

 ちくりと刺された棘に、頬をゆがめる。確かに、高村がこれから行うことは節介以外の何ものでもない。だがためらえば、これから先も常に無視できないリスクを抱え続けることになる。
 何を取り繕おうと、高村がすることは、あるひとつの夢の破壊だ。万遍なく粉砕せねばならない。
 玖我なつきの小さな顔を見据えると、彼はつまらない真実のひとつを口にした。

「玖我、九条さんの九条むつみっていう名前な、実は偽名なんだ。もともと彼女は一番地の傘下企業のひとつである岩境製薬って会社で働いていて、何年か前までは旦那さんも娘もいた。今でこそ名を変え顔を変えてシアーズに所属して、そのシアーズもつい先日出奔してしまったんだけどさ」
「え?」なつきがきょとんと、むつみを見つめた。高村が与えた情報を踏まえた観察の目が、目前の女性を舐めていく。

 唐突に、驚愕でなつきの顔が彩られた。
 むつみから、この場所にあってはならない面影を見出したのだろう。高村はすぐにそれを察した。

「いわさか、製薬って。それは……それに、その顔。整形――え? は、あ、え?……どう、いう……?」
「彼女の本当の名前は玖我紗江子」高村はよどみなく言い切った。「おまえが死んだと思っていたおまえのお母さんだ」
「―――――うそだ」

 恐れるようにむつみから意識を引き剥がし、なつきが半笑いの表情で高村を見た。

「嘘じゃない。こればっかりは」高村は首を振った。
「嘘だ。嘘だ。なんでそんなことを言う? ねえ、先生!」なつきが一瞬で解れた。「やめてくれ――空似だ、そんなはずない……あの人は違う、これは違う!」

「嘘じゃないのよ。ごめんね」九条むつみが冷淡に告白した。「お久しぶり、夏姫。本当に……大きく、なったわね」

 強いて平板さを保っていると思われる言葉に、一瞬、抑揚が立ち現れた。その場で気づいたのは、恐らく高村だけだろう。

「シスターまで何を言ってるんだ!? こんなやつの冗談みたいな悪ふざけにのらないでくれッ!」

 なつきがすがる。
 むつみは末魔を断つのにためらわなかった。続けられた語調は、軽やかですらある。

「冗談みたいな言葉でも、現実は現実なの。聞き分けなさい。そして認めるの。わたしが、あなたの、死んだはずの、お母さんよ」

 玖我なつきの心が割れる音を、高村は聞いた。




5.エヴァネッセント(夢幻儚影)






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