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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] ワルキューレの午睡・第三部五節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e 前を表示する / 次を表示する
Date: 2008/12/08 17:11
4.クワィエッセント(停止)





「さて」

 七月が終わり、八月が幕を開けた。雲は重たく蒼穹に帆をはって、時おり慈雨をたなびかせ、何か鈍重な生き物のように頭上を遊弋する。
 窓越しの光景を眺めながら、高村恭司は身体の完全な復調と、感覚の先鋭化を完了させた。風華市に戻ってからの数日余りは、六月からこちら酷使した肉体とユニットの恢復に費やしていた。ステロイドの投与も控え、メタンフェミンの服用も中断した。脳内制御系はユニットの統御下にあるため、禁断症状は実際には起きているが肉体的な痙攣として時おり表れるのみである。これについては諦めるしかない。
 H.G.ウェルズの著作にあやかって『加速剤』と呼ばれている、高村から見れば正体不明のナノマシンの注射も、あえて行っていない。むろん、体内にいついた異物はもはや半ば彼の心身と同化しているため完全な透析は不可能である。それでも久方ぶりにじねんな自身に立ち返ると、心には晴れ晴れとしたものが兆した。

 マンションに放り込まれてからの高村の日常は、世辞にも自由なものとは言えなかった。あまり目立つように動けば、シアーズも高村を押さえにかかる。一番地が高村をどう判断しているかは不明だが、少なくとも石上には何らかの腹案があるようだった。
 その証左として、住居には始終石上の部下による監視が張り付いた。外出は申告すれば大抵許可されたが、はばかりのない尾行者の存在が大前提である。アンテナも繋がっていないテレビを除けば最低限必要な家具さえない居室で高村がすることといえば、ツタヤで乱売されていた格安のDVDをプレイヤーで日がな眺めるか、階下の住人に気を遣いながらする鍛錬ばかりだった。
 ありていに言ってこむら返りを起こすほど暇な日々である。それだけに、常にストレス下にあった高村の心は休まった。
 唯一の難点は、時おりどころではない頻度で結城奈緒が部屋を訪れることだった。

「寮にいるとウザイ連中がくる」

 というのが、奈緒が口にした最初で最後の理由らしい理由である。この言い分に呆れた高村がおまえもウザイから近寄るなと言ったところ、奈緒はチャイルドを用いた占拠という暴挙に出た。危ういところで見張りの女性が仲裁に入り、事なきを得たが、高村は結局束の間の安寧を諦めざるをえなくなった。
 以後、奈緒はよほど気が向かなければ高村に挨拶もせず、勝手にマンションの一室を領有して断りもなく出入りした。世帯主は高村ではないので彼にこの行動を非難する正当な権利はなかったが、それはそれとして不愉快である事実には変化がない。いっかな意見を聞かない奈緒に業を煮やすと、高村は大人げない嫌がらせを試みたりもした。具体的には見張りの人に借りてきてもらったエロDVDを奈緒が寝ている部屋の前で再生して外出したりと、その程度の邪気のない悪戯である。
 果たしてロードワークから帰宅した高村が見たものは、特に恥らう様子もなく赤裸々な交合のありさまを鑑賞する奈緒の姿だった。あまつさえ少女は「この女優ブサイク」とまで言った。高村は疲れ果てて「結城の性格はブスキモカワイイ」と賞賛した。管理人から苦情が来るほどの喧嘩になった。
 奈緒にまつわるトラブルは他にもあった。監視者への嫌がらせのためだけに高村が炎天下を練り歩いていると、鴇羽舞衣のアルバイト先のファミリーレストランで、奈緒が玖我なつきと舞衣と差し向かいになって、剣呑な雰囲気を発している場面を目撃したのだ。すわ一触即発かと思われた矢先に、高村は機転を利かせマンションにいるふりをして奈緒を呼び出した。
 万事が万事はりねずみのような返答ばかりの奈緒だが、映画に関する話題にだけは若干リソースを振り分けている。その点を利用して奈緒を釣り上げ、暴発を回避したのだった。
 マンションに帰ると奈緒がひとりでDVDを見ていた。今度は石上がやってきてさんざん悪し様にこき下ろされるほどの被害が出た。

 ともすれば危機感を失してしまいかねない時間の数々に、その都度水を差すのは頭上の凶星だ。空を眺める機会が増えたのは、高村ならずとも、赤い光を空に見出せる少女ならばみな同じだろう。

「どうすんの? マジで世界どうにかなっちゃうの」珍しく、奈緒が高村に声をかけた夜があった。風呂上りの濡れ髪を丁寧にタオルで拭きながら、ベランダの高村を見つめる目には距離感がある。口元には薄笑いが浮かんでいた。「あのアメリカの地震ってもしかしなくても、アレなわけ?」
「さあ。俺からはなんとも」みな同じことが気にかかるのだなと思いながら高村ははぐらかした。「じゃあ、もし世界が滅びるとなったら、あの星がここに落ちてくるとなったら、いよいよ他に方法がないとなったら、時間がなくなったら、結城はどうするんだ? 戦うのか、他のHiMEたちと?」
「そんな理由がなくたって、気に入らなきゃぶつかるだけでしょ」奈緒は淡白に答えた。「でも、そうね……、まあ、他にどうしようもないんなら、やるしかないって思うヤツはいるんじゃない?」
「なるほど」高村は頷いた。また媛星を見上げた。「なんで世界って滅びちゃ駄目なんだろうな」
「は?」
「なんでもない」

 高村は笑ってかぶりを振る。奈緒は関心を失い部屋へ閉じこもる。寡黙にふたりを監視する石上の部下は、怪訝な視線を観察対象へ向けている。夜は幾兆繰り返されたとおり更けていく。終末が切った期限へ向けて砂が落ちる音を、聞いている人間が確かにいる。


   ※


 高村と連絡を取ろうと考える人間は幾人かいる。杉浦碧がその筆頭で、次点に玖我なつきと鴇羽舞衣、風華学園の事務があった。
 履歴に連なる女性の名前に何となくいい気分になりつつも、メールアドレスと言わず携帯電話と言わず着信を告げる彼女らの求めは、玖我なつきを除いておおむねのらくらとかわした。代わりになつきを通して碧や舞衣へ情報が渡ることについては、とくに禁止するつもりもない。ともかく高村へのホットラインがなつきにあることを主張するのが目的だった。
 そうした試みが奏功したのかあるいは呆れられたのか、八月を過ぎて以降、なつき以外からの呼び出しはほとんどなくなった。
 楽観的でも神経質でもない対応であり、端的に言って煮え切らない選択であることは高村も理解している。些少なりとも他者を傷つける行動であることへの自覚もあった。だが取るべき方針としてはベターなものだった。
 現在の居所が判明して困るのは高村ではないが、大勢に対する実効的な影響力を持たない以上、諾々と暦が進むのを見送るほかに、出来るのはせいぜいが人間関係の調整ていどのものだ。そしてそれも、万全にはできない。
 高村が赴任当初から心がけているのは、なつき以外のHiMEと判明した少女とあまり密な関係を持たないことである。それでいて、高村が事情に通じていることをアピールしつづけた。結果思惑通り、高村への間口はなつきへ集中することになった。ある程度なつきの信用を得られれば上等だが、たとえ悪感情を持たれようと、高村以外の手がかりから意識誘導できれば問題はない。ともかくなつきとの関係を切らないことが肝心であった。
 ただ、アリッサからの連絡には必ず応じることにしていた。

『お兄ちゃんどうしてさいきん教会に来ないの?』

 深優を通して、三日に一度ほど、アリッサからはそうした言葉が飛んできた。これを邪険にした場合、即日高村の生活は教会地下でひねもすアリッサの暇潰し相手を勤めるものへと変わるだろう。現状とそう変わらないのは悩みどころである。とはいえその場合高い確率で運動能力を奪われるので、抗いようのない相手であるグリーアと深優、つまりアリッサの機嫌を損ねるわけにはいかなかった。

「怪我を治してるんだよ」できるだけ虚偽を交えず、高村はアリッサに語った。「そう遠くない内に会えるんじゃないかな」
『ほんと? ぜったい?』

 二心のない親しみを向けられると高村の胸は痛んだ。我ながら軟弱な意思だと認めないわけにはいかなかった。その自認があるからこそ、他のHiMEと顔を合わせることを極力避けるのだ。

『高村くんか』グリーアからの連絡もあった。『なかなか難しいことになってるようだ』
「俺の扱いって今どうなってるんでしょう」高村の言行はグリーアに筒抜けなので、韜晦する意味はない。余計な駆け引きを省けるのはありがたかった。
『ログには九条博士との具体的な画策は残っていない。ジョン・スミスの端末はあの通り一度消えればリセットがかかる。映画に影響されているようでなんとも滑稽だが』苦笑を交えるグリーアだった。『もっとも君に関しての情報は、障りがあったとしても差し止めるよ。だから今のところ君は引き続きわたしと深優の指揮下のままだ。むろんそれにも限界はある。持ってあと一ヶ月か、短くて一週間というところだろう。それまでに去就を決めてもらいたいところだ。わたしと交わした約束は忘れていないだろうね』
「ああ、まあ……」高村は言葉を濁しかけた。が、グリーアはむつみとは異なる意味で高村の命綱である。おざなりな返答はできない。「アリッサちゃんに見つからないんであれば、俺は今すぐでも構いませんよ」
『そういうことなら今は無理だな』グリーアが嘆息した。『どちらにせよ、近ごろは深優の調整も覚束ない。言葉にこそ出さないがアリッサ嬢は深優にべったりだ。どうも先の暴走未遂が思ったより深刻な影響を及ぼしているようで、能力の行使にも陰りが見られるよ。少し前に召喚したオーファンの操作も利かなくなったらしい。いかに利発でもあの年ごろでは無理からぬことだがね……。特に君と深優を合わせて精神の均衡を保っていたようなところがあるから、次に君が近づいて離れようとした場合、彼女は実力で束縛にかかるだろう。そうなれば深優は敵に回るよ』

 奈緒との話し合いで碧の代わりに横槍を入れてきた蝙蝠型のオーファンだと、高村はすぐに見当がついた。アリッサが形成するシアーズ・オーファンは確固とした志向性を持たない。これについては碧たちがチームプレイを取っていることもあり、放置したところで問題はないだろう。それよりも意外なのはアリッサの状態だった。

「アリッサちゃんに、戦うのを止めてくれって言ったら、聞いてくれると思いますか?」
『まあ、無理だな』肯定を期待したわけではないが、グリーアの即答は高村へ響いた。『アリッサの君への思い入れは手近な父性希求の代償行為と、彼女の高次物質化能力の素となったあの子の残滓が原因だ。アリッサたちの精神には何をおいても実父であるシアーズ氏への感情が刷り込まれるよう処置が徹底されている。その思惑に反するようなことを言えば、いたずらに戸惑いを与えるだけだろう』
「以前、グリーアさんはシアーズ氏の気持ちがわかるって言いましたね」高村は質問の矛先を変えた。「それは今のアリッサちゃんを見ても変わりませんか」
『彼とわたしは衝動の一部を共有しているだけだ。当然本質的にはまったく違う種類の人間だよ』グリーアは穏やかに応じた。
「もし優花が本当に甦ったとして、あなたはそれからどうしたいんですか」
『もし媛星を本当に落せたとして、君はそれから先の責任が持てるかね?』

 相手がグリーアでなかったら毒づいたかもしれない。高村はかろうじて自制に成功した。抗弁はすぐに思いついた。だが何を口にしても無駄なことだ。高村とグリーアの望みは同質のものだが、自我と他我の点で峻厳な隔たりがある。

『親は子に生きていた欲しいと思う。それだけだよ』老人そのものの、疲弊しきった声で、最後にグリーアがいった。『光があってほしいと思う。幸いであってほしいと思う。喜びも哀しみも含めて、子や良人と愛を育む時間を持ってほしいと思う。全うできなかった日々を今度こそ楽しんでほしいと思う。仮に人倫に背こうとも、その妄執を実現できる手段があるならばためらわない。そしてたまたま、手に届きかねない位置にそれが見えてしまった。腕を切り落としてでもそこに指を届かせようと思った。わたしはただそれだけの男だよ。全ての親がそうであるとは言わない。またわたしが良き父であるとも思わない。でもできるならば、あの子の恋人であった君には理解して欲しいと思っている』
「何かを怨んでひねくれながら生きていくより、あなたはきっとはるかに立派なんでしょうね」高村は明言を避けた。
『他人事ながら、君が息災でいられることを祈ってるよ。怪物や死人の脳から記憶を抜くのは骨なのでね』

 それを最後に、通信は切れた。フローリングに寝転がる高村の視界にむき出しの蛍光灯が映る。どこからか舞い込んだ蛾が激しく羽根を羽ばたかせながら、白熱するフィラメントへ何度も身を投じていた。
 ため息を一度だけ落すと、高村は玖我なつきへ連絡を取った。


   ※


「本当に最初のところから話すと、シアーズ財団というのは慈善活動を目的とした財団法人だ。このあたりはロックフェラーと同じだな。ただしあちらと違い、こちらは特定の大企業もしくは個人が原型というわけじゃない。北アメリカへの入植前にまで系譜を遡って、近世ヨーロッパで結成された秘密結社がシアーズの元であると言われてる。そのメンバーの一人、もしくは複数人が、あちらの革命ラッシュを避けて移民したんだろう」
「秘密結社ぁ?」なつきが素っ頓狂な声を上げた。「薔薇十字なんとかとか、黄金の夜明けとクークラックスクランとか、ああいうのか」
「元はって話だ」高村は念を押した。「現在はそういう思想的信条はない……と思う。つうか、よりによってその三つを引き合いに出すあたり、おまえの読書遍歴がうかがい知れて担任として欝になる。陰謀論とか人前で話すなよ」
「脱線するな不登校教師」なつきがぴしゃりと言い切った。
「わかってる。……とはいえ、さすがにここまでの老舗になってくると、その起源なんかはよくは知らないというのが本音だ。少なくとも俺は黄色人種って理由で差別は受けなかったぞ。常識以上には。まあそもそも英語なんかほとんど話せないから向こうでも何言ってるかわかんないときばっかりだったが」
「そんなものが現代に生き残ってるというのも驚きだが、なんでまた慈善活動家が日本くんだりのローカルなサバトに顔を突っ込んでくる?」
「だからそういう根本的な質問をされても困るんだよ」高村は頭を乱暴に掻いた。

 二人顔を見合わせて、ため息をこぼした。芸術的に色が配分されたカフェモカが、手繰られたスプーンにとって均衡を乱されていく。
 なつきは補習帰りらしいが、高村の意向で一度帰宅を促して私服に着替えていた。単純に、風華学園の制服が目立つせいである。
 二人がが相席するのはマンションの近くに軒を連ねるカフェテラスである。夏休みの昼下がりらしく、市街地の中心部に近い店内は若者でごった返している。なつきには同じマンションに間借りしていることは話していないので、待ち合わせには視線を撒きやすい駅前をもっぱら利用する高村だった。
 なつきが風邪をこじらせた日から後、情報交換の名目で彼らはこうした逢瀬の機会を設けていた。なつきの真意は懐疑と監視と保護がそれぞれ等分といったところだろう。高村の都合で一度の接触にあまり時間は割けないため、情報というよりは来し方の説明めいた会話も、これで三度目になる。とはいえ元々高村に話せることなどそう多くはない。シアーズについての詳細な知識など彼にあるはずもなかった。

「おまえほんとに普通に何も知らないな……」

 呆れた様子のなつきである。
 高村は黙殺することにした。

「ああ、とにかく続けるぞ。そのへんの推測も含めて話してみるから、ちょっと黙って聞いておけ。慈善活動を掲げた団体といっても、それはあくまでシアーズ財団を単体として見た側面だ。経理面ではアホでも知ってるような大銀行が絡んでいるし、資金源には軍とがっちり組んでるような軍需産業……軍産複合体も存在している。ただ、これ自体は別にきな臭い話でもなんでもないんだ。扱うものがなんであろうと商売は商売だし、ここで戦争商売の善悪について一席ぶつのも馬鹿らしい。米国で五指に入る財閥という時点で庶民のスケールを逸脱してるわけだから、俺たちの尺度で語ってもしょせん雲をつかむような話でしかないわけだ。ましてや、俺は経済アナリストでも軍事評論家でもなんでもないからな。おまえはこっち方面詳しいか?」
「人並みだ」なつきはつまらなげにいった。「そういうのは静留が詳しいな」
「その歳で人並みに知識があるならたいしたもんだよ」高村は続けた。「なら漠然と、とにかく巨大な存在であると理解してくれればいい。FTCの目や反トラスト法なんかで煽りを食らいはしたが、それでもなお果てしなくでかい図体で、おまけにその胴体へ指図する脳はふたつやみっつじゃない。足や手は十や二十ではぜんぜん足らない。全体の足並みが揃うことは物理的に有りえない、という、そういうグロテスクな怪物。そんなイメージでいい」
「まあ、大きくなりすぎたシステムというのはそういうものなんだろうな」なつきが頷いた。「ん? 待て。ということは」
「そうなんだ。べつに今度の件にしても、その大財閥全体が噛んでるというわけじゃない」高村は断言した。「というよりも、正規の企業活動にしようがない以上、ありえないと言うべきか。だからこそ、この件に関して、身内の間ではシアーズ『社』ではなくシアーズ『財団』として呼称するのがセオリーになっている」
「では財団単体で見ると、シアーズとはどういう組織になる?」
「あくまで現代表であるシアーズ氏の意向を受け、かつ常識の逸脱しない範囲で寄付、投資、研究、発表を行う組織、だな。ここ十数年の活動分野は主に医療だ。ただ、本体とは比べるべくもないとはいえ、氏の直轄組織である以上、それなりの規模は持っている。私設研究所、協力企業、独自の広報――まあ、諜報機関って言ってもいいかもしれないが、それにあとは、繋がりのある各機関からの、人材の抱えみ。そのあたりは普通だ」
「掏り合わせについては問題ないようだ」自ら問いただしておきながら、ある程度の知識は既に得ていたのか、なつきは興味なさげに評した。「由来なんぞは初耳だが、真白の実家、風花系列に少なからぬ寄金をしていることは調べがついている。おまえと親しげな、アリッサ・シアーズ、それに深優・グリーアも縁故なんだろう?」
「そりゃ、苗字からして否定はできない」高村は肩をすくめた。「向こうにも隠す気はない」
「それが理解できない」となつきは指摘した。

 HiMEにまつわる一連の状況、その主導権は確実に一番地にある。そして長年に亘って土地ぐるみの隠蔽工作が徹底されている以上、組織が囲っているのは明らかな権益である。知識ないし何らかの利得を守るのが主目的であれば、その基盤を脅かしかねない外敵が、シアーズ財団であるはずだ。にも関わらず風華学園は異物であるアリッサ・シアーズを受け入れており、かなりの確度でその息がかかっている高村恭司を腹中に受け入れた。

「それはなぜだ?」なつきがいった。「余裕の表れではないだろう。個人ならばともかく、システムがそんな真似を許す意味がない。もっとも考えられる理由として思い当たるのは、一番地とシアーズの間に何らかの密約が交わされている可能性だ。とりあえずアリッサとグリーアがこの土地から排斥されない程度には行動の自由が保障されているのは自明だ。あるいは人質の意味もあるのかもしれない。が、となれば両者の間に引かれたラインが問題となる。おまえは観察を許された程度の部外者としては、積極的に事態に関わりすぎている。HiMEとも知り合いすぎている。……わたしたちの情報は、シアーズに筒抜けか? 当然そのはずだ。だが、一番地の大前提にはHiMEに関連する事項の隠匿がある。この矛盾が説明できない。二つの組織は敵対的なのか、協力的なのか、あるいは他に全く別の要素が介在しているのか。わたしが問題にしているのはそこだ」

 これもその通りだった。
 また未だなつきのあずかり知らぬことではあるが、アリッサと深優は既に儀式への本格的介入を表明している。実行にも及んでいる。会戦も二度、行われている。翌日に追撃は来たが、それも一番地の総意というよりは特定個人からの牽制という面が強かった。そして、以後干渉はない。これが現状で彼女らの動向を見失ったがための放置なのか、あるいは単純に外部勢力の横槍を許容する結論に落ち着いているのかは、高村自身も判じかねている。
 腕を組み、首を傾げる。

「そんなの一般人が気にしてもなあ」高村は面倒になって早々と思考を放棄した。「そうなんだからそうでいいじゃないか。なんでそんなのが気になるんだ?」
「おまえな……」なつきが目尻を震わせる。「よく考えてみろ。もしくは何か思い出せ。シアーズと一番地の関係を! そこがわからないと、わたしは」
「玖我は?」
「……とにかく、知りたいんだ」一息にティーカップを呷ったなつきが、苦しげに胸を押さえた。熱かったらしい。

 その時である。
 二人が囲むテーブルを巨大な影が過ぎった。俯き加減で黙考していた高村となつきが、揃って顔を上げる。

「それについては私がお話しましょう」

 くぐもった声。メタボリックの権化とばかりに威勢良く突き出た腹。上下スウェットに身を包み、顔面はプロレスラーのような覆面で匿われ、頭上からアフロヘアーが飛び出している。
 変な人がそこにいた。

「うお!?」高村は思わず腰を引いた。
「なんだおまえか」なつきはすぐにティーカップへ視線を戻した。「どういう風の吹き回しだ? 狸が……そちらから情報提供の真似事とはな」
「玖我!?」驚くばかりの高村だった。「なに普通に話してるんだっ。この人……人? 知り合いか!」
「騒ぐな。目立っているぞ」
「このただならぬ注目度は明らかに俺のせいじゃない」
「では失礼しますよ」高村の困惑をものともせず、覆面の巨漢は空席に腰を降ろした。尻が椅子からはみ出ている。圧倒的な肉感だった。

 恐々と反対方向に身を寄せた高村は、巨漢が有する個性的なフォルムに微妙に心当たりがあることに気づいた。

「あれ、迫水先生……」
「話をする前に、まず一番地一番地と連呼しないことを約束してもらいましょうか」巨漢が落ち着いたトーンで切り出した。明らかに聞き覚えがある声だった。「その名を口にすること自体が、無用な警戒を招きますからね。……さて、わが社とシアーズ財団との関係でよかったですかな、お嬢?」
「ああ」なつきは神妙に頷いた。
「え、これ笑ってはいけない系のコント?」高村だけが置いていかれていた。

「調べればすぐわかることですが、風華学園の出資者にはシアーズ財団も名を連ねています。これは昨日今日の間がらではないことを意味している。それだけではありません。風華を代表する企業、珠洲城建設とも彼らの母体は取引を持っています。しかし、ここが話の勘所なのですが――これは必ずしも『わが社』の希望によって成り立っている関係ではありません。身内びいきを覚悟で言わせてもらうならば、そうですね、弱味につけこまれたとでも申しましょうか。周知のとおり、彼らの資本力は莫大ですからな」
「まさか買収されたというのか?」なつきが顔をしかめた。
「俺の質問は無視する方向なんですか?」高村がしつこく食い下がった。「迫水先生、シャツが引くほど汗で濡れてるんですけど……ジャージまで湿ってるんですけど……、マスク取ったほうがよくないかなあなんて」
「わが社の由来というのは、遡れば中世以前、組織としては宗教じみた気風を持っていまして。お二人ともご存知でしょうが、文明開化以後のわが国では、いえまあお隣の文革ほどではないにせよ、オカルト、迷信の払拭と啓蒙が推進されておりました。その決定打となったのがいわずもがな、敗戦ですな。時同じくして、わが社の先代、先々代の頃ですか、この時代に組織の存在意義そのものに関わる失敗を、トップがしでかしました。もともと、わが社の係累をたどれば、それはそれはやんごとない話題に突き当たらねばならないため、そのあたりの明言は避けさせていただきますが……まあ、そうですな。今風に言うとあれでしょうか。社長がミクシィで組織ぐるみの不正をうっかり書いちゃって大炎上みたいな」
「うわあ。わっかりやすーい」高村がが手を叩いた。
「でまあ」巨漢がタオルで首筋を拭きながら続けた。「それまでにそれなりの権勢を誇ったわが社も一気に落ち目の下降線を描いたわけです。ふつうの組織なら瓦解なり再編成なり底力を発揮して頑張るなりと色々方策もあったのでしょうが、あいにくわが社はそういう性格の組織ではありません。かといって消滅などもってのほかです。しかし権威を象徴する……ううん、そう、土地権利書とか株式とかそういうものがドサクサでなくなり、大枠だけは残ったものの、内実はボロボロでした。ブログを炎上させた社長本人も含め、さぞかし頭を悩ませたことでしょう。彼らはどうにか失地回復できないものかと考えに考え抜きました。風華はもともとわが社の特異性によって栄えていたような土地であります。国を挙げて復興へ邁進する一方で、神性を喪失した当時の人々はどんどんと落ちぶれていきました。もはや組織の維持さえも危うい、――と、そのとき、あからさまな救いの手が差し伸べられたのでした。そう、海の向こうの人々、戦勝国からやってきた外資であります。それが――」
「シアーズと一番地との、馴れ初めか」なつきが答えを引き取った。

 巨漢は頷く。
 汗が飛び散った。
 高村のアイスコーヒーが入ったタンブラーへエッセンスが混入した。

「すいませんお姉さん、ちょっとコーヒー交換してください」

「当然、わが社はそれを受け入れざるをいれませんでした。忍従のかまえだったのでしょう。臥薪嘗胆の気概で彼らは捲土重来を期しました。であるからには投ぜられた資本を有効活用いたしました。開発が進みました。閉鎖的な組織形態に是非を問い、政官財への人材の派遣を重視しました。そうして過ごした幾星霜、半世紀が過ぎる頃、わが社は国への影響力こそ戦前に劣るものの、一国の内にほぼ固有の領土とさえいえるほどの……そう、王国を築きました。もはや外様の援助などいりません。あとは穏便に関係を消滅させていこう。そう一部の人が考えました」
「そう考えないものも、いたわけだ」なつきが呟いた。
「そのとおりです」巨漢が肩をすくめた。「昔になかったとはいいませんが、近代的組織運用の徹底は、分業化と縄張り意識の助長、つまり明らかな派閥化を生みました。従来地縁血縁的結合から成り立っていたわが社は、外部から有能な人材を取り入れ、外部での有力な組織との結びつきを得る代わり、本来備わっていた完全な独立性を失ってしまいました。これにより古参新参といった不必要な勢力の鼎立も起きました。すべては強大化の弊害というやつです。またこれまたやんごとなき事情により、戦前のわが社にとっての最高意思決定機関は実質その機能を発揮できなくなっています。これが分派の発生に拍車をかけたのでした。さらに十年二十年が過ぎ、あなた方も既知のとおり、わが社はひとつの節目に立っています。……驚かれるかもしれませんが、非道暴虐であると、われわれの行いを批判する人も、社内にはおります。むろん少数派であることは否めませんがね」
「要するに」なつきが巨漢の言説を取りまとめた。「おまえらは一枚岩ではない。派閥が存在し方針にも食い違いが生じている。その発露がシアーズとの奇妙な併存というわけだ。……ということは、真白がシアーズ擁護派になるのか?」

 巨漢はゆっくりと首を振った。

「彼女は確かに優秀であり、また将来的な権力も保証されていますが、結局はまだ幼い子供で、何よりも社会的弱者です。御庭番……風花本家を支える姫野家はかなり以前に零落して、今ではひとりが彼女の後見人として残るのみですが、姫野嬢もまた未成年ですからな。実質その影響力はいかにも乏しく、立場的にはむしろ、お嬢、あなたたちに近いかもしれません。先ほど申し上げたわが社のとり行う『儀式』に否定的な人間、その最右翼が彼女ですよ。そのことも手伝い、わが社での彼女はやや肩身が狭い思いをしているようですが」
「蓋を開けてみれば、単純な構図だったな」なつきが明らかな揶揄を見せた。「超然とふるまい、掌中に運命をもてあそんでいるつもりで……人の思惑に振り回され、身動きに不自由している。しょせんは人間のすること、か」
「いやはや、お恥ずかしい話で」
「それはぶっちゃけおまえにも当てはまる形容だよな」無視されるとわかっていても、言わずに居られない高村だった。

 が、意外にもなつきは、拗ねたように唇を尖らせた。

「それくらいわかってる。こんなことを知ったところで、前におまえが言ったとおり、わたしにできることなんてたかが知れていることもな。しかしたとえ身動きできない風見鶏だとしたって、風に翻りながら考えていけないことはないはずだ。自分の立ち回りくらい自分で決定したい。そう考えるのは、それほど滑稽か?」
「……いや、すまない。ちょっと茶化しすぎた」高村はなつきに頭を下げた。「いいと思うよ。そういう考えなら、俺はおまえを全面的に支持するよ。だって俺も、そういうふうにやって行きたいものな」
「そう言ってくれると思ってたよ、先生」やや複雑な色を交えながらも、なつきは小さく微笑んだ。

 女と見るには無理がある。が、なつきの顔は単純に造型として美しい。滅多に見せない気安い表情に目を奪われる高村だったが、思考は石上の動向へ及んでいた。
 どうやら一番地内でのシアーズは、思う以上に火種であるらしい。だとすれば、単身火薬庫に足を踏み入れた石上の思惑は、単純に叛逆、背約と切っては捨てられない。
 せめぎあう両勢力の中間で藻屑のごとくあがく虫。それが高村が思う己と石上の立場であったが、巨漢の話を鑑みると、多少穿ってものを見たくもなる。あるいは同僚の迫水開治かもしれない彼がこのタイミングで現れ、こんな話をしてみせたのは、なつきのみならず高村への警句と見ることもできる。
 未だ姿を見せないだけで、背後に暗躍する何かがいるのかもしれない。好奇心ひとつで身を任せ続けるのは危うい相手だと、今さらながら高村の正常な判断が働き出した。
(できれば、シアーズが大掛かりな動きを見せてからが良かったんだけど)
 奈緒はともかく、ここでなつきとの線を切るわけにはいかない。
 難事である。だがやらねばならない。
 そのとき、再度の逃走へと算段をつけはじめる高村を尻目にして、なつきが迷いをにじませた口調で切り出した。

「ようやく繋がった、のかもしれない」うめくようになつきが言った。「高村。もしかしてシアーズは、最初からわたしを知っていたんじゃないのか。おまえが知っているかどうかはわからないが……、玖我紗江子、という名に聞き覚えはないか?」
「――え」

 一瞬、高村の頭に空白が生じた。右手に座る巨漢の雰囲気にもはっきりと変調が兆した。なつきは没頭するように、独語に近い推察を続けた。

「そう考えると、繋がるんだ。高村にはまだ言ってなかったな。わたしの……、死んだ母は、一番地にいた。そして、つい最近、母が遺した口座に、亡くなる直前に外資系企業からの入金を見つけたんだ。尋常な額ではなかった。それで、もしかしたら母はそいつの言うシアーズ寄りの人間で――傍証はあるんだ。つい最近、母を知っているというシアーズの人間に会ったから」
「お嬢、それをここで話す必要があるのですか?」高村をうかがいながら巨漢がいった。露骨に何かを警戒している様子だった。
「いいんだ。わたしもこいつの過去を暴いたから」あくまでなつきはこだわった。「ただ、わからないことがある。こんな致命的な欠落に、今まで気づかなかったことが信じられない」
「なにがだ」

 高村が思うよりもはるかに硬質の音が喉から鳴った。なつきが鼻白んで高村を見返した。高村は「欠落ってなんだ」と繰り返した。

「ああ。……その、わかりにくいかもしれないが、記憶が混線してる。詳しい点は省くが、わたしが最後に母を見たのは一番地の研究施設なんだ。そこはもうなくなってしまった。わたしが破壊したんだ。HiMEの力を暴走させ、……て」

 言葉が、怯えと震えをまといはじめた。

「だけど、そのあとの記憶が途切れてる。いきなり別の場面に挿しかわっている。自分の記憶なのに信憑性がないなんて、こんなのははじめてなんだ。だが確かにそうとしか思えない。わたしは力に目覚めたときに、怪我を負って入院した。何ヶ月も入院した。学校にも一年遅れて通うことになった。けれど妙なんだ。力が暴走して、どうしてそんな怪我を負うんだろう? どうしてわたしは研究所で暴走したその瞬間しか覚えてないんだろう? ……なぜ今まで、こんなことに気づかなかったんだ? 決まってる。思い出したくなかったんだ。とても嫌な記憶だから。そうに決まってる。でも、なあ迫水、おまえは知ってるんじゃないか。そもそもあの研究所はどこにあったんだ? 本当にあれは実在した場所なのか? わたしはいつあそこにいてどうやって病院に運ばれたんだ? あああでもデュラン、デュランはあそこにいたんだ。よく連れて行って……違う、わたしが連れて行ったんじゃない! でも確かにあのとき。でもそのあとで、ママがわたしを連れて」

 堰を切ったような話し振りだった。今、たまさかこの場で思い当たった懸念でないことは明らかだった。よほど抑制した結果なのだろう。外面が剥がれかけるほど、なつきは自らの記憶に踏み込みつつある。
 気圧され、警戒し、逡巡した高村はすぐに考えを改めた。
 好機かもしれない。
 玖我なつきがほつれつつある。彼女の経歴は虫食いと孤独と理不尽に塗れている。元来の性格と知能も含めて、精神構造は常に張り詰めたものであるはずだ。その破綻を防ぐために彼女は敵として一番地を想定し、冷徹のパーソナリティを維持していた。
 例外が母への感情だ。玖我なつきという少女の最深に位置する塗り固めた壁の中心部には、ワルキューレの本質である過剰な愛と執着が息づいている。その発露を高村は目の当たりにしている。

「お嬢! 落ち着いてください」巨漢が口を挟んだ。「考えることはない。そんな必要はないんだ。思い出せないことならば、それはなかったことなんです!」
「だめだ玖我。続けろ」高村はいった。
「高村先生! あんたなにをいってるんだ!」巨漢が高村の襟首を掴んだ。

 高村はそれを振り払った。
 なつきはそのやり取りを見もせず、目を見開いてコースターについた水滴を注視している。そこに記憶が隠されているともいわんばかりに、爪を乱暴につきたてた。

「わからない。それから先は、わからない……車に乗ってたんだ。怖い人が来るって母は言って逃げ出した。それから研究所へ……あれ違う、違うだろうそうじゃないどうしてそうなるんだ? 繋がっていない……事故に! 事故にあったわたしと母さんは。落ちたんだ、すごく車が揺れていた。黒い車が何台も追ってきた。その、げ、現場に、ぃいっ、今も、花を投げている。どうして? 母さんは、研究所から、見ていない。それから後に、死んだって。だ、だ誰か言ってたんだ」
「それは大事なことだ。おまえにとって何よりも。そうだろう? 玖我なつきは母親の復讐のために生きてきた。どれだけの犠牲を払ったんだ? 家庭も、時間も、娯楽も、心も。それだけのものをなげうったことだ。費やしたんだおまえは。全部洗い出せ」
「わたしは、」

 茫洋となつきが記憶をさまよう。高村は固唾を呑んで彼女を見守る。巨漢は疑わしげに高村をにらむ。混雑するカフェの一角を占有する彼らは不自然なほど周囲に意識されていない。店内にはオルゴール調のポップミュージックが流れている。断線された言葉が無秩序に飛び交っている。八月の陽光が通りに面したガラスから飛び込んでいる。
 そして、

「――だめだ。やっぱり、わからない……」

 なつきが途切れた。意識の焦点が現在へ立ち戻る。
 玖我なつきというにはあまりに無防備な顔がそこにあった。
 高村は彼女の両肩に手を添えた。なつきが緊張に身をすくませた。凝然と開かれた眼を正面から受け止めるのは高村だった。
 力強さを意識した。思考の間隙を埋めるような。
 甘言を弄した。弱った少女につけこむような。

「大丈夫だ」と高村はいった。「他ならぬおまえのお母さんのことなんだ。きっと思い出せるさ。今日は、タイミングが悪かったんだ。こんな場所じゃゆっくり考えごともできないだろう? 大丈夫だ、大丈夫だよ、玖我」
「あ、ああ。そう、だな。まだ風邪でぼけているのかもしれない。……すまない、取り乱した」なつきが顔をうつむかせた。「お、おいっ、なに馴れ馴れしく触ってるんだ。はなせばかっ」
「あ、悪い」高村はあっさりと引いた。

 すると、三人の間に、白々しい空気が流れた。
 高村以外の二名が、彼へ向ける意識はあからさまだ。ただしその傾向は懸絶していた。
 投射された感情のすべてを、人間に読むことはできない。予測しうる結果を踏まえた上で、高村はただただ気楽に、なつきへ提案した。

「なあ玖我。こんな状況だけど、今度ちょっとぱーっと遊びに行かないか。海のときはついていけなかったしさ」


   ※


 シアーズ財団の母体であるシアーズ財閥は、たとえば一代の傑物が築き上げた類の、怪物的企業群とは様相を異にしている。現在は新大陸に本拠を移した彼らの起源の一方は中世に勃興した金融業者であった。そして残る一方が、異端の神秘主義者である。彼らは典型的なメセナの関係を結んだ。徐々にそれは互助的な組織となり、すると時を待たず為政者に食い込むほどの結社となった。表面上彼らの信条は伏せられたが、権能は時勢と才覚に恵まれ増す一方となった。
 シアーズの名が歴史に登場したのはこの頃である。
 長い血筋と広範な人脈は営々と拡大をつづけ、いつしか欧州は彼らのノードが結節する巨大な網脈によって覆われるまでになった。
 それだけに、シアーズの血統に連なり、名を持つものは少数に留まらない。ハプスブルク家がそうであったように、彼らの縁は結婚と金脈によって結ばれた。時代が変わり、世界が変わっても、根底に不変と称すべきものはある。すなわちより大きな資本を掌握したものが、常に覇者の座をうかがうという法則である。シアーズの一族は、世界にベクトルがあるとするのなら、紛れもなくある分野での最先端に位置する人々だった。
 いくつかの財閥と同じく、近代における彼らの形態も、家族経営であり、世襲制であった。もちろん人材の頭打ちなど無縁だった。少数の例外を常に含みながらも、シアーズ家の若者たちはおおよそ突出した才能を見せた。華々しい彼らの戦歴が今後も次代を担っていくであろう事を、当代の親たちは確信していた。
 が、斜陽が兆した。要因は複合的だった。新興の財閥と敵対関係に陥ったこと、戦争の混迷による分家の亡失、のち未曾有の恐慌による煽りをまともに受けたこと、そして幾度か続いてしまった不運の極めつけが、当時財閥の中核をなしていた多数の人々が、原因不明の失火により一夜にして失われたことである。因習と血を尊んだシアーズの屋台骨は一連の悲劇によって完全に揺れた。だが世界経済の巨人は、その圧倒的な資本体力により、安易に転ぶことさえ許されない。半ば屈従の形態でありながら、盟友の関係にあった他財閥との吸収併合は確定的と見られた。
 結果としてそうはならなかった。
 その手腕を発揮した、現在シアーズの長についているL・シアーズは、先のような意味では一族における異端児であった。彼は元々学者肌の男だったという。頭脳は異様なまでに切れたが体格と精神は貧弱で、しばしば病に臥した。彼は家族をよく愛し彼もまた慈しまれたが、そこには憐憫も含まれていた。長じるにつれ健康は安定を見せたが、それでも知能はもとより肉体においても完璧であった兄弟に比べれば、彼はいかにも頼りなかった。そんな男が、中枢一族亡きあとのシアーズを見事に切り盛りしたのだ。立志伝中――というにはいささか条件が整いすぎていたきらいはある。しかし中興の祖とは確実に言えるだろう。

 そんな男と、九条むつみは、一度だけ会ったことがある。

 一番地という日本の組織から、ヘッドハントされた腕のいい研究者。当時のむつみはそれ以上の存在ではなかった。あるいは、現在でも同じかもしれない。シアーズ財団という組織の代表は確かに財閥の長と同一人物ではあるが、当然ながら実務はまったく別の機関が執り行っているはずである。彼がそうであると、誰もむつみに紹介したわけではなかったが、経済誌で顔を見知っていたこともあって、彼女は対峙していた相手が世界有数の資産家であることに一瞬で気づいた。
 そのような人物と対面するには、やや荷が勝つ空間に彼女らはいた。香港島中西区中環、ヴィクトリアハーバーを臨むホテルの一室とはいえ、最上級では決してない。ましてやむつみは大きな事故で怪我を負い、逃亡者そのものの体で国外に脱出したばかりだった。同行者のジョン・スミスは、新たな身元と整形手術の準備のため部屋にはいない。ほとんど言葉も交わしたことのないボディガードの手引きで、むつみは突然慮外の大物と引き合わされたのだった。
 呑んでかかろうという無用の虚勢のせいかもしれない。むつみのシアーズへの第一印象は、『小さい』であった。何がしかの言行を見た結論ではない。単に一見して感じたそのままの思いである。
 シアーズは女性であるむつみと比してそう変わらぬほど小柄だった。年齢相応に老いており、なおますます盛ん、といった形容からは程遠く枯れた雰囲気をまとっていた。瞳ばかりが鋭いがそれは能力に自負と裏打ちを持つものならば珍しくない特徴である。当時のむつみにとってはそれも別段特別なものには感じられなかった。
 緊張しつつも洞察を留めないむつみを見るともなしに視界に納めると、老人はゆったりと口を開いた。

「盲人と会った人は、ことごとく己の印象を問うそうだ。なぜだかわかるかね、お嬢さん」

 美しいまでのキングス・イングリッシュである。彼が爵位を持っていることを思い出しながら、むつみは「いえ」と答えた。本音では見当がついていたが、相手の望む答えで応じることが会話の基礎であると、身に染みていたからだ。
 しかし、シアーズはその答えを不満に感じたようだった。灰色の瞳を閉じて、吟じるように続けた。

「わたしの名を浮かべ、君が想像し相対しようとしたのは人ではなく実績だということだ。その種のくだらない思い違いをする人間は、存外多い。社交界と呼び習わされるような華美な世界で育ったものでさえそうだ」

 言葉の真意を問うのは、たといそれがあろうとなかろうと、自らの無能を証明するようなものだ。むつみは瞳を細めて思考を回転させた。ほどなく答えにたどりついた。

「つまりそれがあなたの敵ですね。ミスター・シアーズ」
「子供はいるか」だが、老人はさらに次の話題を切り出した。
「娘がひとり」むつみは平静のまま答える。
「愛しているか?」

 言葉に詰まった。
 どう繕っても、彼女は、男について唯一の子供を捨てたばかりの女でしかない。
 それだけでシアーズは返答を待つことを止めた。「わたしは愛していた」と自答した。

「だが、失われた」淡々とシアーズは続けた。
「存じ上げて、おりますが」
「だからまたつくろうと思っている。わたしは愛を試そうとしている。死が奪っていったものは甚大だ。だがこの身にはまだ存念が燻っている。それは神への憎悪なのだと思う」

 眼前の男にどんな思惑があろうと、消耗したむつみにとってそれらは意味の取れない台詞でしかなかった。もっともらしく頷くことも、何かを問うことも、シアーズのまとう空気が許容していなかった。やがて無言の内に立ち上がった老人は、むつみを見下ろすと、言葉少なに、一言だけ命じた。

「服を脱ぎたまえ」

 その号令に対する安心を自覚した瞬間、まだ九条むつみでなかった女は、己への期待や希望といったものの一切を、放棄することを決意した。もう何年も前の話だった。今では笑い話にさえ消化できるような、そんな時代――。

 ――であるはずは、なかった。

 九条むつみは覚醒する。汗に塗れた五体をなげうつ臥所に対する見当識を失って、すぐに思い出した。
 そこは京都府内にある賃貸マンションの一室である。彼女の現在のスポンサーが用意した、日本国内にいくつかある拠点のひとつだった。
 むつみの横たわるベッドの四辺は色気のない白い壁とむき出しのフローリングに囲まれている。また隣にはもう一つ、インスタントベッドが設えられており、仰臥する女性が静かに寝息を立てていた。むつみより一回り年下の彼女は、沖縄に研究所を構えていた時分からの部下である。
 今ではその数を半分以下に減じた、かろうじて馴染みといえる共犯者だ。
 アンチマテリアライザーを私物化したむつみを糾弾し、石もて追ったもう半分の仲間は、すでにこの世の人ではない。むつみの精神と臓腑を責めるその事実を忘れさせる瞬間は、薬物と怱忙の間にのみある。またそうして自責することだけが、彼女の罪悪感を些少なりとも希釈する唯一の術であった。
 ベッドから立って、洗面所へ向かう。時刻は深夜のようだった。隣室からは液晶モニタの光が漏れている。誰かが起きている気配はなかった。
 思わずヒステリックに怒鳴り込みかけて、留まる。現状は忙中の閑といったところで、当面むつみらにできることはついになくなったのだった。

 鏡で見る顔色にむつみはげんなりとした。ここ一ヶ月で数年も老け込んだ気がした。三十路も終盤に来てとうとうと、やるせない嘆息を唇が生成する。
 むつみは生来的に女性だった。自意識に敏であり、己を飾る必要性を良くも悪くも熟知した人間である。だからどれだけ他事に没頭しようとも、容色に対する手抜かりをしたことはなかった。
 整形手術を施す際にさえ、そうだった。
 元シアーズ財団客員主席研究員、九条むつみ。それ以前は一番地において高次物質化能力のエキスパートとして、プロジェクトチームの一翼を担っていた。名前も違っていた。顔も違っていた。であれば、それはもはやどんな主観記憶の保証があろうとも、他人の人生なのかもしれない。疲労困憊そのものの意識でむつみは益のない思考をもてあそぶ。
 鏡面の『九条むつみ』は皮肉げに唇を吊る。あざけるようなその肌からは、皺こそないものの、確かな老いの迫りが見て取れた。かつてより切れ長になった瞳、通った鼻、削れた輪郭。いずれも形態的な美を孕んでいた。とはいえそれが嘘であるという認識から、むつみは決して逃れられない。人為が加われば、純粋さは損なわれる。たとえ元通りに顔を復元したとしても、皮膚にメスを入れた事実は覆らない。

 たとえば高村恭司は、この顔のむつみしか知らない。彼にとっては以前のむつみこそが別人である。だが過去の写真を見れば、意識は確実に変わるだろう。そのようなことを、酒盃を交えて彼と語ったことはある。返答は独特なものだった。

「以前教授から聞いたことがあります。なんでも美的感覚っていうのは生得的なものだそうですよ。つまり人間は赤ん坊でさえ、生まれつきに美しいものを知っているってことです。たとえばほら、愛玩用の動物を可愛らしいと感じるのは顔のパーツ比に理由があるってよく言うじゃないですか。俺たちには審美眼が備わっているわけです。面白い話だと思いませんか。とかくもてはやされる内実に関して人間はたいてい無力ですけど、ともあれ美感はひとしなみに授けられる。だから、ええといわゆる漫画古典的表現を腐すわけじゃないんですが、自分をきれいだと自覚してない美人なんて意識して仕向けない限り、いないってことなんですよね。同じように、よほどのナルシストでもなけりゃ充分だろうっていうくらい美形の男女も、こうすればもうちょっと、っていう部分があるんです。日本ていう国はなにかというと自然を愛するわけで、それは美徳だと俺も思いますが、だからって加工することの恩恵を、それに浴した人がぞんざいにあつかうのはどうかって思いますよ。なにが言いたいのかというと、九条さん美人なのにそういうこと言い出すとちょっと厭味に思う女性も多いんじゃないですか、という」

 慰められているのか諭されているのか、よくわからない席になったのを覚えている。
 移植したユニットや他諸々が安定し、帰国がかなうまでの一時期、高村はむつみと起居をともにしていた。それ以前にはジョセフ・グリーア指導のもとで、M.I.Y.U.の慣熟に専心していた。以後の彼は学生と検体として、二重生活を営んでいた。出席は等閑になったが、それでも無事卒業し院へ進学するなど、周囲にとっては理解しがたいかたちで、彼は彼なりの日常を崩さぬようつとめてみせた。ただしそれは定規もなしに延長線を引いたようなもので、やはり歪にならざるを得なかった。実際院入学から風華学園赴任までの二年弱の期間は、ほとんど身体と精神の鍛錬に比重が置かれていたようである。
 彼への罪悪感も手伝って、むつみも多忙の合間を縫い、よく顔を合わせていた。高村のリハビリ兼体技指導をつとめた教官もむつみの紹介である。食事を共にし、信頼感を得るために私生活にも引きずり込んだ。
 あくまで心身のケアのつもりだったが、いつしかむつみ自身も、高村への転移を自覚するはめになった。

 結局こうなるのだ――むつみは嘆かずにはいられなかった。わたしは同じ間違いを何度も繰り返す。寂しさに打ちのめされる。その補完を男に求める。それも、一回り以上も下の青年に。

 理解していて、なおも断ち切れなかった。そうしてずるずると関係は続いた。立場に関わりない青年は、周囲をほとんど敵で蓋われたむつみにとって非常に心安い相手だった。ラボでは人間として扱われていない高村もまた、むつみに日常を見出した。
 明確な契機はなかったと、むつみは思う。いつの間にか、彼女は目的や過去さえも、高村に話していた。
 むつみの過去は、現在の部下たちこそ知らないが、とりわけ機密に属するものではない。むしろ高村の肉体などよりも詳らかな情報といえる。シアーズでも一定以上の立場にあれば、祖国に家族を捨て去った女のことは知っている。家族への心情に重きを置くことは異国だからこそ顕著な美徳であった。非人道的な実験に携わりながら、人倫に照らしてむつみを揶揄する者すらあった。むつみはそんな人間へ皮肉を返すでもなく、粛々とうなだれるばかりだった。
 話を聞いた高村の反応は、拍子抜けするほど呆気なかった。

「じゃあ、協力しましょう。その子を、俺たちでなんとかしましょうよ」と、彼は言ったのだった。「手伝わせてくださいよ。そのかわり、むつみさんも少しくらい俺に融通を利かせるってことでどうですか」

 その結果として今がある。高村は、彼が自覚しているよりも、ずいぶん悪い立場にいる。恐らく彼をかばい立てする人間は、もう小さなアリッサとグリーア親子しかいないだろう。シアーズ財団からは、すでに切り捨てるものとして勘定されているはずだ。むつみが強権を用いなければ、恐らく彼はもっと有利に立ち回れただろう。むつみは彼からその選択肢を奪った。
 心細かったからだ。

(つけは払うわよ)

 眉根を寄せた鏡像へ、むつみは小さく毒づいた。あらゆる意味での終末が迫っている。ロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトルなどを巻き込んだウエストコーストの大地震に便乗して、シアーズの母体企業へ当たるを幸いに揺さぶりをかけ続けた。大げさではなく不眠の一週間だった。事前に接触を取っていた投資家の損害を回避させ、うまうまと益を食わせた。信頼と現金を勝ち取った。情報を流した。犠牲を払った。その結果、財団が踏み切ろうとしている不穏な動きを、今や少数の幹部ならずも知りかけている。今後しばらく、シアーズ内部では疑心暗鬼の嵐が吹き荒れるはずである。
 ここまでに切ったむつみの手札は、少なくない。忌憚なくいえば、もう残弾はない。最後にあった良心のひとかけらさえ、万に及ぶ人命を見殺しにすることで、失った。
 この働きに、むつみの現在のスポンサーは大層な満足を見せた。陳腐な表現で括るならば、彼らはシアーズ内部に巣食う、現代表の政敵である。上院議員と手を組み、ヴィントブルームという小国に本部を置くとある財団との癒着を弱味として、今はもういないむつみの上司に浸けこませたのが始まりだ。
 数年の布石は全て現在のためにあった。巨頭に喩えても生易しい怪物を、ほんの一瞬だけ麻痺させる。生じた隙にむつみはここまで得た全てを注ぎ込むつもりだ。自分ではなく、過去に置き去りにしたひとりの少女に対してできる、それが最善の行為だと彼女は信じている。

(もうすぐ)

 むつみが自らに課した責務はじきに終わる。『九条むつみ』として、かかわりを持った人間に対する責任は果たさねばならない。
 むつみは永遠を想起した。万感交々胸裏を行きかい、疲労と成果を引き換えに卑近な満足を得た。最も大事にすべきことは未だ棚上げだった。わたしは死ぬまでそれを直視はしないだろう、と彼女は思った。
 鏡の向こうに女がいる。彼女は女で、母ではなく、人間以前だった。九条むつみに対して、彼女は静かに言葉を送った。

「ごめんね、夏姫」といった。「あなたのお母さんは、もうずっと前に死んだのよ」

 翌日、高村恭司から至急会いたい旨を告げる連絡が届いた。日時の指定は二日後。八月八日の夜である。


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