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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] ワルキューレの午睡・第三部四節
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e 前を表示する / 次を表示する
Date: 2008/12/01 06:10


3.ピュートレセント(腐爛)




 高村が石上亘の手引きで風華市に再度拠点を構えることに、九条むつみは異議を差し挟まなかった。ただ気をつけてとだけ、手短なメッセージが届いた。
 アメリカ西海岸を襲った大規模な地震の余波は、少なくともかの国の内部では様々な場所にまで及んでおり、むつみはその動揺に乗じて動いている節が見受けられた。シアーズを放逐されてなお、むつみには後ろ盾があるということだ。高村は彼女の背景について、今やほとんどの見当識を失っていた。とはいえ恐らくはそのバックボーンこそがむつみにとっての生命線であることは間違いない。詮索にせよ偶発にせよ、高村がその仔細を知ることは即座に致命傷へと繋がる。高村にとって、深優・グリーアとジョセフ・グリーアに対しての守秘は物理的に不可能であるためだ。むつみが高村の行動と選択を座視する事とは真逆の力関係ではあるが、当面むつみを信用するしかなかった。

 一方日本国内はというと、平静そのものだった。ニュースでは政治家の発言が取りざたされ、人が死に、企業の汚職が発覚し、動物園では象が飼育員を踏み潰し、競馬場から逃げた馬が老人を引きずって高速道路を疾駆する姿が目撃され、奥多摩でアンドルフ様というあだ名で近隣住民に親しまれていた元ペットのオランウータンが野生のパンダを率い、群をなして市街地を襲撃し、これを当地住民のペットである狐とうさぎと鶏とカエルが迎撃していた。カエルは死んだ。海を挟んだ場所で起きた悲劇については、経済関連はともかく、巷間での認識において、日常の合間に広く義捐金を募る程度である。
 石上の高村への扱いは、まずまず厚遇であるといってよかった。仮住まいとして用意されたのは、何のつもりか玖我なつきと同じマンションの別棟である。石上がなつきと九条むつみの繋がりに気づいていないことに、一定の確信が高村にはある。紫子の能力がそれほど全能だとすれば、そもそも石上が高村の頭越しに九条むつみへ接触しない理由がない。彼女の所在も目的も、だから石上は把握していないはずである。ならば単純に高村となつきの関係を当て込んだ上での処置であると判断できた。
 高村の裏で糸を引く存在には、カードが少ないこともあって手を出しあぐねているというのが本音だろう。あるいは、暗黙裡のうち、石上と真田紫子の間にあるような力関係を築くことを、要求しているのかもしれない。

「あの地震、媛星の影響なんですかね」

 と、高村が石上に尋ねたことがあった。高村が結城奈緒とともに風華市内へ帰ったその翌晩のことである。一人住まいには過度な広さを持つ家具の一つもない部屋で、年若い教師ふたりが顔を突き合わせていた。シュラフとジャンクフードの空袋だけが転がった光景に顔をしかめると、石上は鼻で笑った。

「そうでもそうでなくても、大して違いはないだろうね」幾分口調が崩れていた。高村はかすかに匂う傲慢さをかぎつける。作為的なものではない、自然の感触だった。
「違いはない」
「違いはない」と石上が繰り返した。見えないカンバスにクロッキーを描くようにして腕を振った。「媛星の接近には天変地異が伴う。それは伝承だ。けれど別に媛星が関与しない時代でも災害は起こっている。ならば、認識のフィルターをこの期に及んで変える必要はない。結局防げない現象ならば、最悪の結果だけを予防する。それが一番地の方針だ」
「それだけじゃないでしょう?」
「無論、媛星の力を手に入れることは最重要事項だよ」石上は呆気なく秘匿すべきカードをさらした。「その程度のことは君もシアーズ財団も知っているんだろう?」
「ええ、きっと」
「まさか僕の善意を信じているわけじゃないよね」
「腕を刺してくれた人にそういうものは期待しません」高村はわざとらしく腕を振った。
「僕が君に期待するのはひとつだよ」石上がいった。「踊ってくれればいい。せいぜい目立つように。引き続き、踊り子たちと関わってね。それがクサナギの担い手、星繰りの者のあるべき姿だ」
「色々とご存知でらっしゃる」知れず、ため息が漏れた。未知の単語を追及して石上を喜ばせる真似はしたくなかった。「ところで、シスター紫子は石上先生のことを愛してらっしゃるんですか?」
「さあ。僕は彼女じゃない。彼女の気持ちはわからない」石上は不必要にいやらしく笑った。「ただ、大人としてごく健全な『お付き合い』を、僕はしただけだよ。その結果シスターが僕に対してどう思うかは、これは個人の自由だ」
「剛胆ですね」

 言外に、石上が紫子の想い人であることをあてこすった。自分が非難できる立場にないと知ってなお、言わずにいられなかったのだ。そんな若さを、石上は恐らく見透かしていた。

「彼女は負けないよ。アリッサ・シアーズ、鴇羽舞衣、結城奈緒、それに玖我なつき、誰にもね。それは君もわかっているだろう、高村先生」
「恋する乙女は無敵ですか」
「彼女はもう乙女じゃないがね」

 その露悪的な態度が狙ったものだとわかっていながら、高村は不快感をおぼえた。同時に、明らかに無謀な叛意を抱き、殉じようとしている石上と、硬化した幼い悪意に巻き込まれつつある紫子に対して哀れみを感じた。他人事のようにそれらを眺めながらも、このまま流れに乗り続ければ、高村もまたこの迂遠な心中への同道が不可避となるのは明瞭だった。だが、高村を利用しようと考えるのは石上ばかりではない。誰かの尻馬に乗るだけでも、石上を見切ることは可能だろう。今すぐそれをしてもよかった。だが高村は実行を踏みとどまっている。自分と重なるこの小人の結末に、少しだけ興味があった。
 この人には同情の余地がない、と石上を見つめながら内心で呟いた。少なくとも高村には忖度できない。石上亘は遠からずつけを支払い、間違いなく死ぬだろう。自滅に巻き込まれるわけにはいかない。

「時々なにもかも放り出したくなりますよ」高村は心底から本音を吐いた。「自分ていう存在の陳腐さに絶望します」
「誰もがそう思ってるって、僕は信じているよ」眼差しを真剣なものへと変えて、石上が呟いた。
「俺はきっと、すぐにあなたを裏切るでしょうね」余計な一言を、高村は発した。
「それを言わずに居られないから、君は僕にならずに済んでいる」

 あっさりとやり込められて、高村は閉口した。


   ※


 朦朧とした玖我なつきを負って、高村恭司はタクシーを下車する。教え子の住居である風華市有数の高層マンションは、一学生の在所としては少々以上に奢侈だった。認証式の玄関を難なく抜けて、エレベーターホールにたどり着いたところで、公園からこちら全く声を発さないなつきの体を揺さぶる。少女の全身はかなりの熱を孕んでおり、呼吸は苦しげで、身じろぎして開いた瞳の焦点も合っていなかった。

「玖我の部屋は何号室だ? あと、誰か世話してくれる友だち呼んでおけよ。藤乃とか、鴇羽とか、……他に思いつかないけど」
「悪かったな、孤独で……」むずがるように幼くぼやいた後で、なつきは自らの部屋番号を呟いた。高村がマンションに入れた理由には、思考が至らなかったらしい。

 なつきの居宅にたどりつく過程で、高村は二三のマンション住人とすれ違った。一様に好奇の目を向けてきたが、高村としては開き直るしか術がない。なつきの体重は見た目通りに軽かったが、それでも玄関を前にすると彼の口からは自然に嘆息が漏れた。

「ほら、着いたぞ」背中から降りたなつきは、意外にしっかりとした足取りで立った。高村を茫洋と見上げる顔は、熱のためか目元が赤らんでいる。これが含羞のためならば可愛げもあるが、表情を見る限りそういったことはなさそうだった。「ああ、まあ、今日はどうも日が悪いみたいだから、出直したほうがいいな。それじゃ」
「いい」気だるげに鼻息を漏らして、なつきが顎をしゃくった。「あがっていけ。これを逃したら次がいつになるか信用できないからな」
「まあ、おまえがいいなら俺も構わないけど」

 なつきの心情をおもんばかったつもりの高村は、腑に落ちないながらも肯った。時間を無駄に出来ないのは彼にしても同じことだ。が、鍵をシリンダーに差し込んだなつきの背中が、ぴたりと止まった。吐気でも差したのかと呼びかけると、なつきは開いたドアの隙間に病人とは思えないほど素早く入り込み、勢いよく閉じた。無機質な施錠の音を聞いて呆気に取られる高村に、扉越しに声がかかった。

「着替える。ちょっとそこで待ってろ。……帰るなよ」
「わかった」高村は肩をすくめた。「一応言っておくけど、掃除とかはしなくてもいいぞ。素のままで」
「いいから黙って待ってろ」

 しばらくすると、掃除機の音が聞こえてきた。
 壁も床も暖色に整えられた回廊で、観葉植物を眺めながら高村は立ち尽くした。苦笑をこぼして手すりに体重をあずけ、ガラス越しに眼下の景色を一望する。ここ数日でいくらか見慣れたが、風華における高所の景観は、海を臨むこともあってなかなかの眼福だった。吹きさらしでないのが、少しだけ残念に感じた。
 二十分近く待たされてから、玄関が開かれた。シンプルだが質のいい白地のレースカットソーと七分丈の黒いレギンス、チェックのミニスカートに着替えたなつきが、仏頂面を崩さず促してきた。
 高村はため息をついた。

「おまえなあ。ジャージでいいだろジャージで」
「馬鹿か」より大きくため息をついてみせるなつきだった。「男と一緒にするな。たとえおまえみたいなアホの極致が相手だろうと、最低限ととのえるべき体裁というのが女にはある。……いいからはやく入れ」
「はいはい。お邪魔します」

 框をまたいでスリッパに履き替え、左右に便所と浴室を見送りながら三メートルほどの廊下を抜けると、十二畳のLDKに行き当たった。重厚なカウンター越しに見えるシステムキッチンには、ケトル以外の調理器具は一切見当たらない。食器洗い機もほとんど使われている様子はなかった。
(ブルジョアめ)
 批判よりも憐憫を催す閑散さがあった。高村は理由なく九条むつみも家事が苦手であることを想起する。フローリングを踏みしめながら、やはり消耗しているのか早々にソファベッドへ座り込むなつきを見下ろして、口を開いた。

「じゃあ、話ってやつを聞こうじゃないか」
「ああ」

 頷いて、なつきが差し出してきたのは、数枚のレポート用紙だった。要所に引かれた付箋と注釈と思しき金釘文字を目に留めて、高村はすぐにその内容を察した。神妙な顔のなつきを見返すと、物怖じしない瞳に遭遇する。

「だが、その前にひとつだけ。済まない。おまえに関して、わたしは必要以上の事実まで暴いた」

 玖我なつきが、姿勢をととのえ、折り目正しく、一礼したのだった。
 初対面の人間に銃を突きつけ悪びれなかった少女の直截な謝罪に、高村は一瞬面食らった。だがすぐにその効能を察して舌を巻いた。自然の所為か計算のなせる業か判断に迷う。だがこうして頭を下げられた以上、高村の立場とこれまでの振る舞いから、なつきを責めるという選択肢は消えている。もっともなつきの真意がどこにあろうと、彼の答えに差異はなかった。

「謝られてもしょうがない」腹蔵なしに、高村は胸襟を開いた。「あれだけ思わせぶりに振舞ってたんだから、調べてもらわなければ逆に困ってたよ。もともとそれが目的でもあったんだ」
「そうか」何食わぬ顔を持ち上げると、なつきはそっけなく頷いた。ようやく疑問が晴れたという口ぶりで、「では、美袋命を連れて学園を訪れ、わざわざ目だって見せたのも、わたしをおびき寄せるため、か?」
「そこまで買いかぶられるもやっぱり困る」高村は肩をすくめた。「美袋と同道したのはほとんど偶然だ。多少世話をしたのも、タイミングが重なったせいとしかいえない。元々は、亡くなったあいつのお爺さんに用があったわけだしな」
「美袋の実家については、わたしも機先を制された形だ。現場にもいったが、殺されたのか」
「ああ。行き違いになった」高村はそこでトーンを落とした。「美袋はきちんと、その場で仇を討ったよ。相手はオーファンっぽい化物で、絵図を描いたのが誰かは、結局わからず終いだが」

 一番地に関しては何を話しても実になる要素が少ないと見てか、なつきは命のいきさつを聞いても、黙して語らなかった。
 前哨戦は消化したと見て、高村は早速本題に切り込むことにした。

「それにしても、この資料を見る限り、創立祭の前にはもうある程度目途が立ってたみたいだな。前から不思議だったんだけど、どうやって調べたんだ。興信所を使いでもしないとなかなかこうはまとまらないだろう」
「以前、ちょっとした縁で優秀な情報屋を紹介されてな。思いのほかこれが使えたものだから、おまえの件では頼りにさせてもらった。普段頼んでいるのが都市伝説まがいの噂話だけに、きな臭かろうが実態のある事件には熱意を燃やしたようだ」
「なんとも高校一年生とは思えない人脈だな」それほど有能な情報屋というのが、よりによって風華近辺にいる不自然さを思いながらも、高村は言及しなかった。そのあたりのことは彼の領分ではない。「そうか、じゃあ四年前のことについてもおおよそ輪郭はつかんでいるわけだな」
「ああ。いくらか正誤はあるだろうが、差し支えない範囲であればわざわざ訂正しなくていい。思い出して気分の良いものではないだろう」
「その配慮、玖我とは思えないな。熱のせいか」あえて空気を読まずに、高村は軽口を叩いた。

 だが、よほど体調がふるわないのか、なつきはまんじりともせず、高村の反応をうかがっている。別人と話しているような錯覚に襲われて、高村は咳払いで誤魔化した。
 レポートは、高村が学部生時代に遭遇した交通事故から始まり、両親と恩師を亡くす結果に終わる一連の事態を、ほぼ正確にトレースしていた。もちろん外部からは知りようがない事情は省かれている。とはいえ今となっては、当事者の内で真実を語る口を持っているのは、高村と九条むつみの二人だけだ。
 想起して、心がざわめかないといえば嘘になる。ただ四年も経てば、事件自体を客観化してとらえる素地は充分にあった。ましてや思慮なく暴かれるのならばともかく、なつきに関しては高村自身が誘導したこともある。付け加えるならば、彼がなつきに対して仕向けたのは、シアーズにも九条むつみにも繋がらない、独自の行動でもあった。

「それで」大儀そうに身じろぎしながらなつきがいった。「そこに書かれていることは事実と受け止めて、いいんだな」
「少なくとも表層はとらえてる」高村はうなずいた。
「内面に関しての質問はある程度まとめてある」
「質問に答えるのはやぶさかじゃないが」高村は前もって釘を刺すことにした。善後策というよりも話題となつきの意識を誘導する必要があるからだ。「全面的な暴露は期待するなよ。また、俺が何もかも知ってるなんて思うのも心得違いだ。おそらく玖我が一番欲しいであろう一番地について、俺は具体的な実態はほとんど知らない」
「それくらいは見当がついているさ……」なつきが口端を歪めた。「単刀直入に聞こう。まずはおまえ個人の目的だ。おまえはなにがしたい? そこにある過去とやらを踏まえて、何をするためにここにいる?」
「それこそ、ある程度目算がついてるんじゃないか?」

 高村が切り返すと、若干白々しい沈黙が降りた。冷房の稼働音が、ふたりの定まらない思惑をいくらか緩和する。高村はぐったりと体重を背もたれに預けるなつきを見、なつきの焦点は高村を通り過ぎ、不可視の思考に結ばれているようだった。

「復讐か。以前言ってたのは、つまりそういうことか?」
「そうまで格好のいいものじゃないけど、おおよそそんなところだな」
「問題は、その対象だ。相手は一番地と考えていいんだな?」
「そこにちょっとしたおまえとの相違がある」高村は告げた。「俺の目的はもっと局地的だし、具体的なものだ。つまりおまえも当事者である媛星がどうとかいうこのシステムを、台無しにするつもりで動いている」
「まあ、そうなんだろうな。意外とまともで、少し拍子抜けの感はあるが」なつきは曖昧に笑う。「そのやり方にどうこう言う気もするつもりも、わたしにはない。ただ、……ああ、今、言葉を選んだな? おまえのそれはたぶん、わたしや舞衣みたいなHiMEに、直接益する類の妨害じゃあ、ないんだろう。たとえば、HiMEに被害を出さず媛星の落下を防ぐといったようなものじゃない。もっと破れかぶれで、捨て鉢なものだ」
「ああ」

 なつきの口調に容赦や糾弾の響きがあれば、高村は保身のため真意を韜晦するつもりでいた。だが少女の浮かされた表情には、ただ諦観と無関心があった。降って湧いた終末への疑念ではなく、高村という個人への同情や理解でもなく、もっと根源的な、未来への深い断念があった。
(……こいつは)
 高村の背に、冷たいものが差した。玖我なつきという少女について、何か決定的に読み違えているものがあるように思えた。
 瞳も向けずに、なつきはその逡巡を見透かしたようだった。小さく鼻で笑って、宥めるように言葉を継いだ。

「そう不思議がるようなことか? いつか自分で言っただろう。過去をよすがにして生きているような人間は、結局そういうふうになるんじゃないか。見つめる先が違うなら、等閑になるものも出るのは当然だ。……もちろんわたしも、世界が滅べばいいと思ってるわけじゃない。誰も傷つかず、犠牲を出さない冴えたやり方があれば、当然それを選ぶ。ただ、……碧や、舞衣は、あえて触れないようにしていたが、仮に世界が滅ぶとして、十人ばかりが礎になってそれが回避されるというならば、それは実際限りなく最善に近い解じゃないのか? とわたしは思う」
「率直に言うぞ」高村は苦々しさを隠さずいった。「おまえらが含められた因果は理不尽だ。でも、おまえの言うとおりだ」
「べつに、おまえが気まずく思うようなことじゃない」なつきは笑った。「そうだな、結局は運が悪かった、それだけのありふれた話なんだろう。巻き込まれたほうはたまったものじゃないが、それこそ無関係ならば、日常でも見過ごしている程度の悲劇なんだ、これは。倫理の問題ではなくて、……だから、わたしは、この仕組みそのものに、義憤に駆られるということは、あまりない。より正確を期すならば、その余裕がない」
「問題は」高村は言い添えた。「システム自体を提示した相手が信用に足るかどうかという点だ」
「そうだ」なつきは諾った。「そして、その点を一番地が充たしているとは言いにくい。実際、最善を尽くさず、悪趣味としか言いようがない状況を仕組んだ連中をこそぶち殺してやりたいと思っているが、……いや、結局はこの儀式も一番地が作ったのなら、そうでもないのかな。ともかく――最終的に、わたしがチャイルドを供することでしかどうにもならないとなれば、捧げてしまうだろうな。……なんて、想い人がもう死んでいるからこそ、こんな暢気なことが言えるんだろうが」

 なつきの吐露を受けて、高村は是非を問わなかった。なつきもそんな応答を望んでいるわけではないだろう。高村もなつきも、他のHiMEや触媒とは立場が違う。予備知識があり、事前にある程度の事情を察していた。その上で自身の思惑と画策を優先し、結果、すでに日暮あかねと倉内和也という犠牲が生じている。
 そして、この後奇跡的に争いを介さず媛星による終末を回避する方策を編み出したとしても、今となっては都合の良いその最善手さえ、現状の縮小形でしかない。一身に被害を背負ったあかねと和也に対して向ける顔は、誰にもなくなってしまうだろう。あらゆる術を模索する現時点は、そうした意味で奇妙な均衡を得ているのである。その輪から外れた位置に立つ高村やなつきは、後ろめたさを共有していた。

「おまえの触媒、想い人っていうのは」
「母だろうな」なつきは、その単語を抱くように口にする。「他に心当たりがない。母が死んでからのわたしは、大切なもの、人、場所、……そういったものから、なるべく縁遠くあるよう生きてきた。完全にうまくやれたとは思わないが、それでも、やっぱり、いちばん大切な人は、母なんだ」
「なるほどな」
「そういうわたしだから」自嘲を加えてなつきは続けた。「前向きな展望が見えない。舞衣がチャイルドを呼んだ時に、少しおまえとそんな話をしたな。充分かなんて知らないけれど、……何度も考えたことはあるんだ。一番地を……、相手取って、どうするのか。儀式、祭の進行に従って、さすがに連中の尻尾は見えてくるだろう。わたしはその機会をずっとうかがっている。手の打ちようもなかったこれまでとは状況が変わる。現実的に、組織を敵に回して、HiMEの力を使って相対する。どうなると思う?」
「殺すか、殺されるかにしかならないだろうな。そしてかなりの確率で後者になる」高村は衒わず答えた。「おまえにいわゆる社会的権力はない。立場もない。経済力も個人としては上等だが、破格では全くない。あるのは暴力だけだ。それも、おまえが人間である以上、使いようをどこかで間違える」
「そしてわたしは呆気なく死ぬ」なつきが続きを引き取った。「一番地にとって目障りな動きをしながらもわたしが特に問題視されていないのは、腹立たしいが連中に対して実質的損害を与えられていないからだ。土俵にさえ上がれていない。はぁ……、あとは単に、この儀式との兼ね合いだろう。要するに、奴らが描いた絵図からはみ出た場合、どう対応してくるかはわからない。そしてわたしには、不特定多数の人間に害意を向けられた場合、これを勝利条件を達成するまでしのぎきるのは、……不可能とは言いたくないが、限りなく近い難事ではある」
「いやに殊勝じゃないか。一ヶ月前からそうなら助かったんだけどな」

 高村の揶揄に、なつきは苦笑で応じた。

「熱のせいということにでもしておけ。……まあ、この頃は、焦りで手段を選ぶ余裕がなかったのも事実だ。それに、結局、わたしはこういう具体的なことは、ずっと考えたくなかった」

 と、

「ストップ」

 続けて言葉を連ねかけたなつきを、高村は制した。なつきが答弁以上の領域に没頭しかけているのを感じたからだ。いぶかしむ気配を対手から見出すと、高村は気が進まないものを感じながらも、明言することを決めた。

「盛り上がってきたところに水差して悪いがそのへんにしてくれ。今日この場で俺たちがしようとしてるのは悩み相談じゃない。おまえが何を感じてきたのか、どう思っているのかについては、俺よりももっと話すのに相応しい相手がいるはずだ。よく考えろって、前にも言っただろう? 俺とおまえの付き合いがどれほどのものだって言うんだよ。二ヶ月かそこらだろう? それにしたって、腰を据えて育んだような関係じゃない。頭から疑ってかかられるのも難儀だが、今日のおまえは少し素直すぎる。もっと俺に対して警戒してたはずじゃないか」
「……」寒気をこらえているのか、吐息を震わせながらなつきが瞑目した。ややあって、彼女は戸惑いがちにいった。「……そう、だな。あまり頭が働いているとは言えないのかもしれない。……くそ、それもこれもおまえが妙な振る舞いばかりしているせいだろうが。……ちっ、だいたいなんでわたしが下手に出なきゃいけないんだ?」
「なんでそこでいきなり切れるんだよ。そもそもいつ下手に出たんだおまえ」今度は高村が戸惑った。「まあちょっと冷静になったんならいいけどさ」
「つまらん感傷なんだ」なつきはきっぱり言い切った。「自分でも意外だが、舞衣や命、おまえの境遇に少し感じ入るものがあるのかもしれない。日暮のこともな。精神的にも肉体的にも疲れているのは事実だ。……それに何より、負い目を感じている。同じくらい、疑念も」
「何にしても、その手の苦慮はやすやすと解消できるものじゃない」高村は手を挙げた。「他人にできるのは気休めくらいだ」
「その気休めもするつもりはないんだろう、先生は?」
「まあ」
「妙なところで厳しいよ、おまえは」

 投げ槍に呟くと、なつきは大儀そうに席を立った。たわむソファを横目にしながら、高村はその動きを目で負った。不穏な確信が芽生えつつあった。

「玖我?」
「聞きたいことは数あるが、どうにも頭に入らない。だからこれだけを聞いておく」

 なつきの手には、拳銃のエレメントが具現化されていた。高村はほろ苦く笑んだ。

「馬鹿の一つ覚えか?」
「恫喝は交渉術の一種だ」なつきに不調以外の揺らぎはない。「極端な話、こんなざまのわたしでも、チャイルドを用いればおまえを拘束することは可能だ」
「極論つきつけるのも詐術の常套手段だよな。俺もよくつかう」高村は微苦笑した。「それをしないのが譲歩とか言うんじゃないだろうな」
「だめか?」なつきがわざとらしく目を瞬いた。「……だいたいおまえ、いま、そんなに余裕ぶっていられる立場なのか?」
「……どういう意味だ?」高村はあえて空とぼけた。
「苛立たせようとしても無駄だ。いまのわたしには思考以外に割くリソースがない」なつきはきっぱり告げた。「だからこういう手もできる。気分は最悪だが、案外悪くないタイミングだったのかもな。……一週間前、おまえが出勤しなくなったタイミングがいつか、忘れたわけじゃないだろう? 日暮の脱落をきっかけにして、わたしたちを中心にした構図が劇的に変動した。日暮は何かに敗北した。HiMEは儀式の意味と存在理由を知った。前後しておまえが消えた。それに、――結城奈緒もな」
「なるほど、そこにつなげるわけか」高村は嘆息した。「俺と結城がつるんでるのは誰に聞いた? ああ、碧先生か。まあ、一緒にいたしなぁ。あの状況じゃしらを切るわけにもいかないか。で、日暮の件についての容疑者が俺たちだと?」
「そこまで短絡的に思われるのは……ま、否定できないが」なつきが鼻をすすった。
「おい」
「瓜田李下というわけだ、先生」なつきが唇を吊り上げた。「……そこだけははっきりさせておかなければならない。結城は正直、信用できない。顔見知りのHiMEの中では、儀式に乗るであろう馬鹿の最右翼だ。それとも、おまえが手綱をとっているわけか?」
「あいつにそれは無理だ」
「だろうな」なつきはなぜか満足げだった。「では、スタンスはどうだ。話をしてないはずはないな?」
「不明瞭だ」高村は正直に述べた。「結城は結城で複雑だよ。直情径行なきらいはあって、確かに単純なんだけど、天邪鬼だからな。誰かの思惑通りだと知ってだれかれ構わず喧嘩を売り歩くのも癪だっていうのが、本当のところだと思う。少なくともこの一週間は動きを見せてないだろう? ただ、それもべつに俺の指示じゃない。俺はそのことについて、好きにしろとしか言ってない」
「……ずいぶん仲が良いみたいだな」胡散臭げになつきがいった。「止めろとも言ってないのか」
「それを言うと、あいつの場合逆走する可能性がすごく高い」高村はため息をついた。「仲の善し悪しについては、ノーコメントだな。ただ個人的にはあいつほど可愛げがないやつも珍しいと思ってる」
「じゃあ、結城は日暮を、やってないんだな」なつきが慎重に核心を切り出した。
「誓ってそれはないよ。アリバイがある。俺にも、あいつにも」高村は真直ぐなつきを見返して、答えた。「そもそもあいつが最初に狙うのは十中八九おまえだ」
「違いない」なつきが苦笑した。「そう、か――」

 長々と息を落とすと、気抜けしたようになつきは頬を緩めた。エレメントも一瞬で虚空に溶ける。緩んだ反動か、不意にキッチンへ向かいかけた足取りがもつれたのを見て、高村はなつきを支えた。
 手にすんなりと納まる小さな肩は、先ほど触れたときより、明らかに熱を持っていた。明朗に会話を続けていられるのが不思議なほどだ。高村はつと不安を覚えて、反応のないなつきを見下ろした。
 変わらず、少女の瞳から剄さは消えていない。突き上げてくるような視線に圧されて、高村は目を逸らした。
 声と吐息が追いかけてきた。

「返事をまだ聞いてなかったな」誰かをはばかるような、それは囁きだった。「結局、おまえはシアーズに帰属しているものと見ていいのか?」
「この間まではそうだった」どう説明したものか迷いながら、高村は答えた。
「なに?」
「今はちょっとわからない。ただ、そうだな、俺の立場っていうのがなかなか微妙なんだよ。そもそもシアーズ財団の説明自体が難しいんだけど」
「難しいなら、今はいい」瞳の焦点が、徐々にほどけていく。「知りたいことは調べるさ。肝心なところはもう聞いた」
「そうしてくれると助かる。俺がおまえに話せるところなんて実質もう売り切れだ」

 それは明らかな嘘だったが、なつきは信じたようだった。少なくとも、そう振舞ってみせたのだった。あるいはそれが少女が奇怪な教師にした最大の譲歩だった。

「シアーズはわたしの敵か」
「敵にはならないだろう。あらゆる意味でな。それは一番地と同じだ。相手にもならない」
「じゃあ」なつきが数秒の沈黙をはさんだ。「おまえは?」
「教師は生徒の味方だ」高村は迷わなかった。
「ふん、信じてやるよ先生、その臭い台詞」

 呆れたように吹きこぼすと、なつきは体を離した。確かな足取りで寝室へ向かっていく。

「もう帰れ。そろそろ静留が来る。……話の続きについては、二三日中にこちらから連絡する。携帯はそのままだな?」
「ああ、そのままだよ。なあ、玖我、俺からもひとつ聞いていいか」なつきが振り向いたのを見てから、高村はいった。「どこでシアーズについて知ったんだ?」
「もうひとりのアリッサ・シアーズが、創立祭の日にわたしに接触してきた」

 なつきは簡素に答えた。それ以上語るつもりのないことは容易に察せられた。その返答を聞いた高村が文言に迷った時点で、なつきはある程度まで彼の関知があることを認識したようだった。

「おまえは隙が多すぎる」なつきの感想には若干の哀しみと諦念があった。

 高村はつたない辞去の言葉を述べると、そのままなつきの自宅を後にした。名残はなかった。混乱が胸に迫っていた。もうひとりのアリッサ・シアーズ、と彼は胸裏で呟いた。
(九条さんは知ってるのか?)
 知らないという可能性は低い。だが、『シアーズ』がなつきに接触したという事実は看過できない。当面九条むつみとの連絡は控える予定だったが、無茶をする必要があるかもしれない。その是非も含めて、慎重に吟味せねばならない。
 諸々の事情で進退を同舟する九条むつみにしても、『九条むつみ』としての思惑全てを高村に語ったことはない。むつみにはむつみの、高村には高村の思惑がある。彼らは共同歩調を取っており、高村にはむつみが不可欠だが、むつみにとってどうかといえば、必ずしもそうではない。
 高村はむつみに情を寄せている。むつみもまた、少なからず己に目をかけているという意識もある。公私共にその程度の関係は育んできた。
 だが、むつみは高村とは違う。目的に相対した際に意志の純度を保つ透徹さを、彼女は持っている。それは高村が得んとしてつとめて、結局諦めざるをえなかったものだ。能力というよりも両者の経験と性質がもたらした違いだった。九条むつみは感情の塋域を持っている。高村は、取り分けこの数ヶ月で、その種の割り切りが絶望的に不得手であることを自覚していた。
 いま、風華はステージの過渡期にある。主導権の争奪戦は激化して、夏の終わりまでに傾斜しきるだろう。誰かが決定的な舵を握ってしまえば、高村が望みを果たす目は消滅する。
 一番地にも、シアーズにも、むつみにも、無論HiMEを含めたその他の誰一人、混乱を収拾させてはならない。儀式をまっとうさせてはならない。ましてや元凶たる媛星を打倒するなど論外である。真田紫子が低劣と断じた彼のアルケ。

 媛星が墜ちる瞬間、現世界最後のその日まで狂騒を続けることが、高村の目的だった。

(これはチャンスか?)
 胸に昂揚の予兆が差した。儀式の開始、石上との提携、なつきの疑惑、グリーアの目的、むつみの動向に、『シアーズ』の介入。全面的に駒のひとつでしかありえない彼が、一端なりとも主導権に関わるための、極めて細い道が見えつつある。
(利用できるのは誰だ)
 問題なのはその選択と、タイミングだった。はじめに切られた期限が迫っている。アリッサと深優を始めとした先遣隊はいま、焦れに焦れているだろう。高村が万端準備を整えるまで、強攻策を実行しないと考えるのは都合が良すぎる。
(しくじったら、死ぬかな、今度こそ)
 アリッサ、深優に寄り添い、全面的に彼女らの庇護下にあった頃からは、事情が変わってしまっている。求めれば応じられる可能性は低くないが、その場合高村が差し出すのは余生の全てになるだろう。一身上の信条をかんがみても、そこまで恥知らずな真似は、彼にはできそうもなかった。
 にわかに緊張感が増した。高村は黙考しながら、靴を履いた。かえりみた廊下に、見送りの影はない。
 唾液を嚥下する。覚悟を問うように、喉から不自然な音が鳴る。
 瞳を伏せた。直前に吐いた白々しい言葉が、それに対する教え子の答えが、鮮やかに再生された。

「じゃあな、玖我」

 ゆっくりと、後ろ手に扉を閉じた。


   ※


 目の前に藤乃静留がいた。


   ※


 静留は常の通りだった。背筋を立てて柔和に微笑み、一週間ぶりに現れた教師が友人の部屋から出る場面を目撃しても、振舞いに崩れたところは一切ない。
 むしろ仰天したのは高村のほうだった。動揺を表に出さないことだけに苦心しながら、それが成功していないことを自覚せざるを得なかった。現場を押さえられた間男のようだと、倒錯した、場違いな感想さえ思い浮かんだ。
 少女から脱しつつある彼女は優雅に会釈し、歩み寄ってくる。高村はわけもなく静留に道を譲る。何かしら言葉をかけるのが普通の対応だと思う。だが不思議と言葉が出ない。被害妄想じみているが、静留の微笑に、彼は拒絶を汲み取っていた。

 静留がいった。「お久しぶりどすなぁ、高村先生。怪我のぐつわるかったそうやけど、もうよろしゅおすか?」
 高村は答えた。「もう問題ないよ。それよりも玖我のほうが大変みたいだ。悪いけど、看てやってくれ」

「そのつもりどす」静留は莞爾とした様を崩さない。「すぐ黎人さんやら鴇羽さんも来やはるさかい、先生もせわしのう帰らへんとまだおいなはったらいかが?」

 静留の笑顔はそのままだったが、かえってその硬直性に、高村は言外の非難を受け取った。ほとんど直観的に、これはお茶漬けを出されているのだろうなと悟る。学園に来ず、おまけに不調の親友の家に上がりこんだ教師に対しての態度だとすれば、なるほど納得するしかない。

「看てやってくれ、なんて傲慢だったな」高村は静留に頭を下げた。「いや、折角だけど俺は退散するよ。他の連中には、よろしく言っておいてくれ」
「おかどが広おすなあ」そこで初めて、静留が少しだけ声を低めた。「はばかりさんどす」

 高村は曖昧に笑うと、早足で歩き出した。なつきの部屋も静留も、振り返りはしなかった。
 逃げるように立ち去る背中に、張り付いて離れない視線を感じた。


   ※


 数時間が経った。見舞いに来たのか遊びに来たのか分からない人々は、明日の補習を最後の最後で告げて、既にかまびすしく帰っていた。
 玖我なつきは、未だ臀部に残る違和感をもてあましながら、布団に包まれ身じろぎする。一日にあれほどの人を部屋に迎えたのは初めてのことで、空調の稼動音を残してすっかり静かになると、より存在の不在が際立った。思えば小学生の折、無心に友人たちと戯れていたころは、こんな喪失感とも懇意にしていた覚えがある。
 薬が効いたのかネギの効能か、おそらくそのどちらでもなくHiMEの力のなせる業なのだろうが、熱はすっかり引いていた。消耗した体力を取り戻すための食事も充分にあった。舞衣がつくっていった粥の余りにマヨネーズをかけて食べながら、なつきは腰にしいた巨大な枕のファスナを下げ、綿をかきわけて内部からくたびれた人形を取り出した。舞衣と共に忍び込んだ岩境製薬の跡地、なつきの母も所属していた研究室で見つけたぬいぐるみである。一家が揃って暮らしていた当時に飼っていた犬を模したものであることは一目でわかった。モデルは、なつきにとっての『最初のデュラン』だ。
 それがただのマスコットであれば、なつきは見えない古傷を疼かせるだけで済んだ。だが、ぬいぐるみの内部には、指先ほどの香水瓶が押し込まれていた。空き瓶ではなく、紙片を封じ込んである。明らかに暗号とわかる文字列が記されており、脳内でマトリクス表を描くと、なつきは数秒でその意味を理解した。数年前に母が死んで後、父から回されたいくつかの遺産のなかに、パスワードが不明なまま放置されていたデータバンクの存在がある。
 不吉な予感を感じながら、なつきはPCを立ち上げ、玖我紗江子のドメインで該当データバンクにアクセスした。胡乱な気分で解読した暗号を打ち込んだ。
 通った。
 その残高を見、なつきは絶句した。口座が開設されたのは、紗江子が死んだ日付の、ほとんど直前である。にも関わらず、八桁に及ぶ入金が即日で行われている。いくら母が高給取りだったとはいえ、真っ当な民間人が一括で受け取れる金額ではなかった。何より、玖我紗江子のメインバンクは決してこの口座ではない。夫であるなつきの父さえ、紗江子が死ぬまで存在を知らなかったのだ。
 明かりの落ちた部屋で、液晶モニタを見つめるなつきの相貌は、青白くかがやいていた。乾いていくその瞳の裏側で、知りえた数多の情報が分解され、咀嚼され、再構成されていく。『シアーズ』の少女――その言葉と出自――高村恭司――そして、この出来不明の入金。

「あ、れ?」

 推量を吟味する過程で閉じたまぶたの裏に、閃いた光景があった。

 風邪。看病。このにおい。暗い部屋。

 薄ら寒くなるほど鮮烈なデジャヴがなつきを襲った。
 いつか、幼い玖我なつきは風邪を召したことがあった。今日、この日と同じようにだ。
 なつきは内気だったが体は丈夫で、母を失った事故までは、大きな怪我をしたことはない。ただし大病には届かぬまでも、年に一、二度、手ごわい風邪を引いて寝込むことがあった。そんな日は商社に務めながら激務に励む父も早く帰っては、疲れた体もいとわずなつきの様子を看てくれた。母も仕事を早く切り上げ、寝込むなつきの看護をした。
 ただし、父は仕事柄頻繁に海外へ足を運んでいた。なつきが子どもの身でいくらぐずろうと、どうにもならないときも、確かにあった。人一倍親を恋しがる性質であったなつきは、そういう時期には母の仕事場にまでついていった。病身ならば、孤独感はさらに煽られたはずだ。なつきが心から慕う優しい母は、熱に喘ぐ娘に対し、過保護なまでに接したはずである。なつきの記憶にはそうある。
 なぜかその記憶は、紙片を封じた香水瓶から香るにおいと不可分だった。
 マリリン・モンローが愛用した、それは世界でもっとも有名な香水だ。シャネルの5番である。なつきの感性からするとややけばけばしいまでの香気だ。間違えるはずはない。
 違和感だけがあった。娘を案じ、母は薬を与えた。娘は眠気にとりつかれた。高熱に魘された。寝汗に寒気を感じ目を醒ました。
 部屋は真っ暗だった。
 手を握っているはずの母はいなかった。
 むせるような香水のにおいが残されていた。
 ファンシィなぬいぐるみの、うつろなボタンの目が、暗がりから涙ぐむなつきを覗き込んでいた。

「……なん、で? 」

 記憶には、当たり前に錯誤がある。食い違うこともある。捏造さえ起こりうる。それが尋常の人間である。
 だが、玖我なつきにとっては違う。彼女の記憶力は常軌を逸して優秀だった。この手の錯覚には免疫がない。
 だからこそ、不快感が募るのだった。

「お母さん……、ママ。母さん。母親。玖我、紗江子。わたしの。大好きなひと。もういない。わたしは」

 突き刺さるような痛みが、眼窩の横から襲ってきた。
 茫然と、なつきは核心を紡いだ。

「何かを、忘れてる?」


   ※


 その年の七月が、最終週に突入した。二三度強い雨が降り、時おり激しい風が吹いて、酷暑を和らげた。例年と同じく、いつになく蝉のこえが多く感じられる、当たり前の夏であった。

 表面上均衡を保ち続けている風華市では、いくつかの罪のない出来事が消化された。目を背けたくなる類の事件も水面下では起きた。前者については、終業式の翌日、鴇羽舞衣の誕生日を祝う催しがその代表例であろう。杉浦碧が家庭科の補習を名目に行った調理実習には、最前の海水浴では不参加を貫いた結城奈緒もその顔を見せた。
 結果として食中毒患者を量産し、碧には謹慎と減給の沙汰が降りたが、彼女は少女たちの集いに概ね満足したようだった。
 合理的に職務から解放される名分を得ると、碧は改めて媛伝説についての研究資料を総浚いしはじめた。結果は芳しからぬものだったが、いくつかの収穫と、ある椿事が彼女を驚かせた。
 いつも通り払暁に床に入り、ワンルームマンションの玄関を訪れた物音に目を醒まし足を向けると、そこには分厚い封筒が投函されていたのである。
 差出人の名前は高村恭司だった。ただし彼自身の伝言のたぐいは一切なかった。封を開けた碧が目にしたのは、故天河諭教授が生前に費やした研究成果の全てであった。


   ※


 十六歳になった鴇羽舞衣は、ルームメイトの美袋命とともに、若干の警戒を残しつつも、努めて日常的であろうと振舞い続けた。
 夏場に入ってやや体調を崩した弟を連日見舞い、アルバイトも欠かさず、家に帰れば命の面倒を見た。その合間で意識せざるを得なかったのは、同僚でもある日暮あかねと倉内和也の不在だった。他の人間の、失踪した二人に対する反応はまちまちだった。純粋に応援するものもあれば、無鉄砲さと無責任さを呆れるものもあった。
 舞衣は話を振られるたびに、どちらともつかない態度で返答を留保するしかない。あかねは倒れ、和也はわけのわからない理由で死んだなどと、どうして言えるだろう。むしろ気がかりは他人や自分ではなく、二人の家族だった。あかねはともかく、凪の言葉を信じるならば、和也は死んだのだ。彼の家族は、それをどのようなかたちで知るのだろう。あるいは、彼という人間そのものの痕跡が消されてしまうのだろうか。聞けば、一番地という組織にはそれほどの技術があるという。にわかには信じがたいが、もし本当だとすれば、この上なく的確で、残酷な処置であると舞衣は思う。
 死について、舞衣はよく考える。比較するのも妙な話ではあるが、同年代の平均的な少年少女を見渡せば、いささか過剰なほど、考えている。それは既に両親を亡くしているためでもあるし、病にとらわれている弟を意識せざるをえないためでもある。手ひどい理不尽を押し付けられ、それを乗り越えたつもりでいる舞衣は、だから同様に、いわゆる『悲劇的』とカテゴライズされる人間が落ちやすい陥穽にいた。死への怕れは無論ある。何より避けたいとも思っている。でありながら、同時に慣れ親しもうとさえ、識閾下で思っている。
 誰にも気づかれないままで、鴇羽舞衣の精神はもっとも危うい傾斜に立っている。

 命はというと、結城奈緒と時おりどこかに連れ立ちながらも、以前のように帰宅が遅れるようなことはほとんどなかった。このことは舞衣を大いに安心させたが、同時に一抹の不安ももたらした。玖我なつきの言を待つまでもなく、結城奈緒が能力の行使にためらいを持つ人間ではないことは明らかである。命と彼女が友人だとしても、舞衣の目から見た関係性はひどく危うげで、到底健全なそれとは判じかねた。
 具体的な解決案は持たないままで、舞衣はともあれ奈緒と一度談合の機会を持ちたいと、なつきと碧に提案した。なつきは気の進まない様子だったが、これを碧が快諾した。
 奈緒に関しては、まず消息をつかむ時点で難航した。とにかく寮にいつかない少女なのである。最終的に命の嗅覚という微妙に信頼の置けない要素に頼りつつ、どうにか探し当てた奈緒は、舞衣に対して関心なさげに振舞うだけだった。どころか、明け透けな敵意さえ見せた。

「嫌なこった」

 舞衣の職場でもあるリンデンバウムにて、出された水に口もつけず、奈緒は舞衣の要請を突っぱねた。命は同席させないほうがよいと判断したので、先に帰らせてある。代理として適材かはともかく、隣席ではなつきが一言も口を開かないまま、無関心を通していた。が、その存在だけで奈緒を刺激しているのは明らかだった。

「ど、どうして?」舞衣は食い下がった。「奈緒ちゃんだって、ミコトと友達じゃない。だったらHiME同士で戦うなんてしたくないでしょっ?」
「はん。まだそんなこと言ってんの?」奈緒は侮蔑もあらわにいった。「ていうかさ、そういう話ならミコトがすればいいだけじゃん。なんでアンタが出てくるんですか? 保護者ってやつ?」
「そういうわけじゃ、……ないけど」
「あたしは誰に命令されるのも嫌。それだけ」奈緒の鋭い目が舞衣を突き刺した。「ヤりたいときに、ヤりたい相手を、あたしはヤる。あんたらが言ってるのって、売られたケンカもまともに買うなってことでしょ? 冗談じゃない。舐められたらやり返すに決まってるだろ」
「だけどさ、もし負けちゃったら」
「しつこいよ。それこそアンタには関係ない」奈緒が苛立ちをあらわにした。「あんた、……ホント、イイコぶってむかつくわ。弟がビョーキなんだって? そんでせかせかバイトしまくってんだって? あおいがよく言ってるよ。『マイちゃんはすご~い、すっご~い!』ってさ。もう、耳にタコができるくらいだわ。……なに、あんたにとってはあたしもそういう対象なわけ? 守ってクダサルわけですか?」
「そういうんじゃないよ……」舞衣は尻すぼみに「なんで? あたしおかしいこと言ってる? どうしてそう……」
「うざいんだよ」

 途端に声から感情をそぎ落として、奈緒がいった。舞衣は面食らって黙り込んだ。まともに口も利いたことのない相手に、こうまで嫌悪感を持たれる理由が思い浮かばない。頼りのなつきは、黙々とグラタンを平らげながら沈思していた。

「――なんで、そこまで言われなきゃいけないわけ」さすがに語調を固くして舞衣はいった。
「べつに。ただ生理的にむかつくだけ。そこの玖我と同じ」奈緒はむしろ軽やかにいった。満面の笑顔だった。「そのさぁ、がんばってます、大変なんです、でも全然平気、みたいな態度がね、イラつくのよ。弟ってあの創立祭のときのガキでしょ? いかにも体弱そうだったけど、学校通ってないらしいじゃん? つまりそこまで悪いんでしょ。それを高校生がアルバイトでどうにかしようとか、……馬鹿じゃないの? どれだけ働いたって無理があんでしょ。なら素直にあのガキんちょ理事長にでも頼ればいいのに。出してくれるんじゃない、涙流しておねがいしますぅって土下座でもしたらさ?」
「それは、大変なのは確かだけど」舞衣は口ごもった。「でも、誰かに頼りたくないだけ。それにこれこそ、奈緒ちゃんには関係ないことよ」
「あっは、ムッと来てるの? ごめんなさい鴇羽センパイ、私ったら正直でぇ。……ホラ、ボロが出てるんじゃん。つまりアンタ、必死じゃないんだよ。見栄とか自分の力でとか、それこそ『わたしはイイコです』って周りに言って見せてるようなもんじゃない。ミコトに関してもそうでしょ? ホントは自覚してんじゃないの? いいお姉さんぶって、うすら善人面して、……アンタ、そんなんでミコトのことわかってんの? 自分は保護者だからとか思って、適当にあやしてるだけじゃないの? ペットかなんかだと思ってんじゃないの?」
「あはは、……奈緒ちゃんには、そう見えてるわけだ? まいったなぁ」

 自制を命じながらも、舞衣の問いは重たく低いものへ変わった。いくつか痛いところをつかれたせいもある。傷口を狙って穿つような奈緒のやり口が、悲しいせいもある。

「ほら、またポーズ。余裕のつもり? はっ」奈緒が鼻を鳴らした。「馬っ鹿じゃないの!? ムカついてんなら怒れよ。気に食わないならそう言いなさいよ。そんなハラも見せないで一方的に言うコトを聞けとか、心っ底、……反吐が出ンだよ。嫌々オトモダチごっことか、馬鹿にするのも大概にしてくんない?」
「ごっことか、そういうんじゃなくて!」

 言い募った舞衣を、制したのはなつきだった。

「もういいだろ、舞衣。こいつには何を言っても無駄だ」
「そうそう、わかってんじゃん」奈緒が頷いた。
「わかってるさ」なつきが笑った。「おまえがどうしようもない反抗期のガキだってことくらいな。嫌いなものは偽善者か? 典型的過ぎてあくびが出るよ。それにさっきからおまえが舞衣に言ってる言葉、僻みにしか聞こえなかったが?」
「……んだと」奈緒が表情を改めた。細められた瞳は、嗜虐から、明快な攻撃色のそれへと転じる。
「チャイルドをつかってすることが小悪党の所業そのものではな」なつきはさらに嘲った。「やりたいこともない。することもない。だから何かに夢中になっている手合いが羨ましいんだろう? 美袋命が自分より懐いているのが気に入らないんだろう? おまえが言っているように本当に関係のない相手なら、そうして突っかかることもしないだろうさ。ガキだな。本当にガキだ。意識しているって自分で触れ回ってるようなものだ。……聞こえなかったら、はっきり、言ってやる。おまえは舞衣を、僻んでるんだよ、クソガキ」
「アンタ……」奈緒が歯を軋らせた。
「なつき止めて!」

 奈緒がエレメントを持ち出しかけ、なつきが呼応し、舞衣がそれを止めにかかった瞬間、レストランの店内に、軽快な着信音が響いた。

『……』

 三人の間が、微妙に外される。出所は奈緒のスカートからであった。なつきから視線を外さないまま舌打ちを落とすと、奈緒がポケットから携帯電話を取り出した。液晶の表示を見て一瞬顔を歪めると、いかにも嫌々といった様子で受話し始めた。

「なに。なんか用」ぶっきらぼうに奈緒がいった。「え? ゴハン? 知らないわよそんなの。一人で食べてろよ。寂しいとか、……バカじゃないのキモイキモイ。……いや、なんでよ。いや、いやいや違うってだから、はあ!?……そう、そう、ってそれディ○ニーじゃないのよ! あそこ酷い改変ばっかだから、……だーから、あたしが言ったのはコクトーの、ジョゼット・デイが超キレイなやつで……だからそれじゃないっつーの! アニメだろそもそもそれ! 目腐ってんじゃないの? ああもうわかった、わかったようっさいな!……チッ」

 啖呵を切って嘆息を漏らすと、携帯電話をしまい、奈緒は不承不承、舞衣と、そしてなつきを見下ろした。

「……アンタらよりムカつくやつがいたわ。じゃあね。これに懲りたらあたしに余計な命令しないで」

 それだけを言い置いて、二度と振り返りもしなかった。足早にレストランを出、タクシーを捕まえ、消えていく。
 舞衣が茫然と呟いた。

「なんだったんだろ。うまくいったんだか、いかないんだか。……それにしてもあの電話、なんかずいぶん仲良さそうな相手だったねえ」
「……どこが?」

 怪訝な目つきのなつきを横目にすると、舞衣はこの少女の鈍感ぶりに対する確信を深めたのだった。


   ※


 過日姫野二三にあしらわれた尾久崎晶は、額におおきな絆創膏を貼って、しばらくは寮の自室にこもって静養した。窓から見える景色を目に留めては、ひたすら手元のスケッチブックに模写した。
 彼女の実家でもある尾久崎の人々は、率先して手勢を派遣し、逐一風華近辺の動向を探り続けていた。いま現在、日本国内でもっとも諜報戦が激化しているのは、近畿地方と、意外にも首都圏であった。CIRO(内調)の意を受け、本来の火元責任者である一番地を他所にして二十年前に設けられた『高次物質災害対策室』が、尾久崎家の現在のスポンサーである。シアーズと提携して一番地に圧力をかけ、介入権を得る一方で、独自のプランと研究者、HiMEと比べればいかにも些細な異能者を招集し、事案の解決に当たっている組織だった。
 晶の親戚縁者は、今こそ一族の興亡を賭さんと、ここ数十年で絶えて久しかった活気を取り戻し、日夜どこかの誰かの手足となって、敵と定めた相手をあざむき、陥れ、屠っているようだった。枝分かれしたもう一つの風華――星之宮財団を筆頭にした諸外国の諜報機関のみならず、公安調査庁、警察庁警備局、防衛庁(現在の防衛省)情報本部との牽制が入り乱れて、状況は混迷の一途をたどっており、とりわけ地元県警本部との緊張が高まっている――そんな知らせも受けた。
 晶は年長の世話役である伊織という禿頭の青年の伝言に、ただ水飲み鳥のようにして頷くだけである。求めてもおらず、十三歳の少女とも少年ともつかない晶には処理しかねる情報ばかりが、次々と手元に集ってきた。結果として、核心にいる晶こそ部外者として扱われると言う、奇妙な事態になった。
 晶はどうあれ家の傀儡でしかなかった。すぐにでも動ける気構えと敗北感を引きずりながら、自身が位置する空間と、その延長上で繰り広げられている暗闘にどうしても連続性を見出せず、彼女の倒錯した精神は朽葉のごとく翻弄された。なまじ文面で状況を知りえるだけに、晶の疑問は日ごと肥大していくのだった。
 こうして、実地で命を賭さねばならぬ自分たちをよそにして、すでにやり取りが始まっている。その結果いかんでは、低い可能性とはいえ、一夜明けたら全てが終わってしまうこともありうるという。世界が、つまり極大化し、複雑化した社会がそういうものだと聞かされても、晶には納得できそうになかった。彼女にとっての世界とは、思惟と手が及ぶごく狭い範囲を指した。自らを殺傷せんとすると鋭い錐の群れと、それらに四囲を封じられ、ただ頑健で強固な絆を持つ集団の中でさえ、常に疎外感を持て余す定まらない己が、晶にとっての世界観である。画用紙に描けない視界の外で起きた出来事が、自分や世界にとってあまりにも決定的であるという現実は、ひどく絶望的に思えた。
 晶が敬愛する実父からの言葉も、絶えて久しい。何かを打ち明けられるような存在も、晶には皆無だった。
 彼女はもはや少なくなったオーファンを探しては狩った。炎凪の揶揄への対応からも余裕が失われつつあった。同じHiMEを襲うことは禁じられていなかったが、晶は未熟と情報収集を言い訳に戦闘を避けた。姫野二三との一戦は、彼女が思う以上に尾を引いた。
 自然発生するオーファンが見当たらなくなると、今度は絵画に没頭しようとした。だが集中した時間が途切れると、晶はいつも混乱と孤独に打ちのめされた。それでもなお、彼女は孤高で強靭たらんとつとめた。それが父の求める理想像だと知っているからだ。
 いつしか、朝から夕方まで、知人ともつかぬ少年のいる病室を訪れる回数が増えた。他に気兼ねなく話し合える友人を持っていなかった晶にとって、取るに足らぬ存在である彼は存外な余暇の潰し相手だった。性を感じさせない年下の少年の前でなら、晶は男でも女でもなくてよかった。少年が晶と同じHiMEである鴇羽舞衣の触媒であるということも、晶を病室へ運ぶていの良い言い訳になった。やがて晶はこの少年が死病に侵されていることを知った。気の毒には思わなかった。世界そのものが滅びに瀕しているのが、今と言う時代であるらしいのだ。
 だから晶は剽軽に「でもおまえが死ぬ前に世界のほうがくたばるかもしれないぜ」と言った。巧海は深刻な顔で「それはいやだなぁ」と答えた。なぜかとは問えなかった。沈黙する晶を見ると、巧海は儚げに笑い、病的そのものに白い手を伸ばし、晶の頬に触れてきた。

「また泣いてるよ」と彼は言った。
「ああ、ほんとだ」晶は目元に触れながら平坦にいった。取り繕う素振りは見せない。

 実家の典医の言によれば、ホルモンバランスの乱変動による弊害であるらしい。近頃はステロイドの注射は少なくなったが、それでも抗エストロゲン作用のはたらく生薬や漢方は、日常的に服している。そのためか否か、激昂したり沈鬱したりという感情の上下動は、もはや晶にとって日常だった。だからこそ学園では冷静のパーソナリティを堅持している。
 だが巧海と素面で話していると、それが突き崩されることが、稀にあった。こいつに気を許しているわけじゃない、と晶は冷静に思った。それは事実である。晶にとって、巧海はもう半ば死人だった。
 巧海の顔には明らかに死相がある。晶はトキハタクミという木のうろに向けて、どこにも預け場のない感情を排泄しているにすぎなかった。だが巧海はそんなことには関知せず、もらい泣きしては、結果的に晶がしぶしぶ、彼を慰めるはめになった。
 七月が終わりに近づいたころ、晶はふと漏らした。

「おまえって見た目はそこそこいいし、オレ人物画はあんまり描かないんだけどよ、練習にちょうどいいかもな」

 巧海の食いつきは凄まじかった。即座に自分を描きとめるよう晶に要求した。あまりの勢いにたじろぐ晶を見て、同席していた舞衣が苦笑し、複雑な表情をのぞかせていた。
「でも」巧海がはにかんだ。「できればみんないっしょの絵がいいな。ぼくも、お姉ちゃんも、晶くんも、ミコトさんも、それに師匠も」
「いやそれじゃ絵じゃなくて写真だろ」

 それでも、晶は無理やりに頷かされたのである。






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