0.dawn on yawn.
風華学園占拠事件から一夜明けた。誰にとっても今さらだったが、その朝になって、結城奈緒はようやく世界の終わりを実感した。
彼女が運び込まれた病室の備品であるテレビの中で、日本一高い山が濛々と白煙をあげていた。そこから遠く離れた東京の女性アナウンサーが、美意識にまで昇華されたプロ意識でもって、冷静にニュースを報じている。ところどころ声が上ずる点を除けば、年齢に比してアナウンサーの働きぶりは上々と評価できた。問題は、富士山が噴火したという現実があまりに陳腐化しすぎていて、誰もがそれを虚構的にしか受容できないという点だろう。
『失礼いたしました。今入ったニュースによると、先ほどのニュースに誤りが――』
情報は錯綜しているようで、五分もしない内に新しいニュースが飛び込んでは以前の口上が修正されていく。視界の左半分をふさぐ眼帯をひと撫でして、奈緒はテレビの電源を断った。
とたんにバックノイズだった病室の外の騒ぎが耳に飛び込んでくる。夜明け前に起きた大規模な地震は本土でも相当な被害を出しており、風華もその例外に漏れない。いまだ夜に半ば属するような早朝だというのに、外の足音はひっきりなしだった。夜番で疲れきった顔をした看護士も、地震直後に一度だけ奈緒の様子を見に来たきり現れない。床に落ちて砕けた空の花瓶も、だからそのまま放置されていた。
学園で負った足の傷の痛みはまだ引かない。自由に動くことは困難だ。左目はやはり眼帯を外せる状況ではないし、地震直前に奈緒を襲った発作のような胸の痛みも尾を引いている。それだけの悪条件下、さらに混迷する状況に対して、奈緒は意外なほど落ち着いていた。
気がかりは母親だけだが、どのみち携帯電話も使えない状況では病院に連絡も取れない。完全に封殺されると、精神はかえって凪いでしまうものだ。それになにより、奈緒の感情は今、水位が低すぎた。激情を排出しすぎて、心が一時的な麻痺状態に陥っている。昨日から学園にいた生徒たちならばみな同じ心境にいることだろう。不幸を嘆いて、理不尽に怒って、反抗のために力を絞り、偶然に助けられ、地獄に叩き落された。そのあとでは、大震災も噴火も余り物でしかない。
チャイルドを砕き、命の終わりを見た瞬間の感触は、奈緒の手中に残存している。
後悔はない。奪われるくらいなら奪う。それが結城奈緒の鉄則である。
ただ今は、すべてを棚上げにしたかった。罪も罰も、それに付随する是非も、等しく鬱陶しく、胡乱に感ぜられた。奈緒は無痛だった。今も病院にはけが人が担ぎ込まれ、富士のふもとでは人が逃げ惑い、地震に遭って命を脅かされる人々がいる。これから世界が滅びに向かうというのなら、それらはもはや日常なのだろう。だからなのだ、と奈緒は結論を下した。
悲劇はもうない。
誰もが均等に欠損を味わう世界が訪れた。
相対化が彼女をすくいあげた。
当たり前のことに心を砕く必要はもうない。
結城奈緒は、救済されたのだ。
奈緒は唇を吊り上げた。
「――ばかじゃないの」
心から吐き棄てる。自分にだけ聞こえる音程で呟きを次いだ。
「ばかみたいだ。なにをしてるんだ。くだらない」
勢いをつけて、ベッドから上半身を引き起こした。寝台とともに体が軋んで痛みを発した。傷の治癒が明らかに遅い。どうやら、本当に力は失われてしまったらしい。
苛立ちと空虚感は今もなお奈緒の中心を蝕んでいて、自分がどれだけ能力に依存していたのかを思い知らされた。関係ない、と囁く声はことさら無力だった。寄る辺がない。どこにもない。もう、どうして生きているのかも思い出せない。
だが奈緒は生きている。
殺しても生きている。
殺したから、生きていられる。
「ぐ」
真田紫子が流した血を思い出して、奈緒は嘔吐した。胃の中は空で、喉を焼く僅かな酸だけがリノリウムを汚した。えずきながら、右目からは涙をこぼし、左目からは血を流した。咥内にとどまる胃液を嚥下すると、エウスタキオ管で耳鐘が反響した。首の付け根から肩にかけてひどく冷たくなって、残暑の夜中だというのに身震いがおさえられないほど奈緒をさいなんだ。
「だからなんだ……。あたしを、誰が責めるっていうんだ……ばかばかしい。あたしは、悪くない」
奈緒は、半眼で床を睨み続けた。
眼の奥がいつまでも熱を持って、痛みを唱えていた。
病院の外では鉦が鳴っている。寒蝉のこえだった。夏の終わりは世界の終わりと繋がっている。
高村恭司の言葉を、奈緒は口中で舐め続け、置かれていた松葉杖を手にとって、部屋を出た。
廊下から見える窓の外は暗かった。対して院内はほとんど常夜営業のようで、立ち回る看護士の数こそ少ないものの、せわしない様子は同じだった。誰も奈緒を気に止めるものもいなかったので、彼女はそのまま待合室と受付のホールを抜けて、正面玄関から外へ出た。
明け方の空気は、秋を感じさせて、若干冷たかった。軽く肩を震わせながら、奈緒は今さら自分の見た目のことを気にした。きっと見られたものではないだろう。だが、どうしようもない。服はともかく、怪我はすぐには治らない。
ぼんやりと駐車場を横切った。傷だらけのBMWが停まっており、その目の前で力なく腰を落とす、見知った顔を見つけた。
「奈緒ちゃん……?」
杉浦碧だった。顔色も服装も、ひどい有様だ。憔悴とほこりと、なにより血に汚れている。一昼夜でずいぶんと消耗したようで、昼間の溌剌さは既にどこにも見当たらなかった。
「よかった。ケガ、してるみたいだけど……無事、みたいだね」碧がほろ苦く笑んだ。
無事か、という問いは意図的に無視して、奈緒は碧に尋ねた。
「ねえ、アンタ、高村見なかった?」
碧は、すぐには答えなかった。呻吟するような間があった。彼女は迷うような、怖がるような様子で膝を抱いたあと、ぽつりと、呟いた。
恭司くん、死んじゃった。
そう、と乾いた声で答えると、奈緒は特に反応もせず、きびすを返した。どこをどう通って病室へ戻ったかは、自分でもわからなかった。自室へたどりつくと真直ぐにベッドに飛び込んで、そのまま、二度と目覚めないくらい深い眠りに落ちようとした。しかし結局は、二時間ほどで、嫌な夢と物音に起こされた。窓から見る地面には、白いものが降り積もっていた。まさか八月に雪もないだろう。テレビをつけて確認すると、これは降灰という現象らしいということがわかった。それきり興味をなくして、電源を落とすと、部屋はまた沈黙に包まれた。
ハンガーに吊るされた、ぼろぼろの背広を奈緒は眺めた。病院に運び込まれたときに彼女が着ていたものだ。
高村が着せたものだ。
ふらつきながら壁へ向かう。あちこちほつれ、血の染みまである布地に、奈緒は額づいた。眼を閉じ、体中の全てを絞るような息をついた。
「うそつき」
と、呟いた。
「帰ったら、話、聞いてくれるって、言ったのに」
そのまま、しばらく動かずにいた。やがて、看護士が朝食を、ごく少量、やはりあわただしく運んできた。昼食は炊き出しになるから、出てこれるようなら駐車場へ出てきて欲しいと奈緒に告げると、早足で退室した。奈緒は終始無言だった。彼女は食事には手をつけなかった。背広を握ったまま蒲団に戻ると、また眼を閉じてひたすら眠りの訪れを待った。
午後を過ぎるころ、ようやく彼女は意識を切ることができた。今度は夢も見なかった。
※
そして、人生で一番長かった一日のことを追憶した。
ワルキューレの午睡
第三幕 「ワルキューレの落日」