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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン 前を表示する / 次を表示する
Date: 2007/03/03 16:12



 ――HiMEって、何かしら。

 目的地までもうあとわずかというところで、迫水が直截的な探りを入れてきた。大々的な破壊工作の類ならば強制的に止めると、暗にほのめかしているのだ。対してむつみは、はぐらかすようにそう返したのだった。

「何、ですか?」油断のならない瞳で、迫水はむつみの真意を汲むべく思考を進めていた。「何といわれても、不思議な力、としか私には答えられませんね。超常現象、オカルト、魔術だとか、そんな理解の外にあるモノだというのが本音です」
「そうね。そういう認識で正しいと思うわ」むつみは答えた。「高次物質化能力者、すなわちHiME。要するに超能力者よね。でも、ひところのブームで超能力にも色々な分類がなされたわ。たとえばESPにPSY、だけどHiMEが操るエレメントやチャイルド、それにオーファンは、こうしたものの縁戚としてはちょっと弱い。強いていうなら、そうね、アポーツという魔術があるでしょう? それとも手品かしら」
「たしか、遠くのものを手元に引き寄せるとかいう?」
「そう。そのアポーツ。正しくは、物体の座標を手を触れずに動かす力。これだけだと念動力とも言えるかも知れないけれど、HiMEはこれに近い現象よ」
「まあ、何もない所から何かを出す、という意味では、そうかもしれませんね」
「それよ」と、むつみはやや語気を強くした。「『何もない』というのはなんなのかしら。彼女たちは質量やエネルギーといった保存則を無視しているの? 傍目には確かにそれらの推移があるけれど、完全な形で交換が成り立っているとは思えない。となればどこかしら超法則的な解釈で辻褄を合わせなければならない。これは悔しいことだわ。少なくとも、科学者にとっては」
「あの? さえ――」
「それでも、見るままを理解するしかなかった。受け入れて、噛み砕かなくてはならなかった。彼女たちがその身に宿すエネルギィは、どこから調達されるものなのか? その解のひとつに、媛星がある。では、媛星とはなんなのかしら? HiMEにしか見えない超々高密度熱源? 馬鹿馬鹿しいわ。そんなものが地球に接近して、いまだに発見されないはずがない。あれには質量がない。実体がない。それは事実よ。でも、『ある』の。それもまた事実よ。少なくとも、視える人間にとっての、ね。
 ないけれども、あるもの。なかったけれども、あると思われていたもの。昔、エーテルと呼ばれた素子がそれだわ。エーテルは宇宙に、空間に満ちて、あらゆる波の媒介を担うはずの物質だった。それがなくては道理に沿わないから、当時の人は考えたのね。だからわたしたちも、『それ』があると考えてみた。高次物質化エーテル。では、それはどこにあるのか? それは、何を媒介するのか? そして、マテリアライズのシーケンスを、わたしたちは探った」

 いつしか、目的の扉の前に二人はたどり着いていた。むつみは口を休めないまま、荷物を手探る。目的のものはすぐに見つかった。高村恭司が所持していた切り札。結城奈緒に奪われ、むつみが奪還した一つかみの匣である。

「チャイルドやオーファンは、人の意思に感応して原型を作ると言われている。だけど、そんなもの実証のしようがないわ。集合的無意識まで持ち出さなきゃ証明できない代物、『科学的』に解明なんてできるはずもない。なぜ、彼らはふだん人の目に見えないのか? そしていざ現れると質量を獲得する。既存の法則に抗って起動する。頭がおかしくなりそうだった。そんな存在を認めるって……正直、ひどい屈辱よ。
 だけど思ったの。もしかしたらそれらは、本当は存在してないんじゃないかって」
「存在……していない?」迫水が眉根を寄せる。「いや、しかし、現実に……」
「現実ほどあやふやなものはないわ。だからわたしたちは式を書いて世界を写すんだから」むつみは微笑を浮かべたままで、匣に電極を取りつける。「といっても、集団妄想だとか認識がどうだっていう話をしてるんじゃないの。そういうレベルではないわ。もっと端的に言えば、実世界そのものが浸蝕されてるってこと。それこそ、夢と現実がない交ぜになるくらいに。
 それをするのが、高次物質化エーテル。それは素子であり、種子なの。信号であり、記号なのよ。そうね……一辺が百ある立方体のイルミネーションを想像してみて。ひとつひとつの電球はオンとオフの状態を持っている。高次物質化エーテルにおいては、オンの状態がすなわち現実を改変している状態なの。そして複数の電球が規則性を持って一斉にオンになると、何らかの形が現れる。これがエレメントでありチャイルドでありオーファン。
 それらは互いにネットワークを形づくり、感応して、一部一部が個性化されていく。ヒトという生きものの、意思や想像と呼ばれる指向性を模写しつつ、吸収されては吐き出される。そうして規則性――つまり輪郭を学習する。無個性な物質は、鋳型を求めるから、必要なのね。だからそれらにも必然的に好む環境があることになる。そして、だから必要な装置が要る。そのひとつが苗床である風華であり、出力装置でありノードでもあるのが、ヒメ。彼女らは三工程を経てその異能を使うわ。それがエーテル化イーサライズ結晶化クリスタライズ、そして物質化マテリアライズ
 つまりHiME――引いては媛星は、物質やそれに類するモノじゃない。
 現象よ。
 世界そのものをペテンにかけるくらい精巧な現実を模写する、騙し絵のアゾート――」

 語り終えると同時に、むつみの作業は終了した。匣は電極によって小型のバッテリーにつながれている。

「法則に合致しないから、否定するのですか?」迫水が難色を示した。「それは暴論にも思えますがね……」
「そうかしら? なんでもありだからなんでも受け容れようなんて考えの方が、わたしは暴論だと思うのだけど。ともあれ、だから……」胸に痛みをおぼえて、むつみは言葉に詰まった。原因はわかっており、それは心理的なものだとも自覚していた。「だから、とても強固で、同時にとても不安定なものなのよ。想いひとつで、揺らいでしまうくらい。チャイルドも、オーファンも、そしてきっと、あのワルキューレたちも……もしかしたら非在のもの、なのかもしれないんだわ」
「そんな、バカな」迫水がかぶりを振った。
「だから、それを検証しなくちゃね。そのついでに、不可侵だったこの施設をパッシヴで丸裸させてもらうわ。安心して、爆破だなんだなんて荒っぽいことはしないから。――まだ、ね」

 むつみは、扉に手をかける。錆びついたハンドルが軋みを上げ、赤い破片を散らしてゆっくりと開いていく。同時に、二人の立つ回廊に風が吹き込んでくる。外部と相応の気圧差が存在するのだ。
 長らく使用されていないその扉は、学園直下から一キロ弱の地点にある。もっとも、保安上の理由で今は海底と一箇所の通用口以外では、どこにも通じていない。
 なぜならば、その真下には、一番地と呼ばれる組織の心臓が存在する。
 施工は中途で打ち切られ、回廊は壁面から数メートルせり出しており、扉から百メートル以上もの落差がある地面まで降りる術は人にはない。
 けれど、人でなければ打ち棄てることは可能だ。
 むつみの手に匣がある。それは軽いが、とてつもなく頑健な、どこにもない物質でできている。非在の空想が、その匣の形に固定化されている。しかし、ひとたび特定の電荷をかけられれば、とたんにほどけてしまうよう調整されていた。

「紗江子さん――」迫水が、覚悟を確かめるかのようにむつみを、そう呼んだ。「彼は、高村先生は、知っているのですか? 今、もしかしたらもう」
「彼のことなら心配は要らないわ」むつみの髪が風にはためいた。「その……ええ、いいパートナーだもの。……他意はないのよ?」
「はぁ」迫水がどこか釈然としない様子で肯いた。
「さて、時間ぴったりね」腕時計を一瞥すると、むつみは懐中の匣を投棄した。

 その手から匣が離れ、宙へ落ちていく。匣の輪郭が一秒も待たず融けはじめる。春の淡雪のように、燐光が虚空へ散らばっていく。やがて、もとの寸法からかけはなれた大輪の華が咲き、瞬く間に散った。ハレーションの残滓が天使の環となり、その残渣は雨となって下界へ降りそそいだ。
 光の粒子は、ひとつひとつが高次物質化エーテルを食い尽くす指向性を持っている。
 この地下空間に充満したエーテルを消滅させることはできなくとも、地上に設置した観測機はいまだ未踏の地下構造を白日の下に晒すだろう。
 それこそが、九条むつみと高村恭司の狙いだった。

「これだけ希釈してしまうと実効性は維持できないだろうけれど」満足げにその結果を見おろして、九条むつみは吐息を漏らした。迫水を振り返り、自嘲を含ませて言った。「今のが、物質安定化素子アンチマテリアライザー。本当なら、対チャイルドの切り札だったの。まあ、今回は本領発揮とまではいかないけれど、狼煙としては充分だと思わない?」



 ※



 遠巻きに陣形を組む屈強なメン・イン・ブラックの勘定が五を超えた時点で、高村は自力での突破を諦めた。ただ敵を打ちのめせば罷り通る状況でもない。ましてや、専門の訓練を受けた複数の人間に立ち向かうなど論外だ。碧や奈緒の積極的な助力がかなうならばどうとでも切り抜けられる目算は立つが、裏を返せば彼女らの手助けがなければ、高村は絶対にこの場から無事に帰れないということでもある。
 膝下からは痺れのように焦りが募るが、それを表には出さない。説明を求める碧に曖昧な表情を送って、冬の泉のように静かな少女へ視線を戻した。

「真意というのは?」
「あなたが今なおHiMEに関わる動機、その裏にあるもの」風花真白は、好んで風貌に不釣合いな物言いを使う。「此度の扇動行為については目を瞑るのもやぶさかではありません。ですが、今後もこうした無謀を繰り返すというのならば、その限りではないのですよ」
「脅迫のように聞こえますよ」
「そう取っていただいても結構です」

 真白には確固たる追及の意思が見えた。
 その場しのぎの韜晦は無意味だ。
 高村もまた、肚を据えた。

「私の行動が理事長にとってどう煩瑣であるか、具体的に明示をお願いします。この場で! その上で、彼女たちにも事情を酌んでもらいましょう」
「それは、賛成」碧が気軽に応じた。エレメントはまだ手にない。しかし、警戒を怠ってもいなかった。「だいたい、か弱い乙女を囲むなんて穏やかじゃないなぁ。恭司くんが怒られるんならあたしも連帯責任だし、一緒に減俸くらいは満喫するよ」
「杉浦先生はHiMEです。HiMEに対しての詰責はわたくしの権限には含まれておりません」真白はやんわりと碧を跳ね除けた。「また、この件に関して杉浦先生や結城さんを始めとしたHiMEの方々に累が及ぶこともありません。あくまでわたくしどもと高村先生との間にのみ問題は生じているとご理解ください」
「なに、それ」さすがに碧が色めきだった。「あたしらはHiMEだから贔屓されるってこと?」
「その通りです。あなた方は特別なのです」真白は動じない。「事情はまだ説明できません。どうかご承知願います。わたくしも、できる限り穏便に取り計らうつもりです」
「なーんにも聞くな知るなまだ教えられませーん、ってそれで納得できるわけないでしょ! 同僚を売るには安すぎる言葉だね」碧が声を高くした。「理事長サンも事情があるっぽいけどさー、はっきりいって、激! ウサン臭い。特にバックの人たち! 左肩下がってんじゃない? どう見てもカタギじゃないでしょ」
「いいんじゃないですかぁ、別に?」と口を挟んだのは奈緒だった。「アタシらは特別扱い。ケッコーなことじゃん。そこのヴァカ先公がひとりでバカやって痛い目見るっていうんなら、あたしはむしろ賛成でーす」
「奈緒ちゃん……」咎めるような碧の声。

 高村は、そっと息を吐き出した。リストウォッチの数字は、定刻まであとわずかを報せていた。真白は高台で解答を待っている。

「ちなみに、理事長は俺がどんな意図で動いているとお考えでしょう」
「それは」真白が瞑目した。心痛に堪えないといった表情で吐き出す。「やはり、復讐ですか……?」
「俺に、復讐する動機がある、と?」高村は過剰に訝ってみせた。「いったいなんのことを言っているんですか」
「……天河さんのこと、ご家族のことは、確かに不幸な出来事でした」

 真白から引き出した言葉に、碧と、そして奈緒の顔色が、確かに怪訝なものへと変じた。高村はその変化を見逃さなかった。

「わかりました!」と、高村は叫んだ。「どうやら、ここまでのようですね。結城や碧先生に迷惑をかけるのは元々本意じゃない。大人しくお縄につきましょう。手荒な扱いは勘弁願いますよ。できればミランダ警告でもしてほしいです」
「ミランダ・ルールとは行きませんが、身の安全はもちろん、保障いたします」こくりと真白が肯く。「学園祭の後、数日拘禁願うことになるかもしれませんが、その間高村先生が不当な暴力に遭うようなことは決してないと、わたくしの名において誓いましょう」

 目配せに従って、二名の黒服が進みだした。碧が慌てて高村の肩を掴み、口寄せた。

「ちょ、ちょっと、それでいいの? なんか知らないけどさ……」
「あとは野となれ、山となれです」高村は硬い口調で笑ってみせた。「いうでしょう? 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ――そうだ、なあ、結城」

 傍観を決め込む奈緒が、顔を上げる。瞳には反感と嘲弄、そしてわずかの失望が読み取れた。
 高村は手に提げた携帯電話を、彼女へと投げ渡した。反射的に、しかし危なげなく電話を受け取った奈緒が、不可解な面差しで高村を見返した。

「なに」
「面倒なことにつき合わせて悪かったな。まあ、もう少しで終わると思う」
「あ、そう。よかったデスネ」答えた奈緒が手元に視線を落とし、顔面を引きつらせた。「……で、これなんのツモリ?」
「想像に任せる」

 決して矮躯ではない高村と比べても頭一つ高い男二人が、前後を固めた。導かれ、せっつかれるまま、高村は真白の元へと向かう。拘束は施されず、それはせめてもの救いだった。薄暗い洞穴の空気は湿っており、濁っていて、腐臭を連想させた。巨大な想念の死骸が目の前に横たわっているように思えた。
 雪のような光の雨が舞い降りてきたのは、ちょうどそのときだ。
 不思議な光だった。蛍火のようにはかなくきらめいて、実体がない。光とは熱でありエネルギィである。しかしこのとき不意に降りそそいだその光に熱はなく、また実体さえなかった。
 高村をのぞく全員が光の正体を求め天を仰ぎ、眼を奪われた。眩むような閃きの華が、そこで輪をなしていた。完全な意識の間隙が生まれたのを、もちろん高村は逃さなかった。よろめいたふりをして背後の黒服にもたれかかると、そのネクタイを手にとって太い頚を猛烈に絞った。その時点で気付いたのは碧と奈緒、そして遠巻きにしていた他の黒服勢だけだった。完全に標的の意識が落ちたことを確認すると、次いで高村は前方の黒服へ取り掛かる。身を低くして斜面の高度差を利用し、膝関節を完全に崩すと同時に両腕で片足を抱え込んだ。あとは思い切り体を捻ってしがみついた巨体を引き落とすだけだった。少なくない抵抗と後味の悪い感触が腕の中で広がった。苦悶の声を聞き流し、倒れ際に背広の胸元へ手を差し込み――高村は走り出した。
 真っ先に異変に気付いたのはやはり姫野二三だった。だが彼女は風花真白の背後に控え、そして頭から滑り込んだ高村の手は真白が腰掛ける車椅子の足に届いていた。力任せに車輪を引きずると、素早く二三の手が車椅子のストッパーに伸びた。ただちに車体には制動がかかる。この時点でようやく真白が小さく驚きの声を上げた。高村は地面に腹ばいになったまま体を旋転させ、渾身の力で下部から車椅子を蹴り上げた。
 真白の小柄な体が、地面に向かって車椅子から飛び出した。

「真白さま!」

 二三の主人は、高村の腕に抱きかかえられていた。細い肩をしゃにむに掴みながら、転がるように斜面へ戻り、体勢を立て直し、倒れている二人の黒服を飛び越えると、高村は暴走する心臓を押さえつけるよう、静かな声音で呟いた。

「理事長、すごく軽いですね。おかげで助かりました」
「高村先生、なにを――」
「すこし、黙っていただけると助かります」

 地盤を削るようにして、高村は立ち止まる。周囲の黒服は一瞬の忘我から立ち直り、既に気色ばみつつあった。碧はぽかんと口を開けていた。姫野二三は無言のまま駆け出しかけていた。奈緒ひとりがほぼ正確に高村の意図を掴んでいた。

「動くな!」高村は限界まで声を張った。腕の中の真白がびくりと身を竦めた。「下手に俺に近づいてみろ! この理事長十一歳がどうなっても知らないぞ!」

 時間が止まった。

「えええぇぇえー」碧がなんともいえない顔になった。「いいのか? それでいいのかぁ!?」

 その場にいる全員の心境を代弁したに違いなかった。

「取ったら迷宮がぶっ壊れるってわかってても財宝を選ぶのが冒険家ってやつでしょう。ですよね」高村は真白に同意を求めたが、困った顔が返ってくるだけだった。

 奈緒は既にボートに移り、エンジンに火を入れている。
 高村は揚々と駆け出しながら叫んだ。

「野郎ども、ずらかるぞ!」
「いいのかなぁ、これで」碧がぼやきながらボートに飛び乗った。「なんか違うような、取り返しのつかない方向に行っちゃってるみたいな……」
「あ゛ーダルいダルい超カッタルイ……」奈緒がうんざりといった。
「もしかして……」真白が真剣な表情で高村を見上げた。「わたくしをかどわかすおつもりですか?」

『遅い』と全員が声を揃えた。



 ※



「トァァーボッ・ダァァーッシュ!」

 気勢を発し、碧が艀の最後尾でエレメントを一閃した。海面が爆発し、船体がぐんぐん加速を始める。波を蹴立てるどころか切り裂く勢いだ。抵抗を受けた前方の舳が反っていた。既に小型船の限界を超えた速度が出ている。

「ちょっと! 髪が水で濡れる! せっかく乾いたのに!」
「細かいこと言いなさんな!」奈緒の不平に碧が一笑して答えた。「おっと、追手が来た模様」

 言葉通り、モーターの重奏が追いすがる気配があった。まだ船影は見えないものの、広間で岸につけられていたものにはモーターモービルやクルーザーまであった。フライングしたぶんの間隔は稼げているが、地力の差で徐々に詰められることは避けられない。

「せめてもうちょい小回りが活かせる地形ならなぁ」惜しいとばかりにうめく碧の双眸らんらんと輝き背後を見据え、揺れをものともせず縁を足が踏みしめる。「ふっふっふ、遺跡荒しとの死闘を思い出すわ」
「すごい突っ込み待ちの台詞ですね、それ」高村が息を整えながら笑った。「さっきより水位が上がってるな……」

 その背には険しい顔の真白が乗っている。

「わたくしを捉えたとしても、追及の手は緩みません。高村先生、杉浦先生も、どうか翻意なさってください」
「いやもうこうなっちゃったら毒皿でしょー」碧がからからと笑った。
「二人とも、無職おめでとうございまーす☆」奈緒が嫌味たっぷりに告げる。
「理事長、危ないからそんなに遠慮しないでもっとがしっと捕まってください」
「あ……はい。こうですか?」真白がはっしと高村の肩をつかんだ。
「それにしても、本当に軽いですね。男の子はもっと食べなくちゃだめですよ」体を揺すり、真白の位置を調整しながら高村が漏らす。
「はあ……え?」真白が首を傾げた。「今、なにかおかしな単語があったような」
「というか、真白ちゃんは船に乗った時点で解放しても良かった気がするなぁ」

 ぽつりと呟いたのは、いつのまにか第五のメンバーとしてボートに乗り込んでいた炎凪だった。

「おい」高村がかろうじて反応した。「神出鬼没にもほどがあるぞ。いつの間にいたんだ、おまえ」
「ふ、いつからだと思う?」凪が不敵に微笑んだ。「碧ちゃんと奈緒ちゃんに伝えておくことがあってね。言っておくけど、今、この洞窟の中――」

 その後頭部を碧がエレメントで勢いよく払った。

「ハイハイ無賃乗車お断り! スピードが遅くなるだろうがぁ!」

 悲鳴も残さず凪の体が吹き飛び、すぐに後方の水面に沈んだ。あとにはあぶくが一つばかり痕跡を浮かばせるのみだった。
 真白がか細い声で囁いた。

「今のは、あんまりなのでは……」
「ま、死にやしないでしょう、あの坊主のことだから」碧はどこまでも楽観的だ。「それより、今、なんつーかエレメントの手応えがおかしかったような」

 訝しげな視線の先に、白銀の質感を持つポールウェポンがその威容を誇っている。しかし、各々の意識が向けられる先で、碧のエレメントがわずかにその存在を揺らがせた。

「あらら? なんだろコレ、なんか眼がちかちかする」
「眼精疲労ですね、きっと」そんなことより、と高村。「凪の言ったとおり、理事長は乗せるまでしなくてもよかったかもしれません」
「じゃあそのへんで降ろせば?」

 奈緒の無情な声に眉をひそめて、高村が背なの真白に同情的な視線を向けた。

「理事長、あいつあんなこと言ってますよ。退学にしましょう。それか坊主。どっちがいいですか?」
「え、いえ、その、退学というのは行き過ぎな処罰では?」
「おい聞いたか結城! おまえ明日までに坊主にしてこいって直々のお達しだぞ!」
「ふざけんな!」奈緒が眉を逆立てて吼えた。
「た、高村先生……?」真白はいまだに様子の違う高村に対応できていないようだった。

「来たよ」

 平らかな碧の警句を受けて、高村も顔色を改めた。どのみち、真白を背負った状態で彼にできることは少ない。碧の後頭部越しに確認すると、ちょうど小型の高速艇が四台、編隊を組んで接近しつつある所だった。二三の姿はない。安堵するとともに、腑に落ちない布陣だとも感じた。
 無論あの年若い女性一人が迫る男たちより手強いなどと、決して常識ではありえない。高村もそれは理解している。だがそれでもなお、あの柔和な物腰の少女には警戒感を拭えないのだった。

「どうしようかねえ」エレメントを肩にかついで、碧が顎をしゃくる。「端から沈めてもいいんだけど、それはやりすぎな気もするし。そもそもあの人たちってどこの誰サンなの? あのガラの悪さで学校の警備員ってオチはないと思うんだ。そうだったら逆に面白い」
「一番地とかいう、HiMEを付けねらう秘密組織の戦闘員らしいですよ」
「ほう」碧の双眸に剣呑な光が宿る。「燃・え・て・き・た、ぞ!」
「高村先生!」

 無頓着なリークに真白が鋭い声を上げるが、高村は取り合わなかった。

「知ったことじゃないですよ」学園や一番地の秘密主義に協調する気が、彼には始めからない。やや苛立ちを交えて呟いた。「だいたい当事者にまで事情を全く説明しないって、どういうつもりなんです? どこの誰が得するのかって構図があんまりわかりやすくて、笑えるくらいですよ。こんな子供まで矢面に立てて!」
「まさか、いえ、やはり」真白が息を呑んだ。「ご存知、なのですか?」
「主語を明確にしてください。俺とあなたはそんなに親しいんでしたっけ?」

 強めた語気にあてられて、真白が口をつぐんだ。
 大人げない反応だった。謝る気分にはなれないが、高村もまた二の句は継がなかった。理由のひとつには気まずさがあり――
 もうひとつは、凛然とした声が洞窟内に響いたためだ。

「――お迎えに上がりました」

 前方右手からだった。
 わずかに増した水位が、かろうじて流れに繋がる細い横穴に浅瀬を形成していた。その上を、常軌を逸した高速で滑る水上バイクがある。停止など考えていない、飛び出せば対面の壁への激突は必至という加速度で、船体が跳躍する。
 駆り手は姫野二三。風花真白の傍らに行住坐臥侍る、洋装の少女――。

「先回り!?」

 喫驚する間に、二三は中空でボートから飛び降りる。一拍遅れ、轟音と共に無人の艇が岩盤に激突し、そのシルエットが歪なものへと変わる。二三は片足で壁を蹴った勢いで擬似的な足場を仰角六十度近い面に作り、疾走を始めている。
 高村らの乗るボートは当然勢いを緩めない。
 暴力的な相対速度の渦中にあって二三の視線はただ一点、風花真白へと定められている。他のもの既に彼女の眼中にない。主人の元へたどりつけぬという不安も彼女には恐らく、ない。まったくの無表情がわずかに引き締まり、二三が歯を噛んだことを高村は知る。直後、
 スカートがはためいた。
 両者が交差して、すれ違わない。

 ――姫野二三が船体に取りついていた。

「二三さん、なんて無茶を!」

 真白の声を、呆気に取られた高村はまったく同感だと支持した。運動能力、判断力、決断力のどれをとっても、人間の域を食み出していた。
 だから、縁にかけた腕の力だけで優雅に体を反転させ、難なく船底に着地する様も見送った。奈緒はもとよりこの期に及んでの没交渉を決め込んでいる。二三に取り掛かったのは碧ただひとりだった。

「ロックンロールなメイドさんもいたもんね」碧の口元は好敵手を見つけたとでも言わんばかりに緩んでいる。
「恐縮ですわ」二三はいつも通り、穏やかに笑むだけであった。毛ひと筋ほどのほつれもない。完璧な従者の会釈。

 呼気とともにエレメントが突き出された。二三は穂先の回避と反撃の布石を同時にこなした。馬鹿げた足捌きでありえないほど見事な入身を果たし、碧の広く取った両手の間を掌握する。間合いを許した碧の反応も相当に人間離れしていた。接近戦では分が悪いと見るや即座に身を沈め、得物から手を離して足払いをしかける。それを二三は見もせずステップを踏むように避けた。碧が眼をみはり、次の瞬間二三の手にあったエレメントが姿を消し、そしてまるで転移したように碧の手にハルヴァードが生まれている。今度は突きではなく横薙ぎ。空間が限定された船上で打てる手は少ない。受けるか、それとも流すか――。
 二三はそのどちらも選ばなかった。弧を描き唸りを上げて接近するエレメントに正対し、右腕をたたみ、両足を張り、腰を捻転させる。
 甲高い音がした。

「うっそ――?」

 碧の手からエレメントが飛んだ。
 二三の拳に、彼女の一撃が打ち負けたのだ。
 たたらを踏んだ碧を崩すのは赤子の手を捻るようなものだった。とん、と軽く二三の手が碧の胸を押した。それだけでバランスを崩し、碧の体は海面へと落ちた。

「ちっくしょー!」遠ざかる碧が捨て台詞を置いていった。「おぼえてろー!」

 二三がボートのエンジンを切る。徐々に速度が失われ、やがて緩やかな流れと慣性のみが船を押す動力となった。
 真白を船底に置いた高村は、奈緒を見てかるく驚いた。

「まだいたのか」
「もうすぐ終わるみたいだし、無様っぷりを見物してやるわ」
「そうか」高村は邪気なく笑った。「じゃ、特等席で見ててくれ」
「――」半瞬、奈緒は言葉に迷う素振りを見せた。「言われなくても」

 深呼吸を三度繰り返す。
 高村は、静かに眼前の二三を見返した。

「じゃあ、やりますか」
「無益な争いです。どうか矛をお納めくださいませんか?」二三が眉を下げた。「僭越ながら、わたくしも高村先生のご事情については些少、聞き及んでおります。我々には話し合う余地があります。そも、かの方々がこの国に対しどのような意図を持っているか……、先生はお気づきのはずですね?」
「理事長にしてもあなたにしても」と高村は言った。「さっきからまるで俺の気持ちを熟知しているような台詞回しをしていますね。俺は個人的にあなたたちみたいな優しい人は大好きですが、立場的に俺たちはどうやら相容れない。それでいいじゃないですか。それだけで充分じゃないですか? 同情が相手を惨めにするってことくらい、わからない人じゃないでしょう?」
「だとしても」と二三は譲らない。「この期に及んで干戈を交える意味がありますか?」
「ありますよ」と高村は肯いた。「えっと……姫野さんでしたか? 俺はあなたには勝てない。だから意味はあるんです」

 二三の困ったような表情に、ふいに理解の色が差した。次いで、たおやかな紅唇が新鮮なかたちを描く。驚くべきことに、それは微苦笑だった。

「……わかりましたわ。一手ご指南願いましょう」
「二三さん!?」真白が批難の声をあげかける。
「真白さま」二三が柔らかい声で告げた。「とのがたには意地の張りどころというものがございます」

 気遣うような視線は、高村と二三の両方に注がれた。不謹慎ながら、高村は癒される想いだ。優しい人間とは、つくづくこのごろ、縁がない……。

「わかりました」逡巡の間。「けれど、お二人とも、怪我は――」

 二三が動いた。
 その先手をユニットは予期していた。予期していながら回避は際どい。高村の顔面を狙って伸びる貫手が耳を掠め、頬を痺れが走る。むろん二三の攻勢は一手では終わらない。顔面を狙う動作は次手の布石になっている。それだけではなく、あらゆる攻守は連動し、すべての動きはひとつながりの生きもののように絡み合う。型とは本来そうしたものである。実戦を想定し、幾千、幾万と反復された、必殺の套路。二三の五体ことごとく凶器と化して、必死にしのぐ高村の急所を狙う。
(中国、拳法――?)
 かと思えば、硬軟自在の曲線的な熊手が外剛内柔の直線的な突きへ変じる。眩惑のためひらめく一指さえ点穴を狙う。手合わせから三十合を待たず、既に高村の傷を負った右手はその用途を封じられていた。打たれるたびに痺れが走る。痺れが波紋のように体の中で打ち合い、より大きな痺れとなる。その異物感の前では痛みさえ甘露だ。防いだ腕が壊される。外した骨がひび割れる。
 でたらめに速い。
 異常なほど強い。
 何より、途轍もなく巧い。
(人間じゃない)
 まるで、技を得た獣。
 既に防御もままならない。高村は打たれるままだ。奇策を弄する余地もなく彼は負ける。その未来が視えている。
 ――それでも、一矢報いる。
 狐拳が顎を捉えるのを読んで、高村は二三の手を取った。小手返しを始めとする関節技への連携は、苦闘の修練で彼が身につけた数少ない冴えた武器だ。掌握さえ成功すれば、技量において先んじられようとも痛手は与えられる。腕力に比して詐欺だと叫びたくなるほど細い、二三の左手首を握り締め、高村は血に塗れた唇を歪める。体に染み付いた動きがある。二三のそれと多彩さでは及びもつかぬといえども、費やした熱意には引けを取らない自信がある。
 触れる。触れさえすれば、捕れる。
 そう思ったのは、甘美な夢想に過ぎない。
 左手が二三をつかまえたときにはもう、高村の体躯に余力など一片も残っていなかった。
 押せば倒れる。押さなくとも待てばくずおれる。高村はすでにそんな状態だ。しかし二三は止めを刺さない。探るような瞳が、不自由な身体の表面を這った。高村は自棄の気持ちで呼吸に喘ぐ。意図は知れずとも二三が待つのならば、少しでも体力を戻さねばならない。

「ずいぶんと」二三が解せないといった表情でいった。「アンヴァランスなスタイルですけれど、二三にご遠慮は無用ですわ」

 とんでもない話だった。高村の徒手格闘に型がないのは、単に師が横着しただけのことなのだ。が、口の中身がずたずたで、うまく言葉を発する事もできない。高村はかろうじて首を振る。

「肉の付き方と癖から察しますに、ご専門は器械でしょうか?」だが二三は高村さえ感知していない領域へ、推察を進めていく。「尺は百センチに届かない、片手持ちの……短刀よりは長い……短杖術か、もしくは十手」

 短棒なら心得がなくはない。
 だが、二三の言うのはそれではないだろう。
 高村の深奥で揺らめく形があった。
 二三の考察が真実に届かないのは、その得物が武器本来の用途からわずかに外れていることに因がある。
 水影の月のように、うつろうシルエットが、定形を結ばない。ひやりと体を凍えさせるもの。いつだって高村を縛るもの。その正体と操法は、今はまだ彼の中で結実していない。ただ高村は漠然と思う。俺はそれを知っている。そいつを知っている。その使い方を知っている。
 だが、まだたどりつけない。
 つかみかけたひらめきは、二三がオールを折って作った棒を渡された瞬間泡となって弾けて消えた。無我夢中に突き出した一撃が、難なく流される。
(ああ、なんだ)
 二三の肘が高村の顎を跳ね上げた。真白の静止の声が届かない。眉をひそめた奈緒の顔は視界にある。旋廻するスカートのシルエットが鮮烈だった。みぞおちを爪先が貫き、かかとが側頭部を打ち抜き、足刀が喉を衝いて、膝が顔面を弾いた。痛みは既にない。鼻が血で詰まって呼吸が苦しい。意識が飛ぶ快感がある。天地が逆転する。精神力で意識は保てない。刈り取られ、稲穂のようにこうべが墜落する。
(やっぱり怒ってるじゃないか、この人――)
 倒れ、果てて、もう動けない。

 高村恭司の、これ以上無い完全な敗北だった。



 ※



 重石もなく漂う小船の上に高村恭司が崩れるのを、碧は濡れた前髪を通して見た。『倒れた』などという生易しい表現が通用する落ち方ではなかった。膝から前のめりに伏して、顔面が受身もなく船底の板に激突したのだ。あらゆる打撃格闘技で即座にレフェリーの制止がかかる、『二度と起き上がれない』ダウン。様子は見えずとも、血だまりに沈む彼の姿がありありと想像できた。
 船上の結城奈緒が息を呑み、うつぶせの高村を漫然と視界に収めながら言葉を失っていた。
 姫野二三は高村の脈を取り、呼吸の有無を確認し、眼球反応を診てから、主人に対し何でもないことのように奏上した。

「救急車が必要です」
「――はい」真白は厳しい面持ちで肯くと、すぐに指示を繰り出す態勢に移った。

 だが、その声が響くことはない。
 始めは、奇妙な風鳴りだった。曲がりくねった洞窟の中を、水流に撹拌された空気の塊が通ればあるいはそんな音がするかもしれないという程度の微音である。しかしそれは、天然のものでは全くなかった。
 白いものが高速で薄暗闇を過ぎるのを、少数が目撃した。船上で様子見に徹していた黒服のひとりがくぐもった悲鳴を上げ倒れたのは、その直後だった。かろうじて視認できる物体の飛来の、それが嚆矢だった。洞窟の出口側から、次々と紡錘状の白光が闇を裂いてやってくる。ひとつがふたつに、ふたつがやっつに、やっつが無数になって、輝く矢が水面を滑る。
 どこか幻想的だった、先ほどの光る粒子とはまるで様子が違う。
 破壊しか予感させないその奔流は、明らかな攻撃だった。
 矢は何の区別もしない。岩も船も人も水も容赦無く貫き、削り、打ち倒していく。浮かんでいた船はなす術もなく外装を剥ぎ取られ、直撃を受けた人間が海面へ落下し、みずから水中へ逃れようと試みた者も決して見逃されなかった。運良く障害物の陰に逃げ込めた二三と真白や、碧や奈緒のように自らのエレメントで身を守れる人間以外は、ことごとく光の餌食になる。
 充分な明かりと優れた動体視力があれば、識別できただろう。光の正体は『羽根』だった。
 危く碧の顔面をかすめて、拳大の羽根が間近の水面に着水した。「今度は何!」と碧はエレメントの陰で頭を低くしながら叫んだ。先ほどからチャイルドを呼び出そうとしているのに、召喚に対するレスポンスがこれまでにないほど遅いのも気にかかった。
 位置の関係で、碧からはいまだにこの不慮の襲撃の正体をつかむことができない。いまだ船上に止まり、最前列でエレメントによる糸を編んで光弾を逸らしつづけている奈緒だけが、訝しげな眼で襲撃者の姿を捉えていた。

「子供――?」

 爆音も水流もかき消すような朗々たる声が、呟きを覆った。

「Verweile doch!」

 流暢なドイツ語の発音だった。碧の脳裏にその台詞の引用元たるとある歌劇のハイライトが浮かび上がる。ところで青白い網目状の光が、十数メートル前方で有機的にうねりながら波間を走るのが見えた。押し寄せる光の前で、奈緒の髪の毛が逆立つ様が目に入った。
 次いで真夏とはいえ冷えた洞窟内ではおよそ出会うはずもない、ぬるい逆風が吹き寄せてくる。場違いな風は、鼻を刺激する嗅ぎなれない臭いを運んでいた。
(オゾン臭?)
 脳裏で思考がいくつかのジャンクションを駆け抜ける。電流。おかしな臭い。導電の前兆。ありえない、と思う。そもそも、そうだとしても本当にそんな前触れが感じられるはずがない。辻褄は合っているが、合っているだけだ。だいたい感じてから対応して、間に合う現象ではそれはない。そうも思う。気のせいに決まっている。
(だけど)
 暴走するトラックの前に飛び出す幼児を観た瞬間のような、名状しがたい危機感が碧の脊椎を駆け抜ける。
 喉も破れんばかりに叫んだ。

「今すぐ水から離れるか、思いっきり潜って!」

 ようやく実体化を果たしたチャイルドの背に飛び乗った。と同時に、眼を眩ませる極大の稲光が水面に突き刺さり、龍のようなあぎとを奈緒へと向けた。碧は「奈緒ちゃん!」と呼びかけて注意を促しつつ、不自然な雷霆の目前へエレメントを投擲する。狙いあやまたず斧槍の穂先は岩肌を抉り、すぐに紫電の餌食となった。
 即席の避雷針も一瞬の時間稼ぎに過ぎない。真打は半秒遅れて放たれた。先ほどに倍する悪夢のような神鳴りの枝が、光の速さで水を媒質に通電の波紋を広げていく。今海面に漬いている人間は絶対に助からない。碧は苦く、しかし冷静にそう判断した。やむを得なかった。危機はまだ持続している。ありえざる急激な電荷によって進む海水の電離によって生じる厄介事は、単なる電気ショックよりも問題かもしれない――。
 全てはほんの数秒の出来事だった。明滅する光の中で、焼け焦げる人体の放つ香りを碧は空想する。
 だが、現実には何も起こらなかった。

「……え?」

 光は立ち消え、いつの間にか弾幕も途切れている。水中で往生する黒服たちも無事だった。破壊の残骸だけが、傷や小船の破片としてあたりを漂流しているのみだ。

「生きてる、か」思わず頬を叩いてから、茫然と呟いた。

 真白を小脇に抱え、片手で天井の岩にぶら下がっている二三にも、大事はないようだった。碧の姿を認めると、眼下の流木に着地する。多少揺らぐだけですぐに優雅なバランスを確保するその姿に、碧は苦笑しきりだった。

「そちらさんも怪我はないみたいね」
「ええ、幸甚でしたわ」二三がにっこりと微笑んだ。が、すぐに顔色を曇らせて、「ですが……」

 彼女の目線の行き先は、今回の探険のために碧が拝借した小船だった。いま、そこに乗組員の姿はひとりとして見えない。

 高村と奈緒は、どこを探してもいなかった。



 ※



 一人乗りのジェットコースターというものがあれば、こんな具合に違いない。
 奈緒は間近に迫っては遠のいていく地面や天井や壁を見送りながら、何者かの手によって運搬されていた。乗り心地は当然のように最悪で、特に曲折するたび首には甚大な負荷がかかる。けれど文句のために口を開こうとすればすぐに舌を噛んだ。鉄さびの味で口腔を浸しながら、奈緒は非現実感に体と心を預けている。無理に抵抗して手を放されればどうなるか――考えるまでもなかった。
 真暗なトンネルの中を、とてつもない速さで疾駆するのが奈緒の担い手である。明らかな徒歩なのに、乗用車なみのスピードが出ている。
 危険な乗り物の同乗者は他にも二人いる。ひとりは気絶したままの高村恭司であり、もうひとりはどう見積もっても小児としか取れない背丈の低人である。後者は、先刻突然奈緒に攻撃をしかけてきた張本人でもあった。
 奈緒を含めた三人を、たった一人で担ぎながら常識を逸脱した速度で走るのが、あの一瞬で奈緒と高村をさらった犯人だった。
 奈緒も視界を晦まされ一部始終を確認してはいない。しかしエレメントがあっさりと切り裂かれ、防御を突破されたことは感覚を通して知っていた。そうでもなければ、あの状況で奈緒の体に触れることができるはずはないのだ。
 体感としては数分、実際には恐らく数十秒、不条理な強行軍は続いた。終着を教えたのは丸い穴から射し込む黄金色の光だった。ずいぶんと久方ぶりに触れる気のする陽光である。安堵には程遠い心地ながら、奈緒は心構えを引き締めた。御者がどこまで走るつもりかはともかく、永遠に止まらないはずはない。
 潮風が全身に吹きつけた。べったりと髪にまとわりつく質感は奈緒の嫌いなものだったが、澱んだ穴蔵の臓腑よりははるかに爽快な相手である。
 始まりも強制的ならば、降車も荒々しいものとなった。奈緒が船で連れ込まれた個所からは山の中心から見て同心円上にある、浄水施設へと通じる水門の目の前で、体ごと放り出される。整備のためか、人の出入りはどう考えても頻繁でないにもかかわらず、舗装された山道が山の外縁をぐるりと、大蛇がとぐろを巻くようにして伸びており、門はちょうどその終点なのだった。
 既に半ばを水平線に没しかけている太陽の光線は橙色だった。木々が伸ばす梢の隙間から染み出した残照が、その腕の中できらめく塵埃を遊ばせていた。
 夏の宵に相応しく、蜩が夜を歌い始める。
 奈緒が対峙するのは、二人の少女だった。どちらも顔立ちや特徴に異国の情趣を見いだせる。ふたりは黄金と白銀の髪をそれぞれ持っていたが、今この時間の中で、彼女らの色相は黄昏色とでもいうべき見目に彩られていた。
 二人組のうちせいぜい初等部の低学年にしか見えない金髪の少女は、不安そうにぼろぼろの高村に専心している。残る一人、奈緒と高村をあの場から連れ出した少女は、まるで意思というものが見取れない乾いた瞳で、草場に腰をつく奈緒を睥睨、否、観察していた。

「アンタたち……」

 どう続けるべきか判らずに、奈緒は口ごもる。まったく昨夜から、望んでもいない出来事が次から次へと舞い込んできており、常と違い今の奈緒は、まるきり事態に巻き込まれるばかりの立ち位置だった。対処を迫られる受身は彼女の流儀ではない。ペースを乱された原因は、手ひどく痛めつけられ半死半生の身だ。
 ともあれ、奈緒のスタイルは明快だった。乱入してきたこの二人は、決して友好的な態度ではない。どころか、明らかに普通の人間ですらない。そんな相手に対して結城奈緒が取るべき行動はひとつしかない。

「何か、用でもあンの、アタシに?」頬に添えた手が、武装をまとった。洞窟内では鈍かった反応も、この場ではいつも通りだった。
「話が早い」銀髪の女が無表情のままでいった。「結城奈緒。使い魔を召喚しなさい」
「ツカイマ?」聞き慣れない単語だった。
「貴女がたの呼ぶチャイルドのことです」

 女が、左手をかざす。かぎ爪のようにたわめられた指先に奈緒が見た印象は、凶器だった。連想を裏付けるように異変は起きた。夏服の袖から伸びる柔肌の表面に、幾何学的な紋様が浮かんだのだ。

「お嬢さま、よろしいですね」背後の少女を顧みて、女が問う。
「いいわ! 早くして!」少女がハンカチで高村の顔を拭いながら答えた。「すぐ、お兄ちゃんの手当てをしなくっちゃ大変だもの!」
「オニイチャン?」渋面を浮かべて奇怪な呼称を反復する。またぞろあの男の関係者というわけだ。奈緒はうんざりと嘆息した。「アンタら、そこのバカの知り合い?」
「なんて失礼な人かしら」少女が頬を膨らませて憤慨した。「ミユ! てかげんしちゃだめよ!」
「心得ております」女は軽く肯いた。

 付き合ってられるか。
 内心で毒づきつつ、チャイルド・ジュリアを実体化させた。奈緒自身の疲労はともかく、ジュリアに関しては高村との揉め事を経ても無傷だ。彼女の全能はいまだ何ひとつ損なわれていない。
 厄日のしめくくりにくらい、帳尻を合わせても誰も咎めはしないだろう。どちらにせよ、売られた喧嘩だ。買わない手はない。
 口元を好戦的に吊り上げて、いつでも応戦できるよう意識を鋭くした。
 ほどなく蜘蛛がその威容を露わにした。
 対峙する女は、朱に濡れる異形の装甲を前に眉一つ動かさない。

「ビビんないね。あんたもHiME?」眉を集めて奈緒が問う。
「いいえ。ですが、貴女が答えを知る必要はない」と、女は告げた。「予定通り、貴女には最初の供犠となってもらう」

 ――左手が剣に換わる。



 ※



「さようなら。いずれイダヴェルの黄金の夜明けで、まみえることもあるでしょう」

 深優・グリーアは、宝石色の瞳に太陽の映し身を閉じ込めて、アンチマテリアライザーを起動した。





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