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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン 前を表示する / 次を表示する
Date: 2006/08/02 20:46


ワルキューレの午睡




2.She spider






 結城奈緒が力を手に入れたのは、風華学園に転入してきて間もない頃の夜だ。
 浮かれていたし、解放感に満たされてもいた。一抹の気がかりは常に心にあったが、遊興にふければそれも忘れる事ができる。なにしろ彼女の夜はとても長かった。
 無条件で特待生として招きたい――いったい自分の何が琴線に触れたのかは知るよしもないが、よりによって名門の風華学園からの誘いである。書類を手に現れた学園の遣いを名乗る男に目を丸くして、彼女の保護者はししおどしみたいに頷き、了承のサインを預けた。
 兵庫と四国のはざまに浮かぶ片田舎でも、今の環境から逃れられるなら忍耐も苦ではない。奈緒ははじめそう思っていたのだが、新しい環境は思ったよりもずっと刺激に満ちていた。新しい部屋に新しい学校、そして新しい街。取り澄ました理事長を名乗る子供には胡散臭さをおぼえたが、ぶらさげられた好条件の前に、その程度の違和感はなしの礫だった。
 寮が相部屋なのは残念だったが、堪えることはできた。同室の上級生が奈緒に必要以上の干渉をする性格でなかったのも都合が良かった。
 問題となったのは遊ぶ金だ。親元からの仕送りもない身では、ろくに買物もままならない。月三万円の奨学金など、一度の買物で消し飛んだ。手軽に稼ぐ方法を彼女はもちろん知っていたが、実行するつもりはまるでなかった。男を相手に体を使っての『取引』など冗談にもならない。一部の同級生や街で知り合う女はじっとしてればすぐ終わると嘯き自らの低能を露呈して、奈緒はすぐに彼女らから離れた。同類と見られるのは我慢がならなかった。群れるのも元々性に合っていなかった。奈緒はこう思っていた。仮に男から金を得るのであれば――
 それは搾取でなくてはならない。
 しかし、腕力で圧倒的に勝るのが男だ。少女でしかない奈緒に、男を蹂躙することはかなわない。その逆は充分起こりえるのに、である。
 不公平だと思った。
 その現実を打開する方法は、独力では恐らく、ない。
 結果としていかに上手く、コストを最小限に調節しつつ男に金を出させるかが暫時の課題となった。しかし幾度か危い目に遭う内に、だんだんと街へと向く足も鈍り始める。彼女の長い夜は倦怠の一色に塗りつぶされそうになっていた。
 そんな折、怪物に出会った。
 比喩ではない。真正の化物だ。
 持ち合わせもなく風華町と月杜町の狭間をさまよう奈緒の前に、それは現れた。
 男でさえ手に余るのに、仰ぐほどの巨体を有する相手に抗えるはずもない。奈緒は一も二もなく逃げ出した。しかし怪物は奈緒を追ってきた。道々には他の通行人もいたにもかかわらず、怪物は彼らは襲わず――それどころか、余人の目には見えていないようですらあった。

「このままじゃ食べられちゃうよ、奈緒ちゃん」

 息せき切って駆ける奈緒の前に、いつの間にかそれはいた。闇夜に目立つ白髪を立てた、小柄な少年だった。民家の石塀の上に佇み、彼は告げてきた。

「力を使うんだ。キミにはその資格があるんだよ。さあ、このままじゃオーファンの餌食だ。獲物になるなんてそんなの、キミはイヤだろう? ぜったいに御免だ。そうだよね――」

 少女は年下と思しき少年に助けを求めたが、彼は飄然微笑むばかりだった。

「キミを救う力はキミ自身の中にある。億劫な時間の中でまどろんでいたけれど、今は目ざめつつある。さあ、立ち向かって。そして思い浮かべるんだ。キミには大切なものがあるだろう? 掛け替えのない、自分の命なんかじゃあがなえない、そんなモノが、あるだろう?」

 ないわよ、そんなもの――。

「嘘だね。奈緒ちゃん、嘘はいけないよ。それとも気づいていないのかな?――ま、どちらでもいいよ、どちらでもキミは守らなくちゃいけないんだ。何を引き換えにしてもそれを守らなきゃいけないんだ。誓えるかい、奈緒ちゃん?
 ――大切なヒトを守るために、自分の一番大事なモノ、賭けられるかい?」

 後に思うに、あれは悪魔との取引だったのだ。
 しかし、すぐそばには命の危険が迫っていた。
 
 結城奈緒は承諾し、そして退屈な夜に君臨する力を得た。
 

 ※


 赤、青、黄色。夜にだけ咲くけばけばしい電飾は、獲物を招く食虫花の極彩色めいていた。男たちはその花の匂いにふらふらとつられ、束の間の幻に浸り無聊を慰める。無為だが、代償は二束三文で済む。実に手軽な発散行為といえるだろう。
 今夜も街のどこかで、気の大きくなった誰かが笑声を弾けさせていた。

「――うるさい」

 結城奈緒は毒づいて、目元を歪めた。
 馬鹿な男の下卑た笑い声は、昼間の蝉しぐれよりも耳障りだと奈緒は常々思っている。男という性からしてほとんど憎悪しているといっていい彼女だが、その中でも取り分け忌むのは不細工と低能と、そして勘に障る笑い声の持ち主だった。
 時計代わりに使っている携帯電話の液晶を見れば、時刻は二十一時に差しかかろうとしているところだ。補導員が警邏を始める時間帯が近づいても、奈緒は特に気にかけなかった。通っている学園の制服を着たままの彼女などは格好の餌食だが、たとえ見咎められたとしても、なんとでも切り抜ける自信はある。

(今は、それよりも)

 繁華街に連れてきた友人の首尾が問題だ。
 今夜は六月に入り本格化した梅雨の貴重な晴れ間だったが、蒸し暑さは普段より増している。襟元に風を送りながら奈緒は目を細め、友人……美袋命という名の、一風変わった転入生が向かった通りを見やった。
 ここ数日で、彼女らは何度かの『共同作業』をこなしているのに、誘い方ひとつとっても命には慣れが感じられない。おそらく、絶望的なまでに向いていないのだろう。奈緒にもそれはわかっていたが、面白いのであえて命にその役目を振っている。
『狩り』に他人を、ましてやクラスメイトを同行させるなど、奈緒にとっては異例のことだった。
 生き別れの兄を探しているという野生児然とした命は、素行の異常さから早くもクラスでは浮き始めている。当初は風変わりでも表情豊かな命は可愛がられていたが、一学期も終わりに差しかかろうという今では、彼女の『天然』ともいうべき性格に、徐々に〝退いて〟しまうものも多かった。
 命に身寄りがいないことは、寮通いの生徒も多い風華学園ではそうマイナスに働くこともない。遠ざけられるのは単にその奇怪なパーソナリティからだ。他人と関係を結ぶ場合、特に友好的な繋がりを求めるのなら、相手が期待するとおりの自分を演じる必要がある。少なくとも奈緒はそう確信している。他者は全て加工された鏡に過ぎない。自分がどう映っているのか――自分にどうしてほしいのか――自分の望みをどう満たしてくれるのか――『友人』というカテゴリが内包する属性はそういったもので成り立っている。
 だから、〝足りない〟のだと一部で囁かれるほど天真爛漫な命には、たとえ本質がどうあろうとそのように振る舞う事が求められていた。元気で愛らしく、ものを知らない美袋ミコトは、仔犬や仔猫のような無知さと愛嬌だけを周囲に示していればよかった。
 だが命は、明るく活発なだけの少女ではない。常に背にある奇妙な剣と同じく、暗色の鋭さを帯びるものである。本質には昏い孤独のうろがとぐろをまいている。明確ではなくとも、奈緒は命からそういったにおいを嗅ぎ取っていた。おそらくは、命から距離を取り始めたクラスメイトも同じだ。
 転入からじき二ヶ月が経つ。そして美袋命という少女はまれに抜き身の刃じみた鋭さと凶暴性をのぞかせる人間だと、共に机を並べる彼女たちは気づきだしていた。彼女は無垢な小動物などではなく、あくびが多いだけの獅子なのだと悟りだしていた。
 つまりは、美袋命は愛玩するには手に余る存在なのだった。
 結果として、命は当然のように敬遠され始めた。
 奈緒と他のクラスメイトの差異は、命が持つその危さを受容できるか否かだ。
 さらに、奈緒と命の間にはもうひとつ共通点があった。二人が休日まで共に過ごすようになったきっかけも、同じものだ。

「……つーか遅い。なにやってンだか、あの子」

 待ちくたびれて、奈緒はモニュメントにもたれるのを止めた。舌打ちして、待ち合わせ場所にもよく使われている広場一帯を品定めするように見つめる。視線にはわずかに苛立ちが宿っていた。命が手間取るのもいつものことだ。しかし三十分近くも手持ち無沙汰にしていて、自分に声をかける男がひとりもいないのは妙だった。

(ここんとこ、派手にやったからなぁ)

 県につながる大橋さえなければ、ほとんど離島に近い風華市である。奈緒が繰り出す月杜町は地方都市の繁華街としては栄えているが、充分に広いとは言えない。また平日の夜に街に出て遊ぶような人間は、半分以上が変わり映えしない面子だ。奈緒自身は通行人の顔など覚えていないが、他の人間がどうであるかはわからない。
 奈緒は美しい少女だった。
 翻ってそれは彼女が目立つことを示している。〝遊ぶ〟ときには容姿に気をつかうし、流行を追う機微も備えている。田舎町には不釣合いな逸材だとも自認していた。迂遠に誘導して問うまでもなく、余人も同じ評価を下すだろう。しかも名門とされる風華学園中等部の制服に身を包んでいる。結城奈緒には、人目を引く要素が十二分にあった。
 そんな彼女が夜毎繰り返す行為を知っている人間は、十人や二十人では足らなくなっているかもしれない。

(ハシャぎすぎたカナ、こりゃ)

 反省する。浮かれていたことは否めない。しかし自制する気は欠片もなかった。これから気をつければいいだろう。
 嘆息した矢先、低い排気音が奈緒の耳に届いた。
 聞き覚えがある気がした。首を巡らせて音源を探すと、すぐに車道で信号待ちにあっている大型の単車を発見した。ドゥカティだぜ、と近場の少年が口笛を吹いて指差している。奈緒にはなんのことだかわからないが、恐らくはバイクの名前なのだろうと推察した。

「すげえ。あれ乗ってるの女じゃね?」

 全身を覆うライダースーツが浮かばせる肢体のラインが、運転手の性別を教えている。
(なにアレ、こんな真夏に。超ムレそう……)
 やや呆れながら、奈緒は換気のためかフルフェイス・ヘルメットを脱ごうとしている女の顔を拝んでやろうと目をすがめた。男勝りに大型の単車を乗り回すような女だ、どうせブスに決まってる。偏見でそう決め付けた。
 すぐに間違いだと思い知らされた。ヘルメットの下から現れたのは、髪の長い、控え目に評しても綺麗な、若い女だった。通りすがった男も、感嘆の息を漏らしている。
 その物憂げな瞳にも小作りの目鼻立ちにも、奈緒は知っていた。学年はひとつ上で年齢はふたつ上の、同じ学園の高等部に在籍する有名人だ。
 名前をたしか、玖我なつきといった。
 容姿も成績も周囲から頭ひとつ抜けているにもかかわらず、遅刻欠席早退の数がそれを帳消しにして余りあるほどであるため、学内では悪い意味で噂の絶えない少女である。中学に上がる前に留年しているという話もある。風華学園の規模は県内どころか全国でも有数だが、毎日大型の二輪で重役出勤をはばからない才媛がいれば、話題にあがるのは避けられない。

(たっかそうなバイク乗り回しちゃって……夜のツーリングってワケ? だったら海岸の方にイケっつーの)

 ろくに言葉を交わしたこともないが、奈緒はなつきを嫌っていた。かつてなつきに告白した男子生徒がふられた折に見物した、けんもほろろな態度が気に障ったのだ。
 水晶宮と呼ばれる学園の名物ターミナルでの一幕は、ある時期ちょっとした語り草にまでなった。半ば形骸化しているとはいえ今どき不純異性交遊の禁止を掲げる学園で、白昼堂々問題児の玖我なつきを呼び出し告白を敢行した男に対する、女の答えはすげなかった。

『おまえ、校則を知らないのか? この学園で恋愛はご法度だ。どうしても恋愛がしたいのなら、転校なりなんなりしたほうがいい』

 ピントのずれた断り文句に対して、校則を理由に自分を振るのかと、男は食い下がった。

『ちがう。そもそも、わたしにはそんなことをしている暇はないんだ。知らなかったか? 知らなかったのなら、おぼえておけ。――今後は他をあたるんだな』

 男に特に思い入れがあったわけではなく、ただ玖我なつきという女に嫌悪を感じた。男口調が鼻についた。さりげなく装われたアクセサリの高価さに反感をおぼえた。優れた容姿、能力、環境を与えられたもの特有の傲慢さと、であるにもかかわらず追い詰められたかのような雰囲気をまとっているのも、気に入らない。

「ん?」

 奈緒の視線を気取ったように、ヘルメットを被りなおしかけたなつきが、冷めた目を返してきていた。広い額にかかる柳眉は軽くひそめられている。制服姿を見咎めたのだろう。
 奈緒は冴えた眼差しを悠揚と受けとめた。可能な限り相手を不快にさせる表情作りにつとめながら。
 交錯は数秒にも満たない。なつきはすぐに小さく鼻を鳴らすと、関心を失ったかのようにヘルメットを装着した。信号が蒼いダイオードを発光させていたのだ。
 奈緒もそれ以上はなつきには構わず、踵を返して歩き出す。
(お)
 その進路に、若い男が立っていた。童顔に眼鏡がやや不似合いな、年ごろは最大でも二十歳そこそこといった雰囲気の青年である。顔立ちは悪くないが、ファッションはいわゆる街で遊ぶ人間のそれではない野暮ったいものだった。実体はともかく、外面から軽薄そうな印象は受けない。いつもは声をかけるのを避けるタイプだ。
 しかし、男の目線は目の前の奈緒ではなく、その背後へ向かっていた――バイクに跨った玖我なつきが停まっていた場所に。
 趣味とは違うが、あやをつける理由としては充分だ。
 奈緒は意識せず舌で唇を湿らせた。
 もう、命を待つ気は失せていた。

「お・に・い・さん」

 声をかけると、驚いた風もなく男の眼は捉える対象を奈緒へと移した。しかし呼ばれたのが自分だとは思っていないらしく、そのまま素通りしようとする。奈緒は男のジャケットにわずかに触れて、再度しなをつくり囁いた。

「もう、無視なんてひどい。おにいさんだよ、いま、アタシが呼んだの」
「え、俺? なんで?」

 男が目を瞬き、足を止める。すかさず距離を詰めて、しかし体は触れないようにつとめつつ、奈緒は上目遣いに男を見つめた。

「いまぁ、チョッとヒマなんだよね。よかったら遊んでくれません?」
「……もしかして逆ナンってやつ?」
「ヤだ、そんなんじゃないですヨ。ちょっと遊ぶだけ。でも、お兄さんならいいかもー」
「あ、ありがとう。でも」

 言いかけて口をつぐんだ男が、まじまじと顔を寄せてくる。

「きみ、前に俺とどこかで会った?」
「――へ?」

 演技を忘れ、奈緒も眼前の顔を見返した。ひょっとしたら以前に『援助』してもらった男かも知れないと思ったのだ。
 しかし、心当たりはなかった。

「ない、……と思うけど。なに、それ。口説き文句にしては古くなーい?」
「いや、そういうんじゃないよ。おかしいな。気のせいか」
(ありゃ。コイツはハズしたかぁ?)

 本気で首を捻る男に内心で眉をひそめながら、愛想笑いを浮かべる。

「お兄さん、おっかしいんだ。そんなのいーからさぁ、ね? ちょっと遊びに行こうよ。すぐ近くに、いい場所しってるんだぁ……」
「あ、ちょっと」

 半ば強引に腕を取った。体をぴったりと寄せて、小振りな胸を擦り付けるのも忘れない。多少食いつきが悪かろうが、人気のないところまで誘い込めば目的は果たせる。
 普段ならば連れこむまでの駆け引きも遊びの範疇だったが、玖我なつきへの苛立ちが尾を引いているせいか、この夜の奈緒には趣向を凝らすようなつもりは毛頭なかった。

「きみ、中学生だろ」

 優柔不断なのか、ずるずると引きずられながら、男が咎めてくる。奈緒は笑ってその険を受け流した。

「うん、そう、チューガクセー。お兄さん、若いのは嫌いなの?」
「中学生に限らず、年下全般、正直萎えるよ。……いや、そういうことじゃなくてな。ってか手! 離してくれないか?」
「だぁめ」

 広場脇の小道を折れて、並木の陰に隠れるように歩いていく。駅の近辺と繁華街は開発が盛んなだけあって、夜となれば人気の少ない工事現場がいくらでもある。奈緒は月杜町に点在するそれらの空白部分をほとんどおぼえていて、しかも頻繁に利用していた。なぜかといえば――

「そうお堅いこと言っちゃいや。ね、ここで、イイコトしてあげるからサ」

 掲げた手に、敵意の思念を纏わせる。間をおかず指先から腕にかけてが、熱い感覚に浸された。
 またたきの後、男に突きつけられた奈緒の右手には、金属質の鋭利な爪が出現していた。

「え?」

 呆然とした声。ほくそえんで、奈緒は舌を手の甲に這わせる。

「ちょ、っと。なんだそれ? 爪か? いま、どこから出した?」
「アンタには関係ないから」

 声をつくることをやめて、爪は逸らさないままに男の体を強く押す。
 が、びくともしない。触れた感触は厚いゴムのようだった。
(こんな顔で、意外と鍛えてる? ま、アタシには関係無いけど)

「関係ないって……危ないって! ちょっと刺さってる、刺さってるから!」
「うっさい。黙れ。とりあえず、財布。出してよ」


 ――こういった用途のために、うら寂しい場所は必要だったのだ。
「じゃないとザックリ、イッっちゃうよ?」
「うわっ、待てって! 血! 血が出る!」

 首筋に軽く凶器を刺された状態で、男が降参だというように手を上げた。

「だから嫌だっていったんだよ。よりによって美人局かよ……しかも単独で。怖い兄ちゃんが出てくるくらいのことは覚悟してたけど、まさかフレディもどきにカツアゲされるとは思ってなかった……」
「ああ、あの映画けっこう好き。ストライプいい感じだよね。……でもゴメンねェ、普段ならもうちょっと余裕っていうか、遊んであげてもよかったんだけど。今日アタシ、ちょっとムシャクシャしててさ」

 軽薄に笑って、手甲の指先から鋭い棘を伸ばす。

「運が悪かったって諦めて、ウサ、晴らさせてよ」
「――わかったよ。金を出せばいいんだろう」

 ぶつくさ呟きながら、懐から平べったい財布を取り出す。この素直さには奈緒も一瞬呆れて、

「おっと」
「あ、」

 男の手から財布が滑り落ちた。
 落下する物体を、瞳孔は追ってしまう。それは生理的な反射だ。
 瞬間に、奈緒の手首は拘束されていた。
「え――?」
 俯いた頭を押し下げられる。体勢が崩れ、腰が折れる。上方からのベクトルが膝にまで達したとき、男を牽制していた右手は、関節を極められていた。手首、肘、肩甲骨までが、円滑な連動によって掌握される。骨と筋肉が軋むのを感じながら、痛みから逃れるべく奈緒は身をよじらせる。
 そして宙に舞っていた。
(はァ!?)
 男に掴まれた右手が、人形の操り糸のように肉体を翻弄する。足は空へ、頭は地へと向かう。見る間に迫るアスファルトを前にして、奈緒は自由な左手で顔をかばった。
 肉薄する衝撃と痛みを予感して、目を瞑る。
 ――しかし、いつまで経っても何も起こりはしなかった。ただ、頭上から声が降ってくるばかりだ。

「……女の子を顔からは落とさないよ、いくらなんでも」

 はっと目を遥か上へと向ければ、男の手はいつの間にか奈緒の踝へと移動していた。逆さ吊りの体勢で、奈緒の体が地面に激突しないように保持している。
「こんッの……!」
 屈辱に激情が火を吹いて、奈緒は自ら地面に手をついた。腕を交差させ、体を旋廻させる。回転が男のいましめを弾き、奈緒は距離を取って立ち上がった。
 軽業師の所業だ。男は驚きに目尻を裂きながら、奈緒の顔を見つめた。

「すげえ運動神経」
「……ハン、今ので落としておけば良かったのにネ。損しちゃったよ、お兄さん。フェミニズムだかなんだか知らないけどさァ、――パンツ覗きながらブってんじゃねェっつーの!」
「口悪いな、おまえ。もしかしなくても、そっちが地だろ」

 落ちた財布を拾う、男の声音は強張っている。太股にズボンの布地を皮膚ごと裂いた、大きな傷が生まれていた。離れる瞬間、奈緒が爪で掻いたのだ。
 痛みにか傷つけられた事実にか、男の顔がしかめられる。

「いきなりかよ。人の一張羅、台無しにしてくれた。弁償ものだぞ」
「知るかよ、そんなこと」

 左手にも鉄爪をまとわせつつ、奈緒は嗜虐の興奮に打ち震えた。そして、

「次は一生消えない傷、作ってアゲル。――ジュリア!」

 召喚の声に、空間が慄えた。同時――
 男の表情が、愕然としたものへ変じる。目先は奈緒からその背後、さらに巨大なものへと向かいつつあった。
 奈緒も半身に振り返り、己が『子(チャイルド)』を誇る。
 三メートルに届く体長。蜘蛛を模した腹部からは鋭い節足が伸び、その中央には彫像のような女性の上半身が屹立する。
 紛うことなき異形の被造物が、寸前まで何も存在しなかった空間に、鎮座していた。
 乾いた声が、怪物の名を呼んだ。

「絡新婦(ジョロウグモ)……?」
「なに、それ」
「……妖怪の名前だけど、知らない?」
「知らなぁい。興味もなァい」

 軽やかに笑む。男がふっと嘆息した。今のやりとりで、多少なりとも混乱からは脱したようだった。深呼吸を言葉の合間にはさみながら、すり足で奈緒から離れていく。理性的な判断だ。奈緒は嬉しくなった。彼女のチャイルド――ジュリアを間近で見せ付けられた男は、大抵萎縮して動けなくなるか、錯乱しながら立ち向かうか――あるいは逃走といった、衝動的な対応に走る者がほとんどである。
 今夜のように、ジュリアではなくあくまで奈緒こそが脅威なのだと見抜くのは、稀なことだった。

「こんなことやってないで、ちょっとは本とか読んだほうが良いぞ」
「……余裕ジャン。漏らしそうなほどブルってるくせに」
「そりゃそんな蜘蛛見たら普通怖い。……しかし、アナ・ジョンソンの歌みたいな子だな」
 苦笑いの浮かぶ唇も、やや引きつっている。その名前は奈緒も知っていた。こちらは対照的に余裕の微笑で混ぜっ返す。
「いいこと言うじゃない。そ、だからわかるでしょ。ザ・ウェイ・アイ・アムってわけ」
「曲解だろ、それは」

 男はじわりと後退する。瞳は忙しなく左右に動き、どうやら逃げる機を窺っている。
 ここまで来て、逃がす手は無論ない。
「そうなの? ま、どうでもいいわ。それじゃあジュリア――」
 食べちゃいな――そう指示を下そうとしたとき、場に新たな声が割り込んだ。

「そこまでだ」



 涼やかな声だった。目をやれば、通りへと続く小道に、ライダースーツを着込んだ髪の長い女が佇んでいる。瞳は射抜くように奈緒と男を捉えており、両の手には二人それぞれに照準を合わせた小型の拳銃のようなものが握られている。
 見覚えがある闖入者の名を、奈緒は咄嗟に口にした。

「玖我、なつき?」
「ああ、わたしを知っているのか。そういえばその制服、中等部のものだったな」

 おもちゃのような銃口は微動だにしない。奈緒も迂闊に動けない。男は黙したまま苦りきった顔をなつきに向けている。

「それ、エレメントだよね。驚いたぁ。玖我センパイもHiMEだったんだ?」
「答える必要があるか?」

 高圧的な視線と射線が、奈緒の細身を貫いている。いつでもその場から移動できるよう重心を変えながら、奈緒は装着した爪の刃を軋ませた。

「……アンタ、いきなり来て、なにいばってんの?」
「先輩が後輩に威張るのは当然だろう? それとも男漁りが趣味の貴様には、そんな常識もわからないか。まあどっちでもいい。今すぐチャイルドを戻して、この場から消えろ」
「ハァ? 何いってんの。意味わかんない」
「見逃してやる、と言ってるんだ。いつもこんなことをしているのか? 正直貴様は気に入らないが、今晩だけならお仕置きは勘弁してやるぞ。いい話だろう?――次はないがな」

 思ったとおりの、いや思った以上にムカつく女だ。奈緒は頬を引きつらせた。

「……つーか、アタシ、そこのお兄さんと楽しんでたんですけどー。センパイってノゾキが趣味だったりするんですかぁ? あっはは、もしかしてそっちの趣味に夢中であんまり学校に来ないんだったりして」
「消えろ、と言ったぞ」

 挑発を無視して、なつきは一歩、その場から踏みだした。
 奈緒の感情が発熱の段階を通り過ぎて、急激に冷却されていく。なつきの一言一句が漏れなく神経を刺激した。蟲にでも齧られているようだ。

「……あたしに、命令すんな」
「怒ったのか? ふん、余裕がないやつだ。だが生憎と、その男はわたしが先約でな」
「なに、もしかして彼氏? 趣味わる――」

 軽口を叩きながら男を顧みようとした。
 ――いつの間にか姿が消えていることに気づいた。
 奈緒の脳裏に、数分前に腕を捻られた情景が蘇る。思考より早く、叫びは口を衝いていた。

「っ、ジュリア!」
 異形の蜘蛛が動き出す。奈緒が飛び退いた空間を玖我なつきの銃弾が穿った。姿勢を低くしながら男の姿を探す奈緒の視界を、黒い影が遮った。

「誰が二回も引っかかるかってぇのッ!」

 影に向けて貫き手を放つ。結果は空振りだった。突き出した手はあっさりと横合いから叩かれて軌道を逸らされている。あげく肘をつかまれ引き寄せられ、体勢が崩れた瞬間に足を払われた。
 呼吸するように容易く奈緒を転ばせた男は、もう奈緒を見ていない。迫り来るジュリアと玖我なつきを鋭い眼差しで睨んでいた。
 バックステップで奈緒の体を飛び越える。その際に男の片手が奈緒の腕をつかんだ。
 引き上げられ、膝を突いた姿勢から、強引に立ち上がらされる。
 男の左手が奈緒の右手を極めて、極められた奈緒の右手は自身の左手を極めていた。
 自分の体なのに、どう固定されているのかすぐにはわからないほど複雑な関節技だ。ぴくりとも動かない。冷や汗が奈緒の背を伝う。

「動いたら、二度と腕が動かなくなるよ」

 囁きは悪い冗談に思えた。構わず抵抗しようとすると――戒めるように、さっきとは比較にならない痛みが奈緒の全身を硬直させる。

「ッ、ぁ、いっ」

 満足に声も出せないほどだった。奈緒は男に盾にされる形で、玖我なつきと自らのチャイルドの矢面に立たされる。
 ――ジュリアは躊躇し、なつきは停まらない。

「退けッ」
(無茶言わないでよッ)

 涙目の反駁は声にならない。
 接近する鋭い眼は、背後で奈緒の腕を極める男へ向かっている。駆け抜ける勢いでなつきは進路を僅かに曲げて、奈緒の右側から鋭い蹴りを放った。
 呼気が漏れ、転瞬なつきの体はバランスを崩していた。奈緒のときと同じだ。一撃を躱され、カウンターで軸足を刈られている。しかしなつきは転倒することなく着地すると、低い姿勢から男に向かって銃口を定めていた。
 銃声は響かない。
 替わりにかつん――と軽い音が空気を叩いた。
 男の爪先が、なつきの手から銃身を弾き飛ばしている。反応してからできる仕業ではない。明らかに相手の思考を読みきった上での動きだ。
 なつきは舌打ちを落とすと、中空にある武器に構わず立ち上がって、残った銃を構えた。今度は確かな銃声が奈緒の耳を打つ。しかし弾丸が男を抉ることはなかった。なつきの銃は腕ごと男の手にいなされて、見当違いの方向へ発砲していたのだ。
 攻防は止まらない。
 半歩右足を引いて半身の姿勢になった玖我なつきは、眉間に皺を寄せている。

「貴様、やっぱり」
「ちょっと待て、えっと……そう、玖我! 話せばわかる!」
「問答ォ――無用だっ!」

 なつきが完全に奈緒の視界から消えた。腕を極めたままの男の背後を取ろうと目論んだのだろう。
(ちょ――そっちでやり合うんなら手離せよっ、このクソ馬鹿!)
 狙いが自分ではないとはいえ、見えない場所から攻撃される恐怖は想像以上のものだった。満足に動くこともできないとなれば尚更だ。下手をすればなつきの攻撃の勢いで腕が折れてしまうかもしれない。
 だが予想に反して、震動は下からやってきた。
 正確には地面が震えたのだ。奈緒はそう錯覚した。コンマ一秒も遅れずに、空気が破裂するような音が聞こえた。男の足が地を踏んだ音だとは、考えつきもしなかった。

「あ、まずい」

 頭の上で空気が抜けたような声がした。首を関節の稼動限界まで酷使して、男の向こうを視界に納める。
 数メートルも離れた場所で、玖我なつきが倒れていた。体をくの字に折って、悶絶している。
(……コイツがやったワケ?)
 少しだけ愉快な気分が、奈緒の苛立ちを癒した。鼻持ちならないクールぶった女が、表情を崩して苦しむ様は見物だ。

「だ、大丈夫か、玖我」

 自分で吹き飛ばしたのだろうに、男が弱腰で呼びかける。
 顔面に脂汗を浮かべたなつきが、凄絶な笑みを浮かべて上体を起こし始めていた。両手は腹部を押さえている。恐らくそこを打たれたのだろう。

「ま、だまだ……ッ」

 かろうじて立ち上がるが、膝はタップでも踏むかのように震えていた。
「最近の女の子、逞しすぎるぞ……」
 戦慄したのか、腕を拘束している男の手がわずかに緩んだ。機を逃さず身をよじって、奈緒は叫ぶ。
「――ジュリアっ」
 身動きを封じられていた絡新婦のチャイルドが主の求めに応え、節足のひとつを突き出した。狙う先は無論、男だ。
「とっ」
 目ざとく動きを察知した男は素早く奈緒から手を離すと、転がるようにジュリアの一撃をやり過ごした。片手間になつきを相手にした手際に比べると、幾分無様に見えた。
 体勢を立て直した男を前に、奈緒は獰猛な笑みを浮かべる。

「好き勝手、ヤってくれたじゃない」
「そっちが吹っかけてきたんじゃないか」

 取り合わず、奈緒は爪――エレメントと呼ばれる武器に、思念を込める。
 男は素手での戦いに関しては相当な実力を持っていると、この期に及んで分析できないはずはない。しかしやりようはいくらでもあった。一度離れてしまえば、奈緒とジュリアの敵ではない。
 踏み出しかけた足下で、甲高い音が炸裂した。
「……相手が違う、ぞ」
 玖我なつきだ。震える脚を腕で無理やり押さえ込みながら、覚束ない手つきで銃を構えている。声にも張りが欠けていた。
「玖我、無理するな。立ってるのも辛いはずだ」
「黙れ……一番地の、犬、め……」
「だからなんなんだよ、それは」
「とぼけるな……! 証拠は上がってるんだ……五月の頭に、貴様があの娘をこちらに寄越したんだろう……?」
「あの娘って、まさか」
「……あれも、HiMEだった。まさか知らないとはっ、……言わない、だろうな」

 男が僅かに眉をひそめた。対してなつきは顔面を蒼白にしながらも、視線を決して緩めない。

「無理して喋るな、玖我。何度も言うけど、俺はおまえが何を言ってるか、わからない」
「はぁ、お……大方外部捜査員か、ひ、HiMEを輸入するための末端だろうが、……ようやくつかんだ連中の尻尾だ。に、逃がして、たまるか……」

 感心と呆れを半々に、奈緒は興を削がれた不平を漏らした。

「……頑張りますね、センパイ。何の話か知らないけど、邪魔しないでほしいんだよね。それとも先にトドメ、刺してほしいのかなぁ?」
 しかしなつきは、あくまで奈緒に取り合おうとしなかった。
「邪魔、だ」
「ふーん。……それならそれでもいいよ、あたしは。せっかくお互いこんな便利な力、貰ったんだし。弱いものイジメばっかりじゃツマんないもんねェ? HiME同士のバトルってのも愉しいかも――。じゃ、ほら」

 空間を爪弾く。陶酔が身を焦がしていく。
 艶笑が、奈緒の面を彩った。

「呼んでみてよ、アンタのチャイルド――」

 なつきは蒼白な顔で、しかし不敵に笑う。

「――望む、ところだ」

 ジュリアが哭く。
 男が身構える。
 奈緒は期待と緊張に打ち震える。
 そして、なつきの口から吐瀉物が撒き散らされた。


 ※


「…………うわ」
「…………うわぁ」
「おるろろろろろ……」

 散々堪えた果てでの決壊なのか、なつきの口から逆流する未消化物の勢いは止まることを知らぬかのようだった。えずき、呼吸ができずに苦しげに喘いでは咳き込んでいる。慌てた男がなつきのそばに寄って、背をさすり始めた。弱々しい手が拒絶を示すが、取り合われない。
 湿った音と同期して、見る間に地面に広がる汚物から目を逸らして、奈緒は唾棄した。

「……っざけんなよ。あァーあ、一気に白けた! ゲロ女となんか汚くて付き合ってらんなぁい」
「く……だったら、さっさと帰れ……」

 一息ついたなつきが介抱していた男を突き放す。その顔色は蒼白だ。

「言われなくてもそうするよ、ヴァーカ」

 二人を尻目しながら、背を向けた。
 鈍い打撃音と素っ頓狂な声が耳に届いたのはその直後だ。

「み、美袋!?」
「……おお、恭司か?」
「ミコト?」

 振り返れば、いったい今までどこにいっていたのか――美袋命が抜き身の長剣を手に立っていた。足下には、どうやら命に一撃されたらしい玖我なつきが昏倒している。
 尻尾があれば喜んで振り出しそうな顔のクラスメイトは、男に向かって親しげに話し掛けていた。
(どういう知り合いよ)
 まさか、例の『生き別れた兄上』ということはあるまい。

「ミコト、アンタそいつのこと知ってんの?」
「うん! これは恭司だ、奈緒!」

 くるりと奈緒に向き直った命は満面の笑みで男を紹介してくる。男は困惑顔で命になぜこんなところにいるのかと聞いているが、会話は噛み合っていない。

「……名前はいいから。どういう知り合いなのかって聞いてンの」
「恭司は教師だ。そして友だちだ!」
「――は?」
「先生でも良いぞ!」
「え?」
「恭司、明日から同じ学校なんだろう?」
「まあ、教師と生徒だけど……そうなるな」
「え――ちょっと待って」

 まず、男を指差す。

「教師?」
 男は頷く。
「もしかして、風華の?」
 男は頷く。
「マジで?」
 男は頷く。
「……はぁ? ワッケわかんない……」
 頭をかきむしって、奈緒は顔をしかめた。
 今夜は何の収入もないことに気づいたのだ。

 ※

『遅い』

 呼び出し音を経由していない上、開口一番がこれだった。声音からはまったく判断がつかないが、たいそう不機嫌であることは理解できる。
 高村恭司は、素直に下手に出ることにした。具体的には、携帯電話に向かって頭を下げたのである。

「ごめん。色々あったんだよ。暴漢に襲われたり」
『お嬢様が寝てしまわれました。そんなことがいいわけになるとお思いですか』
「……怖いから平坦なトーンで凄まないでくれ。気分を悪くした生徒を家まで送ってたんだよ、仕方ないだろ」

 実情はほとんど泥酔した同僚の介抱だが、嘘ではない。

『正式な赴任は明日以降のはずでしょう。なぜもう生徒と関係を持っているのですか?』
「その言い回しはやめろ。……たまたまだよ。街を歩いてたら、たまたま」
『失礼ですが、貴方にはいまひとつ我らの同士としての認識が足りないと思います』
「じゃあいいよ、同士じゃなくて」

 途端、スピーカーが沈黙した。息づかいさえ聞こえない、全くの無音である。

「……おい?」

 怪物が潜むという深淵を覗いている気分になって、高村はあっさりと降参した。

「すいませんでした。なんかお土産でも買っていきます」
『――でしたら、お嬢様はチョコミントのアイスを好まれるでしょう』
「えー。コンビニに売ってないぞチョコミントなんて――って黙るな黙るな。わかったよ、探して買ってくるよ! あぁ、もう……切るぞ」
『なるほど。……お嬢様のおっしゃった通りですね』
「え?」
『私が電話中に黙れば貴方が素直になるだろうと』
「……へえ」

 苦笑を顔の見えない相手に伝えるにはどうすればいいのだろう、と高村は真剣に思案した。

『素直なのは大変素晴らしい事です。それでは、明日からよろしくお願いいたします、――高村先生』

 『それとチョコミントも』と言い残して、回線が遮断される。
 嘆息の反動で、頭上の月と、まだ小粒な紅い凶星を仰いだ。

「媛伝説ねえ」
 
 夏の濁った空気の中を泳ぐように、家路を急いだ。






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