2001年12月4日 1800 日本帝国 帝都・東京 市ヶ谷 統帥幕僚本部総長室
現在の日本帝国の軍事を、軍令面で統括する統帥幕僚本部総長である、堀海軍大将。 今や日本帝国軍の全実戦部隊を指揮下に置く、本土防衛軍副司令官の岡村陸軍大将。
「・・・やはり、やるのかね?」
堀大将が視線を投げかけた先に座るのは、日本国内のインテリジェンスの一角を担う、国家憲兵隊副長官である、右近充陸軍大将。
「折り返し点は、とうに地平線の向こうです、総長」
右近充大将の言葉に頷く、岡村大将。 その2人を見た堀大将は、小さくため息をついた。
「・・・半島の甲20号は、今は動きが大人しい。 衛星情報でも、強行侵入偵察情報でも、半島南部はおろか、38度線の鉄原ハイヴ周辺にも飽和BETA群は確認されておらん」
堀大将の言葉は、日本帝国の陸・海・航空宇宙3軍が常時監視を強めている、甲20号と甲21号の最新ハイヴ情報だ。 その地勢条件から、日本帝国軍が最も精緻な情報を得ている。
「佐渡島も、現在は島内表面上に飽和BETA群は確認されてはいない。 衛星と海中からの赤外線・震動波探査からも、ハイヴ内飽和度はレベル3と言ったところだ」
ハイヴ内飽和度は、ハイヴ内の飽和BETA群の個体数レベルを指す。 完全な観測には程遠いが、それでも各種観測データと過去の飽和個体群情報を元に、精度は向上している。
レベル1は『飽和個体群発生直後』、つまり出きった直後で脅威度は最も小さい。 レベル2は6か月以内に飽和が予測される、レベル3は3か月以内に飽和が予測されるレベルだ。
因みにレベル4は1か月以内に、レベル5は・・・前線部隊以外に、第2、第3防衛線配置部隊にも、デフコン1が発令されるレベルだ。
「念の為に第1防衛線へは第9軍(東北軍管区)から第13軍団(第2、第9師団)と、第2総軍の第6軍(東海軍管区)から第5軍団の2個師団(第30、第48)を抽出しました」
これで佐渡島前面の第1防衛線には、第5軍(北陸・信越軍管区)の第8軍団(第23、第28、第58師団)、第17軍団(第21、第25、第29師団)と併せ、10個師団を展開できた。
更に第2防衛線には第7軍(第2、第18軍団=北関東絶対防衛線部隊)の他に、西関東防衛の第4軍団から第13師団を抽出して、万が一に備え強化している。
「・・・18軍団の第14師団は、宇都宮へは帰さず相馬原(帝国陸軍相馬原基地・北関東絶対防衛線の中核基地)に待機させています。
他には松戸の第15師団、江戸川の第3師団。 皇城の禁衛師団は、『向こう』には靡きません。 他には朝霞のCRF(中即団)、予備の独混5個旅団」
「海軍は、如何です? 総長。 事前では・・・」
「横須賀の第3陸戦旅団は、動かせる。 第1艦隊も年次演習から帰投直前だ、明日の明け方には東京湾に入ろう・・・余計なお供を連れてだが」
『制圧部隊』の戦力は、3個師団に6個旅団。 そして即応特殊部隊のCRF。 そして海軍の主力、第1艦隊。 ただし『国連軍太平洋艦隊』、実質は米太平洋艦隊の一部が一緒だ。
「横浜を使わせろ、そう言ってきておるとか?」
右近充大将が、僅かに懸念を滲ませて、堀大将に確認する。 岡村大将からも同様の視線を受けた堀大将は、苦笑交じりに答えた。
「まさか・・・横浜を『差し出す』訳にはいくまい? 一体どれだけの、我が帝国の血税が投入されたと思う? あの計画に・・・」
「では?」
「横須賀だよ。 あそこは旧米軍基地跡を、今は国連軍横須賀基地として運用しておる。 言っておいたよ、『古巣の方が、使い勝手が宜しかろう』とね・・・」
そもそも『AL4』計画は、国連軍後方支援軍集団が統括する組織のひとつ、中央開発団の指揮下に属する基地だ。 日本帝国もこの後方支援軍集団との協議で、横浜基地は運用される。
そして『国連軍』太平洋艦隊の所属は、国連統合軍太平洋方面総軍。 統合軍と後方支援軍集団は共に、軍事参謀委員会に属する同格の組織だ。
「・・・故に、方面総軍、統合軍の頭越しに、後方支援軍集団指揮下の『第4計画日本事務局=横浜基地』に対し、太平洋艦隊が直接、集結地を決定する事など、出来無い話だ」
如何に米国とて、国連内部でそこまで傍若無人の振る舞いは、己の手で己の首を絞めるに等しい。 米国1国だけで、この星を防衛する事は能わないからだ。
そして日本帝国の国連に対する出先機関―――在N.Y.の国連帝国政府代表部もまた、本国の意向を受けて安保理、そして軍事参謀委員会でロビー工作を行った。
それに米国内も一枚岩ではない。 日本も強かに、米国内の別勢力を掴んで、介入勢力に拮抗する程度の謀略合戦は展開しているのだ。
「確か、今の横須賀には・・・3個戦術機甲大隊を基幹に、乙師団相当の戦力が駐留しておりましたな」
右近充大将が、岡村大将を見ながら確認する。
「うむ。 主力の戦術機甲部隊は、統一中華戦線から抽出されている。 他に機械化装甲歩兵大隊や機甲部隊、砲兵部隊などはガルーダスが主力だ」
「つまり、『押しかけ店子』の米軍部隊は、なかなか好き勝手はさせてもらえない・・・そう言う事ですな?」
国連軍太平洋艦隊・・・の名を借りた、米太平洋艦隊。 彼らが国連軍チャンネルで密かに連絡を入れてきたのは、ほんの数日前だ。 行動自体はハワイ出港時から補足していた。
第70-1任務群『カール・ヴィンソン』、第70-2任務群『ドワイト・D・アイゼンハワー』、第70-3任務群『セオドア・ルーズベルト』 3隻の空母任務部隊が主力の打撃任務部隊。
「連中としてみれば、クーデター騒ぎの騒擾に乗っかり、横浜を・・・『第4計画』を接収出来れば、と言う腹なのだろうがね・・・」
「ふむ・・・『国連軍』の介入までは許容しますが。 流石に『横浜』の接収については、かの国も・・・いや、かの国の一部勢力も、勇み足ですな。 そうだろう? 右近充君?」
先任者(堀大将も岡村大将も、同一階級だが右近充大将の先任者だ)2人から話を振られ、右近充大将は少し考える表情をしてから、答えた。
「・・・米議会には、主に保守派を中心に、これ以上の増税を嫌う動きが顕著ですな。 『ティー・パーティ』、保守派の中核層、つまり米国内の中流保守層が反発しております。
横浜の接収を企図しているは、恐らく米軍需産業界の一部とネオコンの流れをくむ一派・・・ネオコンはそもそも、革新派、すなわち民主党の急進派です。 保守共和党とは・・・」
「そこを、CIAのハト派に付け込まれたか。 CIAハト派とDIAは、現状では共闘路線を取りつつあるようだな」
「今回の派兵も、彼らCIAハト派からの事前情報があればこそ。 横浜をゴリ押しする太平洋艦隊司令部に逆ねじを食らわせて、横須賀を押し付ける事が出来た。
恐らくCIAタカ派のスリーパーが内部にいるだろうが、戦力の大半はこちらで便利扱いさせてもらおう。 右近充君、スリーパーについては?」
「残念ながら、そこまで糸は手繰れませんでした。 が、米軍部隊の・・・いえ、『国連軍』の介入を許可する代わりに、国内での統一指揮権を握る裏取引は成功しました」
つまり、首に縄を付けている限りは、優秀な猟犬として便利扱いできるだろう。 制御できれば、『政治的に』拙い場所へ送り込む事もない。
そしてこちらの想定内であれば・・・スリーパーは事態を混乱の方向へ―――彼ら統制派にとって、想定された混乱へ―――誘導するはずだ。
「後は・・・相手がどの範囲まで、こちらの想定の中で動いてくれるか、ですな」
淡々と言う右近充大将の言葉に、岡村大将が少し白ばんで言い返す。
「おいおい、謀略の専門家が、それは心許ないのじゃないか?」
「―――謀略だからこそ、です。 結局、どこまで相手を騙せられるか、です」
―――皇道派を、そして米軍を。 更には国内で皇道派につながる諸勢力、特に現将軍家との対立勢力である、複数の摂家を。 いや、どこまで自分自身をさえ、騙せられるかだな。
右近充大将は心の中が、冷たく冷え切っていくのを自覚した。
「・・・後世で、どれだけ罵られることか」
「後世が保障されるのならば、小官は一向に構いませんが」
堀大将の呟きに、岡村大将が淡々と言い放った。 彼らとて理解している、自分たちの愚行を。 この時世で、わざとクーデターの動きを見過ごす事を。
「誰かが、かつて言っておりました。 『日本人は外部からの高圧によらぬ、自らの出血を覚悟しての改革に、未だ耐えられぬ』 その通りです。
われわれ日本人は、外圧が無ければ、己で血を流して、自分を改革することが未だ出来ないのですよ。 今回の動きは、千載一遇の外圧・・・極め付けの悪趣味な外圧です」
統制派も皇道派も、お互いに睨みあったまま、焦っていたのだ。 どこかで手を出さねば。 が、その出し所が見えない。 そして今回のクーデターの動き。
彼らは双方ともに、飛びついた。 互いを叩き潰すために。 大海の波濤の中で、同じ1本の藁にしがみついたのだ。 相手を蹴り飛ばさねば、己が海原の藻屑となる。
彼らも痛烈に判っているのだ。 日本帝国と言う共同体あってこその、自分達だと言う事を。 皇道派の間崎大将が言うように、彼らもまた日本帝国と言う宿主に寄生する者だ。
「間崎も、判っているのでしょう。 宿主を壊してしまっては、寄生者は生きる事が出来ないと言う事を。
そして首相は恐らく、その政治的潔癖さ故に、宿主を壊してしまうでしょう・・・政威大将軍を排除しようとしない事が、全てです」
岡村大将の言葉に、堀大将が目を瞑りながら呟く。 やがて薄らと目を開き、嘆息しながらぽつりと呟くように言った。
「ふむ・・・間崎君か。 彼とは考え方が異なるが・・・うん、残念なことだな」
考え方が異なるとはいえ、全くの無能な男ではなかった。 政争が得意とは言え、まだ使い勝手のある人物だった。 堀大将の言葉に、今度は右近充大将の呟きが重なる。
「些か、あの御仁ほどは、自己中心的にはなり切れませんな。 民族が生き残るには、他国の属国と化しても一向に構わぬ、そう考えるまでは・・・我らが中途半端なのか・・・」
「なんにせよ・・・明日の仏暁(明け方)か・・・」
堀大将の言葉に、2人の大将も頷いた。 右近充大将が締めるように言った。
「仏暁です。 すべてが決まるのは」
2001年12月4日 1900 日本帝国 帝都 神楽子爵家
「・・・やはり、そうなるのかね?」
「今の国情で、我々武家が生き残る道は、そう選択肢が多い訳ではありません」
崇宰家先代当主・崇宰雅雪斎翁の問いに、城代省官房長官を務める神楽子爵―――神楽宗達が答えた。
「国家祭祀の代行権者・・・その辺が、落とし所かのぅ・・・」
「国事の執行権は、政府に。 皇帝陛下の名代として、外交儀礼と国家祭祀に特化する事・・・『彼ら』の提示してきた条件が、それです」
子爵家の茶室で、主―――神楽子爵の淹れた茶を飲みながら、茫漠とした雰囲気を崩さない雅雪斎翁が、茶碗から視線を外さずに話し始めた。
「もはや・・・この国の実権など、とうの昔に手放して久しい儂ら五摂家じゃ。 今更、親政なぞ出来るものではない。 じゃが・・・」
「洞院殿(伯爵、斑鳩家譜代家宰・城内省高官)は皇道派に同調する事で、安保マフィアの利権のお零れを手にしております。 同時に、現実政治での復権をも願うように・・・」
お零れは、その権限が増大すればするほど、その権益の質も量も増大する。 単純に欲望に塗れたのか、或は主家の復権を望んでの事か。
「愚かな事よ。 皇道派がお零れを寄越したのさえ、統制派への攻撃の為に、かの『統帥権干犯問題』で、摂家の声を欲しただけであろうに・・・」
「ですので、統制派は今回の擾乱に結び付け、洞院殿から斑鳩公、更には武家社会全般へ攻撃を仕掛けましょう」
「皇道派も統制派も、いわばマッチポンプじゃ。 『国家総力戦』、これの為に今回の擾乱を裏で黙認し、誘導しておる・・・」
「もはや中世や近世の昔では無いのです。 少しばかりの残滓が有ったとて、それが如何程の事でしょうか。 我々とて、生き残らねばならぬのです」
「・・・『国事全権代行権』を、皇帝陛下へとお返しする。 『大政奉還』じゃな、これは」
「それでこそ、武家はこの国の藩屏・・・貴族社会として、この国の片隅で生き残れるのです」
およそ130年前に、当時の武家社会の棟梁家―――徳河家がそうしたように。 あくまでこの国の元首は、皇帝その人なのだ。
政威大将軍とて、その意味では『皇帝の代理人』に過ぎない。 決して皇権を手にしているのではないのだ。 ましてや、現在では政威大将軍の選出には、議会の承認が必要だ。
真実、立憲君主国の中で生き残る。 その為には斯衛と言う私兵軍事力さえ、手放す事も視野に入れていた。 軍部は今後、一切の容認しないだろうから。
「・・・あの娘は聡い、そして純粋じゃ・・・」
「ですが、自らの社会に幕を引く強さを求めるのは、18歳の少女に対しては、酷でありましょう」
「優しい娘じゃからのぅ・・・」
「その聡さと純粋さ、そして優しさ・・・慈悲深さが、今の国情では罪にもなるのです。 例え、如何な覚悟があったとしても」
「・・・幕を引くか。 130年に及ぶ、五摂家の歴史に」
「時流、そう評してよければ」
「そして同時に、若者たちに血を流させるか・・・」
「・・・『急進主義者は必然的にユートピアンであり、保守主義者はリアリストである。 理論の人すなわち知識人は、左派に引き寄せられる。
ちょうどそれは、実践の人すなわち官僚が当然右派に引かれていくのと同じである』―――英国の外交官、エドワード・ハレット・カーの言葉です」
「ふむ。 して・・・?」
「急進主義も、国粋主義も、異なる様に見えて、ある1点で本質を同じくします―――夢想と言う1点で。 帝国に、日本人に・・・そして、我ら武家にとって、今一番必要とされることは・・・」
「リアリズム・・・ふむ。 子爵、御足労じゃが、貴殿のチャンネルへお伝え願えんか。 崇宰家は少なくとも、実践の場を識る家であると」
「承知致しました」
「お父様」
崇宰雅雪斎翁を見送った神楽子爵に、妙齢の女性が声をかけた。 菊亭緋紗、菊亭伯爵夫人で神楽子爵の嫁いだ長女。 夫は菊亭家当主(九条家譜代)で、財閥企業の社長をしている。
「雅雪斎様は、お帰りに?」
「うむ・・・緋紗、お前は家に戻らぬのか?」
「はい。 夫が、今夜は実家で過ごす様にと・・・お父様、何かご存じなのでは・・・?」
心配げな娘の様子に、神楽子爵は思わず内心を吐露しそうになった。 優しく気立てのよい娘だが、これでも斯衛大尉として京都防衛戦に参加した軍歴のある、予備役将校だった。
今は予備役編入に伴い、1階級を上げて斯衛軍の予備役斯衛少佐でもある。 年に数度の訓練招集に応じ、それ以外は財閥家当主夫人として、社交の場で『戦って』いる。
「・・・いや、何も知らぬよ。 それより、もう遅い。 休みなさい。 お前の体に何かあれば、儂が隆俊君(菊亭隆俊・菊亭伯爵)に恨まれよう」
娘を気遣いながらそう言う。 彼の娘は身重だった。 彼に初めての孫を見せてくれる筈だった―――もう一人の娘が生んだ孫を、彼は見る事が出来ないのだから。
2001年12月4日 2100 日本帝国 帝都・東京
「じゃあ、済まないけどお袋、子供たちを頼む」
「お義母さま、すみません」
「いいのよ。 2人ともお仕事なのだし。 それにウチにはお兄ちゃん、お姉ちゃんもいるしね」
周防少佐の母がそう言った視線の先には、少佐夫妻の2人の双子の幼子の相手をしている、甥と姪の姿があった。
「あの子たちも、直嗣や祥愛の相手が嬉しいのよ。 直孝も、優子も・・・優子は、お姉さんができるから、余計にね」
もう眠いのだろう、コクリ、コクリし始めた幼い従弟妹たちを、布団に運んでやっている甥っ子。 姪は『子守唄を、歌ってあげるの!』と張り切っている。
「俺は暫く基地だけど・・・祥子は明日の夕方には空くから」
「それまで、すみませんが、お義母さま、お義姉さん、あの子たちを・・・」
「大丈夫よ、祥子さん。 直嗣ちゃんも祥愛ちゃんも、しっかり面倒を見ますから」
周防少佐の亡兄の妻―――義姉がニコリと笑って、そう言った。 その様子に周防少佐が妻の肩に手を置く。 周防夫人・・・綾森祥子少佐(軍内では旧姓)も、ようやく切り替えたようだ。
「じゃあ、行ってくるから」
「行ってまいります」
「はい、気を付けてね」
「行ってらっしゃい」
停めてあった自家用車に乗り込む。 これから綾森少佐は国防省へ。 周防少佐は松戸基地へ。 密かに佐官以上の幹部に対して、非常呼集がかかったのだった。
走り去る車のテールランプを、少佐の母と義姉が見送っていた。
2001年12月4日 2300 日本帝国 帝都・某所
「・・・お前さん、マークされているぞ?」
見た目は中肉中背、年の頃は40代後半。 見かけもパッとしない、人込みの中で完全に埋没してしまう要望と雰囲気の中年男。
その中年男が話しかけた相手は、背広に気障なパナマ帽を被り、どこか掴み所のない笑みを浮かべた、同年配の男だった。
「昔の馴染みで、忠告してやれるのはここまでだ、鎧衣。 お前さんところの本部・・・そこのシナリオとは、少し違うだろうが?」
その言葉にパナマ帽の中年男―――情報省外事本部外事1部外事2課長、鎧衣左近は、正体不明の笑みを浮かべる。
「なぜ、横浜にリークした? あそこには、カンパニーの工作員も潜んでいる。 直に漏れるぞ?」
シガレットに火をつけ、深く吸い込んで紫煙を吐き出すパナマ帽―――鎧衣右近の表情に、正体は無かった。
そんな様子を見た中肉中背の中年男―――情報省内事本部防諜1部3課長(軍事防諜担当)は、諦観したように肩を竦めるだけだった。
「おまけに、お前さんは恐らく、あの若手将校団とも繋がっている。 何故だ? 娘可愛さか?」
「・・・では無いな」
初めて吐いた言葉が、それだった。
「なあ、鎧衣。 俺たちの様な、裏の世界に生きる人間は、基本的に薄汚れている。 手段を選ばず、目的の為にはどんな手だって使う。
そしてその代償としての報酬は、微々たるものだ。 時には組織から冷徹に切り捨てられる。 俺やお前が、過去に部下だった者たちにした様にな」
だからこの世界に生きる者は、時に己の欲望に負けて墜ちるか、それとも夢幻の理想に取り憑かれて、逃げ出せなくなってしまう。
「本部の方針に、不満でもあるのか? もっとソフトランディング出来たとでも?―――だったら、お前さん、今すぐ辞表を出せ。 特高も憲兵隊も、節穴じゃないぞ?」
暗に内務省警保局の秘密警察―――特高や、軍事警察の枠を越した国家秘密警察である、国家憲兵隊の紐付きである事を示唆した。 内事本部は、特高や憲兵隊とは、協調している。
「本部長に消される前に、この国から姿を消せ。 外事本部の紐付きじゃない船を用意してやれる。 南米かアフリカか・・・」
そこまで言って、内事防諜3課長は口をつぐんだ。 長年の友人の目に、既に一線を越した光を認めたからだった。
2001年12月5日 0030 日本帝国 帝都・府中基地 第1師団団3戦術機構連隊
「―――少佐」
背後から呼びかけられた。 場所は基地の大隊長執務室―――己の職場だ。 久我直人少佐は、声だけで誰か判った。 自分に忠実に従っている中隊長の一人、高殿大尉だった。
「少佐、いよいよ、です」
何がなのかは、言わずとも判る。 彼らがこれから、何を為そうとしているのか。 彼らはその行動における、中心人物達なのだから。
久我少佐は振り向かない。 執務室の窓から、深夜の夜空を眺めているばかりだ。 その後姿を見ながら、高殿大尉は話し続けた。
「少佐、私は・・・私は最初、どこへ向けて良いかわからぬ怒りと、悲しみと、そして絶望だけで生きていました。 あの夏の日から、ずっと」
あの夏の日―――日本帝国にとっても、最も長く、最も残酷な、あの夏。 1998年の夏。
「BETAを呪い、拙い戦術指揮を行ったと、当時の師団司令部や連隊本部を呪い、命令を下した当時の上官を呪い・・・そして、無力な己を呪い続けました」
1998年夏、高殿大尉は当時第2師団所属であり、BETAの山陽方面侵入に対して防衛戦闘を行い・・・避難が遅れた郷里の人々を、BETAごと突撃砲で吹き飛ばす事態に陥った。
「私は呪い続け、呪い続けて・・・全ての事を呪いました。 BETA、軍部、帝国、そして自分を・・・」
その声を聴きながら、久我少佐は無言で過去を思った。 己にも経験がある事態だ、逃げ遅れた民間人ごと、BETAを吹き飛ばしたと言う事は。 他に親友が2人、同じだった。
久我少佐の場合、その結果は国連欧州軍への出向と言う名の左遷。 激戦地に送り、あわよくば戦死してくれれば有り難い。 軍部の声が聞こえそうな処置だった。
「・・・やがて、呪い過ぎて、何も感じなくなってしまった。 そうです、私は己の取った行動も、当時の上官の命令も、軍部や政府の対応も・・・何も、感じなくなったのです」
国連軍に派遣された初期は、久我少佐はまだ極東方面に居た。 かの『九-六作戦』にも参加した。 そして目撃した、戦線維持の為に1000万の国民をBETAの餌にする国家を。
地平線を埋め尽くすBETAの大群、そのおぞましい光景の下には、国家に見捨てられ、軍事上の餌にされて食い尽くされた1000万人の民間人の死があった―――それを見た。
(・・・そうさ。 そうなる。 何も、感じなくなる)
やがて『それ』は慣れとなり、多くの軍人は『新たな自分』を得る。 一般に『戦場慣れしてくる』と言われる、ふてぶてしさの中に、どこか暗く乾ききった目をした軍人達。
それから、幾度の葛藤があっただろう? その都度、己を押し殺して戦い、戦友を死なせ、部下に死ねと、命令し続けてきた。
「もはや、私には多くの恨みはない・・・ですが、敢て欲する事は・・・」
そんな自分を救ったのは、亡き妻だった。 意外だった。 そして思った。 自分がこれほどまで、普通の(内心に傷を持った軍人として)人間だったのかと。
それは驚きであり、過去への葛藤であり、そして・・・1個の個人としての救いだった。 彼は、久我直人少佐は、壊れる手前で亡き妻に助けられたのだ。
「・・・こうなるまで、何も変えようとしない、変える事が出来ない、我が国・・・我らが同胞に対する少しの苛立ちと、そして諦観です」
だが、その妻は死んだ。 彼を―――久我直人を救ってくれた奇跡のような女性は、もうこの世に居ないのだ。 だから・・・だから、もういいのだ。 彼もまた、諦観したのだ。
「統制派であろうが、皇道派であろうが・・・この国の舵を握るのは、誰だって良い事です。 問題は、その結果に至るまで、国と国民が血を流す事を、未だ目を背ける日本」
もう、久我直人の人間(じんかん)において、全ての重石は存在しない。 そうしたのは、彼の祖国だ。 祖国の同胞たち、その総意なのだ。
「ならば、せめてもの手向けです、見せてやりましょう。 私は沙霧の様に、何らの使命感を持っている訳ではありません。 他の参加将兵の様に、将軍崇拝の念もない。
ただただ、歴史において大きく流れが変わる必要がある時には・・・己自身の手で、己の血を流さずにはいられないのだ、その事を・・・」
「・・・日本人に、思い知らしめねば、ならん」
これからの日本は、もっと多くの久我直人を、そして死した久我優美子(久我少佐の亡妻)を、必要とするのだと言う事を。
もはや、生か死か。 人間(じんかん)の重石を取り外された者にとって、それを衆目示す事こそが、『吾有事(『わがうじ』己と時間の一体感を意味する禅の言葉)』なのだと。
「・・・恨みではない、憎しみでもない、呪うことにも非ず―――滅びるか、滅ぼすか。 その一点に収束する流れ、それがどの様な事なのか・・・」
彼らに正体は無い。 その人間(じんかん)には、全ての重石はもうない。
「・・・高殿、非常呼集。 第1戦闘態勢。 20分やる」
「少佐・・・予定では、本日の仏暁―――明け方では・・・?」
久我少佐の言葉に、高殿大尉が少し驚いたように言う。
「発動時期は、俺が預かっている。 沙霧ではない―――急げ。 それと沙霧に連絡を入れろ。 本0200時に厚木の第671航空輸送隊に、富士の連中を収容させろと」
「・・・少佐」
「仏暁ではない・・・」
久我少佐が大隊長執務室のデスクから振り向き、高殿大尉に向かって眼光鋭く言い放った。
「仏暁ではない。 今夜半、決行する―――急げ!」
「はっ!」
急ぎ足で部屋を出てゆく部下の背中を見ながら、久我少佐は小さく呟いた。
「・・・相手も、味方も欺く。 本当に、成功させたければな・・・」
同時に別の事を少しだけ思った。 自分と部下の違いの事を。 部下は―――高殿大尉は、恨みはないと。 しかしそれは、本当の意味では只の磨耗なのだと。
そして自分が得た救いと、味わった喪失感と絶望を、未だ経験していないことを―――その機会を、部下から永遠に奪ってしまったと言う事を。 あの喪失と絶望を。
やはり自分には、少しだけ・・・ほんの少しだけ、正体が残っていたようだった。 絶望と言う正体だけが。 だから・・・最後の最後だけ、業に従ってやろう。
「・・・憐れむなかれ、怖るるなかれ。 天道ましてや人道なぞ。 たかが人間、夢幻・・・」
是非など、後世の学者どもに任せてやればいい。 当面すべきは、目標の殲滅。 第1目標は、相手の即応部隊。 まずは―――最初の殲滅相手は、松戸の第15師団だった。
帝国の、長い1日が始まった。