「ふう」
湯船に肩まで浸かると、そんな息が自然と洩れた。
十人くらいが入れる湯船に、十人くらいが座れる洗い場。
小さな銭湯って感じのお風呂場には私以外、誰もいない。
まあ、当然か。今年は太平洋沿岸で巨大クラゲが大量発生したって言うし。
猛暑なのに海の客足がゼロに等しいって話も肯ける。
そう、海だ。
ここは常盤台の学生寮じゃない。
学園都市の中ですらない。
神奈川県の某海岸。海の家『わだつみ』の一階奥にある、お風呂場なのだ。
ホントに“外”まで来ちゃったんだなあ、私。
学園都市最強の超能力者である『一方通行(アクセラレータ)』を倒したアイツと一緒に。
濡れた前髪を指でいじりながら、ちょっと物思いに耽ってみたりする。
だってさ、仕方ないじゃない。
アイツ、いきなり一時避難を言い渡されたのよ?
あれはもう、ほとんど強制退去だった。
しばらく学園の外で大人しくしていろ、だなんて。
だからさ、仕方ないじゃない。
アイツに借りがある身としては、避難先までついていくのが筋ってもんでしょ。
インデックスにだって、アイツのことを頼まれてるし。
べ、別にアイツの傍にいたかったワケじゃないんだからね!
ああ、ダメだ。少しのぼせたみたい。
貸し切り状態だからと言って、ちょっとばかり入り過ぎたか。
そろそろ出ようかな。
私、長風呂派だから部屋で待ってて。
そうは言っておいたけど、アイツのことだ。
きっと入口の辺りで私のことを待ってくれているんだろう。
上条当麻とは、そういう奴だ。
頭に超が付くほどのお人好しで。
困っている人がいたら、何としてでも力になろうとして。
諦めるって言葉を知らなくて。
あの夜、私達姉妹を救うために、アイツは必死で戦った。
絶対無理なのに。明らかに不可能なのに。それでも、アイツは諦めなかった。
ボロボロになりながら、それでも、アイツは戦い続けた。
あの姿が、ずっとどこかに残ってる。あの姿に、後押しされてる。
ああ、だからかな。
だからこんなに、気になるのかな。
……好きに、なっちゃったのかな。
脱衣所を出ると、やっぱりと言うか、アイツがいた。
「よう」
わざとらしく言ってきた。
「やあ」
私もわざとらしく言ってやった。
それから二人して笑った。笑い合った。
何かいいな、こういうの。すごく楽しい。
「じゃ、行くか」
「うん」
肩を並べて、私達は歩き出した。
居間に向かって歩き出した。
「あー、お腹減った」
今日は食べるぞー、なんて気合いを入れていると、隣からは何故か溜め息。
「先に言っとくが、御坂」
「何?」
「晩飯、あんまり期待するなよ」
「え?何で?」
「海の家のレパートリーはラーメン、焼きそば、カレーの三つだけと相場が決まっている」
ええ、と非難するような声を上げる。
「これだけ海が近いんだし、お刺身の一つくらい……」
「それすら出ないのが、海の家の性ってヤツでしてね」
う、嘘だ。
海が目と鼻の先にありながら、海の幸にありつけないなんて。
すっかり意気消沈した時、気づいた。
食堂も兼ねた居間が、妙にざわついていることに。
あれ?おかしいな。
ここの宿泊者って、今日は私達だけのはずなのに。
コイツの両親も、明日の朝まで合流出来ないって連絡あったし。
思い出して、急に頬が熱くなった。
そうだ、コイツの……上条当麻の両親に会うんだ。
とは言っても、外出する際の保証人として同行してもらうだけ。
特別な意味なんてない。全然ない。
ない、んだけど……。
なのに、ひどく緊張してしまうのは何でだろう?
緊張の正体が分からないまま、居間に辿り着く。
しかし、私達は立ち止まった。
居間は人で溢れ返っていた。
乱立している丸テーブル、いや、ちゃぶ台かな?
とにかく、それらはどれも満席状態だった。
え?何?この人達。
一体どこから、こんなに湧いてきたの?
「お、丁度良いところに」
唐突に聞こえてきた声に、唖然としたまま振り返る。
“大漁”と達筆な字で書かれたTシャツを颯爽と着こなすオヤジさんが立っている。『わだつみ』の店主さんだ。
「あの、この人達は一体……?」
「悪いねえ。この兄ちゃん達、テメエの車で本州一回り、なんて無茶してる連中らしいんだけど」
それはまた酔狂な。
そんな時間とお金があるってことは、この人達、大学のサークル仲間とかかな?
「どうも揃ってガス欠になっちまったらしくてな。この辺にはガソリンスタンドもねえし、夏とは言えもう日も暮れる」
というワケで、と両手を合わせるオヤジさん。
何だろう。イヤな予感しかしないんですけど。
「アンタらに、ちーっとばかし頼みがあるんだが」
日のすっかり落ちた夜。
六畳一間の和室を照らすのは、古めかしい電灯カバーの付いた蛍光灯の明かり。
ボロボロの畳が張られた床。
プラスチックのボディが黄色く変色した、エアコン代わりの扇風機。
まあ、別にこの程度の環境は何の問題にもならない。
事前に話も聞いていたし、こんなものは余裕で許容範囲だ。
でも、そんな心の広い私にも苦手な環境というものはある。
例えば、気になっている異性と同じ部屋に泊まると言うような、精神に対する圧迫だ。
頼んでもいないのに、二枚の布団はピッタリとくっついている。
ちょっ、何のジョークよ、これは。まるで新婚初夜じゃない。
全く、あのオヤジさんは何を誤解してくれてるんだろう。
部屋が足りなくなったから、今日は二人一緒の部屋で寝てくれだなんて。
あの人絶対、私達が恋人同士だと勘違いしている。
むう、と唸る。
困った事態になった。
その、カ、カップル扱いされたことは別に不満じゃないけど。
で、でもこの状況はさすがにマズイというか……。
今現在、私は究極の二択を迫られていた。
現状を受け入れて素直に布団に入ってしまうか。
拒否して布団を思いっきり離してしまうか。
どうする自分。どうする美琴。
こんなチャンスは二度とないような気がする。
でも、どう考えても早い。早過ぎる。
どうしたらいいんだろう。
迷いに迷っていたその時、コンコンとノックの音。
「おーい、まだかー?」
あっと、いけない。
着替えるから、廊下に出てもらってたんだっけ。
「どうぞー」
ドアを開けて、アイツが入ってきた。へえ、と唸った。
「お前、そういうの着るんだ」
しきりに感心している。
今、私が着ているパジャマ。
それはいつも寮で着ているパジャマじゃない。
以前、初春さんと佐天さんの二人と一緒に行った洋服店『セブンスミスト』
そこで見かけた花柄の、可愛らしいパジャマを着ているのだ。
子供っぽいって二人が口を揃えて言うもんだから、その時は買わなかった。
だけど、どうしても欲しくて、着てみたくて。我慢出来ず、とうとう買ってしまったのだ。
ちなみに、このパジャマ姿をお披露目するのは今日が初めて。
黒子には見せてない。
このパジャマの存在すら知らない。
バカにされると分かってて、誰が見せてやるもんか。
ああ、でもでも。
思い切って着てみちゃったけど、コイツはどう思うかな。
そんな少女趣味の持ち主だったのかって、コイツも笑うのかな。
可愛いなって、言ってくれたりしないかな。
この朴念仁に、そんな甲斐性はないかな。
どうなのかな。
ああ、やっぱりよく分かんないや。
「何よ」
私をじっと見つめていたアイツの肩が、ビクリと震えた。
急に、その視線を外した。
「あぁーっと、そのー」
何?この曖昧な喋り方は?
どういうワケか、その視線が泳ぎまくっている。
一瞬だけ目が合ったけど、すぐに逸らされた。
「まあ、何と言うかだなー」
「はあ?」
「これはあくまで、俺個人の感想なんだがー」
「何?何が言いたいの?」
戸惑っていると、アイツは頭をバリバリと右手で掻き回した。
「お前、こんなに可愛かったっけ?」
そして、小声で言った。
言葉の意味を理解するのに、たっぷり五秒は必要だった。
次に、顔がボッと熱くなった。
か、可愛い?可愛いって、言ってくれた?
どうしよう。すごく、すごく嬉しい。
聞き間違いじゃないよね?
確かに、そう言ってくれたよね?
「あの」
確認のため、声をかけようとした。
刹那、アイツは逃げるように布団に潜り込んでしまった。
恥ずかしいのはお互い様、ということらしい。
私はクスリと笑みを洩らすと、部屋の明かりを消した。
布団を被って横になった。アイツの隣で。お互いの布団をピッタリとくっつけたままで。
「……ねえ……」
ふと、声をかけてしまった。
自分らしくもない、勢いに欠ける声。
「ん?」
「いや、その……」
何となく良い雰囲気だったから声をかけたんだけど、話題が無い。
いくら考えても、良い言葉が全く出てこない。
散々悩んだ末、口から出てきたのは、
「美琴って呼んで」
なんて言葉だった。
何でそんなことを言ったんだろう?
何かを誤魔化すためだったのか。思わず本音が洩れてしまったのか。
今でもよく分からない。でも、確かにそう言った。
「どうしたんだよ、急に?」
「だって……いつまで経っても名前で呼んでくれないし」
一度言ってしまうと、もう止まらなかった。
「なんか他人行儀って感じがするし」
そういうの、なんか寂しいし。
「お前が先に言うんなら考えなくもないな」
あ、何よそれー。
「強情」
「お互い様だろ」
「意地っ張りー」
「うっせ」
ふーん、意地でも自分からは呼ばないってワケね。
分かったわ。上等よ。
お望み通り、私から呼んでやろうじゃない。
名前ぐらい楽勝よ。
「と……」
なんて思ったのに。
「……とう……」
言い切るより先に顔中が熱くなった。
うわあ、ダメじゃん私。
人のこと言えないじゃない。
「お前だって人のこと言えないだろ」
得意げな声。
その一言に、カチンときた。
「当麻当麻当麻当麻当麻っ!」
狂ったように連呼してやる。
顔が熱くってしょうがないけど、知ったことか。
「当麻当麻当麻――」
「美琴」
それは突然だった。不意打ちだった。
「……ずるい」
「悪いかよ」
「悪い」
いきなりなんてずるい。
「もう一回」
そんなの、呼んだことにしてやらない。
「ちゃんともう一回呼んで」
しばらくの沈黙。
それから、当麻の唇が動いた。
美琴、と動いた。
胸がキュンと鳴った。
「名前で呼ばれると新鮮だね」
「そっか?」
「そうだよ」
そのあと、ちょっと信じられないことが起きた。
布団の外に出していた私の左手に、当麻が自分の右手を重ねてきたのだ。
そして、ぎゅっと握ってきた。
何故か自然に手が動き、私はそんな当麻の手をしっかりと握り返した。
「だったらいつでも呼んでやるよ」
ああもう、どうしよう。
幸せ過ぎる。
今夜はずっとずっと起きていたい。
思わずそう願ってしまった。
そうすれば、当麻の温もりをいつまでも感じていられる。
「お休み、美琴」
「うん。お休み」
温もりを感じたまま。
当麻と手を繋いだまま。
私は緩やかに眠りに落ちていった。