気が付くと、フレイム達は女子寮とは違う塔の前に来ていた。
入口を通って階段を一つ上ると、サラマンダーの尻尾の灯りを頼りに暗い廊下を進む。そして、ある部屋のドアノブを彼は器用に咥えて開いた。
部屋の中は真っ暗だった。しかし、すぐに指を鳴らす音がすると、蝋燭の火が灯された。部屋の奥には、薄手の寝巻きから手足がもろに露出している、褐色の美女がベッドに腰掛けていた。
「こんばんは、坊や」
あまりに違い過ぎた。
才人が普段慣れ親しんでいる、ルイズお姉ちゃんの寝巻き姿とは、何かもが。
肌の色、背丈、豊満さ、そして自分の頬を舐めずるような妖しい視線。それらを一言で集約すると、色気である。それもむせるような。
何故だか分からない危機感を覚えた才人は、フレイムから降りて回れ右をした。しかし、後ろから香水の匂いと、弾力のある感触に包み込まれてしまう。
「どこに行くの? まさか、もう帰るなんて言わないわよね? お姉さん、そんなの寂しいな~」
「ぼ、僕もう帰らなきゃ! 遅くなったらお姉ちゃんが心配するし」
「大丈夫よ。そんなに遅くならないし、部屋の前まで送って行ってあげるから」
そのまま抱っこしてベッドまで運ぶと、お姉さんは自分の膝の上に、少年を横抱きにして座らせた。
「ごめんなさいね。貴方とお話したくて、フレイムに連れて来てもらったの。貴方に興味が沸いちゃって」
彼女の左胸に、才人の右頬が当たっている。その感触は、彼が体育館で使ったことのある、ソフトバレーの球の弾力を思い起こさせた。バレーボールよりは柔らかくて、押すとそれなりに凹んでは戻るあの弾力を。キュルケのそれは心地良く、何と言うか遊びのような楽しさを感じさせるものだった。
「お姉さんね、今日生まれて初めて男性にふられたの。それは誰だか分かる? 貴方よ、サイト」
全く責めるような気配の無い、寧ろティータイムの他愛ないお喋りのように、気楽に話すキュルケ。見上げて話を聞く少年と目が合うと、彼女は溢れんばかりの豪奢な笑顔を、水瓶を傾けるように彼の上にこぼす。
「あの時は驚いたわ。私に靡かない男性なんていなかったから。それも、女性の魅力で負ける筈が無いと軽く見ていた相手との勝負でよ。内心びっくりだったわ。顔には出さなかったけど」
才人は午前中のことを思い出した。自分は正直に言っただけだったのだが、結果的にこの凄く綺麗なお姉さんを傷付けてしまったのだろうか。だとしたら、まずは謝らなくてはと思った。
「ごめんなさい」
神妙な顔付きの少年に、キュルケは一呼吸置いて、それから優しげながらも色気が溢れ出す笑顔をゆっくり近付けた。
「謝らなくてもいいの。貴方が自分のお姉ちゃんを大好きなのは仕方の無いこと。大事にしてくれるのでしょう?」
「うん! すっごく優しいよ~! 僕、ルイズお姉ちゃん超好きなの~!」
キュルケの胸の奥に、火種が灯る。
ご機嫌な子犬のように目を輝かせる少年に、わくわくする珍しい感覚。そして、この子を朝から晩まで独り占めしているルイズを思うと、その占有を侵したくなる禁忌にも似た気持ちが沸き起こる。
才人をしっかりと抱き寄せながら、キュルケは唇を近付けていく。終わり掛けの焚き木のように、静かな炎が揺らぐ瞳に覗き込まれると、彼は何故か身を縮こまらせてしまった。とても綺麗で優しげに感じるのに、何故か。
顎を目一杯引いて唇の落下を避けようとする少年の頭頂部辺りに、キュルケは額を軽く押し当てて呟いた。
「お姉さんのこと、嫌い?」
甘い吐息が香ると、意識がくらっとした。
嫌いな訳ではない。
優しくて、華やかにも関わらず、親しみ易さを感じさせるグラマラス美女。基本的に、男に好かれこそすれ、嫌われる要素があるとは思えない。才人もまた、その例に漏れず。
「嫌いじゃないよ」
にも関わらず、逃げたくなってしまう。
彼女が魅力的であることは、幼い彼にも分かる。しかし、年頃の男子にとってはブラックホールのような引力となる彼女の魅力も、才人少年にとっては圧力となっていた。姉の言い付け以外の、はっきりとは分からない何かしらの理由によっても。
「それなら、顔を上げて頂戴な」
怖い言葉。
学院の男子達なら喜んで従うだろう言葉も、才人にとってはみすみす罠に呼び込む声のように聞こえる。亀のように上体を丸めたまま、彼は硬直していた。
「緊張してるの? 大丈夫よ、痛いことも怖いこともしないから」
首を懸命に外側に回しながら、キュルケは才人の左頬に軽くキスをした。
「ひぃ、ゃぁっ」
驚いたが、自分の中に押し殺した。でも、泣きそうな気分になる。
なおも亀の子を堅持する才人に、キュルケは苦笑しながら声色を作って囁いた。
「やっぱりお姉さんのこと嫌い?」
「そうじゃ……ないんだけど」
「お姉さん、そんな風に拒まれると寂しいな」
二度目のごめんなさいを言うべきか否か、才人は迷った。
凄く綺麗だし、しかも優しい感じのお姉さんだ。ふられたことがないと言うのもあながち嘘とは思えないくらいに。そんな人に、自分は失礼なことをしているのだと思う。
でも、怖い。はっきりとは言えないが、何かが。
ルイズお姉ちゃんやモンお姉ちゃんと比べると、安心出来ない何かがある。
これと似た感覚を、どこかで経験したような気がする。
才人は、目を閉じて九年間の記憶に検索をかけてみた。この不安の正体に近いもの。
さざなみ。ボートの腹に当たって割れる水の音。
朱色の空には、雲に寄り添うように濃淡が表れ、太陽のある所だけは溶鉱炉のような白色に輝き、その縁取りには明るい黄色。
そして、自分達が乗るボートが浮かぶ海は、太陽の真下だけは炎の雫が水平線に向かって一直線に走っていたが、自分達の周辺においては、黒い水の上にワイン色の箔を貼り付けたような波がたゆたっていた。
その波の色が揺らいで移ろうと、切なくなるくらい綺麗なのに、魅入られてその下の暗い底に引きずり込まれるような感覚に襲われ、つい親にしがみ付いたものだった。
小学校に上がりたての頃、沖縄に連れて行ってもらった際体験した、他に譬えようのない不安と恐怖のイメージ。それを思い出して、今現在自分が感じているものと比べ合わせてみた。
「お姉さんは……夕方の沖縄の海!」
俯いていた顔を上げてぱっと言い放った才人の言葉に、キュルケは意味を捉えきれず黙って彼の言葉の続きを待つ。
「すっごく綺麗でじーっと見てしまうんだけど、見過ぎると海に吸い込まれそうで怖かったの。お姉さんの顔が迫って来た時、そんな感じがしたよ」
ショックな言葉だった。
自分の魅力が否定、拒絶されたことなどついぞなかった。それも、純粋な子供に怖いと言われるのは、女としては傷付くものがあった。
ルイズやモンモランシーが良くて、自分がダメな部分があるなんて……それは何?
未体験のダメージを受けながらも、キュルケは倒れずに踏ん張って相手を分析する。少年の言葉を、彼女自身の映像の記憶に翻訳してみた。
裕福なツェルプストー家は、海の近くに別荘も持っているので、夕暮れの海を見たことはある。自分が子供の時は、夜の海が怖いと思ったことはあったかなと思い起こしてみた。なるほど。
「君から見た私って、そんな感じなのね。ロマンチックな譬えで素敵だけど、怖がられてるのはねえ」
才人から視線を外し、キュルケはしばし思案する。
薔薇や宝石に譬えられることはあったが、海に譬えられたのは初めてだった。怖いと言われたのは別として、面白い表現だ。
ともあれ、同世代には絶対的な効力を発揮する自分の魅力も、お子様には香気が強過ぎるということか。これまでと同じ攻略法では、ちみっ子には逆効果のようだ。アプローチを変えてみようか。
「それにしても、君って小さい割に詩人みたいこと言うのね。面白い子」
色気路線ではなく、率直に思ったことを口に出して、キュルケは何も飾らずに笑った。妖艶さが消えて、彼女が元来持つプリミティブな陽気だけが残ったことを、子供の勘は見逃さなかった。
「お姉さん、怖くなくなった。楽しい、いい感じ」
ちゃんと自分を見てくれた。そのことが、キュルケにはやけに嬉しくて、才人のおでこにキスをした。今度は嫌そうにされなかった。
「ありがとう。この学院の男子達より、君の方がよっぽど女性を喜ばせるのが上手かもね。退屈しなさそう」
「お姉さんは退屈なの?」
素朴に質問する才人の黒髪を撫でてやると、目を閉じて心地良さそうにしている。愛情を注がれて育った子犬のような仕草に、キュルケの内の普段使われてなかった本能がどくんと脈打った。
「そうね。退屈だから、目ぼしい男子とデートしたりするんだけど、誰も彼も似たような感じの人ばかりで個性に乏しいと言うか、ワンパターンと言うか。ルイズが羨ましいわ。君みたいな可愛くて退屈しない子といつも一緒なんだから」
「僕といると退屈しないの? 僕、全然普通で平凡だと思うけどなー」
才人にその自覚は無い。異世界から来た変り種としてのことは、ルイズとモンモランシー以外には秘密にしているため、容姿や服装こそ目立つものの、普通のお子様として過ごしているから。
子供故か、性格なのか、本人の順応性がすこぶる高いのも、それに寄与している。
「だって、平民の子供にしては、貴族に対して全然物怖じしないし、髪の色や目鼻立ちも服装も、トリステインやゲルマニアでは珍しいものだわ。アルビオンやガリアには、いるのかしらね? ねえ、君の出身地ってどこなの?」
才人、先程とは別の理由で緊張する。
動揺しそうになるのを飲み込みながら、姉に教え込まれた、出身地を聞かれた場合の対処マニュアルを思い出してみた。対処法その1『内緒だもん』。
「内緒だもん」
「あ~ら、お姉さん、ますます気になるな~。教えてくれなきゃ、今夜は帰さないわよ~」
ふざけ半分で楽しそうに笑うお姉さんに、対処法その1は通用しないらしい。帰してもらえなかったら、ルイズお姉ちゃんが怒り狂うことだろう。悪いお姉さんではないと思うので、喧嘩はして欲しくない。
続けて対処法その2『東方の国ロバ・アル・カリイエから来ました』を使用することにした。
「えっとね~、ロバ・アル・カリイエってとこだよ」
「ロバ・アル・カリイエって、聖地の更に東にあるって所じゃない!? とんでもない所からやって来たのねえ」
親元から離されて来たのか。そう思うと、キュルケはつい才人を胸に抱き締めてしまった。
「お、お姉さん、苦しいよ。ギブ……」
「あ、あら、ごめんなさい」
包み込むような弾力から解放された才人は、赤くなった顔で水泳時のようにぷはっと息を吸い込む。普段はルイズのちっぱいに顔を埋めているため、キュルケのような窒息級の巨乳は体験したことがなかったのだ。
「サイトは、寂しくないの?」
キュルケにしては珍しく、陽気までも一時的に影を潜めていた。神妙と言うか心配そうな顔付きの彼女に、才人はさらりと答える。
「大丈夫だよ。ルイズお姉ちゃん達がいるから」
「そっか」
この質問に対して聞かれたのは二度目だが、前回同様に才人は屈託無く笑った。
無理をしている訳ではない、子供のごく自然な笑顔に対し、キュルケに浮かんだ感情。それは、褒めてやりたいと言う気持ちだった。
「偉いわね。私やフレイムの所に、いつでも遊びに来ていいからね」
「ありがとう、お姉さん。でも、お姉さんがルイズお姉ちゃんと仲良くなったら、遊びに行きやすいんだけどな~」
「ん~難しいわね~。まあ、そうなれなくても、こうやって忍んで会えばいいじゃない。もしバレても、サイトにはとばっちりが行かないようにするから」
う~んと唸りながら考え込む才人を、キュルケは笑顔で見守る。
難しいことなんて無かったのだ。男の子だからと学院の生徒達と一緒くたにして、色気で迫ろうなんて考えずに、子供に対してただのお姉さんとして接するだけで良かった。そうすれば、向こうも自然体で接してくれる。
将来の育児の予習になるかもねと思いながら、彼女は最後に成果を確認することにした。
「ねえ、サイト」
「なあに?」
「お姉さんのこと、もう怖くない?」
今度こそ否定されない確信はある。それでも生じる緊張を、彼女は表面に出さないようにして、合否判定を待った。
「うん。お姉さん、優しくていい感じ。綺麗だし」
合格おめでとう。自身を祝福しながら、キュルケは小さな審査員に頬擦りした。これで今日はもやもやを残さずに眠れそうだ。
「ありがとう。じゃあ、今日はもう帰ろうか」
才人を膝の上から隣に移すと、キュルケはマントを羽織り、彼に背中を向けてしゃがんだ。
「おんぶしてあげる」
「えっ、い、いいよう。抱っことかおんぶとか、僕、赤ちゃんみたいだよ」
「サイトが可愛いからおんぶしたいの、私が。ね、一回だけ、いいでしょう?」
才人のお願いにお姉ちゃんが断り切れなくなることはあっても、才人の方がお願いされて断り切れなくなるのは初めてだった。好印象を持ったお姉さんからおんぶさせてと言われると、彼としては無碍に断り辛く感じる。
「うん、じゃあ、今日だけね」
キュルケの首に腕を軽く回すと、いつもより頭二つ程高い位置まで視界がぐんと上がった。彼女の赤い髪に鼻が埋もれると、いつも嗅いでいるのとはまた違う良い匂いがする。背中の温もりが伝わってくると、心地良い落ち着きが染み渡っていったが、それと同時に自分が赤子のように思え、気恥ずかしさをも才人は感じるのだった。
魔法学院の本塔外壁に垂直に立つ人影があった。
長い緑の髪を風の向くまま靡かせ、目深に被ったローブに身を包むこの人物こそ、世を騒がす大盗賊『土くれのフーケ』である。
「物理衝撃が弱点とは言え、この厚さじゃ魔法はおろか、私のゴーレムでも壊せそうにないね。どうしたものか……」
足の裏で直接外壁に触れ、壁の厚さを測った彼女の感想である。土の系統魔法のエキスパートである彼女にとって、これくらいの業は苦も無かった。
しかし、情報収集と実地調査を合わせた結果、自分の力でもこの外壁を壊すのは不可能と判明した。
先日、彼女は宝物庫を内部から開けられないか試してみた。宝物庫を守る鉄扉の錠前に、得意の『錬金』の呪文を唱えてみたのである。しかし、結果は無効。
数多の貴族屋敷の壁やドア、錠前を土くれに変えてきた自慢の商売道具も、由緒正しき魔法学院の宝物庫を抜くことは出来なかった。彼女以上の魔法の使い手が、強力な『固定化』の魔法をかけて鉄扉を保護していると目された。
『固定化』の魔法は、対象物質をあらゆる化学反応から保護し、そのままの姿を永久に保つことを可能とする。これをかけられた物質は、『錬金』の魔法をも受け付けないが、使い手の実力が上を行くならその限りではない。
つまり、土系統のエキスパートである彼女の『錬金』を受け付けないのだから、ここの鉄扉に『固定化』をかけたメイジは、相当強力な使い手ということである。
腕組みして考えるフーケ。何とかして盗み出したい。かの高名な『破壊の杖』を。
『破壊の杖』とは、ここの宝物庫に収められている品の中でも著名な一品であり、強力な魔法を付与された、所謂マジックアイテムである。
高価な品々もさることながら、マジックアイテムについては特に目が無い彼女は、何としてでも手に入れたいと思っていた。
誰かが近付く気配を察知したフーケは、外壁から足を離して落下した。地面に激突する直前で『レビテーション』の魔法を唱えて浮遊し、回転して勢いを殺しながら猫のようにしなやかに着地すると、すぐに中庭の植え込みの中に隠れた。
才人をおんぶして歩くキュルケは、本来長い歩幅をわざと短くし、足の回転も遅くしていた。それは、少年の体重のせいではなかった。
子供を背負うという初めての体験を、ツェルプストー家令嬢は明らかに楽しんでいた。
男児の高い体温を背に感じながらしがみ付かれると、胸の奥も自分の熱量でほかほかしてくる。
これまで数多のデートで経験してきた、落ち葉のように瞬時に燃え上がって終わるようなものではない。じわーっと体の芯から温まり、そのまま留まり続けるこれは、一過性の興奮によるものとは違うと思った。
熱しやすく冷めやすい、言ってみれば移り気な自分の恋がもたらしてきたものとは趣を異にする何か。それが何なのかはまだはっきりしないが、この子を背負い続ける間はずっと感じ続けられるのではとも思う。
こんな風に感じるのは自分が女だからなのだろうかと、うきうきした気分で自己分析しながら、彼女は帰路の踏破を引き伸ばそうとしていた。
片や、背負われている才人の方は、子供なりに気遣いをしていた。自分が重いから、このお姉さんは歩みが遅いのではないかと。
「お姉さん。重たいなら、僕自分で歩くから」
キュルケは、自然と顔を綻ばせながら背負った子に答える。子供なりに気を遣うのが本当に可愛らしいなあと、撫で回したくなる気持ちを堪えながら。
「いいの。今日はお話出来て楽しかったから、そのお礼のつもり。それとも、サイトはおんぶされるの嫌になった?」
「全然嫌じゃないよ。でも、僕平民だし、お姉さんは貴族のお嬢様でしょ。いいのかなあ?」
天真爛漫かと思えば意外にこういう認識もあるのね、とキュルケはこの世界では常識に当たる認識の所持を、改めて感心したりする。
「気にしないで。君が楽しくて可愛いから、私がおんぶしたいの。君のこと、気に入っちゃったのよ」
「ありがとう、お姉さん。お姉さんって、とっても温かいね」
また一層奥までじわりと、胸に熱が篭った気がした。
この子を自分の部屋までお持ち帰りしてしまいたい衝動が芽生えそうになったその時、向こうから駆けて来る足音と人影に、彼女は感情エネルギーの一部を割いて、幾らかの冷静さの製造に充てた。
「キュルケ? そ、そそそ、それにっ、サイトッ!!」
「ルイズお姉ちゃん!」
キュルケがしゃがんで下ろしてやると、才人はだーっと駆け寄って姉に抱き付いた。弟を確保したルイズは、安堵と心配がまだ半々の表情で、彼の両頬を軽く挟んで尋ねた。
「何でキュルケと一緒なの!? ま、まさか、拉致られて酷いことされてたとかっ!?」
「違うよ。フレイムが散歩してたから背中に乗っけてもらったら、あのお姉さんのいる所までご案内されたの。酷いことされてないよ。優しかったよ」
ルイズは頭に血が上った。
才人が無事だったことは、何よりの幸いだ。しかし、使い魔を使って連れ込み、何をしたと言うのだ。優しかったとは、どういうことか。
「心配しなくていいわよ。貴女が思っているようなことは何も無いわ。ただお喋りしてただけ」
キュルケがくすくす愉快そうに笑うのが、ルイズの苛立つ神経に一段と障った。
人の大事な大事な弟を連れ込んでおきながら、何がおかしいのか。当の才人本人が『優しかった』などと言うのも、キュルケに対する怒りの燃料となって更に燃え上がらせる。
「大事な弟くんを連れ出したのは悪かったわ。でも、貴女に頼んでも相手させてくれないでしょうし、こうでもしなきゃ会えな……」
「ざけんじゃないわよ」
己の内に溢れんばかりの膨大な物量を、ルイズは強引に押さえ潰した。そのため、声が震えていた。
それを受けたキュルケは、空気がやばいと瞬時に感じ取った。相手の尋常じゃない眼光と共に、危険な何かが空気中を伝播してくる。
「ひひひ、人の、だだだ、大事、大事な、おおお、弟をっ、よくもっ! よよよよよっ、よくもっ! 拉致っ、ららららりっ、拉致ってくれたわねっ!!」
怒りっぽいルイズがからかわれて怒る様は、昨年度飽きる程に目にしてきた。しかし、眼前での今の怒り具合は、それらとはまるで別物、別格、別次元。鳶色の双眸は血走り、白磁のようなこめかみには青筋が立ち、桃色のブロンドは逆巻き立って不気味に揺らいでいる。
キュルケが散々からかって遊んできた『ゼロのルイズ』とは、明らかに別の何者かが、怒気と殺気を突風のようにぶつけてきている。
「ツツツ、ツェルプストー! あ、あああ、あんた、ここで、し、し、ししし、死にゃっ、ぐべっ!」
激情という大河の氾濫に、口内が震えっぱなしだったルイズは、舌を噛んでしまった。痺れるような鈍痛に僅かに気勢を削がれると、先程からしがみ付いていた才人が心配そうに彼女に呼び掛けた。
「ルイズお姉ちゃん! 落ち着いて! 僕なら本当に何も無かったんだから! そんなに怒っちゃ体に悪いよ!」
私の優しい子。最愛の弟。分かってるわ。でもね、こればかりはただで済ます訳にはいかないの。貴方のことで、それもよりによってツェルプストーなんかに好き放題されるなんて、絶対許さないの。たとえ退学処分になろうとも、ここは退けないの。
「サイト、お姉ちゃんを後ろから抱き締めていて頂戴。そうしたら、怒りも治まりやすくなると思うから」
彼を見る目は、いつもの理性と優しさが幾らか戻っていた。こくりと頷くと、才人は姉の背後に回って細い胴体に抱き付いた。
「ツェルプストー! あんたは私の一番大事な宝物を無断で持ち出した! 罰として魔法一発喰らっときなさい!」
キュルケに杖を向けるルイズの目は、先程よりは理性を取り戻していたが、依然として炯々たる光を宿している。こんなに威圧感の出せる娘だったのかと、キュルケは己の軽挙を少し後悔していた。
「分かったわ。貴女の一番大事な子を勝手に連れ出したのだから、罰は受けるわ」
自由恋愛主義を謳歌するキュルケだが、それでも彼女なりにあるポリシーを持っていた。『他人の一番大事なものは奪わない』ということである。
人の本当に大事なものを奪おうとすれば、殺し合いに発展しかねない。そんな面倒なことは、快楽主義者としては御免なのである。
今回、ルイズの一番と分かっていながらも、才人を借り出してしまった。こっそり返そうと思っていたが、ばれてしまったのでは仕方が無い。奪った訳ではないが、素直に謝って罰を受けておくことにする。自身で定めたルールに少し抵触したのだから、痛い目に遭おうとも納得は出来る。
魔法の腕比べなら、ゼロのルイズなので恐るるに足らないのだが、喰らうとなると話は別。
何の系統魔法を使おうとしても、必ず爆発になるルイズ。しかし、その爆発の威力は、まともに喰らうと結構痛そうなのだ。近距離で爆風を浴びて黒板に叩き付けられる本人や教師の姿は、昨年度何度も目にしていた。被害者が気絶することもしばしばだった。
歯を食い縛って自分から目を離さずにいるキュルケを、ルイズは凝視する。脳裏には、様々な思いや感情が渦巻き、彼女を混乱させながらも気持ちを昂ぶらせていく。
魔法も得意で胸も大きくて男子にもてまくっている、忌々しきツェルプストー。自分の魔法と胸を、いつもゼロゼロとからかう憎い女。あんたなんかに、私が生まれてこのかた味わってきた思いなんて、これっぽっちも分からないでしょう。ちいねえさまとアンリエッタ殿下との時間以外に、安らぎも光も無かった私の気持ちなんて。
誰からも馬鹿にされ続け、荒んで尖ってしまい、学院内には敵しかいないと思っていた私に、安らぎと愛情をくれた男の子。私を一番好きだと言って引っ付いてくる私の可愛い才人。その才人にまで、何もかも持っているようなあんたが手を出すと言うの。
殺すわよ。
たとえ仇敵ツェルプストーでなかったとしても、殺さなくちゃならないわ。
私の生き甲斐、私の光と温もりを奪うような奴は、絶対に許さない。
ルイズの心の中は、どす黒い砂嵐が巻き起こって視界が利かなくなっていた。十六年の人生における、一部の人以外には認めてもらえなかった悔しさや悲しみ、宿敵ツェルプストーへの憎悪、最愛の弟に手を出されそうになった怒りと危機感、それらが一斉に入り混じったことで、彼女自身にも感情の色が分からなくなってしまったのだ。
一つだけ確かなのは、負に属する様々な感情達が融合して、これまでに体験したこともない暴虐の嵐が彼女の中に吹き荒れたことである。
炎系統の呪文『ファイアーボール』の、どうせ成功しない詠唱を始めた時、これまでとは違う迫力と力が満ちるのを、向けられているキュルケは感じた。そして、それがもたらす不吉な死の予感をも、直感的に。
この力、嘘でしょ!? まさか私、死――
「ダメーッ! ルイズお姉ちゃぁーん!!」
詠唱が終わる直前に、才人の甲高い叫び声と、自分の細腰を後ろから目一杯抱き締める力を、ルイズは感じてはっと我に返った。
自分はとんでもないことを考えていた。いくらツェルプストーとは言え、この子の眼前で殺しても構わないと思ってしまった。このままではやばい。
「くっ!」
詠唱終了の直前で、標的を眼前の相手から脇の空間に逸らしたルイズの杖は、植え込みの連なりに向けられていた。
その植え込みを中心に、半径五メイルばかりの爆発が巻き起こり、黒煙の中を葉っぱや細い枝が舞って落ちた。爆音の中で、短い女性の悲鳴も確かに聞こえた。
「嘘!? 誰かいたの!?」
冷静さを取り戻したルイズは、急激に顔面蒼白になった。
無関係の人間を殺してしまったら、何のためにキュルケから標的を逸らしたのか分かんないじゃないのよ……。
へなへなと腰砕けになったルイズは、後ろから懸命に彼女を支えようとする才人の声を至近距離で受け、耳がきーんと鳴りながらも爆煙の方を見遣った。
ひび割れた眼鏡を掛けたローブ姿の女性が、あちこち黒く煤けてボロボロに破れた服のまま、よろよろとこちらに歩いて来る。死のプレッシャーから解放されて地面に両手を着くキュルケの隣まで来ると、女性は糸の切れた人形のように両膝を着き、そして前のめりに倒れ込んでしまった。