この作品は、Arcadia様にも投稿させて頂いております
私、平川はじめには妹が居ります。
名を乙女。私より二歳年下の、今年十八歳になる高校生でございます。
かわいい妹ではございますが、いささかの欠点を持ち合わせております。
その最たるものが、兄として大変残念なことですが――胸が無いこと、なのでございます。
胸がない、と言っても、いわゆる貧乳というレベルではございません。
彼女の場合、二次性徴に入った女性ならほとんどの方が持ち合わせている、胸の隆起が皆無なのです。
さて、夏休みも押し迫ったとある休日の事でございます。
所用を終え、帰宅したわたくしは、車庫わきに普段見ない自転車を発見いたしました。
はて、と、首をひねるまでもありません。
わが家に自転車で乗り付ける知人縁者といえば、私か妹の友人以外居りません。
愛すべき友人たちの自転車の特徴はすべて覚えております。となるとそれに当てはまらないこれは、妹の友人の自転車なのでしょう。
ですが、困りました。
両親はこの休日を利用して、結婚記念日の旅行。妹も、いつものようにふらっと遊びに出ましたので、本日家に居るのは私だけのはずでした。
だからこそ居間の大きなテレビでビデオでも鑑賞しようと思い、レンタルビデオショップに行っておりましたのに、妹たちがいては、おっぱいがいっぱい祭りが開けません。大変残念でございます。
肩を落として、私は玄関に参りました。
妹が帰っておりますので、鉢植えの下を漁らずとも、鍵は開いております。
しかし不用心です。
もちろん私の外出が短時間なものだと察していたのでしょうが、なにぶん物騒な世情です。女の子が留守を守るならば、チェーンロックぐらいはしておいてほしいのですが。
「ただいま帰りました」
と、声をかけて家に入り、それから私は首をかしげました。
妹たちが居るはずだというのに、屋内には明かりが灯っておりません。
不審に思いましたが、足元にはちゃんと二足分の靴が並んでおります。
靴の先がそっぽを向き合っているのが妹の靴で、その横にきちんと並べられているのが妹の友人のものに違いありません。この手の作法に、わが妹はまったく頓着しないのです。
「乙女さん?」
私は玄関口から妹の名を呼びました。
返事はありません。かわりと言ってはなんですが、パタパタと、階段を降りる足音が聞こえてまいります。
わが家の二階へとつづく階段は、玄関に背を向けております。
降りてくる人はこちらからは見えませんが、どうも妹ではないようです。妹の足音はバタバタです。
「はじめさん!」
予想は、間違ってはおりません。
あわてた様子で現れたのは、芳しき美乳の少女でした。
見覚えがあります。妹と同じクラスの友人の、豊島萌ちゃんです。妹からはいつも話を聞きますし、一度紹介してもらったこともあります。
「やあ萌ちゃん。どうしたんですか?」
「あ、名前覚えててくれたんだ――じゃなくて!」
なぜか顔を赤らめて、萌ちゃんは私の手握りしめてきます。おとなしそうな娘なのに、大変積極的です。
「すぐ来て! 乙女ちゃんが大変なの!」
乙女の胸が大変残念なことは、よく知っています。
などと冗談を言う暇もなく、私は引きずられるように妹の部屋の前まで連れてこられました。
「乙女ちゃん? お兄さん連れてきたよ!」
「ダメ! 入ってこないで!」
萌ちゃんが扉を開けようとすると、部屋のなかから怒鳴り声が飛んでまいりました。
わが妹の声です。
しかし、嘆かわしい。
胸に関しては大変残念に思っておりますが、私は家族として、妹を愛しております。言下に突き放されるなど、あまりに心外でございます。
「乙女さん? 入りますよ?」
なにするものぞと、ためらいなく扉を開きます。
そこで私は、茫々然と立ちつくしてしまいました。
なかからは確かに乙女の声が聞こえてきておりました。
なのに薄暗い部屋の中に、彼女の姿はなかったのです。
「乙女さん?」
ドア脇のスイッチを入れ、明かりを灯しながら、部屋に入りました。
洋服ダンス、クローゼット、本棚、学習机、ベッド。ざっと目を走らせても妹の姿はありません。狭い6畳間、隠れる場所などほとんどないはずです。
「乙女ちゃん!」
萌ちゃんが脇をすり抜けて、妹に呼びかけました。
しかしクローゼットの裏やベッド下の隙間には、さすがに薄い体つきの妹でも入らないと思いますよ? せいぜい10センチメートルほどですし。
萌ちゃんの呼びかけにも、応えはありません。
私はしかたなく、奥の手を使うことにいたしました。
元来、わが妹は己の平らな胸に関して過剰にコンプレックスを抱いております。
「――扁平胸」
ぼそりと言っただけですが、かたり、と本棚が揺れました。効果は抜群です。
「フルフラット。皆無乳。AAA未満」
しゃきしゃきと、金属を擦るような音が、確かに聞こえました。
その一角にあるのはマンガとティーンズ誌ばかりの本棚と、隣接する本棚付きの学習机。妹が隠れることができそうな場所といえば、机の下くらいのものです。
私はそっと学習机の下を覗き込みました。
しかし、予想に反して妹の姿はありません。
「おかしいですね?」
首をひねりながら立ち上がったところで。
首筋を、なにか冷たいものが薙いで行きました。
ひたりと首筋に手を当てます。
おくれ毛がごっそりと刈り取られておりました。
ひやりとして私は机わきにある本棚に目をやりました。
学習机と本棚の間には、ほんのわずかに隙間があります。むろん人が収まる空間ではありません。
――まさか。
かぶりを振りながら、隙間をのぞき込み。
あまりの光景に、私は悲鳴をあげることさえできませんでした。
学習机と本棚の間、わずか5センチメートル。
そこに、私がよく知る、愛すべきわが妹が収まっていたのです。
「ふしゃーっ!!」
腰を抜かした私の頭上を、ハサミを持った妹の手が掠めていきました。
ああ、なんということでしょう。彼女の手は、まるで紙のように、厚みとはまるで無縁なものだったのです。
「……見られたら、しょうがないか」
そう言って、不承不承といった風に、妹は隙間から出てまいりました。
広い空間に立つと、異質さが際立ちます。等身大に切り抜かれた妹の写真がしゃべり、動いている。まるで絵空事です。
私はと言えば、妹の足元で腰を抜かしたまま、立ち上がれないでおります。
大抵のことには驚かない性質ではありますが、さすがに度肝を抜かれました。
「どう? 見なけりゃよかったでしょ?」
妹は怒ったように、ペラペラな手で腕組みします。
もともと谷間ができるような胸ではありませんが、いまは紙きれのような薄さです。
「……よく考えたらあまり変わりはありませんね」
「きしゃーっ! いまどこ見て言ったバカ兄ぃっ!」
「乙女ちゃん! どうどうっ! ハサミはやばいよーっ!」
ちょっとした失言からとんだ修羅場に発展したわけですが、さておき。
私は気が鎮まった妹と萌ちゃんから、妹がこうなった経緯を尋ねました。
妹はたいそう嫌がりましたが、やはり藁にも縋りたい心境なのでしょう。萌ちゃんの説明をあえて止めることはしませんでした。
本日昼過ぎの事でございます。
妹と萌ちゃんは、自転車で繁華街に出かけておりました。
とくに狙いのものなどなく、お気に入りの店をぶらぶらと回るだけのつもりだったようですが、萌ちゃんは三毛猫のブローチを衝動買いしてしまいました。
店を出たところで、萌ちゃんは人にぶつかってしまい、ビルとビルの隙間にブローチを落としてしまいます。隙間は非常に狭く、さすがの妹でも体をねじ込むことができません。
「乙女ちゃん? わたしお店で棒かなにか借りてくるよ」
萌ちゃんは止めましたが、乙女は大丈夫、と無理して体を押し込もうとします。
はらはらとしながら見ていると、不意に乙女が隙間の中に吸い込まれるようにして倒れました。
「乙女ちゃん、大丈夫!?」
「だいじょうぶ……」
萌ちゃんが声をかけると、隙間のなかから声がします。
なんの気なしに覗き込んで、萌ちゃんは悲鳴をあげました。
隙間のなかで尻もちをついている友人の体は、比喩でも何でもなく、まっ平らになっていたのです。
「――それで、あわてちゃって。とりあえず乙女ちゃん自転車こげないし、人目に付かないように、その、服のスキマに入ってもらって……」
「萌ちゃん胸超大きかった」
「黙りなさいバカ妹あとでくわしく」
「かわりに冷蔵庫のプリン」
「ダース単位で持って行きなさい」
「わーい」
「……乙女ちゃん? 自分の状況わかってるの? あとはじめさんもバカなこと言ってないで真面目に考えてください」
重要な取引を成立させていると、萌ちゃんに叱られてしまいました。
乗ってしまった私もどうかと思いますが、自分の置かれた状況すら忘れてしまうアホの子ッぷりは、いかがなものかと思います。
「考えて、と、申しましても、こんな途方もない現象、私ごときの手には余ります」
妹の胸にポンと手を置いたつもりでしたが、のれんを押したように、頼りない手ごたえでした。
擬音にするとペラン。
「……」
「兄貴、言いたいことあったら言えば?」
私は首を振りました。
笑ってはいけません。
いくら胸がぺらぺらだと言っても、ペランはないでしょうペランはとか思っても、笑ってはいけません。
「とりあえず、インターネットで調べてみましょう。なにか分かるかもしれません。
乙女さん、ノートパソコンを借りますよ?」
「わかった。使っていいよ」
許可が出ました。机のわきに閉じられているノートパソコンを開き、電源を入れます。
起動音が鳴り、ウィンドウズが立ちあがるのを待ってから、私はマウスを操作して、インターネットエクスプローラをクリックいたしました。
その時です。
「あーっ!?」
妹が悲鳴をあげました。
何事かと驚いているあいだに、妹は紙きれのような体を私とパソコンの間にねじ込んでまいりました。
「ダメダメダメ中止! ちゅうしーっ! 兄貴のパソコン使おう!?」
画面を隠しながら、やけに必死に主張してまいります。
おそらくは見られたくないデータでも入っているのでしょう。
気持ちはよくわかります。私とて、いまこの部屋の片隅に放置されている鞄の中身は絶対に見せられません。
まあ、私のパソコンにも、年頃の女の子には見せられないデータが多分に入ってはおりますが、妹と萌ちゃんはなにぶん同級生です。万一ふたりの間が気まずくなったら大変です。ここは私のパソコンを使った方が無難でしょう。
と申し出ようとしたところ。
「乙女ちゃん、非常時にわがまま言っちゃだめ!」
「萌ちゃん? いやーっ!」
なにやら責任感に駆られたらしい萌ちゃんが、ペラペラになった乙女の腕をむんずとつかみ、引っこ抜いてしまいました。
あらわになる画面。そこに現れたのは。
一日三分豊胸体操。
よく効く豊胸マッサージ。
効果抜群! 豊胸サプリメント。
などなど、ズラリ並んだお気に入り登録の数々。
気まずい空気が流れました。
萌ちゃんが申し訳なさそうに手を合わせます。
妹は赤らめた顔を伏せたまま、プルプルと肩を震わせております。
「いーやーっ!! 記憶を失えーっ!!」
間一髪。
ハサミが私の耳の上をかすっていきました。髪の毛がはらはらと舞い散ります。
乙女よ。ペラペラの手では打撃を与えられないのはわかりますが、ハサミで失うのは記憶ではなく命です。
隠しておくべき秘密もばれてしまったことですし、これ以上被害を拡大しないためにも、そのまま彼女のパソコンを使わせてもらうことにいたしました。
ざっと二時間ほど調べていたでしょうか、オンライン小説と都市伝説以外では、似たような話は見つかりません。
ふと外を見れば、すでに日は沈みかけて居ります。
「萌ちゃん。今日はいつまで居ていただけるのですか?」
「もう帰らなきゃだけど、乙女ちゃんが心配だし、今日泊まります」
気遣いが大変ありがたいです。
良い友達でいてくれてありがとうと頭を下げたい気分ではありますが、そういう気まわしは、思春期の少女にとっては煩わしいものでしょう。私は心の中で感謝いたしました。
「やった! じゃあ今日はパジャマパーティだね!」
アホの子の言葉に、私も萌ちゃんも、思わず肩を落としました。
萌ちゃんは着替えとパジャマを取りにいったん家に帰りました。
わたしのを使えばいいのに、などと言っておりましたが乙女さん、あなたのものでは下着もパジャマも明らかにサイズが合いません。
ともあれ、いまのうちに両親に連絡することにいたしました
せっかく旅行を楽しんでいるのにと妹は嫌がりましたが、家族の大事です。両親には知っておく権利と義務があります。
と、妹を説き伏せてはみたのですが。
父よ、爆笑しないでいただきたい。
まあ途方もない話ではあるのですが、冗談の類と思っているのでしょうが、実際異常を目の当たりにしている私からすれば、ひどい対応だと言うほかありません。
ぐうの音も出ない証拠として写メールを送りましたが、写真で見るとリアリティがないというか、すごくウソ臭いです。乙女がピースサインなぞ出しているので余計に。
そうしていると乙女の携帯のほうに着信がございました。
乙女はペラペラの手を使って器用に通話ボタンを押します。
「あ、もしもし、お父さん? ……冗談? 違うよ、ホントにこうなってるんだもん!」
どうやら妹に真偽を確認しているようでした。
すこし傷つきました。私が家族にウソをつくような人間だと思っているのでしょうか。
「――父さんたち、帰ってくるって」
しばらく話をしてから、乙女は気落ちしたように言ってまいりました。
「せっかくの結婚記念日なのに、迷惑かけちゃった」
「かわいい娘の大事です。お父さんたちも、迷惑だとは思っていませんよ」
そう言っても、やはり気がとがめるようで、妹は肩を落としております。
そうしていると、ふたたび妹に電話がかかってきました。萌ちゃんのようです。妹の顔が見る間に晴れました。
「兄貴、萌ちゃんのお母さんがわたしたちの分まで晩御飯包んでくれたから持ってくるって! 萌ちゃんのお母さんのご飯、おいしいんだよー」
この娘の将来が心配になってまいりました。
しばらくして、萌ちゃんが大きなタッパー片手に戻ってまいりました。
中身は煮込みハンバーグとポテト、パンプキン、グリーンピースの三色マッシュのサラダで、子供舌の妹は大喜びでございます。
しかし彼女のはしゃぎようが決して大げさではないと、一口食べた瞬間に思い知らされました。
「とても――とても美味しいです」
舌がしびれるほどの美味です。
私は感動してそれだけしか言えませんでした。
「あ、ありがとうございます。わたしも手伝ったんですよ!」
「そうですか。萌ちゃんはいいお嫁さんになりますよ」
褒めると、萌ちゃんは真っ赤になってうつむいてしまいました。
恥ずかしがっているのかと思えば、ニヤニヤ笑いを必死で押し殺しながら、細かくガッツポーズしているようなので、喜んでくれているようです。
食事を終え、またインターネットでの調査が始まりました。
といっても、やはり同じような症例は見当たりません。そうしているうち、夜も更けてまいりました。
さすがに頭も疲れてきております。
いい時間ですので、妹から順番に、お風呂に入ることにいたしました。
「はじめさん」
妹が風呂に入ってからしばらくのことです。
それまで私の後ろで一緒にモニターを見てくれていた萌ちゃんが、ふいに話しかけてまいりました。
「なんでしょう?」
「乙女ちゃん、あんな感じだけど、はじめさんが帰ってくるまで、無茶苦茶沈み込んでたの」
「……そうですか」
まあ、そうなのでしょう。
妹はアホの子ですが、自分の体が突然、別物のように変わってしまった。そんな状況で恐怖を感じないはずがありません。
「乙女ちゃん、お兄さんが大好きなんだね」
「たとえ乙女さんがどんな姿になったとしても、私は無条件で愛する自信があります。そうでなくては恥ずかしくて家族だなんて言えませんよ」
もしかしてこれは平川家流なのかもしれませんが。
人間の集まりの中で、血のつながりというのは唯一感情も利害も超越した、まったくの無条件な集団なのだと、私は深く信じております。
「……ちょっと感動しちゃった」
萌ちゃんは、心なしか目を潤ませております。
「わたし、帰ります。心配だったけど、わたしがいると乙女ちゃん、へんな意地張るみたいだし」
「駄目です」
萌ちゃんの申し出を、私は却下いたしました。
「もう遅いですし――送っていこうにも、乙女さんを放っておくわけにもいけませんから」
若い女性が出歩いていい時間は、とっくの昔に過ぎております。
かといって妹を放っておくわけにも参りませんので、萌ちゃんには、あらためてお泊りをお願いいたしました。
夜半を回りました。
ずっとネットを巡回しながら妹の症状について調べて回っているのですが、類例すら確認できません。
さすがに頭がぼうっとしてきたので、風呂に入り、自室に戻ったところでおもむろにおっぱいがいっぱい祭りの開催をもくろんでいたところ――ふいに、一足先に休ませたはずの妹の呼ぶ声が聞こえました。
「兄貴」
「なんで、す!?」
ふりかえって、思わず腰を抜かしかけました。
扉の隙間から薄っぺらい手が揺れています。ホラーです。とてつもなくホラーです。
「乙女さん、ドアはちゃんと開けなさい」
「へへへ」
誤魔化し笑いをうかべながら、ドアの隙間から入ってまいりました。
乙女さん。あなた自分の体を便利に使いすぎでしょう。もうすこし人間としての矜持を持ってほしいところです。
ともあれ。
「乙女さん。言いたいことがあるのなら、遠慮なく言ってください」
言いにくそうにしている妹に、私は声をかけました。
妹はちょっと驚いたように目を見開いて、ためらいながら口を開きました。
「兄貴、ごめんね」
「なにがです?」
「こんな遅くまで、わたしのために頑張ってくれて」
恥ずかしいのか照れくさいのか、ふてくされたような表情で、妹はそう申しました。
「乙女さんは偉いですね」
「ふぇ?」
「自分が大変な時に他人を気遣えるなんて、素晴らしいと思います。
でも、いいんですよ。こんな時くらい、目いっぱい甘えてください――本当はなにか、隠しているんでしょう?」
説明を萌ちゃんに任せたり、その間しきりによそ見したり。思えばずっと変でした。
萌ちゃんには、あるいは私にも、ひょっとしたら知られたくないことなのかもしれませんが、良い折です。この際聞くことにいたしました。
「……なんでわかるのかなあ?」
「あなたが隠し事をするのがものすごく下手だからです。さあ、教えてください」
もう一度促すと、妹はすこし怖じたように唇を震わせ、打ち明けてくれました。
妹がブローチを取るために顔を突っ込んだ建物と建物の隙間。
そこには、いたのです。
人を平面に押しつぶしたような、まるで寓話に出てくる隙間女そのままの、化物のごとき存在が。
「あなたあなたあなたワタシがミエルのねきききき」
金切り声をあげるようにして隙間女はまくし立てます。
「ああ ああ ワタシとおなじニオイがするわ うすっぺらいニンゲンのニオイがするわ なるのよなるのよワタシみたいにワタシとおなじにうすっぺらでうすっぺらなバケモノにきききき」
悲鳴さえ出せずにいる妹の手を、化物は握りしめ――その瞬間。まるで引きずり込まれるような感覚を味わい。気づけば妹は、このような体になってしまっていたのです。
あまりに荒唐無稽な話でした。
ですが、それに等しい荒唐無稽が目の前にある以上、まさしく実際起こった話なのでしょう。もとより乙女さんに現実味のある嘘を構築する能力などありませんし。
「兄貴」
震える唇からそれだけ押し出すと、妹は目を潤ませます。
「わたし……わたしずっと思ってたの。自分が、薄っぺらだって」
妹は語り始めました。
高校三年生になって、みんな進路を考えている。
教育大学だったり、看護学校だったり、音楽大学だったリ、進路はいろいろだけれど、みんな将来のヴィジョンを持っている。萌ちゃんだって栄養士の資格を取るためにそっち方面の学校を考えている。
兄貴だって、先生になるためにいまの学校を選んでいた。
「わたしにはないの。やりたいことも、なにになりたいとかも、全然ないの」
苦しそうに、妹は告白いたしました。
正直驚きました。いつもフラフラしていて、なにも考えていないと思っていた乙女さんに、そんな悩みがあっただなんて。
「――だから、引き込まれたんだよ。わたしは……薄っぺらなんだ」
自分をあざけるように、吐き捨てる妹。
そんな彼女に、私はゆっくりと言いました。
「そんな事はわかっています」
と。
「私の妹が人類まれにみる貧乳だってことは、中学まで一緒のふとんで寝ていた私が保証します」
「な……つっ! バカかあんたは!?」
「――だけど、それ以外は認めません。私の妹が薄っぺらな存在だなんて、絶対に。
乙女さん、父さんや母さんは君を愛しています。でなければ、こんな嘘のような話を聞いて旅先からわざわざ戻ってくれますか?
萌ちゃんだってそうじゃないですか。あなたの事を、あんなに必死に考えていてくれているじゃありませんか。もちろん私も、誰よりもあなたのことを愛しています。
どうです? それでもあなたは薄っぺらですか?」
薄い肩に手をかけ、さとすように、私はなお言い立てます。
「乙女さん、あなたは薄っぺらなんかじゃない。あなたの中には、私たちみんなの思いが、詰まっているんですから」
真正面から、私は言い切りました。
妹は目を潤ませながら、じっと私の言葉を噛みしめているようでした。
そして。
「……もう。恥ずかしくないのそんなセリフ?」
うつむいた妹の声は震えておりました。
「泣きたければ、泣いてもいいんですよ?」
「泣いてないもん!」
言いながら、妹は私の胸に顔をうずめてまいりました。
きっと、不安だったのでしょう。私は妹の背にそっと手を当てました。
その時です。妹の体が、見る間に厚みを持ち始めたのです。
あっというまでした。あらためて見たときには、すでに見慣れた彼女の姿に戻っております。相変わらずの薄さですが、そこには確かに、人間としての厚みがありました。
結局、最初から最後まで、わけのわからない、不思議な出来事でした。
なぜ、乙女の体が平面になってしまったのか。なぜ元に戻ったのか。それも確証を持って説明できることはありません。乙女が見たという隙間女の正体も、やはりわかりません。
私はこの不思議を深く追及しようとは思いません。
妹が元の姿に戻った。その事実があれば、私は満足なのですから。
穏やかに日々は過ぎていきます。
父と母は、このたび結婚記念日の旅行のやり直しに出ております。
萌ちゃんがその間の食事係をかって出たりと、我が家は平穏無事です。
そう言えば、妹が進路を決めました。
聞いた時には思わず噴き出して、彼女の機嫌を損ねてしまったのですが。
まだ高三の夏休み前です。遅くはあっても決して遅すぎはしないのですが……担任の先生の頭を痛める姿が、今から目に浮かぶようです。
なんと我が妹は――先生になりたいというのですから。
ちなみに乙女さん。いまあなたが苦戦しているのは数学ではなく算数の問題です。