俺と鬼と賽の河原と。
畳の上に体を横にし、目を瞑る俺の耳朶を叩く声は。
「薬師……」
そのはっきりとした、よく通る声は。
「薬師……っ」
そう、それは彼女の声だ。
背が高くて、きっちりしてて、几帳面な彼女。
「薬師――」
切なげで、恥ずかしげな声が、鼓膜を叩く。
果たして、何故彼女は、俺を呼んでいるのだろうか。
「きっとお前は気付いていないんだろうが……」
半分眠りかけているボケた頭で考える。
しかし、そんな考えも吹き飛んだ。
「……好きだっ……」
……すまん李知さん、俺、起きてるんだが。
眠気は、一瞬にして吹き飛んだ。
罰ゲームかなにかだろうか。だとしたら性質が悪い。
ただ、なんにせよ、真意はつかめなかった。
寝ている俺に。少なくとも李知さんは寝ていると思っている俺に、『すきだ』などと言葉にする理由は出てこない。
冗談かもしれない。何らかのからかいかもしれない。
ただ、李知さんはそう言った人となりをしていない、という否定要素もある。
結局、俺は困惑するしかなかったのだ。
……一体どういうことなんだ、と。
はたして、俺はどうすればよかったのだろう。
徐に身を起して、李知さんに向かって、そうか、そんなに俺が好きか、とにやけ面で言ってみればよかったのだろうか。
しかし、結局俺はタヌキ寝入りを続ける道を選んでしまった。
そう、結局、量りあぐねたのだ。一体李知さんが何を思っているのかを。
そうして、李知さんは走り去ってしまった。
俺は、ただ呟く。
「……誰か、説明求む」
ただ。
その後李知さんはいつも通りで。
「なあ、李知さん」
「なんだ?」
「いや、なんでもないんだ」
あまりいつも通りだから、きっと幻聴か夢か何かだろう、と俺は勝手に納得した。
「好きだっ……。こんなこと、起きてるお前には言えないけど……」
夢じゃなかった。
其の番外編「馬鹿」
夢ではない。
現実であり、事実である。
幻聴ではない。
確かな言葉であり、あまりにも確実である。
「よぉ、季知さん。おはようさん」
「おはよう、薬師。今日もいい天気だぞ」
ただ、非日常の訪れ、と言うにはあまりにも普通過ぎた。
好きだ。
好き、というにも色々ある。友人に対するもの、家族に対するもの、異性に対するもの。
そう言った経験に乏しい俺にはこれだ、という判断は付かなかった。
だが、しかしあれは――。
考えるのをやめて、俺はソファに座る。
そして、目の前の机の上にある雑誌を手に取った。
別に考えがあって取ったわけでもなく。
暇つぶしとばかりにぱらぱらと頁を捲る。
そして、なんとなく止まる手。
そこで初めて、雑誌に焦点を合わせてみれば、そこにあったのは胡散臭い睡眠学習の紹介だった。
『就寝前に専用CDをかけながら眠るだけ! これで貴方も錬金術師!!』
……あるわけがねー。
ずらずらと学習法成功者の言が並んでいる部分を流し読みしつつ、やはり胡散臭い、と俺は感想を下してふと、言葉にした。
「なあ、季知さん」
「なんだ」
季知さんは、ソファに座る俺の前までわざわざ歩いてやってきた。
律儀なことだ。その律儀さは別に嫌いではないのだが。
ただ、上から見下ろすのはやめて欲しい。威圧感が半端ないから。
まあ、座ったまま話している俺が悪いんだけどな。
勝手に納得しつつも、立ち上がるつもりはない。
ただ、目の前の雑誌に目を落としながら、コップから水を飲む季知さんに俺は聞いた。
「季知さん、俺のこと好きか?」
結局、こういった駆け引きは俺の得意分野から外れている。
だから、至極当然に言葉にした。
返ってきたのは――、
冷や水である。
いや、比喩表現でもなんでもなく。
あまりに驚いた季知さんが口に含んでいた水を吐き出しただけの話。
「ば、ばばばっ、馬鹿っ! 何を言ってるんだお前は!」
ぶふっ、と掛けられた水は景気良く俺の頭を濡らした。
確かに少々不躾な問いではあったが、あんまりな仕打ちではなかろうか。
「……季知さんよ」
恨めしげに俺は季知さんを見上げる。
すると、季知さんは自分のしでかしたことに気が付いて、慌てた様子を見せた。
「ああっ、すまん! い、今拭くから――」
ばっと取られるちり紙。
至近距離にて、季知さんは俺の顔を拭っていく。
ただし、ごしごし、ぐにぐにと、余裕がないせいか大分痛いが。
「所で季知さん」
俺は、されるがままに、呟く。
「なんだ?」
「顔が近いと思うんだが」
「あ。――っ!!」
俺が呟いた瞬間、慌てていた季知さんの顔は真っ赤に染まり。
彼女はばたばたと逃げ出した。逃げ出した向こうから、派手に家具をひっくり返すような音が聞こえたが、俺は気にしないことにした。
それよりも、だ。
季知さんは。
彼女は……。
脈があるということでいいのだろうか。
どうしても気になる。
だから、もう一回聞いてみた。
しかし、返ってきたのは、
「そ、そんなことあるわけないだろうっ……? いきなり何を言い出すんだ……、ばか」
そんな否定。
「薬師。薬師? 寝てるのか?」
そうか、違うのか。
でも、ならば。
何故。どうして。
「薬師……」
何故季知さんはそんな風に俺の名を呼ぶんだ。
優しく握られる手。
撫ぜられる前髪。
どうしていいか非常に困る。
果たして、俺は何を求められているのだろうか。
非常に歯がゆい状況といえる。
いつから季知さんはこうして寝ている俺の名を呼ぶようになったのだろうか。
うかがい知ることはできない。
俺は、薄目を開けて季知さんを見る。
そこには、正座で、恥ずかしげに頬を赤くして俺の手を握る季知さんがいるだけだ。
その姿は居心地悪そうで、そのくせ、そこから動こうとしない。
再び、俺は固く目を閉じる。
狸寝入りを続ける他に、俺に選択肢はなかった。
……今日も、か。
以来、俺の狸寝入りは増えた。
別に、狸寝入りしたいではない。
ただ、横になっても気になって眠れるわけがなく。
昼寝の度にちらつくのだ。季知さんの恥ずかしげな表情と、あの声が。
だから、
そして今も。
「薬師……、好きだ」
いとおしげに季知さんは呟いた。
座敷の畳の上。
寝れるわけがない。眠れるわけが無い。
そうして俺は狸寝入りを続ける。
既に、日常と化していた。
ただ、今日は。
その日は。
「そうか」
限界だったのだろう。
何が限界だったのかは分からない。不明瞭な現状にか、それとも昼寝が出来ない日々にか、別の何かにか。
俺は身を起こしていた。
季知さんが驚愕に顔を染める。
「やっ、ややや、お、起きて!?」
「ああ」
動揺したまま立ち上がった季知さんを、俺は胡坐を掻いて見上げる形と相成った。
俺はそのまま、季知さんに語りかける。
「なあ、季知さん」
ごくり、と季知さんの方から生唾を飲み込む音がした。
それを了承とするように、俺は問う。
ずっと気になっていた。それの問い。
「お前さん、俺のこと、好きか?」
そして、問えば――。
「っ――!」
まるで金槌で殴られたような顔。
まるで、この世の終わりのような、そんな顔。
季知さんはそのまま走り去ってしまった。
「……」
ぴしゃりと、襖が閉まる。
こんなときまで律儀だ。
それから、十秒。
ゆっくりと固まっていた俺はのそのそと、立ち上がった。
「ここで追わなきゃ、男じゃねーよなぁ……」
溜息交じりに呟く。
そもそも俺は、俺は何を問題にしているのだろうか。
別に、だ。
季知さんにどう思われていようが、そうかと勝手に納得して寝てしまえば良かったのだ。
そうすればいつも通り、何が変わることもなく終わっていたことだろう。
では何故俺はそれを問題視して、身を起こしたのか。
……よく分からんな。
分かるまで考えろ。
分からないが、心中の俺は至極まっとうなことを言っている。
放っておいてはならない問題だと、思う。
何故、季知さんに起きていることを知らせたのか。
現状維持を望むのなら、寝たふりを続けて慣れてしまうのが一番だったのではあるまいか。
ならば、それは。
俺が何らかの変化を望んだと。そういうことなのか。
俺は何か変化を期待しているのか。
それならば。
季知さんは、すぐに見つけた。
白い雪の中を走る黒い影は、些か目立つ。
随分と遠くまで走ったものだ。
季知さんが地面が陥没する勢いで走っているため、こちらなどは全力で飛翔中である。
「くっ、来るな馬鹿っ!」
「待てと言われて待つ奴がいないように、来るなと言われて来ない奴はいないっ」
人外の追いかけっこは周囲に迷惑な状況で、続いていた。
しかし、天狗と鬼では速度に差がある。
程なくして、俺は季知さんに追いついた。
「ひぅっ! 駄目だっ!!」
その瞬間。
すぐ後ろに来た俺に、振り向いて、季知さんは金棒を叩きつける。
避けるのは容易だった。が、避けてはまた離されてしまう。
……必要経費だと思って諦めるさっ!
振られた金棒を右手で受け止める。
衝撃。
渾身の力で振るわれた金棒は、不安定な体勢で受け止めきれることもなく、地面に踏ん張って留まろうとした俺の頭ギリギリまででやっと止まった。
金棒の棘が、手の甲を突き抜け、挙句軽く頭から血も出たが、仕方がない。必要経費だ。
金棒はがっちり掴み、季知さんを止める。
「薬師、お前っ、馬鹿! なんで……」
「季知さん」
受け止めた俺の怪我を見て、季知さんが慌てて捲くし立てるが、俺はそれを遮った。
「……泣いてるのか?」
ぽろぽろと、季知さんの両目からあふれ出している雫の名前は、十中八九、いや、確実に涙だろう。
「な、泣いてないっ!」
白々しくも、いっそ清々しく季知さんは嘘をついた。
ぶんぶんと首を横に振り、いつものスーツで目元を擦る。
黒く長い髪がふわふわと舞っていた。
「どう考えても泣いてるだろーに」
拭っても、涙は止まっちゃいなかった。
自由な左手で、俺はその涙をすくう。
まあ、確かに昔から思っちゃいたのだ。
放って置けない、と。
決して、この人に俺は、泣いてほしかないのだ。
「……なんで、泣いてるんだ」
俺は問う。予想までは出来ても、俺に全てをうかがい知ることはできない。
こういった経験の無さが裏目に出ている。
「あ……、あんなことしてたのがばれて……、平気でいられる訳があるかっ」
あんなこと、要するに俺が寝てる間のアレ、か。
「薄気味悪いだろう!? それでっ、嫌われてしまったら私は――」
なるほど。分かった。理解した。
ならばいい。これ以上は泣かせたくない。
「――とりあえず」
季知さんを遮って、俺は口を開く。
「俺は季知さんには泣かないで欲しいと思ってる」
「な、なんだいきなり……、別に泣いてなんかないっ……」
困惑する李知さんに、俺は頷いた。
「そう、とりあえずだ。とりあえずなんだ。とりあえずなんだよ。とりあえず泣いて欲しくないんだ」
「そ、そんなとりあえずとりあえず連呼するなっ! まるで、私がどうでもいいみたいじゃないか……」
李知さんが悲しげな顔をする。
俺は、それをまっすぐに見て、言った。
もう一度とりあえず、と。
「とりあえずなのさ。だから」
いったん切って、すぐに続ける。
とりあえず、で終わってしまえたならこんなことになってはいないのだ。
だから。
「次に、笑ってほしいと思っている」
「な……」
会ってから、すぐに、とりあえず、の所は思っていた。
とりあえず、別に泣いてなんか欲しくない。そして、何か放っておけない、と。
そして、次に、を思ったのはいつだったろうか。お見合いをぶち壊した時か、もっと後か。
次に、悲しい顔はやめて欲しい、できるなら笑顔でいて欲しい、と。
それで、気が付いたのだ。
とりあえず、からは一本道。
最後にたどり着くのは。
「そして最後に」
まあ、そう、あれだ。
人生の墓場。
死んでから入ることになるとは思わなかったが。
「――結婚してほしい」
こういうことだ。
「な、にを……、薬師、お前、馬鹿。自分が何を言ってるのか分かって……」
動揺する季知さんを、俺は半眼で眺める。
「好きだって言ってんのさ。むしろ、お前さんこそ俺が何言ってるかわかってるのかよ」
そう言って、俺は溜息を一つ。
「お前さんは?」
そして、問いかける。
返事を待つ。
季知さんは、俺をじっと見詰めて、ひたすらに緊張した顔で見詰めて。
「――わ、私の方が好きなんだからなっ!?」
暴発した。
そして、正気に戻り、あたふたと慌てる。
「あ、あ、あ! 今の無しっ、忘れろ!!」
「いや、保存した」
「ま、またレコーダーかっ!? 馬鹿っ、寄越せ!!」
つかみ掛かってくる季知さん。
俺は首を横に振る。
「いんや、悪いが、俺の心に」
言ったら、俺の胸倉を掴んだまま季知さんは顔を俯けて脱力。
「お前は……」
うなだれる季知さんの頭は、俺の顔のすぐ下で、少し新鮮だった。
呆れたように、諦めたように、大きく溜息を吐く。
そんな季知さんに、俺はこみ上げてくるまま笑いを向けて。
「未来永劫忘れてやんねー」
言ったら、今度は季知さんは顔を上げた。
俺の胸倉を掴んだまま、腰を曲げて項垂れていたため、俺を見上げる形となる。
そして。
「……ばか」
やっとこさ、恥ずかしげに、はにかむように笑ってくれた。
よし、じゃあ。
「――結婚しよう」
「返事は?」
「お、お前がそこまでいうなら……、け、け、結婚してやってもいい……」
「じゃあ、そこまで言わない」
「なっ、ななっ! 嘘だっ、もうこんなこと言わないから――」
「はっはっは、冗談だ。……まあ、あんま心配すんなって。季知さんが素直じゃないこた分かってるんだからな。わざわざ寝入ってないと思いを伝えられないくらいに」
「……薬師、お前はいじわるだ……」
「んなこと、分かってたんだろう?」
俺はにやりと笑う。
「っ……! 馬鹿」
雑誌の裏や途中でよく見る、睡眠学習法。
あんなのは嘘っぱちだ。それで頭がよくなるなら誰だって試してる。
「どうせなら」
「なんだ? 薬師」
「起きてるときに囁いてくれよ。寝てるときじゃなくてな」
「な、馬鹿っ。出来るわけないだろう!」
そう思っていたんだが。
「あいわかった。ほら、寝たぞ。来い」
意外と嘘でもないのかもしれない。
今ではそう思う。
なぜならば、そう。
「ばか……、薬師――」
――寝ても覚めても季知さんのことばっかりだ。
「あ、……愛してる……」
にやつきながら季知さんの膝の上で狸寝入り。照れた季知さんが可愛くてしょうがない。
握った手は温かく。
俺はくつくつと笑った。
「……そうか」
「本当に……、ばか。恥ずかしいったらない」
仕方が無いので、最大級のにやついた笑みを俺は返してやった。
「――そうか」
―――
前回、前々回の番外は、残しておくとじわじわと真綿で首を絞めるように記事移動その他が辛くなっていくので、ホームページに格納します。近々。
もう一度読みたくなったらそちらへ。
番外編倉庫に入れておきます。後で。
尚、どうやらアルカディアでアドレスを置くと弾かれるようになったらしく、投稿できませんのでお手数ですが、俺と鬼と賽の河原と。で検索を掛けてくださると一番上に出てくるはずです。