──本当に持っていくのですか?
──何を今更。これを使わなければ勝てないと、貴方が言ったんじゃないですか。
少年は、口を尖らせて不満を洩らした。
──そう……ですね。けれど、出来るなら私は……いえ、絶対にこれを使っては欲しくありません。きっと違う道もあるはずだと信じています。
──ありがとうございます。僕もそう願いますよ、でも、万一の為にこれは預からせて貰いますね。
女性の手から、少年は銀色に輝く何かを貰う。思わず目が行くような光沢と輝きは美しく、見るからに価値の高い、そして頑強そうな印象を受ける。ただ、それと同じほどに、見る者に不安感を植えつけるようなそれは、なんとも不可思議な代物だった。
──分かっていますね? これを使うとき、貴方は……
女性の警告を耳にしながら、少年は空を空を見上げた。太陽も星も、まだ見えない。
正直に言って侮っていた。
敵ではない、彼女である。強いというのは分かっていたし、それなりに頼りになるのも確かだ。けれど、詰めが甘い。それを感じ出したのは、やはり女性化してからの醜態が印象深いのだろうが。
魔王城で、彼女の強さはある程度理解していた。それがそもそもの間違いか。それから多少の修行をしたところで、私やクロノには及ばないと勝手に考えていた。私自身、相当の魔力を秘めていると自負しているし、クロノも今では立派な戦士と化していた。何より、場を動かす事に関しては彼は特級である。
よく言えば剣の達人、悪く言えばそれしか出来ない不器用な人間だと、カエル──いや、クロノと同じくグレンと呼ばせてもらおうか。グレンを評していた。
……グレンは、今や八匹の魔物を切り倒し、血糊を払っている。彼女の動きを、私は見ることは出来なかった。魔力を練って、二体の魔物を焼き尽くした後に見た光景がそれだ。速さならエイラに次ぐと思っていたクロノでさえ、三体の魔物を薙ぎ払っただけ。残る魔物はグレン一人で相手したのだ。
正に閃光。彼女の剣先が揺れたと思った瞬間、摩擦熱すら生じる飛込みで魔物の脇を通り過ぎ、その際に切り刻み、鞘に剣を戻す。数瞬後に、魔物たちは膝を落としていた。
「随分強くなったんだな、グレン。いや速くなったか?」同じように刀を納めながら、クロノがカエルに声を掛けた。
「まあな。蛙だった頃に比べて力は落ちたが、その分速さを鍛えた。元々の、俺の戦い方を思い出したというところだ」
血飛沫さえ体に付けず戦う彼女は、流麗というか、優雅にさえ映る。多分に嫉妬を込めて言えば、かまいたちみたいだ、と思った。
「グレンがそこまでやれるなんてね。援護役の私なんて必要なかったかしら?」
「そうでもないさ。流石に俺も空中に浮かぶ敵にはてこずる。ルッカを頼りにしてるからこそ、自由に動けるのだ」
「へ、へえ。ところでクロノも強くなったのね。グレンほどじゃなくても、三匹の魔物を刀だけで倒すなんて!」
謙虚でもなく、奢るでもない彼女はなるほど、騎士と言えよう。紳士的で、本音だと分かるそれに私は赤くなった顔を見られないよう、クロノに話を振る。
「だろ? もっと褒めろ」
彼はもう少し謙虚でいるべきだと思う。いっそ性別が逆なら……グレンはともかくクロノは気持ち悪いわね。
黒の夢に入って一時間。かなり歩き回ったと思うのだが、一向にジールの姿は見当たらない。魔物は際限なく現れ私たちの体力を削るばかり。とはいえ、他の誰かに交代することも出来ない。ここにいない仲間は皆それぞれの世界を救うべく奔走しているのだから。
「のんびりはしていられない。先に進むぞ」
グレンを先頭に、奥へ奥へと入り込む。黒の夢内部は、造りは海底神殿と変わらない。いつものように黒々として、発光する天井や床(恐らく電気の光だろう)の明かりすら吸い込んでしまうような、暗澹とした洞窟染みた雰囲気だった。何ゆえか暖かい内部は安心感よりも化け物の胃袋の中にいるような錯覚を覚えさせる。それこそ壁から伸びたコードなんか、化け物の血管では、と見紛うような不気味な形状だった。間違えて踏んでしまった時の感触はきっと一生忘れないだろう。
窓が無い為、太陽の光はここまで届かない。それがここまで心細くなるとは思わなかった。魔物たちにとってはそれが居心地良いのだろうか。私には分からない。
「なあ、なあ。そろそろ着くかね?」気だるそうに、クロノが言う。
「海底神殿と同じ大きさなら、ようやく半分ってところでしょ。あんた、もう疲れたの?」
「寝てないんだ、あんまり」そういえば昨日時の最果てで、私が寝入るまで彼は起きていた。それからもまだ騒ぎ続けたのだろうか? とはいえ自業自得だが。決戦にて寝不足だなんて、気が抜けているとしか思えない。
「我慢なさいな。最低他の皆が合流できるようになるまで交代なんて出来ないからね」
「交代したいってわけじゃないさ。ただまあ……いや、なんでもない」
様子がおかしいな、と感じたが特に深入りすることも無く、そう、とだけ告げておいた。なんとなくだが、彼の不調の理由は分かっている。私も同じだからだ。
この黒の夢に入ってから、どうも調子がおかしい。頭の中に靄が浮かんでくるみたいな、ふわふわとした感覚だ。熱病に浮かされた時と似ているが、別に気分が悪いわけでも頭痛がするでもない。戦闘に入れば忘れられるのだが、こうして歩いていると靄がまた発生する。どうしたものか。
と、悩みながらの行軍だが、ようやく今までのように狭い廊下ではなく、広い場所へと出ることができた。円形のドームのような部屋で、広さは半径二十メートルというところか。私たちが出てきた通路の対面に、同じような通路の入り口が見える。
内心、ようやく先に進んでいると確信できる場所に着いた喜びが生まれ、また戦闘か、と呆れている気持ちも生まれた。
対面の通路を塞ぐように、両手の長い、顔が異様に膨らんでいる機械とモンスターを出来損ないに融合させたような魔物が立っていたのだ。肌と電線のようなコードが繋がっている部分で、肉がぐじゅぐじゅと盛り上がり、また戻るの繰り返しをしている様は、生理的嫌悪を及ぼすには充分だった。
「俺が先に行こうか? グレン」
「いや……所詮大きいだけの魔物だ。俺一人で良い」
グレンは先んじて走り出し、単身魔物に肉迫する。念のためにとファイアの上位呪文、ファイガの詠唱をしておくが、おそらく放つ必要は無いだろう。
確かに、目の前の魔物は強敵だが、それでもグレンには届かない。これも魔物たちと戦ってきた為か、なんとなく敵の力量は分かるつもりだ。確信はしても油断はしたくないので、一応魔力は練っているが。
魔物が長大な腕を伸ばし走り来るグレンに振るが、彼女は跳躍してその腕に乗り、そのまま腕の上を走って魔物に近づいている。
それを好機としたか、魔物は腕を振り回して振り落とそうとすることもなく、そのまま口を開き豪快な火炎の息を吐いた。その威力たるや、魔王のファイガに迫るだろう。
猛炎の壁が迫る中、グレンは自分の頭の上に申し訳程度に水を生み出し被ってから、火の壁に突っ込んだ……後で髪の毛を梳かしてあげないと。
後は、いつも通り。壁を突っ切り飛び出したグレンは魔物の首筋に刃を当てて振りぬいた。首の半分以上を両断された魔物は絶命の声を上げることも無く床に倒れ、死ぬ。宙を回転しながら着地するグレンは、先ほどと同じように剣を一振りしてから鞘に戻している。
「番兵にしては、質が低い。我がガルディア騎士団の方がよっぽど屈強だ」
目を細くして亡骸を見つめる彼女にクロノは口笛を吹いて、やんややんやと手を叩いた。
「本当に強くなったなあグレン。今までとは丸っきり別人じゃねえか!」
「い、今までのことは忘れろ。これが俺の本当の姿だ」
「いやいや……メイド服で暴走したお前もお前だ。忘れないよ、あの時の事はさ」
「忘れんか!!」
そういえば、あの時の映像ってまだ残ってるのよね……今度グレンには何か奢ってあげようかしら? あんなに面白い映像を残してくれたんだから。
そんな事を思いながら、離れた場所でクロノとグレンの掛け合いを眺めていた。
──いつも通りの光景なのに、何でだろう。酷く胸が痛むのは。
ここに来てから、おかしい。時折頭ががんがんと痛む。誰かが私の頭の中で暴れている感覚に冷や汗すら浮かび始めた。気を抜けば泣き出しそうになるくらいの、心臓を締め付けられる感覚。私は左胸をぐっ、と押さえて、二人に走り寄る。
「ほらほら、速く先に進むわよ? まだ先は長いんだから……」
「なんだよ、もっとグレンで遊びたかったんだけどな…………ルッカ逃げろ!!」
急に形相を変えて叫ぶクロノに、私は「へ?」と間の抜けた声を出す事しか出来なかった。
ふと下を見てみると、私を覆う黒い陰があった。続けて上を見ると、目の前には何も見えない。巨大な何か以外には、何も。
そこまでして、ようやく魔物らしき存在が私の上に落ちてきている事が理解できた。できたからとて、何が出来るでもないのだけれど。
すると、クロノが状況を上手く把握出来ていない私の腕を持ち、引き摺り落とすように床に伏せさせる。彼は早口で呪文を紡ぎ、右手を魔物に向けた。「消し飛べ」という小さな声が聞こえた。
「シャイニング!!」
クロノの右腕が歪んだように見えた。彼の掌から産まれ出でた莫大な電流がそう錯覚させたのだろう。電流はすぐさまに集束し、球体へと変化する。丸い球体が四つに分かれて広がり、それは敵を捕食しようとしているみたいだった。
面と化した電流塊に魔物が触れた途端、その部分から消滅していく。焦げるではない、消えていくのだ。微塵と残らず、下半身から徐々に分解されている痛みと恐怖から、魔物は耳を塞ぎたくなるような悲鳴を上げた。
魔法なのだろうか、その球体が魔物を全て消滅させると、クロノが開いていた掌を握り、座り込んでいた私に手を伸ばす。「大丈夫か?」
助けてもらった礼を言わねばならないのに、何故だか私は顔を俯かせてしまった。一応、絞り上げるように、「ありがとう」と呟いたが、とても彼に聞こえたとは思えない。もごもごと口篭ったようにしか思えないだろう。
「クロノも随分強くなったな。いや、それは中世で分かっていた事だが……もう魔法ではお前に敵わんか」グレンが感嘆の声を上げる。
「でもないさ。今のでかなり魔力を消耗した。連発は出来ないし、コントロールも完全とは言えない。暴走させるとまでは言わないけどさ」
にぎにぎと拳を握る彼は少し疲れた顔をしていた。私の不注意でそうなったのは間違いない。感謝の気持ちより、申し訳ない気持ちの方が強かった。
どうしたことか、深刻に私はおかしくなっている。敵中にいるというのに気を抜くなんて、私らしくない。
──あれ、私らしいって、どんなだっけ?
まるで、『もう一人の私』が存在するような気持ちの悪い感覚。誰かに足首を掴まれているような煩わしい倦怠感が体に残っている。それでいてふわふわと体が浮くような気分なのだから、もう何がなんだか分からない。
「……どうした? 立てないのか?」ずっと手を伸ばしてくれていたクロノが訝しく顔を歪めていた。
「だっ、大丈夫よ。ありがとね」
彼の手を借りて、ゆっくり立ち上がる。貧血みたく、よろ、と視界が揺らいだがそれを悟らせたくない。ぐっ、と足を踏ん張らせた。大丈夫、大丈夫。
どうした事か。黒の夢に入った時よりも、この妙な気分が強まっている。特に、この部屋に入ってから際限なく浮遊感が高まっていた。
こんな時に風邪なのか? と考えるも、それとは違う気がする。いや、絶対に違うとは言い切れないけど、こんな状況で病気になっていたなんて笑えない。
と、今度は歩き出した二人についていこうとしない私がいた。クロノたちが先に進んでいた事にも気付けずにいたのだ。慌てて走りよるも、彼らは不審そうに目を細めている。クロノが私の肩に手を置いて視線を合わせてきた。叱られるのかな、と思ったが、反対に彼は酷く心配そうだった。揺れている瞳に私は困惑してしまう。ああ、世界中で皆が頑張っている時に私は何を心配させているのだ。自己嫌悪が頭を占める。
「なあルッカ……あの日なのか?」
「違うわよ。凄くとても違うわよ!!」肩に置かれたクロノの手を虫を触るような手つきで払い落とした。死ねばいいのに。
「恥ずかしがる事は無いぞ、ルッカ。体調が悪いなら言ってくれ。大丈夫、グレンがお前の分まで戦ってくれるさ。ほら、あいつ生理無いから。半分蛙だから」
「あるわスカタン!!」
…………まただ。二人からすれば、有り触れた光景なのかもしれない。ただそれが、私の胸を焦がしていく。楽しげに会話する二人が、嫌で嫌で仕方ない。
嫉妬か? まさか。クロノにそんな想いを持つなんて有り得ない。もしかしたら、思い出せない位前には彼の事が好きだったかもしれない。けど今は違うはずだ。良い奴だと思うし、案外優しいのも知ってる。でもそれとこれとは話が違う。悪い点よりも良い所の方が知ってるのも確かだが、恋愛とは理屈じゃない、良い所を沢山知っていたとしても、心が従わなければそれは恋愛にはならない。もう少し年を取ればその考えは変わるのかもしれないけれど。とにかく、クロノをそういう目で見てはいない。
なら、なんでこんなに痛いんだろう? 心臓にのこぎりを押し当てられて、削られるみたいだ。──自分の場所を取られたみたいだ。
「……返して」
「え? 何をだルッカ?」グレンが私の言葉を拾い、問うてきた。
「なんでもないわ。さあ、行きましょう」
そう。なんでもないのだ。ただの気の迷いか、最終決戦の中で少しおかしくなっているだけ。すぐに慣れるわ、この嫌な気分も黒の夢の中が気持ち悪くてそう感じているだけ。深い意味なんて無い。ある訳無いのよ、絶対。
少しずれていた帽子を被り直して、深呼吸。気にしなくて良い、気にしている余裕もないでしょうが、と言い聞かせる。でないとどこかから壊れてしまうのではないかと危機感を感じていた。
ドーム状の部屋を出ようと、先の通路に足を向ける。まだ私に思うところがあるのか、二人は少々渋るようだったがついてきた。大体、一人で時の最果てで休憩するなんて出来るわけ無いじゃない。私だって未来を救う為に戦ってるんだから。
──本当にそれが目的だったの?──
誰かからの問いが聞こえた気がした。
しかしてそれは勘違いで、実際には部屋の天井から、何者かが声を掛けてきただけだった。
「くそ、まだいたのかよ!?」
クロノが連戦に疲れたように愚痴を溢す。頭上から、人影が降りてきた。
結構な高さにも関わらず、そいつは音も立てず床に落ちた。薄笑いを浮かべて、感情を込めている訳でも無いのに底冷えするような声を放つ。
「よおルッカ。久しぶりか? そうでもないのか? ここじゃあ時の概念が無いからなあ、よく分からねーや」
「テラミュータント……!」
古代での戦い、海底神殿にて私が戦った魔物。マールに大怪我を負わせた憎むべき敵。その力は決して侮れない、私特製の爆弾を用いても致命傷を与えることが出来ず、その時は完敗した。
他にも、私の唇を奪った恨みも忘れていない。そのお陰で、私は……私は? どうなったんだっけ?
思考にノイズが走る。思い出せない、思い出せない。そもそも何で私はこいつを恨んだんだっけ? 強引にキスされたから? 勿論それもある。でももっと深い恨みがあったはずなのに。
……ああ、そういえば無抵抗のクロノに暴力を振るった事もあった。なんて酷い奴なんだと思った。
それだけ? 『酷い奴だ』としか思わなかったの? それで良いの? 良いに決まってる、それ以外に何を思わなければならないのか。そこに、幼馴染のクロノの痛みを返す以外に理由が必要なのか。
ああ、頭が痛い。割れそうに痛い。でもそれは表に出さない。
「クロノ、グレン、二人とも先に行って。こいつは私がやるわ」
「なっ!? 本気かルッカ! 見るからに、奴は他の魔物とは違うぞ、別格と言って良い!」
グレンが慌てながら私を止めようとする。
彼女に何か言う前に、クロノが一言、「分かった」と頷いてくれる。彼は私とテラの因縁を知っているからだろう。そうするのが当然とさえいうようだった。
「おいクロノ!? 奴が何者か知らんが、ルッカ一人で勝てる相手かどうか分からんのか!」
「大丈夫だグレン……ルッカはそうヤワじゃねえよ。だよな?」
クロノの確認に、私は笑って応える。なぜか、こんな風にお互いを分かり合っているような行為が嬉しく思えた。全く持ってどうにかしてる。
「何より、ルッカが決めた事だ。それなりの理由も知ってるつもりだ、邪魔できねえよ……後からすぐ追いつくんだよな?」クロノの言葉に、私はいつか誰かが言ったような台詞を放つ。
「その質問に、答えがいるかしら?」
「……違いねえ」
二人がここから離れていくのを感じる。テラと向かい合っているので分からないが、足音が離れていった。
存外、信用されるのは悪くないわね。
「待たせんなよなあ、でもま、お前と二人っきりになれんのは嬉しいけどさあ」過去の記憶通りに、テラは軽い口調で笑った。
「そう? 私は虫唾が走るわ。とっとと終わらせるわよ」言いながら、火炎を体から迸らせる。すぐに決めてやるつもりだった。
「強いなあ、言葉だけは……それとさ、もしかしてなんだけど、お前……」
手首を鳴らしながら、テラは私の顔を覗き込むようにして、ぽつりと呟いた。
その言葉の意味は分からなかったけれど、私の心はざわめき始めた。何かが始まる予感と、終わる予兆を感じながら、戦いの鐘が鳴る。
「記憶、改竄されてねえ?」
「本当に良いのか? ルッカ一人に任せて……」走りながら、グレンが眉根を寄せながら言う。
「心配し過ぎなんだよグレンは。ルッカの強さはお前も知ってるだろ……いや一緒に戦った事はあんまり無いのか?」
そもそも旅に出る三人パーティーではいつも俺が組み込まれているので、そう他のメンバーは俺以外の力量をあまり知らないのかもしれない。かくいう俺もルッカと共に戦ったのは俺が死ぬ前だから、どれ程に強くなったのかは分からないのだが。
確かに、ルッカは単独で戦うタイプじゃない。後方から魔法や銃で援護するのが最もらしい戦い方なのだ。近接戦闘は得意で無い彼女を一人で戦わせるのは悪手だろう。そんな事は俺でも分かってる。けれど、それでも。
何故だか、奴と戦うのはルッカでないといけない気がしたのだ。ルッカがあいつを倒さない駄目なんだ。ルッカがそう言ったのだから。
──あいつがそれを言ったのって、いつだっけ?
絶対殺すから、と言ってた気がする。それはいつの事だろう。記憶を手繰り寄せても、一向に答えは出なかった。酷くもどかしい。
「……負けないさ。あいつは負けない。約束は破らないんだから、あいつは」
念入りに言う俺を、グレンは小さく笑った。
「信頼しているんだな、ルッカを」
「長い付き合いだ、ある程度は信頼してるさ」
「ははっ、そうか……」
「悪いか?」気恥ずかしくなって、ちょっと不機嫌に言う。
「悪くない。むしろ良い事だろう」
若さを羨むような視線がうっとうしい。なんだその弟分を見るような目つきは。非常によろしくない。背中がむずむずする。
知らず後ろに手を伸ばし肩甲骨の辺りを擦る。「ダニか?」と聞いてくるこいつの何とも言えぬ感覚がある意味羨ましい。
「……それでも、離れがたいと考えるのは、信頼してるってことなんだろうな、お前も」
何を言われたのか分からなかったグレンは「?」と首を傾げる。それで良いさ。面と向かって言うつもりも、遠回しに伝える気も無い。そういうものだろう、仲間とは。
……そういえば、覚えているだろうか、あいつは。俺はあまり記憶に無いけれど、何故おぼろげなのかも分からないくらいだけど、覚えていてほしい。出来れば、俺が忘れているそれを教えてほしい。とても大切な事だったと思うんだ。勝手な理屈だけど、俺は忘れてもあいつは覚えていてくれればそれでいい。そんな瞬間があった筈なんだ。
だからこそ、あいつとは特に離れがたい。
そんな事を考えながら、深い闇に突き進んでいく。足を一歩前に出すだけで辺りから魔物の気配が濃くなっていく。深淵に近づくにつれ、その姿は克明になるだろう。ある意味それって真理なのかも知れないな、なんて俺に似合わず浸ってみる。
そのままぼう、としながら走っていると、暗がりから肌の赤い、目玉が全身の大部分である魔物が襲ってくる。数は一体。俺は回避行動を取るでもなくそのまま走る。俺が身構える必要も避ける必要も無いからだ。
「シッ!!」
グレンが時を超えたかと思う抜き払いで魔物を両断する。瞬発力などの、一瞬の速さならエイラ以上……いや今まで出会った中で最も速い彼女である、この程度は造作も無いのだろう。
「おいクロノ、無防備に走るのは感心できんな、剣士たる者常に気を張っておくものだ」
「グレンを信用してるのさ。それに、俺は剣士じゃねえ」
「剣士ではない? ……ふむ、まあお前は剣と魔法、どちらも使えるからな、魔法剣士とでも言うべきか?」
「俺は俺だ。肩書きはただの悪戯小僧で構わねえよ」
嘯くように言った後、舌を出す。グレンは顔を顰めた後、諦めたように息を吐き、「まあ、お前らしいか」と言ってくれた。褒め言葉として受け取っておこう。彼女は笑っていたから。
様々な魔物を切り倒し、時には消し飛ばし、止まる事無く走り続ける。
最後の戦いは、近い。多分、俺たちが思っているより、ずっと。
テラの腕が伸びて、私に迫り来る。咄嗟に右に転がり避けるが、テラの腕が壁にぶつかり、破片が飛び散り、私は足に傷を負った。まさかただの拳が海底の圧にも耐える黒の夢の壁を壊せるとは思っていなかったのだ。
……いやそれは言い訳か。結果として彼を侮っていたという事に違いは無い。それからもテラの攻撃は留まらず次々に攻撃は続いていく、銃を出す暇も、魔法を唱える時間も与えられず、私は無様に転げまわるだけだった。
腕を伸ばす事を止めたテラは、少し落胆した表情を見せて、距離を詰めてくる。私と彼までの距離は七メートル程度、彼の脚力ならば油断できる距離ではない。
腰に手を回し、ホルダーに納められていたメガトンボムを取り出す。詠唱を破棄した簡易の呪文を唱え、右手に火を作り出し、メガトンボムを誘爆させる。魔法の恩恵として結界染みた力が私を爆風から守ってくれるも、ダメージは必至だ。
それでも、テラに傷を負わせられるなら、と一縷の望みを賭けた、自爆とほぼ同義の攻撃。未だ彼に傷一つ付けられていない私の苦肉の策だった。
私の目論みは、残念な事に不発に終わる。いやダメージは与えられたのだ。集束された熱と爆発はテラの左腕を奪う事に成功した。が、秒と掛らず彼の腕は再生し、爆風の影響で尻餅を付いていた私の腹を蹴る。
涎を撒き散らしながら飛ぶ私は、酷く惨めに見えたろう。床に落ちて、蹴られた箇所に手を当てながら、咳き込む私をテラは実に冷ややかに見下ろしていた。
「驚いたなあ、前とこんなに変わってないとはさー。いや、むしろ悪化してない? マジ、つまんねーんですけど?」
「それは……ごほっ!! 悪かった、わね……!」
「いやいやまあまあ、俺の期待が大きすぎたのもあるんだろーさ。残念なのは確かだけど。だって期待してたんだし」
勝手に期待して勝手に失望するな! と叫ぶには、痛みが強すぎた。結局私は言われるがままになってしまう。
「だってさぁ、これじゃ報われないだろ? お前との戦いをすっごい楽しみにしてた俺が。中々無いんだぜ、俺が人間に期待するなんて。名誉だろ? 普通、誰かに期待されたらもっと頑張るでしょー」
ひらひらと手を振って、頬を膨らませる彼は嘆いているようにも見えた。それ以上に楽しんでいるようにも見えるが。
恐らく、彼の心情はどちらでも無いのだろうけど。いまや、彼の殺気は鳥肌が立つ程に強まっている。今彼の感情を二語で表現するなら、『退屈』に尽きる。彼の眼は一切笑っていないのだから。
「なあなあ、隠し玉とか無いの? 俺を倒す為のとっておきとかさ、準備してるんだろ? ……なあおい!!」
「ぐっ!!」
テラに首を掴まれて、無理やり立たされる。喉を締め付けられて何も言えない私に、テラは尚も詰問する。
「嘘だろ……? 俺ってば、こんな奴を望んでたのか? 俺にまともに攻撃も当てられず、逃げ回る所かそれすら出来ないクソッタレの人間を」
一方的な理屈で私を待ち望み、足に怪我を負わせて腹に蹴りを放ち今首を絞めている私を、テラは心底恨んでいるようだった。親の仇を見るような、といった感じだろう。
……駄目だなあ、どんどん視界がぼやけてきた。テラの放つ言葉が耳鳴りに負けていく。頚動脈を押さえられているからだろうか、意識も薄れてきた。
ああ、私だって待ち望んでいたのになあ。彼との再戦を。必ず殺すと決めていたのに、私の親は健在の為比べるべきではないが、親の仇、それ以上に恨んでいたはずなのに。その相手が目の前にいるのに、悔しいなあ。
──それくらい恨んでいたのに、何故私は彼を恨んでいる理由を思い出せないのだろうか。どうしても、彼を心から恨んでいるその原因を掘り起こせない。
彼と初めて出会ったのは何年も前の話じゃない、精々二週間足らずの事だ。なのに何故だ? どうして私は思い出せない? 記憶力には自信があるのにな、私は。
証拠にほら、もう十何年も前のクロノとの出会いを、私は覚えている。あれは確か、お父さんに連れられてジナさんの家に初めて行った時の事だ。クロノは私よりも小さくて、気が弱かった。何だか、私は弟が出来たような気分になって、いつもお姉さん風を吹かしながら彼を連れまわしたのだ。時には町に、時には森に、時には町外れの丘の上に。
その頃のクロノは友達が少なかったから、私以外に遊ぶ子供がいなくて、私が彼の家を訪問するとほにゃ、と笑った。頼られている、と感じられるのは、小さい私には嬉しかった。
──違うよ
「あーあ、時間無駄にした。もういいよ、お前。早く死んでくれ。他の奴らを追わないといけないしさ」
喉を絞める力が強まる。頚椎ごと折られるのではないかと思う力は私の意識をぶつぶつと千切りとっていく。ざっくばらんにコンセントの束を抜いていくみたいに、私を動かす力が消滅する。もう、彼の腕を掴む力も無い。すぐさま私は死ぬのだろう、なんだか現実味が無くて、何処か私は今の自分の状態を客観的に見ていた。
こういう時って、誰かが助けに来てくれたりするのよね。代表的な存在を出すなら、キリッとした顔の美形で優しい、笑顔の素敵な男の人が颯爽と現れて「ルッカ、大丈夫か!?」なんて……
年甲斐も無く青臭くて恥ずかしい妄想が始まる。もしもそんな事があったら良いのにな、という状況と合わない考え事。マールたちには言ってないけど、こういうのは嫌いじゃないのよね。
そこから、私の初恋が始まるのだ。まさかこの年になるまで誰も好きにならなかったなんて、小さい頃の私は思って無かったろうな。思ってたら怖いけどさ。
──いたよ
でもさ、恋って何? どうなれば恋してるって事になるの?
その人と一緒にいれば幸せ、それは恋をしてるって事? 他の女の子と一緒にいる場面を見て胸が苦しくなったらそれは恋なの? 体を重ねたいと思えたら恋なの?
科学的に言って、生殖本能を刺激されているという事で、性行為を望むという事が恋なんだろうか。それは何だか直接的過ぎてつまらない。
私には、まだ分からない。正直に言えば、あまり知りたいとも思っていない。知っちゃったら、大概のものは面白くなくなってしまう。夢は夢のままが良いという理屈と同じだ。
──知ってるんだよ
「本当に、つまんねー。お前みたいな奴に口付けしたとか、悪夢じゃん。後で念入りに洗っとこー」
それは、強引に奪ってきたお前が言う事なのか? と苛立ち混じりに疑問をぶつけたかったけれど、喉からは微かにひゅうひゅうと音が鳴るだけで、言葉は形にならない。
彼とのキスは思い出したくも無い。魔物相手に、という問題以前に彼と、というのが我慢ならなかった。そもそも、私は初めてだったのだ、もう少しロマンチックなものを想像していた私に対してなんという非道な。この年になって夢溢れるファーストキスを願っていた私は結構哀れなのかもしれないが、それは置いておこう。
──初めてじゃないよ
そう、初めてじゃない。確かに私は誰かと口付けをした気がする。でも相手は思い出せない、誰とキスをしたのだろうか?
クロノか? いやまさか。何度も言うけれど、私はあいつとそういった甘酸っぱい関係になった事も、予定も無い。では村の誰かか? まさか、言い方は悪いが、凡庸な村の子供に捧げる程私は軽い女ではない。
じゃあ、誰だっけ。何度もロマンチックたる自分を強調しておいて、相手を思い出せないとは逆に恥ずかしい。一度口にしたならば、突き通すのが筋だろうに。
──小さい頃だったね。もう思い出せないかな?
私の記憶力を馬鹿にするな。覚えているさ覚えている。そうだ、あれは海に行った時じゃないか。小さい頃の私ははしゃいでしまって、足がつって、溺れてしまったのだ。がむしゃらに体を動かし浮こうとするも、犬掻きにすらなっていなかったのだ。
私は誰かに助けられた。私の体力は尽きていて、助けられたというのにお礼もせず目を瞑ったまま砂浜の上で横たわっていた気がする。
私を助けた誰かは、意識が戻っていないと思っている私を起こそうとして、飲んだ水を吐かせようと何度もお腹を押してきた。意識はあるんだから、水なんて吐き出している、効果は無い。でも私は目を開けない。
多分それは、ちょっとずるい期待を思っていたからなんだ。このままなら、彼と私は……するかもしれないなんて。子供らしい、人に心配をかけても自分の望みを叶えようとする幼稚な願い。
──でも、それは“ここ”の話じゃないよ
ここって何? ……あれ、言われてみれば確かに。私は小さい頃に誰かと海で泳いだ記憶なんか無い。泳ぎに行ったのはある程度大きくなってからで、溺れた事なんて一度も無かったはずだ。
じゃあいつの記憶だろうか。今私が鮮明に思い浮かべられるこの記憶は何なのだろう。大事な記憶である気がする。今の今まで忘れていたような気もする。忘れていないといけない気がする。
覚えているのは、私の手を握る、とても暖かな力。目を開けた私を堪らず抱きしめる、彼の涙。そして、柔らかい笑顔。
私は彼が「ルッカ」と呼ぶ声を、忘れはしない。
「じゃあな、派手に潰れろ、糞女」
私の喉を締め付けている左腕をそのままに、テラは右腕を持ち上げた。尖り伸びた爪は、容易く私を引き裂くのだろう。
私は、力無く目を閉じる事にした。夢の続きを見る為に。
──ルッカが隣にいてくれれば、俺は無敵なんだ。お前の声が聞ければ俺は何処までも飛べる。お前の存在を認識できれば、俺は何でも倒せる。嘘じゃない。それは、絶対の絶対だ!
随分と、胸を張って言うものだ。確証なんか無いのに。信じられる要素もまるでありはしないのに。それが全てだというように私は、その言葉を受け入れてしまった。
──俺が隣にいれば、ルッカをもう泣かせたりしない。それは……
「絶対の絶対、なのよね……」
碌に呼吸もできないのに、何故かその言葉だけは発する事が出来た。力が宿り始める。体の末端部位から徐々に熱が戻り始めて、戦えと語りかけてくる。
……そこまで言うなら、守りなさいよね。その約束。
ああ、でもその約束を守るって言うなら、私も守らなければならない。
彼が隣にいることで私を泣かせないというなら、私もそれ相応の対価を払うべきだ、それが筋だ。
彼は、私に隣にいてくれと言った。過去の自分を切り捨てるなと言ってくれた。過去の自分とは誰だ? クロノに言い寄る女共をへらへら笑いながら彼に紹介していた私か? そんなもの生ゴミと一緒に廃棄してやる。母さんと一緒に笑いあった日々か? それは貰っておく。良い所だけは貰って必要ないものだけ残して、私を再構成する。
──簡単な事だわ。
戻ってきた。続々と私を作り上げて“いた”何かが集まり始める。それらが私の中で蘇るたびに、体の中の何かが息吹を再開する。
──ほら、立てるよ
言われるまでも無い。
私はルッカだ。強情で意地っ張りで女の子特有の焼きもちだって備え持っている。でも普通の女と思うな、私は誰より強くあらねばならない。目の前の敵を食い殺し、踏み潰しながら己の道を邁進する女なのだ。そうであると、私はとうの昔に決めている。
「肉食系……だもんね」
垂れ下がっていた指が、腰にささっている銃に触れた。後はもう、慣れきった動作を始めるだけだ。
星は夢を見る必要はない
第四十六話 もしもがあったとしても
「あがあ!?」
テラの、随分と間抜けな声が空間に響いた。顎が外れそうなほどに口を開かされたら、そんな声しか出なくなるのも頷けるけれど。それにしてもやっぱり間の抜けた声だ。思わず、彼の口に突っ込んだ銃の引き金を引いてしまう。
銃声は、思っていたよりも地味なものだった。ジュ、と焦げるような音が一つ。後は肉片が床を跳ねる音だけ。上あごを吹き飛ばされたテラは私の首を離して、よろよろと、後ろずさった。
「げほっ、げほ! げほ! ……うげえ……!」
咳き込み過ぎて、一度嘔吐する。びたびたと胃液を撒き散らした後、袖口で口を拭う。口に蔓延する臭いが鼻につくけれど、それを捨て切る気持ちで唾を吐いた。膝に手を当てていた体勢から、深呼吸して体を起こす。その頃には、テラの自動治癒も完了間近となり、私を見つめていた。
「……ようやくお目覚め? って事は、戻ったんだなあ」
「ええ、有り難い事にね。感謝すべきかしら?」
「別にいいや。俺が面白くないから、戻す手伝いしてやっただけだし……結局どの言葉がキーワードだったんかだけ教えてくんね?」テラの言葉に、私は首を捻らせた。
「そうね……口付けの下りは助かったわ。でも、ほぼ全て私の力だけどね。あんたの助けなんか微々たる物よ」指で輪を作り、いかに彼の手助けが矮小なものだったかを教える。テラは苦笑していた。
「当たり前だろ? 忘れた出来事を思い出すのに、他人を当てにするなっちゅうに」呆れたような声に、私は笑ってしまった。
「道理ね」
カカ、と笑ってテラはまた腕を伸ばす。私に一直線に伸びてくる腕を、焦らず冷静に銃口を向けて、引鉄を引く。
銃口から光が溢れ出す。放たれる弾丸は鉄ではない、電力の塊でもない。私の新しい銃、ミラクルショットは所有者の思いの強さに比例して威力を上げる。
“前の”私なら岩を簡単に砕く力を有していた。では、“前の”私に“今の”私が入り込んだ状態の私が撃てば、その威力たるや、どうなるものか。果たして、私の思いを力に変えて飛ぶ弾丸はテラの腕を蒸発させ、黒の夢の壁を何枚も貫通した。
「……なんだあそりゃあ」テラが消えた己の腕を見遣りながら、口を開けた。
「この私の自慢の一品よ」
再装填は必要ない。私の思いは途切れない、いつまでも変わりなく燃え続け、弾丸を形成する。引鉄を二度引けば、テラの左肩と右足首は吹き飛んだ。
べたり、と這い蹲った後、彼は四つんばいのまま横に飛ぶ。壁に張り付き、天井に走るパイプの上へ消えた。
姿を消して、警戒心を煽るつもりか? 時間稼ぎが見え見えね、そもそも、今の私に死角は無い。せめて、逃げるなら上方だけは避けるべきだったわね、テラ。
一旦銃をホルダーに戻し、印を切る。前に魔王から魔力増幅の印を教わっておいて良かった、お陰で私はさらに上へ進める。
印を切り終わり、テラにも聞こえるよう、上を向きながら力ある言葉を放つ。
「フレア」
部屋の空気が変わる。体感的に一瞬だけ室温が下がった。それは後に起こる災害の前触れか、反動か。私もこれを使うのは二回目なんだから、上手く調整できるか分からない。分からないのなら、暴発するくらいの勢いで力を込めるのが正しいだろう。
最初は小さな爆発だった。精々、大き目の石を壊すくらいの爆発。その程度の魔法で黒の夢の壁もパイプも壊れるわけが無い。
次の爆発は二度、その次は四度。乗法で増え続ける爆発はやがて千を超え万を超え、室内の温度は喉を焼き体を溶かし生物の存在を許さない。熱量が上がるにつれて、微かに誰かの叫び声が聞こえた気がする。恐らく隠れて治癒を待っていたテラのものだろう。いくら彼とて、計る事も出来ない熱量には耐えられなかったようだ。赤く染まる視界の中に、頭上からぼと、と何かが落ちてきたのが見えた。姿は黒焦げで、何がなんだか判別もつかないが。
爆発は終わり、溜め込んだ火炎と熱が誕生する。円状に広がる火炎の波は我先にと飛び出し、それは火の形すら為していない。ぶわ、と飛び交う熱で部屋の中の壁もパイプも溶け落ちていく。液体状に流れてくる材質は黒く光っていた。それもやがて、炭化する。
「これが、私の最大の魔法、フレアよ。あら、もう聞こえてないかしら?」
「……ぎご……る、よ」
「やっぱり、まだ生きてるんじゃないかなあって思ってたのよ」
ぐずぐずに崩れ落ちた体のまま、テラがナメクジのように這いながら声を出していた。どこが声帯なのか分からないが、中々根性のある魔物らしい。一応尊敬でもしておいてやろう。
敬意として、テラの体が一通り元通りになるのを待ってやる。じっくりと時間を掛けること二分。ようやく人型であると言える程度に回復したようだった。
「マジかよ……お前、本当に人間か? ジール様だってこんな魔法使えねえだろうぜ……」
「でしょうね、彼女に火なんて似合いそうにないもの」
「そういう問題かよ……っと!!」
彼が右腕を前に出すと、そこからロボの放つレーザーに似た光線が放たれる。太く大きな光の柱は人間の体に当たれば堪らず消し飛ぶほどの力を秘めていた。速度も狙いも申し分ない力。魔王ならこれくらいの魔法を放てるだろうが、詠唱も動作も無く一瞬で放てるかと言われれば難しいところだろう。
が、今の私には意味を為さない。
早撃ちの要領で銃を取り出し腰に構えて撃つ。テラの放った光線は見る間も無く私の弾丸に掻き消され、テラの腹部に大きな風穴を空けた。
「ぐぶっ! ……お、おおい、今のは俺の決め手の一つだぜぇ? んな、簡単に消すなっ、つーの……」
「そっちこそ、お腹が無いのに喋るなっつーのよ」
垂れ落ちた臓器から触手のようなものを伸ばし、筋肉も骨も臓器も皮膚も再生させる様は中々気分の悪いものだった。であるのに、当人のテラは噴出して、「似合わねー、その喋り方」と笑った。
「面白い女! お前マジに俺の女にならねえ? 大丈夫、お前は殺さねえよ、寿命だって百倍くらいに延ばしてやる。お前のその力も同じくらい飛躍させてやることもできるぜ? どうだルッカ!」
「それ本気で言ってる? 形勢は逆転してるのよ。そんな誘いをする時点でおかしいわよ」
「何でだよ、命が延びるんだぜ? 悪い話じゃねえじゃん」
「お生憎、仲間が死んでいくのを見守るだけの生涯なんて真っ平なのよ」
「ちぇ、俺が誘うなんてそうそう無いのになー」
子供っぽく頬を膨らませる彼がなんだかおかしくて、私も彼と同じように笑う。
それを見たテラは、急に表情を変えて訝しげにこちらを見た。
「お前さ……俺の事憎んでるんじゃねーの? 何で笑うんだよ。お前の初キス奪ったんだぜ?」
なんだ、反省云々はともかくとして、悪い事をしたという自覚はあるのか。あるなら自殺しろ、と言いたいところだが、今は良い気分だし、答えてあげるとしましょうか。ていうか、彼にははっきり言いたい事だし、ね。
「残念だけど、私のファーストキスはあんたの前に捧げちゃってるの。あんたとのキスはサードキスよ……それでも不愉快な事に変わりないけど」
それでも、彼に感謝したい気持ちもある。ある意味彼のお陰で思い出せたのだから、あの出来事を。引き上げようとしていた物とは違う、けれども大切な思い出を一緒に思い出せたから。
海に溺れて時に、彼から貰ったキスを私は忘れない。人工呼吸であっても唇を重ねた事に違いは無い。それは、この世界の私が行った事ではないけど、覚えている。あの頃の、気弱な私がしっかりと覚えている。二度目は……まあ、事故に見せかけた云々かんぬん……良いのよ、私は肉食系かつ計算出来る女なんだから。流石に大きくなってからは恥ずかしくてそんな画策をしたことは無いけど。
「サード……三回目かよ。なんだ……つまんね」彼の本当に残念そうな動作に、私は彼との関係も忘れて、少しからかうような言葉を出した。
「あら、私に本気だったの? いやねえ、もてる女って」
「そうだな、結構本気だったかも」
「……あ、そう……」
……ちょっと、嬉しかったりして。
いつも追ってばかりだったからね、たまにはこうして変化球気味に他からボールが飛んできても良いじゃない。こんな奴を相手に打ち返す気は一切無いけど。
「なあ、俺無理か? 俺多分お前の事かなり好きだぜ? うん。好きだな、一番好きだ。悪いけど、あの赤毛の男よりもお前の事好きだわ、どうだ?」
「どうだ? って言われても……無理よ」
「何でだ? 俺魔物だからか? それとも今までお前を傷つけたから? 信じられないからか?」
一度に説明を求める彼を見て、すとん、と得心がいった気がする。
彼は、酷く子供なのだ。残忍な事もするし、戯れで誰かを嬲り、殺す。善悪の境界がどうとかいうのは、子供とかそういう事ではなく、そう作られたから。
軽い口調も相手を小ばかにするような発言も、それしか知らないんだ、関わり方を。
だから……彼には分かりづらいかもしれないけど、彼の目を見て、答えを探した。
「貴方が魔物だからとか、傷つけられたからとか、信じられないとかは関係無い。いや、ゼロじゃないかもしれないわ。でも一番の理由は全然違う。それと比べたらさっきの三つはまるで些細な事よ。理由は単純に……私には大切な人が、他にいる。例えその人が私をそういった意味で好きじゃなくてもね」首を振りながら、断言する。テラにはその答えでは納得いかなかったようだ。
「あの赤毛だろ? ……あいつ、ルッカの事好きじゃないぜ、多分仲間とか、幼馴染としか見てねえよ。歴史が変わったから、それはより一層強くなってるはずだ」
「かもね……でも良いのよ。好きとか嫌いとかじゃないの。そのもっと向こうの話なんだから」
この、燃え滾るように熱くて、冷氷のように寒々しく軋んで、堪えきれない程幸福で、叫び出したくなる程苦しい感情を二文字三文字で表せるものか。恋じゃない、愛じゃない、そんな所はとうの昔に過ぎ去ったんだ。初恋にして、私は運命に出会えた。それだけは間違いなく幸福なんだろうけれど。
テラは考え込んで、「分からねえ」と呟いた。彼には、少し難しかっただろうか? そりゃあそうだろう、私だって、自身の事なのに今一つ理解していないのだから。
「分からないのは、何でそんなに一生懸命になれるのかって事だよ。そんなに身を削るくらいなら、俺にしとけばいいじゃん。そこそこ気負わず、楽しませるぜ?」
「……貴方は、一生懸命になった事は無いの?」テラははっ! と鼻で笑った。「当然だろ? だって、なんかダサイじゃん」
けらけらと笑う。表情の変化が凄まじく、それだけで少し気圧されてしまう者もいるだろう。真剣な表情は一瞬、次にはもういつもの彼に戻っていた。
それがなんだか、寂しく思えてしまうのは、今の私はそこまでに彼を嫌っていないからだろうか。
「そう……笑って誤魔化せるのね、貴方は」
「誤魔化す?」
眉根を寄せる彼に、私はとても大切な事を言おうと思う。魔物だとか人間だとか関係無い、万物全てがそうである事実を。
「あのね、生きてる限り、皆一生懸命なの。必死なのよ。それはどんな人生でも変わりは無い。毎日家でだらだら過ごしてるのも、汗水流して働くのも、戦場で命を張るのも、皆それなりに一生懸命に生きている証なの……でもね、同じ一生懸命でも、違う所がある。質が違うとでも言うのかしら? それを見分ける方法もあるのよ」言い切ってから、そこで呼吸を挟む。
「笑えるかどうかって事よ。真実掛け値無しに一生懸命生きている人間は、己の人生を笑わない。誤魔化したりしない。心底に『自分は頑張ってきた』と思えるなら、決して嘘をついたりしない。自分はなあなあで生きてきたなんて言いやしない。言えるわけ無い。私は誇れるわよ、自分の人生を。変わってしまった私も、母親を失くした時の私も同じように一生懸命生きてきた、戦ってきた。絶対に、笑ったりしないわ!」
「いやそれがなんなんだよ? 長々と御高説ありがとさん。でもさ、それが今何の関係があるわけ?」
テラは自分から話を持ちかけたくせに、焦れている様子だった。
でも、確かに戦ってるのに長々と話し過ぎたかもしれないわね。だから、もうここで終わろう、私たちは仲間じゃない、一時脱線したけれど、やるべき事は決まっているのだから。
「私が何を言いたいか? 簡単よ。つまり、自分の人生を笑える貴方は、誤魔化せる貴方は……」
銃を取り出して、彼に向けた。
「私には、勝てないって事よ」
「……くそ、やっぱ良い女だなあ」
そして、三度目の鐘が鳴る。
今までの黒一色の装飾から、幾分色が薄れ出した光景。それとは正反に濃く篭る空気とその重みが、俺たちの目的に近づいている証であった。
ルッカと離れてから、幾度の扉を開け、魔物を倒してきた事だろう。そのほとんどがグレンの活躍によって倒れたのだが。彼女の剣速と判断力、瞬発力は並外れたものがあった。
それと同じく凄まじいのは、それだけ剣を振ってきたというに、刃毀れ一つ無いグランドリオンだろう。血糊の一滴もこびり付いていないのは、何らかの力が働いているとしか思えない。まるで魔物の体液がその剣に触れるのを嫌がるような、美しい刀身のままだった。うっすらと、光を反射している剣は、聖剣と呼ぶに相応しい輝きを放っている。
まじまじと、グレンの腰に納まっている剣を見ていると、彼女がこちらを見て、「ああ」と溢した。
「良い剣だろう? 剣士として、剣を選り好みするのはいかんが、もしやしたら俺はもうこれ以外の剣を振れんかもしれん。それ程に俺の手に馴染んでしまった」
「別に良いだろ。グランドリオンが折れて他の剣を使わざるを得ない事態なんて有り得ないしさ」俺の言葉に、グレンは満足そうに頷いた。
「うむ。この剣には、言い過ぎではなく俺の魂が篭っている。この剣が折れるときは、俺が死んだ時だろう」
「じゃあ、折れやしないさ。ていうかさ、その理屈を反転したら、その剣が折れるまでお前は死なないって事か? 何百年生きるんだよ」呆れたように呟くと、冗談に乗ったみたいな表情でグレンが目を細めた。「もし俺が数百年生きるなら、元いた時代に戻っても、俺は現代にいるお前に会えるかも知れんな」
「……そうだな」
グレンは冗談めかして、中世から現代まで生きれるなら、という意味で伝えたのだろう。俺も俺で笑い飛ばせば良いのに、必ず訪れる別れを思って少し沈んでしまう。それを感じ取ったグレンは小さく「……すまぬ」と頭を下げた。別に、お前が謝る必要なんて無いのに。
「良いさ。俺たちはいつか自分のいた時代に帰る。多分、そうなればもう会えないのも分かってる。ただ……やっぱりちょっと寂しいな」子供みたいな事を、ぽつぽつ語る俺は、なんだか惨めだった。
「それは寂しいさ。でもなクロノ、本来会える筈の無い俺たちが会えただけでも良いとしないか? ……いや、しないといけないのだろうな、きっと」
所詮俺たちは生まれた時代の違う遠く離れた存在なんだ。だからこそ、今の時間を大切に……なんて考え方は、ちょっと出来ない。寂しいものは寂しいのだから。
現実的に、A.D.600年に住むグレンがA.D.1000年に住む俺たちと出会える訳は無い。現代では、当たり前にエイラもグレンも死んでいる。魔王は……どの世界に戻るか分からないから微妙だけど。同じように、ロボの時代では俺もルッカもマールだって生きている訳が無い。この旅が終われば、皆と永別する、それは当然の事なんだ。それを再認識すると、すぐ傍に迫る最後の戦いを遠ざけたいと思ってしまう。弱い人間だな、俺は。
本当は、そりゃあまだまだ皆といたい。時々に時代を遡って、または超えて未来や中世、原始に行って皆と会いたいさ。でもそれは……色々と、やっちゃいけない事なんだろう。
「時を超えるなんて不条理な事を、人間がやるべきではない。この旅が終われば、ゲートホルダーも……いや、そもそもラヴォスが消えた後にゲートがあるとは思えんが。とにかく、ゲートホルダーを壊し、シルバードも壊すべきだろう。それがあるべき姿なのだから」
「言われなくても分かってるよ。だからこそ……ああいや、こんな時にする話じゃなかったな」
そうだ、すぐ傍に敵の総大将がいるってのに、感傷に浸るのはおかしい。そんなのは、本格的な別れの場で済ませるべきだ。今から後の事を考えてどうする。皮算用どころの話じゃないぞ、まだまだ俺たちは渦中にいるのだから。
目の前には、仰々しい扉がある。左右にはラヴォスを模しているのか、半円の物体に棘が多数ついている彫像が立っていた。
扉に取っ手は無く、押し開くものだろうと辺りをつけて手を当てた時、俺から見て左から何かが飛来する。
慌ててしゃがむ前に、グレンが剣を抜き何かを切り落とした。床に落ちた何かは甲高い音を立てて、その姿を現す。正体は、長く鋭い針だった。グレンがいなければ、俺は呆気なく標本になっていたかもしれない。胸に手を置きふうと息を吐く。
「ありがとな、グレン」
「礼は良い。来るぞ!」
剣を抜いたまま、通路の先の暗闇に目を向けているグレン。それに倣い視線を送ると、もそもそと何かが蠢いているのが分かる。同じく、這いずるような、ずりずりと引き摺るような、気色の悪い音が聞こえる。
息を呑み、じっと待っていると……やがて俺に針を飛ばしたのだろう何かが光の下に照らされた。全長は五メートル前後か、背中には万遍無く棘が生えており、目が無い変わりに発達した黄色い嘴を備えている。時折開かれる口内にはびっしりと牙が。さらに奥には文様のような、眼球のようなものが浮かんでいた。全身は黒く染まり、楕円状の体。まるでラヴォスをそのまま小さくしたような魔物だった。
「あれは……死の山に生息していた魔物か?」グレンが確認するように呟く。
「死の山? というと、俺が生き返った山か? ……こんな奴いたっけか?」
「山頂につくまでに、俺……というか、マールと魔王が粗方片付けたらしい。まさかここにも……いや、ここにいてこそ、か」
緊迫した口調から、聞くまでも無いが一応俺は聞いてみる。
「……強いのか? あれは」
「強いさ。恐らく、殻の部分はラヴォスと同じ硬度だろう。弱点と言えばあの嘴だが、近づけば不可思議な魔術で距離を取ろうとする。厄介な相手だ」
「勝つ自信は?」
「無い」
えらくあっさりと言い切るものだから、一瞬彼女が何を言ったのか分からず、敵を目の前にして呆けてしまう。彼女らしくないどころの話ではない。例え勝てないと分かっていても口では強がるのがグレンだったのだから。それを、勝てないと断言するとは驚いた。
しかしそれも一時の事。彼女の口はいつものように、自信有り気に吊り上がっていた。
「前の俺ならな」
合図も告げず、彼女は単身小さいラヴォスに飛び込んでいった。
どうやら、またもや俺の出番は無いらしい。不謹慎かもしれないが、少々退屈ではある。彼女の勇猛ながらに、剣を振るうことの使命感を帯びた横顔を見ていると、それは特に強まった。
まさか、戦いがこうも面白いとは思わなかった。
テラはまだ二度目にも関わらず私のフレアに対応した。無傷とは行かずとも、初撃時に比べそのダメージは激減したように思える。どういう原理か、熱に対抗できる体組織でも作り上げたのか。突飛な考えながらに、瞬間自動治癒が可能な彼ならばその程度の荒業は訳無いように思えた。
……全力をぶつけ合える事が、こんなに興奮するなんてね、肉体労働もそう悪い事ばかりじゃないわ。
フレアを浴びた後、全身を赤褐色に変えながらも彼は走りこんでくる。近距離では私は戦う術を持たない。なんとしても私との距離を詰めようとするのは当然か。
私と言えば、フレアを使った反動で秒単位の時間硬直していた為、反応が遅れてしまっていた。銃を抜く暇も無い。ほぼ無防備な私の体にテラの拳が突き刺さったのは自明の理だった。
本来なら、内臓も体も破裂するだろう一撃。けれど、私は体を揺らす程度で治まった。
渾身の力をかけていたのだろう、テラは拳を出したまま、鼻に皺を寄せて、剣呑な声を出す。
「何をしやがった?」
「体の表面に熱の膜を張ったの。見えなかったでしょう? そういう風にコントロールしたから、無理ないけど。まああくまでダメージの軽減しか出来ないから、骨の一本くらいは折れたかもね」
「骨一本かよ……お返しがこれじゃあ割に合わねえ」
テラの右拳はドロドロに溶けていた。私の熱のバリアーに触れたのだ、それ相応の反動は覚悟してくれないと困る。
痛む腹を無視して、至近距離にいるテラに銃を放つ。急ぎ飛び退くも、彼の右足は膝から下が消失していた。どうせその傷もすぐに癒えるのだろうけれど。
「俺の治癒力も無限じゃねえ。正確な残量は分からねえけどさ、底は見え始めてるぜー?」
「それを信じろって? 馬鹿にしないでくれるかしら」
嘘じゃねえのに……と唇を尖らせる彼は嘘を言って無いように見える。だからといって、やはり信じる気にはなれない。大体、終わりが見えたからといってなんだというのか。気を抜けばいつでも死ぬのだ。今だって、熱の膜……とりあえずプロテクトと呼んでおこう。が間に合わなければ今頃地べたに這い血反吐を吐いていたのだ。
……よし、幸い折れた骨は臓器を傷つけていないようだ。痛みも、我慢できる。あまり走ったり飛んだりはしたくないけれど。
「……魔法が使えるのは、お前だけじゃねえぞ」見せてやると言わんばかりに口を歪め、手を二度叩く。溌剌とした声が響いた。「カオティックゾーン!!」
テラの魔法が発動すると、バリ、と鼓膜を揺さぶるような音が鳴る。音は段々と大きくなり、頭蓋を割るような暴音へ変貌していく。取り乱す事無く銃を構えていられるのは気力でしかない。かちかちと無意識に奥歯が鳴るのは、体の危険信号を分かり易く伝えてくれているのだろうか。
視界が点滅する。気を許せばすぐさま意識を失いそうになる。舌を噛んでその痛みで離れゆく正気の糸を掴んでいるも、途切れるのは時間の問題かもしれない。
「いっ……たい……」
思わず床に膝を突き頭を左右から押さえる。こうしていないと、中から脳みそが弾け飛んでしまいそうだった。
「いやあ、痛いだけですんでるなんて凄いぜ。普通の人間が喰らえば脳漿が飛び出るんだからさ。結構笑える光景なんだ、今度見せてやろっか?」
「い、ら……ない! ああっ!!」
意地で大声を出すと、痛みが何倍にも返ってくる。いっそ狂ってしまえれば楽なのに、という選択が勝手に生まれてくる。逃げでしか無いとしても、それが正解だと誰かが叫ぶ。それがまた頭の痛みを増幅させる。脳を直接握られているみたいだ。指で指したり掻き分けたり、ぶちぶちと千切られている感覚もある。頭を掻き毟ってその痛みを取り出そうとしても、一向に改善しない。
あまりの痛みに涙が出てきた。床に這い蹲って痛みに呻いている私をテラは悠々と眺めている。
「……本当はさ、お前には使いたくなかったんだよな、これ。頭が狂って死ぬと、凄い汚い死に方になるんだ。糞尿が出て涙も鼻水も好き勝手に溢れてて、白目で野垂れる様ってのは、そりゃあ醜いもんさ。他の人間がそうなるのは面白かったけど……お前がそうなるのは、ちょっと嫌だった」
哀れむような視線を感じる。でも何を言っているのかは聞こえない。だって痛いの、凄く痛いのよこれええぇぇぇ!!!!
頭が痛い、首も痛い肩も痛い腕も痛い胸も痛いお腹も痛い足も痛い膝も肘も血管内臓眼球全部全部痛くて堪らない!!! もう嫌だこんな痛みに耐えられるわけ無い殺してくれと叫びたくなるくらい痛いもう痛い以外に碌な考えが浮かばない!
でも、こんなに痛い思いをしたのは初めて────じゃない!!
彼が泣いているときはもっと痛い彼が他の女の子と楽しそうにしている時程辛くは無い、彼と会えない日々はもっとしくしくと胸が痛んだ、彼と喧嘩をした時は目の前に何も見えなくなった、彼が死んだ時は口から臓器も血管も骨も筋肉も何もかも引きずり出されるような痛みを感じていた! それに比べれば、こんなものは痛みじゃない!!
(そうよね? 二人の私?)
二つ前の私と、一つ前の私に聞いてみる。声は帰ってこなかった。そりゃあそうね、今の私は新しい私なんだもの。
「ア、ア、ア、ア、アアアアあああぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
「…………アハ、やっぱ立つのか、ルッカは」
全身の力を腕に総動員させて、銃を向ける私にテラは、確かに言った。「良かった」と。
暴発するんじゃないかと危惧するくらいに、我武者羅に銃を撃つ。紙切れのように舞うテラの体を幾つもの弾丸が貫通する。胸喉腹肩肘腕膝足と、顔を残して全ての部位を消し去っていく。もう、彼からの反撃は無かった。目を閉じている彼は、なんだかとても綺麗だった。
色々な思いが吐き出されて、やがて空撃ちに変わる頃、テラは床に寝そべりながら天井を見ていた。
どれだけ見ていても、彼の体が元通りになることはない。彼に残っているのは腕の無い上半身と顔だけだった。
いつのまにか、痛みも嘘のように消えていた。私の思いが尽きたのか、歩き出すのも一苦労だった。奥歯を噛みながら、一歩ずつゆっくりと前に出る。彼は、私が間近で見下ろせる位置に来るまで口を開く事はなかった。
手を伸ばせば届く距離にまで近づいてようやく、彼は訥々と話し始めた。
「凄いね、お前……もう、残量切れだよ。本当に、凄えや……」
「なんだか、錯乱してたら勝ったみたいで、腑に落ちないけどね……」悔やむような言葉を、テラは消え入りそうな声で笑う。
「人間らしくて、良いんじゃねえ? ……それも、一生懸命だったって事だろ?」
「真似するなってのよ」
テラ。テラミュータント。私は彼をとても憎んでいて、クロノを傷つけて私に無理やり口付けしたんだからそれは当たり前の事で。
なのに……なんだろうかこの憂愁な気持ちは。そのつもりは無い筈なのに、消えゆく彼を悼もうとしている私はなんなのだろう。何もかも、今更だろうに。私も、彼も。
「ねえ……あんたさあ、どうしてこんな所にいたのよ? あんたくらい強ければ、別にジールなんかに従わなくても生きていけるでしょ? そもそも、あんたって誰かに従うのを良しとするようには思えないけど」
「あんたじゃねえよ、俺はさ」
「……テラはどうしてジールに従ってたの? まさか、ラヴォスに心酔してたとか言わないでしょ?」『テラ』の部分を強調して言う。彼は「強気だなあ」と苦笑した。
「別に……あえて言うなら、弟たちがいたからかな? 今となっちゃどうでもいいんだけどさ」
「弟? ……あっ」
「気付いた? 全然姿は違うけど、俺と同じように腕を伸ばす魔物いたっしょ? それ、俺の弟たち。さっき赤毛の男に消されたのが次男のギガで、その前にもう一匹同じような奴いただろ? それがメガ」
謝るべきだろうか? と考えて、それは道理に合わないし、侮辱になりうると思い直し口を噤んだ。それが正しかったのかどうかは分からないけど、やっぱりテラは笑う。
彼は、よく笑う。何が面白いのか分からないけれど。もしかしたら、彼にも分かっていないのかもしれない。
「まあ、それは建前で、本当はさ、他の奴らを沢山殺せるからここにいただけ。これは本当だぜー?」
「……そう。貴方は人間が嫌いなの?」
「嫌いだよ。勝手に俺たち兄弟を改造したのも人間だし、それはジール様だけど、それに限らず、勝手だよ人間は。皆勝手だ、誰だって自分だけはって思ってる。自分は悪い事をしてもいいんだ、自分は特別なんだってさ。それを指摘されて他の人間に責められたら決まってこう言うんだ。『他の奴だって、同じじゃないか』ってさ。自分の特別性を謳うくせに、いざとなれば他にも責任を押し付けようとするんだ。本当勝手だよ、だから俺はそんな人間を殺すのが好きだ、大好きだ」
けらけらと喉を鳴らしても、彼には消えようの無い寂寞感が漂っている。一皮向けば、と言うが、傍若無人で人を陥れることを好み傷つけることを厭わない彼も、実像は酷く物悲しげに見えた。
風船が萎んでいくように、彼の笑い声も擦れていく。強がりにしか見えないそれは、見ている私を痛ませる。彼を恨んでいる想いがぼやかされていく。
腕を持ち上げようとしたのか、肩がぴくりと震えるも、その先に何も無いことを思い出したか、テラが澱んだ溜息を吐いた。
暫し間を置いて、ぽつりと洩らす。
「……そんで、そんな俺が、凄え嫌いだよ」
「……変えようとは思わなかったの?」
「思わないって、だって好きなんだもん、殺すの。でも、そういう自分は嫌い。おかしいだろ? 全然笑えないけどなー」
笑えないと言ったわりに、彼はもう一度喉を鳴らす。子供みたいだ、という評価に猫を追加しよう。それで順当だ、多分。
しばらく彼を見下ろしていると、テラがむっとした顔つきになって顎を先に進む為の扉につい、と向けた。
「行けよ。最後の舞台に間に合わなくなるぜ? 折角のパーティーなんだ、一人だけ取り残されたら嫌だろ? 取り残されたお前が俺を愚痴の肴に使うのも嫌だ。ていうか、使われる俺が嫌だ」
眼球を上向けて、舌を出す様はとても彼らしいもので、もうすぐ死ぬというのにその変わらなさは讃える気持ちすら産まれさせた。
背中を向けて、クロノたちが出て行った扉に向う。痛む腹を押さえながらだから、追いつくのに時間を要しそうだった。ポーションは常備しているのだから、今すぐ使えばいいのだろうけれど、彼の前で彼から受けた傷を癒すのは、なんとはなく憚られた。
開かれた扉に手を当てて身を入れる直前、テラが「なあ!」と声を荒げる。意識する事無く、ふっ、と振り返る。
「やっぱり、俺じゃ駄目かな?」テラの眼は不安げに揺れていた。子供に猫に子犬に、忙しない性格らしい。とても彼と恋愛関係になるつもりにはなれないが、近くにいれば飽きないだろうな、とまで彼に対する印象が変わっている。私も、案外根の無い人間だ、と自嘲した。
「そうね……まずは、友達からっていうのが妥当なんじゃない?」
「……そか。やっぱりあの赤毛が好きかあ。でもさ、お前の記憶はこの黒の夢だからこそ蘇っただけだぜ? ここは全ての時空に繋がってる。だからこそ、お前はあるはずの無い記憶を取り戻せた。ここを出たらやっぱり元に戻っちまう。それは分かるだろ?」
「言われなくても、覚悟はしてたわよ」これは強がりではなく、本当だ。黒の夢の特異性故に産まれた奇跡だと理解している。
「さらには、お前が思い出せたのは、お前がそれだけ元の記憶を大切に思ってたからだ。普通はそうはいかねえ、あの赤毛が今のお前と同じ記憶を共有できる事は無いぜ? お前の狂ってるんじゃねえかってくらいの愛情があってこそ、お前は元のお前を取り戻せたんだから」
どうにも、テラの説明はもどかしかったが、私は要約して言葉に代えた。
「つまり、私よりも元の記憶に執着の無いクロノが元の記憶を蘇らせる事はないって話でしょ?」
「んまあ、有り体に言っちまえばそーかな」
有り体も何も、それ以上でも以下でも無い気がするけれど、わざわざ指摘する事は無かった。
彼は、「つまりさ」と前置きしてから話し出す。
「不毛なんだよ。どういう理屈か知らないけど、今の世界にあるべき、本来のお前は赤毛の男を好きじゃないんだろ? だったら、不毛だよ、そんな恋」
「……馬鹿ね」
つまり彼はこう言いたいのだろう。「どうせクロノを好きである気持ちは無くなるんだぞ」と。
酷い侮辱だ。私がその程度で心折れるとでも思っているのか。それとも試しているのか。だとすれば、随分ちゃちな試練だこと。算数レベルにも到達しないテストね。
靴をかつかつと鳴らした後、勿体つけるように人差し指を伸ばし、宣言してやる。
「いいこと? 確かに私は未来を変えたわ。クロノとの付き合い方が一変するほどの大きな改変だった。でもね……私は『もしも~が~だったら』で消えるような恋心を持った覚えは無いわ。そんな次元とうに超えてるの。例えこの記憶が無くなったとしても、いつか必ず、近いうちに私はまたクロノに恋をする。これは確定なのよ」
「……ふうん。じゃあ別に良いんじゃね? 羨ましいわ、あの男がさ」
「ええ。あんたにも、いつか現れるといいわね、私みたいな人が」
私の言葉に、彼がどういう反応を示したか分からない。私はすぐさまにその部屋を出たから。
今でもやっぱり、テラは憎い。サラさんを殴り、何よりクロノに暴行を働き、私を汚したのだから。その罪はとても重いのだ。彼が死んで清々しているのは確かである。
でも、そうだな。次に会うことがあれば……それは決して無いのだけれど。生まれ変わってまた会えたなら。
その時は、町で連れ回して、二人でお茶を飲むくらいなら、いいかもしれない。
指を鳴らした後、床を蹴って、私はその場を離れた。出来るだけ、速くここから離れられるようにと。
もう行っただろうか、あの女は。行ったようだ、例えこの身が再生不可なほどに傷ついても、耳はまだ正常に機能している。あの女の足音が消えて二分。既に次の部屋にでも着いた頃だろう。今頃は治療でもしているんだろうか。
それにしても、実に珍しい女だった。まさかラヴォス神の力を存分に浴びた俺を倒すなんてなー。人間にしては勿体無い。
……いや、人間だからこそなのかな。きっとそうなんだろう。人間が皆ルッカみたいなら、多分俺は数え切れないほどに人間を殺す事は出来なかっただろう。そんな弱気を覚えるくらいに、あの女は稀有、いや奇異な存在だった。
なにより、一番俺が驚いたのは……
「友達だって? ……ばっかみてえ」
まあ俺から付き合わないかと聞いたのだ、友達にならなれると言われたからとて馬鹿にするのはおかしいかもだけどさ。
友達……友達か。友達って何するんだろ? 殺し合いじゃないよな、多分。楽しいけどすぐ終わっちゃうし。協力して誰かを殺すとか? それならあの女が了承する訳無い。どういう事をすれば友達なんだろう?
確か一緒に遊んだりすれば友達なんだと思う。何かのつまんねー本で書いてた。すぐ破り捨てたけど。暇つぶしにもならなかったからイラついて近場の人間を殺したのも覚えてる。
遊ぶって何だ? 何すれば遊ぶになるんだ? ええと……そうだ、鬼ごっこだ。缶けりにかくれんぼにそれから、ええと……玩具を使ったりもするんだ。
で、鬼ごっことか缶けりとかって何だ? 玩具なんて言葉でしか知らない。見たことも……あるかもしれないけど分からない。多分俺は遊んだ事は無い。メガやギガと戯れた事も無い。気が付けば俺は何かの培養槽に入れられていたから。産まれた時からメガもギガも言葉の通じない化け物だったから。他の魔物は俺に傅くだけだし、人間は怯えてた。誰かと遊んだことなんて、無い。
友達がいる奴って凄えなあ、毎日どんなことしてるんだろ、知りたいなぁ。それって楽しいかな、殺すよりも楽しい事なのかな? 知りたいなぁ。
様々な憶測が飛び交う中、その考え事自体が無意味であることを知る。どの道俺と遊んでくれる奴なんていない。皆死んじゃったし、俺が殺しちゃったから。
「……もしかしたら、ルッカは遊んでくれるかな。でもあいつ忙しそうだしな」
あいつは俺の事を嫌ってるだろうけど、なんだかんだ言って手が空けば遊んでくれそうだ。まあ、絶対御免だけど。
嫌われてるのが分かってて縋るように遊んでもらうなんて惨め過ぎる。極みじゃないか。それなら一人でいる方がずうっと良い。でも、誰かと『遊ぶ』という事をしてみたい。
ふと、横を見ると何処から入ったのだろう、蛾なのか蝶なのかも俺には分からないけど、とにかく羽を持った小さな生き物がふよふよと浮いていた。天空に存在する黒の夢にそんな生き物がいるわけ無いのだから、これは夢なのかもしれないと無粋な考えが過ぎる。無理やりにそれを端に追いやって、俺は小さな生き物を見ていた。
「お前も……一人か?」
そいつはふよふよと浮くだけで、とても楽しそうには見えなかった。俺と同じで、寂しそうだった。遊び相手を探しているようだった。だから俺は声を掛けた。
「なあ……遊ばない? 俺と」
手が無いから俺はそいつを捕まえられない。動く事も這いずる事もできない。だから俺はそいつに近づけない。そいつから俺に近づいてくれないと触れられない。こんなにも、俺は触れたいと願っているのに。
「なあ、遊ぼうよ」
何回も何回も遊ぼうと言っているのに、そいつはまるで俺に興味を示さず浮いているだけだった。とても苛々したので、残った力を振り絞り、火炎を放つ。小さな火球だったけれど、小さなそいつを焼き尽くすには十分だったみたいで、黒く焦げたそいつははらはらと床に落ちた。呻く事も無く、苦悶の表情を浮かべているのかも分からない。
いつもなら、他の命を奪って高揚しているはずの俺なのに、今は胸が痛かった。大切な何かが擦り切れて、遠く下の方に落下したみたいな感覚に陥った。
「おーい、死んだ?」
黒く焦げたそいつは何も返事を返さない。悪かったよ、もう火炎を出したりしないからさ、遊ぼうって。俺、腕も足も無いけど頑張るから無視するなよ、良いだろ?
……無視、しないでくれよ。皆そうするんだ、いつもそうだ。
だって、しゃあないじゃんか。殺さないと、力を見せ付けないと誰も俺を見ないんだ。いつもラヴォス神から力を得た異形って事で皆俺に近づかないんだ。話してくれないんだ。隠密部隊も、他の魔物も、ジールだって俺を一魔物としか見ないんだ。
俺には名前がある、テラミュータントだ。即席で付けられた愛着も何も無い名前だけど、名前があるんだ。知って欲しい、俺には名前があるんだ。テラだよ、俺の名前テラだよ?
聞いてくれよ、返してくれよ。俺だって誰かと関わりたいよ。
俺だって……俺だってさ、
「友達、欲しいよ……」
恋人じゃなくていいんだ。ただルッカは俺を見てくれたから。例えそれが怒りでも、殺意でも真正面から俺を見てくれたから、期待したんだ。こいつなら俺と話してくれるかもって。怖がらずに同じ立ち位置で話してくれるかもって思ったんだ。どんな話でもいいから、したかったんだ。
外の世界の話でも良いし、好きな奴の話も聞くさ。暇な時にちょっと時間つぶしに付き合わせるでも良い。そんな時間を共有したかっただけだ。世界の崩壊とか、永久の命とかどうだっていい。
怖がるなよ、殺すのは仕方ないじゃないか、お前らがそう作ったんじゃないか、俺をさあ。飯食うのと同じくらい自然に何かを殺せって俺に教えたじゃないか。ルッカの言葉を借りるなら、俺は一生懸命それに従ったじゃん。駄目なの? 駄目なら、なんで駄目なの?
「俺も、友達欲しいよぉ…………うああん……あああ、ひっく……あああ……」
泣いてたら、誰か慰めてくれたりするのかな? そんな誰かがいたら、いいな。次はそんな人がいる人生がいいな。
生まれ変わったら……ルッカは俺と遊んでくれるかな?
次は……あいつの近くで産まれたいなあ。俺が子供の時からずっと、あいつの近くにいたいなあ……そしたらあいつはお姉ちゃんになるのかな?
「ああ、それって、凄え、良いなあ……」
次に目が覚めた時は、光のある世界だと信じて、俺は目を閉じた。
──分かっていますね? これを使うとき、貴方は……
「分かってますよマザー。でも、それでも良いじゃないですか」
「……もしかして、気付いていますか? もしあの方たちが未来を変えれば……」マザーの迷いのある問いに、僕は深々と頷いた。
「はい。そんなの、旅の最初から気付いてましたよ。多分、クロノさんも気付いてるんじゃないですか?」
「それでも、貴方は先に進むのですね? プロメテス」
「ええ、歩き続けます。誰だってより良い未来があるのなら、そっちを選択したいじゃないですか」
「そうですか……なら、私から言うことはありません。貴方の無事を祈っています」
「それ、結構無茶じゃないですか?」彼女から貰った物を擦りながら、苦笑する。彼女も釣られて笑っていた。
僕もマザーも知っている。この旅の結末を。どちらが勝っても僕たちを待つ未来は同じ。それがとても美しいと思えるのは、彼らと旅をしてきたからだろう。
そう、未来は変わる。こんな荒廃した世界じゃなくて、とても美しい世界を作り上げる事が出来るなら、素晴らしい事だ。偽り無しにそう思える。きっとアトロポスも喜ぶだろう、花や緑が満面に生い茂る世界を彼女は夢見ていたから。
だから、僕は彼女の為にも戦う。それが、今の僕にとって唯一無二の願いだ。
──例え、そこに僕たちがいなくても。
僕は時の最果てに戻るべく、歩み出した。引き返す道は、もう無いのだから。