クロノと別れたルッカ、マールが海底神殿に侵入しておよそ十五分。彼女らは予想を上回る苦戦を強いられていた。
まず彼女らの考えと違っていたのは敵の強さ。王国内にいた兵士たちとは雲泥の差である力量を持つ魔物の群れを相手に進行が遅れるのは自明の理であった。長丁場となる戦いにマールの矢は尽き魔力によって精製された氷の矢で通常攻撃を補っている。
致し方ないとはいえ、ルッカはそれを旨くないと考えていた。ただでさえ魔力消費のあったマールが通常武器ですら魔法に頼るとなると消費量は単純に二倍。ルッカでさえそう思うなら当人のマールは一層強く感じている事だろう。
とはいえ、ロボかカエルと交代させることも出来ない。宮殿に入る前にクロノから通信機は受け取っているが、彼女を交代させる時間が無いのだ。絶え間なく襲い掛かる魔物たちは時の最果てに移動する僅かな時間すら与えてくれない。結果ルッカは肩で息をするマールに無理を強要させることとなる。マール本人がそのように思うことはないだろうが。
(……二人で、大体三十匹はやったかしら? なのに、まるで先が見えない………!)
仮面を付けた兵士だけでなく、目玉を中心に四肢が広がる魔術を多用する悪魔、下半身のない浮遊物体や未来の科学技術を上回る高性能自動戦闘機械など決して油断の出来ない魔物たち。それらが波のように押し寄せ、またそのもののように途切れはしない。牙で食らいつく瞬間までモンスターたちは彼女らを襲う事を止めない。
自分が焦燥の念に駆られていることを自覚したルッカはじりじりと削られていく自分たちの今の状況を、まるで絵の具を入れた水のようだと思った。透明の澄んだ水を、キューブを絞り投下される顔料がじわじわと追い詰めていく。
さじずめ自分はバケツの底に逃げる哀れな水なのか、と自嘲してルッカはきっ、と敵の群れを睨んだ。しかし、自分の眼の何倍もある視線が返ってくることに嫌気を覚えたように彼女は目力を緩めてため息を吐き、海底神殿内部にそこかしこに存在する魔物の彫像に背中を預けた。勿論、銃口を向けて火炎を作り出しながら。
雷撃水撃氷撃炎撃と賑やかな歓迎を受けて、ルッカとマールの戦いは凄惨たる様相と変わっていった。
古代の戦いが、終わろうとしている。
「ぜああっ!!」
斜め下、視点の高いダルトンから見れば死角となる位置。飛び込んだときから回転を加えていた、遠心力を活かしての回転切り。三連の流れになるものの、一撃目の切りかかりを左手で掴み取られ俺は何がどうなっているのかすら読み取れなくなった。
いくら手甲を付けて魔力強化を加えていたとしても、真剣勝負の戦いで敵の刃物を掴むなんて芸当が可能だろうか? ……ダルトンはそれをしてみせた。そのまま刀を引っ張られて、釣られるように俺もまたダルトンに近づいていく。顔が間近に迫り、彼は心底楽しそうに「遅え」と、笑った。
「ダルトン様を舐めてんのか? おい!」
無理やりに刀を剥ぎ取られ、首を掴まれた俺は高く掲げられて力任せに投げ飛ばされた。部屋の柱にぶつかり肺の空気が飛び出し酸素を求めているのに吸うこともできない。痙攣する腕は遠く離れた場所に落ちている刀を求めて彷徨うが、まず体が動かない。魔力で引き寄せるにも、魔力を練る為の精神集中が上手くいかない。
焦らず深呼吸をこなし、まだ立ち上がることを拒否する体に歯軋りしながら這って進んだ。無様でも、このまま横になっている訳にはいかない。それでは、約束が違う。その選択が可能なら、そもそも俺は旅なんかとっくの昔に止めてるんだ……!
後三メートルで刀が手に届くという所で背中を強く踏みつけられた。その力は御伽噺に出てくる妖怪みたく重さを増していき、ついにはまた呼吸が出来ない程の、内臓を外から押し潰されるような万力に変わった。
俺を踏みつけて見下ろしているダルトンが唾を吐き、俺の顔に付けた。
「……嘘だろおい、クロノお前そこまで弱かったか? そんなちっぽけな力であいつを助ける……助けられるつもりか?」先ほどまでの表情が零れ落ちて、中から無機質な顔を見せながらダルトンが小さく呟いていた。
「ぐ……えええ……」
「汚えなぁおい? 何が汚いってお前、卑怯だ。俺様だってなあ……力無い人間の蛮勇って奴に浸りてえぜ? それが出来ないから、俺はここにいるのによ……!」
踏みつけていた足を上げて、ダルトンは虫にするように何度も落とした。足を上げて落として上げて落として、硬いブーツの踵が当たる度に背骨が悲鳴を上げる。体が海老反りになっていくのが止められない。
無理やりに発動させたサンダーを腹の下で爆発させて、自分の体を飛ばす。刀のある位置まで移動した俺はそれを握り、近くの柱に体を預けて座りながら刀の先を向ける。
自分でも、今の俺の姿は虐められっこがする虚勢の構えに似ているんだろうなと自虐的なことを思った。
……強い。前に戦った時よりもさらに強い。覚悟の違いとでもいうのか、闘気の量……その雰囲気、全てが前回と違う。今の彼は魔力を使わず肉体だけで強かった。得意の召喚魔法どころか、鉄球やエネルギー体すら用いていない。
舐められているのは俺の方かとさえ思ったが、それは違うだろう。ダルトンはこれ以上無いくらい本気だ。自分を高く評価して、常に自信を見せ付けている自称天才が本気になったのだ、そりゃあ強いだろうさくそったれ。
痛む体に鞭打ち体を強く柱に押し付けて勢いのまま立ち上がる。俺はまだ戦いが始まって一度も有効な攻撃を当てていない。
回避はされていない、というよりもダルトンは俺の攻撃を避ける素振りすら見せなかった。君臨する王の如く彼はただ俺の攻撃を待ち、左手だけで受け止め弾き返し反撃を当てる。俺の粗末な攻撃なんか避けるまでも無いというように。
「はっ、はっ、はっ……」
呼吸を乱し睨み付ける俺をダルトンは目を笑わせずに口だけつり上げて形だけは笑みの形に変えた。
「疲れたのか? ……下らん奴だ。醜い奴だ。お前はまだ何もやってないぞ? 精々愚民を助けて粋がっていただけの馬鹿。それが今のお前だ」
砕けた肩が痛むだろうに、ダルトンは胸を強く叩いて吠えた。
「男なら! 助けると決めた女に会うまで情けねえ顔してるんじゃねえど素人!!!」
びりびりと噛み砕くような強さのある声が部屋中を支配した。カーテンは揺れて、窓は割れそうな程震えている。カーペットの毛糸が逆巻いていくことすら視認できた。
……風格。ダルトンはそれを身に纏い俺を見下ろしている。体が大きいから見下ろしているのではない。体ではなく、ダルトンという男が大きいから俺を見下ろしているのだ。
「……うわ、負けたくねえ……こんなん負けられねえだろ」
喉の奥がイガイガするので粘つくものごと吐き捨てる。
……告白しようか。今まで俺は気持ちの上では真剣だった。全力を出していた。それでも……トランスやサンダガといったものをそのまま攻撃に使う事無く肉弾戦のみで戦っていた。ソイソー刀を伸ばす事すら途中でやらなかった。攻撃に魔力を使わないのはダルトンもそうだったから、右肩を砕いた彼に対する礼儀のように頑なに刀だけで戦っていたのだ。
なんて、馬鹿。俺と目の前の男では年季が違う、戦ってきた場数も戦いに対する信念も違う。俺がダルトンに勝てる所なんて……精々が、負けたくないという一心だけだろう。それを、持ち手を出さないまま倒す? 初めて中世に行ったときも言ったけどさ……夢見てるんじゃねえよ、俺。最初の頃からどうも、俺は変わって無いな。
実力が拮抗? それは小賢しく必死にしがみついた結果近づくってだけだ。同じ土俵で戦って格上のダルトンに勝てる訳ないだろ、馬鹿かマジで。
電流による火花を出し始めた時、ようやくダルトンに不敵な、けれど不快そうではない笑顔が作られた。
「ようやくかクロノ」
「ああ、正々堂々なんてのは止めだ。騎士道精神なんて、よく考えれば俺は持ってなかったよ」
似合わない事を背伸びして始めると碌なことは起きない。勉強になったな。授業料は今から払う事にしようじゃないか。
互いに一歩ずつ近づき、ダルトンは腕を前に、俺はその代わりに刀を前に。今からはドロドロだ、卑怯も背後から切りかかるもまた殴りかかるも有りの喰らい合い。始まりくらいは礼儀に則ったもので開幕しようじゃないか。
「俺様が一番言われたくない言葉を教えてやろうか? ……戦いの際に『正々堂々戦いましょう』という台詞だ」
「急だな、それがどうしたよ」
「まあ聞け。正々堂々戦いましょう何て言葉は、それこそが卑怯だ。そう思わんか? あの手この手と、様々な手段を使う事を禁ずる、と相手に宣告しているのだからな。てめえの勝手に決めたルールを相手に持ち込むなと言いたい。往往にして、戦いとは汚く卑怯で無様でみっともなくて……楽しいものであるべきだ」
「……最後だけは同意しかねるが……あんたらしいよ、ダルトン」
ダルトンが上段から大振りに拳を振るのと、俺の右下からの切り払いは全く同時だったように思う。
さあ、今から俺の無礼を詫びよう。最高のもてなしを受けたのだから、最上の敬意を与えねば。
海底神殿までは、まだ遠い。
星は夢を見る必要は無い
第三十話 He is doomed to die eventually. かくして、彼は約束を違える事になった
薄暗い、電気による灯りはそう意味を為さない円形の広ばった空間にてルッカたちは限界を感じていた。
魔力は底を尽くか否か、マールに至っては素手による格闘戦を繰り広げていた。体中に無数の傷を刻み尚戦う姿は感動さえするものだが、それで手を緩める者などこの場に誰もいなかった。
魔物たちは一騎奮闘を見せる彼女らに臆する事もなく淡々と詰め寄り爪を、牙を、魔力を放っていく。ペース配分を考えさせない戦い方は、効果的とも言えるだろうが……自分の命を顧みないからこそ打てる戦法。
(いくら魔物だからって、こうも命を捨てられるものなの!?)
マールの心の叫びは届く事無く、今もまだ迫る魔物を蹴り倒していく。拳は割れて、一度のミスで作られた背中の傷から川のように血が流れ出している。意識の希薄はまだ訪れないが、集中力が途切れる時間が長く小刻みに変わっていくことに危機感は感じていた。次にその隙を衝かれれば自分の体は瓦解していくと分かっていながら、彼女は後ろで銃を撃つ友の為に退く事は無い。自分を囮にして敵を引き付けている。
そのことにルッカは気付いていないわけではない。出来うるならば、今すぐにでも「下がりなさい!!」と怒鳴りたいが、それもまた出来ない。もしマールが下がれば、格闘スキルの無い自分が為すすべなく死ぬ事を知っているからだ。
保身ではない。冷静な思考を回した結果、心許なくても援護がある今とそうでない未来ならばマールとてルッカの援護が必要だろう。自分が消えれば結果的にマールも死ぬ事になる。結果、マールの危機を知っていながらルッカはそれに頼るしか出来ないのだ。その為、入り口付近で待機しつつマールに遠隔から攻撃を加えようとする魔物を撃ち抜いていた。
「……限界ね。本当は、ここで見せるものじゃなかったけど……マールも危ないし、このままじゃあの馬鹿との約束も守れないわ……」
そう言うとルッカは背中に回した鞄から拳大の黒い物体を取り出し、マールに「離れなさい!!」と声を掛けた。マールはそれに否定の返事を返そうとして……声を呑み無理やりに包囲陣を抜け出す。その折僅かに足を切られるが、絶好のタイミングであったろう。下手に抜け出る瞬間を見誤れば体中をズタズタに切り裂かれただろうから。
「何か……はあ、はあ、考えがあるんだよっ、ね……はあ、はあ」
声を詰まらせながら問うマールにルッカは頭を掻きながら「考えって程のもんじゃないわよ」と言ってゾンビの群集のようにゆっくりと押し寄せてくる魔物たちを見据えた。
片手に持った黒い塊を遊ばせながら、魔物たちが部屋の中央に押し寄せ密集する時を待ち……ついにその時がやって来た。
ルッカは不安そうに見るマールに「力任せの暴力案よ!!」と叫んで黒い塊の天辺に付いてあるピンを抜き、敵の充満する場所に投げはなった。そして、横に倒れているマールに覆い被さり、驚いている彼女を無視して耳を塞ぐ。
……静寂。遅れて……海底神殿を揺らがすような大轟音と彼女たちを襲う熱気。ルッカの作り出した火炎膜により幾許かの減熱は可能だったが、それでもマールは喉が焼けるのではないかと思うほどの熱を感じた。
ようやく弾圧的とすら思えた熱量が過ぎ去り、ルッカが体から退いた後、マールが見た光景は実にこざっぱりとした空間だった。魔物の大群は消え失せ、残るのは巨人が歩いたのではと疑いそうな床のへこみと朦朦と立ち上る煙。壁には巨大なトマトをぶちまけた様な血の跡。これらから連想して、マールはルッカが爆弾の類、それも規格外の威力であるものを投げたのだと知る。
「こ……こんなのがあるなら、初めから使ってよぉ……」
へなへなと力を抜かすマールにルッカはごめんごめんと頭を下げて、少し陰鬱な表情を見せた。
「これ、メガトンボムって言うんだけど、あんまり数が無いからね。出し惜しみしてたというか……一番にこれをぶつけたい相手がいたのよ」
「……クロノ……じゃないよね? こんなの当たったら、絶対やばいよ?」マールの額に運動での発汗とは違う汗が一筋伝った。
「いや、流石にあいつには使わないわよ。私がバラバラにしてやりたいのは……名前も知らないけど、仮面の男」
その言葉に仮面の男は沢山いた、もしかしてもう倒したのでは? と返すマールに違うわと前打ってルッカは頭を振った。
「絶対に分かるわよ、あいつの気配は。忘れないもの……」
落ち着いた言葉とは裏腹にルッカの目は鋭く、手は何かを耐えるように震えていた。誰もいない空虚な空間を見つめて、何者かを幻視している様相にマールは一つ身震いをした。
何とは無く手持ち無沙汰になり、話す言葉も見つからないマールは己の怪我を治療しようと魔法を唱えるが魔力は残っていない事を思い出し手をぷらぷらと揺らす。それに気付いたルッカは「時の最果てでロボかカエル……そうね、ロボと交代してきなさい」と軽く声を出した。「よくやってくれたわ、ありがとう」という感謝も語尾に付けて。
ルッカも交代すべきでは? というマールの言葉に彼女は笑いながら手を振って、「私はやることがあるから」と断った。無理は禁物だと厳重に注意をしてから、マールはすっと立ち上がる。
もう暫く魔物が現れる気配は無いが、念のため後ろに下がってから交代してくれというルッカの提案に頷き、マールは少し足を引き摺りながら今来た道を戻っていく。
(……魔力消費はエーテルでなんとか誤魔化せるわ。体力もこのまま座ってれば戻るでしょう)
座りながら足で床を押し出して移動し、壁にもたれる。冷え切った海底神殿の壁は火照った体を冷やすのに一役買ってくれる。鞄から魔力回復薬の入ったビンを取り出し、中身を飲み干す。いつ飲んでも独特な苦味を齎す味にルッカは若干痺れた舌を出した。
伸びた息を吐き、もうマールの姿が見えない通路を見やって、もう一度息を吐く。それを何度か繰り返して、腕を足をぷらぷらと浮かして振る。まだまだ動ける、と自分の体を確認して、次に眼鏡の汚れを拭き始めた。
その後も休憩と自分を納得させながら必ず何かしらの動作を行う。じっとしていることも出来ないのか、とルッカは自分を笑った。
「……クロノ、大丈夫よね……?」
誰もいない中、空漠とした不安を漏らしてルッカは目を閉じる。例え魔力が回復したとて、それを練る精神集中ができなければ意味が無い。努めて平静な思考を保とうと試みるが、どうしても赤毛の幼馴染が気になってしまう。結果、彼女は意味無い屈伸運動や柔軟体操などを繰り返していた。
それも飽きて、マールの去っていった方向を見る。遠く暗闇の広がる通路の先には何も見えない。もうしばらくかかるか、と踏んでルッカはもう少し先に進んでみようかと立ち上がった瞬間、後ろから何かが飛来する気配を感じ振り向いた。
飛んでくる何かはルッカの横を通り過ぎ、摩擦音を立てながら床を滑って部屋の中央を僅かに過ぎた地点で止まった。
「…………え?」
ある程度疲れは取れたはずなのに、ルッカは自分の足が震えていることを不思議に思った。それより何より、幻覚すら見るとは、と。
落ちている何かは派手に中身の液体を撒き散らし、動かない。解体した肉を入れた袋のようにボトボトと血が流れ出すそれは確かに人だった。赤く染まらぬ部位など無い人体は本来美しく輝くであろう金の髪を斑に染め上げ、白桃のような肌は血化粧に染まりながらも微かに覗く元の肌色は青く寒々しい。無地無色の服は人の体には存外に多い血液が流れているのだと思わせる。
──彼女の名前は、ルッカの想像が正しければ。今まで笑い合い、冗談を言いながらも自分が勝手にライバル視して、最も信頼できる同姓の女性の名前は。
「ま、ある……?」
言葉にしてようやくルッカは硬直した体を動かす事に成功する。
まともに走りよる事すら出来ず、みっともなくじたばたと駆け寄り倒れ伏すマールの側に座る。上手く動かぬ手を使い脈を計ると、酷く弱弱しくも鼓動を感じさせた。とはいえ、それがいつまで続くのか分からない。早急に治療を行わねば、と通信機を使い時の最果てに移動させようとした瞬間……
「……!?」
怖気の立つ危険信号を感じ取り、マールの体を抱えて横に飛ぶ。コンマ一秒以下の時間差で今までマールの倒れていた場所に火柱が立った。豪炎と称されるであろうそれに巻き込まれれば、小さな彼女の体など数瞬の内に炭と化していただろう。
慌てる自分の心理を無視して、ルッカは自分たちに攻撃を仕掛けてきた方向へ銃を向けた。トリガーに指は掛かっている。例えいかなる人物であろうと、姿を見せた瞬間引き金を引く心積もりだった。
背筋に流れる汗を感じても、ルッカは動く事無く石の様に射撃体勢を解かずそのまま少しの時間を消費する。
こうしている間にも背中から弱った呼吸を漏らす親友が死にゆくという事実が焦燥の感情を燃え上がらせる。唇を噛み、来るべき時を待つ彼女は、結局先手を打つことは無かった。何者かの声を聞いた時、一瞬の内に思考は白く塗り替えられたから。
「……あれぇ? まだいたんだ侵入者。まあいいや、これから駆除するし」
仮面の男。今までにも幾人も見てきた、葬ってきたその姿。されどその中身は決定的に違う。意思無く迫るガラクタ染みた魔物と一線を画す悪意。仮面の下にあるだろう愉悦の混じった声を、ルッカは知っていた。
今まで、これほどの殺意を抱いた事をルッカは知らない。今まで生きてきてこれほど誰かを殺したいと願った事をルッカは覚えていない。恐らく、それは覚えていないのではなく無かったのだろう。再会時に息を吸うことすら忘れる怒りをルッカは感じたことが無かったから。
(そっか。こいつ、クロノだけじゃなくて。私の友達にも手を出したんだ)
自覚できる怒気とは反対に、心は波紋すら無い水面のように動かなかった。烈火のように叫びまわるかと思っていた分、ルッカは自分の心理に拍子抜けした。元来、怒り狂うとはこういうことなのかもしれないなあとぼんやり思う。
「ああん? あんたどっかで見たと思ったら……あれか。あの臭い洞窟にいた女か。あの男もここに来てんの? ……って、あんな腰抜けがここに来るわけ無いか」
自分の台詞に笑い、仮面の男はひょいひょいと軽い足取りで部屋に入る。ルッカはそれに応じる事無く、マールの体を出来るだけ揺らさぬように持ち上げて部屋の隅に運んだ。
「もしかして、あれじゃん? お前あの男の彼女的な? だとしたら悲惨だよねー、あんな奴のソレじゃ、濡れるもんも濡れないでしょ? つーか、玉無し?」
掌を開いては握るを繰り返し、ルッカは自分の体調が万全だと気付いた。案外、自分は動けそうだと。
軽く火炎を体から放出して、ルッカは自分の残魔力が完全に回復していると気付いた。案外、自分は戦えそうだと。
今の自分の心境を省みて、ルッカは自分の残虐性に気付いた。案外、自分は躊躇い無く残酷に命を摘み取れそうだと。
「提案なんだけどさ、あいつ止めて俺にしない? 天国までイかせてあげんよ? まあ、その通りに屍姦しか興味ないから取りあえず死んでもらうけど」
ルッカには、聞きたいことが沢山あった。今まで何処にいたのか、さっき通ってきた時にはいなかったじゃないか、女王たちは何処にいるのか……それらの疑問は虫唾が走る声とその内容に掻き消され、殺意の篭った言葉しか口に出来なかった。
「……殺さなければ興奮出来ないの。同じね、今の私と。私もあんたを殺せばとんでもなく高みにイけそうだわ」
仮面の男はキヒッ、と笑い仮面を取った。中から出てきたものは頭頂部右に黒い髪、左に白い髪が垂れている人間の顔。ただし眼は金色しか無く、白目の部分など無かった。べろりと伸ばした舌は地に着きそうな程長く、それだけで人間では無いという証明になっていた。
仮面を取った瞬間男の体は盛り上がり、背中が異様に膨れている様は魔物としても異形といえる姿だった。
「あんまり本気出すわけにはいかないからさ。ほら俺出し惜しみするタイプだし。ところでさ、お前何て名前? そのキツそうな性格面白いんだよね。覚えておいてやるからさ、教えてくれよ」
姿が変わっても、その口振りは変わらず軽いものだった。楽しげな口調で話しかける男の声にルッカは一切合わせる事無く、それでも質問の答えだけは返しておいた。
「……ルッカよ。あんたを殺す人間。それで、私に殺されるあんたは何て言うの?」
最後を締めくくる寸前だけ笑顔を見せて、ルッカはまた無表情に戻る。その挑発的な行動に男は噴出し、しばらく腹を押さえて動き回った後口を開いた。
「俺か? 俺の名前は──」
左足を前に出し、立てた刀を右に寄せた。俺の得意とも言えない八双の構え。軸足を動かす事無く、踏み込みの瞬間を待った。
ダルトン相手に、刀身を伸ばして攻撃しても意味は無い。また掴み取られてぶん投げられるのが落ちだ。むざむざと相手に攻撃の隙を与える必要は無い。
今まで戦い分かってきたこと、それはダルトンは万能を語るが、基本的にはインファイター、中距離遠距離への攻撃手段をあまり持っていないということ。鉄球を落とすのは自分を支点に半径三メートル程。魔力球は速度が遅く、威力はあっても避ける事や叩き落す事も可能。あらゆる方向への対処が可能であるこの構えなら、防御できない可能性は低い。
……勿論、弱点もある。踏み込みの瞬間を待っているとはいえ、俺とダルトンとの距離は五メートル弱。相手の隙を衝くには遠い。今は長考の時、打開策を思いつかねば、戦うにも戦えない。がむしゃらにやれば活路が開く訳でもないのだから。
「どうしたクロノ……半端な位置で止まりやがって。そりゃあれか? 俺が中距離を攻撃できないと踏んだのか?」
……まるで読まれている。この方針は間違っていたか?
いや、揺らぐな。分かっていても動けないのが戦い、ダルトンが打てる手段は無為に魔力球を放つか、痺れを切らして接近するかしかない。その為にこっちはわざわざ迎撃の構えを取ったのだ。
言葉を返さない俺にダルトンは「やっぱりか」と肩を落とし、おどけたように笑う。
「……山高きが故に貴からず」
「何だって?」唐突に言われた言葉の意味が掴めず俺はすぐさま問い返した。
「なあに、魔法部隊団長の名前は外面だけのもんじゃねえってことさ。召喚魔法があったとて、近距離用の鉄球や、鈍い魔力球だけで登れるほどなだらかな山じゃねえぞ、俺の地位は!」
唾を吐きながら怒鳴るダルトンの左手から、先程まで使っていた魔力球に酷似した力が集まる。違うのは大きさと、そこから感じられる熱。ダルトン以外の絨毯や椅子がじりじりと焦げていく。作り出す過程でここまでの力が放出されるなんて、並の魔術じゃない!
叩き落せるか? 却下、最悪ソイソー刀すら溶かされるかもしれない。避ける……しかない!
「バースト、ボール!!」
ダルトンが左手を俺に向けて熱の塊を打つ。咄嗟に横に転がり避けても、床に当たったバーストボールは周囲に火をばら撒き、髪が少し焦げた。その二次災害は氷山の一角。凝縮を重ねた魔術でこれほど外に広がるとは、込められた魔力は尋常ではないと予想される。火はすぐに姿を消し、ダルトンの魔術が衝突した床はどろどろに溶けていた。
鉄球やサンダーの落雷を受けて無傷だった床が溶ける……ソイソー刀での防御は不可能だと思い知ったよ。間違って受ければ体が蒸発するか、当たった場所だけ溶けて死ぬか。
凶悪。ダルトンという名術士が攻撃の為だけに研ぎ上げた、恐らく切り札だろう魔法。ルッカの火炎魔法の数倍から数十倍の威力を誇っている。魔術合戦で、俺に分は無い……!
「……結局、切りかかるしかねえんじゃねえか!!」
作戦を練る時間も、気を緩めていい道理も無い。結局俺は反撃をされない程度に、されど魔術を行使されるほどでもない距離を保ち攻撃を加えていくしか方法は無いのか……いや、それでは生温い。さっきのでダルトンがカードを全て見せたとは限らないのだから。
刀の先を水平よりも二拳分程下げて突っ込む。突きか、持ち上げて薙ぐか、どちらにせよ、引きを速くしなければさっきの焼きまわしだ。
……仕方ない、右腕を動かせないというハンデ、貰うぞダルトン!
「悪く思うなよ……!!」
突進しながら、ダルトンの前面に立つ前に、踏み込む左足で強く左に飛ぶ。ダルトンの右側に陣取り足に切り込みを入れようと振った。飛んで逃げればサンダーで追い討ち。失敗しても、反撃は無い、出しても損は無い手札。
……無いはずなんだ。反撃は。いくらなんだって体勢を変えて左手で俺を殴るなんて芸当は不可能のはずだ。蹴りを入れるにも、今正に足に切り払いを掛けている今それを行えば足を失うことくらいダルトンには分かっているはずだ、あいつが出せる行動は回避しかないはずなんだ。
取った、と確信している俺の目が捉えたのは、砕けきっている肩を無視して振りかぶられる、金槌のような圧迫感がある右拳。
「ハンデで砕きはしたが、使わねえとは言ってねえぞクロノォォォ!!!」
鉄のような拳が顔に突き刺さり、俺は壊れた人形のように飛ばされた。頬骨が砕けたか、舌を動かす度に涙が出るほど痛い。当然、呻く事さえ出来ず俺は転げまわった。
そんな俺をダルトンが黙って見ている訳が無い。マントをたなびかせ宙に浮き、無理やりに動かした事で俺と変わらぬ激痛に襲われているだろうに、右手を加えた両手を俺に向けて、作り出すはさっき放った魔力球、バーストボール。二つの高熱源が作られていくのを、俺は止める術を持たない。
小さな球体は徐々に酸素を吸収し拳大のものへ変貌を遂げ、まだ放たれていないにも関わらず俺の喉を焼いていく。眼球の水分は蒸発を始め、今すぐに目蓋を閉じなければと目の奥が痛みを知らせる。
……避けるか? 何処に? 左右に避けても余波に当たり焼かれる。下は床、上に逃げても上昇する熱気にやられて気を失うか、どちらにしても死ぬ事に変わりは無い。ダルトンにソイソー刀を伸ばしたとて、軽く身を捻れば避けられる。魔法詠唱? 間に合うものか、仮に間に合ったとて直撃してもダルトンはふらつくこともせず平然と受け止めるだろう。とりあえずで使う魔法でこの男がまいるとは思えない。
……残る逃げ場所は一つ。普通に立ち上がっている時間など無い。刀を脇に抱えて逆に構え、後ろの柱に切っ先を向けた。自分に出来る最速で刀に魔力を送る……それでも、まだ遅いか?
「消し飛べクロノ……お前は、弱くはなかったぞ」
ゆっくりと宣言して、ダルトンは話す速度と同じようにゆったりと掌を突き出した。そのスピードとは間逆に恐ろしい速さで近づいてくるバーストボール。空気を切り裂き、貪欲にも移動しながら辺りの酸素を巻き込んで尚巨大に姿を変えていく、悪魔のような魔力。炎の壁が迫るような錯覚。口を開けた溶鉱炉が倒れてくるような……絶望感。
無謀かもしれない、体が燃え尽きて死ぬかもしれない。それでも……諦めたくは無いなあ、約束は守らないと、ジャキも、アルゲティの人々も……何より俺自身がサラを救いたいと願ってるんだから。
「ダァルトォォォォォンーーー!!!!!」
右頬が動かせないので、正確に声を出せていたか分からない。それでも、自分を鼓舞しなければ恐怖に蹲ってしまう。消極的な方法に留まり、生きようと足掻いた結果死ぬ事になる。俺を追い立てるのは他の誰でもない、俺であるべきだ!
後ろに向けたソイソー刀を伸ばし、僅かに柱に突き刺さった刀は柱を突き破る事は無く俺の体を持ち上げた。目の前の魔力の塊を避けるのではなく、突き破る。それが俺の出した結論。自殺紛いの愚策。でも……これを越えれば。何者をも溶かし焼き殺すこの壁を越えれば……そこで玉座に向かう事ができる。
いつのまにか人よりも大きくなった熱球に飛び込んだ瞬間、体中が焼け焦がされていく。服は溶けるではなく焼け、爪がぼろぼろと液体化していく。耳も鼻も形を保てず溶けていく。魔力壁を生成しても、通り抜けることを拒む関門。
やがて……俺の体は溶けきり……消滅した…………
「……逝ったか、クロノ……」
「………………訳ねえだろぉぉがぁぁぁ!!!!」
少し物足りなさそうに笑うダルトンの前に高熱球を突き破り姿を見せた俺をダルトンは驚愕した表情で凝視する。
柱から刀を抜いて長さを調節、刀に持ち上げられた俺は慣性のまま宙を飛び刀を振りかぶる。左手は、熱に肌を焼かれ、中の神経さえイカれたようだ。まるで動かない。
なら……右手だけで充分だ、俺の全部、何もかもを乗せてぶった斬る!! それで敵わなければまだ次がある。いつだって次はあるんだ!
俺が渾身の力をかけていると見極めてくれたのか、ダルトンは今までと同じように避ける事をせず、獅子のような尖る歯を見せながら両手を交差して防御体勢を取る。魔力による強化を上乗せして、手甲が輝きを増していく。
今まで傷一つ付けられなかったダルトンの手甲。絶対の自信を持っているのだろうそれを切り裂けるか……? ただでさえ、体は満身創痍で片手でしか攻撃できない。魔力で切れ味を増すことも出来ない。そんな精神状態じゃない。今まで一度も通らなかった攻撃が、通るのか……?
……うわ、だっせえ俺。そうじゃないだろ、そういうことじゃないだろ。
「理屈じゃねえんだよ畜生ォォォォ!!!!!」
体全体で一回点半の捻りを加え、全力で刀を振り下ろす。刀は……手甲に受け止められ勢いを止められた。
……いや、それでも皹は入った。それならば希望はある。
地に落ちる前に左足を背中側から回転させて手甲に踵落とし。皹は深くなった。地上に落ちてもう一度特攻を試みると、落下の瞬間に放ったかダルトンの鉄球が右手を直撃した。五指の骨が砕けた音がする。もう両手は使えない。
……それなら歯で咥えればいいんだろう? 形勢は全く不利じゃない。俺の負けはまだまだ遠い!
その場でしゃがみ刀を口で拾う。頬骨が砕けている今、柄を咥えられるほど口を開けないので刃の部分を噛み持ち上げる。同じ戦法とは芸が無いと自覚するが、もう一度床に刺して伸ばし体を浮かせ浮遊するダルトンに肉迫する。
芸が無いのはダルトンも同じか、また両手を盾に俺を待つ。そうか……あいつも魔力球を作れるほど余裕が無いか……あれだけの威力の魔法を連続して使えば魔力が枯渇してもおかしくはない。
「ヴヴヴヴヴウウウウッッッ!!!!」
今度は刀を使う事無く膝蹴り、左手の手甲は砕いた。次で……最後だ。
首を後ろに逸らし、火傷で赤く焼け爛れた額をダルトンにぶつける。ぎりぎりで右手のガードが間に合ったようだが、それも砕け弾き飛ばしそのままダルトンに頭突きを当てた。
「ぐあああっ!?」
俺と同じように床に落ちて、額を押さえるダルトン。追撃はお前のお家芸だったけどな、今回は俺がやらせてもらうぜ、追い込みをさ!
だらりと垂れた両腕を揺らしながら走り、腹に足を落とす。ダルトンは苦悶の吐息と血を吐き横ばいに転がった。またすぐに近づきローキック。背中を何度か蹴った後、ダルトンが大きく吠えて飛び起きた。
左手で顔を隠しながら荒く息を吐き赤く充血した目で睨む姿は、虎の尾を踏んだような殺気を感じさせる。
暫しの間睨み合い、ダルトンは顔を覆う手を離して片手だけでファイティングポーズを取る。魔力が消えても、身を守る防具が無くても、奴にはその比類ない闘争心が残っている。
……まだ、終わるわけ無いか。
「……クロノ、お前は凄いな。俺様には、遠く及ばんが」
「俺を、はあ、褒めてるのか、自賛しているのか、分からないなあ、それ……」
お互い声を途切らせながら、肩で息を吐き、滝のような汗を流す。痛みで? 緊張感から? 多分違う気がする。
ダルトンは、彼には珍しく俯き弱った声で「一つ聞かせてくれ」と呟いた。俺は少しの間を挟み、頷いた。
「俺様は……天才だ。古代言語は二週間でマスターした。新魔術の開発数も研究しかしていない学者共の三倍はある。戦闘に関しても、一対一で負けたことは産まれてから三回しかない。相手が大人の兵士であろうと、幼少時に打ち倒してくれた。俺様は、貴様ら凡人とはまるで違うのだ」
「……やっぱり、自慢なのかよ?」
この期に及んで自慢とは、少し呆れてしまう。らしいと言えば、らしいのだが。
肩を落とす俺の動きが止まったのは、顔を上げたダルトンの顔が涙で塗れていた時。そのあまりに寂しそうな、悔しそうな表情に息を呑んでしまった。
「なのに何故……貴様ら凡人は肝心な時に成功するのだ……? 俺は、いつも大切な物を失うのに、何故お前らだけ勝てるのだ!?」
泣きながらダルトンは膝を落とし倒れた……限界、だったのか。
床に伏しながら嘔吐して、彼はゆっくりと体を仰向けに変えた。頭を揺らしたからか、泣いているからか、それからのダルトンの言葉はテンポの合わない歪な独白だった。
「父も、母も死に……俺を助けてくれた人々も、人質に取られ、なおかつ俺っ、の、恩人は、捕まって……俺は、見送る事しか、出来なかった! 捕まえる手伝いすら、さっ、させられた! 俺は……俺様は、天才なのに! 努力だって、してきたのに!」
大の男が冗談みたいに大きな声で泣き喚く。巨躯の体格を揺らして、喉を震わせて。眼から零れ落ちる涙を拭う事すらせず泣いている。自尊心が立って歩いているような男が、ライバルと認めてくれた俺の前で泣く。
想像を絶するような、苦痛だったんだろう。肉体的な痛みでは決して無い。悔しくて、嘆いているのか? 自分の届かない両腕に。その無力に。
絞め殺されるような声を漏らす彼の姿からは、今までのような堂々たる振る舞いも、風格も見られない。どうにもならない出来事に両手をついて迷う子供のようだ。
……何故、か。凡人ばかりが成功するなんて事は有り得ない。俺だって今まで何度も挫折してきた、肝心な時に失敗した事だってちゃんとあるさ。天才だから、なんて理不尽は存在しない。むしろ、逆のパターンの方が比重が大きいだろう。
何故、俺が勝てたかという質問だとすれば、それもまた分からない。諦めなかったからなんて根性論を説く気も無いし、誰かを助けたいと思ったからでもない。強いて言えば……
「俺の方が、勝ちたかったからじゃねえか?」
「……俺様も勝ちたかった……のか?」眼を見開いて自分に問うダルトン。
「自分で考え込むくらいなら……どっちでも良かったんだろ。それこそ、天賦の才があっても絶え間ない努力があっても覆らないくらい、ちっぽけな勝利欲だっただけだ」
「……そう、か……俺は……初めて……勝ちたくも無かったのか……」
何かを悟ったように力を抜いて、ダルトンは懐からカプセル薬を取り出して俺に投げ渡した。
「エリクサーだ。傷も魔力も癒してくれる。それを飲んで……さっさと行け」
礼は言わない。多分それは望んでいないだろうな、と思ったから。
ぐっと薬を呑み込むと、嘘みたいに痛みが遠ざかっていく。今まで動かなかった両手は動き出し、落ちている刀を拾って鞘に納めた。気になっていたので、顔に手をやると火傷も消えているようだ、これは……回復魔法を超えるものじゃないか? 魔法王国の秘法の一つだろうか?
その効果に、望まれて無いとしても一言感謝したくなったが、その前にダルトンが口を開いた。
「……サラを、助けてくれ……俺では、力不足のようだ……」
「……はっ、そんな簡単な事俺には役不足だがな、任されたよ」
「役不足、か。かっははは!! 言うじゃねえかクロノ! ……約束、だぞ」
笑いながらも、目は真摯に染まり俺に信頼を託す。これで約束は二つ。内容も被って二重契約っていうのか? ちょっと違うか。
……果たさないとな、これだけ重たいんだ、捨てていくにはいかないだろう。
ダルトンは俺の言葉に笑った後、海底神殿への移動装置に向かう俺を引き止めた。
まだ何か? と言って振り返る俺をダルトンは涙の後を拭いて、低い声で話し始めた。
「海底神殿の魔物共は、貴様ならば倒せるだろう……だが一人だけ気をつけろよ。お前を殴ったあの仮面の男だ」
思い出すのは、アルゲティでサラを殴り倒し、ジャキでさえ殴ろうとしたあの暴力的で嫌悪感を纏う気持ちの悪い男。ただの雑魚じゃないと思っていたが、やはり実力者なのか?
嘆きの山の番人位か? という希望的観測を含んだ俺の問いにダルトンはとんでもない、と首を振り、「実力の底を知らんが、恐らく俺よりも上だ」と言われて驚いた。ジール王国の部隊団長を上回る程って……無茶苦茶だろう!?
「あいつは、人間じゃない。ジールが海底神殿建設の際、ガードマン代わりに作り出した魔物その最高傑作。さらに、ラヴォスの気を当てた最強の魔物だ……下手をすれば、ラヴォスの力を得た創造主のジール本人を凌駕するやもしれん」
「……ラヴォスの力を得た魔物、か……くそ、もしそいつと出くわせば、マールやルッカが危ない……!」
「奴と戦わずにサラを救出しろ。まともに戦り合えば、恐らく終わる……」
ダルトンをしてそこまで言わせる魔物……出来うるなら出会いたくないが……そいつの存在を思い出してから胸騒ぎが止まらない。もしルッカがそいつに会えば仲間の制止も聞かず、一も無く戦いを挑むだろう。
「お前の仲間にも伝えておけよ……海底神殿に巣食う化け物、そいつの名前は──」
「──テラミュータント。俺の名前だよー、覚えておいてくれよ? 俺、人の名前を覚えるの好きくないけど、自分の名前忘れられたら取りあえず消し飛ばしちゃうからさ。そうそう一応、愛称はテラね。三兄弟の長男なんだぜ?」
至極どうでもいい事を酷く楽しそうに伝えながら、何の構えも取らず、警戒心など無い歩行で銃を構えている自分に近づいていく男──テラ──にルッカは頭部に狙いをつけて引き金を引いた。バヂッ、という独特の発射音を立てて伸びる電気と弾丸の融合物をテラはいとも簡単に指先で掴み、なおも連射される弾丸を虫を追い払うように飛ばしていく。
「……っ!」
通常攻撃は通用しないと悟ったルッカは銃をホルダーに戻し左に走りながら呪文の詠唱を始める。早口に唱えるそれに威力は期待できないが、まずは目隠しと時間稼ぎに使おうという魂胆だった。熱量速度は忘れて範囲のみに効果を絞ったファイアは天井に届きそうなほど高く生まれ、テラの前面に広がっていった。
(まず、メガトンボムの用意だけど、この距離で爆発させれば私や後ろのマールにも被害が行く……距離を離さないと……)
これからやるべきことを組み立てて整理し、ルッカは鞄から爆弾を取り出した。すぐに取り出せるようにポケットの中に入れておくつもりだった。
しかし……それさは遮られる。彼女にとって鳥肌が立つほど嫌悪する男に手を握られる事で。
「うわあ、これ凄いなー。ただの人間が作ったにしては爆発力ありそうだわ」
自分の手が動かない事を不思議に思ったルッカが見たものは、今さっきまで炎に巻かれていたテラが己の手を握って爆弾をまじまじと見つめている様だった。その表情は驚きの色を見せていて、子供が珍しい玩具を手にしている時のような興味染みた好奇心を前に出している。
すぐさま振り解こうと手に力を込めるも、握力は感じないのに氷付けられたように腕が動かない。そうしている間もテラはじー、と爆弾を見つめて「凄いなー」と口を開けている。
「離せっ! 離しなさいよ!!」
ルッカの怒声に気を悪くした顔を見せた後、「良いけど、交換条件なー」と語尻を伸ばして手を離した。
顔面に向けて炎を直接当ててやろうともう一度魔法を唱えたルッカは、急速に接近する顔に対応する事が出来ず、その場で立ち尽くしてしまった。
(…………え? 嘘? 嘘だよねこれ?)
ゆっくりと顔を離していくテラが「ご馳走様」と舌なめずりをした瞬間、ルッカの世界が壊れていく。「もしかして、初めてだったぁ?」と笑う声も耳には入らない。ぺたん、と座り視点を揺らす彼女は間違いなく混乱していた。正常に戻る事を拒否していた。
(え? 何がどうなって……戦ってたのよね、私今魔法を唱えようとして、それで中断させられて……何で止めたんだっけ? 分からない分からない、初めてって何、初めてって何? ……私は、誰にハジメテヲアゲヨウトシテタンダッケ──?)
ルッカの頭の中で一人の男が蘇り……遠くに消えてゆく。想像の中でも手を伸ばせない自分が苛立たしかった。許せなかった。
女性にとって、初性交の次に……もしかしたらそれ以上に神聖なものとされるそれを奪われて、ルッカの思考は停止。足に力が入らないのではなく、入れることを拒んでいる。感情は動かないのに、何故かぼろぼろと涙が流れていく。次波がやってくるのはそう遅いものではなかった。上を向きながら口から溢れてくる嘔吐物を押さえようとも思わず、口端から溢していく。気管を塞がれて呼吸がままならなくなっても、苦しいとは思わなかった。それを覆い隠す何かが産まれつつあったから。
人形のように力を無くしたルッカを見て、心の底から嬉しそうにテラは笑い、彼女の耳元で呟いた。
「大事な彼氏に捧げたかったの? ざーんねんだねぇ」
「……あ、あ、あああアアアアアアアッッッッ!!!!!」
ホルダーから銃を抜き放ちテラの口内に突っ込んで弾を撃ち出す。何度も何度も狂ったようにトリガーを引き、叫ぶ。ルッカの顔に浮かぶのは殺意ではなく、悲しみ。口をつくのは悲鳴であり激昂。
一瞬の間で十数発の弾を口に詰め込まれたテラは後ろに跳び痰を吐くように弾丸を床に散らし、「ヒステリーとか、怖いなー」とふざけながら唇に指を当てた。
わざと怒らせた猿を観察するように見るテラの表情は子供のそれに等しく、その行動一つ一つがルッカの神経を逆撫でる。
「殺す、焼き殺す、爆発して散らばらせて打ち付けて腸を取り出して自分の口に突っ込んで……」
ぶつぶつと呪詛のような言葉を落とすルッカに「うわ、いってるじゃんお前」と笑いもう一度歩き寄る。まるで遊び道具を与えられた猫のように上機嫌に歩く様は、とても戦いの最中とは思えない、相手を虚仮にしたものだった。
魔術詠唱を開始しながら、ルッカは鞄の中身を床にぶちまけた。愛用しているハンマーや、機械の修理道具、持ち歩いているナパームボムやメガトンボムといった危険物も全て放り出して、爆弾のみ抱え込み部屋の入り口に向かい走り出す。
「あれ、お前逃げるの? 思ったより臆病だなあ」
テラの言葉に反応する事無く、ルッカは通路の闇に消えテラから見える場所から遠ざかっていく。折角の遊び道具が逃げ出したと、テラは今までの機嫌の良さから一転して眼を怒らせ始めた。
「……俺が遊んでやってるのにさ、逃げるとか……ムカつく」
浮かび上がる悪意に浸りながら、殺気立つ心を晴らすようにテラは床を強く踏みながらルッカの後を追う。通路を覗き込めば、濃い暗闇に先が見えなくなる。元々明るい所では無かったが、通ってきたときに点いていた僅かな明かりすらないことに疑問を抱いたテラは壁についていたか細い電灯が全て割られている事に気がついた。
(あの女……ルッカだったっけ。逃げるにしても、形振り構わないなあ……本気で殺してやろうか)
元々殺す気だったけどさ、と誰も聞いていない空間で呟き闇の中へ足を進めていった。そのまま七歩と歩かぬ内に床に落ちてあった物を蹴り飛ばしてしまう。割れて落ちた電灯の類かと気にはしなかったが、ふと不安に近い何かを感じてテラはその場で魔力による火を作り出し床を照らした。
「……やるじゃん。ルッカ」
落ちていたのは、彼が観察しその機能と秘められた爆発力に驚いていた爆弾が複数。中にはそれ以外の爆薬も敷き詰められ、その全てが侮りがたい力を持っていると悟った。
それに気付いた瞬間前方より何かが燃えるような音を耳にして、そちらに眼を向けるとやはりというか、ルッカが感情を窺えない冷たい眼でテラを見つめ、片手に燃え盛る火炎を乗せている姿。どう考えても誘い込まれたのだと知ったテラはルッカに賞讃の言葉を贈った。
それに取り合う事無く、ルッカは作業のように火炎を飛ばし、直線的に進む火はテラの周りに落ちている爆弾に着火した。
目の眩む閃光に遅れてやって来るのは、耳を潰す莫大な音を引き連れた連鎖爆発。長い通路中に蔓延する火炎と砕けた壁と床の欠片。ルッカは今まで精密に構成していた魔力を使い火炎の壁を目の前に作り出した。実質、爆発の力はテラのみに向かい威力を逃す事無く彼の体を貪る事になる。海に沈んでいる海底神殿の床と壁を砕いた事で海水が通路を満たしていくが、ルッカにとってそれは些事だった。というよりも、今の彼女にとってテラを殺すということ以上に大切な事など存在しない。それ以外全てが些細と思える状態となっていた。例え大切な幼馴染のことであったとしても今だけはどうでも良い。
砕けた欠片が更に小さく分解され砂塵のように舞う。爆発が収まり徐々に海水によって視界は開けていく。片手を振って炎の壁を消したルッカは念の為に通路を見渡し、マールの眠る場所まで戻る。通路内に僅かに腕や足の残骸は見えども、テラの姿は見えない。大半が粉々に砕けたのだろうと力を抜き、今度こそマールを時の最果てに送ろうとする。
(……あれ、何で手が動かないんだろ?)
霞む視界の中必死に通信機を使おうと指を動かすが、どうしても上手く操作できない。速くしなければ、マールが危ないというのに、まるで手が動かない。
「何で、動かせないの……うあ……うええ……うあっ、うああああああん…………ああああああ……」
何度も何度も操作ボタンを押そうとしているのにぼやけた目のせいで失敗してしまう。あまりにそれが続き……ルッカはとうとう泣き出してしまう。
初めてだったのだ。常に科学に身を捧げ、ありふれた女の子の夢も見ず一心不乱に何かを発明しようとしてきたルッカでさえ願っていた可愛らしい願いだったのだ。ただ、産まれて初めて好きになった人に、今でも変わらず大好きな人に捧げたいというちっぽけな願い。
なまじそういったものとは無縁だった彼女は、有りそうに無い想像を幾度も繰り返してきた。出来るならば、告白されたその時に体を委ね、優しいキスを貰う。年齢にしては青い想像。照れ隠しに相手が笑い、自分はあまりの幸福に嬉し涙を浮かべるといった、とても、とても……優しい夢を抱きしめて生きてきた。
ちっぽけな願いは、あまりに理不尽に呆気なく摘まれて散った。それが信じられなくて、忘れたくて、忘れられなくて。今目の前で倒れている友にさえも、まだ初めてを持っているだろうという事実に嫉妬してしまう。
自分の汚さを理解しつつも、ルッカは食いしばる歯の力を緩めることは出来なかった。
──悲しいなら、俺が慰めてあげようか、ルッカちゃん?──
「っ!?」
悪夢を押し付けてきた存在の声が聞こえて振り返る。と同時に自分の体が浮き上がっていく事を知る。
ルッカは眼を白黒させながら自分の体を見ると、その息苦しさと眼に入る光景から自分の首を掴まれて高く上げられているのだと理解できた。掴んでいる腕の主はじゅくじゅくとこそげ落ちた肌を再生しながら笑っているテラ。彼は中身の見える赤黒い腕を人外の長さまで伸ばしてルッカの体を天井付近まで掲げていた。
「おぼろいた……ああ、口がまばさいぜいじてないから、上手く発音できがいな……おべはさ……ああいや、俺はさあ。並の魔物と違って、そうだな、再生能力っていうのかな? があるんだよ。勿論無限じゃ無いけど、まあルッカちゃんが想像してるよりずっとタフなんだよー? 倒したと思った? ファースト奪った憎い相手を殺せたとか思っちゃった? あはははは!!!」
「がっ! ご、ごほっ……」
頚動脈を締め付ける力は勿論、それ以上に痛みを覚えるのは爆発の熱によって溶けた高熱のテラの腕によって首を焼かれていること。自分の肉の焼ける臭いにむせそうになりながらルッカはじたばたと足を動かし抵抗しようともがいていた。
歯茎の露出した顔で笑うテラ。体の細胞が動き、皮膚と皮膚が癒着を始める様子は普通の人間なら見るだけで吐き気を催すだろう。毀れている内臓はゆっくりと体内に戻っていき、やがて怪我一つ無い人間体へと変わっていった。小さな箱にはちきれる程物を入れたようなみち、みち、という奇怪な音を立てつつ舌を出してルッカが苦しむ様を眺めている。
「あー、何とか全部再生したか。本当、人間にしてはよくやったよね。でももうちょっと工夫が欲しかったかな? 持ってる攻撃手段全部をぶちまけただけじゃん。いくら高級食材が集まったって、同じ皿に全部盛ったら台無しだろ? ……そんなことも分からないくらい怒ってたとか?」
口から泡を噴きつつあるルッカが答えられる訳が無いと分かりつつ問いかける。意地が悪いなどと理解していても、地上に出向き女を連れ戻す等というつまらない仕事を任せられた鬱憤を晴らす意味でも止めるつもりにはなれなかった。
自然ではない金の目玉を弧型に変えながら充足感を得る。意識が遠のいていく今この瞬間でもルッカは何かしらの攻撃に転じて、その男を焼き殺したいと頭では思っているのに、無意識に手が喉元に食い込む指を削ろうとしていることに失望を感じていた。自分の怒りは酸素を欲する意思に負けるものだったのかと。
首の血流を止められ物理的に目の前が赤くなっていく。充血は酷く脳を巡る酸素が欠乏して思考が軽くもやがかったものへと変わり、手足の感覚すら麻痺していくのをじっくりと味わう。
危機感云々は初めから無く、殺されるであろうこの瞬間でさえも、思考の低下したルッカは悔しいという単一の言葉しか浮かばなかった。今すぐにでも目の前に腕を食いちぎり、四肢を燃やし体内から蒸発させてやりたいと黒く滾る憤怒をぶつけてやりたかった。それすら出来ない自分の力の無さにもベクトルは向いていたが。
「このまま縊り殺すのも味気無いなぁー……そうだ、こうしよう」
独りでに納得して、テラはするすると腕の長さを元に戻しルッカを引き寄せる。半ば意識の飛びかけている彼女の顔を近づけて、食い殺すかのような大口を開けた。
「今のお前じゃつまらねえや。次に会う時までにもうちょっと賢くなっとこうぜ? ……リベンジ期待してるよー。その時は、キスの続きをしてやるからさ」
優しげな声音と違い、テラはルッカの体を振り回して魔物の彫像に叩きつけた。勢い余り石の像は砕け、落ちていく破片とともに彼女の華奢な体は床に落ちていく。壊れたように受身も取らない彼女を見て、やはり高らかに笑いながら右手を振って暗がりに消えた。
それを見送る事無く、虚ろな眼をして倒れているルッカは、のろのろと体を起こしていく。体の傷は痛まない、四つんばいに進みながらマールの体を抱き寄せた。別に、体温を感じさせてくれるのなら何でも良かったのだ。ただ、海底にあることで冷えた空気を流すこの場所で座りつくしているのは耐えられなかった。
彼女とて馬鹿では無い。ただでさえ大怪我をしているマールに抱きつくなど、相手の怪我に響くと理解はしていた。それでも止める事は出来ない、誰かに縋らねばもう立つことはできない。
マールと自分の血が混じりあい己の服色が自然の物ではない色へ変色していくことを知りながら、ルッカは何処にも焦点を合わす事無く上を見上げていた。眼を上向けていても、涙は流れるのか、と当然のことを思いつつ。
海底神殿に入って数瞬。俺は肌に刺さる奇妙な寒さと湿気を感じていた。
「魔物の気配は感じないな……大半、二人が倒したってことか? ……時間を掛けすぎたかもな……」
別にサボっていた訳じゃないんだが、彼女たちに苦労を任せていたことを思うと頭が痛い。警戒も程々に俺は足音を立てることも厭わず通路を飛び出していった。
道なりに進めば、基本的に分かれ道は無く何処かですれ違うような心配も無さそうだった。途中途中に魔物の死体が敷き詰められたように積まれている所もあり、その数の多さからかなりの激戦だったことが予想される。
これじゃあ交代する暇も無かったんじゃないか? ……俺がルッカたちと別れてまだ三十分も経ってないはずなのにこの敵の量……外にいた兵士の数と変わらないじゃないか。それどころか、こっちに本隊を置いたのかもしれないな……ジール王国自体はどうでも良くなったとしか思えない。魔物の餌にすることも厭わないくらいだ、当然の事かもしれないけどさ。
二つ三つ部屋を越えて、新しい扉を開けると足元から水が溢れ出してきた。慌ててその場から後退すると、扉の先が浸水していた。扉を開けた為水深は減ったが、さっきまでは膝くらいまであったんじゃないだろうか? ズボンの裾を濡らしながら先に進むと壁と床が潰れて海底の水が漏れ出している。
このままでは海底神殿が水没するのでは? と思ったが、どういう原理か徐々に壁や床の穴が狭まってきている。魔法の力で自動再生しているのだろうか? 流石魔法王国の科学と魔法の結晶だと感心して、それどころではないと改める。何で今喧嘩を売っている相手の技術を褒めなきゃならんのだ。
床の穴に嵌らないよう注意して先を進むと、どうやら穴周辺が焦げていることからルッカの魔法、もしくは発明品によるものだと考える。水深何メートルか知らないが、水圧にすら耐える壁を破壊するなんてとんでもない威力だなと今度は素直に感心した。流石ルッカ……というべきなんだろうか? それとも怖い奴と恐れればいいのか……頼もしいと喜べばいいんだな。
飛び込んでくる海水に濡らされて、灯りが無いため酷く暗い通路を抜けた。今までに無い広い空間に出て、ようやく二人の姿を見つける。
良かった、無事だったんだな、と声を掛けようとすると……二人の姿は赤く、浸水した海水により体から水が滴っている様だった。
「お……おいルッカ、お前ら何してるんだ! 服びしょ濡れ……つうか凄い怪我じゃないか二人とも! ダルトンに薬貰ったから、早く飲めよ!」
近づいてみると、ルッカもそうだがそれ以上にマールの傷が危ない。骨折どころか、体中に切り傷や殴られた跡、火傷に、刃物で刺されたようなものさえあり出血量も酷い。海水に浸かり体温が冷えていたのが幸いしたのか、今では血もそう流れてはいないが……危険な状態なのは言うまでも無い。
いつまでも離れようとしないルッカからマールをひったくると、気を失っているマールの口にエリクサーをねじ込み無理やり飲ませる。眼に見えて傷は塞がっていき、死んでいるのではと勘違いしそうな顔色が少しづつ血色を取り戻していく。
「ほらルッカ、お前も飲めよ。痛みはすぐ引くし、傷も治るぜ?」
カプセルを顔の前に見せてもルッカは何の反応もしない。ぼう、と俺の手を見てすぐに上を向き動かなくなる。何かの魔術を当てられたのかと心配になるが、その前にマールを時の最果てに送らねばと通信機に手を伸ばした。例え怪我が治ってもあれだけ深い傷を負っていたのだ。今すぐロボかカエルの治療を行ってもらうべきだろう、この場で眠らせておくよりもずっと良いはずだ。
そうして時の最果てに連絡を取ろうとした瞬間、今まで何の反応も返さなかったルッカが俺の袖を掴んできた。取りあえずおかしくなったわけではないのかと安堵するが、今はマールを時の最果てに移動させなくては……
「がっ! ……い、てえなルッカ!」
手早く連絡を取ろうとする俺の顔にルッカが拳を落としてきた。何か不満があったとしても今は邪魔をするべきじゃないだろうと怒り、苛立ちそのままに怒鳴る。
……それで、泣いてるのは、おかしいじゃないか。
何を言うでもなく、ルッカは鼻を鳴らしていた。俺を殴った拳を不思議そうに見つめて、自分でも何故殴ったのか分からないという表情。疑問を浮かべた顔から、怒りを見せたり、次に悲しそうに俯いたり、酷く不安定な精神。別れる間際の、自信溢れる姿とは似ても似つかないルッカにマールを送るのも忘れて戸惑ってしまう。
「……て、……かったの?」
蚊の鳴くような声で呟くルッカ。聞き返そうとしても、沈痛な表情に言葉を返せない。そのまま何も言わずにいると、ルッカは勢い良く顔を上げた。垂れた紫の髪の下から、大粒の涙が光り、髪色と同じ綺麗な瞳は澱んでいた。
「どうしてもっと早く来てくれなかったのよ!!」
「……え? お、俺か?」
胸倉を掴まれて振り回されながら、どうしていいか分からず俺は何の意味も無い言葉を連ねる。
何を言われているのか分からない俺に、どんどんと怒りが増していくルッカは顔も腕も、全身を赤く染め、目から溢れ出すものに邪魔されて上手く羅列されない言葉を順々に置いていく。
「クロノがもっと……来てくれれば、早く……そしたら、私……わた、し……は……」
「ちょ、ちょっと待てって! 落ち着けよルッカ、何があったんだよ?」
「言いたくない……言える訳ないじゃない、あんた頭おかしいんじゃないの!?」
まるで会話にならない。力の限り叫ぶ声は耳を覆いたくなるが、今の彼女にそれをすればきっと止まらなくなるだろう。
今までにも暴走してきたルッカだが、このように壊れた状態になったことは無い。少なくとも、言葉は届いていたのだから。今の彼女はどんな声を投げかけても否定しそうな、拒否しそうな雰囲気だった。
「……約束、したのに……!」
何を、と聞き返す間も無く、ルッカは最も大きな声でそれを吐き出した。俺と彼女との約束を。その内容を。
「絶対泣かさないって、約束したのに!!」
「え…………」
俺が隣にいれば、ルッカをもう泣かせたりしない。
俺が隣にいれば、ルッカをもう泣かせたりしない。
俺が隣にいれば、ルッカをもう泣かせたりしない。
俺が隣にいれば、ルッカをもう泣かせたりしない。
──絶対の絶対だ──
言われてから、ほんの少し前のことなのに記憶の底から這い上がってくる自分の言葉。
まだ彼女の身に何が起きたか分からない。なのに俺の首を絞めようと体を登る何か。すりこぎで俺の体を下からすりつぶされるような感覚に襲われた。
……泣かせたのは、俺なのか?
隣にいなかったのだから、ノーカウントだなんて子供の言い訳は使えない。先に行っててくれと押し出したのは俺なんだから……けど、けどさ。
「先に行けって言った時、る……ルッカも、大丈夫だって……」
「関係ない……関係ないのよ! 守ってよ、何処にいても駆けつけて、危ない時は助けてよ! それが出来ないなら……」
そこから先は告げられないと、押し黙る。それから先は言うべきではないと彼女の自制心がそうさせているのだろうか? ……俺はその先を聞きたいと思う反面、聞けば変わってしまうのではという不安も形作られていた。
「だっ、大体……何だか流されてここに来たけど、私にとってはどうでもいいのよね。サラさんだか何だか知らないけど、一々助けてあげる義理なんて無いし、わざわざ急ぐ理由もないじゃない! クロノが助けたいから来ただけでしょ! 何でそんなのに私が付き合わされるのよ!」
「ルッカ、お前……」
元々ラヴォスを起こさせない為という理由もある。サラを助けるのとそれが繋がっているだけで、結局はここに来なければならなかったのだ。わざとそれを無視しているのか、本当に忘れているのか……指摘すれば、彼女は関係ないと言い切るのだろうか?
「こんな所に来なかったら……私は……私は……」
興奮して周りが見えなくなっている彼女に何が出来るのか分からず、意味もなく彼女に触れようと手を伸ばせば、「触らないで!」と汚いものを避けるように払われた。行き場の無い手が揺れる。
憎悪の念を燃やしたように見遣ってくる彼女は荒く息を吐き、寒さが理由ではない震えを身に着けていた。
もしかして、俺は今ルッカに憎まれているのだろうか──? ともすれば、………ほしいくらいに。
「クロノがいなければ……こんな想い、しなくてすんだのに……」
小さくても、声が聞き取りづらくても、彼女の口が出した言葉。嘘偽りの無い本心。
何か反論しなくてはと思っても、彼女以上に震える喉が言葉を作ってくれない。
膝を震わせて、左右に眼をやる俺を助けてくれたのはルッカではなく、今まで倒れていたマールだった。彼女は何も言わず床に手を着き体を起こして、俺の手を握り落ちつかせてくれた。俺は気がついたのか、とか大丈夫なのか? と気を利かせた事を言う事も出来ない。
少しの時間が経過して、マールはきっ、とルッカを睨み声を上げた。
「謝りなよルッカ」
「……いきなり起きて、なによ。何も知らないくせに……!」
ルッカの低い声に、マールは淡々と言い返した。
「知らないよ。でも、クロノがそういう事を言われて傷つかない訳がない。それは知ってる」
その言葉を聞き終えた瞬間、ルッカは容赦ない平手打ちをマールに放った。甲高い音が鳴り、反省する事も無くルッカは目を開いている。その様子から、正気なんてものはまるで見えない。
顔を腫らしているマールは痛むだろう頬に手を当てて、明確な声量の許「最低だね」と切った。
それからルッカを一瞥もする事無く、
「クロノ、一度時の最果てに戻る? 私もまだ本調子にはならないし……ロボとカエルに代わってもらおっか?」
とさっきまでのやり取りを感じさせない明るい声で話かけてきた。
「いや……いいよ。俺はやくそ……まだ、戦えるから、大丈夫だ。マールはロボと代わってきてくれ」
約束という言葉を使いかけて、止めた。ルッカの言う約束を破っておいて、他の人間の約束を守ろうとするのは、ルッカにとって不快になるかもしれない。
少し残念そうに頷いた後、マールはその場で時の最果てに戻っていった。交代までの時間、少々の時間があったものの、ルッカは一度も俺と顔を合わせることも無く静かな時が過ぎていく。
何度か声を掛けようとして……止める。何を言っても彼女は反応してくれないだろうと分かってしまったからだ。それなら、無視されるくらいなら、言葉を交わさないだけの方がずっとマシだ。それならまだ自分を誤魔化せる。
海底神殿に着いてまだ十分と経たない今。俺たちの進む先に暗雲が立ち込める幻想を思い浮かべてしまった。