ふと、昔を思い出していた。
自分は姉が好きだった。一重の目蓋は涼しげな印象を持たせるくせに、笑顔が零れる時は正しく満面。無表情でいながら子供でも思いつかないような悪戯の計画を立てている。食の細そうな体型でいて甘物は目を見張るような早さで口に入れていく。何も興味を持っていないという雰囲気を纏わせながら好奇心は弟である自分の数十倍、どんなことにも首を突っ込んで、どんなことでも知りたがる。その矛盾が大好きで……自分の矛盾を好む嗜好はそこから端を発しているのかもしれない。
……母は好きだった、のかもしれない。
厳格な性格は自分の冷めた性質とよく合っていた気もする。物事に熱中すると周りが見えなくなるのは子供である自分から見ても、何処か愛嬌すら感じた。失敗を成功に変えていく豪胆さや、鋭利とも取れる冷徹も安心した。ブレが感じられなかったから。母が好んでいる匂いの強くない香水も嫌いではない。女性用と知らなかった頃の自分が欲しがったことから気に入ってさえいたのだろう。
そのような母でも、一度だけ笑ったことがあった。ある時、一人の男が母を乾燥した花のようだ、と評していたことを思い出す。姉が「それは褒めているんですか?」と笑いながら返していたことも。自分は「花というよりも、乾いた大木のようだ」と答えたとき母を除いた全員が笑っていた。無愛想な母はその顔に怒り符号を足していたが、自分だけは知っている。きっと母も笑顔を作りたかったのだ。口も眉もけして動かすことは無かったが、あの時の母の目は確かに優しかったから。ああ、きっと私は母が好きだった。
だが、今は嫌悪すら覚える。
厳格な性格は決して許すことの無い暴虐へ、周りのことなど省みるはずが無い。豪胆とは良い言葉であるとは限らないと知った。冷徹は過ぎると心を失うのだとも。奴が近づくだけでその芳香ゆえに吐き気が止まらなかった。いっそ、深海の奥の奥に沈みその悪臭を闇の底へと葬ってやろうかとさえ考えた。
私には姉がいる。いや、いた。愛していた。
私には母がいる。恐らくは、今この瞬間も息を吐き耐え難い臭いを撒き散らしている。在り得ないことだと頭で理解していても、いる。
私には成し遂げねばならないことがある。過去も未来も現在も、その達成すべき事柄は無くなりはしない。終止符を打たねばならぬのだ。
「邪魔は……させぬ」
本心を晒すことなく生きてきた私の、言葉にするのはあまりに久しい紛う事なき本心。
ふと、昔を思い出していた。
それはまだルッカが俺の後ろをひたひたとついてくるだけの、可愛らしかった時代。つまり、幼少期と称される程の、十年ほど前のこと。
俺は短い棒切れをぶんぶんと得意気に振り回して、自分の後ろを歩く女の子を守っているような、騎士の気分を味わっていた時。一人の男が店を飛び出してきて、そいつにぶつかったルッカが転び泣き出してしまった。俺は怒り、自分よりも幾倍の身長差がある男の足に唯一の武器を思い切り当てたのだ。
普通の大人なら、「ごめんね、友達を泣かしてしまった。怒るのは当然だ」と反省するだろう。常識の無い大人なら「何しやがる!」と怒鳴るだろう。
けれど、その男はその二つに当てはまらなかった。男はまだ小さい自分を蹴り飛ばし、動けなくなった俺を尻目に延々と泣き続けるルッカの頭を掴み、壁に叩きつけた。内臓が傷ついたのか、ルッカは吐血して悶絶していた。小さく「助けて、クロノ」と呻きながら。
結局、たまたま近くを歩いていた母さんが原型を留めないほど乱暴者(その程度ではないが)を殴り、すぐに治療を受けたルッカは大事には至らなかった。けれど、俺の中に錘のようなものが沈んでいるのを感じていた。
その日から俺はまだ重たい木刀を持ち続けた。剣道を教えてくれる人は身近におらず、ただ適当に振り続け、「回転切りの完成だ!」なんてまるで真剣味の無い訓練を続けた。
ルッカが泣かされた瞬間の決意は本物だった。でも、所詮は子供。訓練は熱意を無くし今の今まで何故多少なりとも強くなろうとしたのか、その原因を忘れているほど忘却されていった。
今なら思い出せる。俺は誰かを守るため、なんてことではなく誰よりも強くなろうとして剣を取ったのだ。そうすれば、結果的に誰でも守ることが出来るのだから。
そして、俺の強くなりたいという想いの果てがカエルではないか、と思い始めていた。どれほど馬鹿でもその剣の冴えは今まで見てきたどんな人間よりも、またどんな伝承に伝わる勇者にも負けはしないと思ったから。
俺の小さな時から細々と願っていた剣士の最高峰。その動きは風を越え、その守りは鋼も通さず、その攻めは山をも奮わせる。誇張が過ぎるが、俺の印象はおおよそ大差無い。かといってカエルを一騎当千の、神すら下す勇者とも思ってはいなかった。そこまで俺の理想を押し付ける気は無い。ただあくまで、俺の想像しうる実在の生き物で、カエルに切り裂けない物は無いと絶対の確信を抱いていた。
……そのカエルが、完全に、最高のタイミングで最強の、渾身の一撃を与えたのだ。殺せなくても、倒せなくても、その傷は甚大、致命傷。仮に、仮にそれには及ばなくても……切り傷くらい、何かを為した痕跡くらいあって然るべきだろう? なのに……
「……手袋一つしか切れないって、何だよ……?」
俺とルッカが道を示し、グランドリオンが力をくれて、カエルが放った未来へ向けた振り下ろしは魔王の皮のグローブを切り裂き、その手に血を滲ませることすら無かった。
誰も動けない。ルッカは口を開いたまま今の状況を理解できず、カエルは魔王の手すら切れない現実を眼を瞬かせて幾度も確認した。今この瞬間、この場で起きたこと全てが悪夢としか思えないというように、顔を歪めながら。
「……驚いたぞ、まさか私に刃を当てるとは……少々侮っていたのかもしれん」
魔王は漆黒のマントに身を包み、魔法の一種なのか一瞬で部屋の中央まで離れた。
その言葉から、直接攻撃を当てることすら出来ないだろうと俺たちを侮っていたことを知る。しかし、今それを憤ることは出来ない。そう思っても仕方が無い程に実力差があるのだから。……切り札が、俺たちの希望グランドリオンが通用しないという悲痛な結果を叩き出されたから。
「絶望か? ……確かに、その結末に至るに足りる結果であろうな。だが、喜べ。今からその絶望から解き放ってやろう」
魔王が何かを言っている。それは分かるけど、意味は掴めない。心は震えない。
文字通り、自分たちの全力を見せたのだ。何か事態が前進したのならまだ燃え上がる心も残るだろう。後退したのなら後悔しつつももう一度打開策を練られるかもしれない。だったら、その結果が停滞なら、次はどんなアクションを起こせばいい? 選択肢は狭まり、行動概念を消し去る。
微動だに出来ない俺たちを見て魔王が喉の奥で笑い、魔力の波動を作る。
「なに、解き放つというのは貴様らを殺すというだけの意味ではない。信じようがしまいが、今の私ならグランドリオンの攻撃も、そこの小僧の魔法も、女の火炎も私にダメージを与えよう」
ピク、と俺たちが視線を向ける。敵の言葉を易々と飲み込む俺たちは、飲み込まざるを得ない俺たちは実に愚かだろう。だって、仕方ないじゃないか。藁ですらない糸くずを掴まなくちゃ動けないんだから。
「そこのカエルが放つ斬撃や、貴様らの魔法が私に通らなかったのは単純な事。私の無意識に放っている魔法障壁を破れなかっただけだ……今この瞬間それを消した」
「……その言葉を信じろと?」
「当然の疑問だろうな、カエル……では問うが、わざわざブラフを用いる理由が私にあるか? 愚直に火炎を放つだけで押し切れるこの状況で、貴様らの戦気を戻すことになんの意味がある?」
「………」
カエルの疑問に淡々と答えを述べて、魔王は手で印を作り始めた。……印? 今までアイツは言葉だけで魔法を唱えていたのに?
「クロノ、ルッカ。情けないが、あいつの言葉にすがるしかない。限界が近いのは分かるが、もう一度だけふんばってくれないか?」
「あははは……お願いにしちゃ強引よね、なんせやらなきゃ死ぬんだから、それ頼みっていうより強制じゃない」
皮肉を返しながらもルッカは顔を上げてカエルに了承の笑顔を向ける。頭から血を流し焦げた髪を揺らしながら笑う姿は痛々しかった。
カエルにヒールを唱えてもらい、立てるようになった俺は去来する何かに怯えながらも立ち上がりソイソー刀を手に取った。今持っている全てのエーテルを飲み干し全員の魔力が数割回復、ポーションでは心元無いがこれが最終決戦、これもまた飲み干す。万全とはいかないが、パーティーが立ち直った。
……怖いのは、魔王が俺たちの回復行動をずっと見守っていること。印を組んでいるにしても、俺たちの治療を見逃してまで続けることだろうか? 防御をしながら魔王を見ていたカエルも表情をしかめていた。
「……ばらけるぞ。防御は崩すな、さっきのようにいつ魔法が放たれるか分からん」
「……そうだな、目の前に炎の壁、なんてのはこりごりだ……それと、」
二人に軽い相談を交わしてすぐさま散開。魔王の前、後ろ左、後ろ右に陣取り戦闘の始まりの立位置に戻った。回復が遅れるかもしれないという懸念事項は無視。そもそも回復できる余裕がまた訪れるとは限らないのだから。
俺の合図を待つ二人に向けて手を下ろそうとした矢先、鈍く魔王の声が響き渡り、思わず合図を中断してしまった。
「……光に相反するものを、知っているか?」
「何?」
会話の意図が探れず、俺は間を置かずして質問を繰り返させる。
「光と真逆に位置するものだ。分かるか?」
時間稼ぎだろうかとも考えたが、魔王はすでに印を組むことを止めている。……多分、自分でも魔王を攻撃することを恐れていたのかもしれない。もしこの攻撃が通用しないなら、もう俺たちに残された道は絶たれるのだから。俺は無意識に魔王の会話に応じて先延ばしにしてしまった。
「……闇、じゃないのか」
「違う。では闇の反対は? 風は? 太陽は? 人間は? ……星は? ……答えは『無』だ。ただそこに在るというだけで無は相反するものとして扱われる。それは言葉として、物体として存在する限り揺るがざるものとして成り立つ」
「言葉遊びか魔王? 貴様の戯言は飽きた……! 決着を着けるぞ」
「そう急くなカエル。戦いに関係していないのではない。むしろ、密接に関わりのあることだ……貴様らを殺すモノが何か、知りたいだろう?」
言い終わる前に、魔王から膨大な闇……いや、『無』が広がる。視界は無い。床も、蝋燭の灯火も、巨大な銅像も魔方陣も見えなくなる。見えるのはそこに息づくものだけ。何処までも落下しているような錯覚を覚えて、思わず足場を確認する。
……印を組むことを止めたのは中断したのではなく、もう終わったから、か?
「敬意を表しよう、人間ども。私が今までの生涯でただ一度だけ使用した魔法を見せてやる。……前は加減が出来なかったのでな、島を『消して』しまった。魔方陣を消さぬよう、最小限に範囲を留めてやろう、上手くすれば……」
無から生まれたのは、光の線が繋ぐトライアングル。無造作に回転するそれは、何故か人を魅入らせる魔力を秘めていた。恐らく、その魔力量、練度、密度が至高であるゆえに。
終わらせることに特化した魔法が紡がれる。
「原型は、残るかも知れんな」
「クロノ! ルッカ! 今すぐ魔力を全放出しろ!」
危機を察知したカエルが俺たちに指示する。……でも、あれに魔法で防御? どうやって? 砂で出来た堤防で津波に耐えれるとでも言うのか?
無駄と分かっていても俺たちは電撃を、火炎を、水壁を構成し目の前に作り上げた。理不尽な一撃にミクロン単位の時間を稼ぐ為。
「ダ」
ルッカは火炎の熱量を上げて全てを相殺すべく力を注いでいる。
「ア」
カエルは作り上げた水を凝固させ、ダイアモンドすら通さぬ硬度の壁を練成する。
「ク」
俺は磁力で何処かにあるはずの物体を集めて回り全体に盾を造り、小さな城を構築する。相手は攻城兵器なんて生易しいものじゃあないけれど。
「マ」
何処かで攻撃しろ、と叫ぶ声がする。今魔王を攻撃すれば詠唱を途切らせることができるかもしれない、と。
何処かで馬鹿を言うな、と怒鳴る声がする。お前は無駄と分かっていても迫りくる隕石に身を縮こまらせずにいれるのか、と。
「タ」
カウントダウンが刻まれる。魔王の宣告が一文字ごとに耳に届く。きっと流暢に流れているだろう言葉は壊れたスピーカーみたくゆっくりと、いたぶるように聞こえてしまう。俺の耳がおかしくなったのか? ……きっと違う。おかしいというなら今この状況この事態。全てが狂ったこの場で正常なものなど有る筈が無い。有ってたまるものか。
「ア」
『ダークマター』。それが魔王が放った言葉。それが正しい形。
それが分かった時にはもう、目の前が暗くなり、気づいた時には俺の魔力も物体のバリケードも存在されていなかった。
でも、悲観はしない。それが分かったということは、俺が生きているという証だから。思わず体がぐらついたけれど、大丈夫。目の前に無が広がっているけれど、死んだわけじゃない。少なくともこの一瞬は。
ルッカとカエルの姿もちゃんとある。……次に眼を開けたときには、もう見えなくなったけれど。
「────!!!!!」
何かを叫んでいた。もしかしたら懺悔? 或いは歓喜? 呪詛の類かもしれない。叫ばずにはいれなかった。
……防御を中断して魔力を二人に送る。俺が危ない、という考えは今だけ捨てて二人を守れるよう願いを込めて。……勿論、俺自身が生き残りたい気持ちも強いから、第一希望は皆生前なんて都合の良いものだけど。
どうか、運命よ俺たちの側についてくれ。
星よ、願いを叶えてくれ。
瑣末で幼稚な懇願が頭を占めた。
壁はごっそりと消えて、上方にあるはずの魔王城がまるごと消えていた。木々のざわめきがここまで届き、俺が生きていることを教えてくれる。
結果は、最上。俺は生きていて、カエルは憔悴しながらも立っていた。ルッカも腰を抜かしながらも呆けた眼で俺を見ている。魔王は「……加減が過ぎたか。対象に向ける為の方向修正もまるで不可能……やはり、まだ使いこなすには早過ぎるか」と悔やんでいるようだ。
ざまあみろ、驚かせやがって。魔王城を再度建築するにはどれくらいの時間と費用がかかるかな!? なんて下らない啖呵を思いついて、口にしようとして、止めた。負け惜しみにも程がある。
さらさらと塵が舞う中、俺は気を失いそうな激痛に耐えて頭を動かす。今ならきっといける。むしろ今しか無い絶好の機である、と。
あ、あ……と舌を動かさずに作れる言葉を喘ぐ様にルッカが鳴く。カエルは目を開き回復魔法を唱え始めている。違うだろカエル、今お前がするべきはそうじゃない。攻撃のチャンスは今しか無いんだから。
片膝を突いた体勢から右側の軽くなった体を立たせて魔王を見据える。魔王の赤い瞳は俺たちではなく何か遠いものを見つめているように思えた。ともすれば、吸い込まれそうな底の深い彩りを添えて立つ姿は到底力が尽きそうには見えない。
……まあいいさ。とにかく、最悪の事態は無くなった。だって、皆生きているのだから。息をしてれば生きている、そうだろ? 例え……
俺の右腕がまるごと無くなっていたとしても。
「クロノーーー!!!」
思い出したように血が噴出す俺の腕を見てルッカが金属的な悲鳴を上げる。今すぐルッカに慰めて欲しい、この吐き気がする痛みを止めて欲しい、バランスが取れない体を言い聞かせて欲しい、でも、俺は駆け寄ろうとするルッカを残った左腕で止まるよう指示して、合図を送る。今しかないんだ、今この瞬間しか魔王をやれる機会は無い!
俺の意図が読めたカエルは治療の為のヒールを止めて、苦渋の顔で魔王に向き直る。詠唱の内容は、ウォーター。およそ魔王を倒すには役不足が過ぎる魔法。
「先に行くぞ、クロノ!」
迸る水撃を片手で止める魔王。その顔はつまらない足掻きだと考えているように読める。続いて俺のサンダー、残った片手で魔王は受け止めた。……そこで、魔王の表情が変わる。
魔力の結界を敷いている時なら全く効果も無かっただろう。しかし、今この時だけは別。予想だが、魔王の奥の手であろう魔法を唱え終えた今結界は無い。されとて、俺たちの貧相な魔法では傷一つつかないだろう。制止した俺に驚きながらもルッカは思考を切り替えて詠唱を素早く終わらせてファイアを魔王へとぶつけた。
……一つ、話をしよう。
ルッカの実験での1コマである。密閉された空間で、恐ろしく上手い具合に水、電気、火を組み合わさった時何が起きるのか、ルッカが試してみたことがある。答えは、理論上では爆発するとの事。しかし、それはあくまで実験レベルの話。例えば、その原動力が魔力といった非現実的なものから生み出された産物の場合、その爆発はただの爆発とはまた違ったものになる。(ルッカ談)
さらに、今から三時間と無い過去の話。カエルが魔法を覚えた時スペッキオに挑んだのだが、その時一つの出来事が起きた。
原因は何と言うことは無い。俺とカエルとルッカが同時に魔法を放ち、対象であるスペッキオに当てた時のことだ。魔力という概念がそうさせるのか、意図せずして魔力の融合は成った。しかし爆発といった単純な結果では無い。魔力のスペシャリスト、スペッキオ曰くこの現象は冥の魔力に酷似しているとの事。その力は想定など不可能、それが物体である限り存在を許さない正しく魔王の使ったダークマターに近い性質を持つ魔法。
三人の術者が同時に異なった魔力をぶつける事で生まれる奇跡の産物。
───その名を、デルタストームと呼ぶ。
「……人間が、合成魔法を……?」
魔王の驚いた声が遠く聞こえる。物理的な距離は無くとも、魔法という壁が音を遮っているのか。
ピラミッド型の魔力の結界が魔王を包み、その体を蝕んでいく。魔力を考えれば体が消し飛んでもおかしくはないのだが、魔王は原型を残し蝕むといった表現でしかダメージを与えられなかった。
とはいえ、この魔法、デルタストームは瞬間的に力を発揮するものではない。時が経てば経つほどにその威力は増し対象者に向ける牙を伸ばしていく。カエルの水が自由を奪い俺の電撃が体の内側を狂わせルッカの炎が体表を焦がしていく。何人たりともその方程式は破ることが出来ず、逃げるなど持っての外。魔力の乏しい俺たちでも三乗等では済まないこの力なら魔王に迫るかもしれないという希望。
「………くっ!」
結界の三面の壁色が濃くなり魔王の様子は伺えなくなったが、微かに聞こえる魔王の呻き声から確かに俺たちの魔法は届いていると教えてくれる。
「倒れろ……もう後は無えんだ!!」
デルタストームは俺たちの使える最大最強の大技。それだけにリスクも存在する。結界を形作る為に発動したが最後俺たちの魔力を無尽蔵に吸い取っていくのだ。魔力が尽きるということは心の力が消えるということ。まともに肉弾戦など出来よう筈も無い。そもそもカエルですら敵わぬ魔王の技にルッカや片腕の俺が闘えるわけがあるものか、デルタストームが破られたその時、俺たちの勝ちは消える。今度こそ、消える。
「サ…………ラ…………………」
「……え?」
「ガアアアアアアアァァァァァ!!!」
魔王の叫び声と共にピシ、という嫌な音が聞こえる。まるでガラスに罅が入ったようなそれは連鎖的にそこかしこから生まれていく。知らず限界だと思っていた俺の魔力が放出量を上げる。
まだやれるんじゃないか、という喜びは無い。俺の体が感じたのだ、このままでは不味い、と。これは本能が危機を察知し恐怖を覚えたから魔力という袋を絞り上げて一時的に出力を上げたに過ぎないと分かったからだ。
カエルもルッカも同じく魔力の密度を増やし集束させてよりデルタストームの硬度を高める。もう一歩で暴走稼動域と言える程の魔力を吸い取っていく、それほどの魔法なのに、それなのに、破壊音が途絶えない。
攻撃的とさえ思えた結界の色が徐々に薄くなっていく。今では中にいる魔王の姿が視認できるほどへ。
「馬鹿な!? 単独でこれが破られるわけが無い!」
カエルが歯を噛みしきりながら戸惑う。その声には余裕は無く魔力が途絶えるのは時間の問題だと知れた。
「ま、魔王は確か全ての属性の魔法を扱えるんだよな……? なら、もしかしたらあいつは……」
「……嘘、一人で……デルタストームを作り出して、そして……!?」
「……相殺したのだ!」
魔王が断言するかのような口調で言い放ち、それに少し遅れてパキャ、という味気の無い音が耳に入り、俺たちの魔力結界は崩れた。今だその場に立つ魔王を残して。
予想すべきだった。あいつがあらゆる魔法に精通し使用できるなら一人で擬似的にデルタストームを作れると。
……いや、無理だ。幾らなんでも一度に三つの魔法を使い、それを混合させて、大技をこなした後に、なおかつ攻撃をくらっている最中にそれが為せるなんて誰が思いつく? そんなものにどんな対策が練れるというのか。
「しても、ノーダメージかよ……」
四肢は健在、体中が血塗れであるわけでもない。多少疲れた顔をしているが戦闘を続けるには支障ないように見える。魔王は悠然と俺たちを見ていた。
……いや、無傷とは言わないか。魔王の端整な彫刻染みた顔に頭から一筋の血がつつ、と流れている。俺たちに出来たことは、僅かそれだけ。まるで何も無かったかのように魔王は袖で血を拭き取り俺たちの戦果を消した。
「そう嘆くな。お前達はよくやった、ここまでやるとは私も思わなかったぞ」
「嘆くさ、お前がここまで化け物なんて知らなかったしな」
「ほお、小僧。ではお前は私の強さを知っていれば戦いに挑まなかったと?」
「そうだな……寝込みを襲うくらいはしたかもな」
魔王は一拍置いて「ここに来てまだ軽口か……飄々としたものだ。それも意地ならば賞賛も与えようが」と告げる。
魔力の尽きたカエルはうつ伏せになり目だけは魔王を睨み続けている。ルッカは意識すら保てず小さく呼吸を続け硬い床に体を預けていた。
……そうか、コレが負けか。俺たちは負けたのか。
静かに目を閉じて終わりを待つ。後は末期に魔王が何かしらの言葉を投げかけるのを待つだけ。何も言わず鎌を振り下ろすのもいいさ。魔王と闘って敗れるなら体裁も取れるだろーぜ。
まあさ、さっき一回諦めたことだしそう覚悟のいるものでもない。また同じように心を消してその時を待つだけだ。死ぬなんて遅いか早いかってだけのことだし? 何にもしないで爺になるのを待って誰にも見取られず孤独に老衰する、なんてオチに比べれば良い方だろ。
だって魔王と闘って散るんだぜ? 後世に伝わるかもしれないな、非業の勇者クロノ! とかいってさ、紙芝居とかで子供たちが見たりするんだよ。そんでやんちゃなガキが「かっこいいな! 俺も勇者クロノになる!」とか言い出して、真面目な奴が「じゃあお前闘って死ぬの?」なんて言うんだ。そこで喧嘩勃発、紙芝居屋のおっさんが止めてきて……はは、悪くねえや。
──本当に?
そうだ、母さんは何て思うかな? あの人のことだから「家が広くなった!」とか言って喜ぶのかな? うわ、ありそうでこえぇなおい……
……いや、きっとなんだかんだで悲しんでくれるかな。昔、よく覚えてないけど父さんがいなくなったって聞いた日に母さんは笑って「まあ、よくあることさね」なんて言って笑ってたけど、夜中トイレで起きた時、母さんリビングで泣いてたから。それを見た俺を抱きしめてくれたから、それは間違いなく愛情だったから。
ま、これで俺のありがたみが分かるってもんさ。
──本当に?
ああそうだ、友達からエロ本借りっぱなしだった。やべ、あいつどうするのかな……まさか俺の母さんに「クロノ君に貸したエロ本返してください!」なんて言えないだろうしなぁ……いや案外言うかも。俺の友達やってるくらいなんだから、あいつも結構ぶっ飛んでるからな、多いに有り得る。
……あ、そういやあの野郎俺に二百ゴールド借りたまま返してねえじゃねえか! これでチャラってか? ふざけんな五冊は買えるじゃねえか! くっそ、もうあいつとは二度と会いたくねえ! いや、幽霊になって会いに行く! んで絶対祟ってやる!
──本当に?
あーあ、これでマールやロボとルッカと一緒に旅するのも終わりか……この調子ならカエルも仲間になって色々やりそうだったんだけどな……
……いや、それは別に良いか。どうせあいつら俺のことばっかり虐めて全部俺のせいにして旅を続けていくんだからな……ロボとマールは生き残るんだし、あいつら二人なら適当に楽しく生きていくだろうさ。ああ、なんならマールは国王と仲良くしてロボは家来にしてもらうってのはどうだろう? ロボは見た目が良いからそれだけでお小姓とかになれそうだよな。いや、結構面白い人生送れそうじゃん!
──本当に、そう思えるの?
「何故泣く? 小僧」
「ひっく、う……あ、あああ……」
嘘だよ、そんなの。
死にたくない、死にたくないよ……だって、まだやりたいこと沢山あるんだ。
母さんと喧嘩したい。母さんと買い物したい。母さんに頭を撫でてもらいたい。友達と遊びたい。馬鹿言い合って馬鹿やって、大人に殴られて、それでもまた笑いたい。マールに色んな遊びを教えたい。もっとお祭りを巡りたいし、意見が食い違って拗ねたり拗ねられたりしたい。カエルに常識を教えられてその度俺が王妃様の話で気を逸らして馬鹿にしたりされたりしたい。ロボに懐かれて、泣かしてあやして意味の分からない偉そうな言葉を聞いて、ルッカの実験を見せてもらって怖がったり驚いたり感動したりしたいよ。
伝記の勇者達は凄いよな、こんな時に挑発したりしてさ、死ぬ覚悟なんてとうに出来てるんだから。俺は無理だよ、山ほど遣り残したことや心残りがあるんだ。
涙が嫌というほど出て止まらない。みっともないなんて感情は無い。ただこの場を乗り切って生き残れるならそれに越したことは無い。命乞いをしたいのに、右腕から溢れる血のせいか、口が震えて泣き声しか出せない。「クロノ……」とカエルが呟くけれど、俺はそれに何も返せない。助けて欲しいのに、それすら言えない。
「……死に際に泣くことは、恥じることではない。それは、お前が今までに何かを為した、また為そうとしたということだ」
魔王が掌から黒い球体を作り出し、そこから俺の消えた右腕を取り出した。
だらりと垂れた腕を床に落とすと魔王は俺の耳では理解の出来ない言葉を繋げて魔法を唱える。すると、光が辺りを包み、気づけばまるで手品のように俺の腕がまたくっ付いていた。脳内の七割を占めていた激痛が包まれていき急速に痛覚を起こす鼓動を止める。
「せめてもの慈悲だ、五体満足に死なせてやろう」
俺への気紛れな治療が終わり、今度こそ魔王が鎌を振り上げる。湾曲作られた刃の先が俺の心臓を向く。ほとんど会話をしていないけれど、魔王は俺の命をそっと奪ってくれるだろう。痛みも苦しみも残さずに。
「し……たく、ない……」
「……」
不意に、魔王の腕が動き俺の心臓に冷たい鉄の感触が……
「うおおおあああぁぁ!!!」
入り込む、事は無かった。
「ぐぼっ!!!」
「クロノは殺させん……もう二度と、友が死ぬなど許さんっ!」
魔力が切れれば立ち上がることすら困難。剣を持つことなど理屈に合わない。切りかかることは夢幻の領域。
人から蛙に変貌した異端の勇者はそれらの理論を凌駕し覆し押しのけて、魔王に最後の一突きを体に埋め込ませた。
「は……な、れろ貴様ァ!!」
魔王に頭を掴まれ叩き伏せられたカエルは俺の体を掴み片腕の力だけで後方に飛び距離を稼いだ。追撃をしなかったのは偏に俺を助ける為。
「か、える?」
疑問系なのは事態が理解できなかったというだけでなく、涙で前が見えづらい俺の目には、カエルの姿が人間の女にしか見えなかったから。緑の髪をなびかせて剣を握り俺に笑いかけてくれるのが本当にあのカエルなのか、確信が持てない。確かなことは……
「大丈夫だクロノ。ここまで俺の戦いに力を捧げてくれてありがとう……後は、俺が魔王を倒す!」
この人が、本当の勇者であること。
魔王がわき腹に刺さったグランドリオンを抜き取り床に叩きつける。その音に反応したカエルは深い傷を負い動きの遅くなった魔王の鎌を掻い潜り落ちたグランドリオンを取る。剣を拾う為しゃがんだカエルに魔王は鎌を振るが、後ろを見ずに逆手に取った剣でカエルは受け止め、反転し剣戟を始めた。
先程と違い今度は魔王が徐々に押されていく。こぼれていく血は止まらず回復する間を与えない。確実に魔王はカエルに押され、僅かにだが後退していった。
「おのれ……私がここまでやられるとは……!!」
「倒す! 友の為、国の為、新しい仲間の為に貴様を!」
低い姿勢から放った一閃に鎌を弾かれた魔王はカエルから離れる為にまた瞬間移動を行い魔法陣まで距離を置いた。息遣いは荒く、全てを君臨するような風貌は焦りと怒りに満ちていた。
「このままでは……儀式の制御が……!」
「死ね、魔王!」
恨めしげに視線を向ける魔王にカエルが飛び込み、この戦いに決着をつけようとした瞬間空間が大きく乱れ二人の姿が消えた。
そして……聴いた。俺は確かに聴いたのだ。
ギュルルルルルルルルルルルルルルギュルルルルルル!!!!!!!!!!!!!!!!
世界の、破滅の音が。
星は夢を見る必要は無い
第二十話 表裏一体
声が聞こえる。
その声は遠くから響く鐘の音と共鳴して、何者にも耐えがたい心地良さを作っている。有り体に言えば、睡眠欲を高めていくような。
「クロノ……起きてよ、クロノ!」
声の主が怒気を露に俺に語りかけるものだから、俺は鈍重な目蓋を開いて外の光景を目に写す。
その主は、マール。顔を近づけて腰に手を当て怒りを表現する幼いポーズは彼女特有のものだった。
「いつまで寝てるの? そろそろ仕事に遅れるよ!」
「しごと……? ああ、仕事か」
夢だ。これは間違いなく夢だと気づいた。
夢だと気づいた点その一、ここが中世でなく現代の俺の部屋だと眼を開いた瞬間分かったこと。その二、マールがその俺の部屋にいること。その三、俺とマールが和気藹々とこんな新婚のような会話をしているという状況。ドッキリだとしても雑すぎる。
「……ああ、クロノは無職だっけ」
「そこはかとなくリアルだな、おい。止めろそういうの。夢でも不安になるだろーが」
夢ならもっと俺に都合のいい夢であって欲しい。俺の職業は石油王とか、ハーレム王とか、ダルビッシュとか。
「まったく……これ以上父上の世話にもなってられないんだからちゃんと働いてよね!」
「父上の世話ときたか……地味に凝ってるんだな。夢にしては設定が練られてる。俺が無職なのは納得いかんが」
しかしこれで確定した。この夢のシチュエーションは俺とマールが結婚ないし婚約しているようだ。現実の出来事なら願い下げだが、夢であるなら悪くは無い。今のところマール特有の天然暴力が発動してないし、まあ仮に殴られても夢だから関係ないのだけれど。まあとにかく怒っているのは確かだがいきなり殴りかかられることはなさそうだ。
……そうか、俺とマールはそういう関係になっているのか、ならば遠慮することは無い。
「マール、子供欲しくないか? 俺は欲しい。今すぐ欲しい。もの凄くぶっちゃけるとそこまでに至る過程を楽しみたい」
「クロノ……私の話聞いてた? 働いてって言ってるんだけど」
「いいんだそんなことは。これが夢ならいつ起こされるか分かったものじゃない。というわけで今すぐ俺と交尾しよう」
「段々言い方が直球になってるよ。そして駄目だよ、私たちまだ子供だもん」
やはり駄目だったか……
ジョージさん、貴方はどうやって若い女の子を口説き落としたのですか? ぜひ僕に教えて欲しい……
「まあいいや、いただきまーす」
「ちょっ、クロノ!? 駄目だってば! まだ明るいのに!」
「大丈夫だって! 俺早いから! ボブサッ○とあけぼ○の試合くらい早いから!」
今、めくるめく淫欲の世界へと……
「クロ、起きたか?」
…………キスをする為に目を閉じて顔を近づけていたのだが、いつまでも感触が無いことに違和感を抱いた俺が目を開いた先には金髪の男。そう男。野郎。オフェンス側。筋肉の塊。エロくない。お! と! こ! であるキーノが俺を覗き込んでいた。
「……無い。これは無いな。おやすみ」
「もう皆起きてる。あとクロだけ。心配してる、早く起きる」
もう一度頭を落として眠りにつこうとする俺をキーノは腕を掴んで阻止する。
「嫌だぁー! こんなのおかしいじゃないか!? まだ俺は見てもないし触ってもないしいれてすら」
「いいから起きる! クロ、寝るたくさんした!」
「してない! まだ俺はしてないぞ!!」
蛇口どころか滝のような涙を振りまきながら、俺は引きずられて何処だか分からない家を出た……こんなにショックなのは映画スーパー○ンのオチを見たとき以来だ……
「クロノ!? 良かった……目を覚ましたのね! もう、無駄に心配……かけるんじゃないわよ……ぐす……」
「ごめんルッカ。普段ならお前が俺を心配して涙ぐんでるのを見て感動するんだが、今の俺はとかく悲しくむなしい気持ちで一杯なんだ。お前の涙すら信じられない」
「……なんだかよく分からないけど、もの凄いむかつくわね!」
膝に蹴りをいれられたが、痛みすら感じない。後……後十分、いや五分あれば俺は神秘を垣間見ることが出来たのに……キーノ、俺はお前を許さない……!
キーノに連れてこられたのは原始の時代、イオカ村の広場だった。何故中世にいた俺たちが原始にいるのかさっぱり分からず、キーノに聞いても分かるわけが無かった。とりあえず原始山に倒れていた俺たちをキーノが見つけて介抱してくれたそうな。
問題の俺たちが原始に飛ばされた理由についてはルッカに聞けば分かるのでは? と考えたが、俺は今極度の鬱状態なのでそんなことどうでもええやんな気分になっている。コバルトだなあ。
「……まあいいわ。あんたが起きたことでようやく始まるんだから」
地面にぺた、と座ったルッカは肩に掛けている鞄を下ろしてよいしょ、と声を出した。年寄り臭い、とは言わない。多分殴られるから。欝の上殴られると冗談抜きで首を括りそうだ。
「始まる? 何がだ、カタストロフか?」
「その終末思想はどこから拾ってきたのよ。違うわ、カエルがちょっと面白いものを見せてくれるのよ」
ニヤニヤしながらルッカは鞄から動画再生機、いわゆるビデオカメラを取り出し心底いやらしい笑みを浮かべている。なんだなんだ、こいつ今までシリアスだった反動か知らんが底無しに気持ち悪い顔を作れるようになってる。ギルティギ○からのブレイブ○ーみたいな変動の仕方だな、と一度考えていや、これがいつものルッカだよな、と考えを改める。
「さあて……それじゃ、いいわよカエル!」
ルッカの言葉が終わり、近くのテントから人影が飛び出してきた。ルッカの掛け声で登場したのだからカエルだろうと渋々視線を動かす。
それがいけなかった。やはり俺はキーノを振り切りあのまま寝ていれば良かったのだ。
「お、お、おはっ! おはようござます! ごしょ、ごご、ご……」
噛み方が尋常ではない朝の挨拶をこなしているのは、白い純白のフリルを飾り付けた衣装、世間一般で言う所のメイド服を着た長い緑の髪を左右に括りつけてツインテールにした、哀れな女性だった。
顔というか、肌全体が紅蓮のように赤く染め、父親に「泣くぞ? すぐ泣くぞ? ほーら泣くぞ?」と言われているように涙をぎりっぎりまで目に溜め込んでいる姿は愛らしいよりもやっぱり可哀想という評価が正しそうだ。
着用者に合っていないサイズの為かスカートは短く、強風とも言えない風が吹くだけで下着が見えそうなデザインは可愛いというか、怪しいお店のウェイトレスに似た雰囲気。違うのはそのウェイトレスが羞恥で泣きそうなところか。人によっては喜ぶのかもしれんが、エレクトリカルな展開に脳を回転させる歯車が停止しているのでリビドー等一切感じない。感じてたまるか。
「ご、ご、ご主人たまあぁ!!」
ぼーっと立っている俺に両掌を上向きに差し出し叫んだ女性は顔を下に向けた。静かに落ちていく雫は涙ではないかしら? という疑問をぶつけたいが、酷なので止めておく。
ルッカはこれ以上の愉快は無いという顔で笑い転げているし、村の住人は頭を指差してくるくると指先を回している。何を言っているのか、耳で直接聞き取れないが多分「ああいう奴をぱーって言うんだぜ」に近いことを仲間内で話しているに違いない。それ、間違いじゃないですよ。
俺が何も言わないことに不安を抱いたのか、女性はおずおずと顔を上げて俺を伺う。とりあえず目から顎に掛けて繋がる水路を袖で拭きなさい。それが何かは言及しないから。
正直関わって欲しくないのだが、このまま何も言わないとこの無の空間が終わらない。俺は口を開こうと顔の筋肉を動かした。意識しないと動かせないとは、空気が凍るとそこに存在する生物も動けなくなるんだなあ。
「その……友達が欲しいなら、もうちょっと方法を模索したほうがいいと思いますよ、アグレッシブが過ぎますから」
「違うっ! 友達を探しているのならこんな第一印象を与えるものかっ!!」
「あ、ごめんなさい。僕、貴方と近しい人間と思われたくないので会話はしないでくれますか? 出来たら貴方だけ地面に文字を書いて筆談形式にして下さい。ていうかどっかに行ってくれませんか?」
「酷薄過ぎないかその反応!? それとなんで俺を見ない!? いや、見て欲しくないが……ええい、俺の眼を見ろクロノ! 姿が戻ったんだ、ほら約束しただろうメイド服を着て、その……おはようございます……とかなんとか言うと!」
「なんですか、お金を渡せば離れてくれますか? 新手のかつあげですか? 新しいですね。そのチャレンジ精神に乾杯。靴に貼り付いてたガムをあげますから消えてください。知り合いとすら思われたくない」
「いらん! お前が発案した要望だろうに何だこの扱いは!」
短いスカートなのにだんだんと地団駄を踏む彼女に俺は何と言ってあげるべきなのだろう? ……うん、キモい! だな。
それ以降なんやかんやと詰め寄ってくる彼女を徹底的に無視していたら、女性は「馬鹿者めっ! もう知らんからなぁ!」と鼻声涙声の負け惜しみ染みた言葉を置いてテントの中に走って、消えた。
「アッハッハッハ!! ……あー、面白かった」
「趣味が悪いなルッカ。あの決めポーズや髪型はお前がやらせたのか?」
笑いすぎて出てきた涙を拭い、ビデオカメラの録画を止めながらルッカはそーよ、と簡潔に答えた。それに従うあいつもあいつだから、別にいいけどさ。
「しかしあれだな、やはりカエルをいじると楽しいな。少し気分が晴れたよ」
「やっぱり分かってたのね。まあ雰囲気が同じだし、緑の髪で俺とか言う俺っ娘なんて早々いないわよね」
「俺っ娘て。まあそうだけど」
カエルも律儀なことだ。わざわざあんな口約束を本気にして行動に起こすとは。どこぞのカリスマ占い師とかにも見習って欲しいくらいに。
「しかし何でまた今このタイミングで姿が戻るんだよ? やっぱり、魔王を倒したからか?」
当然の疑問にルッカはそこなのよね、と前置きして笑うのを止める。その切り替え『だけ』は評価してもいいと思う。
「私は……情けないことに気を失ってたから分からないけど、カエルに聞いた話では魔王に止めを刺せた訳じゃなさそうね。私たちが倒れていた場所にもいなかったそうだし、カエルの姿が戻ったことからダメージはあるんでしょうけど……」
悩みだすと髪を弄りだすのはルッカの癖なのか、短く切りそろえられた髪を指で巻き、黙々と思考に没頭している。
「けれど、魔王が生きてるならカエルの姿が元の……ええと、この場合の元は蛙、両生類の方ね。に戻るのは時間の問題じゃないかしら」
ふむ、魔王の意思で人間に戻れたわけではないので傷が癒えて魔力が回復すればカエルの呪いも復活する、と考えるのが普通か? 折角人間に戻れたのに可哀想だな、とは思わない。人間ver.のカエルとの対面が最悪だったのでいっそ今すぐ蛙に戻って欲しいくらいだ。
他にもラヴォスはどうなったのか、とかこれからどうする? といった問題もあるのだが、起きたばかりの俺の体を慮ってルッカは「長い話はまた夜にでもしましょう」と中断させた。気を使ってくれるのがルッカだと何故こうも裏を感じるのか感じてしまうのか。
まあそういうことなら、と久しぶりでもないが原始に来たので散歩でもしようかと歩き出した俺の背中にルッカがねえ、と声を掛ける。
「気分が晴れたなら良かったわ。あんた、自分じゃ分からないかもしれないけど随分暗い顔だったわよ?」
「はは、ちょっと良い夢を見てるところで邪魔されたから、気が立ってただけだよ」
ルッカを見ずにそのままこの場を離れる。すると後ろから「お前、今の舞、オモロー。もいっかい、やれ」というイオカ村の人々の声と、遅れて「嫌に決まってる! そもそも舞じゃない! おい、クロノは何処だ? 助けろ! うわあぁ外に連れ出すなあ!!」という女性の声が聞こえる。思わず笑ってしまうのは、勇者としてのカエルとのギャップが激しすぎるからだろうか。
カエルの救助要請は無視して歩き続ければ、綻んだ顔が徐々に消えていくのが自覚できた。次に漠然とした何かが背中を疼かせてきた。人気が薄れるに連れて知らず足を前に進めるスピードが強まり……気づけば、体の疲労具合を度外視して走り出していた。
──……お、だけ、は、………くれ──
これだけは、言っちゃならなかったのに。形にしてはならなかったのに。
しばらくしてから顔を上げて辺りを確認する。イオカ村から北へ北へと走り続けて、辿り着いたのは乱雑に木々が組み合う森林、いや密林だった。人影が無いか、最後にまた確認する。ぎいぎい、という鳥か獣か判別の出来ない鳴き声以外に、話し声も足音も聞こえない。仮に、人間が隠れていても、我慢は出来なかったので意味は無かった行動だった。
『気分が晴れたなら良かったわ』
ルッカに悪意は無い。俺自身、少し気分が晴れたと言っているのだから。悪意なんて微塵も無い、優しい確認だったはずだ。けれど……
「晴れる訳無いだろ……!!!」
右手に見える木の幹に横殴りに拳をぶつけて、はらはらと木の葉が落ちていく。木の上に猿が座っていたようで、驚きながら木の枝と枝を飛び移り、正真正銘今この場にいるのは俺だけになった。もう耐えなくてもいい。
「……う、うえ、ぐう、ううう……」
自分の頭で一際冷静な自分が、こんな短いスパンで泣いたのはいつぶりだっただろう、と過去を振り返る。母さんが最初で最後に泣いた日。ルッカの母さんが亡くなり、勝気な幼馴染が壊れたように泣いた日、現代に帰り、裁判になってマールに大嫌いと言われたその日も、泣いた気がする。看守に聞かれたくないから、強く顔を布団に押し込めた事まで思い出せる。
なあんだ、結局俺は、誰かが原因で泣いたことしかないんだ。それが普通だと分かっていても、今流している涙がとても新鮮なものに思えた。
……あの時、魔王に鎌を下ろされる前に俺が吐いた言葉。言葉にしてはいないけれど、それは血を流しすぎて喋れなかっただけ。誰の耳にも聞こえていない、でも俺だけは聞いた。明確に明瞭に絶対的に聞いた。
『俺だけは、助けてくれ』
言い訳ならあるさ。俺から気を逸らした後に後ろから攻撃するとか、なんなら今この場を凌げれば状況が好転するかもと考えた嘘だったんだって思い込めないわけじゃない。でもその建前こそ嘘なんだって、俺こそが知っている。
後ろから攻撃する? 右腕が無くて転がるしか出来ない俺に何が出来た? 事態が好転するかも。それは良いな、毎日毎日そんな風に考えられるなら人間は何もしなくていいじゃないか。だってなんとかなるんだから。
「ひっ、あー……ひっく、あー……」
息を吐きながらでも言いやすい『あ』の文字を呼吸を整える意味で声に出す。
俺だけは、と言った。俺は確かに俺だけは助けてと言った! じゃあ俺以外はどうでも良かったのか? ルッカもカエルも俺が生き残るなら別にいいのかよ。
今はそう思わない。心の底から二人のためならこの身を……なんてヒロイックな事を言える。傷だらけの体で剣を振り回しなんなら「俺のことは気にするな!」なんてありきたりな言葉だってスパイスに混ぜられる。でも、それはただの痛々しい妄想。事実、俺はいざそういった状況に陥れば……ほら、虫以下の人間が今ここにいる。
「……じまえ」
少し、どころではなく声が小さすぎた。これでは声を出した俺すら聞こえない。荒れる呼吸をコの音を出しながら平常に戻すよう試みる。
言え、言った所で何が変わるでもない。でも言え、でなきゃ本当に実践しそうだ。自分から首を吊って窒息して手首を落として火に飛び込んで圧殺されて撲殺されて爆死して息絶えてしまう。
口を開く瞬間、後ろで何かが羽ばたく音が聞こえた。でも、邪魔さえしなければどうと言うことは無い。
「死んじまえっっっ!!!!!!」
無意識に魔力を付加させていた蹴りが目の前の樹木を叩き折っていた。じりじり、という音を立てて倒れていく様すら魔王の前に伏した俺の姿とデジャヴして一向に気分は明るくならない。
……それでいい。俺が、あいつを倒すまでこの気持ちが消えなくて良い。奪い取るその日まで、俺があいつの命乞いを聞くその時まで、嬉々として燃えるべきなんだ、この黒い感情は。
「返してもらうぞ……俺のプライドを……」
今現在何処にいるかも分からない青い長髪の男に、逆立ちしても敵わないだろう男に俺は果たし状を送りつけた。
「い、いきなり……そんなに怒らずとも良いではないかぁ……」
「木を蹴り倒した時に後ろが見えたから気づいてたけどさ、もうちょっと待っててくれないかな。今お兄ちゃんカッコイイ事してる時だから」
ため息を吐きながら俺の決意表明シーンを台無しにしてくれた人物に声を掛ける。その人、いや人ではないが、そいつは頭を抱えてその場に座り込み、下方から上目遣いでこちらを伺い俺が少し動くたびに小さな体を震わせていた。
「だって……久しぶりだからな。私と会えずに泣いておるのかと思い空の散歩中に下りてきた次第なのだが……次第の使い方は合っておるか?」
言われてみれば、後ろに大きな怪鳥が姿勢良く大地に足を下ろしていた。なるほど、こいつに乗ってたわけだ。これでさっきの何かが羽ばたく音が何か解明できた。恐ろしくどうでもいい。略しておそろい。
「どれだけ自分が愛されてると思ってんだよ。久しぶりでも無えし。最後にいまいち使い方の分からん言葉を使うな」
「何を言う、私は愛されておるぞ? 貴方を愛さぬ者はおりません! と言われたことがある。えっへん」
前半の言葉だけを切り取り受け取った(もしかして一つ以上の突込みには対処出来ないのかもしれない)そいつのふんぞり返って腰を突き出す格好は様になっていた。偉そうとかじゃなくてなんだろ、保育園で一生懸命お遊戯をする園児の愛らしさが実に表現できている、的な意味で。
「……もういいや、疲れた。さっきのはお前に向けた言葉じゃねえよ。気にするな、アザーラ」
恐竜人の主は目を輝かせて、飴玉を舐めたように破顔した。
カエルを中心とした騒ぎも一段落がつき、イオカ村の人々は狩りの準備を始めた。冬が近いので食料を集めなければならない、という意見にルッカは分かってはいたものの、やはり暮らしの違いを大きく感じていた。
「そういえば、エイラはどうしたの?」ルッカの問いに人々は「エイラ、村行った。ここと違う、ラルバの村。一緒に闘う、頼みに行った」村人は続く質問を聞く事無く自宅のテントに入っていった。
猛獣の類を寄せ付けないためか、延々と燃えているたき火から木の焼けた匂いが鼻腔に届く。それを嫌がったわけではないが、ルッカは先程イオカ村を出た幼馴染に習ってこの地を散策しようか、とぼんやり思いつきエイラを探すついでだ、と適当な理由もあるので足取り軽く歩き出した。
数歩と進まぬうちに後ろからカエルが近寄り、「置いていくな! もう少しで村の踊り子に任命されるところだ!」と憤慨して現れた。そうすればいいじゃない、と突き放したかったが、もう充分楽しませてもらったエンターテイナーに冷たく当たる必要も無いだろうと一応の謝罪を送ると、苦い顔ながらも怒りを引っ込めた。
「それにしても、カエルって随分若かったのね。なんとなく三十を越えてそうなイメージだったわ」
「そうか? 自分でも正確な年齢は分からん。城に行けば分かるかもしれんが……うむ、お前の言うとおり三十前後だとは思うぞ」
言われてルッカは驚き、じろじろと遠慮なくカエルの全身を見る。大きくは無いが、小さくも無い平均的な胸囲を視界に入れぬよう努めて。
足は鍛えられていることから正にシカの如く。けれどひ弱そうな印象は受けない。どちらかというとワイヤーロープのような頑丈さを際立たせる。腰は脂肪など存在しないように美しい曲線を描きくびれが服の上からも確認できるほど。首筋や頬など、皺の集まりそうな部位にはそれらしいものは見受けられない。肌色はマールに劣らず透き通り、筋肉の部分だけ見せず着飾れば令嬢ともとれそうだ、というのがルッカの評価だった。
(……消そうかしら?)
「酷く陰鬱で暴力的な感情を向けられている気がするのだが、どう思うルッカよ?」
「気、でしょ。勘違いじゃない?」
解く閉じられた視線をかろやかにかわしルッカは引き続き当ての無い散歩を続ける。
「にしても、三十ね……とてもそうは思えないわね。良いところ二十過ぎ、って感じよ。女の目で見ても」
「ふむ……それは多分、俺が姿を変えられたのがそれ位の年齢だったからではないか? 蛙になっている間、人間時の肉体の年齢は成長を止めていたのかもしれんな。それでも二十後半かどうか、という年だったと思うが」
「童顔ってことかしら? にしても……使い方によっては、魔王に姿を変えられるのも悪くないかもね」
そうして会話が終わり、黙々と歩き出す。本来、出会って接した時間がそう長くないカエルと二人で歩くのは少々気まずいのではないか、と危惧したルッカだが、思いの他沈黙が息苦しいとは感じなかった。同じ女性であるというのもあるだろうが、年上の落ち着きだろうか? カエルの空気は戦闘時と違い中々に穏やかで、躍起に話さずともいいのだ、と思わせてくれる。
(ま、そんなだからクロノがからかいたがるんでしょうけど)
幼馴染が楽しげにカエルと会話している事を想像し、不穏な感情が浮かびそうで、ルッカは違う考えにベクトルを変えることにした。カエルに罪は無いのだ。自分の命を救ってくれた恩人でもある。きっかけも無しに当り散らすのはどうだろうか? と思い直した。
「ねえ、カエル。また元の姿に戻るかもしれないけど、完全に人間へ戻れたらどうするの? やっぱり中世のお城に帰って王妃様を守るとか?」
カエルは少し考えて、いや、と否定する。
「俺はもう騎士ではないからな。全てが終われば……ふむ、旅でもしようか。俺の知らん世界などいくらでもあるだろう。そうして剣の腕を鍛えるのは悪いことじゃない」
「修行馬鹿ね……ほら、一応あんたも女なんだし、誰かと結婚するとか……考えないの?」
もし自分の知る赤い髪の馬鹿を出せば恩だろうがなんだろうが全て忘れて森の中に埋めてやろうという計画を瞬時に組み立て、ルッカは何事も無いように聞いた。「何だ? 急に」と笑いながら緑髪の女性は遠く、雲の先を見つめた。
「俺は女ではない。そう言っただろう? 男を好きになることも……これから先、もう無いだろうさ」
ルッカは『もう』と言ったことを問い詰めることは無かった。カエルが過去、慕った男の名前は聞かずとも分かるし、その男がどうなったかも知っているのだから。
新しい恋を探せば? と言おうとして、やはり口を閉ざす。気恥ずかしい台詞を吐くつもりは無いし、柄でもない。くわえて無責任過ぎる発言は相手を困らせるか傷つけるからだ。そのどちらもルッカにとって本位では無い。話題を変えて、自分たちにとっては非常に重要な事を聞くことにした。
「も一つ質問。カエルは……私たちの旅に同行してくれるのかしら?」
素っ気無く、どちらでも良いというように取った確認。頼み込むのも妙な話しだし、カエルの意思を自分たちの都合で捻じ曲げることは出来ない。自分のポリシーとしても、カエルの性格からしてもそれは不可能だ、とルッカは感じ取っていた。
その世間話のような問いかけにカエルは「勿論」とだけ答えて、ルッカは相手に聞こえぬよう安堵の息を肺から逃がす。これから何が起こるか分からないし、戦いが続くのかどうかも不明瞭ながら戦力が減るのは喜ばしいことではない。彼女のような戦いの達人はいるだけでこちらを鼓舞してくれる。
「……不安だったのか? 見くびるな、俺は受けた恩は必ず返すさ」
「別に、不安だったわけじゃないわ。それならまあ、あの馬鹿の剣でも見てやって。才能なんかあるかどうか分かったもんじゃないけどね」
素直じゃないな、というカエルの言葉にどっちの意味で? と聞きたかったのだが、ルッカの口が開く前に目の前で妙な光景が見えたため、それは叶わなかった。
それは現代なら珍しくも無いもの、黒い煙である。何か竈で焼いているのか、汽笛でもその黒煙は吐き出される。古いものでは煙突なんて設備からも作られるそれが、イオカ村の北、森の中からモクモクと持ち上げられていた。
「何あれ……火事?」
「分からん。だが森の中心で、というのは妙な話だ……行くか?」
「……そうね、クロノがいないってのは面倒だけど、もしかしたら私たちと同じように向かってるかもしれないし」
やることが決まったと、二人は大地を蹴り上げ走り出した。
上を見ればいつもより近づいたような、爛々とした太陽、その周りを青い色彩が囲みさらにその青の中にばら撒いたような白い雲。うむ、これはいつも通り。なんら変わらない。問題は下。
自分より何倍もの大きさである筈の木々の集まりが掌で覆い隠せる。人間たちは豆粒のような……まるで人がゴミのようだぁ!! と言いたくなる様なこの光景。次いで前を見れば鼻歌を鳴らしながら左右に頭を揺らしご機嫌そうに怪鳥を操るアザーラの姿。今こいつを蹴り飛ばせばさぞ愉快だろうに、それをすれば俺の命が途絶えると途方も無く理解できるのでぐっと抑える。
クリスマスなんて幻想の塊、バレンタインはどこぞの司祭様が殺された日で恋人が子供作りに励むイベントじゃねえんだぞ! というのが信念の俺、クロノ君は今現在拉致されて空中遊泳の真っ最中であります。震えるぞ体! 縮こまるぞ俺の息子!
「どうだクロノ? 空のお散歩は楽しいであろう」
「殺すぞ一人しかいない小人。今すぐ降ろせさあ降ろせ。その後刺身にして喰ってやる」
「あっはっは。クロノはモノを知らんのだなあ。この私アザーラは食べられんのだぞ」
五十台上司の頭よりずれている会話の中、どうしてこうなったのか、十五分と経っていない過去を振り返ってみた。
なあにそう時間の掛かる作業じゃない。単純すぎてあくびが出そうな程簡潔な出来事。あの後アザーラに「折角会ったのじゃ、遊ぼう!」を連呼され「芋の根でも食べてろ」とあしらっていたらアザーラが急に「サイコキネシス!」と叫び俺の上に頭より少し大きいくらいの石を作り出し落とした。お前、妙な力があるんだなあ、と感心する暇なんかあるわけが無い。目が覚めると俺は世にも珍しい空の旅を満喫していた、という訳だ。納得できるか!
「おいおいアザーラおいアザーラよ、お前はどうにも常識に疎い所があるな。勝手に他人を連れまわしてはいけないんだ。大きなおじさんに怒られるぞ? 誘拐罪がどうとか言いながら怒られるんだぞ?」
「お、怒られるのか……それは怖いが、それでも私はクロノと遊びたいのだ!」
「それでも地球は回ってるんだ! みたいな言い方をしても許さん。早く俺を元の場所に戻せ!」
「うう……そうは言うがな、クロノ……もう着いたぞ?」
言われて、膝の間に入れていた頭を起こしもう一度周りを見ると、確かにもう空の上にはいなかった。揺られている振動も無いし、胃液が逆流しそうな浮遊感も無い。
喜ぶべきだし、今すぐアザーラの頭を掴んで振り回すのが正しい行動だと分かってはいるのだ。
俺の目の前に、厳格な顔をした恐竜人達が整列している図を見なければ、そうしていただろうに。
「「「アザーラ様、ご帰還おめでとうございます!」」」
「うむ。今帰ったぞ。ああ、この人間はこれから私と遊ぶのだから虐めるな」
「「「ははっ!!」」」
どう見ても子供、むしろ幼児であるアザーラに百近い恐竜人達が礼を取っている姿は珍妙どころかシュールと言えた。超現実的、これほど型にはまる言葉が他にあるだろうか?
怪鳥から降りて「早く早く!」と急かすアザーラに俺は震えた唇で、正確に音に出せているかあやふやな口調でおずおずと切り出した。
「あの、アザーラ、さん? ここはどこでせう?」
「んむ? 知らんのか? ここは……」
恐竜人たちの並ぶ後ろに、焦げたような色合いの城が鎮座して、その最上に円球の先が尖った物体がどすりと乗った建物。城の周りは切り立った崖になっており崖下には大地も海も川も無く、ごぼごぼと威嚇するように溶岩が泡を立てて大地の音を奏でている。森林といった緑はそこに無く、俺のいたイオカ村がある大陸まで繋ぐ橋は無い。下方から浮かぶ煙は硫黄の臭いがして、自分が何処にいるのか忘れそうだった。
城にはバルコニーのような外部に出ている床が至るところに設置されており、投石器や槍を構えた巨大な恐竜人が守りを固めている。この地に下りた者を決して生かすまいと。
それらの地形条件、守り、恐竜人という並みの人間では太刀打ちの出来ないモンスターが詰め込まれているという事から、ここは城というよりも要塞ではないか、と考える。しかし、この場所は確かに城であると続くアザーラの言葉で知ることが出来た。
「ティラン城。我等恐竜人の本拠地だ」
「……やっぱり俺、命乞いって悪いことじゃないと思う」
誰か助けてくれ。主に俺の仲間たち。俺が美味しく食べられる前に。
「……何……これ?」
「死臭が酷い……何が起こったのだ……?」
クロノの声無き嘆きが産まれる少し前、ルッカたちは煙の出所の森中心部に足を運んでいた。この場合、森中心部と言っていいのかどうかは、微妙なところだが。
本来そこは細々としながらも数多くの人間が生きていた村があった。
その名をラルバの村という。
今やラルバの村は焼かれ、そこに生きる者は半数に満たない。生き残るのは数にして五十を切る。残った者でさえ生きようとする意思など欠片も見えぬ輝きの無い瞳でここではない何処かを見つめていた。視線の先は差はあれど、過去。自分たちが笑えていた時、大切な人が生きていた時の残照を表情の無い顔で、必死にかき集めていた。
そこかしこから怪我人の呻き声が聞こえる。ルッカが目を向けると全身のほとんどの皮膚が焼け爛れて言葉に出来ない悲鳴を聞かせている。その人物は……だからより哀れ、という訳ではないが、ルッカには痛ましいを越える何かを抱かせる人物。見知った誰かではない。ただ顔の判別もつかないほどに体が焦げたその人は女性だった。もし自分が……と考えただけでみのけがよだつ。
「カエル、私はマールと代わるわ。流石にもう動けるでしょうし、あんたは怪我人の治療をお願い!」
カエルの返事は待たずルッカは時の最果てで待機しているマールと交代してこの時代から姿を消した。カエルはそれに何かを言う前にヒールの詠唱を始めて、ルッカに代わり現れたマールもその臭いと光景に「ひっ!」と声を上げたが、繋がる悲鳴を噛み殺しケアルの魔法詠唱を開始する。
魔法でも到底間に合わないだろう怪我人に祈りのような治療を続けた……けれど、マールやカエルの尽力であっても助かったものは二桁を越えることは無かった。
「怪我人は! 他に怪我をしておられる方はいませんか!?」
現地の人間の男から、治療を必要としている人間がいないと告げられた時、マールは喜ぶでも無く、肩の力を抜くことも無く、愕然と座り込んだ。
見たのだ、かろうじて原型を保っていたテントの奥に、まだ治療をしていない人間が山といるのを。
男は言った。治療を必要としている人間はいないと。では彼らは? 治療を必要としていなくても、酷い怪我をした人間が大勢いるのに。
「そ……そこにまだまだいるよ! 私はまだ治療できる。まだ助かるよ、諦めないで!」
マールから見て『怪我人』の人々に近づこうとした時、カエルが止めた。もういいのだ、と。
キッと顔を変えてマールは「良くないよ! 怪我した人がたくさんいるんだから!」と叫ぶが、カエルはマールの腕を離さない。振りほどこうと力を込めてもマールは自分の腕が石になったのかと思うほどびくともしなかった。
何度も「離して!」と怒りを露にカエルを突き飛ばそうとしたが、カエルが動かぬことを知ると、いよいよ認めたくない考えが頭を支配しだした。男は言った、『治療』を必要としている人間はもう『いない』と。
「マール……彼らはもう、いいんだ」
カエルの確信をぼかした言葉が引き金になり、そこまでとなった。彼女が涙を塞き止められたのは。
泣き出すだろうと予感したカエルは彼女を抱き寄せようとして、腕を止めた。マールが涙を流しながらも、絶対に泣き声を出さないと唇を噛んで耐えていたから。それを邪魔することは出来ない。
マールは人目をはばからず泣いてしまおうか、とも考えた。しかしそれは出来ない。混乱し、騒いで助けようとムキになるのはともかく、泣くことだけは出来ない、と。自分は部外者だから。
今この場で泣いてもいいのは自分ではないと直感した。それはただの同情から来る涙。自分と密接に関わりのある人ならばともかく、自分は今日この場で死んだ人々と何の接点も無い。なればこそ、今泣いてはただの興味的な、空気に流されて悲しむだけとなり死者を冒涜してしまう、と思い至ったのだ。
それが正しいのかどうか、分かることは無い。ただマール自身がそう疑わないのなら、その決意を揺らがすことは無く、出来る限り平静に歩き出した。何故こうなったのか、まだ話すことができるものを探しに。
それは、思っていたよりも早かった。誰もが口を開くこと無いラルバの村で、唯一誰かの話し声が耳をついたために。迷わずその方向に走り出したマールは火にやられながらも形だけは保った炭の草木を掻き分けて、原始の友人であるエイラと、エイラに喧嘩腰に話している老人の姿だった。
「エイラ……これ見ろ、この有様……」
「…………」
老人は静かに、けれども聞いている誰もが分かる程の怒気を滲ませて沈黙するエイラに話しかけていた。
老人は片手に持つ杖を動かして、無残な姿となった村の残骸、また人の死体を杖の先に移した。
「お前の後、恐竜人つけてた。だから、この村、こうなった……!」
「……ごめん、なさい……エイラ、エイラ……」
エイラの謝罪を聞いた瞬間、老人は高らかに笑い出した。それは愉快ではなく、狂気と憤怒が混合した、この世で最も不快な色合いの、笑い声。
「エイラ……ごめん? ごめんか……ふざけるな! お前ら恐竜人に楯突く! 愚か! だからワシら隠れてた! だが……お前ワシらに戦え、言う……まだ、まだこんな目にあってもエイラ、ワシラに戦え言うか!?」
最後は声にならぬ声でエイラを糾弾する老人。その雰囲気に思わず飛び出して仲裁しようとマールが飛び出し、後ろについてきたカエルも姿を出す。
老人は突然現れた人間に驚いた顔を見せたが、エイラは二人を見ずに、老人の目を見てはっきりと宣言した。
「生きてるなら、戦う。勝った者、生きる。負けた者、死ぬ。これ、大地の掟。どんな生き物も掟には、逆らえない」
冷酷を過ぎ凄惨とも言えるその発言に老人は目を見開き、マールとカエルの制止の言葉を聞かず怒りのままエイラに杖を振り下ろした。
バギ、という音が鳴り、杖は折れエイラの額からだくだくと血の流れが溢れる。それでも、目に血が入ろうとエイラは老人を凝視し続けた。自分の決意を託すかのように。
「長老、お前達生きてない。死んでないだけ」
エイラの言葉が刺さったように老人は尻餅をつき、手に持った杖を落とした。
何か辛辣な言葉を投げかけようと、唇を上下させて……諦めた。きっと何を言っても、この女性には届かないだろうと悟ったのだ。
「エイラ、お前強い。だから……ワシら、力ない。何も……出来ない」
「違うっ!! 力ある、戦う、それ逆! 戦うから力つく! ……エイラたち力貸す。だからプテラン、プテラン貸してくれ!」
それから数回の会話を終えて、エイラは風のように飛び出していった。マールたちは声を掛けようとするも、エイラの耳は風が邪魔をして聞こえることは無かった。
「追うぞ、マール! 何がなんだか知らんが、放っておいて良い訳はなさそうだ!」
「う、うん! でも、もう見えなくなっちゃったけど……」
「とにかく、エイラが走ったほうに向かうんだ! このままここにいる訳にもいかんだろう!?」
慌ててエイラの後を追おうとしている二人に、疲れた声が背中に降る。今まで怒りに満ちていた老人である。
彼は、何かを無くした様な顔でぽつぽつと語り始めた。
「……ここから北、プテランの巣、行け。エイラ、そこに向かった」
「……助かる、御老人」
「エイラの事……」
そこから先は聞こえなかったが、マールたちはエイラの後を追った。予想が出来たから、一々聞き返すような真似は出来なかった、二人にはどんな想いで老人がそれを言ったのか分かったから。
『頼む』と言ったのだ。聞こえなくても伝わった。どんな事をしても、エイラが恐竜人たちにこの場所を教えたことに変わりは無い。彼にとってエイラは恐竜人に次いで憎い相手のはずだ。いや、なまじ同じ人間だけあって恐竜人よりも憎いかもしれない。
そんな感情を抱く人間を、頼むと、守ってくれと言ったのだ。
二人の走るスピードが上がった。
「だるまさんが……鼻歌混じりにー、淫行条例に違反した!」
アザーラがこちらに振り向くと同時に、俺は動きを止めた。念入りに俺が動かないか見るアザーラ。その目は尻尾を出さないか、と考える猟師の如し。
数秒の観察を終えて諦めたアザーラは後ろを向いてまた壁に頭をつけ、「だるまさんがー」と進行可、という表示的定文を口ずさむ。どう考えてもその決まり文句と言うか、おかしいと思うんだ。どうやって無機物が淫行を犯せるのか。近くで俺を見張る恐竜人達が怖いから口にはしないけど。
「鼻歌混じりにー……非核三原則を遵守しなかった!」
「お前にとってだるまさんとは何だ!?」
思わず突っ込んでしまった俺にアザーラは「わーい、私の勝ちだ!」と両手を上げて喜びを表現する。頭が悪いくせに中途半端な知識用語を使うのはいかんともしがたい、歯がゆさに似た何かがある。ちゅうか、わざとじゃないのかこのウザ可愛いそれでいてウザい生き物め。中学生女子を体現するかのような奴だ。
「はあ……それで、次は何をするんだ? かくれんぼか、鬼ごっこか、INシテミルか?」
「最後が良く分からんが、面白いのか?」
「原作はな」
エモーショナルな会話だ、と自分で自分を褒めようかな、案外学者の人間というのは俗っぽいというし。
「ふむ……遊ぶのもいいが、おなかが減ったぞ。クロノ、一緒におかしを食べに行こう」
「おかしときたか。つくづくお前が十六歳というのが信じられん」
「うぬ、おかしでは駄目か? では何と言えばいい?」
「今時はスイーツと言うのが主流だそうだ」
ナウいの最先端に位置し尚も高校生たちのカリスマポジションを譲ること無い現代のスタークロノここにあり。マジとねえ。(とんでもねえ、の略)
クロノは物知りだ、と感心するアザーラを連れてティラン城の食堂に向かう。そもそも恐竜人たちの食べ物に調理が必要なのか? と聞きたかったが、アザーラのごく人間に近い姿を見ればそういうものか、と勝手に納得してしまう。
しかし、今までティラン城を遊びながら色々と巡っているのだが、アザーラのように人間と見間違うような恐竜人は一切見受けられない。アザーラにそのことを聞いてみると、「それはそうだろう。私が恐竜人の主として君臨しているのは、それが理由じゃからな」との事。
「どういうことだよ。まさか、恐竜人には女性が産まれづらいから、女性であるアザーラが女王になってるとか?」
自分で言いながら、これじゃあまるで蜂と同じだ、と思った。
アザーラは首を横に振り、
「より人間に近い女性体であるから、が正しい。詳しい理由は知らんが、人間に近い性質の私は特別な力を得ておるのでな。クロノも見ただろう、私のサイコキネシスを」
俺たちの使う魔法のようなものか、と納得する。そういえば、スペッキオが人間か魔族しか魔法は使えないと言っていた。通常の恐竜人よりも人間に近いアザーラならではの力は恐竜人たちを屈服させるのに充分だったわけだ。
「勿論、血統なども重視されるが……私が恐竜人のトップでいる決め手はそれだ。つまり私は偉いのだ」
「はいはい……分かったから、俺の手を離せ。ただでさえ暑いんだ、あまりくっつくな」
「嫌じゃ、私はいっぱいお前と遊びたいんだ」
「別に逃げやしねえよ、つうか、逃げられねえだろ。さらにはそれは理由になってねえ」
力任せに俺の手を握るアザーラの腕を振り払い先に進む。アザーラは数回自分の掌を開き、少し悲しげに俺の後をついてきた。……罪悪感が無いではないが、そもそもここに強制的に連れてこられた時点でこっちに非は無いのだ。別に気にすることもあるまい。
食堂までの道のり、その間もアザーラはちょこまかと俺の周りをうろつき話しかけてきたが、気にしない程度に口数が減っていた気がした。
食堂までの長い通路を歩き、「もうすぐだ、もうすぐニズベールお手製の林檎パイが食べられるぞー!」と目をキラキラさせながら鼻息を出すアザーラをあしらいながら、(林檎パイて、おい)少し黄色した床を進む。角を曲がろうとすると、なにやら恐竜人たちが列を為して現れたので思わず体を硬くする。
アザーラの言葉があるからか、一人では何も出来はしないと高をくくっているのかそいつらは俺に見向きもせず調和したリズムの足音を鳴らし去っていく。放っておいても問題は無いだろうと横を通り過ぎた時、見たくも無い、けれど見逃せないものが目に映った。
「……キーノ? キーノなのか!?」
体中から血を流して床を濡らす、両腕を乱暴に掴まれ連行されているのは、俺の仲間であり友達である原始の男、キーノだった。
晴れ上がった顔を持ち上げてキーノは「ク……ロ……?」とか細い声を上げた。瞬間、腰の剣を抜きキーノの両脇にいる恐竜人に切りかかった。後のことなど考えない、逃げ出す方法なんか助けた後考えれば充分だ、と言い聞かせて。
……ただ、俺の刀は振り下ろすどころか、振り上げる前に俺の手からすっぽ抜けて行った。握りが甘かった訳じゃない。そもそもすっぽ抜けたという表現は正しくない。違わず、消えたのだ。俺の手の中から。
ギャギャギャ! と騒ぎ出す恐竜人たちを無視して俺は不可思議な現象を引き起こした張本人を睨みつける。
「アザーラ! 邪魔するな!」
アザーラは小さな頭を傾げて俺が何故怒っているのか分からない、という顔を作っていた。片手に俺の刀をぶら下げながら。お得意のサイコキネシスとやらで俺の刀をテレポートさせたのだろう、ノータイムでそれを成し遂げるアザーラの魔力は恐ろしくもあったが、とかくこの小さな少女に仲間を救う邪魔をされたのが酷く苛立たしい。
「クロノ、そいつは私たちに負けて捕虜になったのだ。勝手に助けたらいけないだろう?」
単純すぎる理屈を述べた後、俺に襲いかかろうとする恐竜人を抑えるためアザーラは興奮している恐竜人に向かい合って、俺には理解出来ない言語で話をしていた。
恐竜人たちは俺のさっきの敵対行動を許せないようで喧々とがなりたてている。その騒がしさの中、キーノが俺に音を出さず『大丈夫、落ち着く』と口を動かした。
確かに今ここで俺が暴れてはキーノまで危険になる。捕虜ということは、今すぐ処刑されるということはないだろう、もう一度連行されるキーノを見送り、俺はもう一度近寄ってくるアザーラに出来うる限り敵意を隠して、問う。
「なあアザーラ、何でキーノ……さっきの男だけど、を捕まえたんだ?」
どうということの無い質問。しかし、捕虜ということは……捕虜というのは基本的には戦いの最中捕まえた者というのが基本。
戦い? 誰と? 決まってる。人間だ。……それでも、俺は聞いておきたかった。この無邪気な少女が自分の配下に人間を襲わせたのか、と。
「うむ、我々恐竜人から隠れ住んでいる人間の村を見つけたからな。ほら、クロノがいた所の近くだ。そこの人間たちを皆殺しにしていたら、あの男は人間たちのリーダーに近い者らしいのだ。だから何かに利用できないかと思って」
「いや……もういい。分かった。」
皆殺しにしていた、という言葉から、アザーラがそれに関わっていたと分かった。むしろアザーラの立場を考えれば先導していたことは明白。それが……あまりに信じがたく、聞きたくも無かった。
「まあ聞けクロノ。そこの村の人間たちがまた弱くてな、殺しても殺しても味気ないのだ。生き方に伴い、質素な死に様だったぞ? お陰で気勢が削がれて、半分近くの人間を取り逃がしてしまった。サルどもらしい逃亡方法といえば、そうかもしれんな」
その残酷な言葉よりも、その言葉を期待していたおもちゃが案外つまらなかった、という表情で羅列させているアザーラが酷く恐ろしかった。戦慄している俺に「さあ、今度こそお腹を膨らませに行こう!」と声を掛けて、一定の間隔で床を蹴りスキップしている。食堂で出された林檎パイは赤々としていて、人間の血でコーティングしたんじゃないだろうな、と聞きたかった。
頬の中をパイ生地でいっぱいにしてハムスターのように膨らませながらくぐもった声で「美味しいな!」と同意を求めてくるアザーラはとても血や、死、殺害、戦いなんてものと無縁に見える。対極の人物像とさえ思える。ただそれは幻想で、彼女は紛れも無く人間たちの敵、その親玉であると知ってしまった。
忌むべきはずなのだ。怖がるのが普通で憎むことが正しい帰結。そう分かっていても、彼女の笑顔は曇り無いものだった。
残虐な恐竜人の王。
幼い感情を露にする少女。
そのどちらも彼女で、分けられるものではないと納得するにはしばしの時間が必要となった。
おまけ
それは、カエルが人間の姿に戻り、ルッカと談話している時の1コマ。
「ねえカエル、あんたって一度も女の子らしい会話とか、行動をしなかったの?」
「急だなルッカ……そうだな、いや一度だけあったか」
男であるクロノやロボよりも男性らしいカエルにそんな時があったのか、と自分で聞いておきながら驚いたルッカは身を乗り出して「それっていつ? どんな時!?」と問い詰める。カエルの女残した言動等、想像しがたいルッカの興味は惹かれ、自分で思った以上に食いついてしまった。
その勢いに押されたカエルは戸惑いながらも「い、いつと言われても……うむ、ルッカやクロノと同じか、それよりも年若い頃だろうか」と曖昧な返答を送る。
ルッカは片手にメモを、もう片手にボールペンを握り先を促す。この時点でいつかこれをネタにからかわれるのではないか、と危惧すべきなのだが、カエルは今まで、というよりも今さっきからかわれたばかりであるのにそのような懸念は一切もたず話し続けた。
「意識して女らしくしたのは、サイラスの前で一度だけだ。……いや、恋愛感情とか、そんな深い意味は無かったんだぞ」
では他にどのような深い、もしくは浅い意味があるのだと言いたかったがそれでへそを曲げられてはつまらないとルッカは疼く唇を硬く閉じて次の言葉を待つことにした。
「町娘が着るような戦士にあるまじき格好をして、~だわ、といった言葉遣いに変えて……今思えばよく出来たものだとある意味感心する」
「もう、そんな独白はいいから。それで? サイラスさんは何て言ってくれたの?」
面白そうだ、という想いが七。恋する乙女の行動がどう出たのかという少女的好奇心が三の割合でワクワクしながらルッカはカエルの話に集中する。カエルはしらっとした顔で質問の核心を口にした。
「王妃様なら似合いそうだ、と」
「…………あ、そう」
カエルの余りに哀れな過去を憂いてルッカはこれ以上詮索するのは止めようと顔を背け書き込んでいたメモを切り取り丸めて捨てた。恋愛とは、語られるほとんどが幻想、期待が大半入り込んだ妄想なのではないか、と少女的とは言えない悲しい現実を思った。ずきずきと頭が痛いのは、無駄に人を詮索すべきではないという教訓になった。
「ああ。それからだろうか。俺が王妃様を愛しだしたのは」
「え? 何で? さっぱり全然これっぽっちも微塵もミジンコ並みにも分からない。どうしてそうなるのそんな風に考えられるの?」
「いや、何と言うか……とても説明しにくいのだが……」
流麗な長髪が覆う頭を掻きつつ、カエルは難しい顔でぼやく。また突飛な答えが返ってきそうだ、と予感したルッカはこれ以上頭痛を強めないで欲しいと切に願う。
上手く言葉に出来ない様子のカエルがたどたどしいながらも、ピースの合わない単語を構築し会話に変形させていった。
「俺が頑張ってみた結果を、他人にさらりと上に立たれたと分かった瞬間、何となく、悪い気分ではなかった……いや、深い意味は無いのだが」
お前の言う深い意味とはどんな意味を持つのか! と首を絞めて聞いてみたかったが、それをするとこの目の前の馬鹿は喜んでしまうのだろうか、と危うい考えに至りルッカは震える右手を握り締めた。
「……それって、単純にとんでもないMってことよね……」
まさか、カエルの王妃様に対する重たい愛が産声を上げた理由が、重度の被虐体質によるものとは、と高熱を出した時でもこうは痛まない頭を抑えてルッカはカエルに聞こえぬよう毒づいた。「? おいルッカ、今何を言ったんだ」と聞いてくるが、自分に移るかもと思うとこれ以上会話を続けたいと思えずルッカは軽く無視を決め込んだ。その後すぐにそれが良いと思われては果てしなく気分が悪いので会話を再開させたが。
(これじゃ、さっきの強制メイド服着用だって、心の底では喜んでたかもね……いや、悦んでた、か)
ふと、からかいやすいと評し、からかうと面白いと考えた幼馴染の見る目は正しいのだな、と本人の知らぬ所で微妙に評価が上がったクロノだった。微妙の数値は限りなく零に近いものだったけれど。
(ていうか、ストーカーで変態で両刀で蛙で実は女で男性意識でサドかと思えば被虐体質って……どんだけ属性持ってるのよ!)
そのほとんどがプラスに成り難い要素というのは、ある意味それすら属性に成り得るかも、とまで考えてルッカはもうカエルについて考えたり質問したりするのは止めよう、と心に誓った。
もしかしたら、そのサイラスという人物も王妃狂いの変態だったのでは? という不安は浮かばなかった。
浮かばなかったということで、いいじゃないか。