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No.20613の一覧
[0] 学園黙示録 in 『追跡者(ネメシス)』[宿木](2010/09/12 16:55)
[1] 第二話 『Escape from the “Tyrant”』[宿木](2010/07/26 11:17)
[2] 第三話 『Running of the “Tyrant”』[宿木](2010/07/28 23:53)
[3] 第四話 『Democracy and the “Tyrant”』[宿木](2010/09/14 22:37)
[4] 第五話 『Street of the “Tyrant”』[宿木](2010/09/14 23:43)
[5] 第六話 『In the night of the “Tyrant”』[宿木](2010/11/12 22:06)
[6] 第七話 『Dead night and the luck of “Tyrant” 1/2』[宿木](2010/11/16 01:18)
[7] 第八話 『Dead night and the luck of “Tyrant” 2/2』[宿木](2010/11/21 17:48)
[8] 第九話 『“Tyrant” in the Wonder land』[宿木](2010/11/25 12:32)
[9] 第十話 『The “Tyrant” way home』[宿木](2011/02/07 00:58)
[10] 第十一話 『Does father know the “Tyrant”?』[宿木](2011/08/07 16:44)
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[20613] 第四話 『Democracy and the “Tyrant”』
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:075d6c34 前を表示する / 次を表示する
Date: 2010/09/14 22:37

 学園黙示録 in 『追跡者(ネメシス)』



 第四話 『Democracy and the “Tyrant”』






 それは、唐突だった。

 (……?)

 『彼』は、その時、当然の様に、膝を付いていた。

 何が起きたのか『彼』も理解していなかった。

 その肉体が、異常を発していた。




     ●




 太陽が落ちる数刻ほど前。夕焼けに照らされる中で、一台のバスが停車していた。中型のマイクロバスだ。白い車体に、緑文字で『藤美高等学園』と書かれている。運転席で休憩しているのは学園保険医・鞠川静香であり、バスに同乗しているのは学園から逃げ出した生徒達だ。

 生徒の数は五人だ。小室孝、宮本麗、毒島冴子、平野コータ、高城沙耶。未だに気力は健在だった。平野コータに至っては、この状況下でぐっすりと眠っている。軟弱そうに見えて、かなり豪胆なのだろう。

 「……街に、素直に入れない、か」

 フロントから周囲を伺い、眼鏡を治しながら高城沙耶が言った。バスが停車しているのは、市街地中心部へと向かう、道路だった。其処に留まり、進む気配を見せない。マイクロバスの前にも後ろにも車が止まり、一向に進まないのだ。大渋滞に巻き込まれていた。

 「一時間で一キロ。……このままでは夜が明けても街に入れるか如何か」

 バスの外では、遠くから警官が叫ぶ声が聞こえて来る。絶対に外に出ないようにと言う、警告だ。車の外部に動く《奴ら》を、警察の幾人かが撃っている。音に惹かれているとはいえ、未だ大群では無く、そして自動車を破壊できるほどの強さも無い。恐怖に負けて扉を開きさえしなければ、そうそうに被害を受ける事は無いのだ。……最も、その辛抱が何時まで出来るのかは、不明だが。

 目の前に常識外の怪物がいて、其れが襲い掛かって来る。その恐怖に耐えかねて、誰かが自動車を強引に進ませたら、それで終わる。事故で道路が塞がり、連鎖的に強引な動きが増え、秩序は崩壊する。今はまだ、警察などの国家機関が機能しているから良い。だが、人工約百万人の床主でこれだ。白昼の大都会やオフィス街での被害はこれ以上に違いなく、政府機能が停止するのも時間の問題だろう。

 「そう言う意味では、先に他の生徒達を下ろしたのは、正解だったな。……言い方は悪いが、足手纏いがいなくて済む。意思決定もスムーズだ」

 此処に居る六人は、ある意味、覚悟が決まっている。幸運か不運か。彼女達には“こういう事態”への適正が有った。組み上げられたチームのバランスも良かった。常に冷静さを見せる毒島冴子。参謀役の高城沙耶。保険医で成人女性の鞠川静香。兵器の扱いと応用力に長ける平野コータ。どんな仕事もそつなくこなせるサポート役の宮本麗。そして一行の精神的支柱で、自然と全員を引っ張る小室孝。

 「そうね」

 才媛も頷く。一時間前までは同乗していた人間も、既にいない。勿論、見捨てたのでは無い。彼ら自身が下りる事を望み、彼女達を説得したのだ。





 簡単に、経緯を説明しよう。


 学園から一緒に逃亡した生徒は、彼女達以外にも六人いた(その中には首からタオルを掛けた青年と恋人がいたりもした)。学園を出る前までは、生きる事に集中していたが、バスに無事に到達し、出発して一息入れた後に、『其処から先』の問題を考える事に成ったのだ。安心した途端に、それ以上を望むという、人間が都合の良い生き物という証明だった。

 ただ、幸いな事に、険悪な雰囲気には成らなかった。第一に、バスに乗る前に、小室孝達一向は“一緒に来るか?”と訊ねていた。第二に、彼らがいなかったら自分達は死んでいた。それを、彼らは良く自覚していた。

 更には、何故か襲われていないコンビニが有って、駐車場で僅かな休憩を取る事も出来た。だから、冷静に、多少は感情的にも成ったが、話し合いが開けたのだ。『話し合い、自分達で考える事が出来た』――――その点だけでも、数時間の後に坂を下って来る、思考を放棄した生徒達よりは良い状況だったのだ。

 話し合いには二つの勢力が有った。このままバスに乗って逃げるか。それとも何処かに隠れるか。前者は、悲観的に物事を考える現実主義。後者は、この状況を災害と捉え、自然に終息するまで耐える諦観主義だった。前者はハイリスクハイリターン。後者は、安全性と引き換えにタイムリミットが有る。どちらの主張も間違っていない。いや、どちらも危険で、どちらが“マシ”か、という負の方向の選択だ。

 余り時間を掛けると《奴ら》が学校から下って来る。だから、取った時間は僅か十五分。議長は毒島冴子が務め、高城沙耶が逐一、メリット、デメリットを示した。そして喧々囂々の議論の末に、辛うじて互いに落とし所を見つけたのだ。




 「あの、私の家が、あるんです」

 全寮制の学園とはいえ、丘の下に家を持つ生徒もいる。例えば小室孝の友人“だった”今村という男子もそうだった。地方から生徒が集まって来る名門ならば、同地域の生徒も志望して当然だ。そんな女子の一人が、意見を出した。

 「自分で言うのも何ですが、大きくて、残りたい人達を受け入れる余裕は有ります」

 そう言ったのは有瀬智江という少女だった。高城が学年主席ならば、彼女は学年二位。その割に性格は温厚で、容姿も平凡の領域。その分、異性よりも同性に好かれるタイプだったと言うだろうか。此処だけの話だが、藤美学園で何かと比較されるのがこの一年生の二人で有り、『女王の高城・王女の有瀬』と呼ばれる程に名を知られているのだが……まあ、其れは置いておこう。

 「扉も頑丈で、塀と門も有ります。窓も枠が小さめなので、籠城には持って来い……ですけれど」

 「けれど?」

 目上の先輩に促されて、彼女は語った。有瀬智江は、運動能力は最悪的だが、高城沙耶に匹敵する頭脳が有る。今の状況を正しく理解した上での、問題点を流暢に、説明する。

 「受け入れて、その先で内部分裂が有ると……困ります。拠点の価値は半減しますし、協力が出来無くなります。何より、自分勝手に成る。そうなれば、個人だけで無くて全員が危険ですから」

 「正論ね」

 珍しい事に高城沙耶が同意をした。己が一位ならば文句は無く、高城に比較して色々と劣っている有瀬だが、その頭が自分と同程度と言う事は知っている。そして認めている。何せこの二人、有瀬がミスさえしなければ同率一位なのだ。彼女の天然さが治る事は無いので、多分この先、一生結果は変化しないのだが――それでも、品格や人格、性格に、個人の能力が左右されない事を彼女は知っている。

 「仮に、有瀬の言葉の通りに行動するとして。其処から先は籠城組だけの問題に成る。私達は動くから助けに行けないし、途中で死ぬ……つもりは無いけれど、絶対は無い。だから、その上で決めなさい。心に刻み込んで、他者を容認して、でも自分で行動しないと……どの道、その内に死ぬわ」

 この発言の通り、移動組の筆頭ともいうべき存在が、高城沙耶だった。というのも、彼女はまず間違いなく、実家が無事であり、被害を受けていない事を確信していた。『絶対に安全な拠点』に行く為に、現実的な思考の元、リスクを負って行動する。それが彼女の今の行動原理だった。徹底したリアリストだった。

 「ええと。……食糧的にも、少しは余裕が有ります。お父さんの趣味で自家発電も可能です。今、小室君たちが手に入れている食糧も合わせれば、多分、相当、大丈夫です。――でも。いえ、“だからこそ”……我慢の為所を間違える人は、困ります」

 我慢をしない、では無く、為所を間違える、と彼女は語る。発散できる部分と抑制できる部分を取り違える事さえなければ良い。言いかえれば、抑える時に抑えれば、良い。

 「――――そうだな」

 ふむ、と同意の声を示して、毒島冴子は窓の外を見る。其処では、手早く動く二人と、バスの周りで顔を動かす一人がいる。コンビニの駐車場で忙しなく、彼らは動いているのだ。

 この話し合いの間に、小室孝や平野コータ、宮本麗の三人が何をしていたかと言えば、緊急避難的な犯罪だった。十五人の人間が一週間は生きられるだけの食糧確保に励んでいた。

 具体的には、協力してコンビニから必要物資を手に入れていた。ペットボトルを箱ごと。インスタント食品やレトルト品を山ほど。栄養ゼリーや軽食。電池や衣類。まだ痛んでいない食料品までたっぷりと、この先に備えて入手した。普段ならば学園生徒が良く使用するコンビニは、生徒達に備えて大量に入荷されていたが、しかし《奴ら》に成ってしまった為に備蓄が大量にあったのだ。

 勿論、最初は料金を払うつもりだった。財布も鞠川先生から預かって来た。しかし、カウンターに居た店主・才門は何も反応を示さなかった。ただ、其の虚ろな目で、何も言わず、佇むだけだったのだ。彼は既に此方の声を聞こえない、何が有ったのかは不明だが、精神的に壊れてしまった状態に、平野が気が付き――――心の中で謝りながらも、商品を出来る限り、持ちだしたのだった。

 お陰で、バスの全員がペットボトルを手元に、おにぎりや総裁パンを確保している。バスの空席は次々と埋まっている。荷物の運搬をしているのが小室孝で、運搬戦力外(と自分で言った)平野コータはコンビニの周辺警戒。宮本麗は確保した分のリスト作成だった。

 何回も言うが、緊急避難が適応される状況下で有り、更に言えば告発する事は誰もせず、そしてこの先誰も責めないだろう行動だが、れっきとした犯罪である。彼らもまた、確かに状況に馴染んでいた。

 否。もっと言うのならば、この状況を楽しみ始めてすらいたのだが……それは、今は置いておこう。

 「――――さて、有瀬君はこう言っているが、君たちはどうする?」

 この話を聞いても尚、籠城する者だけが、有瀬君と共に行けば良い。そう、彼女は付け加えた、

 結果として六人全員が納得して籠城を決めたが――――果たして、彼らが如何なって行くのかは不明だ。彼らを有瀬宅に降ろし(本当に大きな家だった)、食料を分配した。節制をすれば、中で一週間――――否、内部の備蓄食糧も含めて、一月は生きられるだろう。後は、無益な騒動を彼女達が引き起こさない事を祈るだけである。






 このような経緯を経て、小室孝ら六人は、他の生存者たちと別れ、バスで移動をしていた。

 勿論、『彼』の様な化物が後を追っている事を知っていれば、そんな回り道をする余裕は無かっただろう。しかし“その時点での”彼らの情報を纏めれば、途中で停滞していても何も支障が無かった事も事実だ。第一に、本当に生きているかどうかも知らなかった。勿論、あの程度で死ぬとは思っていなかったが、同時に第二の理由として、彼らの後、数時間の途に脱出を敢行した紫藤の認識の通り、怪物は鈍重で有り、例え追われても歩きにしかならないと――――彼女達は思っていた。そして、バスの速度を考えれば、逆にルートを長くすることで、追跡に時間を掛けさせると言う思惑も有った。

 例え相手が動いていても、距離を詰めるには時間が懸かる。それを期待しての事だったが……しかし、現在は渋滞に巻き込まれ、ご覧の有様である。

 「さっきの」

 キュ、とイオン飲料のキャップを閉めた宮本麗が、口を開く。

 「――――学園に居た“アレ”は、何だったんだろう?」

 「……さてね」

 軍事関係ならば平野コータに劣るとはいえ、この場の誰よりも博識で有る高城は、やはり冷静な態度を崩さないままに応える。その変化の無い、常に同じ態度は時にして他者の神経を傷つけるが、幸いな事に、このバスの中でそれを気にする者はいない。学園内と、学園を出立しての時間。決して長くは無かったが、非常事態故に、誰もが彼女の精神を許容していた。

 毒島冴子や鞠川静香と並び、常に変化しない態度は、他者からしてみれば非情に有り難い。少し何か動揺しても、誰かが冷静で居るという安心感が、結果的に動揺を防ぐ。何より高城沙耶の頭脳は、一向に非常に有益だった。

 「私にも解らないわ。情報が少なすぎるし」

 その言葉に、全員が頭の中に、異形の巨体を持った怪物を思い浮かべたのだろう。自然と沈黙が下りる。考え込み、思い出して呻く吐息。脳裏に蘇る存在感が反芻され、意識を別の場所に向ければ、耳に入るのは未だに眠る平野コータの寝息に、外から途絶える事の無い、銃声と車の警笛に、誰かの悲鳴だ。

 「――――あの怪物が、この場に現れない事を、祈ろう」

 あの暴君が自分達に、そもそも“どうやって追い付くのか”から始まり、追跡される可能性を低いと思っているが……此方が動けない以上、差を詰められる可能性は十分にある。そして、仮にこんな場所に姿を見せたら、間違い無くパニックが発生する。そして、パニックは《奴ら》を呼ぶ。今の維持された秩序も長く持たない事を、此処に居る面々は理解しているが、其れでも長いに越した事は無いのだ。

 一同が向けた視界の先。窓の外には闇が落ちている。

 日の出が今ほどに待ち遠しい事は、彼らの人生の中で、一度たりとも無かった。




     ●




 少し、時間を巻き戻す。



 少女を弔った『彼』は、日が落ちる中、落日に相応しい光景の中を、動いていた。

 『彼』は、高速での移動能力を有した。残念な事に、有した『原因』である、もう一台のバスを追う事は現状無理だが、元々の目的である姉の友人・鞠川静香を追跡する事は可能だった。彼の発達した嗅覚は、かなり遠くにだが、確かに辿って行ける芳香を感じ取っていたし、吹いてくる風の中にも同じ匂いが含まれている事を悟っていた。しかし『彼』は、高速での移動能力を、使っていない。

 何故かと言えば。

 (……何処カ、服ヲ)

 これ以上の衣服の損壊は、彼の羞恥心が許さなかった。因みに『彼』は過去の事故で下半身不随に成った際、骨盤に非常に大きなダメージを受け、とうの昔に生殖機能を失っているのだが(排泄機能は辛うじて無事だった)、其れでも羞恥の概念は持っている。そして、同じ様な状況に追い込まれる事に成る突撃能力を、極力使用を避けようと思っていた。

 紫藤浩一に轢かれたのではない。もっと別の被害によって、その衣服がボロボロになっている。これは誰かが彼に攻撃した訳ではない。家に籠っている生存者は、彼の姿を見た途端、生きている人間の三割は気絶し、六割は恐れ慄き硬直し、残りの二割は息を殺して立ち去るのを切望していた。攻撃する度胸が有るならば、とうに避難をするか、あるいは無謀と取り違えて異形と化している。

 この状態は、彼が原因だった。

 (……明るク成るマデ、歩キ)

 疾走能力。及び、短時間での突撃能力を手に入れた『彼』は、早速、其れを使用して鞠川静香を追おうと思った。思って、実行した。実行したのだ。確かに習得した能力は非常に高速移動を可能にし、先の覚醒時程に早くは無かったが、其れでも時速四十キロは出ただろう。しかし、追おうと思って実行して、直ぐに頓挫した。その理由は、彼の歩んで来た道中を見れば、良く分かる。

 途中の電信柱が折れ、窓が割られた車が陥没し、コンクリートブロック塀が崩れ、そして、良く良く見れば、その全てが曲がり角にあり、序に『彼』の着ていた衣服の切れ端が見つかるだろう。




 走れたのは良いが、猪突猛進しか出来なかったのだ。




 『彼』の疾走能力は確かに速い。しかし、走れたとしても“曲がれる”程に己の身体能力を把握出来ておらず、序に言えば足の動かし方や運び方も全然駄目だった。止まる事にだって苦労した。車は急に止まれない、ではないが、急に止まれる身体能力を有していても、そもそも走った記憶すら怪しいのだから仕方が無い。歩く事には如何にか慣れた『彼』でも、陸上選手は愚か、中学生のランニングフォームにすら到達していないのだ。そんな状態で、過分な速度を出しても、制御出来る筈が無かったのである。

 (ゆっくリ、行こウ)

 ゴフウ、とまるで熊か獅子か、大きな獣の様な吐息を吐きだして、歩く。その足取りは妙にぎこちなく、慎重だ。数歩歩いて周囲を見回し、再度歩き始めると言う、非常に緩慢な動きになっている。挙動だけ見れば、普通の人間の歩行よりも遅いだろう。一歩一歩が大きいので、差し引き、時速二キロか三キロと言った所だろう。

 もう一つ。実を言えば、今の『彼』には、普通に歩くと言う事が出来ない。走るか、これほどに遅いかのどちらかだ。何故に『彼』がこれ程までに、行軍を遅くしているのかと言えば。

 (……暗イノ、嫌ダ)

 忘れてはいけない。例え図体がでかくても『彼』は精神的には幼いのだ。単純であり、純粋であるともいえる。真夜中にトイレに行くのが怖かったように。長居をした友達の家から、星の無い夕方遅くに、家に帰る事が不安だったように。誰にでも一人で行動する心細さを味わった経験が有るだろう。『彼』が今まさに体験している感覚は、それと同じだった。

 『彼』は、例えその身が非常に頑丈で、故に絶対に安全だと理解していても、歩みを遅くした。――――有体に言えば、暗い中に出歩く事が、怖かったのである。だから、街灯を見つつ、明かりから明かりへ歩く様に、徐々に進んでいた。

 いっその事、一気に走れれば不安も消えるのだが、前述したように『彼』は走っても止まれない。曲がれない。序に、そろそろ衣服も限界だ。これ以上破くと裸で歩く事に成る。勿論、既に人間の肉体から逸脱している『彼』の場合、猥褻物陳列罪等に接触する筈も無く、そもそも現状では普通の人間でも取り締まる事は難しい。だから、挙動不審な動きをしているだけなのだが、外見が外見である。

 『彼』の内面が見えれば、少しは周囲からの嫌悪の眼も薄れるのだろうが、悲しい事に『彼』が出会う相手は死人だけであり、そして目撃される光景は《奴ら》相手に剛力を振う異形の姿だった。この先理解される可能性は、限りなく低いだろう。そして『彼』は、其処に考え付いていない。

 (……速ク、日が昇ッテ、欲しイ)

 『彼』は、果たして朝日とはどんな物なのか。きっと温かく、美しい色をしているのだろうと思い浮かべ、暗がりに少しだけ怯えながら、ゆっくりと道路を歩いて行く。

 目指す相手に追い付くまでには、まだ時間が懸かりそうだが……。

 (……ン?)

 鋭い嗅覚が、一つの匂いを嗅ぎつけた。それは、明らかに自分が追うバスの強い匂いであり、しかし風に運ばれて来る匂いとは違う方向から届いて来る。何処かで一回停止して、回り道をした匂いを、感じ取ったのだ。

 (……行ってミヨウ)

 どうせ夜は長いのだ。少しくらい時間が懸かっても問題は無いだろう。病院で寝ているだけだった『彼』にしてみれば、例え怯えていても、明かりの下を動くのならば何も問題は無い。深夜の病院の様な、何も見えない闇が怖いだけであり、そして歩みの先には未だに機能を止めていない街灯が並んでいる。

 巨体を震わせ、追跡者は体の向かう先を修正した。




     ●




 「映画やゲームならアレよね。大抵が、この大災害を生み出した黒幕たちに投入された、実験的な生物兵器――とか、そんな扱いよ。……勿論、私は違うと思うけど」

 成す事も無く、只管に時間を持て余している。限られた平穏である事を理解していても、しかし使い様の無い時間は、消化するのが難しいのだ。音を産む訳にはいかない。外に出てもいけない。退屈を凌ぐ道具が有れば、その代わりに生きる為に必要な道具を持つ。一向に進まないバスの中で彼らに出来る事と言えば、交代で休息を取るか、あるいはなるべく建設的な雑談をするかだ。

 この場合の建設的な話、とは、即ち学園で見たあの化物についての話である。本当に建設的かどうかは微妙だが、少なくとも大体の方針が決定し、話すべき内容を話してしまった後の残りの会話としては、丁度良かった。

 「と、言いますと?」

 「メリットが無い」

 目を覚ました平野コータの言葉を、高城沙耶は一蹴する。何かにつけて邪険に扱っている様に見えるが、彼女は誰に対してもこんな態度である。むしろ、こんな態度でも平野の能力は認めているのだ。中々、伝わり難いが……まあ、平野自身も気にしていないので、これ以上言うのは野暮と言うものだろう。

 「仮に。あの怪物が人為的に生み出された存在だとする。とすると、この現状も……《奴ら》が発生した背景に、その人間の意志が関わっていると言う事よ。これが例えば、床主だけだとか。あるいは日本だけだとか。そんな理由ならば、他の政治的、経済的、その他多くの勢力からの攻撃と考えられなくも無い。でも、実際は違う。合衆国はホワイトハウスを破棄しているし、ロシアは政府機能が壊滅も同然。パリ、ローマ、北京、東京まで被害にあっている。情報が少ないけれど、多分、アフリカや南アメリカ、オセアニア、東ヨーロッパからアジアまで。流石に南極と国際宇宙ステーションは大丈夫だろうけれど……全域に渡って発生しているわ。……それをして、何か意味が有る? 下手をすれば……いえ、間違い無く、生み出した自分達も死ぬわよ」

 そして、今は無事な各地域の人間達も、何れ間違いなく、限界は訪れる。真綿に首を絞められるように、徐々に徐々に、緩慢に死に誘われるのだ。国際宇宙ステーションだって、補給物資が届かなければ脱出不可能な檻にしかならない。

 「それにね。こうなってしまった今、言っても仕方がないけれど、そもそも前提条件が有り得ないのよ。全世界で同時多発的に。世界各国・日本全国の大都市に発生だもの。テロじゃ無理よ。――――仮に実行したとしてね。……凄い単純な点から行くわよ? ――――そうね、まあ日本だったら霞ヶ関と国会を抑えれば、組織の性質上、何とかなるでしょう。自己判断で動けないから。でも、例えばアメリカで発生して、東西南北にどれくらいの広さが有ると思ってるの? 広いと言う事は《奴ら》に成る人間も多いけれど、同時に被害が広がるにも時間が必要って事よ。……その間に情報が共有され、国際世論は大荒れに荒れるとしても、何処かで必ず、止められる。――――それこそ、未だに機能を保持しているイギリスみたいにね」

 「だから、人為的な線は有り得ない、と」

 「まあ、例えば。……そうね。自分も含めた人間達を、完璧に全滅させる事を計画した『とあるテロ的な集団』が《奴ら》になるウィルス的な何かを産んで、己を最初の発生源として世界各国に散ったとしましょう。大都会の街中で発生。その人物は隣人を噛み、騒然とする中でネズミ算式に増えて行く。東京の日中のど真ん中だとして。――――で? 世界各国の名立たる大都市で同じ事をする為には、どれだけの労力が必要よ? 千人じゃ効かないわよ?」

 少し想像してみれば良い。例えば、そんな事件が有ったとする。騒然とする中で、日本人は一斉に逃げだすだろう。直ぐに警察が駆けつける。勿論事情を理解出来る筈も無く、警告している間に被害が増える。だが、駆け付けた警察官が取り押さえられずに噛まれ、感染し、被害を広げたとして、東京の住人は百万人では効かないのだ。その間に警察の応援が駆けつける。何回か繰り返した後で、やっと拘束・説得が無意味で無駄で何の価値も無いと覚り、噛まれた人間が後を追うと理解出来たとする。

 「そこで、それ以上に動き難いのが日本と言う国家の情けない部分だけれど、其れは置いておくわ。だからこそ、日本はある程度平和なのだしね。……自分の保身を考えれば相手を射殺出来ないし、そもそも事件が本当かどうか、本庁が確かめる。その間に被害が増える。……でも、例え最悪を突き進んでも、何処かで情報が伝わるわ。それこそ、私達が学園で見た番組みたいに」

 何とか収めようとして、収められずに被害を拡大させるのが日本だ。だから、日本と言う国家を壊滅させるだけならば、困難だが、確率も低いが、不可能では無い(不可能ではないと言うだけの話だ)。おそらく自衛隊の出動に慎重になっている間、対策会議の間、そしてこの期に及んで政治的な駆け引きをしている間に、国会に感染者が入り込み、警備が破られ、そのまま責任者が死んでほったらかしだ。命令が無い以上動ける組織は少ない。国家公務員が動けなければ、それで日本は終わると言っても良い。仮に国家が潰れるとしたら、きっとそうなるだろう。

 「まあ、頭を潰す事も、噛まれたらお終いと言う事も、何も理解出来ない人間がいたら、そいつは無能以外の何物でもないわ。現実を直視できない相手は、むしろ今後には邪魔。直視して、対策を打てる人間が居ないのならば――――残念な事に、自分の身は自分で守るしか無いけれど」

 高城沙耶はそう付け加える。幸いな事に、今現在は静かに眠って休憩している毒島冴子と宮本麗も含め、このバスの中の全員が現実を理解出来ていた。後は、世界の首脳陣に同じ才能を要求するだけである。勿論、大分……いや、相当に難しい、だろうが。

 「それでも。……世界を滅ぼすのは並大抵の事じゃないわ。《奴ら》が音に反応するとはいえ、知能が残っていない愚昧な存在なのよ? 内紛さえ起きなければ人間の敵じゃない」

 そう。例え其処まで言っても、人間を滅ぼす事は不可能だ。小国の幾つかは消滅し、機能を失い、巨大国家・先進国でも大被害が出るかもしれないが、それでも不可能に近い。

 奴らの何よりの脅威は、数と、現実的な理性に攻撃を与える所なのだから。
 容赦無く相手を倒し得るかと言う部分なのだから。

 「さて、話を戻すわね?」

 仮に本州を壊滅させるだけでも、東京・埼玉・神奈川・千葉・静岡・名古屋・大阪・京都・広島などの大都市群の複数個所くらいは、発生源として必要だろう。其処で同時に発生しても、北海道と九州・四国、ましてアメリカ軍がいる沖縄には中々入り込めない。《奴ら》が到達するより早く、間違い無く封鎖される。

 まして、政府首脳陣は真っ先に安全な洋上へ避難するだろう。

 「隔離可能な内部でも安全ではないと言うならば、それは隔離よりも早く内部で発生すると言う事よ。故に、人為的な感染では無い。人間を媒介にして拡散しても、人間が生み出したと言うよりは、自然的な現象の方が、まだ“感染数”という観点や、世界的流行と言う意味では、納得が行くわよね」

 それこそ、数時間前に語った、インフルエンザやコレラ、黒死病のように。地球上の何処かで生み出された《奴ら》になる「原因」が大量に、貿易風等に乗って世界に運ばれた……と考えれば、まだ納得は行く。人口密集地帯にウィルスが広がれば、集合数的に感染者も増える。大都市に被害が行くのも当然だ。過密地域が文化の中心部なのだから、国家も其れだけ揺らぎ易い。

 そんな説明の後に、高城は話を『怪物』へシフトさせる。

 「そして、この原因が――――突然変異的に生み出された、地球上の『病気』の一種ならば。同じ理由で、被害者にも影響が出る。勿論、非常に低い確率で、だけれどね。――――超、大雑把な計算だけど、午後の時点で埼玉の被害者が一万人強。今の時間迄で三倍になったとして、約五万人。人口密集地帯の埼玉は人口が約七百万人だから、被害が増えたとして、……大目に見積もって、百人に一人が《奴ら》。――これを無理やりに人口密度や地方都市の被害レベルを無視した上で、日本全国に一律と考えて、日本国民は一億四千万人は居ないから、……百万人の《奴ら》がいる、としましょう。……百万人に一人くらいならば、何かしら、体が突然変異しても、有り得無くは無いわ。……まあ、確率的にはね」

 確率的には、と言う部分を強調する。相変わらず一向に進まないバスの中、理屈っぽい話が続いているが、誰も止めようとはしない。静かに聴くに値する情報だったし、現状を整理する事にもなっていた。高城の話し方が上手いせいか、興味をそそられ、聞く事に意識を向ける事が出来る。

 「と言うことは、別の理由で、有り得ないってことか?」

 先程からずっと黙っていた小室孝が、口を開く。彼に寄りかかる様に宮本麗が眠っている為、大きく動く事も出来ないのだ。注意を払い、自然と小さな声で、そう返した。

 「勿論。確率的には低いけれど、もっと低い。……生物学的にね」

 再度、彼女は頷いた。




     ●




 その頃。

 (……別れ、タ?)

 とある一件の邸宅の前で、急に匂いが分散した事を『彼』は悟っていた。大きな屋敷だ。頑丈な門と、丈夫な石塀で囲われ、屋根の上には発電装置も付いている。しかし、庭は小さい。いや、面積は広いのだが、空いた空間にプレハブ小屋が置かれ、半開きの扉の奥には色々な工具が見える。どうやったのか、その内の一つが玄関へと続く街路の上に動かされており、重量級の機械が鎮座している。その奥の玄関は頑なに閉ざされていた。

 外に出る為には、二階の窓から屋根を伝い、プレハブ小屋の上を歩くのだろう。そしてプレハブ小屋の屋根を伝えば、隣家からかなり遠くまで動く事が出来る。防御だけでなく、いざとなったら脱出までも想定されていた。中に居る人間は、相当に優秀で、しかも内部には相当の数がいるのだろう。邸宅内部から人の気配がしていた。

 しかし、求める匂いはしない。バスがこの辺りに滞在していたのは確かだろうが、如何やらこの場で何人かを下ろし、立ち去ったらしい。その辺に重なっている死体は、かつて《奴ら》だったようだ。何れも頭部を破壊されて、動く様子は無い。物音が少ないせいも有って、相変わらず『彼』の周囲には数体が纏わり付くが、既にこれを排除する事にも慣れていた。

 (……鞠川、サン、ハ)

 この場に居ない。バスを運転していたのが彼女で、そしてバスが無い。故に彼女は此処に居ない。思考の流れは簡単だが、論理的だった。『彼』は知識こそ無いが、決して愚鈍でも、まして馬鹿でも無い。

 この場に標的がいないのならば、長居をする必要は無い。そう判断をした。

 仮にまともな教育を受けていたら、両親の才能を受け継いで、姉以上に立派に育っていたのだろうが、その事実を知る者は、既に数が少なかった。まして『彼』の現状を知っている者は皆無。『彼』自身が自覚している筈も無い。

 (なら良い、ヤ)

 門を一回見上げ、内部に居る人間が動いている事を知って、体の向きを変える。夜遅くに訪問しては迷惑だと言う事は、微かな情報として有していた。そのまま、家から立ち去る様に、歩き出す。






 夜闇の中、明滅する街灯の下を、緩慢に歩く異形の巨人。暗闇の中に爛々と浮かび上がる業火の如き眼光。鬼もかくやと言う程の肉体が、赤黒い筋肉と、白と紫の斑に混ざって街灯に照らされている。未だ春だと言うのに、その口元から漏れる息は蒸気の様に白く、鋭い歯が鈍く輝いている。

 ザシャ、と歩く音が聞こえる。辛うじて原型を留める靴と、先端を突き破った既に武器にも見える足爪が、アスファルトを擦る。一歩一歩は決して早く無い。だが只管、愚直なまでに、淡々と一定の速度で歩む姿は、まるで狩人……否、狩人の性能を有した機械のようだ。

 ザシャッ────。

 コフウ、と吐息が漏れる。喉の奥から響く鳴き声は、怪獣の様な重低音だ。一流のオペラ歌手でも出す事が不可能な、人間の声帯域を越えた声。それは既に声では無い。獣の唸り声だ。仮に咆哮を上げたら、その音は周囲一帯に響き渡り、生きている人間の背筋を凍りつかせるだろう。

 ザシャッ────。

 その歩く音に引き寄せられた亡者が、何処からか姿を見せて襲い掛かるが、其れを玩具の様に壊して、何処かを見たまま、ゆっくりと歩いて行く。異形の眼の先には何も無い、邪魔する者は何も無いと、行動で示すかのように。
 後にはただ、周囲に叩きつけられ、潰された格好の死体が散乱するだけである。
 未だ、室内の灯りこそ消えているが、人間が潜む住宅街の中に、こんな怪物が歩いている事こそが、この世界の現状を示していた。

 ザシャッ────。

 邸宅の中に居た住人達――――即ち、藤美学園の生存者にして、バスから降りた有瀬智江と他の五人のメンバーは、その光景に緊張を一瞬だけ緩め、しかし『彼』が視界から消えるまで固唾を呑んで見守っていたのだが、これは本編と関係ない。この先、彼女達が出て来るとしたら、この邸宅が壊滅した後か、それとも彼女達が助かった時であろう。敢えて何かを言うのならば、厄介事を引き起こせる程、自分で行動出来る人間が居なかった事が、幸いだったと言う事だろうか。

 ザシャッ────。

 その音は、徐々に、小さく成って行く。音を聞いていた誰もが、心の中に安堵感が広がり、肩で大きく息をして緊張と共に吐き出す事を、抑えられなかっただろう。邸宅の中ではボウガンを構えた男子がいたのだが、彼は腰を抜かして座り込んでしまった。

 こうして『彼』は、屋敷の前から立ち去ろうとして。

 ふと、己の左腕に思い切り噛みつく口が有る事に気が付いた。

 見れば、頭だけに成った亡者が、顎の力だけで喰らいついているのだ。其れほどに痛くは無いが、歯を肌に食い込ませている。簡単に抜ける様子は無い。最も、相手も『彼』の腕を噛み千切れるほどの力が無いから、ぶら下がっている様な状態なのだが。

 (……ジャマ、)

 邪魔だった。右腕で、顔を鷲掴む様に握り、圧倒的な握力で相手の頭蓋を粉砕しながら、強引に引き剥がす。腕の肉も一緒に持って行かれたが、気にしない。どうせ、直ぐに治るのだ。

 体の怪我は、大した被害を受けていない。『彼』の肉体に被害を与えられるほど相手が強くは無いと言う事。それ以上に、『彼』の肉体の生命力が異常だった事が、その理由だった。

 しかし。






 ────唐突に、その歩みが、止まった。





 ガクリ、と、『彼』の体の重心が、崩れたのだ。




     ●




 「一応、前提条件ね。生物学的に言えば、突然変異という現象自体は、かなり普通よ?」

 「……そうなのか?」

 「ええ。これは多分、鞠川先生の方が詳しいけれど……」

 小室の疑問に応えるべく口を開いた高城だったが、運転席の教師は大学病院から派遣された保険医だ。専門家の居る前で大きな口を叩けない程、柔な性格はしていないが、彼女の邪魔をしても不味い。運転にミスでも産まれたら、それで運命は尽きるのだ。

 「良いわよ? ずっと運転しているのも大変だから……。気分転換になるわ」

 その高城の内心を読み取ったのだろう。ミラー越しに彼女達を眺めていた鞠川静香が、そう言った。意外と思慮深く、意外と気を使える彼女だが、別に遠慮をした訳でもない。実際、ずっとハンドルを握っていても面倒なのだ。肩が凝るし(その豊満すぎる胸の影響も有るのだが)、疲労が溜まる。どちらにせよ、気分を変えたかった。

 「高城さんの説明で、不足したら、補うわ」

 そう言って微笑する。大人の貫録だ。

 「そう。――――じゃ、始めるけれど。……まず、突然変異という現象は、生物の体内ではかなり多い。より正確には、生物の肉体を構成する細胞の中ではね。生物の授業で習った様に、生物細胞は自己増殖する。母親の胎内では受精卵。つまり一個。それが二個になって二個が四個になって。……倍々に増えて行って、最終的には自分達の体を構成する。今の私達の体内でも同じ事が起きている。だから、当然、不良品が中には有るのよ。上手く分裂出来無かった細胞。活動中に何か故障が有って未完成に成った細胞。外部からの影響で異常が発生した細胞ってね。――――例えば赤子の場合はそれが顕著で、ベトナム戦争の枯葉剤から、妊婦の飲酒まで、発生する原因は多々あったりする」

 ま、其れは生まれて来る子供の場合、と話を一回区切り、発展させていく。学年主席の形容詞は伊達では無いのだ。口調が非常に明確だった。両腕での動作も加わり、解りやすい。

 「同様に、今の私達にも同じ事が起きている。大抵は、役立たずとして体の中で崩れて、他に吸収されちゃうけれど、そうならない時も有るの。それが変異した細胞ね。……凄く大雑把に言えば、喉のポリープや各部位に出来る悪性腫瘍。そしてガン細胞だって細胞分裂の過程で発生した異常細胞なのよ。だから、変異自体は変じゃない。……本当に異常なのは」

 其処で一回、言葉を切って、強調する様に彼女は語る。

 「その突然変異が、あの怪物を産んだと言う事。元々の人間が、どんなのだったかは不明だけれど、変化して、しかも人間以上の出力を得る。これは、純粋な発生確立以上に、低いと言えるわ。だって体の“一部”じゃなくて、“全身”が変異している。放射能を浴びたって、ああは成らないわ」

 「でも、実際には居るんだろ?」

 小室の言葉に、だから面倒なのよ、と彼女は言った。有り得無いと言うのならば、今のこの現状だって普通では有り得ない。この世界の終焉が有り得る以上、あの怪物も認めざるを得ないのだ。

 「実際、アレはいる。それも、まるでこの環境に適応するかのようにね。――――噛まれて突然変異した。仮にそうだとしても、其処から先にメリットを見出すのは無理よ。……小室だって噛まれたいとは思わないでしょ? そもそも噛まれて変異するなんて思わない。更に言えば、――――仮に。体に、“そんな特殊な性質”が有ったら、普通は逆に、より早く《奴ら》に成るか、あるいは強い毒性を持つ方向に変化するのが当たり前でしょ? 生命体の目的として動いているかは不明だけど、《奴ら》は他者を噛んで広げていく。ならば、例えば、あの『怪物』が、噛まれた結果に適応して変異をしたならば、……それこそ、もっと『突き詰めた』様な状態の方が相応しいのよ。巨大な口だけの怪物に成るかもしれない。植物みたいなね。あるいは、空気感染を可能にするかもしれない。あるいは、もっと人間を速く腐敗させる猛毒を有するかもしれない。――――何れにせよ、生物として進化するならば、《奴ら》“以上”の力の為に変化する事に成るわけ。より効率的な増殖と感染の為にね。……でも、あの巨人は違う。違っているのよ。あの怪物が噛まれて変異して、其れで肉体が巨大化して、巨人に成った理由は、何処にあるのよ? いっちゃ悪いけど、あれ、既に別の生物よ?」

 其処までを言って、彼女は自分の分のボトルに口を付けた。話しっぱなしで喉が渇いたのだろう。喉を鳴らして飲むが、途中で口を話し、呑み過ぎないように注意を払う。この辺りは流石、適応力が有った。

 「言い代えましょう。あの怪物は《奴ら》に噛まれて変異をした。これが事実でも、其れが即ち《奴ら》にとってのメリットには成らない。何故ならば、感染する為の手段が低下しているから。爪で引っ掻かれたらお終い、だったとしても、だったら二足歩行の意味がないわよね? そしてそもそも、普通はそんな変異は有り得ない。日本全国で一人、いるかいないかの現象だって言う事も有る。《奴ら》の特性とは全く違うだけでなく、変異が全身へ見られてもいる。――――矛盾する様だけれど、あの怪物に限っては、人間が影響していると思いたいわね」

 そんな偶然が、この床主で発生したとは考えにくいし、と付け加えた。しかしその理論では、先程の人為的な現象という世界的流行と矛盾するのだ。勿論、全てが誰かに演出された物だと言う可能性が無い訳ではない。しかし、非常に低い事に違いは無い。

 「何れにせよ……。あの怪物は、多分、この《奴ら》と“直接には”関係が無いわ。多分、むしろ被害者だと思う。その被害者の『後』が、異常なだけで。……そして、多分、そんな存在は、普通じゃない。肉体的にも、異常な性質を持っている筈ね」

 ゆっくりとバスが動く。前に僅かに開いた空間に進んだのだ。高城の話を聞いて、僅かに鞠川静香は眉を顰めたが、何かを言うつもりは無いのだろう。何か、目元に疑問か、回想をする意志を示すだけだった。彼女の言葉に琴線に触れる物でもあったのだろうか。

 「……つまり?」

 生物の授業をさぼったせいで理解が及ばず、大部分を静かに聴く事しか出来ない小室だったが、結論の幾つかを示されたので、先を促した。要するにアレは特別で、《奴ら》の味方ではなさそうで(此方の味方と言う訳でもないが)、何か偶然以下の、しかし偶然では有り得ない結果によって発生した、と言う事だ。

 「つまり、あの怪物は、異常だらけ、ってこと。性質も、行動も、変異の法則もね。……多分、あの凄いグロテスクな肉体にも、何か異常な部分が有る筈よ」

 窓の外で、今尚も動いている怪物を幻視し、一連の話を収縮させるように、高城は言う。其れが正解であると知る筈も無い、何の気なしな、思いついた様な簡潔な一言だった。




 「今頃、体の何処かが、限界で悲鳴を上げてても、全然変じゃないわね」




     ●




 ――――ズシャ、リ……。

 (何、ガ?)

 ふらり、と重心が揺らいだと思ったら、途端に体が重く成った。今迄の疲労が突然に降りかかった様な感触だった。自分の身に何が有ったのか。『彼』は全く理解出来ない。ただ、響いていた足音が止まった事は解る。自分の足だ。それが、急に鈍く成ったのだ。

 先程までは、何の変哲も無く動いていた。体の何処にも怪我は無い。攻撃を受けた様子も無い。しかし、妙に体が重い。重いだけでなく、力が入らないのだ。嘗ての病院で寝ていた時の様に。

 (……何、ガ?)

 会ったのだろうか。『彼』の今迄生きて来た体験の中で、かなり有り得ない現象だった。否。遥か昔に体験しているのだが、自覚出来ていなかった。肩が重く、膝が重く、胸部と腹部に違和感が有る。カチカチ、と剥き出しの歯が成った。明らかに体に異常が発生している。

 先程まで、『彼』がこの肉体に変化してからは、全く支障が無かった体の、初めての不調だった。

 (……動、コウ)

 そう思って、立ち上がる。肉体が重く、動かしにくく、徐々に調子が悪く成っている。しかし同時に、妙に感覚が鋭敏になっていた。特に嗅覚。先程までは普通に悟れた鞠川静香の芳香が、今は強い香水並みだった。

 足取りは遅々として進まず、歩くのにも苦労した頃と同じ程に移動速度が遅かった。体の何かが変だった。その理由は解らない。何より寝たきりの『彼』には未経験だった。しかし、動く事は出来る様で、ふらふらと今迄以上に上半身を動かしながら、『彼』は奥へと進んでいく。

 (――――辛、イ)

 声に成らない呻きを出す。苦しいのではない。何か、体の中から衝動を感じていた。それが、辛いとか苦しいとか言う感情で示されるのだ。苦痛では有るが、痛みは無い。苦行では有るが、動けるのだ。感覚が妙に鋭敏に成り、特に嗅覚が鋭く成り、同時に感情がささくれ立って来る。




 「―― オ     g     イ   ――――」




 口から自然に出た鳴き声の意味を『彼』は理解していなかった。

 その身に起きている変化を理解出来ないまま、『彼』は標的を追って動いて行った。




 気が付けば、東の空が僅かに白んでいた。












 復活! やっと帰ってきました!

 学業の一環とはいえ、40日も投稿出来ないのは、本当に辛かったです。
 これから、バシバシ更新します。
 取りあえず、此れと『境界~』を完結させて、円卓ギアスと、ネギまでしょうか。


 今回は繋ぎ。『起承転結』で言えば、起と承の間です。言いかえれば、高城の説明ターンでした。この先これ以上に多くを、彼女が語る事は、多分無いです。

 主人公の身に一体何が起きたのかは次回。でも、理由が分かったら分かったで、また結果として災厄が降り懸かります。最近、強い奴に効果的なダメージを与える方法を考えてばかりだな。それが無ければチートって詰まらないけれど。

 有瀬智江は、六巻最後の設定集から頂きました。高城沙耶を嫌味じゃ無くて、庶民的にカリカチュアした感じ。この先に出て来るかどうかは、未定です。頑張って生き延びて欲しいですね。

 ではまた次回。

 (9月12日投稿)




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