目が覚めたら白い光が見えた。
『……月七日午前八時九分、急速眼球運動停止を確認』
格好付けて言ったが、天井にぶら下がった環形照明が発光しているだけだ。 大した光景ではない。
『及びGCS意識レベル判定、10ポイントをマーク。 覚醒と判断』
ぼんやりとバスタオルの柔らかな重みを感じていると、妻の声が響いてきた。
今日も舌滑が好調らしく、電子音声が喋っている様に聞こえる。
『おはようございますマスター』
聞き慣れた挨拶が起き立ての頭に染みていく。 六時間も寝ていないらしいが、思い浮かぶのは鮮明な光景ばかり。
市民権も無い俺をマスターと呼ぶ幼馴染の想いを知ったのは、出会いから十年後の夜だったか。
指輪渡して漸く相思相愛だと気付けた時は笑った。 幼少時から惚れ合ってたマセガキ共は笑える程に鈍かった。
そういや、今日は娘の誕生日だ。 祝日と重なっている為、毎年この日は朝からキャンプに行く約束をしていたのだった。
こんな大事な約束も忘れて暢気に寝惚けているとは。
眠気が霧散し、自分の頭の悪さに嘆息する。
「おはよう【SIL-00】。マスターと呼ぶなと何度言えば判る。死んだ妻とダブるんだよ」
――――――守れなかった妻子に詫びねばならないのに。
知らない天井を眺めながら、妻に良く似た AIに挨拶を返した。 同時に顔が歪む。
思念波相手に言葉で返したせいで嫌な現実が聞こえたのだ。 覚えが悪いので最近は寝覚める度に不意打ちされてしまう。
『マスターに対する精神圧迫を感知。 原因となる記憶の廃棄を提案します』
――― 却下する。 つうか聞けよコラ ―――
零距離思念通信の相手は電脳寄生知能【SIL‐00】。
高位医学技師である妻が自らの人格を基に創製した補助AI。 俺の脳髄に住む妻の複製品。
『ならば御自分を責めないで下さい』
故に連想するのは必然。 だが、混同視していい筈がない。
手前勝手な願望で、共に苦難を乗り越えてきた相方を蔑ろにするとは本当に頭が悪い。
脳味噌抉り出してゴミ箱に叩き付けたくなる。
『改善が見られない為、マスターの記憶初期化を提案します』
――― 善処するから止めろ。 何が悲しくて記憶喪失せにゃならんのだ ―――
『彼等に関する記憶素子の数が膨大である為、整合性を保つには全消去の方が適しています』
妻そっくりのキツイ返しに口を噤む。 悔しいが正論だ。
八人加えて百六人。 十六歳の頃から快速特急で増え続ける恥晒しなカウントが遂に三桁台に突入した。
しかも両親が始まりなのだから始末に負えない。
「しかし、また俺だけ生き延びてんのかよ。 見苦しいったらありゃしねえ」
昨夜、人狼に撥ね飛ばされた俺グロックン・サンッチは殉職した同胞の数に自嘲した。
見え透いた誤魔化しだったが、優秀な知性体は黙ってくれた。
……こういう処まで似てやがるから堪らない。
=================== 第零話 プロローグ 出会い ==================
嘆いても死者は喜ばないし悲しめない。 叱られずともそれぐらい判る。
――― コード:ゼロワンオクトーバ。 警戒レベルS。 直ちに現状報告を開始しろ【SIL‐00】―――
判っている癖に軋む心で指示を出し、上半身に掛けられたタオルを引っ掴んで身を起こす。
特に痛みは無い。思考の隅に駆動音が響き始めたが、十年来の付き合いが不快感を解消している。
勝手に感覚が冴えていくのも含め、もう慣れた。
『了解。 システムギアをミッションにチェンジ。 これより本機は設定された非常事態対策行動に入ります』
相方の稼動宣言と同時に、俺も目に掛かった金の長髪を払って前を見る。
すると、買った覚えの無い黒ズボンを履いた俺の足が木目の床を辿り、玄関口を差していた。
視点が低いのは、床に直接寝ていた為。 【銀鎧】と衣類は脱がされ、腰から上はバスタオル以外に何も着けていない。
「……市街地で乱射した馬鹿を見張りも手枷も無しで放置か。 流石だな」
浮かんだ感情を畏怖で誤魔化し、周囲を見回す。 白い壁に包まれた此処は物が少なく中々に広い。
俺の後方、部屋の中央は背の低く四角い机が陣取り、左手の壁は木製ベットが鎮座。
ベッドの奥手は酒瓶だらけの食器棚に手入れの行き届いた台所。
右手の壁には引き戸があり、薄いカーテンが開いたベランダ窓から朝の日差しが差し込んでいた。
高級マンションの一室と云った処か。 無機質な印象もあるが整然としているのは好ましい。
『生体スキャン及びGPS情報検索完了。結果を報告します。
マスターの肢体に治療を要する内外傷無し。治療放棄された心傷以外に異常ありません』
聞こえた報告に、俺は無表情を装いながら上半身に巻かれたタオルを剥がして見る。
少し見辛いが、引き締まった腹筋には染み一つ無い。 薄々感じてたが、無傷らしい。
「本気で異常だな」
不気味すぎて感想が零れた。 人狼にやられた痕跡処か元々あった縫合跡さえ消えてやがる。
脳改造により回復力は格段に上がったが、致命傷が一夜で治る程ではない。
普通なら夢オチ扱いすべきだ。 けれど、左胸を握れば弾力と鼓動が返ってくる。
帰ってこない妻達が痛みを訴えてくる。 コレが夢など有り得ないしアレは夢でも有り得ない。
『現在座標は【GOD】とのアクセスに支障がある為、確認できず。 従って、該当エリアは一つしか有り得ません』
続きの報告で自分の状況を思い出してしまい、軽く欝になりながら考察を打ち切る。
此処はそういう街だ。 太陽系全てを監視している【GOD】にすら認識させないのが禁忌の街と呼ばれる所以。
地獄以上の未開土地、“ジン街”に身一つで残される等とは悪夢以外の何者でもない。
『良かったですね。 悪夢なら死なないんでしょう?
本機はこれより無意識下領域に沈降し周囲警戒に入りますので、目が覚めましたら教えて下さい』
端然と言い切り、思考から気配が消えた。 阿呆な妄言を引用されてしまった俺の方も、息を吐いて気を引き締める。
説得を跳ね除け、自分の意思で来た以上は自業自得だ。 流石に覚悟くらいはしている。
上半身にバスタオルを巻き付け、脇で結んだ結び目が解けないか確認し、腰を浮かそうとすると、
「おっ? 起きてるじゃんか」
間延びた声が真後ろから聞こえた。
「ッ!?」
戦慄と共に振り返れば、酒瓶の腹。
「ハロー」
俺の鼻先で静止した瓶の後ろには、右手を仕舞った黒ズボン。
息を飲んで視線を上げれば、瓶の首を掴む左手の後ろに紅白斑の奇天烈な半袖カッターシャツ。
「……おはようございます。 本日はお日柄も良くて何よりです」
左胸を中心に広がっている赤い染みが返り血である事に気付き、勝手に口が動いた。
喋りながら更に見上げると、此方を見下ろす黒い双眸と目が合う。
東洋風の黒い短髪の下には予想通り、顔面の左半分だけが笑う奇怪な表情。
「おっ、オ客さんって外人なのに喋れるんだ。 凄いね」
其処には人狼【独狗】を二つに裂いた少年が立っていた。
洗顔位はするらしく半笑いから血化粧は落ちている。 その癖、服を着替えないのは洗剤が勿体無いとでも思っているからだろうか。
最鋭の索敵機能付きの俺が背後を取られたのは初めてだが、どうでもいい感想しか出てこない。 怨敵の死に対しても同様だ。
『一ミリセック前まで次元認識センサーに対象の反応無し。 暫定呼称、【少年】をSSSレベル相当の危険生物と認識。
【少年】から魔族因子反応、聖剣反応、駆動波長、全て感知できず。【少年】を人類と認識』
不敗の警戒網を潜られた動揺もなく、【SIL-00】が瞬時に診断。
第三世代量子解析学に基く高速検査は魔獣を片手で狩る怪力の持ち主を人間だと判定した。
「ん? なに変な顔してんのオ客さん。 オ酒が珍しいの?」
眉を顰めた俺をどう思ったか、自分の表情を棚に上げた少年が瓶を振る。
見れば、水音を奏でるボトルのラベルは俺の元上司が好きな赤ワインの物だった。
「こうやって開けるんだよ」
言葉と共に硬い音。 眼前で瓶の首が千切れ飛び、傍のゴミ箱に落下した。
冷霧を放つ断面は折り畳まれた人差し指が塞いでいる。 どうやら指一本で陶器を千切ったらしい。
「……そっか、知らなかったよ。 それより助けてくれたみたいだな、ありがとう。この恩は忘れねえ」
適当な報告をした AIのメンテは後回しにし、頭を下げる。 脅威を感じている分、口から出たのは月並みだが素直な内心。
化け物の血に塗れた子供が傍に居るというのに、冷静に対応できたのは餌の境地と云う奴だ。
祖国にて総計四十七名の【銀鎧】武装者を惨殺し、【金鎧】の出動までもが大真面目に検討された人狼【独狗】。
語り継がれし月夜の怪物を瞬殺できる奴に抵抗できる等とは自惚れていない。
「だってオ客さんでしょ? ロボットっぽい服着てたからオ客君だと思ったけど、良く見たらオ客さんだったからね」
声が遠い。 頭を上げると、中央の机の前で少年が胡坐を組んでいる処だった。
何時移動したとか云う以前に、机上に現れた二つのコップの意味が良く判らない。 さっき見回した時は室内の何処にも無かった。
「飲むよね? ていうか知ってる? この机“こたつ”なんだって。 今は無いけど布団掛けたら猫が丸くなってね。
その猫を鍋にして温かくなるんだって近所の人が言ってたよ。 あっ、ていうか」
怪奇現象に驚く間もなく、妙な薀蓄が始まった。 雑談に流された情報、俺がオキャクサンだった事が助けた理由らしい。
人違いか何かだろうか。 身に覚えが無い俺は迂闊な突っ込みはせずに立ち上がる。
「ていうか助けてないよ。 オ客さん死んだからゴミ袋に入れて捨てたんだけどさ。
掃除終わって帰ってきたらオ医者君がソレ持ってきてね。 オ客さんを生き返らせて置いてったんだ」
思わず足が止まる。 間延びた発言者は手元に視線を落とし、ボトルをコップへと傾けていた。
顔面の左右で表情が違う為、彼が何を考えているか全く判らない。
「ヒトのオ店で何してんのって聞いたら『うぜえ。こいつやるから餓鬼は寝ろ』だって。
あと、集めたゴミ袋全部燃やし……あれ?なんか言ってたけど、また忘れてるや。
とにかく君がオ客さんだったからオ医者君は生き返らせたらしいよ」
半笑いの少年が顔を上げる。 二つのコップは赤い液体で満ちていた。
「あっ、言うの忘れてたよ。 いらっしゃいませ、オ客さん。 座って飲んだら?」
声を掛けられ、硬直が解けた。困惑しながらも何とか歩き出す。 けれど、再起動した足取りは覚束無い。
善意の無償救助などと云う美談は期待していなかったが、今の説明は根本も覆している。
「生き返らせた? 魔術と科学………他の連中もか!?」
寒気を感じながら少年の正面に座ると、仲間の生存率の高さに気付いて身を乗り出した。
悲惨な死に様ばかりだったが、此処は禁忌の街だ。 自分の身に起きた奇跡を考慮すれば、あの惨状でも一粒程度の希望は残る。
「ん? あっ、オ医者君が後で病院に来いってさ。 燃えカス渡すらしいよ。 遺骨っていうんだっけ? 八人分なんだって」
無論、夢想に過ぎなかったが。
「……そうか。そんな絵空事が在る筈もねえか」
虚脱感に襲われ、言いたくもない正論が漏れた。
仲間をゴミ呼ばわりされて冷静に対応出来たのは、日頃から散々言って下さるご近所様達のお陰だ。
如何に悲惨な結末に至ろうが、私怨に生きた暴力警官ならば当然の報い。 それより、自分の心配をすべきだろう。
「そりゃあ絵は空には無いよ」
独特な返しを他所に、思考に没頭する。
火途野愚笠を旗頭とする学徒達の研鑽により、現代医術は心臓が破裂した者を急患扱いするまでに発展した。
無論、搬入時の状態によって生還率は大幅に変動するが、呪いや脳髄損傷が無い場合は後遺症さえ容認すれば大抵どうにかなる。
本当に忌々しいが、俺の祖国では首から下をなくした者用の蘇生法さえ検討されている程だ。
だが、死人が生き返るのは異常だ。 心臓の扱いが軽くなっただけで、脳死からの生還は未だに絶望的な領域にある。
つまり、死者蘇生の法はこんな世界でも異常扱いされる禁術以外に有り得ない。
世界制覇に王手を掛けていた帝国【ルゼルム】が不死の戦奴を作る為に考案したエリクサー。
摂理を冒涜する魔大公【℃螺魂】が古代英雄隷属化の為に活用した死霊魔術。
クローンボディに魂魄を移植する“引継ぎ人”、聖女十人の血肉で練った霊薬、etc。
この異常なる例外達は何れも等価交換に基づく正当な対価を必要とする。
言い換えれば、禁術を施された死者達は生命に匹敵する何かを無くした上で、二度目の苦界を歩む羽目になる。
だが、行き倒れ相手に禁術を施術するのも考え難い。 コスト云々以前に、死神がまた発生しかねない。
故に、少年の観察が適当だったと祈る余地はある。 そもそもの問題として、この少年が赤の他人の為に……。
「ねえ、飲まないのオ客さん? ていうか、なんで唇噛んでんの?」
考え込んでいたら指摘を受けた。唇を意識したら歯が食い込んでいた。滲んだ血を拭おうとしたら拳を握っていた。
無意識に恩人を睨んでいた様だ。 阿呆か、本当に。
「……悪いな。気が立ってたらしい」
拳の力みは直ぐに抜けた。 逃避代わりの考察を止め、差し出されたコップを受け取る。
血の様に赤い液体を見て一瞬だけ飲んで良いか迷う。 が、結局は口を付ける事にした。
脳内から警告が聞こえない事もあったが、単純に飲みたい気分だった。 それに今日の日付の事もある。
「その御医者様には今度会いに行かせて貰うよ。 ついでに、その人の好物や趣味とか知らないか?」
こういう日だけは健康に煩い妻達の小言が無かったのだ。 数少ない若妻との晩酌の光景を思い出しながら、一気にグラスを傾けた。
「知らないよ。ていうか木が立ってたって何? もうモンキッキー君に会えたの?まだ夏なんだけど」
「何をいってんだっっずうううウウ!」
そして、吐いた。
俺が履かせてもらってる少年の予備らしきズボンにも掛かるが構ってられない。 身を折って咽せながら吐きまくる。
ラベルに騙された。 中身替えてやがる。 これ赤ワインなんかじゃねえ。 クソ不味い何かだ。
「なんつうモンを……」
文句を言おうと少年を見れば平然と飲んでいた。 味覚障害者らしい。 言葉が続かない。
考えれば、胡坐を組んでいる状態でさえポケットから右手を出さないのは流石に変だ。
「呑めるよ?」
少年が空いたコップを左手で振りながら言った。 その不自然な表情を見て、俺は思い出してしまう。
勇者到来の日まで人類が生き延びた最大要因を。
人でありながら生身で魔族と闘っていた子供達の特徴を。
狂った賢人によって兵器である事を強要された【染災孤児】の伝説を。
争う為だけに製造された彼等の中には、戦闘に不要な機能を削って巨竜並みの膂力を得た者まで居るという。
一見して普通の人間に見える戦の申し子を識別する特徴は右手首に彫られた刺青。 そして、其の寿命は最長でも……。
「あ、悪い。つい口が滑った」
内心を隠せて言えたか、自信は無い。
「気にはしないけど凄い滑り方だねえ。 口に入れた物を吐くなんてさ」
身勝手な大人の視線を浴びる少年は左手でボトルを掴み、残っている中身を飲み干した。
凄まじい事に一息で。
「まあ判るけどね。 さっきも味見したけど本当に不味いねコレ。
ていうか営業スマイルってキツイね。 オ医者君に言われたけどキモイしさ」
そして、ポケットから出した右手の甲で口元を拭った。 猫のように握った右拳の下には傷一つ無い。
表情筋も自然になった。
「不味いって判ってるなら出すんじゃねえよ!飲むんじゃねえよ!こんなクソ不味いモン!
それに営業スマイルって。あーもうすみませんでしたあ!!」
「商品だからね。ていうかなんで謝ってるのさ? 許すけど」
思わず出た罵声を少年は受け流して笑った。 “満面の笑みで”。
「ん?なんで黙ってんのさオ客さん」
「……別に。 あーっと、とにかくお前が居なけりゃ食われてたんだ。 改めて言うわ」
急に切り出したのは、照れ隠しだ。 此の少年、左右が揃うと随分と印象が変わるようである。
いい年こいて見惚れていた俺は“こたつ”から離れ、背筋を伸ばして正座した。
「助けて下さりましてありがとうございます。 この御恩は一生忘れません」
そして、首の後ろ側を見せるように頭を下げた。昔、同僚に習った“DO GE ZA”だ。
“チュウゴク四千年の歴史において宇宙最大の感謝法”とやらをしながら赦しの言葉を待つ。
……。
暫く待つ。
……。
「ん?なんか言ったオ客さん?」
また声が遠い。 首を後ろに回すと、右手をポケットに戻した少年が引き戸から出て来る処だった。
本気で気配の無い少年は左手の二本指でシャツを摘まんでいる。 汚れているから、雑巾代わりだろう。
開いた戸の奥に大量の学生服が掛けられたハンガーラックが見えたが、上半身バスタオル一丁の俺に恵む気も無いらしい。
「……ありがとうございます。 ところで、お前何者なんだ?
俺はグロックン=サンッチだ。 家内と娘を殺しやがった人狼がこの街に逃げてきたんで八つ当たりに来た」
タイミングを外されながらも立ち上がる。 ズボンに掛かった汁がやけに粘ついたが、無視して少年の方に向かう。
「フーもワットもバイトだよ」
全く説明になってない返答も慣れた。 答えてくれるから気は楽だ。
「職種は?」
「このオ店でオ酒を売ってるんだ」
酒場で働いているアルバイトか。 考えながら少年の元に着くと違和感。
そういえば、さっきも聞いた言葉に疑問を放つ。
「ここは酒場なのか?」
「そうだよ」
スムーズに即答されたが、多分違う。
“ジン街”は未知の異界だが、一週間近く歩き回って人間寄りな文化である事は確認している。
レジ処か椅子の一つも見当たらず、ベッドが堂々と置かれているこの部屋が業務用スペースだとは思えない。
まあ今は祝日の朝だし、別室で営業してる可能性もあるので断言までは出来ないが。
「まっ、今日もオ客君来ないけどね。 折角、二十四時間営業なのにさあ」
やっぱり違った。 一向に開く気配の無い玄関扉を見ながらの愚痴を聞いて良く判った。
ちなみにバイトと云う台詞に疑問は無い。 “ジン街”を冠に付けた肩書きに常識を説く程、間抜けな話も無い。
「なんで、あんなところに来たんだ?」
「近所で騒いでたからオ招きしにね。 そしたらワンコ君が居たんだ」
「近所? あの辺りは無人・・・ん?」
立った事によって視点が変わり、ベランダから見える光景も変化。
此の部屋は十階程度の高さにあるらしく、煌びやかな繁華街が一望できた。
その手前側に焼け落ちたビルが並ぶ大通りがある。 燦々とした街並みは見覚えがある。
嫌な事に、六割方は俺の仕業だ。
「ココって人狼と闘ってた大通りの近くなのか」
「そうだよ。 此のオ店が出来てから皆引っ越したけど。 何でだろうね?」
紅白斑のシャツを着こなす少年が不思議そうに首を傾げた。 反動で鎖骨の辺りに赤黒い肉片が付着しているのが見えた。
「……何でだろうな?」
一夜明けたのに消滅しない悪夢の欠片から目を逸らし、黙考する。 人狼の情報を集める為、聞き込みはしていた。
完全武装の俺達に驚きもしなかったゴロツキ達を信じるなら、この区画は最近出没し始めた意味不明な怪物の住処だそうだ。
其の情報に俺達は【独狗】の巣だと早合点したが、本当は……。
「ねえ」
重要な事を思い出した瞬間、愛らしい顔が視界を埋めた。
至近距離まで少年に接近されていた。 身長の関係上、上目遣いで見上げられる形になる。
吹き掛けられた吐息に思わず身を引くが、相手もその分前進してきた。
「そんなことよりさ」
やけに声が艶っぽい。黒い短髪から仄かな香りが漂い、性別を誤解していないか不安になる。
“しな”まで作ってやがる。 だが、大人な俺は此の程度では揺るがない。
『マスターの心拍数、急激に上昇中。 典型的な興奮状態にあるようですが?』
俺だけに聞こえる冷たい指摘を無視し、少しも揺るがない俺は余裕の表情で言葉を返す。
「何だ。 昨日の事なら俺が聞きたい位なんだが」
「オ酒代払ってよ」
「金取んのかよおおおォォ!! あのクソい飲み物でえぇ!?」
色気のない言葉に仮面が崩れた。 少年は痴態を嘲弄するかのように続ける。
「半世紀くらい寝かせたワインのオ値段がする濁酒が飲めるって言ったじゃんか。 あっ、死んでたっけ? 関係ないけど」
しかもボッタクリだ。 ……濁酒?
「アルコール入ってなかったぞアレ。 いや、味わってないけどさ。 匂いもないし」
「アルコール? 何で消毒液を入れるのさ」
「は?」
「ん?」
至近距離で首を傾げあう俺と少年。 まさか、先程の赤汁が“ジン街”にとっては酒なのだろうか。
いや、験担ぎに同僚達は飲んでいたが、普通に美味しそうだった。
そういえば、もうあいつ等と騒げないんだっけか。
お前も飲めよと絡んできたウワバミ共の笑い声を思い出し、一瞬だけ胸が痛んだ。
「……まあいい。命助けて貰った上に世話までしてもらったんだ。 そのくらいは払わせてくれ」
「毎度ありぃ」
さっぱりしている癖に粘着質な笑顔から現実に逃げると、嬉しそうに少年が笑っていた。
つられて俺の口元も緩む。財布の紐も……。
「あっ。 けど、今オレ金持ってないぞ」
「えっ? 無銭飲食?」
緩んだ俺の口元が引き攣る。 少年の驚いた顔は中々に愛嬌がある。
だというのに、悪寒が消えてくれない。
「いや、情報集めと景気付けにやった宴会で全部使っちまったし。
あ、俺達が着てたパワードスーツがあるだろ。 多少、壊れたがアレをバラ売りすれば金になるぞ」
冷や汗を掻きながらの返しに嘘は無い。 悪名高き特殊怪魔対策室も技術力だけはある。
まあ私物ではないが、未成年の頃から危険手当も貰えずに扱き使われてきたのだ。スクラップなら退職金代わりに貰っても罰は当たるまい。
「ゴミは全部掃除したってば。ていうか現金じゃないしね。 まっ、無いなら仕方ないか」
人狼追討中止命令を拒絶した脱走犯唯一の金策は笑いながら却下された。
雑巾代わりのシャツが床に落ちた。 空いた少年の左手を見たら、なぜか引き裂かれた人狼の虚像と重なった。
「身体で払ってもらうから気にしなくて良いよ。 結構、美味しそうだし」
間延びた宣告。 緩やかに少年の左手が挙がり始める。
勘だが、怒っていない気がした。 昨日もこんな感じだった。
「待て待て待て待て。 そうだな、皿洗いくらいはやれるぞ」
「何で皿洗い? コップしかないよココ?」
咄嗟に繰り出した命乞いが、まさかの成功。左手が止まった。 俺も少し停まった。
「は?」
「ん?」
再び、首を傾げあう俺と少年。
微妙な間。 間抜けな硬直を暫くやっていると、奇抜な推測が生まれた。
敵意を感じない事も助けになったのだろう。 妙な余裕が出来た俺はあろうことか少年をジト目で見ながら問いかけた。
「お前、ここで働いてるんだよな?」
「そうだよ」
「店長は何処だ?」
「雇ってないよ。 募集したけど誰も来ないんだ」
アルバイトですらねえのかよ、お前。
「……もしかしてさあ」
「何?」
「お前、酒場っていうより飲食店がどんな店なのか詳しい事知らなくて。
それっぽい事しようとしてるだけじゃないのか?」
荒唐無稽な推理。 言われた少年はキョトンとしてしまった。
「何で判るの? もしかして、オ客さんって酒場がどんなのか知ってるの?」
そして一泊置いた後、純粋無垢な視線で見つめられたというのだから苦笑せざるを得ない。
本当に生き残る事に関しては悪運が働きやがる。
もっと有意義な事に働けば良いのだが。
―――――以下、蛇足――――
「ていうか、さっき家内とか言ってたけど変じゃない? 確か、オ嫁さんって意味だよね?」
俺が“こたつ”を拭き終えて暫く経つと、ベッドに寝そべった少年が薄い文庫本を読みながら尋ねてきた。
ちなみに少年の半笑いは復活している。 着替えてもない。 乾いた血糊がベットに付着しても気にならないらしい。
問い掛けられた俺の方はタワシと少年の服―――頼んだら簡単に貰えた―――を借り、汚したズボンを流し台で洗っている。
中々落ちない染みに苦戦しながらも、意外に話を聞いていた少年に言葉を返す。
「そういう心算で言ったが、なんか変なトコ有るか? 覚えたてなんで間違ってたら悪い」
「君って女の子じゃんか。 オ婿君じゃなくてオ嫁さんでしょ?」
――――――。
瞬間、俺の手が止まり、蛇口から落ちる水の音とページが捲られる音が静寂を支配した。
「……成る程。さん付けに変わったのって、そういう理由か。確かにヘルム被ってたら顔は見えんわな」
どうでもいい納得と共に、タワシを持つ右手が再起動。 水道水の冷たさを感じながらズボンを擦りだす。
しかし、意識は過去へと跳んだまま。 少年の言葉、いや目覚めの時から痛感していた生涯最悪の悪夢へと。
「さっき、家族が人狼に殺されたって言ったよな」
「言ってたね」
本を読みながらの生返事が遠く聞こえ、代わりにあの日の悲鳴が聞こえてくる。
――――――満月の夜、妻の研究所に向かった俺が見たのは無数の警備兵の屍。
「そんときにな」
――――――絶叫しながら妻のラボに入ると、待っていたのは【銀鎧】を着たまま死んでいた妻と娘の生首を齧っていた人狼。
「娘と一緒に、俺の体も人狼に食べられちまったんだよ」
――――――吼え猛る人狼は呆然とする俺の左胸に一瞬で牙を突き立てた。
気付いたら喋ってた。
妻子の血に染まった奴の笑みを思い出し、狂いかけるが舌は止まらない。
過去を知る【SIL-00】は咎めもせずに喋らせてくれる、首から下をなくした者に対する蘇生法を。
未だ、電脳の持ち主以外には不可能とされる検討段階の芸当を。
「でもな、俺は少しだけ食べ残されててな。 俺の脳を……」
――――――そして、パワードスーツを剥くのが面倒だったのか、妻は……
「へえ、あっそ」
微かにくぐもった声に、俺は回想を止めて頭を上げる。
視線の先にはベランダの縁で屈んでいる少年の横顔があった。 なぜか文庫本を口に咥えていた。
「じゃ、近所の人に漫画返してくるから洗っててよ。 あっ、それと後でオ店の準備始めるよ」
サンダルを履き終えた少年が立ちながら言った。 左脇にも大量の本を挟んでいた。
左手の五指の隙間にも三冊ずつ挟まっている。 なのに右手はポケットの中だ。
「よっと」
そして跳んだ。 あっさり柵を越えた。 直ぐに姿が下に消えた。
二秒後、どでかい音が響いた。 恐らく、車の屋根にでも着地したのだろう。
……。
そんな少年に俺は口を開けて目を丸くした。 そして何とも言えない感情に襲われ、苦笑した。
此処まで自由すぎると笑うしかない。
「貸してもらったモンを咥えんなよ」
『着目点は其処ですか? 此処の高……。 いえ、心配は不要ですね。
というか、三億も吹っ掛けられておいて感謝しないで下さい。 一生を束縛される金額ですよ』
「ローンは組んでくれるらしいし、命が付いてくるなら良心的じゃねえの?
……確かにあんなクソ不味いので良くボレるなぁ、とは思うがよ」
毒されたコメントに【SIL-00】が突っ込んだ。 だが、妻に似た知能体も毒されているのかキレが無い。
今更だが、同じ声同士が会話している現状を考えてしまい、苦笑が深まる。
思念波で会話する気にならないなんて、妻子が殺されてから初めての事だ。
「まあ、何にせよ此の不景気に雇ってくれるんなら感謝するべきだろ。 多分」
様々な意味で苦笑しながらも蛇口を止める。 タワシも捨てて、ズボンを持ち上げる。
赤い汚れは全く落ちてない。 もしかしたら、勝手に落ちるんじゃないかと不安になってきた。
『左様ですか。 ちなみに、先程の赤い液体の分析は終わっていますが、報告致しましょうか?』
「……勘弁してくれ。予想が当ってたら本気で死にたくなる」
嫌な想像をしてしまった俺は阿呆な一人芝居を止め、前を見た。
其処には若い女が居た。
――――――いや、まあ今も死にてえんだけどよ。
艶のある金髪をポニーテールで纏めている西欧美人だ。 苦笑しているが、端正な顔立ちは育ちの良さを感じさせる。
おまけに胸も大きいが、意外と学ランが似合っている。 背が高いからだろう。
自慢の妻だ。
最近は鏡でしか見れなくなったのが残念でならない。