それはおよそ戦いと呼べるものではなかった。ただただ一方的な蹂躙に過ぎなかった。或いは、そう、漁だ。魚群を追い込んで一網打尽にする漁のような、戦いとはおよそかけ離れた何かであった。 しかしその蹂躙の命令者にこの戦いが何だったのか尋ねてみれば、彼はこう答えるだろう。『タダの自衛と、そして実験だった』と。 彼にとって、そこで犠牲になった者たちの命など一顧だに値しなかった。 そもそも身の程を知らずに挑んできたのは敵対者達であり、彼は自衛とそのついでの実験をしたに過ぎなかった。 あるいは逆で、彼にとっては実験のついでに自衛を行っただけだったのかも知れない。 敵対者をそうなるように追い込んだのが彼の商会であり、敵対者をそうなるように惹きつけたのもまた彼の商会であることなど、些細なことだと認識していた。 この戦争はその記録が驚くほど少ない。どの歴史書にもただ一文『東方都市国家連合は一兵たりとも戦場から帰還することが無かった』とあるのみである。 それは戦争の参加者の一方が完膚なきまでに――正に一兵残さず――壊滅したためであり、蹂躙した側がヒトに非ざる者達であったからである。 一部の高官を除いて、ヒトの側に戦争の詳細が伝えられることはなかったのだ。そして真実を知った者も、その悍ましさに口を噤まざるを得なかった。 狂人。矮人。異形。蟲。 それに対するは、ヒト。 御伽話ならば、ヒトが勝つだろう。 だが現実は何処までも残酷で、無慈悲である。否、彼らが、彼らこそが残酷で無慈悲であったのだ。 この戦争は後に、実行者である“ウード・ド・シャンリット”の名と共にハルケギニア歴史上有数の怪事件として語り継がれる事になる。 詳細不明なこの戦争は巷間に様々な憶測を呼び、後の世の多くの創作の材料になったが、真相は闇の中に葬られた。葬らざるを得なかったのだ。 残ったのは、数々の不気味な噂のみである。 最もポピュラーな噂話は、“ウード・ド・シャンリットは人間ではない”という話である。 エルフか、吸血鬼か、はたまたそれよりもっと悍ましい何かだったというのだ。 その噂を口にした者はどのくらい本気にしていたか分からないが、それは実のところ、殆ど正解であった。 彼はその身体も魂の有り様も、ヒトのものでは無くなっていた。 蜘蛛の祭司。 アトラク=ナクアの巫覡。 ――それがウード・ド・シャンリット。シャンリット伯爵家の長男で、当時の年齢は28歳の片輪者。その10年前、不能と不具を理由に伯爵家を廃嫡されている。廃嫡後、アトラナート商会というトリステイン中のあらゆる村落に出店している奇妙な商会の会頭に収まった。 後に“ハルケギニア史上最大の異端”と呼ばれるようになる彼が、その異常性をハルケギニア全土に示した最初の事件――それが“シャンリット防衛戦”である。◆ 蜘蛛の糸の繋がる先は 18.シャンリット防衛戦・前編 ~ツインテールは海老の味~◆ トリステインの王宮では蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。 当然である、国境を接する大国ガリアから宣戦布告を受けた上に、ガリアとは逆の国境を守る領地が時機を合わせて反逆をして強制二正面作戦というわけである。「おやおや陛下お急ぎでございますか?」 廊下を大勢の家臣を引き連れて歩くトリステイン王に気軽に話し掛ける男がいる。 奇形のように小さな体躯に、人を食ったような化粧。 道化だ。「急ぎも急ぎだ。戦争だ」「おやおや戦争! 人は皆日々生きるために戦うものでありますれば、平時もまた戦争! 生存を賭けた闘争! 何を特別に急ぐことがありましょう!」 矮人の道化は王の横を魔法でくるくるとデタラメに飛び回りながら意味のない繰り言をする。「今日は貴様の戯言に付き合う暇はないのだ」「何をおっしゃいます、きっと万事何も問題なく収まりますとも! 陛下は天運に愛されておりますれば!」「ええい、止さぬか」 無聊を慰めるために王宮に雇われた道化を追い払いながらトリステイン王は考える。 ガリアと都市国家の挟み撃ちについてである。 そもそも何故そのような事態になったのか。 基本的にはここ数年の不作が原因であり、穀物が多くあるトリステインに『じゃあ奪いに行こうか!』となったのが原因である。 いや、トリステインも不作ではある。不作のはずだ。各地の領主や代官からは不作になりそうだから援助をお願いしたいという旨の訴状が届いていた。王政府もそれらを受けて領外に穀物が流出しないように対策を打ったのだ。 だというのに市中の穀物価格は平常時と変わらず暴騰も暴落もせずに安定している。まるで何かに操作されているかのようだ。 国内の穀物商は国内で穀物がダブついているのを受けて、他国の足元を見て売り捌いたため、非常に大きな利益を出している。それに応じた財貨も蓄えられている。 つまり他国から見れば、トリステインは非常に魅力的な、丸々と太った金のガチョウのなのである。 ガリアなどの大国に比べれば貧弱な軍隊。さらに、理由は不明ながら東方の都市国家群も団結して大挙して国境線に押し寄せている。奴らはバラバラで纏まらずいがみ合いをしているはずではなかったのか。タダでさえ精強とは言えない軍隊を2つに分けなければならないのだ。 おそらくガリアと都市国家群は共謀しているのだろう。領土を得るよりも、恐らくは捕虜を得ての身代金や勝利を得ての賠償金が目当てなのだろう。 王が会議場に入場し、席について緊急の会議が始まる。「陛下。早急に王軍を編成せねばなりません」「分かっておる、元帥。諸侯軍の招集はどうなっておる?」 王宮の会議場、緊急招集に応じた諸侯、閣僚、軍人がずらりと並んでいる。「その件ですがシャンリット伯爵から報告と連絡が上がっております」「今はあそこが東方都市国家群との最前線になっておるのだったな。申せ」「は。“援軍は不要です。侵攻勢力は独力で駆逐致します。王軍は防衛戦ではなく逆侵攻の準備をしていただきたい。その際の兵糧の負担も致します。またシャンリットからクルーズ領(トリステイン-ガリア戦線)へ戦力の抽出を行っております。トリステインに栄光あれ”……とのことです」「……? 大言壮語を吐きおる。信用できるのか?」「少なくともガリア方面への派兵は本当です。シャンリット家の旗が掲げられた巨大なフネ――目視で確認できた範囲では、300メイルほどの大型航空艦が2隻とそれに付き従う20隻弱の30メイルほどの駆逐艦――と、100メイルほどの竜型幻獣を中心とした無数の飛行軍団が、王都を越えてクルーズ領へ向かうのが確認されています」 その船団の規模に議場が騒然となる。あまりに大きすぎる規模だ。「彼らはつい数時間前に王都近郊の空を“戦時の非常時である。援軍に行くための近道だ”と称して猛スピードで通過していきました。彼らが裏切る気でしたら、その時に王都は瓦礫の山と化していたでしょう」 あからさまな示威行為である。「何故そのような巨大な戦力が高々一伯爵家にあるのだ?」 トリステイン王が皆の感じていた疑問を口に出す。 それに元帥が答える。「……えー、先程の報告に付いております想定問答集によりますと――」「なんだそれは」「“こんなこともあろうかと、トリステイン閣僚の皆様の疑問にお答えする一冊”という副題になっております。それによりますと、船の方は“アトラナート商会で試験的に建造中であった新型艦を徴発したものであり、当家の軍備として用意されていたものではありません”とのことです。巨大幻獣の方は“嫡男ロベール・ド・シャンリットのペットであり、王政府に届け出は出しております。その他竜騎士は通常は商会の護衛や竜籠に使役されているものを戦時徴発したものであります”とのこと」 あれだけのモノを臨時徴発で済ます気かと、シャンリット家の面の皮の厚さにシャンリット家派閥ではない閣僚は憮然とする。読み上げた元帥も憮然としている。 だが確かに国家の一大事であることは明白であり、既に動き始めたシャンリット家の諸侯軍を止めることも出来ない。「何にせよ、今はシャンリット家の忠誠を信じるしか無いという訳だな。元帥は引き続き王軍と諸侯軍の編成を急げ。我らが国土を守り、反逆者を滅ぼすのだ。シャンリット伯にだけ手柄を取らせるんじゃあないぞ」「はっ、御意に」 会議は解散し、王は会議場を後にする。 扉を出たところに道化の矮人が陣取り、色とりどりの魔法の火の玉でジャグリングをしていた。 道化は火の玉を火の粉に分解して周囲に雪のように散らすと、トリステイン王に向かって話し掛ける。「ほらね、陛下。何も急ぐことはなく、何とかなってしまったでしょう?」◆ シャンリットと隣接する領地との境、そこは東隣の領が東方都市国家に寝返ったためにトリステインの最前線となっていた。 鬱蒼としたシャンリットの森の中に作られた太い道を軍隊が行く。深い森は不気味に静まり返っている。鳥の鳴き声も聞こえない。 かつては山ほど存在した亜人や幻獣は姿を消しており、街道が整理されたシャンリットの土地は東方軍の進軍を阻むことはなかった。 その代わりにその圧迫するような不気味な気配が軍団を絞めつける。確かに鳥の声はしない。しかし、そこら中にもっと小さな生き物の気配が溢れている。虫の声、小さな生き物が動くことによる葉のささめきが周囲にじっとりと満ちている。ほら少し目をやれば、大きな蜘蛛の巣に小鳥が絡まり消化液を注入されてドロドロに溶けた内蔵を巣の主に啜られているのが見えるだろう? 下草ががさがさと蠢くところを見れば、蛇がサソリの鋏に捕らえられて毒針を刺されるのが見えるだろう? ぶんぶんと五月蝿い羽音がする先を見れば、熊を刺し殺したスズメバチたちがその獲物の肉体が見えないくらい大群で死体を覆ってぎちぎちと肉を食いちぎっていくのが見えるはずだ。「随分と楽に進めるな」「街道がよく整備されているお陰ですね」 指揮官らしき男とその従卒が会話をする。何か話していないとおかしくなってしまいそうだ。 確かに彼らが言うように街道はよく表面が固められており、馬車の車輪が嵌るような凹みや泥濘も存在しない。 シャンリット伯爵嫡男は商才に溢れると東方都市まで音に聞こえていたが、確かにそうなのだろう。 関税の撤廃や街道の整備によって、シャンリットの物流や人の行き来は活発になり、そのお陰で関税を廃したのにも関わらず税収も増えたのだという。「商売人としては天才でも、軍人には向いてなかったということか」 東方軍は幾つもの都市国家から抽出された諸侯軍による混成部隊である。 この男はそのうちの一つの軍を任せられている司令官だ。 その口調はウードに対する嘲りを、まるで隠そうとしていない。 貴族とは闘う者。商売人としての顔を持つウードは、貴族社会では軽んじられてしまう傾向がある。「道を整え、関所を廃す。大いに結構。お陰で我々は労せずしてここまで進んでくることが出来たわけだ」 関所を廃したことで街道で敵軍を塞き止めることが出来ず、領境から程近い街まで、彼らの進撃を許してしまっている。 このまま最初の街を落とし、橋頭堡を確保すれば、シャンリットの中心まで一気に攻め入ることも可能だろう。 領境の小さな町とはいえ、大軍を休息させることが出来る拠点を得られるのは良いことだ。こんな奇妙な森の中で休憩するなど耐えられない。 運が良ければ、関所が無いためこの進撃を察知する伝令も走らず、トリステインには東方軍の動向さえも知られていないとさえ考えられるが……。(流石にそれは望み過ぎというものだろう) 司令官は頭を振って希望的観測を追い出す。戦場では何が起こるか分からない。希望的観測は自分の首を締めるだけだ。 ガリアの後ろ盾。トリステイン国境の貴族の寝返り。そして営々と準備を重ね、東方都市国家の全勢力を結集した軍隊。 そして。「まさか守り竜様まで投入するとはね」 上空を舞う、巨大なドラゴンの影が森の木々の隙間から見える。頭から突き出す大きな二本の角が印象的な巨竜だ。そのドラゴンは東方都市国家で一番巨大な国家の王族の使い魔だった韻竜だ。数百年前に主が寿命で死んだ後でもその都市に留まり、その知恵を貸し、また絶対の守りを与えてきたのだ。 この戦争を提案したのも、実はあの守護韻竜であるという話だ。彼に付き従う火竜や風竜も百匹以上は空を舞っている。 これだけあれば、トリステインの一地方を落とすことくらい訳はないだろう。 そしてシャンリット家を討ち、アトラナート商会の権益を抑えることが出来れば、ゆくゆくはトリステインの首根っこを抑えることすら可能であろう。 アトラナート商会の影響力を、東方領の諸侯はそれだけ高く評価していた。「しかし、司令。寝返ったとこのボンボン、意気地なしでしたね。『戦場になんて行くものか。何があっても、あのウードを敵になんて回したくない』だなんて」 内心ではしかしこの場まで来てみれば、東方軍の誰もが“ウードを敵に回したくない”と言った貴族の様相に納得していた。 ああ、ここは確かに不気味な場所だ、攻めたくないのも良く分かる、と。「ん、そうだな。何をそんなに恐れているのか知らないが。だが、あの怯えっぷりは異常だったな」 だがそんな“不吉な予感”なんてものを表に出さないくらいにはこの指揮官の男は用兵というものを理解していた。指揮官が怯えれば、兵はたちまち弱兵と化す。 国境を治めていたトリステイン貴族の息子は、魔法学院でウードと同じ学年だったのだという。出兵に当たって異常なまでに怯えており部屋に閉じこもって出てこなくなっていた。 その怯えた様子で兵を率いられても兵士の士気に関わる、ということで置いて来たのであった。後方で輜重・補給任務に当たらせている。 閉じこもる時の彼の捨て台詞曰く。『“狂気”のウードと何か戦ってられるか! 俺は一歩もここから出ないからな!』 しかし分かっているのだろうか。東方軍が勝っても、戦争に出ないような臆病者の貴族は重用されないし、負ければトリステインに対する国家反逆罪で一族郎党皆殺しとなる可能性さえある。賽は既に投げられているのだ。「……司令、敵も馬鹿ではないようです。こちらの進軍に気づいていたのでしょう。斥候によると、この先にシャンリットの紋章の陣が張ってあるそうです。ウードらしき人物の姿も見えるとか」 東方軍が辿り着いた街は、シャンリット領の中ではそれ程大きな街ではなく、ありふれた街だった。 だが彼らの目にはそうは映らなかった。 100メイルは超えるような長大なモノリスのような四角い塔が幾つも立ち並んだそこは、人工の渓谷のようだ。 一体どれほどの財力があればこのような街を造れるのだろうか? この街には一体どれほどの財貨が眠っているのだろうか? 東方軍の彼らにとって、街はとてつもない威容を誇っているように見えたが、それ以上に掠奪の対象としてこの上なく魅力的に見えた。「司令、やはり敵は馬鹿だったようです」「嘗めているのか、それとも既に投降して来るつもりなのか」 その国境沿いの街には、全く人影が見えなかった。 唯一確認できるのは、領地を任されされているというシャンリット家の紋章旗のみ。 その配下の家系の紋章なども確認できない。籠城戦をしようという気概はまるで感じられない。“空城の計”という訳でもあるまい。 確かに自分たちが敵の立場であったなら、守護韻竜を敵に回してまで戦争をすることなど考えられないから、納得できないこともないのだが。 街に放った斥候は次々と帰還し、如何に街に財宝が蓄えられているかを語り、また敵も少なく、僅かに残った領軍が市民を避難させる時間を稼ぐためにに篭城しているのみだと言う。急ぎの避難であったために食料も残されたままだとか。 人気の感じられず、宝箱のように財貨が詰まった街を前に兵たちの逸る気持ちはピークに達していた。また、休息も少ない長行軍だったため、東方軍は休息場所を必要としていた。 街を囲む城壁からは時折牽制のように弩が射掛けられるが、兵の姿は見えない。城門は固く閉じられ、高い城壁に囲まれたその街は難攻不落のように見える。 東方軍はじっくりっと全軍を整理編成し、街へと攻撃を掛けることになった。多数の都市国家から編成された彼らは、先に着いた者から早い者勝ちに街を略奪することは出来ない。抜け駆けをさせないために全軍で包囲し、ヨーイドンで攻める、ということになったのだ。 難攻不落に見えるが、その実、竜という航空戦力を有する彼らにとってはそれ程の難易度があるわけではない。城壁など竜騎兵が越えて行けばいいのだ。今回は城砦に篭る兵力も少ないので、楽に内部に潜入させられるだろう。 しかし“狂気”のウードの名前は伊達ではないのだ。 彼を尋常の理論で測ることなど出来ないのだということを、東方軍は思い知ることになる。 こんなお誂え向きの掠奪場を提供するような者なのだろうか、不気味な噂の絶えないウードという男は? 果たして斥候が齎した情報は真実なのだろうか? 帰ってきた斥候は、出ていった時と同じ者だったのだろうか? そもそも帰ってきたのは人間だったのだろうか? 何を信じるべきか。 何が信じるに足るのか。 何か信じられるのか。 ウードを前にした人間はある種の不安定感を覚えるが、それは彼のような常識の埒外にある者たちによって、常識という足場が蚕食されて不安定になるからだ。 守護韻竜と呼ばれる50メイルほどもあるドラゴンは、空を駆ける。 彼が喚び出されて以来、こうやって都市の守りを離れて打って出るなど無かった。 かつての主との約束を破ることになるが、彼はそれでも“ウード・ド・シャンリット”という個人を滅ぼさねばならない理由があった。 はるか昔に地の底に追放された忌まわしい魔獣達が蘇り、再び増えんとしている。 かつて先祖たちが多くの犠牲を出しつつも地の底に追放した穿地蟲(うがちむし)達が、深淵の橋架け蜘蛛の祭司の導きで蘇ったのだ。 この韻竜は、竜と穿地蟲との冒涜的なハーフたちの存在を、自らの竜としての共感覚に捉えることで、他の同属達に先駆けてその事実を知ったのだ。(ウード・ド・シャンリット……。彼は必ず滅ぼさねばなりません。そしてあの穿地蟲に侵された可哀想な子も解放してやらなくては) 穿地蟲とのキメラドラゴンたちは、自分と引き連れてきた竜たちで相手をすればいいだろう。(あの子を滅ぼし、その魂を忌まわしい軛から解放し“大いなる意志”の下へ送る間に、人間たちが彼を殺せばそれでいいのですが。しかしそれは難しそうですね) もぬけの空の街を見下ろして、彼はウードがやはり一筋縄でいかない相手だということを感じていた。 人間たちには感じ取れないのかも知れないが、この領地は異常だ。 空から見下ろす彼には、何も無い地面がまるで巨大な蜘蛛の巣の上のような、逃げ場の無い死地に見える。 十数年前にこの領地に棲む竜やワイヴァーンが、守護韻竜の下へ大挙して移ってきたことがあったが、それも納得できよう。こんな四六時中監視されているような、あるいは常に捕食者の俎の上に乗せられているような気持ち悪い土地では安息の時間など得られまい。 土地の精霊も何らかの存在に呪縛されているようだ。数百年も過ごした東方の都市ほどでは無いにせよ、ここでも充分に精霊の力を借りられると踏んでいたが、認識を改める必要があるだろう。(蜘蛛の祭司、その名は伊達では無い、と言う訳ですか。侮る訳にはいきませんね)◆ 一方、包囲された街の中の大通りの上をウード・ド・シャンリットは歩いていた。 ウード、というかアトラナート商会はこの年の天候不順を予期しており、近年続いた不作によって限界に達した周辺国からの掠奪・賠償金目当ての戦争行為が発生するだろうことも認識していた。 矮人たちはそこまで分かっていて手を打たないような間抜けではない。 現在東方軍が攻囲している街それ自体、いやこの街まで続いていた街道も含めて、ここ数ヶ月のうちに準備された戦争のためだけの舞台なのだ。「くふふ。うまく誘引されてくれたようだ」 街の建物の多くは、アトラナート商会の企業城下町“ダレニエ市”から風石で基礎ごと浮かして運んできたものだ。 別段、この国境沿いの街で一から建築しても良かったのだが、街規模での建物の移転の実験というのもなかなか機会がないことなので、わざわざ移設という手法をとったのだ。 因みに現在、ダレニエ市では戦争とは関係なく、かねてから予定されていた魔道具の見本市が開かれており、トリステイン国内や海外から買い付け商人や貴族たちが訪れている。 戦争とは言っても、実際に攻められている街以外は結構呑気なものである。 他の街に掠奪の矛先が向かないように、と、攻撃対象を限定する意味でも今回の伽藍堂のゴーストタウンが造られ、そこへ向かう街道が整備されたのだ。「わざわざ用意した甲斐があったというものだ。迷わないように道も準備してやったし」 ウードはそう言いながら周囲の建物を覗き込む。 内部には様々な計測器具が付けられているのが分かる。 東方軍の斥候が報告した“金銀財宝ザックザク”とかいうのは嘘っぱちも良いところである。斥候は全て、矮人達によって捕らえられて記憶を吸い出され、ガーゴイルやスキルニルと入れ替えられてしまっている。 この街をスルーされては困るので、敵陣にはウードがこの街に陣を布いているという情報をわざと伝えているし、チェンジリングした斥候によって様々な誤情報を流して全部隊を惹き付けている。 また、相手の動きを制限するために、ある協力者たちに頼んで、東方軍に対して土地に縛られて移動できなくなるような呪縛を掛けてもらっている。「どうせ潰すつもりだった建物だから、せめて有効利用しないとな」 このゴーストタウンに集められた建物は東方都市国家軍を誘引するために配置されたものだが、最終的な利用方法は“建造物破壊時のデータ採取サンプル”である。 街一つ分の建物を全て破壊させるつもりなのである。 ウード以外のシャンリット家の面々はシャンリットの諸侯軍含めて全て、フネで運ばれてクルーズ領方面に投入されている。 妹弟のメイリーンやロベールはこちらに残ると言っていたのだが、ウードが口の端を釣り上げて「本気を出すのに邪魔だから行ってしまえ」と言うのにゾッと気圧されてしまい、結局ガリア方面に出陣した。 ガリア方面では、虹の女神の名を冠するキメラ〈イリス〉と虹を操る人間レーザー砲『“虹彩”のメイリーン』(母から襲名した)のコラボレーションが見られるだろう。 クトーニアンとのキメラドラゴンであるイリスを目当てに来ている二本角の守り竜にとっては残念だろうが、彼がこの戦場でイリスと相見える事はないだろう。「くふふ、人払いもしたことだし、存分に好き放題やれるなあ」 笑いながら、ウードは、自分の意識を地上から地下へと移動させる。 そう、地上のゴーストタウンに居たのはウード本人ではなくて、彼の分割された思考の一つが操る精巧なゴーレムであったのだ。そのためゴーレムはウード本人のような蜘蛛の異形的シルエットはしていない。 地上のゴーレムは東方軍に開戦の口上を告げるためだけのものである。 ウードはゴーレムの視点を覗いていた分割意識の一つを自分の体に戻した。 戦場となるゴーストタウンからは遠く離れた地下都市の一室、そこにウードの身体はあった。 左右それぞれの肩から生える一対二本の触肢と二対四本の脚の感触を確かめる。もう異形の身体にも慣れ親しんだものだ。 肩甲骨の部分にある蜘蛛の赤い単眼も、頭の眼球と同様に視覚情報を送ってくる。 ウードがいる部屋は、水族館のような大きな水槽がある部屋だった。真っ白い医務室のような、あるいは病室のような部屋だ。ウードは部屋の中央に立っており、コの字型に水槽が置かれ、部屋の扉以外の壁は溶液の向こうに見える。 ただし水槽の中に入っているのは魚ではない。 水槽の中には人体らしきものが二十程浮いている。 部屋のライトは点けられていないが、水槽のライトは点いており、散乱光が青くウードの顔を照らしている。 より正確に言うならば、水槽ではなくて培養槽、あるいは生命維持装置。 中に詰められている液体は水精霊の涙をベースにした青い粘液。 浮かんでいる人体には、周囲の溶液から魔力(精霊力)を吸収して生態維持に必要な酸素や栄養素を供給し、排泄物を分解する魔道具が埋め込まれている。 そのため、この溶液中にいて生体維持魔道具が故障しない限りは、余程のことがない限りは死なないことになっている。 水槽の中の人体は、よく見ると所々が蜘蛛の様になっているのが分かる。 下半身が蜘蛛の腹になっている者、今のウードのように両肩から蜘蛛の脚が生えている者、はたまた抉れた脇腹から好き勝手に小さな蜘蛛が生み出されている者など、様々だ。 ヒトと蜘蛛のキメラの失敗作群か何かだろうか。 水槽を漂う肉塊たちは、そういうもののようだ。 ウードが水槽を眺めている所に、館内放送が掛かる。 スピーカが作動する前兆の微かなノイズが聞こえて、凛々しい声が響く。「総員傾注! これより我らがアトラク=ナクア様の居城を侵そうとする愚か者どもを迎撃、掃討する!」 ウードの居る部屋の外から放送に呼応して、ゴブリンたちの雄叫びが漏れ聞こえる。 放送の主は今作戦の指揮官のゴブリンだろう。「本作戦の注意事項は覚えているな! 貴重な検体獲得の機会だ! 各員担当区域をもう一度頭に叩き込め! あとは相手方の貴族の顔ももう一度確認しておけ!」 今回の作戦は、ゴブリンたちにとってヒト(平民とメイジ)を実験用として大量に手に入れる絶好の機会なのだ。 そのため今回の作戦では生け捕りが推奨されている。 貴族の顔を特に覚えておくのは、後に東方都市国家を平定する際に彼らの脳髄に蓄えられた経験・ノウハウが必要になると予想されているからだ。その貴族を人面樹に捧げて記憶を吸収し、後の統治に混乱を引き起こさないように利用するのだ。「では各員が全力を尽くすことを期待する! いあ! いあ! あとらっくなちゃ!」 廊下から一斉に蜘蛛の神を讃える声が上がる。 放送がぶちりと切断されるが、廊下からの合唱は止まない。 そんな中、ウードの背後にある部屋の入口が、軽い圧縮空気の音と共にスライドして開く。 入ってきたのはウードの秘書を務めるゴブリンだ。「ウード様、こちらに居られたのですか」 低い背に相応しい軽くて間断ない足音を立ててウードに近寄る。 ウードは左右の脚を揺らして振り向く。「ん、今回の作戦の第一段階の功労者だからね、こいつらは」「そうですね。時間になりましたので、地上のゴーレムで東方都市国家軍への宣戦布告、開戦の口上をお願いします」「じゃあ、行きますかね」 秘書のゴブリンに先導されてウードは水槽のある部屋を出る。 圧縮空気の音と共に扉が閉まる直前、彼は振り向くと一瞬だけ水槽の中に視線を送る。 水槽の中で揺蕩う蜘蛛人間の出来損ないたちは、みんなウードとそっくり同じ相貌をしていた。◆ 男は集中していた。 弓を引き絞る。 彼は傭兵の風メイジ。 都市国家に雇われた、スナイパー。 風のドットに過ぎない彼は、魔法と弓を組み合わせた戦法を用いる異端のメイジだ。 杖の契約をした頑丈な弓を使い、矢を風に乗せて遥か遠方の的を射抜くのだ。 使い魔の蝶は、鋭敏な感覚で彼に風の流れを教えてくれる。 彼の視線の先には、間抜けにも城壁の上に立って、開戦の口上を述べている敵の大将が見える。 耳の良い彼には城壁の上の男の声が聞こえる。勿論、城壁の上の敵が『拡声』の魔法を使っているということもあるが。 弓を引き絞る。 顔を汗が流れる。 まだだ、まだ風が安定しない。的に当たる道が見えない。もう少し。「我が名はウード・ド・シャンリット!」 そう、的の名前はウード・ド・シャンリット。 アトラナート商会の会頭、今回の戦の一番の賞金首、実質的な大将。 もう少しだ、もう少しで道が見える。矢を運んでくれる風の道が。 まだ……、まだだ。「シャンリットに攻め入る身の程知らずよ、その……」 風が変わった! 今だ! 男は弓に蓄えられた弾性エネルギーを開放する。 矢が飛んでいく。 その瞬間に男は矢に魔法をかけて更に加速させる。 道筋通りだ。 男は矢の軌跡を見ずとも、自分の放った矢が命中することを確信した。 口上の途中だろうが関係無い。そんなものは後でどうとでも取り繕えるのだ。生き残り、戦に勝ち、金を貰う。それだけだ。 風に流されて矢の軌道は渦巻くように変化するが、数百メイルの距離を一瞬で翔けた矢は、演説をしていたウードの頭蓋へと――過たずに突き刺さる。 猛烈な勢いで突き刺さった矢によって、ウードは翻筋斗(もんどり)を打たんばかりに仰け反る。 第一射からのヘッドショットという離れ業に、東方軍陣営は大いに盛り上がる。狙撃を成功させた風メイジは、仲間連中に持ち上げられ胴上げされている。「さすが“風見”だ!」「よっ、名スナイパー!」「お前が味方で良かったぜ」 早くも戦勝気分が混じりだした者たちの中で、前線の数名の目は、未だに城壁に釘付けになっていた。 上空を舞う竜も、警戒を緩めてはいない。 何故なら、ウードの傾いだ身体は倒れること無くそのまま立っているからだ。 仰け反った体勢のウードが、ゆっくりと、ぎりぎりと先程の逆回しに身体を起こす。 その様子を見た前線の者たちが息を呑む。 明後日の方向を向いていたウードの目が自分の頭蓋に刺さった矢を確認しようとぎゅるぎゅると動き回る。 やがて見つけたのか一方向に固定されると、刺さっている矢へと手を伸ばす。 後方の者たちはまだ浮かれている。 矢の箆(の)に手を掛け、返しの付いた鏃に構わずに引き抜くと、直ぐに投槍を投げるかのように持ち替え、バックステップ。 体を捻り、大地の反発力を脚から腰、体幹、肩、肘、手首へと伝達させ、加速させると、矢を放つ。 決して人間には出せない速度で放たれた矢は、周囲の風など物ともせずに突き進む。 一番の功を挙げた風メイジが胴上げされ、宙に舞った瞬間。そこに、矢が飛来し、風メイジの傭兵に突き刺さった。 いや、突き刺さるどころか、矢は傭兵の心臓を貫いて、背面に抜けて犠牲者の背中を弾けさせると、密集していた周囲の人間を何人も貫いてから漸く地面に刺さった。 そこまでの惨状を作り上げてもなお原型を留める矢には『硬化』でも掛けられていたのかも知れない。元々の射手が掛けたものか、ウードが掛け直したものか分からないが。 犠牲者が散らばっている方向から、矢の飛来した方角は直ぐに分かった。城壁の方角だ。 皆が城壁を見る。漸く後方の者も気がついたようだ。戦争はまだまだ終わっていない、それどころか始まってすらいなかったのだ、と。 皆の視線の先。そこには、城砦の上に何事もなかったかのように体勢を戻し、頭に刺さっていたはずの矢を素手で掴んで投げた、という姿勢のウードが見えた。 その表情は演説を邪魔された所為か憮然としている。 静まり返る大軍。そこに、『拡声』されたウードの声が染み渡るように広がる。「……シャンリットに攻め入る愚か者よ。その報いを受けよ!」◆ 数人が思わぬ反撃の犠牲になったものの、相手はたった一人。しかも大将首である。功を挙げるチャンスだ。 得体の知れない魔法を使うのか、先程の一撃は効いてないようだが、これだけの数を相手に独りで戦うことは出来ないだろう。 たとえエルフであっても、万軍を相手に独りで抗することは不可能だ。そう考える東方軍の士気は未だに高い状態を保っている。 確かに数は力だ。万軍を相手にするには、それ相応の数、あるいは質を揃えなければいけない。 ――だが、それは別にヒトである必要はないのだ。今回の東方軍が“数に勝る質”として巨大な韻竜を担ぎ出したように。 ――ウードの主義には反するが、彼もまた“数に勝る質”を投入していた。《――け・はいいえ えぷ-んぐふ ふる・ふうる ぐはあん ふたぐん――》 異変は足元から始まる。大地の揺れ。地震。地上に居る者は誰も立っていられない。 局所的な地震によって地割れが広がり、戦場は区切られ退路は閉ざされる。《――け・はいいえ ふたぐん んぐふ しゃっど-める はい ぐはあん おるる・え えぷ ふる・ふうる――》 地の底から立ち上る邪悪さを感じたのだろう、守護韻竜が威嚇の吠声を上げる。「来たな! 穿地蟲め!!」 韻竜の周囲の竜も、雄叫びを上げる。その大音声の中でも、地の底から響く不気味な詠唱は不思議と耳に届く。《――しゃっど-める いかん-いかんいかす ふる・ふうる おるる・え ぐはあん――》 竜達の声に反応したのか、地の底から古来よりの魔獣が現れる。 詠唱に続いて地面の揺れが強力になる。 城塞都市の巨大な墓石のような建物が、しなり、屈し、破断し、積み木崩しのように、或いは撓みに耐えかねたように弾けては崩壊していく。《――えぷ えぷ-ええす ふる・ふうる ぐはあん――》 囁くような詠唱と共に地を穿って現れ出たのは、山のような巨体。《――ぐはあん ふたぐん しゃっど-める ひゅあす ねぐぐ・ふ――》 無数の触手が生える頭部に目はなく、気色の悪い粘液でその身体は覆われている。 灰色の胴体は地上に現れた部分だけでも100メイルを超える。一体地下に埋まっている部分を合わせればどれ程になるというのか。 地面から生えた巨体は、まるで海中のウミユリのようにその胴体をくねらせ、触肢を振り乱している。 そう“数に勝る質”として、ウードは自らの使い魔の巨大クトーニアンに協力を要請していたのだ。 ――だが“数に勝る質”であろうとも、数量を投入してはいけないということはない。 崩壊した街の建物の代わりに、20ばかりの巨大なクトーニアンが地面から屹立している。 太陽も笠がかかったかのように、あたりの光量が落ちたような気もする。 腐敗した臭いが満ちる。 巨大な巨大なクトーニアンたちだ。 通常は30メイル程度の大きさなのだが、どのクトーニアンも100メイルを超えるように見える。 それが20程。 ウードの使い魔――ルマゴ=マダリという名のクトーニアンを巨大に成長させたのは、『コントラクト・サーヴァント』によって刻まれた使い魔のルーンの作用であった。 地下室でウードが眺めていた水槽の中にあった、出来損ないの蜘蛛とヒトの混ざった肉塊の数も、20ばかりだった。 今、竜のブレスを弾き飛ばしながら身体をくねらせているクトーニアンの数と全く同じだ! 『サモン・サーヴァント』で召喚される使い魔と、召喚主のメイジの関係はある程度遺伝によって固定されている。 ゴブリンたちは、クトーニアンたちを更に強力にするための研究を彼らから依頼されていた(依頼というより武力を背景にした脅迫であったが)。 その結果辿り着いたのが、ウードのクローンに蜘蛛の呪いを感染させて魂を邪悪に染めた上で、使い魔を召喚させるという方法だ。 蜘蛛の呪いが浸透していない場合では、クトーニアンの卵は召喚できなかったのだ。 あの地下の水槽に浮かんでいたのは、クトーニアンのルーンを保持するためだけに生かされているウードクローンの成れの果てだったのだ。 守護韻竜と周囲の竜が、ブレスを浴びせながら周囲を飛び回る。東方軍は地震によって指揮系統が寸断されたのか、恐慌を来して好き勝手に魔法を放つ。 だが、その何一つ効果を顕さない。地核の熱にも耐える怪物には、如何なるブレスも火の魔法も効かないし、巨体に対して風の刃も土の槍も効果を顕さない。 宙を舞う韻竜が、精霊の力を借りて魔法を使う。「雲よ! 滝の如く敵を押し流せ!」 クトーニアンの弱点である水を使った攻撃だ。 空中にある雲の精霊ならば、地面の精霊と違ってまだ呪縛されていないため、守護韻竜が契約することが出来たのだ。 上空の雲は韻竜の言葉に従い、滝のような雨となってクトーニアンたちを打ち据える。 水に包まれたクトーニアンたちはのたうち回り、醜悪な悲鳴を上げる。「やったか!?」 クトーニアンの上にのみ、雨は滝のように降り注ぎ、周囲からはその姿も確認できないほどだ。 これほどの水があれば、100メイルを超える巨大クトーニアンでも一溜まりもあるまい。 ……何の対処もしていなければ。 突然、水のカーテンの向こうから、白く濁った腐汁のような水の鞭が伸びたのだ。 それに絡め取られて韻竜の周囲を飛んでいた風竜が水のカーテンの向こうへと消える。「なっ!?」 韻竜が思わずして驚きの声を上げる。 辺り一帯の雲が落ちてしまったため、滝のように降り注いでいた雨が止んでしまう。 その向こうから現れたのは、未だ健在なクトーニアンの群れであった。《馬鹿め》 《水が弱点と知ってそのままにしておくと思うたか》 《何万年この惑星に棲んでいると思っている》 《ぎゃははははは》 《やられたとでも思ったか》《ははははは、舐めるなよ、竜よ》 《喰ろうてくれるわ》 戦場にいる者の精神に直接、クトーニアンたちの声が響く。「貴様ら、これは人間の魔法ではないか!」 本来は致命傷を与えるはずの水による攻撃も、粘液に阻まれ、また水除の魔道具の力で無効化されている。 巨大な烏賊のような、あるいはイソギンチャクのようなその怪物たちは、素早く何本もの触肢や、水で出来た『ウォーターウィップ』の偽触手を伸ばすと、守護韻竜の周囲を飛んでいた竜をまとめて二十数匹ほど捕らえる。 何故、空を舞う竜が、生活圏が重ならない穿地蟲を忌み嫌うのか。 それは穿地蟲が竜の天敵だからだ。 穿地蟲にとっての竜は、何にも勝る美味なのだという。特に韻竜のそれは美味であるとされているらしい。 捕らえられた竜は触肢を突き刺され、体液を吸収される。 もがいていた竜たちは直ぐに力尽きて、ミイラ同然の乾いた死体となってしまう。 守護韻竜は、相手の有り得ない程の巨体と攻撃が全く効いた様子がないことを見て取ると、頭の中で逃げる算段をし始める。(……ああ、あれは無理ですね。もうウード・ド・シャンリットを殺してどうにかなる次元を超えています) 守護韻竜はもはや戦意を挫かれてしまっていた。(人間たちには悪いですが、あれを相手にしては身が持ちません。というか、何ですか、あの大きさは。反則にも程があるでしょう) 穿地蟲は平均的なサイズは精々30メイルだったはずだ。その10倍以上もあるモノが居るなんて予想だにしていなかった。しかもそれが20匹近くも。 自分の領域である東方の都市で迎え撃ったとしても、勝てるかどうか判らない。そんな相手を前にして、守護韻竜は逃げの一手を選択。 ここに残っていては、自分はあの烏賊ミミズの化物に食われるのみだというのを肌で感じていた。 竜の眼下で人間たちの悲鳴が上がる。「ああ、守護竜様が!」「もう終わりだ!」「見捨てられた」「助けて、守り竜様!」 彼とて、かつての主の臣民を無碍にしたくはないが、天敵を前にして助けるほどの義理を覚えてはいなかった。 韻竜は竜を引き連れて、天を衝く異形から離れていく。それを見て、東方軍の士気は崩壊していく。 逃げ惑う人間の様子よりも、いずれ復活するであろう穿地蟲の大群を如何に凌ぐべきか、韻竜の思考はそちらに向けられていた。◆ 尻尾を巻いて逃げ出す韻竜たちを見て、地表に現れたクトーニアンたちは用は済んだとばかりに地底へと帰っていく。 帰りの道すがら、クトーニアンの中でも一際巨大なルマゴ=マダリは、使い魔の共感覚を通じてウードと話をする。(おい、ウード。今日はなかなか珍しいものを食べられた。礼を言う)(何、使い魔に食事を与えるのも主人の役目だ。それで、竜の味はどうだった?) ウードは『珍味を食べたくないか』と言ってルマゴ=マダリを戦地に呼び出していたのだ。(美味い。……が、正直地上に出るまでして食べるものでもない。ゴブリンの作る食事の方が美味だ)(そうかそうか、不味くはないのか。じゃあ、高カロリー食のバリエーションに竜風味を増やしたら人気出るかな?)(そうだな、恐らくはそれなりに人気が出るだろう) ウードやゴブリンたちは、クトーニアンという恐ろしい種族に対して、数々の彼ら好みの食材を提供することで慰撫しているのだ。 良いように使われているだけではあるが、それでクトーニアンたちの敵に回らなくて済むなら安いものである。(ではまたな、ウード。そろそろ帰る。一応、貴様の願い通り足止めの呪縛もしたし、地上も割ってやったから充分だろう。我らとしても戦力確認が出来たし、魔道具の効果も見れた。韻竜どもには大昔に年寄り連中が恨み辛みがあるようだが、今回は充分だろう) そう念話で告げると、ルマゴ=マダリは囁くような詠唱を残しながら地下へと戻っていく。 地上はクトーニアンたちの能力によって見る影もなく荒れ果てている。 そして、いよいよ矮人共がヒトに対して牙を剥かんとしていた。=====================================2010.08.20 初投稿2010.08.21 誤字等修正2010.08.29 一部追記2010.10.26 修正、追記 修正することは少ないと思ってたがそんな事はなかった