勉強が好きな学生など、この世にいるだろうか? いないと言い切れるほど捻くれているつもりはなかったが、好きではない部類に入る自分を鑑みるに、そんなことはない! と声を大にして言い返すことも一刀にはできなかった。 学園には休まず毎日通っていたが、ただ通っているだけ。身体を動かす体育以外は惰性で参加していたようなものだ。微分積分なんて何の役に立つんだよ……と、何度思ったか知れない。 そんな現代社会を生きた、平凡な学生であった北郷一刀が思っていてた。 勉強が、学ぶことが面白い。 やっているのは文字の読み方という、初歩も初歩な勉強だった。元の世界で言え小学校に上がる前に終わらせておくべき基礎過程である。それを世話係である宋正を先生に朝食を取ってから勉強を始め、昼食挟んだ後に再開。日暮れの時間までみっちり講義は行われた。 幸い、漢字の大部分は書けたし意味も大雑把な物は理解できていたこともあり(文章を読めないのに大体の文字の意味は知っているという、傍から見れば非常に中途半端な知識習得しているらしい一刀を、宋正は怪訝に思っていたようだが)文章を読めるようにするだけの勉強は、一刀が自分で思ってたよりもサクサクと進み、一週間後、獲物を苛めることに快感を覚える拷問吏のような顔で現れた荀彧の前で、孫子の冒頭を読んで見せられるほどにはその語学力も成長していた。よほど穿った文字でもない限りは大丈夫だと、宋正に太鼓判も貰っている。 何はともあれ、目標が達成されたことに一刀も胸を撫で下ろし、いくら荀彧でも少しくらいは褒めてくれるかと期待したが、彼女から与えられたのはちんこの癖に生意気だ、といういつも以上の罵詈雑言と、数冊の書物だった。 それが次の課題である、というのは荀彧からではなく宋正から告げられたことである。 ついでに、その書物による勉強の成果の確認は、一週間後ではなく毎日である、というありがたいお達しも同時に通告された。毎日か……抑揚のない声でと思わず本音を呟いてしまった一刀に、もはやお約束になりつつある罵声を一頻り浴びせると、勉強があるから、と荀彧はさっさと部屋を出ていった。 足取りはやけに軽やかだったが、それはきっと罵詈雑言でストレスが発散できたからだろう。荀彧はそれでストレス発散が出来るから良いが、自分は果たしてどうすれば良いのか。 答えてくれる人間のいない問題の答えを自分に問いつつ、荀彧の寄越した書物にざっと目を通す。 軍学と、経済と、政治の書物が二点の、計四冊。内容のレベルは、ようやく文字を読めるようになっただけの一刀の学力では『ほどほど』に難解といったもので、有り余る時間を使って予習をし、明日の宋正の講義を理解すれば、荀彧のサディスティックな確認作業を突破出来る程度の学力を身につけられる……そんなギリギリの水準を保ったレベルだった。 会話をしただけで学力の程度と、それで解決できるだろう内容まで決定できる辺り、流石かの荀文若といったところか。全力を尽くしてギリギリというラインを狙ってくることには心根の邪悪を感じるが、勉強に楽しさを見出してきた一刀には、あまり苦にはならなかった。 文章も読めないような異世界に一人で放りだされて初めて、北郷一刀は学生としての本分を理解し始めたのだった。 また、始めたのは座学だけではない。日が暮れ初めてから完全に沈むまでのおよそ一時間は剣の鍛錬に当てるようになった。 宋正が話をつけると言ったのは本当だったらしく、彼女の夫であるところの警備隊長の計らいで警備隊の訓練に混じることが出来るようになった。 自分でも忘れそうになることだったが、彼らは従者で、一刀は客人である。客人を下手に扱うことはできないし、怪我をさせては家の沽券に関わる。そんな立場の違いから来る遠慮と明らかにそこに集った誰よりもひ弱そうな男を、最初は彼らもどう扱ったものかと決めあぐねていた。 本音を言えば参加してほしくなどなかったろうが、一刀が本人が参加すると言い、それを警備隊長と屋敷の主である荀昆が認めた以上、警備隊の面々には拒否権は存在しない。 微妙な空気で始まった鍛錬の内容の根幹は、いつもほとんど変わることがない。 即ち、刃を落とした真剣を用いた素振りと、実戦を想定した打ち込みである。 フランチェスカの剣道部でやっていた鍛錬と基本的に変わるところはないが、寸止めが義務づけらているとは言え、真剣は重量が重量だ。気を抜くとすっぽ抜けて行きそうな重さのそれが直撃すれば、人体がどうなるかというのは想像に難くない。 いつか持たせてもらった祖父の日本刀よりも真剣は重く、普段の訓練と言っても精々木刀が最重であった一刀に、この基礎訓練は思っていたよりも重労働だった。途中で何度も剣を取り落としそうになったが、ここでヘマをしたら荀彧にまた罵倒される、と心を奮い立たせ続けた。 その思いが身体から力を引き出したのだろう。鍛錬が終わることには足腰が立たなくなっていたが、最後まで根をあげずに鍛錬についていったことで、警備隊の人間も親身になってくれた。 夕方までは座学を行い、それから日が沈むまでは剣の鍛錬。 そんな生活を続けて十数日。荀家にやってきてから数えて、十六日目「これまで北郷様のお勉強を見て参りましたが……」 勉強を教える時に気分を切り替えるため、と視力が悪い訳でもないのにかけている伊達メガネを指で押し上げながら、宋正が言う。しっくりこないメガネのせいで普段はタレ気味の目が若干鋭くなっていたが、それがまた言い知れない淫靡な雰囲気を彼女に与えていた。 これが十代にして子持ち人妻である女性の魅力なのか……と一刀が一人で青少年特有の胸のときめきを感じていると、脛に鋭い衝撃が走った。声も出せずに蹲ると、ふん、と小さく息を漏らした荀彧が椅子ごとずりずりと、一刀から離れるように移動する。 あんたの近くにいると妊娠するわ! と近寄ろうとしなかった荀彧の足が届くまで近寄られても、全く気づかなかった自分に唖然とする一刀。 異常なまでに存在感のある荀彧に気づかないほど、メガネに夢中になっていたのだろうか。過去の属性を鑑みるに一刀にメガネ属性はなかったはずだが、普段メガネをかけていない人間がメガネをかける、という状況には遭遇したこともなかった。 要するにギャップにときめいているんだな、と自分勝手な結論を出して、一刀は改めて宋正に向き直った。仕えるべき少女と、客人にして生徒である身分不詳の男性の間で問題が解決するのを律儀に待っていた宋正は、穏やかな苦笑と共に話を再開する。「――見てまいりましたが、過去に北郷様に勉強を教えた者は、どういう計画性を持ってそれを行っていたのか、疑問が尽きません」「何か可笑しなところがあったのかな」「広く浅く、とりあえず目についた物を片端から詰め込まれているように見受けられます。知識とは所有するそれだけで意味を持つものではありません。活用して初めて、意味を成すのです。こう言っては何でございますが、北郷様の知識は活用できそうな気がいたしません」「そんなに使えない?」「ないよりはマシという程度でございますね。実用を前提とするならある程度深い知識が必要でございますが、北郷様の知識はどれもそこまでに至ってない様子。勉強する前段階とすれば納得できなくもありませんが、それにしては知識の幅が広すぎるように見受けられます」「実用を前提とせずに知識を詰め込んだ、ってことなんじゃないかな」「何一つ満足にこなせない人間に利用価値があると思う?」 心底人を見下したような表情で呟かれた荀彧の言葉には、なるほど、この時代ならではの重みがあった。知識を持つ者の絶対数が少ない古代では、荀彧のような考えこそが常識なのだろう。「ですから、北郷様の浅い部分の一部を深くしようというのが、お嬢様の企画なのですよ」「荀彧、まさか俺のために……」 冗談半分で思わせぶりに言ってみたら、間髪入れずに竹簡が飛んで来た。荀彧をからかうことに神経を割いていた一刀に、それを避けることは出来ない。竹簡が額に直撃し、その激痛に一刀は頭を抱える。「何で私が精液男のために尽力しなきゃいけないのよ! 私は、私の周りに馬鹿がいることが我慢ならないだけよ!!」 迷惑そうにそう言い放った荀彧は椅子をひっくり返すようにして立ち上がると、足音も高く部屋を出て行った。痛みで目に涙を浮かべた一刀は、その背を言葉もなく見送り、慌てて自分に直撃した竹簡を拾いあげる。 それは荀彧に課題として渡された書物の一つだった。竹は紙と比較して安価に手に入り、文字を記す媒体としては木と並んでスタンダードな物の一つだったが、衝撃に弱いのが欠点の一つだった。 特に、人間に向かって放り投げて、それが額に直撃した上に床に落ちると、一部が破損して解読するのに苦労することがあることを、一刀は経験として知っていた。 幸い、今日の竹簡にダメージはなく最初から最後まで文字が破損した様子はなかったが…… 書物が無事であったことに安堵の溜息を漏らした一刀は、宋正を顔を見合わせてお互いに苦笑を浮かべた。同じ荀彧のことで、苦労をしている。今この時、宋正は仲間だった。 その宋正が行う講義に使っているのは一刀の客間だ。客間とは言え男の部屋に入ることに勉強成果の監督役である荀彧は激しい抵抗を示していた。 成果を試すだけならば荀彧が部屋に入る必要などなく、講義を終えた一刀が改めて荀彧を訪ねるというのが、立場の上下を考えても筋の通ったことであると思うのだが、荀彧の方にも言い出した側としてのプライドがあったらしく、罵詈雑言を吐きながらも宋正の講義を共に聞くと言って譲らなかった。 ただ、男一人に女二人という人数配分は、荀彧に許容できるレベルを超えていたらしい。 本当は男と一緒の部屋にいるのも嫌という荀彧なのだから、使命感があるとは言え、男と同じ部屋にいることを肯んじたというだけでも、相当な譲歩だったと言える。 譲歩したのだから残りは強行に押し通す、と荀彧が勝手に決めた妥協案は、部屋の内側に侍女を二人、外側に更に二人を待機させ、加えて部屋の扉は開け放つというものだった。 それでも男と同じ部屋にいるということに荀彧は息苦しさを覚えていたようだったが、朝食後から始まる講義に最初から最後まで参加して耐え切れる程度には、嫌悪感も薄まっていたらしい。「お嬢様もお帰りになられたことですし、本日の講義はここまででございますね」「ありがとうございました、先生」 終了を告げる宋正に挨拶をすると、台の上に広げていた竹簡と書を片付け、部屋着から訓練着に着替える。訓練時の正装はこれに軽装鎧と刃落としした剣が加わるのだが、それらは警備隊に支給されるものであって、一刀個人に渡される物ではない。 それらは正規の装備と一緒に警備隊の詰め所、及び離れにある警備隊の宿舎に置かれていて一刀の部屋には警備上の理由で持ち込むことができなかった。荀昆は許可を出すと言ってくれたのだが、それは規則を曲げることになる。 元より、条件は警備隊の面々も一緒なのだ。彼らと肩を並べたいという気持ちはあるが、規則を曲げてまでそれに挑むのは彼らに失礼に当たると思った。 もとい、ちょっとやそっとの鍛錬で毎日欠かさず鍛錬をしている警備隊の面々に追いつけるとも思えなかった。彼らは仕事として警備を行い、有事の時は剣を持って戦い、場合によっては人を殺すことも、自らが殺されることも承知の上で鍛錬を行っている。 二週間ほど前までただの学生だった一刀とは、根本的な部分が違うのだ。 意識の違いは鍛錬の結果に影響する。祖父に施された鍛錬の密度は決して彼らしてきた鍛錬に劣るものではなかったと自負出来たが、剣の腕として現れる結果は、警備隊の誰と比しても一刀の惨敗である。一つ二つ年下の隊員と比べてすら、思い切り手を伸ばしても届かないくらいの開きがあるのだから、その成果たるや推して知るべしである。「今の北郷様は凄く素敵な表情をしてらっしゃいますよ」「そうですか? 今は毎日が楽しいんですから、それが原因なんじゃないでしょうか」「以前は不満ばかりの日々であったと?」 宋正の問いに、そうでもありません、と記憶喪失という自分設定を忘れて答えそうになる。彼女の探るような目つきを受けながら、一刀は首を横に振った。「……どうなんでしょうね、記憶のない俺には良く解りません。でも、今が楽しいと思うということは、今よりは充実していなかった、ということなのだと思います」「覚えておられなくても、今の北郷様があるのは過去の積み重ねの成果です。北郷様の過去を知らない私が言うのは差し出がましいことかと思いますが、御自らの過去は、誇っても宜しいのではないかと」「俺は人様に誇れるような人間ではありませんよ」「それならば、いつか人様に胸を晴れるような人間になることを目指せば良いだけの話です」 そんなことも解らないのか、とでも言うように、宋正は両の眉を吊り上げた。同年代であるのに、親に叱られているような感じがしてむず痒い。 これは言い合っても勝てないと悟った一刀は姿勢を正し、大人しく頭を下げた。「これからは努力します。宜しくご指導ご鞭撻のほどを」「こちらこそ。北郷様は私の始めての生徒でございますからね。是非立派になって、私の名を引き立てていただかないと」 宋正は一転して穏やかな表情を浮かべた。冗談めかした口調でそう言うと、一刀の衣服の乱れを手早く直す。侍女らしく、その所作は堂に入っている。「さあ、立身への第一歩です。存分に鍛錬なさってきてくださいな」 宋正に見送られて客間を後にする一刀の心は、軽かった。 一刀を見送った宋正は客間の掃除を手早く済ませると、後を他の侍女に託し足早に客間を後にした。廊下を急ぎ歩きながら、しかし荀家の侍女として走るような真似はせず、目的地を目指す。 目指す部屋の外には、二人の侍女が控えていた。この屋敷で最も権力を持つ者――当主の部屋である。二人の侍女に目配せをすると、素早く身なりを確認する。 問題はない。衣服に僅かの乱れもないことを確認すると、宋正は声を挙げた。「奥様、宋正でございます」「入りなさい」 扉の向こうの主人の声に、二人の侍女が扉を開ける。滑り込むようにして部屋に入ると、まず目に入るのは自分の主である荀昆の姿。 そして、その前に銅像のように立つ夫の姿だった。帯剣はしていないが鎧は着用したままである。この時間は警備に当たっていたはずだが……と疑問には思ったが、主の部屋に彼がいるということは、召しだされたということなのだろう。 それを自分が知らないことに違和感を覚えたが、主の前で確認するほどのことでもない。宋正は夫と数歩距離を取った位置に立ち、主の言葉を待った。「宋正、北郷殿はどうされました」「私がこちらに向かう前に、鍛錬に送り出しました。今は裏庭で警備隊と共に鍛錬に励んでいるのではないかと」「そうですか……壁に耳がないとなれば、遠慮はいりませんね」 さて、と言葉を置いて、荀昆は椅子から僅かに身を乗り出した。「北郷一刀という男性について、思うところを述べなさい。まずは、侯忠から」 主の指名を受けて、夫――侯忠が一歩前に出る。無骨な気質の彼にしては珍しく、困ったような表情が浮かんでいた。彼は人を値踏みするという行為が本質的に好きではないのだ。苦手な行動はさぞ彼に心労を強いたろうが、夫が客人をどう評価するのか、宋正にも興味があった。「一言で言うのならば……凡庸でしょうか」 困惑した表情はそのままに侯忠は言ったが、その評価は芳しくない。「少なくとも剣の腕に見るべきところはありません。鍛錬しただけの成果を挙げておりますがそれだけです。武才に特筆するようなところはありませんでしょう」「では、役に立たないと?」「そうは申しておりません。鍛錬しただけの成果は出せるようですから、鍛錬を続ければいずれそれなりの使い手にはなるでしょう。武によってのみとするならば、最終的に千人隊長には登るのではないかと」 侯忠の物言いに、宋正は思わず苦笑を浮かべる。彼の今の仕事は荀家の警備隊長であるが、その前は州軍に所属していたのだ。その時の役職は、今彼自身の言葉に登った千人隊長である。 そのまま軍に残っていれば将軍になることも夢ではなかったろうが、彼は父親が身体を悪くしたという報を聞くとあっさりと退役して故郷に戻り、実家が懇意にしていた荀家の警備という職に就くこととなったのだ。 その侯忠の言う『自分と同じくらいにはなれる』という評価は、彼が人を評する時の常套句だった。自らを非才だと信じているのが、彼の短所の一つである。鍛錬さえすれば誰でも自分と同じところにまでは至れると本気で信じているのだ。「いずれ、というのはどれくらいですか?」「……今後を鍛錬に費やせば、三十年といったところですかな」 その発言に、今度は荀昆が苦笑を浮かべる。今の侯忠の年齢は三十五。北郷一刀はどう見ても二十は過ぎてはいないだろう。そこから三十と言えば、今の侯忠から見ても一周り以上年上である。 侯忠が千人隊長になったのは、二十八の頃だ。彼の見た北郷一刀との実力の差はその年齢差に現れていると言っても良い。「武才に関してみるべきところがないのは解りました。では、知力はどうです? 宋正、答えなさい」「高度な教育を受けたようではありますが、知識そのものは非常に広く浅いもので、今の段階では何処に出しても使えたものではありません」「貴女も、彼のことを凡庸だと?」「いえ。少なくとも、武に関するよりは見込みがあるのではないかと存じます。それでも突出したものは感じられませんが、物覚えは悪くありません。本腰を入れて勉強させれば、地方の役人ならば一年の後には勤まるようになるのではないかと」「三十年先の千人隊長よりは、現実的で良いですね」 まったくです、と主の冗談に宋正は微笑む。冗談を好まない侯忠は仏頂面のままだ。「ですが、地方の小役人では面白みがありません。何か他にないのですか?」「……いっそのこと、文若様の婿としてはいかがでしょうか」「記憶喪失の男子が、実は高貴な身分であったというのは講談師に好まれそうな題材ですけれど、彼の素性の手掛かりでも掴めましたか?」「それは残念ながら」 答えはにべもない。記憶喪失を装っていることは少し話せば解ることだが、それだけでは彼の来歴を知るには弱すぎた。手掛かりと言えば白い輝くような服だけ。これだけでは如何に智者の一族と言えども答えを知るには至れない。「男嫌いのお嬢様は、男性に対する態度も苛烈です。今までお嬢様に近付いた男性はおりましたが、その尽くは歯牙にもかけられませんでした。知的でない、野蛮である。そもそものお嬢様の人物の好みからして、彼らは何某か資質にかけていたところもありました。八徳全てを供えたような聖人でなければお嬢様の隣に立つ資格はないのかと私も考えておりましたが……何のことはございません。必要とされる資質は一つでございました」「あの娘の罵詈雑言に耐えるだけの心、ということかしら」「然りでございます。八徳どころか、今までお嬢様に近付いたどの男性と比しても、北郷様の評価は低いでしょう。ですが、多少とは言えお嬢様は御自ら北郷様に関わろうとしておいでです」 今まではどの男性も、荀彧と少し話すと自分から距離を置いていった。荀彧の溢れんばかりの才能が眩しくてというのも勿論あるだろうが、それ以上に荀彧のあの態度を受けても尚、彼女の傍にいようと思う男性はいなかった。 北郷一刀は、荀彧の幾万の罵詈雑言を受けても尚、彼女にかかわり続けようという気持ちを持つ、宋正の知る限りでは唯一の男性だった。男性として荀彧に関わるという点に関する限り一刀の感性は天才的と言える。「羽虫のような扱いと聞くけれど?」「視界にも入れようとしなかった今までに比べれば、天地ほどの開きがありましょう。それでも現状で可能性は万に一つもないでしょうが、打てる手は打っておくべきではないかと」「あの娘の子を見れないというのも寂しいですからねぇ……」 母としての荀昆の言葉には、言い知れない諦念の響が込められていた。荀彧が男を嫌っていることは、母である荀昆が一番良く知っているはずだ。手を打っておきたいというのは、彼女も同じ思いのはずである。「婿として迎えるからには、それなりの人間でなければならないのでは?」 宋正と荀昆の視線が、侯忠に集まる。妻と主、二人の視線を受けた侯忠は一瞬たじろぐが、従者としての今の勤めは、意見を言うことだ。何も臆することはないと思い直し、一つ息を吸い自分の考えを口にする。「北郷殿の人間性はなるほど、確かに見るべきところがあるでしょう。しかし、荀家は大陸でも有数の名家。婿入りとなれば多くの物が求められます。ですが、北郷殿にはそれがありません」 武も智もなく、家柄も金も実績もない。まさしく身一つの一刀は確かに、大陸有数の名家である荀家に婿入りするには、大分頼りない。だが、「北郷殿の非才はお嬢様の溢れんばかりの天賦の才で補えば宜しいでしょう。お嬢様が気に入りさえすれば、最悪そこに立ってるだけでも良いのですから」「妻は賞賛を受け働いているのに、自分は立っているだけという境遇に大の男が耐えられるものか」 それまで荀昆に向けて発言していた矛先が、妻の宋正へと変わる。口調も少しキツいものに変化した。主と妻では扱いが違うのは当然だが、理屈で分かっていたとしても感情は別だ。態度の変化にイラっときた宋正は、離れていた距離を自ら詰め、言い募る。「愛さえあれば耐えられます」「感情ではなく矜持の問題だ。夫婦となった以上、二人は対等であるべきだ。今持っている力もこれから生み出すであろう結果も、北郷殿のそれはお嬢様には遠く及ばないだろう。それでは北郷殿があまりに不憫ではないか」「それくらい我慢してくれても良いじゃありませんか。配偶者の才を認め、それを伸ばすように尽力するのも、正しい夫婦の形だと思いません?」「それは否定しないが……」「夫婦喧嘩はそれくらいにしなさいな」 ぱんぱん、と荀昆が手を叩いた音で、宋正は我に返った。慌てて侯忠と距離を取り、姿勢を正す。「お見苦しいところをお見せしました、奥様」「私が仲人をした夫婦が、今も中睦まじいと確認できるのは良いことです。話を戻しますが、宋正の北郷殿を婿に、という案は一考の価値があると考えます。ですが侯忠の言うことにも一理ある。あの娘の罵詈雑言に耐える心根は素晴らしいですが、それだけでは荀家に相応しくはありません。何某か、北郷一刀という名前に箔をつけてもらわなければ……」「この乱世です。気持ちさえあれば、名を上げることはできましょう」「智も武も秀でていない、何の背景も持たない人間が持つには過ぎた野心ですね。過ぎた野心は身を滅ぼすものですが……宜しい。北郷殿には援助を致しましょう。本心を言えばいつまでもこの屋敷にいてくれて構いませんが、彼もそれを望んではいないでしょうしね。北郷殿が旅立つ時の助けになるような計画を練っておきなさい」「挙兵の資金を出すおつもりですか?」 こんな時代だ。名も何もなくても、金銭さえあれば兵士を集めることは出来る。無論、頭数が揃っただけの烏合の集では本物の軍隊に潰されて終わるが、ただ頭数が必要になることもある。纏まった人数を集められないようでは、そもそも形になりすらしないのだ。 名を挙げたいと思う人間にとって、自らの手足となって動いてくれる兵というのは、喉から手が出るほどに欲しい物だ。そのために富豪や商人が資金を出す、というのも珍しい話ではない。その人物が名前を挙げてくれればそれを補佐したものとして利益を受けることが出来る。 中途でも利益を追求できるから、極端な話、商人が援助をする人間というのは最終的に勝者でなくとも良い。利に聡い人間は旗色が悪くなれば直ぐに態度を翻す。名誉に主眼を置かない人間は、態度は身軽なのだ。 だが、荀家は商家ではない。その目的は利ではなく人だ。優秀な人間を囲いこむこと、また、それらの人間との関係を築くことが荀家の目指すところである。 先も言ったように、智においても武においても今の一刀は凡庸である。兵を与えたところで名を挙げられる公算は低く、矢尽き刃折れ死に至る可能性も非常に高い。援助をしたとしても、そうなっては丸損だ。 一刀が成功するという見通しがほとんど立たない以上、彼に荀家として協力するのは分の悪い賭けと言わざるを得ないだろう。宋正の言葉は荀家の従者として出てきた物だったが、「そこまではしませんよ。北郷殿が旅をするに当たって、その援助をする。その程度の物です」「…………つまりは、段階に応じて援助をなさると?」「名を挙げずとも、北郷殿の人間性は貴重なもの。出来ることなら生きていて欲しいのですが、事情がそれを許さないというのなら致し方ありません。しかし、生きていてもらうための尽力くらいはしても良いでしょう。その過程として彼が名を挙げるようなことがあれば、そこで初めて本格的な援助をすれば宜しい」「それでも多少は名声を失うことになるかもしれませんが」「北郷殿は桂花を助けてくれました。名誉を気にして手放しに援助をしないのなら、せめてそれくらいはしなければ人倫に悖るというもの。宋正も侯忠もそのように取り計らい、部下にはそう伝えなさい」『仰せのままに』 夫婦は唱和し、揃って頭を下げた。荀昆の下がって良いという仕草と共に退出し、屋敷の廊下を行く。「北郷様は目がありませんか?」「平時であればもっと目はあったろうが、今は乱世だ。彼一人に生き残れるだけの力があるとも思えん」 夫の答えは、宋正が思っていたものと変わらなかった。乱世を生きるに、北郷一刀は向いていない。これは自分たちだけでなく、一刀本人も思っていることだろう。「文若様のような方が補佐してくれるのなら、北郷様にも目があるのですけどね」「あの方は王佐の才を持つお方だ。王たるには北郷殿では不相応だろう。それならば慎み深く柔軟な思想を持った公達様の方が北郷殿の補佐には向いていると思うが……」「……ええ、意味のない比較でした」 荀彧は既に曹操の元に仕官を希望する旨を送っている。彼女ならば仕官を断られるということはないだろうから、半ば仕官は決まったようなものだ。話に出てきた公達――荀彧の年上の姪である荀攸は、既に洛陽で宮仕えをしている。 この時代、智者が主を変えることなどよくあることだが、宮仕えを放棄するとしたらそれは相当のことであるし、曹操はこの時勢にあっても傑物とされる人物である。それを蹴ってまで無位無官で実績のない一刀に仕えることなど――それ以前に、男性に臣下の礼を尽くす荀彧いうのが、宋正には想像できなかったが――あるはずもない。「奥様の意には反しますが、地方の役人になるのをそれとなく薦めてみることにします」「それがよかろうな。人間、分相応なのが一番だ」「殿方は飛躍することを夢見るものではないのですか?」「若い時はそうだったような気がするが、所帯を持ってから気が変わった。名誉や地位よりも大事な物が出来ると、人間変わるものだな」「…………」「急に押し黙ってどうした」「……知りませんっ」後書き次回で荀家逗留編は終わりです。二話で終わる予定でしたが、四話にもなってしまいました。その次から飛躍編というか雌伏編というか燻り編が始まります。