見送りは必要ないと遠まわしに伝えておいたはずだが、それでも一刀たちが洛陽を出立するその日、その周囲には少なからぬ人間が集まっていた。 孫策に周瑜に、陸遜もいる。甘寧隊からは思春本人と直属隊の幹部が十人ほど参加していた。一刀からすればこの人数でも多いくらいだったが、これでも希望者をかなり削ってきたのだという。特に甘寧隊の希望者が多く、全員を連れてきていたら軽く千人は超えていただろう、というのが当の甘寧の弁だ。流石にそれでは交通の妨げになるからと食い下がる面々を鉄拳と怒号で黙らせてきたらしい。千人の兵士を相手に大立ち回りをする思春を想像するのが簡単すぎて怖い。「支度金まで頂いてしまって申し訳ありません孫策様」「気にすることないわ。これから何かと入用でしょうしね。でも、大切に使うのよ。遊ぶのに使ったと噂でも聞けば、即座にその首を落としに行くからね」「肝に銘じておきます」 冗談めかした口調ではあったが、内容は別に冗談ではないのだということを一刀は理解していた。孫策はやると言ったら必ずやる人間である。どの辺りから遊びに入るのか、よく考えておく必要がありそうだ。 背中に流れる冷や汗を意識しながら、孫策の代わりに正面に立った思春を見やる。 いつも通りの仏頂面であるが、今は緊張しているようで日に焼けた顔が僅かに朱に染まっている。まるで年頃の乙女だ、と率直な感想を口にすると殴られるのだろうが、思春の後ろで目を爛々とさせている直属隊の面々を見ると、それも良いかなと思えてくる。気づかないうちに、大分甘寧隊のカラーに毒されていたらしい。不用意な発言をして殴られるのを期待している彼らを、視線でもって威嚇する。 構われたことに気づいた彼らは、歓声を挙げた。いつも通りのそのノリが、今は非常に鬱陶しい。「達者でな。軍師の言葉をよく聞いて、職務に励むのだぞ」「お世話になりました、思春。今の俺があるのは貴女のおかげです」「私がしたことなど大したことではなかろう。私こそお前に命を助けられた。命一つの借りは、一生涯忘れん」 大げさな物言いであるが、それが思春の本心であることは良く解っている。実直な人柄についても、殴られながら少しは理解することができた。まっすぐで不器用なこの女性のことが、一刀は嫌いではなかった。手が早いことについては色々と思うところはあるものの、これでしばらくの別れだと思うとそれも良い思い出のように思えた。 やはり自分はマゾなのかもしれないと、一刀は苦笑を浮かべる。 そんな一刀を胡乱な目つきで見やりながらも、思春はその腕を取り、そこに飾り紐を結びつけた。鈴のついた簡素だが丈夫な作りの一品である。試しに音を鳴らしてみようと腕を軽く振ってみるが、期待したような音はならなかった。耳を近づけて振ってみると、やはり全く音がしない。 これでは鈴として機能しない。何かの手違いでは? と見ると、思春は苦笑を浮かべて首を横に振った。「それは元々そういうものだ」「鈴なのに音が鳴らないのですか?」「鳴らない鈴が鳴るから意味があるのだ。その音が聞こえた時、それはお前に何かが迫っている時と思え」 中身がないのならば音が本当に鳴るはずもない。それでも音が聞こえるということは、要するにお呪いの類かと一刀は納得する。 思春にしてはメルヘンな発想だと思ったが、軍師のような真面目な人間よりは戦場で命を賭ける人間の方がそういうものを気にしたりするというのは、孫策軍で学んだことだ。。どちらかと言えば呪いなどはあまり信じない一刀にとってこの鈴の効果のほどは半信半疑ではあったが、異世界にやってきた自分の身を振り返ってみれば、呪いの一つや二つくらい存在しても良いように思える。 それに何よりこれは思春からの贈り物だ。憎からず思っている女性からのプレゼントなのだから、それがどんな物であっても嬉しい。 大事にしますと言うと、思春は満足そうに微笑んだ。 それで終わりと安心していた一刀は、思春の行動に反応が遅れる。気の緩みを見て取った思春は自然な動作で一歩踏み込み、一刀の身体を強く抱きしめた。直属隊から歓声があがり、孫策も揶揄するような声を挙げる。逆に、背後からは刺すような視線を感じた。仲間が、その中でも特に稟がどんな表情をしているのか思うと心底恐ろしいが、腕の中の思春がその恐怖を打ち消した。 抱きしめられた者の礼儀として抱きしめ返すと、その身体が意外に小さいのだというのが良く解る。孫策をはじめ、女性として恵まれた体型をしている人間の多い孫呉中にあっては、思春の身体つきは聊か貧相と言わざるを得ないが、女性としての柔らかさまでは失われていなかった。わずかな汗の匂いに混じって甘い香りもする。これが思春の匂いかと思うと、途端に気恥ずかしくなる一刀だったが、思春がまるで恥じらう様子がないのに男一人が慌てるのも相当に格好悪い。そういう間抜けは直属隊の面々や孫策を喜ばせ、後々の稟の説教を無駄に長引かせる要因になりかねない。 男には見栄を張らなければならない時もあるのだ。表情を無理やり引き締めると、孫策と目があった。にやにやと、邪悪な顔で笑っている。内心を見抜かれてしまったことを理解した一刀は背中に冷や汗をかくが、見栄を張ると決めたばかりである。顔にも雰囲気にも出さないよう気を引き締めると、腕にも力が篭った。「力が強いぞ」「……申し訳ありません。あまり慣れていないもので」「そうなのか?」 思春の視線が一刀の肩を越えて稟たちに向けられる。そういう関係に見える、とその顔が言っていた。恋愛事に興味のなさそうな思春が思うのだから、他の人間も思っているのだろう。美少女を三人もはべらせた人間がどう思われるのか想像に難くない。 何とか対処しなければと思うが、この手の問題に限って言えば三人の軍師は全く当てにならないのである。恋愛の経験がなさそうな雛里は当然として、風は面白がって放置するに決まっている。稟などは相談するだけ無駄だろう。勝手に脳内で盛り上がった挙句、鼻血を出して終了になるのが簡単に想像できる。 自分一人で対処できるはずもない。始まる前から八方塞な問題だった。「まぁ良い。身辺には気をつけるようにな」「ご忠告痛み入ります」「……離れていてもお前は我々の仲間だ。息災に暮らすのだぞ」「思春こそ。お元気で」 お互いに背中をぽんと叩くと思春は何事もなかったかのように取って返し、冷やかして来た直属隊の面々に鉄拳を見舞った。相変わらずのマゾ集団に苦笑を浮かべる一刀に殺気を纏った稟が寄って来る。「一刀殿、そろそろ」 出立の時刻を定めていた訳ではないが、いつまでもこうしていては先に進むことはできない。一刀は改めて孫策たちを見やると、深々と頭を下げた。 集団の先頭に立っていた孫策がひらひらと手を振ってくる。その気安さが、また嬉しい。暖かな気持ちを抱きながら、一刀はまさに『今思いついた』という体を装って、孫策に駆け寄った。 まだ何か? と目を丸くする孫策に、一刀は懐から取り出した布袋を差し出した。粗末とは言わないが、それほど金がかかっていないのは見れば分かる程度の品物である。「これを、孫策様に」「私に?」 送り出す側が物を受け取る理由はあまりないが、くれる、という物を受け取らない訳にもいかない。差し出されたから受け取った、という気安さで、孫策はその布袋を受け取る。孫策の掌にも納まる程度の小さなものだが、硬質であるその中身は掌に確かな重みを与えていることだろう。「大したものではございませんが、我々の感謝の気持ちです」「へぇ……ここで開けても良い?」「それはご勘弁を。できましたら、周瑜さまと一緒に、こっそりと見ていただけたら幸いです」「……良く解らないけど、ありがたく貰っておくわ」 疑問は払拭できていないようだが、言葉には従ってくれるようだった。布袋を懐にしまった孫策に満足すると、一刀はまた深々と頭を下げ、今度こそ孫策たちに別れを告げる。「これで良かったのか、と今でも思います」 馬車まで戻った一刀を迎えたのは、稟の苦い顔だった。アレをどうするかは一刀たちの間でも意見の分かれることだったが、一刀の出した結論は稟には受け入れられるものではなかったのだろう。考え直すようにと何度も言われたが、それを時間をかけて説得したのは記憶に新しい。 今の不機嫌はそれが尾を引き、形となって現れたものだ。大人気ないと一言で片付けるには、稟の心中を知りすぎている。自分の案が採用されなかった。それも不機嫌の原因ではあるだろうが、彼女は彼女で自分の案こそが北郷一刀のためになると今も信じているのだ。 それが成せなかったことで、皆の覇道が遅滞するのが悔しいのである。自分の案を仲間に信じさせることができなかったのが悔しいのである。その悔しさが分かるから、一刀の心中も複雑になるのだった。 それを言葉で癒すことはできそうにない。風も雛里もこれについては匙を投げている。稟とて優秀な軍師だ。きっと時間が解決してくれると、その時を待つしかない。「お久し振りです。一刀さん」 複雑な気持ちのまま馬車を走らせ、そろそろ北門に到達しようかというところで見知った顔に声をかけられた。「ご無沙汰しています。公達殿」 御者台から降りて挨拶をすると、公達は微笑みを浮かべて小さく頭を下げた。 旅立ちの準備をしている段でも二度ほど顔を合わせていたからそれほど久しい訳でもなかったが、こちらの顔を見て笑顔を浮かべてくれる女性を見て、男として悪い気はしない。 自然と表情も緩んでくるが、稟の咳払いがそれに待ったをかけた。眼鏡の奥の剣呑な光に、一刀は身震いする。「見送りにきてくれたのですか?」「それもありますけど、今日はお届けものをしに」「お届け物?」 一刀の疑問の声に公達の背後に控えていた従者が、そっと風呂敷包みを差し出す。手に持つと、ずっしりとした重みを感じた。菓子折りの類ではないだろう。表面をなぞってみると硬質の感触はない。一刀をして一抱えはあるそれの中身は、全て紙かそれに近いものであるようだった。「すぐに内容を改められるものでもありませんから、領地についてからゆっくりご覧になってください」「これはどういったものなので?」「一言で言うなら教科書ですね。政治、経済、軍学その他、一刀さんのための知識が網羅されています」 更に『直筆ですよ』と付け足した公達のその返答は、軍師たちに緊張を走らせた。 一刀と公達には浅からぬ因縁があり、友人と言っても良い関係を結んでいる。官位も持っており、今上皇帝に近い立場である彼女は公的にも敬うべき立場にいる。先達として敬うべき人間であるというのは軍師三人の共通見解であるが、そんな彼女であっても他人には違いない。 それが教科書を贈ってきたのだ。事前に相談でもあれば話は違ったのだろうが、いきなりこれでは暗に『お前達の教育は当てにならない』と行動で示しているようなものだ。当然、気分が良くなるはずもない。稟ははっきりと不快だという顔をしているし、風や雛里も顔色こそ変えていないがその表情が強張っている。 彼女らのことを考えるのならばここで受け取らない選択肢もないではないが、先にも言ったように公達は友人であると同時に高位の官僚でもある。漢帝国の視点に立てば大分上の上司なのだ。立場が上の人間からの贈り物を大した理由もないのに断ることは、礼儀に反する上に自分の首を絞めることになるだろう。 初めから一刀に断るという選択肢は存在しないのだった。胃がきりきりと痛むのを感じながら、ありがとうございます、と簡単な礼を述べる。 その声に緊張が出ていたのだろう。聡い公達は一刀と軍師たちの心中を全て察し苦笑を浮かべた。「私もどうか、とは言ったのですけどね……あの娘がどうしてもと言ったものですから」「公達殿が用意したのではないのですか?」「これを用意したのは荀文若ですよ。私は貴方に渡すよう、頼まれただけです」 それを聞いた瞬間一刀の心を喜びが満たしたが、その直後に背中に走った恐怖がそれを台無しにした。 連合軍の陣地でやりあって以来、稟はずっと荀彧を意識していた。敵視していると言い換えても良い。荀彧が戦においてどういう采配をしたのかは人を使って調べさせたし、会議の場での発言も多くの時間を割いて分析した。 そんな難しい時期を乗り越えた稟は自分で結論を出した。荀彧とはおそらくソリが合わないという今更のものである。仲良くしているところを想像することすらできないのだから、相当なものだろう。もっとも、荀彧と仲良く戯れることができる人間がそういるとも思えないが、少なくとも、稟のようなタイプでは荀彧と上手に付き合っていくことは難しい。 荀彧はかなり、稟も中々我が強いところがある。同じ運命共同体ということで稟は一刀に大分譲歩している感があるが、荀彧の場合はそれが全くない。本来ならば稟も荀彧と同じくらい我を曲げないだろうことは、二年近くの付き合いで理解していた。上手くやっていきたいという稟の気持ちが感じられることは嬉しい限りであるが、見方を変えれば荀彧のようなタイプに無理をさせているということになる。 怒られることは勿論怖いが、ある日突然尋常ではない爆発をされたらもっと怖いし、困る。せめて稟に負担をかけないよう、もっと頼り甲斐のある男になろうと努力はしているが、今のところ実を結んだ気配は感じられなかった。平穏無事な生活への道は遠いのである。「あの娘のこと、嫌わないでやってくださいね。きっと、貴方の前に出てくるのが恥ずかしかったのです」「アレがそこまで柔な神経をしているとはどうしても思えませんが……ともあれ、ありがとうございます。任地に着いたら文を出すつもりでいますが、近く顔を合わせることがあったら、北郷一刀が喜んでいたと伝えてください」「必ず伝えましょう」「話は終わったかしら?」 握手のために手を出そうとしていた公達を遮るように、公達の背後から声が聞こえた。公達の背中越しに見やると、そこには見覚えのある少女がいた。目が合うと、少女はにこりと微笑んだ。相変わらず、笑顔一つとっても卒がない美少女っぷりである。「見送りにきてくれたのか?」「今日が出立の日だって知ったのは偶然だけれどね。でも、間に合って良かったわ。お姉さん、ちょっと道をあけてくださる?」 言われた通りに道を開けた公達の顔が、少女の顔を見た瞬間驚愕に染まる。街中で熊に遭遇したとしても、こんなに驚きはしないだろう。そも、公達が驚いているところを初めて見た気さえする。何がそんなに驚きなのか。公達の表情の意味が理解できない一刀は彼女を見やるが、公達は一刀の視線から逃れるように背を向け、大きく咳払いをした。これほどわざとらしい咳払いも珍しい。明らかに何かを誤魔化している風ではあったが、それに突っ込める雰囲気でもなかった。これについては何も聞かないでくださいと、その背中が必死に訴えていた。 そんな公達をにやにやと眺めながら、少女――伯和は一刀の前に立った。「急だったから何も用意していないのだけれど、せめて言葉だけでもって思ったの。元気でね。一刀くん。病気とかをしては駄目よ?」「お前こそ。お転婆して、護衛の人を困らせないようにな」「平気よ。今日はちゃんと、婆やもつれてきているんだから」 その顔に笑みを湛えたまま、伯和は一刀の背後を示した。その視線を追うと、その先には仏頂面の武人が立っていた。見覚えのある顔である。伯和と出会ったあの日、街ですれ違った女性だった。伯和が婆やと呼んではいたが、それ程の年齢には見えない。行っていても四十というところだろう。切れ長の目をした少々キツい印象の美人であるが、腰の下げた剣と身に纏う殺気がその美貌を台無しにしていた。 これが良い、という人間も中にはいるのだろうが、いくら甘寧隊でマゾ資質を開発された一刀と言っても、進んで針の筵に正座するような趣味はない。この不本意な状況は貴様のせいかと射殺すような視線を向けてくる女性は、必死で見てみぬ振りをした。正直、生きた心地がしなかった。今日は女性関係でこんな気持ちばかり味わっている気さえする。 任地に出発する、今日は門出の日だったはずなのだが、一体どうしてこんなことになってしまったのだろうか。「よく許してくれたな。あの人」「きちんと説明したら許してくれたわ。おかげでお勉強の時間が増えてしまったけれど、それで一刀くんを見送れるなら安いものよね」「すまない。この埋め合わせはいつかするよ」「なら、お手紙が欲しいわ」「任地についたら必ず書くよ」「直接送られると婆やに握りつぶされてしまうかもしれないから、仲介が必要よ。こっちのお姉さん宛なら安心だと思うの」 伯和に指名されると、公達の挙動不審にさらに拍車がかかった。意味もなくきょろきょろとして、伯和の方を見ようともしない。悪戯を怒られた子供のような所在のなさである。楚々とした振る舞いを崩したところなどを見せたこともない公達の、一刀が初めて見る一面だったが、垂れ気味の目じりに涙が溜まっているのを見ては、何も流石に聞かない訳にはいかなかった。「良いのですか? こいつ、こんなこと言ってますが」「問題ありません。へ、いえ、その御方の仰る通りになさってください」「……顔色が悪いですが、大丈夫ですか?」「あまりの出来事にちょっと眩暈が。大丈夫です、お気遣いなく」 力なく微笑む公達は、明らかに大丈夫ではなかった。息苦しいのか胸を押さえているし、顔色も青く見える。普通ならば医者を薦める場面なのだろうが、生憎一刀は先を急ぐ身だった。「本当にご無理はなさらないでくださいね」「ありがとう。そちらも身体には気をつけて」「勝手に死んだりしたらだめよ? 洛陽に戻ってきたら、また遊びましょう」 強張った顔の公達と微笑みを浮かべた伯和に見送られて、一刀は足を進めた。馬車と共の人間もそれに続く。好奇心丸出しで伯和を見ている要のことは、きっぱりと無視した。あれは誰ですか? 等と稟たちの前で質問したりしないよう、後で釘を刺しておく必要があるだろう。勿論、稟たちにも説明しなければならないだろうが、聞かれて答えるのではなく、こちらから説明する形にしなければ、立場が微妙なものになる。 突付かれて疚しいことは何もないが、自分から公開することと、掘り返されて露見するのとではイメージが大きく異なるのだ。悪いイメージを持たれたままでは、相手に勢いを与えることになる。せめて誠実さを見せておかないと、余計に立場が悪くなること請け合いだ。「貴殿は随分とおモテになるのですね」 伯和たちの姿が人波の向こうに見えなくなってから、稟はぽつりと呟いた。その言葉に風も雛里も頷いている。何も悪いことをしていないはずなのに、針の筵に座らされているようだった。 それからほとんど会話もないまま、一刀たちは北門にたどり着いた。門には守衛がおり、行き来する人間と荷物をチェックしている。個人の検査は簡単なものだが、大荷物を抱えた馬車の一行はそうはいかず、一刀たちの他にも守衛のチェックを受けている集団がいた。事前に申請はしているので普通よりは早く済むはずであるが、流石にフリーパスとはいかないようだった。並ばされるのも、彼らの後ろである。 県令としての門出、その第一歩である。一刀は緊張した面持ちで役人の所へ歩いていく。「北郷一刀と申します。あちらは供のものです。荷物は事前に申請した物が奥の方の馬車に、手前の馬車には犬猫が乗っています」「聞いております。荷物について簡単な検査をしますので、少々お待ちください」 順番はそれほど待たずにやってきた。前の馬車のチェックを終えた数人の兵士が、先頭の馬車に寄って行く。その馬車を覗いた兵が、中の物を見て驚きの表情を浮かべた。大人しくしているように言い聞かせたばかりなので静かにしているが、犬猫ばかり三十匹ほど集まっているのは、中々お目にかかれない光景である。兵が驚くのも無理はない。 犬猫に驚くなどの小さなトラブルはあったがそれ以外は滞りなく進み、守衛のチェックは五分ほどで終了した。「それでは皆様下馬願います。こちらの門は、歩いてお通りください」 御者台の人間に座っていた兵に声をかけ、彼らが皆地に足を降ろすのを見届けると、責任者の男はようやく行って良しという仕草をした。一刀は男に一礼し、粛々と門を潜る。 結局、最後まで心づけを要求されたりはしかった。北門の守衛は末端の人間にいたるまで実に忠実に職務に励んでいる。そうでないことを期待していた訳では勿論ないのだが、只管に職務に励む彼らの姿を見て、一刀は何だか肩透かしを食らったような気分になった。「流石に、かつて曹操殿が管理していた場所なだけはありましたね」 稟が口が開いたのは、洛陽を出てから三十分ほど経った時だった。いい加減沈黙に耐えかねた一刀が、受けないのを承知で小話でもしようと思った、その矢先である。「曹操殿が?」 無駄に滑らなくて済んだことに心中で安堵の溜息を漏らしながら、相槌を打つ。 呂布の家族の乗った先頭の馬車、その御者台だ。これから県令になろうかという人間が、わざわざ御者をする必要など本来はないのだが、何しろ客人が客人である。他にも御者をできる人間はいたが、万が一があってはいけないと一刀が自ら手綱を握っていた。 動物受けを考えると風でも良かったのだが、彼女は早々に稟に一刀の隣を譲ると最後尾の馬車に引っ込んでしまった。荷物と一緒に揺られながら、昼寝でもするつもりなのだろう。雛里も風に付き合って最後尾の馬車にいる。その他、馬車を操っている兵以外は皆徒歩だ。要も当然、徒歩である。「最初に得た官職が北門の武尉だったのですよ。割と有名な話だと思うのですが、ご存知ありませんか?」「聞いたことあるようなないような、そんな程度だな」 曹操については『顔を見たことがある』程度の繋がりしかない。荀彧が仕えている人間であるから興味がないではないのだが、荀彧と稟がやりあった過去があるため、どうにも関係を深め難いのだった。 うちの荀彧とどういう関係なのかという質問を荀彧がいる場でされたら、どんな空気になるか解ったものではない。後で荀彧から邪悪な復讐をされるくらいなら、いっそ係わり合いにならない方が良いと、今では思っている。洛陽で曹操に会えなかったのは、運が良かったのだと思うことにした。「情報は武器と申し上げました。全てを知っておく必要はありませんが、このくらいは知っておいてもらわないと」「ごめん。もう少しアンテナを高くしておくよ」 解れば良いのです、と稟は済ました顔で頷いた。アンテナ、という単語にも突っ込んでくることはない。カタカナ言葉については故郷の方言という解釈が浸透したらしく、口語で使うようなものについては、稟たちの間でも解読が終了していた。今では故郷にいた時と変わらない調子で会話しても、普通に成立するほどである。「それはそうと、曹操殿のところの軍師から何やら貰ったようですが……」「後で皆で見よう。何か俺の悪口とか書いてあったりすると困るから、最初は一人で読ませてもらうけど」 かの荀文若が書いたものとは言え、中身は初心者用の教科書だ。一線級の軍師である稟にとっては、ほとんど価値はない。それでも共に見ようと提案したのは、筋は通した方が良いと思ったからだ。荀彧には世話になったが、今の教師は稟たちである。「一人で読まれても良いのではありませんか?」「何か問題があったら、言ってもらわないとな。今後一緒に仕事をすることになるんだし、考え方が離れてたら困るだろう?」「貴殿は、あちらよりも我々を信ずるというのですか?」 そこで、一刀は押し黙る。 稟の機嫌を取るのならば迷わずに肯定すべきだったのだろうが、それはそれで嘘になる。仲間である稟には嘘をつきたくなかった。「どちらをより、という話だと難しいかもしれない。荀彧には恩義があるし、俺はまだそれを返してないからね。最初の先生だからってこともあるけど、とにかく荀彧のことは信頼してる」 あっちがどう思ってるかは解らないけどな、と付け加えると、稟は苦笑を浮かべた。「でもそれは稟や風や雛里だって同じだ。一緒に戦った仲間だし、過ごした時間は稟たちの方が長い。だからより信頼してるとは……ちょっと言えないかな。信頼の方向性が違うというか何というか、そんな感じなんだ」「では、我々とあの軍師殿、どちらを取るかと聞かれたら、貴殿は答えることができますか?」「そりゃあ、稟たちだよ。考えるまでもない」「どっちがより、と答えられなかった割りには即答するではありませんか」「差し迫った状況で一緒にやってる仲間を選べないなら、そっちの方が問題だろ?」「それはそうですが……」 何か釈然としないものを感じているのだろう、稟の言葉ははっきりとしないが、突っ込んでくることもしない。人の内面に踏み込むような話は、元々稟の好む話ではないのだ。今も相当に無理をしているのか、頬がほんのりと赤い。 そこまでして聞きたいものだろか、と手綱を握りながら、空を見あげて考える。 自分に置き換えて考えてみた。例えば稟に前の主がいたとする。それは自分と同じくらいの年齢の男で、美青年だとしよう。能力も自分と同じかそれ以上な男が、稟と会話したりプレゼントしたりしていたら…… 考えただけで胸がムカムカしてきた。なるほど、こういう気持ちになっていたのかと理解できると、稟に対して申し訳ないような気持ちになってきた。 これからはなるべく、稟たちの前で荀彧の話はしないようにしようと一刀は心に誓った。この後に并州に入ってから月チームとの再会を書く予定なのですが、IN洛陽ではなくなってしまうため話を分けました。現在鋭意製作中です。今月中にはアップできると思います。