「ついにこの日がきましたか……」 重厚な扉を前に奉孝は一人ごちた。傍らには仲徳と士元もいる。そこには一刀に協力する軍師が勢ぞろいしていた。 連合軍の全ての折衝が終わって数日。後はその折衝で決まったことを皇帝陛下を中継して配分するのみとなっていた。既に各軍は領地へと戻る準備を始めており、それは孫策軍も例外ではなかった。 そしてここからが奉孝の仕事の始まりである。 契約はしっかりと結んだつもりだった。この戦の間だけという約束を最初は孫策も守るつもりではあっただろう。 しかし、今はそれが守られるという保障はない。自分たち軍師は手を抜かず全力で献策してきたつもりだし、一刀も思っていた以上の戦果を挙げた。挙げてしまった。 今はどの勢力も兵と軍師を欲している。孫策が、自分たちを手放す理由はない。 普通に考えれば孫呉は悪くない仕官先だ。両袁家を候補から除外するなら残されるのは孫策か曹操くらいしかないのだから。多くの軍師、そして兵が彼女らに仕えることを望んでいる時代に、如何に孫策から離れるかを考えている軍師は、おそらく自分だけだろう。 大きく息を吐くと、奉孝の頭は冷えていった。 孫呉を穏便に離れるための交渉を、これから行わなければならない。相手は当代最高の軍師と名高いあの周瑜だ。一緒に仕事をして、彼女の頭脳の冴えは嫌というほどに思い知っている。 それに孫策。周瑜には勿論他の軍師にも大きく劣るだろうがあれで中々に弁が立つし、特に直感には目を見張るものがあった。軍師でないからと油断していたら、痛い目を見るのはこちらである。交渉相手としては恐ろしいまでに難物だ。 しかし、これを乗り越えなければ自分たちに未来はない。主として孫策は申し分のない人間であるが、それは自分たちの望んだ主ではない。 北郷一刀と共に。 それが奉孝たち三人の、偽らざる願いなのである。 全力を尽くすつもりでいるが、勝てないかもしれないという思いが奉孝の脳裏を過ぎっていた。下手に断ることになれば、命はない。手放した優秀な人間が他軍に属することになれば、それは大きな損失となる。自分たちに組しないと決定された時点で首を刎ねるということは、考えられないことではなかった。 名声に傷がつくことを考えればそれは軽々とできることではないが、孫策がそれを選ぶかどうか、五分といったところだった。命を盾にされれば、奉孝たちはそれでお終いなのだ。 弱小勢力である自分たちに、孫呉の武を押し返すだけの力はない。 だから、そうされる前に何とか話を纏めなければいけないのであるが……あの二人を相手に果たしてどこまでできるのか、奉孝をしても見通しが立たなかった。 先行きは暗いが、やらなければならない。ある種の悲壮感を持って、奉孝たちは扉の前に立っていた。「暗い顔をしていたら、幸せが逃げていきますよ」 いつも通り気の抜けた表情をした仲徳が隣で呟く。彼女とて緊張していない訳ではないのだろうが、その表情を見る限りそれは微塵も感じられなかった。こういう交渉の時は、本当に頼りになる存在である。 その隣では、士元が小動物のように震えていた。 こちらは仲徳と異なり、心情が思い切り顔に出ている。経験不足なのか元来の性質なのか、こういうところはいくらか場数を踏んでいるのに改まる様子がない。相手の気に飲まれやすいというのは、交渉事には不向きな性質である。 これについては追々、改めていかなければと思っているが……そんな士元の姿が逆に、奉孝の心に力を与えた。 ここで自分まで無様を晒しては、総崩れになる。こうあるべしという姿を見せられないのなら、士元の先達でいる意味もなかった。「……そうですね。私としたことが、力が入りすぎていたようです」「これで失敗したとしても、道が閉ざされた訳ではありませんからね。失敗したら次の機会を待つ。それくらいの気持ちでいた方が、成功するかもしれませんよ?」「それはそれで後ろ向きする気がしますが……いえ、変に追い詰められるよりはずっと良いのかもしれませんね」 仲徳の言葉に奉孝は笑みを浮かべる。一刀の元を出てきてから、今日、初めて見せる笑顔だった。「では、今度こそ行きましょうか。我々の腕を、お二方に思う存分見ていただきましょう」「おかえり。思ってたより早かったけ……ど……」 どんな結果になったとしても明るく迎えようと、せめて見た目くらいはと明るく気楽に奉孝たちを迎えた一刀は、彼女らの雰囲気に言葉を詰まらせた。 どうしようもなく悲痛という訳ではなかった。一言で言うならば、彼女らの顔に浮かんでいるのは『不可解』である。奉孝も仲徳も士元も一様に訳がわからないという顔をしていた。 何故そんな顔をしているのか分からない一刀からすれば、余計に訳が分からない。 それでも話が悪い方向に行ってしまったという訳ではないようだった。最悪夜逃げという選択肢も頭に浮かんでいたため、そうはならなそうなことを悟った一刀は、こっそりと安堵の溜息を吐く。「改めて、おかえり。お疲れ様、三人とも」「ただいま戻りました。一刀殿」 執務室、というには聊か狭い一刀の仕事部屋には、一刀が書類仕事をするための文机以外にはテーブルはない。人数分のお茶を用意した一刀は、手ずから奉孝たちに渡していく。「それで、話はどうなった?」「……結論から申し上げますと、我々は孫呉より離れることとなりました」「それは良かった、ってことになるのかな。とにかく、奉孝たちの頑張りのおかげだよ。まさかあの周瑜殿に打ち勝つとは正直思ってもみなかった」「いいえ、我々が交渉の末にそれを勝ち取ったというのではありません。この勝利は我々から見れば、偶然の産物です」 そう言って、奉孝は一つの巻物を差し出してきた。木簡でも竹簡でもない。紙の書類である。現代ほど製紙技術が発達していないこの時代において、紙というのは貴重品だ。 それが使われているということは、この書類がそれだけ重要なものだということである。 そんなものを見ても良いのかと奉孝を見るが、彼女は眼鏡の奥で目を細めるばかりだった。 それを了解の意思表示と取った一刀は巻物を受け取り、それを広げる。「これはどういうことだ?」 最後まできっちりと読みきった一刀の口から出てきたのは、そんな言葉だった。軍師が三人も集まって『不可解』な顔をしていたのが、今にして漸く理解できた。 書面には、北郷一刀に領地を与えるとあった。 何かの冗談かと思ったが、紙の巻物といい格式ばった文体と言い、一刀一人を担ぐにしては出来過ぎていた。 だから本物、というのは早計に過ぎるというものだが、冗談で済ませるにしては奉孝たちの雰囲気も軽くはない。「私にも良く分かりませんが、孫策殿からそれを頂戴しました。どういう内容なのかは彼女も知っていたようで、これは任命書であるということを渡す時に仰られました」 つまり我々は、彼女らと交渉はしていません、と奉孝は自分の言葉を締めくくる。 思っていたよりも早く奉孝たちが帰ってきたのもそれで合点がいった。 しかし、この書類については謎が深まるばかりである。「任命書ということは、領地を賜ったのですか?」「そうみたいだな。此度のことに功ありと認め、領地を授けるとある」 自分で言っていても半信半疑だ。理由として尤もらしく書いてあるが、自分のしてきたことを振り返っても、それだけで領地を貰えるようなことだったとは思えない。「功というのは与える側が判断するものです。我々のあずかり知らない所で何かがあり、褒美が与えられるというも珍しい話ではありません」「でも、それは上の方できっちり話がついてるのが普通ですねー。孫策様は寝耳に水と言った感じでしたし、そうなると彼女以外の誰かがお兄さんを陛下に売り込んだということになりますが」 そんな人間に心当たりはいない。自分本人はともかく、軍師三人を手元においておきたいと考えるだろう孫策が、そんなことをするとも思えなかった。他所の軍からの工作ということも考えられなくもないが、結論を出すには材料が足りない。 一刀の脳裏に浮かんだのは、どこぞの猫耳軍師である。 彼女ならばどんなに迂遠な方法でもきっちりと成果の挙がるような策を行うだろうが、自分一人を孫策軍から引き抜くために周到な作戦を立てるとも思えなかった。自分一人で乗り込んできて、堂々と交渉する方が荀彧らしいというものである。「誰がどうしたってのは後で考えよう。それよりも問題はこれからのことだ」 書面は軍師三人の手を渡り、再び一刀のところに戻ってくる。内容については全員の知るところとなった。考えることは一つである。「……并州楽平郡の県一つか。俺にはそれが何処にあるのかも良く分からないけど」「星ちゃんの地元の隣の郡ですね。州区分は違いますがー」「良いところなのかな」「危険度で言うのならば洛陽とは桁違いに危険ですが、些細なことです。我々が良くしていけば良いだけの話なのですから」「それはそうだけどさ」 人間、できることとできないことがある。奉孝たちのことは良く知っているし、その能力が最高のものであることに疑いはないが、戦いが数で決まるというのもまた、真理である。 領地を得るといってもそれは小さいものであるし、固有の兵というものは今の一刀にはほとんど存在しない。少ない勢力は大きな勢力に潰されるというのは、世の常だ。 そんな弱小勢力である自分のところに奉孝たちのような軍師が三人もいるというのは宝の持ち腐れであると思うが、それを口にしたら、奉孝はきっと一週間は口を利いてくれないだろう。今更、彼女らが仲間であるということを疑いはしない。「何はともあれ。これで一刀殿は小さいながら領主となりました。おめでとうございます」「任地に着くまで油断はできないけどな。でも、ありがとう。俺がここまでこれたのは、皆のおかげだよ」「そう言ってもらえると私としてもありがたい。そして、これは一つの節目でもあります」 言葉を区切った奉孝は一刀から距離を取ると、その場に跪いた。仲徳、士元もそれに倣う。型どおりの臣下の礼に一刀は面食らうが、言葉を差し挟むことを許さない雰囲気が三人にはあった。「私は郭嘉、字を奉孝、真名を稟と申します」「私は程昱、字を仲徳、真名は風です」「私は鳳統、字は士元、真名は雛里です」 それは稟たちだけでなく、一刀も待ち望んでいた光景だった。 真名を預けられたことも勿論嬉しいが、それ以上に、やっと始めることができると歓喜に震えていた。有能な軍師を日陰で腐らせること幾年月。辛い思いも惨めな思いも何度もさせてしまった。 だがこれで、彼女たちがその智を振るうに最低限の土台を作ることができる。 それを思うと嬉しくて仕方がなかったが、その喜びを皆に伝える前にどうしても言っておかなければならないことがあった。「勘違いしてると困るから一応言っておくけど、俺は皆を臣下とか思ったことはないぞ。俺たちは仲間だ。ここに上下はない」「貴殿がそう思っているのは存じていますが、対外的に序列は必要です。それにいざという時、誰の言葉が最も優先されるのか。決まっているのといないのとでは大きな違いがあります。そういう時優先されるのが貴殿と認識してくれれば良いのです」「言ってることは分かるけどさ……」 詭弁じゃないか、とも思うのだ。 気持ちさえしっかりしていれば初志を忘れることはないと言い切れるほど、自分の心が強いとも思えない。命令することに何も感じなくなってしまったら、それこそ、ただの支配者になってしまう。一刀はそれが不安なのである。 そんな一刀を見て、奉孝――稟は微笑んだ。「貴殿が間違ったら、我々が正します。貴殿は貴殿の正しいと思うことをやってください。我々はそんな貴殿に可能性を見て、ともに歩くと決めたのですから」「責任重大だな」「おうおう、今更気づいたのかよにーちゃん」「宝譿。おめでたい席なのですから茶化すものではありませんよ」 仲徳――風の一人芝居も、今はありがたい。自分は良い仲間に恵まれた。心の底からそう思うことのできる自分は、間違いなく幸せ者だ。「頑張りましょうね、一刀さん」「これからもよろしくな、雛里」 先の折れたとんがり帽子をどけて、直接雛里の頭を撫でる。出会った頃はそれこそ小動物のように怯えていたものだが、今はこの手を目を細めて受け入れてくれている。小動物という感想に変わりはないが、最初を雨の中の子犬とするなら、今は炬燵の中の猫とでも言えば良いのか。気持ち良さそうに小さく唸る様は、見ていて心地良い。 そのまま放っていたら何時までも頭を撫でていたかもしれない一刀を現実に引き戻したのは、稟の大きな咳払いだった。それに驚き慌てて距離を取った雛里は、その勢いで転んでしまう。 すいません……と帽子を押さえて立ち上がる様には哀愁すら漂うが、助けに入ることを稟が許してくれそうになかった。 視線が冷え冷えとしているのを感じる。見せ付けるように頭を撫でたのがいけなかったのだろうか。 しかし、一刀の手は自然と出ていたものだ。これをしないという選択肢はありえなかった。 ならば稟の頭を撫でればそれでイーブンかとも考えるが、彼女が頭を撫でられて喜ぶとも思えない。 何か別のことで埋め合わせをしようと、心に決める。言葉に出しても良かったが、今この件に関して口にすると、余計な雷が落ちそうな気がしたのだ。真名を預けられても、稟に怒られるのは怖いのである。「さて、領地を得ると決まりましたがそれまでにすることは山ほどあります。挨拶周りに根回し、資材や人材の準備もしなければならないでしょう。できる限り早急に出立できるのが望ましいですが、その辺りは孫策殿の予定を加味して決めるのが良いでしょう。ともあれ、貴殿にも我々にも暇はありません。これからしなければならないことを挙げていきますから、きちんと覚えてください」「ちょっと待ってくれ。今メモを探してくる」 書くものを探している最中にも、稟はこれからするべきことの列挙を始めている。慌てる一刀を風は微笑ましく、雛里ははらはらとした表情で見つめていた。 結局、メモを見つけるまでに早口気味だった稟の説明は終わっていた。 新たな生活を始めるというのに、そのスタートは貴殿には準備が足りないという説教から始まったが、一刀をはじめ誰一人暗い顔をしてはいなかった。 皆で思い描いていたことが、実現したのだ。こんなに良い日は、ない。 怒涛の一週間が過ぎた。 稟の挙げたしなければならないことというのは思っていた以上に多く、一刀と軍師三人で分担してもすぐには捌ききれるものではなかったのだ。 一刀がいなければ処理できない案件が多いのである。代理の人間でも処理できないことはないのだが、それらには出世する一刀の顔を売る側面もあるために、本人がいなければどうしようもない面もあった。 結果、一つしかない一刀の身体では処理が追いつかず、処理待ちの案件ばかりが溜まっていく。 思うように仕事が進まないことに稟辺りはイライラしそうなものだったが、思うように進まないこの雰囲気を楽しんででもいるのか、最近の稟は何だか機嫌が良かったりする。 いつも薄い不機嫌を纏わせているような稟を見ているため、機嫌の良い稟を長く見ていると逆に『もうそろそろ爆発するのでは……』と言い知れない不安に襲われる一刀だったが、女性の態度がころころと変わるのは経験として知っている。 今の稟はどの程度不味いのかと、仲間の中では最も付き合いの長い風に聞いてみるが、彼女はいつものふわふわとした態度であれなら大丈夫という太鼓判を押していた。 風が大丈夫というのならそうなのだろうが……環境が変わろうとしている最中だからなのか、今までならばスルーできたことがどうにも目に付いて仕方がないのだった。 それでも、時間は流れ進んでいく。 北郷一刀の立場は甘寧隊の暫定副官から県令へと立場が着々と移行していた。 領地を得るということを甘寧に報告した時、彼女は長く沈黙してから祝いの言葉を述べてくれた。甘寧隊の面々も残念だと言ってくれささやかではあるが祝宴を開いてくれた。同じ釜の飯を食った仲間が出世するのに喜ばない人間はいないと、心に響く言葉を言ってくれたのは良いが、要は何かと理由をつけて酒を飲みたかったのだろう。 最初からペースを考えずに浴びるように飲みまくる乱痴気騒ぎは日が沈んでから日が昇るまで行われ、最終的に甘寧の拳で持って終局となった。頬は今でも思い出したように痛むが、今までで一番楽しかった宴席だったのは言うまでもない。 領地まで連れて行く兵については孫策に相談し、北郷隊の中からどうしても着いて行きたいという人間がいれば引き抜いても良いという許可を貰った。この時勢に少数とは言え兵を引き抜いていくのは心苦しくはあったが、その好意はありがたかった。 隊の人間全員ときちんと話をし、約100人の中から16人を引き抜くことが決まった。 それが多いのか少ないのか一刀には分からなかったが、孫呉で働くよりもこちらにいたいと言ってくれた仲間である。16人で一緒に挨拶にきてくれた時には、思わず涙したものだ。 その16人の中には当然のように子義もいた。待遇が孫呉の方が良いだろうことを全く理解していない可能性もあったので、この上なく噛み砕いて何度も説明したが、彼の結論は変わらず『団長と一緒にいるのが良いんです』ということだった。 ちなみに、子義からも真名を預かっている。 稟たち三人に遠慮していたらしく、彼女らが預けたら自分も預けると心に決めていたのだそうだ。 というか、二年近く付き合っているのに、子義が字であるということをその時初めて知った。 彼は太史慈。『字』が子義で、真名を要というらしい。 太史慈と言えば一刀でも聞き覚えのある名前の一つである。既に『郭嘉』や『程昱』が周囲にいることに比べたら、そこに一人加わるくらい誤差のようなものであるが、最初から言ってくれればまだ心構えもできた。 何で言わないんだと食ってかかったら、知ってるもんだと思ってましたとあっけらかんと答えられてしまった。稟や風は要が太史慈であると知っていたらしい。村から出てきた人間は言わずもがなだ。二年もの間、知らなかったのは自分だけという間抜けな状況だが、へらへら笑う要を見ていると、そんな悩みもどうでも良くなってしまう。 何より、彼がついてきてくれるというのは心強いし楽しい。 それに比べればどんな問題も些細なものだった。 稟たちと真名の交換をしてから一週間、一刀は洛陽の街を駆け回っていた。あらゆる役所に行き、商人のところに行き、知己になった人間に挨拶に行き、諸侯にも会えるだけ会う。 孫策軍の主だった面々には早急に挨拶を済ませ、残りの諸侯にも顔合わせを……と努力はしたのだが、時間が合わずにほとんどを達成することができなかった。 馬超軍は出立の準備で忙しく曹操軍はアポを取れず、雛里のコネを期待していた劉備軍はどうも上層部でゴタゴタがあったらしく誰も時間の都合がつかなかった。 顔を売る機会が潰れてしまったことを稟は嘆いていたが、逆に一刀は安心していた。偉い人間と顔を合わせて、何を話して良いのか分からないからだ。劉備だの曹操だの、三国志の英雄との場で呂布と戦ったことなど話題に出されたら恥ずかしさで死んでしまうかもしれない。 そんな中、文謙だけは時間の都合をつけてくれ、近況を報告することができた。領地を持てたと報告すると、まるで自分のことのように喜んでくれた。彼女は、変わらずに曹操に仕えるのだと言う。お互いの息災を祈り、一度二人で食事をしてその場は別れた。文の遣り取りをする約束を取り付けていたので、領地で落ち着いたら文を出そうと思っている。 荀彧には会うことができなかったが、彼女にはどうしても自分から今の状況を伝えなければいけないと思い、手紙にして近況を報告することにした。直接、荀彧に当てたものを一通と、荀家を経由したものを一通。内容は同じであるが、何かの間違いで届かないことを考えると、保険をかけておくに越したことはなかった。 もっとも、荀彧のことだからこちらの動きくらい既に掴んでいる可能性はある。 旅立つ前に顔くらいは見たかったが、ただの県令(予定)であるこちらと違い、あちらは立場も仕事もある身だ。諸侯と時間が合わなかったのと同様に、会えない可能性は十分に考えられることだったが、寂しいものは寂しい。 任地に行けばより一層会えなくなるだろう。手紙のやりとりくらいはできるだろうが、顔を見る機会は激減する。 もしかしたらこれが最後の機会かもしれないのだ、と思うと顔を見たいという気持ちは募るばかりだったが、そんな気持ちであることを知ったら、荀彧はきっと嫌悪の表情を浮かべてこういうだろう。『気持ち悪い……』 罵詈雑言すらない。ただ一言、呟くように言うに決まっている。 諸侯に空振りした時点で、諦めも半分はついている。出立の日までアプローチは続けるつもりだが、どうしてもという訳ではない。北郷一刀の予定と荀彧の予定では、あちらが重いのは当然のことだ。 凡人一人の我侭で、要人の予定を狂わせる訳にはいかない。寂しくはあるが仕方のないことだと自分を納得させ、今日は要と共に洛陽の大路を行く。 今日は役所に任地の状況の確認に行った。通信網が発達していないこの時代では、任地までいかなければ分からないことは多いものの状況報告は義務付けられているため、専門の役所に行けばそれを確めることができる。 任命書を持って朝から役所に行きそれを調べていたのだが……酷い状況かもしれないと散々脅しをかけていた稟から言われていたよりはずっとマシな環境だと書面からは察することができた。 しかし、実際この通りという保障はどこにもない。 この書類が提出されてからの間に変わることだってあるし、そもそもこの書類が正しいとも限らないのだ。役人が賄賂で私腹を肥やすなどよくある話で、それで民が圧迫されているのだと思うとまだ赴任してすらいない任地のことであっても、気が気ではなかった。 自分が有能であるとは思わない一刀だったが、少なくとも汚職に手を染めたりはするまいと心に決めている。自分にできる範囲のことで全力を尽くそうと、改めて心に誓った。「団長、今日はこれからどうするんでしたっけ」「事務所に戻って稟たちと打ち合わせだよ。明日商人と会うから、その準備をしないといけないんだ」「物を買うだけでしょう? それで何で準備がいるんです?」「長い付き合いになるかもしれないから、舐められるといけないそうだよ。俺は綺麗な格好をして稟の横に突っ立って、もっともらしい顔して頷くのが仕事らしい」「それじゃ団長いらないじゃないですか」「俺もそう思うんだけどね。そうもいかないってのが実情らしい」「大人の世界ってのは面倒くさいですね、本当に」 単純に生きている要らしい感想である。面倒くさいことに関わらず、難しい話をされるとすぐに逃げ出すフットワークの軽さは、相変わらずだった。一刀についてくる兵の中では古参であり、その実力から稟たちを含めて全員に一目置かれてはいるが、その気質から長のつく仕事は任せられそうにない。 優秀には違いないのだが、今一歩足りない……と稟などは愚痴を漏らしているが、兵や護衛としては十二分に役に立っていることだし、一刀本人はこれで良いと思っている。要にはやりたいようにやらせるのが、今のところ唯一の使い道だ。 それで使いものにならないのではあれば考えもするが、兵や護衛としては優秀であるのは稟も認めるところである。きっちりと与えられた仕事はこなしているので、稟であっても強くでることはできない。 北郷隊の中でも、ある意味最も特殊な立場にいるのが要だった。「それにしても今日のラーメンは美味かったですね。いつも行くところよりちょっと高めだったみたいですけど」「たまには良いだろ? 昨日街を歩いてたらこの前食ったこと思い出してさ」「この前は誰と行ったんです? 軍師先生とですか?」「……誰だったかな。ちょっと記憶にない。まぁ、美味かったんだから良いだろ?」 脳裏に不敵な笑顔を浮かべた伯和が過ぎる。別に秘密にすることではないのかもしれない。街で出会って、それきりの少女だ。疚しいところは何もないし今は連絡を取る手段もない。 ただ、人によっては良くない想像を掻き立てられる可能性もあることから、何となく秘密のままになっていた。街で出会った女の子と一緒に食事をした。言葉にすればただそれだけの関係でも、邪推することは十分にできる。 そもそも見方を変えればナンパしてデートしたと言えなくもない。雛里よりも幼く見える少女をひっかけたとなれば、弾劾裁判は免れないだろう。ロリコンの汚名を着せられては、一刀の信頼も地に落ちるというものである。「全くです。美味かったんだから何も問題ありません」「お前がそういう奴で助かったよ」 深く物を考えない要の性質に、一刀はこっそりと安堵の溜息を漏らした。「わふ!」 一刀の元に小さな来客があったのはその時である。 気づけば足元に子犬が纏わりついていた。茶色い毛並みの人懐こい奴で、首には赤い布を巻いている。良く手入れされている雰囲気から飼い犬だろうと言うのは分かるが、いつまで立っても飼い主は現れない。「迷子かな……」 抱き上げてみても、子犬は抵抗しないどころか一刀の頬を舐めてくる。どういう訳か気に入られてしまったようだ。気に入られるということに、子犬相手でも悪い気はしなかった。 「こいつを探してる人はいないみたいですね」 要が周囲を探しながら呟く。隠れているのならばまだしもあちらもこの子犬を探しているのなら、要に見つけられないということはない。やはり飼い主はこの近くにいないという結論になるが、それは同時にこの愛すべきかわいい子犬が迷子であることを意味していた。「軍師先生に怒られませんか?」「放っておくのもかわいそうだろ」「そりゃあそうですが……」 今日出会ったばかりの子犬のために、稟たちに怒られることは要には抵抗があるようだった。ぼんやりと不満の感情を顔に浮かべるが、強く反対することはしていない。「お前だけでも帰って良いよ。俺が勝手にこいつの飼い主を探し始めたって言えば、お前は怒られないはずだ」「団長だけ怒られるのもかわいそうじゃありませんか。お付き合いします。二人で探した方が、飼い主も早く見つかるでしょう」「悪いな」「今度またラーメンでも奢ってくれれば良いですよ」 要に悪びれた様子はなかった。付き合うのが当然だといった風であるが、要の場合不味い状況になったら逃げるという選択肢もありうる。稟相手に退避行動が取れるのは一刀の知る限り要だけだ。ある人間はそれを勇気ある行動と褒め称えるものの、一刀はそれがその場しのぎでしかないことを知っている。 逃げられた程度で叱責を諦める稟ではないのだ。彼女は怒るべきと判断したら、例えどれだけ時間がかかっても改められていない限り必ず怒る。要も例外ではなく逃げ切れたことは一度もないのだが、結構な頻度で要は稟の前から逃走する。 今度こそ逃げてやるという使命感すらその背中には感じられた。間違った方向に成長している要であるが、稟相手にそれができるというのも、それはそれで頼もしく思える。「さて、お前のご主人様はどこにいるのかな」 顔を見合わせて子犬に訪ねると、子犬は一刀の手を離れ地面に降りた。そのまますたたと歩き出し、少し離れた所で一刀を振り返った。「ついてこいってことでしょうか」「迷子じゃなかったのかな」 だとしたら随分間抜けなことをしたものだと思う。稟たちとの待ち合わせもあるし、帰っても良いかという考えが一刀の脳裏を過ぎるが、あのかわいい子犬の飼い主に会ってみたいという思いもあった。「……あいつの足ならそんなに遠い所でもないだろう。ちょっと挨拶したらすぐに帰れば、稟も目くじら立てたりしないはずだ」「そうですか? 何か俺は係わり合いになるべきじゃない気がしてきたんですが」「あんなかわいい犬の飼い主が悪い奴なはずないだろ」「それはそうかもしれませんが……」 ぶつぶつ文句を言いながらも、要はついてきた。基本、一刀の行動には口を挟まない要だが、今日この日に限っては帰りませんかということを良く口にした。 流石にいつもはないことであるので一刀も要のその『悪い予感』が気になり始めたが、そんな気持ちが湧き上がった頃には子犬はある屋敷の前で足を止めていた。大路から外れて十分ほど。閑静な住宅街に位置する屋敷だった。 周囲には同じくらいの規模の屋敷が見られるが、どれも人気が感じられない。董卓軍の幹部が使っていた屋敷が近くにあったため、この辺りに住んでいた官僚などは別の所に居を移したはずだ。 であるから、屋敷の規模の割りに手は入っておらず、寂れた雰囲気を感じさせる。まだ人が住む分には問題なかろうが、後三ヶ月もすればそうも言っていられなくなるだろう。 こういう屋敷をどうするのか。洛陽の治安を守る上での課題の一つであるが、一刀の立場でそれを気にしてもしょうがない。それよりも今は子犬の飼い主だ。「お前のご主人様、ここに住んでるのか?」 一刀の問いに一鳴きすることで答え、屋敷の中に正面から入っていく。門は開け放たれていた。遠めに覗く分には人の気配はないが、果たして廃墟とは言え、金持ちが住んでいそうな家に足を踏み入れて良いものか。 要を見ると、無言でやめましょうと訴えているのが見えた。口にしないところを見るに、確定的な危険を感じ取った訳ではないのだろうが、しかし、悪い予感は今も消えていないようで居心地悪そうに佇んでいる。「挨拶して帰るだけ、ってことで」「……お供します」 妥協点としては中途半端な案を採用した一刀は、子犬を追って屋敷に足を踏み入れた。門を潜り、庭にさしかかっても人の気配はない。無人の庭を子犬は横切っていくが、その庭にあった痕跡を一刀は見逃さなかった。 何かがいた形跡がある。人間ではない。獣の類が群れていたような跡があるのだ。足跡だったり糞であったり様々だが、問題はそれが放置されていないということだった。糞は明らかに片付けられているし、足跡も消えているところとそうでないところがある。 それは、庭のメンテナンスをした人間がいるということ、そしてここには、子犬以外にも獣の類がいるということである。 ならばその獣たちはどこにいったのか……一刀が考えを巡らせていると、要が声も挙げずに体当たりをしてきた。 全力の体当たりに一刀はなす術もなく突き飛ばされる。地面に倒れながら振り返ると、要が抜剣したところだった。その背後に、大槍を振りかぶった影がある。 その槍を、要は受けきることができなかった。跳躍力と落下速度も加えた大上段からの一撃である。腕が立つとは言え、要の細身ではそれを受けきることができず、そのまま弾き飛ばされる。 数打の剣は半ばから断たれてしまったが、その身を守るという使命は果たしてくれた。本来であれば要の身体を真っ二つにしていただろう一撃は、要の肩口を浅く斬るだけに留まった。 殺し損ねた。その事実に襲撃者は意外そうな顔をする。本当にこれで殺すつもりだったのだろう。要がまだ生きているのが信じられないという様子だったが、それで手を止めるようなことはしなかった。着地すると流れるような動作で石突を繰り出し、要の鳩尾を打つ。 一瞬で、要の意識は刈り取られた。なす術なく崩れ落ちる要に一刀は声を――挙げられない。 首の裏に突きつけられる刃物の感触に、一刀は呼吸を含めた全ての動きを止めていた。「なんや、勢いで生かしてもうた……」 頭をかきながら要を引き摺るのは、一番最初の襲撃者だった。 いや、こちらが侵入者であるのだから、彼女は撃退者か。 上半身はさらしに上着を羽織っただけという扇情的な装いで、吊り目気味の目に髪をアップにまとめている。これに下駄と袴を合わせるという、この世界で出会った中でもっとも奇抜なファッションをしたその女に、一刀ははっきりと見覚えがあった。「張遼将軍……」「なんや、ウチのこと知ってるんかいな。見たところどっかの兵みたいやけど……まぁ、こっち側ではないやろな。そんなに強そうやないし」 要を適当に放ると張遼は腰を降ろし、こちらに視線を合わせてきた。さらしに包まれた豊かな胸がアップになるが、それを鑑賞するだけの余裕はない。猫のようなくるくると表情の変わる色をした瞳だが、こんな邪気のない顔をしたまま、この人間は人を殺すことができる。 今まさに、自分は命を握られているのだ。 その事実が、一刀の心臓を強く締め付けていた。プレッシャーで吐きそうになるのを堪え、どうにか、張遼を見つめ返す。「根性座っとらん訳じゃないみたいやけどな。しかし自分、なんでこんなところにきたん?」「首に赤い布を巻いた犬に連れられまして……」「セキトに?」 その声は背後から聞こえてきた。邪気以前に抑揚の感じられない声だったが、不思議のその声は一刀の心に染み渡ってくる。間違いなく聞き覚えのない声だったが、その声を聞いた瞬間、一刀の悪寒はかつてない程に高まった。今すぐこの場から逃げなければ、殺されるという死の恐怖が一刀を支配する。「自分運ないなぁ……子犬についてきてこんな目にあっちゃ、割りに合わんやろ」「今は少し、後悔しています」 要の忠告に従っておけばと全力で後悔したが、それも後の祭だった。「そんな訳で、悪いとは思うんやけど、自分には死んでもらわんとならんのや。せめて苦しまずに殺したるから、あまり恨まんといてな」 銀木犀に手をかけることも許されない。ゆらりと、殺気すら纏わないまま張遼が大槍を振りかぶった。 これに抵抗する術はない。身体を支配していた恐怖はもはや一刀の認識を振り切っていた。汗は流れきり、口の中はカラカラに乾いている。自分の危険を認識するほどの余裕すら、今の一刀にはなかった。 振り下ろされた槍が、戟に受け止められる。自分を殺すはずの刃が目の前で受け止められている様に、一刀の時間は再び動き出した。小さく、悲鳴が漏れる。喉が渇きすぎて、声が声にならなかった。盛大にむせて、その場に崩れ落ちる。 地面に跪いたまま見上げたその先、自分を助けた戟を持っていたのは、あの日、自分を殺そうとした飛将軍だった。 感情を映さないガラス玉のような瞳が自分を見つめている。「なんや、恋。この兄ちゃん殺さへんの?」「セキトが駄目って言ってる」 這いつくばったまま見れば、ここまで一刀を連れてきた子犬がつぶらな瞳でこちらを見つめていた。視線が合うと、大丈夫だといわんばかりに力強く頷いてくる。犬に助けられた事実に、一刀の口から乾いた笑いが漏れた。 パチリとウィンクをしてセキトに感謝を伝えると、彼はかわいらしくも力強くわふ、と吼えた。「どうしても駄目か」「どうしてもダメ」「そっか……なら、仕方ないな」 折れたのは張遼だった。大槍を肩に担ぎなおすと、その場にどっかりと腰を降ろす。 「とりあえず殺すんは止めにするわ。兄ちゃん、セキトに感謝しとき」「俺たちは助かったんでしょうか」「とりあえず言うたやろ。これからどうなるかいうんは、ウチにもわからん」「そうですか……」 一刀は安堵とも落胆ともつかない溜息を漏らした。 とりあえず、というその場しのぎの言葉が、これほど身体に染み入ったことはない。大の字になって、地面に寝転ぶ。生きている。ただそれだけなのに、それがやけに嬉しい。「兄ちゃん、ウチのこと知ってるんやろ? どこの兵だったん?」「孫策軍、甘寧将軍の元で此度の戦に参加しました。氾水関、虎牢関でも従軍しています」「あー孫策軍かぁ。アホ袁術の下で苦労してるって聞いてるで」 張遼のトーンはもはや、友達のそれである。気安く微笑み、肩まで抱いてきそうな勢いに一刀は面食らう。将軍ではなく、張遼個人の気質はこうなのだろうが、命の遣り取りしかしてこなかった人間にいきなり友達になられても、戸惑うばかりだった。 それでも答えることができたのは、張遼の気質のなせる技なのだろう。少し話しただけであるが、張遼が悪い人間でなさそうというのは、一刀にも感じられた。「せやったら、そっちの呂布も知っとるん?」「存じ上げております。虎牢関で――」「覚えてる。虎牢関の外で戦った」 答えたのは一刀ではなく、当の呂布だった。一刀の命の恩人たるセキトを膝にだき、地面に腰を降ろす。 殺されかけた人間が隣に座ったことで、相対した時の恐怖が蘇るが、それ以上の驚きが一刀を支配していた。 天下の飛将軍が、覚えていると言ったのだ。 これには張遼も驚いたようで、目を丸くして呂布を見つめている。「珍しいなぁ。恋が戦った相手覚えてるなんて。とっぽいように見えてこの兄ちゃん、そんなに強いん?」「大したことはない。でも、殺し損ねた。殺したと思って殺し損ねたのは、生まれて初めて。だから覚えてる」 ほー、と張遼が溜息を漏らす。細められた目は、獲物を狙う狩猟者のそれだった。「……そう言えば、噂で聞いたなぁ。天下の飛将軍を退けた兵が孫策軍におるって話。なんや、それが兄ちゃんのことやったんか」「俺の剣が運良く将軍の戟を受け止めてしまっただけですよ」「恋の戟かて相当な業物やで? それを受け止めるなんて一体どんな名剣使ってるんや。ちょっと見せてもらってもええか?」「構いませんよ」 本音を言えば他人に触らせるのは嫌だったが、かの張遼を相手に断れるほど一刀の心は強くなかった。渋々といった雰囲気は出さないように気をつけながら、腰から鞘ごと銀木犀を外し、張遼に渡す。 張遼は鞘から銀木犀を抜き放つと、日の光に翳した。角度を変えて眺めてみて、ほぉ、と感嘆の溜息を漏らす。「随分な業物やな。一兵士が持ってて良いもんやないけど、兄ちゃん、どっかのボンボンやったりするん?」「ただの雇われの一兵士です。その剣はお世話になったさる屋敷を発つ時に、餞別として頂いたものです」「嘘つき、盗んだんやろ? と普通なら言うんやけど、兄ちゃんがそう言うならそうなんやろ。これをくれた人間には、感謝しとき」「今度、感謝の手紙でも贈っておくことにします」 それを読んでくれるか分からないが、と心中で付け加える。「さて、これからどうしようなぁ。孫策軍の兵やいうなら益々見逃す訳にはいかなくなったんやけど」「どうにか生かしてもらえませんかね。俺、まだ死にたくはないんですが」「うちも別に殺したい訳やないんやけどな。のっぴきならん事情ってもんがあるんよ。そのためには兄ちゃんには死んでもらうんが一番手っ取り早いんやけど……どうしたもんかな」 助けを求めるように、張遼は呂布に視線を向けるが、呂布はセキトを撫でることに夢中で、興味を示そうともしない。話を聞いているのかも怪しかった。命を助けてくれたのだからもう少し興味を持ってくれているのかと思ったが、自分の意見が通った時点で、興味の対象からは外れたらしい。 呂布は当てにならないことを察した張遼は、深々と溜息をついた。将軍という立場であったのだから、色々と考えることは多かったのだろうが、話してみた限り、軍師のような思考が得意というタイプには思えない。自分と比較すればそれは頭は回るのだろうが、考えるよりは身体を動かす方が得意、というタイプに思えた。 それでも張遼は考え、悩んでいる。悩む顔には、人の良さが滲み出ていた。「ここで将軍たちに出会ったことは、決して口外しないと約束しますが」「それが絶対という保障はないやろ。漏れたら困るんや」「将軍たちほどの武人ならば、諸侯も無碍にはしないと思いますが……」 そこまで口にして、一刀は一つの可能性に至った。 一騎当千の猛者である呂布と張遼が、まだ洛陽に留まっている事実。その気になれば単騎でも包囲を突破し、安全圏まで逃げ切れるだけの実力があるのに、彼女らはここにいる。 つまり、留まらなければならない理由があるということだ。 そして一刀の想像の及ぶ範囲で、この二人が無駄な危険を冒してまで洛陽に留まるほどの理由は一つしかない。「やっぱり、兄ちゃんには死んでもらわんといかんのかなぁ」 表情から何かを察したことを感じ取ったのだろう。哀愁漂う口調で張遼が呟く。その手には大槍が握られていた。呂布も戟を握って立ちあがる。セキトも一刀を守るように、一歩前に進み出た。 また自分の関係ないところで、自分の命運が決定しようとしている。かつて自分の命を脅かした存在が、かたや自分の命を守るために、かたや自分の命を奪うために。 訳が分からなかった。 今もピンチが継続中なのは理解できる。今のうちに逃げるということもできない。要を見捨てて逃げられないし、この二人を相手に逃げ切るなど、できるはずもない。 今はっきりと、自分の命は他人に委ねられた。いつも通りのことだと笑うこともできない。勝手にしろと笑うには、自分と要の命は重すぎた。 呂布と張遼は一触即発の雰囲気である。 せめて巻き込まれないよう、少しずつ、少しずつ地面を這って二人から離れる。 それすら見咎められるようならもう命を諦めるしかなかったが、既に臨戦態勢に入っている二人にはお互いしか見えていないようだった。 それでも、本格的に逃げようと行動に移せばすぐに看破されるだろう。 一刀にできるのは要を引き摺って少しでも安全な場所に移動することだけだった。「やめてください!」 場に満ちた気だけで人を殺せそうな殺伐とした空気の中、二人を止めたのは少女の声だった。 その声に、二人の殺気が霧散する。呂布は淡々と、張遼は困惑の表情を浮かべて声の主の方を見やった。一刀も、それに追従する。 屋敷の奥から少女がやってきた。装いこそ質素ではあったが、ついて歩く人間の多さからこの集団の中で重要な位置にいることは見て取れた。少女は鬼気迫った表情でこちらに歩いてくる。「仲間同士で戦うなんて、絶対に駄目です。お二人とも、武器を下ろしてください」「でもなぁ、この兄ちゃん何とかせんことには、手詰まりやで?」「それでも、です。私達の都合で関係のない人が死ぬなんて、私は耐えられません」 少女の言葉に張遼は武器を降ろし、その場に膝をついた。戦う意思はないというアピールである。呂布は既に戟を手放していた。セキトを腕に抱えなおし、一刀から離れた位置に腰を下ろしている。 二人の戦いが未然に防げたことを確認すると、少女は地面に降り、こちらに歩み寄ってきた。 肩口までの銀色の髪には少しの癖があり、額を出すように纏められたそれは丁寧な手入れをしていることを伺わせる。振る舞いからや雰囲気から育ちの良さは見て取れるが、ただのお嬢様という雰囲気ではなかった。 ただの美少女ではない、というのは見ただけでも分かる。 そして、この状況で呂布と張遼を従えることのできる人間を、一刀は一人しか知らない。 一刀は張遼と同じように姿勢をただし、跪いた。「俺は北郷一刀、姓は北郷、名が一刀。字はありません」「私の仲間が失礼しました」 「私は董卓。字を仲穎と申します」