「今日も疲れたわね」 兵舎の天幕三つ分ほどの広さを誇る個人用の天幕。そこに置かれた背もたれ肘掛のついた椅子に雪蓮は身を投げ出すようにして座った。そのまま、うーん、と伸びをする。背筋を伸ばすことで強調される豊かな胸。惜しげもなく晒されるすらりとした長い脚。女の自分でもどきりとせずにはいられない色香がある。男の兵には、相当な目の毒だろう。「今日も募兵に応じる人間は来るかしら」「でしょうね。払いが良いという噂は明命を使って広めてあるし、私達の場所は分かるようにしてある。この辺に住んでいて戦で稼ごうと考える人間は、こぞって孫呉の軍を目指すはずよ」「使える連中はいた?」「中々いないわね。ままならないものだわ」 はぁ、と冥琳は小さく溜息を吐く。 人材確保は、兵数を袁術に制限されている孫呉にとって急務である。長いこと兵の増員は却下され続けてきたが、有事ということでその制限が解除されているのだ。新たに雇用するのは今まで土を耕していた素人ばかりだが、思春が調練をほどこし、洛陽に辿り付くまで実戦を経験すれば、素人も精強な兵士にならざるを得ない。 そういう人間をできるだけ多く囲いこむことが、この戦の目的の一つでもあった。雪蓮にも冥琳にも、戦全体の勝利についてはそれほど拘りはない。袁紹が召集し、諸侯が集まるのだ。これは勝って当然、そして勝たなければならない戦である。 今後の戦略についても、勝つことを前提で組まれている。その際に必要なのは兵力、次いで情報だ。兵士は道中雇用できるだけすれば良い。扱いに不満を持っている兵や将を見つけたら引き抜いても良い。幸い、蓄えだけはそこそこのものがある。 地元の豪族も、今のところ協力的だ。孫呉が飛躍するためという理由ならば、援助を惜しんだりはするまい。 金を理由に引き抜かれる人間がどれほどのものかと揶揄する人間もいる。事実、冥琳も金を理由に動く人間は好きになれないが、先立つものがなければ人間は生活できない。それが最後の一押しとなるのなら、金だって何だって使う覚悟だ。戦いにおいて数というのはそれほど重要な要素なのだ。「明命と言えば、味方の情報はどう?」「万全よ。袁術はこちらに戦力のほとんどを出しているから、領地の兵は質の悪い人間ばかり。大して私達は数こそ少ないけれど、祭様と蓮華様を将として残してきた。事前の根回し、あの二人ならば上手くやってくれるでしょう」「蓮華についてはちょっと不安だけどねー」 正直な雪蓮の物言いに、冥琳は苦笑を浮かべる。蓮華は雪蓮の妹。雪蓮の子供がいない現在では雪蓮の持つ代表の権限を真っ先に受け継ぐべき人間であるが、大器の片鱗は感じさせるものの、現在の実力は雪蓮の言う通り今ひとつだった。 蓮華が孫呉ではなく外にいたのであれば、冥琳もその実力に目を見張っただろう。今ひとつと言ってもそれくらいの実力はあるのだが……惜しいかな、彼女の姉は正真正銘の天才で、君主として申し分ない力量を持っている。 比較すべきではない。個々の実力を見るべきだと思っても、部下、仲間としてはどうしても比較してしまう。雪蓮が姉であるというのが、蓮華にとっての幸福であり、同時に不幸でもあった。乗り越えるべき壁として、雪蓮はあまりにも大きい。蓮華にとっては自慢の姉ではあるのだろうが、同時に悩みの種としても存在している。(力を持ちすぎるのも、時には考え物ね……) 今回の作戦では祭がついているとは言え、蓮華にとっては自分で指揮する初めての大きな作戦となる。 これが飛躍の一助になってくれれば良いが……と、思わずにはいられない。 雪蓮を見る。何でもない風に装っているが、このへそ曲がりが妹思いなことは冥琳が一番知っていた。この手のことでからかって怒らせると長く尾を引く可能性があるので、決して軽軽しく口にしたりはしないが、蓮華に対する感情は自分の何倍、何十倍はある。こういう時に無関心を装うのも、照れと期待の裏返しなのだ。「ニヤついてどうしたの? 気味が悪いわよ、冥琳」「そうね。悪かったわ」「悪いと思ってる感じじゃないけど、まぁ良いわ。で、他の情報は?」「曹操は思っていたよりも兵を連れてきていないようよ。精強ではあるけれど、数はそれほどでもない」「手のうちは見せたくないってことかしら。袁紹のところは?」「袁術と同じ。これ見よがしに着飾った兵が凄い数……質の方は想像の通りよ。ただ、袁紹の側近の顔良と文醜、この二人は侮れないわね」 特に、顔良だ。袁紹が愚物であるとは周知の事実であるが、その愚物を陰日向に支え、勢力維持に心血を注いでいるのが、彼女であるという。いわば影の実力者だ。無計画な方針を袁紹が打ち出しても、軌道修正を顔良が行うことで、被害を最小限にまで食い止めている。 冥琳の目から見ても、並の手腕ではない。加えて、顔良は武にも長け、一軍を率いて戦にも出るという。文武両道とはこのことだ。袁紹のお気に入りでなければ是非とも呉に欲しいところではあるが、袁紹の愚かさと同時に二枚看板の忠誠心の高さは遠く呉にまで聞こえてきていた。 どれだけ大金を積もうとも、良い条件を出そうとも、袁紹自らが暇を出さない限り、顔良が離反をすることはない、というのが冥琳他、呉の軍師が出した結論である。それに、袁紹本人も無茶にへこたれない顔良をそれなりに気に入っているようだ。周囲にどう見えるかは別として、本人達の関係は良好らしい。「つまりその二人さえどうにかすれば、後は烏合の衆ってことでしょ?」「烏合の衆でも数がいれば脅威よ」「それを何とかするのが軍師の仕事でしょ。その時は期待してるわよ、冥琳」「はいはい……」 呆れた風を装って見るが、雪蓮に頼られることに悪い気はしない。彼女の軍師は自分しかいないのだと、思える瞬間である。「明命です! 入ってもよろしいでしょうか!」 静かな喜びに冥琳が浸っていると、天幕の外から声がした。密偵役の明命である。定時の報告の時間ではない。何か緊急の案件だろうか、と雪蓮と視線を交錯させ、冥琳は入室を許可する。 失礼します! という声とほぼ同時に、二人の前に跪いた少女の姿が現れる。相変わらずな身のこなしに感心しながらも、冥琳は雑談する幼馴染から孫呉筆頭軍師の顔に戻って、明命に先を促した。「報告します。本日も募兵に応じて近隣の住民から志願する者が現れました。現在数は二百。まだ増えておりますので、正確な数字は改めてご報告に参ります」「そんな嬉しい報告をしにきた訳ではないな? 用件を早く」「はい。その中に五十人ほど……正確には四十八人の集団がありました。ここまで来る道中で志を説き、兵を募ってきたそうです」「ありがたいことだけど、五十ってのはちょっと少ないわね……」「個人で集めたらそんなものでしょう? それで、その約五十がどうしたの?」「その中の三人が、お二方に会わせろと言っています。何でも自分達は旅の軍師であるから、特別に用いてほしいと」 明命の物言いに、冥琳と雪蓮は思わず顔を見合わせた。「どうする?」「追い返すというのも一つの手よ」「追い返したら兵も帰っちゃうわよ?」「五十なら誤差みたいなものでしょう。兵士と違って軍師は頭数がいれば良いというものでもないわ」 孫呉は勢力の規模に比べて軍師が多く、兵士ほど不足している訳ではない。別働隊である蓮華の部隊により軍師の数を割いたため、頭数で言えば不足していると言えばしているが、それは冥琳と穏だけでも、十分に処理できると思ったからこそだ。「冥琳は必要ないと思うの?」「末端の処理を文句を言わずにやってくれるというのなら良いのだけどね。この時期に登用を望むということは、そうじゃないということでしょう」「良いんじゃない? 野心ある人って私嫌いじゃないわよ」「野心の方向性が問題なのよ。大事な時期に問題を自ら抱え込んでどうするの……」「そう? 仲良くやっていけると思うんだけどな、私」「根拠を聞かせてもらおうかしら」「勘よ、勘」 あっけらかんと言ってのける雪蓮に、冥琳は押し黙る。勘に頼って行動するなど、軍師の許すところではないが……「貴女の勘は当たるのよね……」 その勘に、何度か命を助けられたことがある。閃きと、その閃きに命を預けることのできる決断力が、雪蓮の魅力の一つだ。武将として、友人として、何度も道を切り開いてきたそれを持ち出されては、冥琳も首を縦に振らざるを得ない。「貴女の勘に敬意を表して、とりあえず会うだけはあってみましょうか」「ありがとう、冥琳」「ただし、使えないと判断したら放り出すから、そのつもりでいてちょうだい」「大丈夫よ。きっと使える人たちだから、あ、そうだ。会うついでに試してみたいことがあるんだけど――」 そう言ってにやりと笑う雪蓮の顔を、冥琳は何度も見たことがある。彼女の決断は結果として間違うことがない。雪蓮という人間は、閃きで最良の選択を選ぶことができる、正真正銘の天才だ。 ただ、天才はその過程にまで頓着しない。結果さえ自分の望むものであれば、道中どんな厄介ごとが待っていたとしても、笑いながら弾き飛ばして突き進むのである。力強い本人はそれで良いかもしれないが、道を共にする人間にとっては堪ったものではない。 そして大抵の場合、道を共にするのは冥琳の役目だ。面倒くさいことになりそうな気配に、いっそ聞く前から却下してやろうかという気持ちが冥琳の中で持ち上がる。強行に反対すればいくら雪蓮でも聞き入れてくれるだろう。却下するなら今しかないのだが……「解ったわ。ただし、あまり大掛かりなものはなしよ」「流石冥琳。愛してるわ」 ぎゅー、と気持ちを込めて抱きしめられる。飼い猫のように喉を鳴らす雪蓮の髪に、冥琳はぽんぽんと手を乗せた。上手く乗せられた気がしないでもないが、雪蓮が満足するならそれも良いかなと思える。 何だかんだ言って、冥琳は雪蓮という人間が好きなのだった。話を聞く理由など、それだけあれば十分である。 周泰と名乗る少女に先導されて、稟は歩いていた。傍らにはいつも通りぼーっとした風といつも以上におどおどした士元がいる。風に関しては何も心配していないが、士元はもう少しどうにかならないものかと思う。 半年ほど前には自分と話すのにも一苦労だったことを考えるとこれでも進歩した方だが、人と話すのを苦手としているようでは、軍師として仕事ができない。 士元に視線を送る。もう少ししゃんとしなさい。声に出さずに念じただけだったが、それでも士元には伝わったようだった。背筋を伸ばし、意識して表情をキリリとしてみせる。本人的にはそれでしゃんとしたつもりなのだろう。 確かに稟にもその意思は伝わってきたが、右手と右足が一緒に前に出ている現状では、認められるのは努力だけだ。静かに息を吐く。誰にも気取られないようにしたつもりだったが、前を歩く周泰がちらりと視線を向けてきた。 非常に耳の良い少女である。よく見ればこれだけ近くにいるのに足音が全くせず、刀をさげているのに音もしない。その種の訓練を受けているのは見て取れた。 そんな少女に案内されているという事実に、もしかしたらこのまま殺されるのでは、という疑念が稟の脳裏を過ぎった。 剣を使えるには使えるが、武を専門にしている人間からすると素人も同然の腕でしかない。一緒にいる風や士元は戦うなど論外だ。兵に囲まれるまでもなく、眼前の少女一人だけでも自分たち三人の首を落とすのに瞬き一つの時間もかけないだろう。 軍師として雇ってくれといきなり現れるのも、我が事ながら怪しいものだ。今は大事な時期。疑り深い人間ならば情報を引き出せるだけ引き出して殺すということも考えられないではない。軍師と偽った殺し屋という可能性だってないではないのだ。 力ある者を多く望むのは力ない民だけだ。多くの有力者にとっては、現在、そして将来相対するだろう敵の数は少なければ少ないほど良い。力ある者を破ってこそと考えるものもいるが、理想論を大真面目に語ることができるのは、本当の強者かただのアホだけだ。「こちらが孫策様の天幕になります」 周泰に案内されたのは、陣の中でも一際大きい天幕だった。見た目の豪華さから案内されずとも一目で重要な人間がいるのだと知れる。どうぞ、と先を促す周泰。何気ない仕草ではあるが、こちらの一挙手一投足に気を払っていた。妙な動きをすれば命はないぞ、と顔ではなく行動で示している。 稟は小さく息を吐いた。行きますよ、と二人を促し、率先して天幕の中に入る。大きさに反して天幕の中は質素な装いだった。世話係一人もいない。幹部がずらりという光景を想像していただけに、拍子抜けである。 少なくとも、寄ってたかって袋叩きにされる展開はなさそうだ。嫌な安心の仕方だなと思いながら、機械的に状況を確認する。上座に椅子に座った人間が一人と、その傍らに控える人間が一人。両方とも赤い衣を纏った、肌の浅黒い女性である。 それらが孫策と周瑜であることは一目で見て取れた。礼を失してはいけない。稟は迷わずに孫策の前に跪いた。続く風と士元もそれに倣う。「お初にお目にかかります。私は郭嘉、字を奉孝と――」「あー、少し待て」 声を挙げたのは、上座に座った女性だった。跪いた状態のまま、奉孝は肩越しに振り返る。声をかけた立場が上の人間を肩越しに振り返るなどあってはならないことだが、今この状況ならば許されるという確信があった。 現に、上座の女性は肩越しに振り返った奉孝を叱責することもなく、顔には苦笑を浮かべている。その視線は奉孝と、跪かれた女性とを往復していた。頭の上で女性が肩を竦めるのが解る。何かを諦めるように、上座の女性は大きく大きく溜息をついた。「ウケると思った案が滑った気持ちはどう?」「流石に私も一瞬も騙せないと思わなかったわ」 ははは、と明るく笑いながら、女性二人は立ち居地を入れ替えた。稟も改めて上座に座りなおした女性に向かい、身体の向きを入れ替える。「改めて、私が孫策よ。そっちが軍師の周瑜。貴女たちの名前を聞かせてもらえるかしら」「私は郭嘉、字を奉孝と申します」「程昱、字は仲徳です」「ほ、鳳統です! 字は士元ともうしまひゅ」 やはりというか何というか、士元は口上を噛んだ。うぅ、と顔を真っ赤にして俯くのが気配で分かる。孫策の気質によっては機嫌の急降下が予想されたが、士元を見る孫策の瞳には慈愛の色が見られた。士元のような人間は、孫策に受けが良いようである。「最初に聞いておくけど、どうして気づいたの? もしかして私に会ったことある?」「お会いするのは勿論、お見かけしたこともありません。正真正銘、孫策様とは本日が初対面でございます」「ならどうして?」「孫策様に関しましては、容姿に関して噂を聞いたことがございました。桃色の髪に青い瞳ということでございましたので、お二方を比べた時には貴女様が孫策様であると確信できました」「髪と瞳の色だけじゃ、根拠に弱いわね。似た容姿の人間をおいて天幕の外に控えてるってことは考えなかったの? こういう悪ふざけを考えるのなら、外からこっそり見てるってことも考えられるんじゃない?」「孫策様は何事もご自分でなされることを好まれるとも聞いております。自ら仕掛けたのであれば、間近で見ようとするのではないかと推察いたしました」「……んー、少しは慌ててもらえるかと期待してたんだけどね」「申し訳ございません。これも、性分であります故」 深々と頭を下げると、孫策は笑い声を漏らした。愉快で堪らないといった雰囲気に稟は山を一つ乗り越えたことを感じた。「それで特別に用いてほしいということだそうだけど、どういうこと?」「反菫卓連合軍に参加するに当たり、我々の知恵を使っていただきたく参上いたしました」「私に仕えたい、ということ?」 笑みを浮かべているが、視線は欠片も笑っていない。こちらの考えを底の底まで読もうとする猛禽のような瞳に、背筋が震えるのを感じる。その問いにすぐに答えようとして、奉孝は一拍、間をあけた。小さく息を吸って、吐く。「私どもを雇っていただけないか、という提案でございます」 仕える気はないかという問いに、否定の意味を返す形で放たれた言葉に、孫策と周瑜は顔を見合わせた。これは『お前に仕える気はない』と宣言したに等しい。 気の短い人間ならば、ここで激怒したろう。現に周瑜の顔には不快の色が浮かび上がってきている。ここで追い出されればそれまでだ。窮地にある自分を振り返り、背筋がぞくぞくするのを感じる。 だが、策が上手く行くという確信はあった。孫策は身を乗り出して、こちらを見つめている。噂どおりの天才肌の人間。人を見る目は確かだという評判は嘘ではない。 孫策の視線に、周瑜は大きく頷いた。稟にはそれが『お前に任せる』という意思表紙に見えた。「貴女たちの値段は?」 その問いに、稟は勝利を確信した。笑みが浮かびそうになるのを隠しながら、用意しておいた答えを告げる。「我々三人に関しましては、三人で寝泊りできる天幕だけで十分でございます。後は食を保障してくだされば、それ以上は望みません」「他の連中……五十人ほど兵を連れてきたと部下が言ってたけど、彼らについて何かあるの?」「その兵の中に一人、是非使って頂きたい人間がおります」「将軍にでもしろって?」「滅相もございません。分不相応な地位は身を滅ぼすというもの。現在の彼の器量ならばどんなに贔屓目に見ても百人隊長辺りが精々でございましょう。率いてきた兵に約五十の兵を与えてくだされば、それで十分にございます」「百人隊長とはまた、低くでたものね。その彼は、どんな人?」「一言で言うなれば凡人です。知も武も特筆すべきところはありません。どちらも筋は悪くないと思いますが、その二つのどちらかで天下に飛躍することはありませんでしょう」「なんでそんな人間を売り込みにきたの?」「いつか彼が語った志というものに、僅かではありますが心を打たれました。そんな世界であるのなら、私も見てたい。そう思ったのです。彼が英傑であったならば、私も手出しはしなかったでしょう。強烈な光を放つ人間には自然と人が集まるものです。ですが、先にも申し上げました通り、彼は凡人です。一人でそれを成すには才も地力も足りない。私どもが手を貸しているのは、そんな事情があってのことです」「凡人に付き合って栄達の道を諦めてるって聞こえるんだけど、貴女はそれで良いの?」「我々はなんとなれば、独力でも身を立て名を挙げることができますが、凡百の身である彼にはそれは敵いません。我々は彼を必要としませんが、彼は我々を必要としています。同道するのはそれが理由です」「その凡人くんは、私よりも興味深い?」 孫策の視線に、背中がぞくりとした。自らに絶対に近い自信を持つ強者の視線だ。間違えた答えをすれば不興を買う。そして、ここで不興を買うことは命の危険を意味した。 否定することは簡単だが、嘘を見抜けない孫策でもないだろう。ましてここには当代最高の軍師の一人である周瑜もいる。嘘を嘘として見抜かれるようでは、軍師失格だ。僅かの逡巡の後、奉孝は正直に答えることにした。「才に溢れた貴女様に栄達の道を見出すのは容易い。凡人を導いてこそ、軍師の腕の見せ所があるというものです」「ふられちゃったわ、冥琳」 孫策は声をあげて笑った。冥琳と呼ばれた周瑜が、額を押さえて苦い顔をしている。厄介なことになった、とその表情が物語っている。自分たちの扱いに関して、二人の意見は対立していたようだった。賛成派だろう孫策が笑い、反対派だったろう周瑜が苦い顔をしている。 処遇がどうなるかは、一目瞭然だった。「良いでしょう。貴女の出した条件を一度全て飲むわ。三人とも軍師として雇用し、凡人の彼は百人隊長の地位を授ける」「ありがとうございます」「といっても、今回は新兵の比重を大きくした部隊を一つ編成するつもりなの。その内の百人隊だから言っちゃえば新兵の集まりでしかない訳だけど、そこは恨まないでね」「十分です。熟練した兵の指揮が彼にできるとも思えませんので」 ただの兵士ではないという状況こそが、奉孝の望んだものだった。ただの兵と指揮する立場とでは、つめる経験が圧倒的に異なる。知も武も突出して光るものがないのならば、可能な限り生存できる環境においておいた方が良い。相対的な話であるが、直接戦うのと指揮をするのとでは、まだ指揮をする方が一刀には向いている。「さて、凡人の彼は百人隊長として扱うよう通達を出しておくわ。新兵部隊を指揮することになる将軍はうちの娘の中でも荒っぽい方だから、下手を打つと一兵に格下げになるかもしれないけど、そこは運命とでも思って諦めてね。不相応な地位においておけるほど、私達には余裕がないの」「仰るとおりです」 環境を整えるまでが稟の仕事。そこから成果を出すのはあくまでも凡人の彼、一刀の仕事だ。戦に出る以上、そこで死ぬことだってある訳だが、その可能性については四人で議論し尽くしている。一足飛びに地位を得ることはできない。時間をかけて人を集め、力を蓄える選択肢もないではないが、時代が動くこの状況を見逃すことはあまりにも惜しい。 結局は、どこかで危険な橋は渡らなければならない。それが遅いか早いかの違いだけだ。特に一刀のような人間が飛躍しようと思ったら尚更である。 実は高貴な血筋であるとか、都合の良い背景でもあれば良かったのだが彼の出自に関してどれだけしつこく聞いても答えをはぐらかすばかりで、口を割ろうとしない。 これがお話であるのなら、ひたすらに隠そうとするその過去にこそ、その人物を飛躍させる鍵があるものだが、何が自分にとって都合良く働くかどうかを判断できないほどに、一刀も愚かではない。 誰にだって秘密にしたいことの一つや二つはある。一刀の過去も、それに触れることだと判断した稟は、それ以上を聞くことをやめていた。彼は北郷一刀で、自分はそれを支える軍師。それだけ解っていれば、現状は十分だ。話したくなれば一刀の方から話してくるだろう。「凡人の彼はそれで良いとして、しばらくは貴女たちの能力を見させてもらうわ。鳳統は私、郭嘉は周瑜に、程昱は凡人の彼が配属される新兵部隊の隊長を補佐する軍師として働くこと。今日から仕事にかかってもらうわ」 御意に、と答える中で、分散して配置されることをあまり考えていなかった郭嘉は、内心で頭を抱えていた。三人で一つの天幕という案が通り、風が一刀と同じ部隊に配属されたことで最悪の状況は免れたが、三人で顔を合わせる機会が少なくなるのはあまり宜しくない。 しかし、こればかりは文句を言うこともできない。雇い主は孫策だ。雇用される側がいきなり配置に文句を言っては流石に角が立つ。風が一刀の近くにいることができる。この状況をこそ、今は喜ぶべきだ。「お聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」 跪いたまま、風が質問の声をあげる。「風や凡人のお兄さんが配属される新兵部隊の隊長さんというのは、どういう方ですか?」「どういう方ねぇ……」 うーん、と孫策は腕を組んで考える。「一言で言うなら、かわいい娘よ」 その評価に、周瑜が噴出すのが見えた。稟を含めた三人が視線を向けると、何でもない風を装って視線をあさっての方へ向ける。 さらに噴出すのを堪えているような顔だった。嘘を吐かれているのか。孫策の顔を見ると、彼女の方は自信満々だった。自分の言葉に疑いを持っている様子はない。かわいいと思っていることは事実なのだろうが、きっとかわいいだけではないに違いない。 少なくとも、士元のように直球でかわいい人間でないことは確かだろう。会話したのはこれが初めだが、孫策が遊びを好む人間だということはよく理解できた。隙あらばこちらをからかおうとする厄介な人間。誰をしても堅物とされる稟のような人間とは、とても相性が悪い。 なるべくならば、目を付けられないようにしよう。孫策とは視線を合わせないようにしながら、稟は固く心に誓った。「お待たせしましたお兄さん」 軍団の大将である孫策に売り込みに行って来ると出て行った三軍師の内、戻ってきたのは仲徳だけだった。彼女は当たり前のようにの隣に立つと、指示があるまで待機と指示を出され手持ち無沙汰になっていた一刀達を先導して歩き出した。 金髪の美少女に五十人からなる人間がぞろぞろと連れられる様は、傍から見れば間抜けに見えるのだろう、何だこいつらは、という奇異の目がそこかしこから向けられてくる。そういう視線に慣れていない連中は居心地悪そうにしているが、仲徳には何処吹く風だった。「先生、他の二人はどうしたんです?」 そんな中、他人の視線など毛ほどにも意識しない子義が仲徳に質問する。問われることを今か今かと待っていたのだろう、振り返った仲徳の顔にはふふふー、得意そうな笑みが浮かんでいた。「風たちの頑張りで売り込みに成功しました。士元ちゃんは孫策様の、稟ちゃんは周瑜様の預かりになったので、しばらくは別行動になりますね。あ、風はお兄さんが配属になる隊の隊長さんの預かりになりましたから、これからも一緒ですがー」「大将とその側近の預かりになったのか。二人とも、いいクジを引いたもんだな」『……この場にいない女よりも今ここにいる女に声をかけてやるのが、男の務めってもんだぜ、兄ちゃんよ』「これ宝譿、めったなことを言うものではありませんよ。お兄さんの気がきかないのは、いつものことなんですから」 他人の口を借りるという迂遠な、けれどもこれ以上ないくらいストレートな方法で対応の不味さを忠告された一刀は、居心地悪そうに押し黙る。遣り取りを眺めていた面々から、笑い声が上がった。流石先生、と囃したてられもする。士元ほどではないが、見た目美少女な風はそれなりに人気があるのだ。「その気が利かないお兄さんから質問だけど、俺たちはこれからどうなるんだ?」「配属になる隊は新兵ばかりみたいですけど、気の利かないお兄さんはそこで百人隊長をすることになりました」「ということは、ここのメンバーに五十人加えるってことか」「そういう風になるように稟ちゃんが頑張ってくれたので、お兄さんは後でお礼を言っておいてくださいね」「奉孝にはいくら感謝しても足りないな」 戦場ではたった一度のヘマが命の危険に繋がる。自分の実力で百人隊長というのはでき過ぎな気もするが、意思疎通のできる面々と離れ離れにならなかったことを考えれば、その程度の苦労などどうということもない。「後の問題は、俺の上司がどういう人かってことか。どんな人か聞いてるか?」「孫策様はかわいい人と言ってましたね」「かわいいか……士元みたいな?」「…………」 今度ははっきりと、仲徳は一刀を無視した。頭の上の宝譿すら、一刀から視線を逸らしているように見える。子義以外の後ろの連中は盛大に溜息をついていた。自分の人格が全否定されたようで面白くなかったが、そこまでやられてようやく自分が失敗したことに気づいた。 しかし今から『ごめん、仲徳もかわいいよ』と言うのもそれはそれで手遅れのような気もする。頭を捻って考えてみても妙案は思い浮かばない。こんな時こそ普段の勉強の成果を発揮すべき時と思うものの、奉孝や仲徳の行う講義に女性の扱い方というのは含まれて入ない。(というより、女の子から女の子の扱い方を教わるようじゃ、男として終わりだよな……) 自分で習得するしかない訳だが、会話一つで女の子の機嫌を悪くするようでは、道は遠そうだ。沈黙する仲徳と平然としている子義、これだからうちの団長は……と小声でぼそぼそと話す団員――後から加わった者は自警団員ではないため団員ではないのだが、子義が団長と呼び続けるために、自分たちは『団』なのだという認識が定着した――でぞろぞろと陣の中を歩く。 待たされていたのは比較的外周の中でも比較的中央に近い位置だったのだが、段々と外の方へと誘導されていく。当然、外周にある物ほど重要度は低く、集まる人間の地位も下がる。兵として来たのだから当然とも思うが、それでも段々と外に追いやられていくのは一刀の心に不安を覚えさせた。 ひょっとしてこのまま人気のないところに連れ出されて仲徳に仕返しをされるのでは……と埒もない妄想が一刀の頭の中に生まれた頃、一刀たちの行く手を遮るように、男が現れた。 柄の悪い男である。身長は一刀よりも頭一つは高い。装いは一刀とは比べるべくもない正規兵のものだ。高位の者には見えないが、それなりの立場にいるのだということは一刀にも理解できた。「北郷と程昱ってのはお前達か」「俺が北郷です」「程昱は私ですねー」 男は一刀と、一歩だけ前に出た仲徳をじろじろと眺め回す。値踏みをするような視線に身が固くなるのを感じたが、男が一刀達を見ていたのは僅か数秒だった。「お前達二人はついてこい。頭に引き合わせる。残りの連中は――」 言葉を切って、男は周囲を見回し東の方角を指差す。「あっちに新人が集まる場所がある。今日来たって言えば、そこにいる連中が案内してくれるだろう。そのうちこいつらもそこに行くから、適当に待ってろ」「了解しました。では団長、またあとで」 残りの連中を代表して子義が応答すると、彼らは特に文句を言うでもなくさっさと歩き出した。素人にしては迅速な行動である。指示されたらとにかくさっさと動けというのは、調練の時に三軍師全員が口を酸っぱくして言っていることだった。 士元を勢いで胴上げするような愉快な連中ではあるが、やる時はやるのだ。 見れば、団員たちを見て男が僅かに目を丸くしている。少なくない驚きの色に、一刀は胸がすくような思いを抱いた。「……ついてこい」 呆けていた自分を誤魔化すように、低くした声で男が指示を出す。何気なく仲徳を見ると、彼女も一刀を見上げていた。何を言うでもなく、二人して微笑み会う。仲徳の笑顔は不敵だった。 自分のしてきたことが評価されるというのは、どんな時、誰が相手だったとしても嬉しいものだ。不敵に笑う仲徳のその表情からは、先ほどまでの機嫌の悪さを伺いしることは出来ない。 許してくれたのだろうか。仲直りを意図して手を差し伸べる。仲徳もその小さな手を差し出し――意識が手に集中していたのを逆手にとって、思い切り足を踏みつけてきた。 仲徳は小さい。つまりは軽い。その軽い仲徳が踏みつけたとしても威力はタカが知れているが、油断していた所にこの攻撃は効いた。何より、現代と異なりこの時代では履物など簡素な物である。防御よりも攻撃する側が有利なのだ。軽い女の子の攻撃でも、痛いものは痛い。「……いこうか」 それに声を挙げないのは、男としての意地だ。強がっているのが解ったのだろう。仲徳は得意そうな笑みを更に深くした。声に出すとしたらふふふふー、だろう。ふが一個多い。それだけ得意さも増しているということだ。 普段ならば小憎らしいとでも思っていたろうその笑みも、直前に落ち度があった身としてはありがたい。少なくとも、今の仲徳を見て機嫌が悪いと思う人間はいないはずだ。その足音も軽い。いつもの、飄々とした仲徳がそこにいた。「貴様が北郷一刀か」 新兵を率いる隊長が『かわいい』と本気で表現する人間がいるとしたら、そいつの目はきっと節穴なのだと思う。 それほど目の前にいる人間は一刀の思う『かわいい』というイメージからはかけ離れた存在だった。 誘導した男は、その隊長の脇に控えている。彼のことも悪い顔だと思ったものだが、隊長はそれに輪をかけている。面構えという意味ではない。容姿に関する話をするなら……かわいくはないと思った直後に認めるのは抵抗があるが、文句なしに美形の部類に入るだろう。 だが、隊長全体として見た場合、これを好むかどうかは判断の分かれるところだ。 丈の短い赤い装束。ミニスカートなんて目じゃないくらいに露出した足は、健康的に引き締まっている。腰の後ろには肉厚の刀。荀彧に貰った剣とはまた違う、鉈のような形をした武器だった。見ただけで重さまでは分からないが、人の首を跳ね飛ばす目的に使うのだったら、自分の剣よりもいい仕事をしそうな印象がある。 藍色の髪はひっつめて、後頭部で結い上げている。かなりきつめに結っているのか、元々釣り気味の目がさらに釣りあがっているように見えた。それでも狐目のように見えないのは、彼女自身の生まれ持った才能に寄るものだろう。かわいくは見えないが、美人には違いないのだ。 美人は得である。 ここまでならば、ちょっとキツめの容姿をした女子高生が、武装していきがっていると見えなくもない。一刀自身はお目にかかったことはないが、盆と暮れに東京のとある場所では、こういう特殊な格好をした人間が大手をふるって闊歩する場所が存在するという。粋がっているだけの素人など、武装した賊と夜の闇の中戦うことに比べればそれほど怖いものではない。 視線を、はっきりと、隊長と合わせる。 赤い、綺麗な瞳だ。強烈な意思を感じさせるその瞳を持った少女が、武装した厳つい連中を大勢脇に従えていた。コスプレバカが百人勢ぞろいなんて愉快な状況では断じてない。どいつもこいつもすれ違ったら全力で道を譲らざるを得ないような、凶悪な顔が勢ぞろいしている。 正規兵の格好をしているから彼らが兵と認識できるが、そうでなければゴロツキとしか思わなかっただろう。その中心に立つ隊長がどういう素性の人間なのか……想像するのも、怖い。 どうしたものかと背中にだらだら汗を流しながら思考を巡らせていると、筋者集団からは見えないように、隣の仲徳が腿をつついてきた。その意図を察した一刀は、ゆっくりと膝を付く。 リーダーである一刀がそうしたことで、隣の仲徳はすっとそれに倣った。「姓は北郷、名を一刀。字はありません。大将、孫策様のご指示とのことで参上いたしました」「甘寧だ。お前のことは既に聞いている。孫策様はお前を百人隊長にせよとの仰せだ。連れてきた連中が五十人ほどいるそうだが、それに宙に浮いている五十人を追加することとなる。お前、百人隊を指揮したことはあるか?」「今までの最多は、五十人です」「ならば、訓練時に貴様の采配を見させてもらおう。孫策様は百人隊長として使い続けろとは一言も仰られておられない。もし私の目から見て不適当と判断したら、容赦なくただの兵にまで落としてやるから、そのつもりで励むように」「心得ました」 と、答えるしかない。冗談でも挟もうものなら、首を飛ばされる――今まで出会った人間の中でも、甘寧はトップクラスに冗談の通じない人間だ。名前を覚えられただけのどうでも良い関係で口答えをしたら、すぐに刀が――とまではいかなくとも、それだけで射殺せそうな視線が飛んできそうな、そんな気がする。 視線は痛い。その事実をこの世界にきて始めて、一刀は認識した。奉孝の問いに見当はずれな答えを返した時、彼女はメガネの奥ですっと、目を細める。 その視線が、今はとても怖い。軍師である奉孝の視線でさえそうなのだ。見るからに武闘派な甘寧の視線ならば、身体に穴くらい空きかねない。 心得ました。自分の口から吐いたその言葉には、一片の嘘もなかった。誰だって命は惜しい。「それで、貴様が軍師か」「程昱、字を仲徳と申します。孫策様の命により、甘寧将軍の軍師を務めることとなりました。以後、お見知りおきを願います」「軍師が付くとは、私も偉くなったものだな」「良かったですね、頭」 それを呟いた男は次の瞬間、猛烈な勢いで吹っ飛んだ。見れば、腰の後ろにあったはずの刀が抜き放たれている。斬ったのか。目を逸らしてなどいなかったはずだが、気づいた時には男は吹き飛ばされていた。 並の技量ではない、と感心するよりも先に自分の確信が絶対になったのを感じた。この女性は、言葉よりも先に手が出るタイプなのだ。それを自ら体験せずに理解することができた。 これほど喜ばしいことはない。一刀は心中で、目の前で吹き飛んでくれた男に感謝した。「頭ではない。隊長か、将軍と呼べ」「……申し訳ありやせん」 鼻血をだらだらと流しながら、男は素直に謝った。謝罪されてそれで気が済んだのか、甘寧はふん、と小さく息を漏らすと刀の血を拭ってから、腰の後ろに戻す。「見ての通り、私の部下にはあまり学がない。私も軍学は齧った程度だ。知恵を授けてくれることは嬉しく思う。苦労をかけると思うが、是非協力してくれ」「微力を尽くします」「まずはそうだな……先も行ったが、私の部下には学がない。今後の指示を円滑に出すためにも、一つ、奴らに戦術の一つも講義してやってくれないか」 ざわ、と声を挙げたのは当の部下達だった。顔色から、甘寧のその指示が彼らの意に沿わないものだというのが解る。学がないというのは、学ぶべき環境になかったから、というだけでは成立しない。 単純に勉強するのが嫌いだ、苦手だという人間もいる。特にこの世界では知識を持つものとそうでないものの差が激しい。勉強という行為そのものに苦手意識を持っていたところでおかしくはなかった。 甘寧に刀で殴られた男が、一刀を見る。何とかしろ、とその視線が切実に訴えていた。殴られても素直に謝ったところを見るに、彼らは甘寧に意見できる立場にはない。加えてその立場にも納得しているようだ。 ならば勉強することを受け入れても良いものだが、それとこれとは別の話ということなのだろう。見れば見るほど、全員、育ちの悪そうな顔をしている。皆、勉強なんてしたくないと顔に書いてあった。 その気持ちはよく解る。少し前まで、自分もただの学生だった。 だが、良く考えても見てほしい。貴方がたにできないことが、果たして自分にできるだろうか。たった今百人隊長を拝命したばかりだが、一刀の立場というのはその程度でしかない。甘寧はその百人隊長を何十人も束ねる立場にあるのだ。 単純計算で、権限の強さは最低でも数十倍ということになる。何より、見た目が怖くて冗談が通じなさそうだ。突っ込みが刀で行われるのもいただけない。無理して逆らって、そのオチが刀での殴打では割に合わない。 決定を覆るような提案が受け入れられないだろうことも見えている。結果の解っている、しかも、自分が痛い思いをするだけで達成できないようなことを、自分からする気にはなれなかった。「さて、程昱はそれで良いとして残りは貴様だ。貴様はこれから調練となる。一日目で音を上げてくれるなよ。逃げることは許さん。孫策様が目をかけてやった恩を反故にするようならば、この陣を出るよりも先に首を刎ねてやるから、そのつもりでいろ」「逃げるつもりはありませんが……まってください。これから調練ですか?」 調練そのものに否やはないが、その心構えは全くしていなかったので驚いた。 調練を始めるには、時間が遅い。この地に腰を据えているのならば良いが、もうすぐ日も暮れようとしている。調練を始めるには時間が遅い。やらないものと思っていたのもそれが原因である。 だが、それは一刀にとっての普通だ。甘寧にとっては遅すぎることはない。その事実がただ一つ追加されるだけで、一刀にはどうしようもなくなる。 甘寧の顔はとてつもないやる気に満ちていた。嘘や冗談ということは、おそらくないだろう。そういうのが得意なようには全然見えない。「そうだ、これから調練だ。私の仕事は、貴様ら新兵どもを少しでも使えるようにすることだからな」 覚悟しておけ、とにやりと笑う甘寧は、いつだか映画で見た鬼軍曹を顔をしていた。 泣いたり笑ったりできなくなるんじゃあるまいか……甘寧の顔を見ると、その言葉も冗談とは思えなかった。