その十八 妖戦
黄昏とはよく言ったものだ――と白銀の魔狼雪輝は、心底から感嘆と畏怖を覚えざるを得なかった。
理由の一つは夜と昼とが混ざり合う黄昏時のような、幽冥境に足を踏み入れてしまったのかと錯覚する霊妙な雰囲気を発する夕座の美貌から。
そしてもう一つは、ただ目の前に立っているだけでこちらの肌を泡立たせてくる、黄昏夕座という存在の放つ気配の異質さから。
雪輝が妖魔蔓延る魔境の地たる妖哭山に生を受けて以来、ここまで素直に相対した者の力量に感嘆した事は、片手の指で足りるほどしかない。
自身が強力な妖魔である為に、並大抵の強者、猛者と呼ばれるものではさして驚きもしない雪輝であるが、禍々しき地獄の名を冠する妖刀を手に自分達の前に立つ美丈夫の総身から吹きつけてくる異様な闘気は、雪輝の過去の戦歴を振り返ってみても例を見ないモノだった。
人間の、あるいは人間の姿をした剣士との戦いは、実のところ雪輝には経験が乏しい。鬼無子と初対面を果たした際のいざこざを含めたとしても、他には怨霊として蘇った蒼城典膳との死合くらいなもの。
故に雪輝は剣士という生き物との戦いの経験が乏しいことから、構える姿などから剣の冴えを推し量るのには、あまり自信がない。しかしその無い筈の自信を確信に変えてしまうほどに、黄昏夕座という名の妖剣士は圧倒的な存在であった。
傷の癒え切らぬ狗遠では十中八九敵わぬ相手、いや例え傷が癒えていたとしても狗遠が価値の目を拾う事は極めて難しい。
そう見立てた雪輝は自分と鬼無子が間にあった事に安堵を覚え、鬼無子から話を聞いていた妖剣士が話半分どころか、話の倍は凄まじい化け物であることに警戒の意識を高めていた。
夕座を中心に渦巻く体の奥の方から凍えさせて行く気配に覆い隠されてはいるが、背後の忍装束達以外にも周囲の木々の陰に隠れて複数の気配が息を潜めている。
雪輝をして感心させる陰行の法は大したものだが、夕座の配下である以上は夕座との連携戦闘に長けた者たちばかりが揃っているのはまず間違いない。
雪輝が知覚した数百名の人間の兵士達は、夕座と周囲の者達を大狼――と誤認している雪輝の元へ限りなく消耗を抑えて送り届ける為の捨て駒か撒き餌といったところか。
狗遠との不毛極まりない、しかし当人同士にとっては決して軽視できない一大事に不穏となっていた空気も変わり、鬼無子は夕座のいかなる動きも見逃すまいと視線を注ぎ、腰の崩塵を抜き放ち、白刃は陽光を浴びて銀の三日月に輝いている。
かたや狗遠は自分達を取り囲む動きを見せている周囲の気配に注意を向けて、戦端が開かれると同時にどの首を食い千切るべきか、また雪輝との共闘がどの程度行えるかどうかを心中で何度も試案していた。なお鬼無子がその試案の中から除外されていたのは極自然な成り行きと言える。
霊気ほとばしる紅蓮地獄の切っ先を下げたまま夕座の視線が、鬼無子から狗遠、雪輝へと巡り動き、三者三様の視線を受けた夕座はぴたりと雪輝の青い視線を受けて、ごく短かった視線の旅を終えた。
夕座の瞳に一瞬、紛れもない感嘆の色が浮かび、浮かんだ時と同じ時間で再び沈む。鬼無子ばかりに向けていた意識を周囲に巡らせれば、鬼無子の傍らに寄り添っていたこの世のものとは思えぬ美しさの狼の存在を、夕座はようやく認めたのである。
感嘆の色は掛け値なしに美しいと口にする言葉が他に存在しない雪輝のその姿に対するものであり、それを沈めたのは夕座もまたはたして本当に人間なのかと、目にする者が疑うほどの美貌を誇っている為であった。
妖剣士はその人外の美貌ゆえに雪輝の狼外の美貌を理解し、そしてまた理解したが為にその存在を受け入れられなかったのである。
鬼無子へと向けていた歪んだ欲望と執着を一時忘れて、浮かべていた冷笑を取り払い射殺さんばかりの視線を雪輝へと注ぎ始める。
「そちらの灰色の狼もなかなかの妖魔ではあるが、お主が大狼か? なるほどこれは確かに強力な妖魔よな。そして人間の女を惑わすに足る美しさよ」
大狼でないと言った所で無駄であろう、と考えた雪輝は夕座の瞳を見つめ返したまま、かすかに四肢を広げて重心を落とす。
全身に行き渡らせる妖気の濃度を高め、循環の速度を速めて雪輝の肉体は戦闘態勢を整えて、目の前の人間とは思い難い妖美にして冷酷な雰囲気を纏う夕座の脅威を正確に推し量ろうとしていた。
「人間の女とは鬼無子の事か。話は聞いているぞ、黄昏夕座とやら。聞いた話以上の使い手であるようだがな」
雪輝の存在を意識に入れてから初めて夕座の口元に笑みが浮かんだ。ただし友好的とは、万人が見ても思わぬだろう笑みである。
「ふむ。鬼無子姫とそのついでにお主の首を所望よ。大人しく斬られはすまい? 好きなだけ足掻けばよい。それを斬り捨てるのもまた一興故な」
しかし夕座の口調それ自体がなによりも雄弁に語っていたのは、お前を滅ぼさずにはおかぬという必殺必滅の敵意だ。人にはあり得ぬ美貌を持つ夕座に去来しているのは、狼にはあり得ぬ美貌を持つ雪輝への嫉妬であったろうか。
雪輝もまたそれを理解しているからこそ、精神も肉体も戦闘を前に張りつめたものへと変えて、夕座の一挙手一投足から呼吸にいたるまでを注視している。
「なんとも恐ろしい事を平気で口にする男よ。しかし、改めて決めた。鬼無子を貴様の好きにはさせぬし、わたしの首もくれてやるわけにはゆかぬ」
七風の町に出向いた時にも感じた事ではあったが、人間という生き物に対する認識を改めざるを得ない人間を前に、雪輝は家族として認識している鬼無子をこのような下種の好きにさせてやるわけにはゆかぬと、腹腔に怒りと決意とを溜め込んだ。
あとはそれを一切の容赦なく爆発させる時を待つばかり。それにはさしたる時間もかかるまい。そしてそれは雪輝を前にした夕座もまた同じであった。
雪輝が怒りを爆発させる時を待っているのと同じように、夕座もまたその黒い欲望を満たす障害となる雪輝の排除を、一刻も早く行うべく機を見計らっているのだ。
すでに鬼無子と狗遠もそして夕座の周囲を囲む妖魔改の者達もささいな切っ掛けによって、すぐさま凄惨な死闘の幕が開く事になる。
「なれば話は早い。しかしな鬼無子姫よ、お主も人であろう? 狼を相手に夜の無聊を慰める趣味でもあったのか? ふふ、“妖魔食い”とも呼ばれたお主ら百方木家を宗家とする一族の者にとっては、外見の異形さなどは気にならぬのかな。とはいえ、狼風情にくれてやるにはお主はあまりに惜しい。どうせ乙女の花を散らすのなら、犬畜生などではなく私が手ずから散らしてやろう」
告げる夕座の口調は心底から楽しんでいる風であった。
鬼無子の生家である四方木家や百方木家や、数多の妖魔の血肉を外科的手術や霊的儀式、あるいは日常的に飲食し、時には交配することでその身に妖魔の血を宿してきたのは事実であり、その忌まわしい所業の数々から、本来人間を脅かす存在である妖魔を食らう者達として、畏れと侮蔑の意味を込めて妖魔食いと周囲の者達が呼んだのもまた事実。
それは鬼無子も自嘲の念と共に認めている事ではあったが、それをわざわざ指摘した夕座の言葉は大いに癇にさわり、さらに乙女の花云々とは紛れもなく鬼無子の純潔を指してのことだ。
これには元から夕座を前に既に怒りを沸騰させていた鬼無子に、更に油を注ぐ結果になった。
「戯けたことを抜かすなよ、黄昏夕座。墓所の匂いのする貴様など、触れられる事さえ御免こうむる。第一私は貴様と雪輝殿など、比べる気にもならぬ。それ以前の問題よ」
「それは残念。いよいよ力づくで手に入れる他ないか。もっとも抗う女を屈服させるのも私の好み」
「下種め、とことん性根が腐っていると見える。こちらに腐臭が届いてくるかのようだ。はっ、私を欲するのならせめて雪輝殿と同じくらいにふわふわとした毛を生やせ。そしてそのふざけた物言いを改めよ」
雪輝の毛皮に対しては並々ならぬこだわりと愛着のある鬼無子だからこその言葉であったが、それを知らぬ夕座は珍妙な発言に少々面食らった顔を拵えて、しげしげと鬼無子の美貌を見つめる。
「毛か。妙な物を好んでいると見えるが、生家で犬猫でも飼っていたのかな。あるいは犬畜生か狐狸の類と淫行に耽る趣味でもあったか。しかし毛以下と言われたのは初めてであるな」
鬼無子に褒めてもらっていると考えて良いのだろうかと、う~むと唸る雪輝の横顔と、夕座へ向ける敵意に比例して雪輝に対する好意の強さが分かる鬼無子の言葉を耳にしていた狗遠は、こいつらひょっとして姦通しているのか、などと考えていた。
たしかにそう誤解してもおかしくない様な鬼無子の言動ではあったが、これに我慢がならなかったのはいまだ自覚なき鬼無子の恋敵である狗遠ではなく、茂みに伏せっていた二人の妖魔改の少女たちだった。
忍装束の黒頭巾から零れる長い黒髪を後頭部の高い位置で結わえた影馬と、兎の耳の様に髪を二か所で纏めた影兎の二人である。
周囲の者達が慌てて止めようとするのを振り切って、身体に木の葉を纏いながら二人の視線は怒りを満々と秘めて鬼無子の白い美貌へと一直線に向けられている。
おや、と夕座は忠実で愛らしい二人の配下達が見せた予定にない行動に不思議そうな顔を浮かべて、二人の行動の続きを黙認する。
夕座が面白げに影馬と影兎に視線をよこす一方で、鬼無子はというと退魔士として軽率の誹りを免れぬ影馬と影兎の行動に、柳眉を寄せて何をする気なのかと視線を動かした。
「おい、四方木家の生き残り! 先ほどから黙って聞いていれば貴様ぁ、夕座様に向かってなんという暴言の数々。しかも言うに事欠いて夕座様が大狼などという犬畜生の妖魔以下だと!?」
てっきり某かの攻撃行動に移るものかと思っていた鬼無子は、夕座に向けての言動に腹を立て文句を言いだした影馬の行動が予想外であったものだから、目をパチクリさせた。
夕座はこれはこれは、と呟いて含み笑いを零し、鬼無子がきょとんとあどけない顔をする一方で、影馬が言うのに続いて影兎が激しさでは劣るが淡々としてる分迫力の増した語調でまくし立てる。
「夕座様の事などろくに知らぬ貴様が分かった様な口を聞くな……。夕座様がせっかく落ちぶれた妖魔混じりの貴様に目を掛けてくださっていると言うのに、身の程を弁えぬ振る舞いを好き放題。夕座様がどれだけ逞しく素晴らしい方であるか、身をもって知った後で私達も思い知らせてやる。声が枯れるまで許しを請うほど鳴かせてやる……」
影馬は感情の発露を一切抑える事は無く、対照的に影兎は淡々と無表情のままに呟いて一種の凄みを増している。一卵性双生児であるため外見はほぼ同じであるが、性格に置いては大きく違う双子の姉妹だった。
それにしても身をもって知った後は、というのは鬼無子が夕座に手籠めにされることをさしての言葉であろうが、私達も思い知らせてやるとはなんとも穏やかとは言い難い発言だ。
意味合いとしては肉体的な拷問などもあるのかもしれないが、おそらくは鬼無子に思い知らせるつもりなのは夜の褥の中で及ぶ行為の事であろう。
見た目は二十代と思しい夕座であるがこれまでの言葉の端々から、外見以上の年月を生きたと思しい事や、妖魔の血を持つ鬼無子と同等かそれ以上の身体能力といい、普通の人間でない事はほぼ事実であろう。
それゆえに夕座が抱く女に与える快楽もまた人間の限界を超えたもので、それは男性体の淫魔と比較しても遜色のないものだ。
そんな夕座の伽を務めて朝夕時を選ばず、また場所も選ばすに快楽の海に落とされてきた二人にとって、夕座への侮辱はこの世で最も耐えがたい事の一つなのである。
鬼無子自身も高位の淫魔の血を引き、最近ではその淫魔の血が強く活性化した事もあって、触れた相手に与える快楽の凄まじさではおそらく夕座にも引けを取らぬであろうから――経験では天と地ほどの差があるにせよ――いざ褥の中で事に及べば、嬌声の声を挙げさせられるのは影馬と影兎の二人の方だろう。
とはいえそもそも夕座の物になる位なら自決するつもりであり、また同性愛のケの無い鬼無子にとっては、影馬と影兎の発言はほとんど未知の世界の謎の言語にも等しい理解の及ばぬものであった。
話があらぬ方向に向きだしている事に気付いた鬼無子は、幾多の妖魔を屠った退魔士の迫力を乗せた瞳で影馬と影兎を見据えた。
ある種の魔眼にも等しい精神的圧力を備えた鬼無子の視線である。まともに受けて平気の平左で居られる者は人間妖魔を問わずそう多くは居ない。
「夕座を慕うお主らの心情は理解できぬが、闘争の場で余計な口を利くものでは……」
居ない筈であったのだが、影馬は敬愛する方へ侮辱の言葉を吐いた鬼無子への怒りと、そして夕座からかくも強く求められる鬼無子に対する嫉妬に濁った瞳と言葉で、影馬達は鬼無子の言葉を一刀両断に斬って捨てる。
「うるさい。余計な口を利くな、この乳でか女!!」
「!? な、ち、ちちで……なんとはしたないことを!」
咄嗟に鬼無子は空いている左手で自分の乳房を影馬の視線から庇う。影馬と影兎は数年来に渡って夕座の伽を務めていた事から、元から類稀な美貌の片鱗の主であったのに加えて、十代半ばほどの少女とは思えぬ妖艶さを備えている。
しかしながらまだその体つきは年相応といったところで、鬼無子の円熟した女の色香と少女の幼さが混在する美躯とは比べるだけ無駄というものである。
幼い身体つきの女性を好む者もこの時代、既に存在しているが大多数の男は性的な魅力に溢れるほどに満ち満ちた鬼無子の方を選ぶだろう。
「影馬の言うとおり。おっぱいばかり大きなおっぱいおばけは黙って夕座様のものになればいい。そして夕座様の物になったら自分の発言を泣いて詫びればいい。このおっぱいが」
影馬ばかりか影兎まで鬼無子の着物の生地を押し上げている豊かな乳房の盛り上がりに、恨みがましげな視線を指す様に向けて、かたや火を吐く様に、かたやあくまで淡々と言う。
鬼無子自身、刀を振るう時に邪魔にしかならず、また小さな頃から育ちの早かった鬼無子は、無礼な宮廷の連中に早熟の身体に性的な視線を注がれた経験があった事から、非常に発育の良すぎる自分の体に劣等感のようなものを抱いていた。
影馬と影兎の発言は意図せずしても見事に鬼無子の精神的弱点を突いた結果となり、戦前の緊迫した精神状態を揺さぶられてしまう。
「お、織田家の退魔士はどうやら頭の中が愉快にできているよ、ようだな? このような口を利く者が退魔士では妖魔改の質も、たか、たかが知れている」
怒りのあまりに鬼無子の言葉は時折震えていて、赤みの刺した頬は時折痙攣までしている始末である。とても戦闘を前にした精神状態とは言えない。
「無計画に乳房ばかり大きく育てた乳でか女が高名な退魔士とは、朝廷の退魔士は淫乱ばかりか」
「無駄な脂肪ばかり溜め込んだおっぱいおばけめ。その胸で犬畜生を誑かしたに決まっている。雌牛の妖魔の血でも引いているんだろ。おっぱいおばけ」
「お、お前達はそんなにそれがしの胸が憎いか!? 本当になんなのだ、貴様らは!!」
「黙れ、乳でか牛胸女」
「うるさいぞ、無駄脂肪贅肉おっぱいおばけ」
黙ってこのやり取りを耳にしていた狗遠は、何を言い合っているのだこの毛の無い猿どもはと、人間の思考形態が自分の理解の外にある事を実感して、訳の分からなさを噛み締めていた。
雪輝もどちらかというと狗遠の心情に近く、先ほどまでの緊迫した状況はどうしたのかと、内心では首を傾げている。
よもや雪輝の目の前でこうも恥辱を浴びせられるとは想像だにしていなかった鬼無子は、崩塵を握る手を小刻みに震わせながら、羞恥と怒りの念に襟元から覗く首筋から耳先に至るまで赤く染めている。
妙な雰囲気になってしまった状況を変えたのは意外にも雪輝や鬼無子ではなく、いよいよ笑いを堪え切れなくなった夕座であった。
影馬と影兎の意外な行動や鬼無子とのやり取りはなかなかに痛快であったが、これ以上好きにさせていては本懐を遂げる事を忘れてしまいそうだったからだ。
右手の紅蓮地獄の峰で肩を軽く叩きながら、夕座は口元を押さえていた左手を振って、影馬と影兎に下がるように指示を出す。
「影馬、影兎、そこまでにせよ。面白い見せものではあったが、お前達の口にした事を実践する為にしばし口を噤んでおれ。私は本当に欲しい物は自分の手で手に入れる主義ゆえな」
そのくせ紅蓮地獄は影座に任せている辺り、物欲よりも色欲が夕座の中では優先される様である。
「はっ、過ぎた事を申し上げました」
「申し訳ありません」
影馬と影兎にとって夕座の命令は鉄のようであった。それまで鬼無子に対する鋭い舌鋒はどこかへと捨て去り、影馬と影兎は夕座の言うとおりに口を噤んで元いた茂みの方へと足を動かす。
二人がいそいそと身を隠していた茂みに隠れ直すのは、なかなか微笑ましい光景ではあった。
「では仕切り直すとするか鬼無子姫、そして大狼よ」
肩を叩いていた紅蓮地獄を右下段に降ろし、夕座の纏っていた雰囲気が再び冷たく恐ろしい物になるや、途端に弛緩し始めていた空気は一変して、闘争の緊張が周囲を満たした。
実際に戦場に立つ者にしか分からないわずか世界の揺らぎ。たとえば風の流れのわずかな変化、戦域に張りつめている空気の変化、視線や重心のわずかな動きの違い……挙げればきりのないほどのささやかな要因が戦闘の始まりを告げる鐘となる。
夕座の背後の忍らは霊的処置を施した短刀や手裏剣、あるいは鎖鎌など様々な武器を手に取り戦う用意を万端整えている。
誰もかれもがいつ戦いが勃発したとしても、対応できるように用意を終えていた。
鬼無子と雪輝と狗遠と夕座らとの間に、戦端を開かせたのは、はたして両者の間に舞い散る木の葉かあるいは風が巻き起こした砂埃だったか、あるいはさらに取るに足らないなにかであったかもしれない。
だが事実は一つ。戦いが始まったと言う事だ。
紅蓮地獄の刃で風を切り裂きながら雪輝めがけて走る夕座の正面に立ったのは、事前に雪輝に告知していた通りに鬼無子であった。
雪輝の前に鬼無子が立った事に動揺も驚きも欠片ほども見せず、夕座は四尺近い刃長を誇る紅蓮地獄に銀の蛇と見える軌跡を描かせて、鬼無子の左頸部に烈々と叩きつけた。
速い、あるいは重い、強いと言った言葉では言い表すにはまるで足りない一撃である。並みの使い手と刀では、いや銘刀を携えた一角の剣士でも受ける事さえおぼつかぬだろう一撃を、流石に鬼無子は見事崩塵で受け止める。
崩塵と紅蓮地獄。
いずれ劣らぬ霊気纏う二つの刃の衝突と同時に、夕座と鬼無子の白い美貌を、繚乱と散る霊気の火花が煌々と照らしだし、愉快気に笑む夕座と敵意を隠さぬ険しい表情を浮かべる鬼無子という対照的な二人の顔を暴き立てる。
「はは、てっきり大狼めが来るかと思ったがお主の方から来てくれるとはな。先ほどまでの言動は偽りであったかな? 鬼無子姫よ」
鬼無子が過去見知った男達の中でもとびきり美しく、さらには薫る様な高貴な雰囲気さえも感じられると言うのに、夕座はひどく厭味ったらしく笑って、鬼無子を弄ぶように刃越しに告げる。
応える鬼無子の瞳はこれ以上ないほど冷たく、この視線に比べれば氷が暖かい物とさえ感じられるだろう。
「姫などと、貴様の口から聞きたくもない」
元は鬼無子は神夜南方の朝廷につかえる貴族階級であったから、姫と呼ばれてもおかしくは無いのだが、性根どころか存在の根底から気の合わぬ夕座に言われても、鬼無子にはただただ嫌悪感しか感じられない。
「しかしお主が四方木家最後の姫である事は事実。故に姫と呼ぶ事の何がおかしいかな?」
「ふざけた事を抜かすのはその口かっ!」
鬼無子と夕座の姿が陽光下に霞んで消える。同時に二人が踏みしめていた大地もまた小さな爆発を起こして、途端に刃と刃が衝突する事によって生じる剣交の花が無数に咲き誇った。
常人の目には影すら映せぬ短距離間での信じ難い鬼無子と夕座の高速移動と体捌き、剣技の衝突の証明だ。
七風での遭遇戦とは異なる余力を残さぬ全力での戦闘であった。体内に宿す四百四十四種の妖魔の血と妖力を、もったいぶることなく発露する鬼無子の美躯からは人間の魂が発する青白い霊気と、赤黒い妖気とが混ざり合い互いに侵食しながら周囲の空間を圧している。
妖哭山に足を踏み入れて生死の境をさまよった事で体内の妖魔の血がより強く発現し、また強力な妖魔である雪輝と長く行動を共にしている為に影響を受けて、鬼無子の身体能力や直感をはじめとした超感覚は日を追うごとに強化されている。
夕座への敵意を業火のごとく燃やす鬼無子の一刀が、夕座の右腰から真横に断つべく音の壁を切り裂きながら迸れば、ほぼ同速で振るわれた紅蓮地獄の刃が受け止めて、剣交の花が一輪、また一輪と虚空に咲いては消えてゆく。
得物の間合いは約一尺分夕座の方が遠いが、多種多様な、それこそ実体を持たぬ類の妖魔との戦いの経験を豊富に持つ鬼無子にとっては、さしたる問題とまで行かない。
といってもこれはあくまでも心構えの問題である。長さ十間の触手の群れや身の丈が小山ほどもある妖魔を相手にしてきたことを考えればいまさら一尺間合いが長い程度で動揺するわけではないということだ。
精神が動揺することはなくても、しかし技量が同等近い相手との死合で一尺も間合いが短いことによる物理的な不利それ自体はある。それはそれ、これはこれというべきか。
鬼無子は、殺意もすさまじく夕座自身を狙う太刀の中に紅蓮地獄の刀身をへし折る為の、武器破壊の太刀筋を交えて斬り結んで行く。
夕座は紅蓮地獄の刀身をへし折りに来た崩塵の刀身を煙に巻く様に刃を添えて軌道を逸らし、崩塵が夕座から見て右肩の上に流してから、紅蓮地獄の柄尻で鬼無子の額を割りにかかった。
一歩夕座の足が踏み込み、着流しの裾をからげて太ももの付け根を露わにしながら、夕座が打ちつけてくる紅蓮地獄の柄尻を、鬼無子はおもいきり左方向に飛んで躱す。
体を動かせる距離の短い一撃ではあったが、夕座の身体能力を考えれば紅蓮地獄の柄尻は筋骨隆々たる鬼の振るう鉄棍棒の一撃にも等しいだろう。
いかに耐久力が常人の比ではない鬼無子といえども、額の骨に小さな罅くらいは入るだろうし、出血と脳しんとうは免れまい。
二間(約三・六メートル)ほど跳躍してから着地の一歩と同時に鬼無子は脚に溜め込んだ脚力を爆発させて、大気をぶち抜きながら夕座の右半身側へと襲い掛かる。
崩塵の刀身を地面と水平に倒したまま顔の右横まで持ち上げて、白銀の霊気溢れる刀身を夜空に光の尾を伸ばす流星のごとく突き出した。
ぎん、と鼓膜を劈く金属の衝突音が大きく響き渡り、流星と変わった崩塵とそれを弾いた紅蓮地獄の双方が大きく後方に刀身を跳ねあげる。
「やはりやはり、流石は織田にも聞こえた名高き退魔士の最後の裔よな。私が全力を出さねばならぬ相手は久方ぶり。さあさあ、行くぞ、四方木鬼無子よ」
「言われぬでもっ!」
鬼無子と夕座とが剣士としてはおそらく神夜国最高峰の戦いを繰り広げる一方で、雪輝と狗遠は周囲を囲む妖魔改の者達との戦いに身を投じていた。
しかしながらそれは勝手の良い戦いとは言い難いものであった。
なぜならば雪輝は自身以外に血縁のない天外孤独、唯一無二の個体であり、多対一の戦いに関しては多くの経験を積んでいたが、それらはすべて複数の妖魔を相手にしたものであって、徒党を組んだ人間や亜人との戦いは今回が初めてだった為である。
妖哭山で複数の妖魔を相手にする場合は同種で構成される群れが基本となる。個体間で多少の能力差はあるにしても、おおむね基本的な戦闘方法などに違いはなく、どれも同じ攻撃手段を持った者達で構成されている。
それに対して組織だった人間達や亜人の場合は、それぞれが役割を持って全く別の能力で戦闘に当たり、異なる技能を効果的に組み合わせて相乗的に戦闘能力を高めている。
後方から味方の能力を底上げする術で援護し、場合によっては敵を直接殺傷する術を持った術師。
術師達を守りまた確実に敵に手傷を負わせる為に重装の鎧兜や具足で身を固めて、文字通り盾となり剣となる戦士。
大まかに分けてこの二種が存在し、さらにそこから派生して細かな役割分担をして一つの巨大な戦闘部隊を構築してくる。個々の連携こそあれほぼ同一の能力で群れを成して襲い掛かってくる妖魔らとは、勝手の違いすぎる相手なのは間違いない。
とはいえ基本的な能力に圧倒的な格差の存在する妖魔改達と雪輝である。相当に時間がかかるにしても、単独で二十名前後の妖魔改らを全滅させる事も十分に可能ではあった。
ましてやこの戦場には雪輝の傍に一つの種族を長く率いて戦って戦って戦い抜いた狗遠がいた。
数百頭から成る妖狼族の戦闘部隊を指揮して、数十年間妖哭山の熾烈な内部抗争を戦ってきた狗遠は、戦端勃発からほどなくして妖魔改達の連携の要を見抜いて、雪輝にそれを伝えて連携を持って早々に叩き潰すことを決める。
懸念があるとするならば、これまで一度たりとも共闘した事もなければ本格的に敵として戦った事もなく、雪輝も狗遠もお互いの生死を賭した場面での全力が一体どれほどであるのか、正確な所を把握していない事である。
妖魔改達は事前に夕座から言い含められていたのか、鬼無子と斬り結び始めた夕座を助ける動きは一切見せずに、大狼と誤解している雪輝と口元や毛皮を赤い血で濡らしたままの狗遠を囲い込んで、じぃっと凝視している。
夕座と鬼無子の戦闘に雪輝らが介入しない様にする事が目的なのだ、と雪輝は直感的に理解して、こちらから積極的に攻めに掛らねばそもそも数を減らす事も難しいとやや勇み足を踏みはじめる。
これまで自分の命だけを賭けた戦いばかりを経験してきたためか、雪輝は他の誰かの身の安全の掛った戦いの経験に乏しく、常の様に平静とした精神状態で居続ける事は難しい様であった。
夕座の背後に居た十名と周囲に伏せていた十名とで二十名。場合によっては他の妖魔に対する壁か餌として連れ込まれた野良退魔士や兵士達も、合流してくるかもしれない。
妖魔改達の中には長さ六尺ほどの短槍や短弓、手斧を手に持った者の姿も見られる。
いずれも鬼無子の崩塵ほどではないにせよ、霊験あらたかな真言や祝詞が刻み込まれ、丹念に法儀式を重ねて霊的処理を施してある事が分かる。
対妖魔戦闘を存在意義とした戦闘集団。雪輝は妖魔改が、鬼無子から聞かされていた織田家が保有する対妖魔における絶対戦力であると、再認識した。
指先から肘までを覆う魔銀(ミスリル)の籠手を嵌めた大男の忍装束を先頭に、七名ほどが雪輝と狗遠を囲い込む第一の輪を成し、更に薙刀や短槍、槍、鉄槌などの長柄物を持った者達が第二の輪を、そして法力や霊力を増幅させる錫杖や独鈷杵を携え、数珠や呪符を腕に巻いた術師が第三の輪を構築している。
敵陣の構成など知った事かと、気を逸らせた雪輝が一層体を低く沈めて籠手の男に飛びかかろうとするのを、雪輝の傍らに身を寄せた狗遠の囁きが諌める。
珍しく雪輝が苛立っている様子を見るのはそれなりに楽しいのだが、この場においてはあまり雪輝に勝手をされては、狗遠にとっても色々と都合が悪い。
「銀い……いや雪輝、お前が頭に血を昇らせてどうする。お前にしては珍しい事だが、場合を考えろ、愚か者めが」
「ぬ……」
不服の相を浮かべはしたがそれでも自分の方に非があるのを理解するだけの分別は残していたから、狗遠の方に向ける視線に怒りは込められていない。
「気に食わぬがお前はあの鬼無子とかいう毛無し猿を助けたくて仕方がないようだな。ならば私の言う事を聞いてこやつらを皆殺しにするのが手っ取り早い」
「相も変わらぬ物騒な物言いだが、お前の意見に従うのが私の意を通すに最良の道か。しかし狗遠よ、お前は本当に鬼無子の事を嫌っておるな」
雪輝とて鬼無子と狗遠とでは気が合わぬだろうなと、このあらゆることに対する経験の乏しい知識の凸凹な狼なりに考えてはいたのだが、よもやこれほどまでに一人と一頭の相性が悪いとは思わなかったのである。
「あやつは気に入らぬ。ああ、実に気に入らぬ。正直、あの人間に犯されてしまえと思っているほどにな。なぜここまであ奴を嫌っているかは私にも分からぬから、なぜとは聞くな」
ここまで来ると呆れるのを通り越して感心してしまいそうになる、と雪輝は逸っていた気持ちが落ち着いたのを確認しながら、眉間に皺を深く刻む狗遠の横顔を見た。
「ふん、まあいい。雪輝よ、目の前の連中の中で籠手を嵌めた奴が第一の輪の中の要だ。それは分かるな」
「あれから片づけるつもりなのか? 要という事はそれだけ腕も立つであろうよ。当然周りの連中もむざむざとやらせはすまい」
誰もが思いつくような至極当たり前の雪輝の意見に、狗遠はふん、と鼻を鳴らして答える。
「だからこそいの一番に片づける価値がある。失敗したとしてもそのまま一気に一番外側の輪まで突っ込んで、連中の陣形をかき乱す。面倒なのは後方で構えている連中の術が完成した時だ。乱戦では味方を巻きこむような術の使用は控えるだろう。
こういう奴らは型に嵌まれば強いが、それが崩れれば後は容易いものよ。数で劣ろうが共闘の経験が無かろうが、お前と私ならやれるはずだ」
雪輝は狗遠が怪我を負っていた腹のあたりに視線を向ける。数日の休養と雪輝が献身的に手ずから運び込んだ大量の食物を摂取したことで、狗遠の傷が見る見るうちに癒えていた事は雪輝も知悉している。
また久しぶりに血肉湧き立つ戦闘の渦中に身を置いている事で、狗遠が心身ともに高揚しており、体細胞と妖気が活性化して急速に傷を埋めはじめていることも、妖気の揺らぎなどから雪輝は察していた。
狗遠の体から薫る血の匂いからは、いまでは狗遠自身のものはほとんど嗅ぎ取れず、ほとんどが狗遠によって殺害された三人の退魔士達の血の匂いが占めている。
全力とまでは行かぬとも狗遠の体調が、いまも急速に戻りつつあるのは間違いない。狗遠がこの調子ならば戦えるだろうかと、雪輝は判断を下した。
今も鬼無子と夕座が交わす剣閃の煌めきと刃と刃の交差音は絶え間なく続いている。やすやすと鬼無子が敗れるとは思っていないが、白猿王との戦いの時の様に鬼無子が傷ついた姿を見る事は雪輝には耐え難い事だった
「雪輝、即興だが、私に合わせて動け。私の指示を聞き逃すなよ。お前の耳なら動いている間も聞き洩らす事はあるまい」
「ああ。しかし、すまんな、狗遠。私の厄介事にお前を巻きこんでしまった」
妙な事を気にする奴、と狗遠はこんな時でも変わらぬ雪輝の律儀と言おうか責任感が強いと言おうか、内側の妖魔達にはまずいない性格につい首を傾げた。
だからだろう。狗遠自身も意外な言葉を発したのは。
「……私も飢刃丸の事でお前に厄介になっている。お互い様だ」
雪輝は、おや、と驚きを表す様に耳をピンと立てて軽く目を見開いた。狗遠からは生涯聞く事が出来ないだろうと思っていた殊勝な言葉が出てきた事は、それほどの驚きを雪輝に与えたのである。
その雪輝の様子が面白くないのと、自分でも妙な事を口にしたという意識があって、狗遠は苛立ち混じりに雪輝に告げた。
とことん雪輝とは相性が悪いというかどうにも調子が狂わされる事を、狗遠は苦々しく感じながら牙を軋らせて紛らわせる。
「行くぞ、初撃で首を噛み千切る!」
いよいよ全身から殺意を迸らせて灰色の妖気の塊と化す狗遠の気勢を、雪輝が意図せず殺いだ。
「ふむ。女であるお前に先手を取らせては申し訳がない。先行きは私が参ろう。それとなるべく殺さぬ様にな」
こいつは、と咽喉の奥まで出てきた怒声を狗遠は無理矢理に飲み込んだ。
馬鹿は死ぬまで治らないという言葉があるが、こいつはまさにそれだ、と狗遠は心底から嘆いて怒り、本当にこいつの子を望む事が正しいのかと頭の片隅で疑問が頭をもたげたが、とりあえずこの場では考えるべき事ではないと、蓋をして忘れることにする。
「…………知るか!!」
夕座の戦いへの介入を防ぐ事だけを目的としている為に、妖魔改の者達は雪輝達が動く気配を見せるまでは、手を出そうとはしていなかったがいよいよ雪輝達が攻勢に打って出ると見て、瞬時に迎撃態勢を取る。
籠手使いが両拳を握りしめて顎先に添えて、雪輝達の動きを待つ姿勢を見せる一方で、左右を固める六名の女らしい忍装束達はそれぞれの獲物の切っ先を、二頭の魔狼へと向ける。
六名の女達が構える武器にはそれぞれ火、風、土、水、雷、氷と異なる力が宿っており、量産を前提とした武器としてはかなり上等な品であることが発している霊気から分かる。
しかし、かつて山に足を踏み入れた人間達を何度か返り討ちにして食い殺した経験のある狗遠からすれば、自分や雪輝にとってはさして脅威足りえないものだと判断し、雪輝と共に四本の肢で一挙に大地を蹴った。
鬼無子や夕座の踏み込みに勝るとも劣らぬ疾風の動きは、第一の輪を形作っていた妖魔改達の反応速度をはるかに凌駕していた。かろうじて反応を見せたのはやはり狗遠が要であると見抜いた籠手の男だけであった。
狗遠の先を駆けた雪輝は、五間(約九メートル)の距離が開いていた籠手使いの目前に踏み込み、黒頭巾で目のあたりだけを覗かせている籠手使いの首筋を目がけて真珠色の牙を唸らせる。
籠手使いの身長はざっと五尺八寸(約百七十四センチ)。肩高が六尺になる雪輝がやや斜め上方から獲物に襲い掛かる猛禽類のごとく迫りくるのに、咄嗟に後方に跳躍し、さらにそれが間にあわぬと思考よりも肉体が早く理解して、魔銀製の籠手に包まれた腕が即座に左頸部を庇う。
籠手使いの跳躍にわずか遅れて噛み合わされた雪輝の牙は、魔銀の籠手をかすめて美しい銀色の籠手にむざむざと牙の痕を残す。
神性のみが創造しうる神造鉄(オリハルコン)に次ぐ硬度や抗魔力を有すると言われる魔銀を、こうも容易く損傷させる雪輝の牙の威力に、籠手使いの瞳が驚きに揺れる。
対妖魔を想定して肉体のみならず、精神的な修行も血を吐くほどの過酷さで積んでいる事を考えれば、例え一瞬とはいえ驚きの感情が表に出た事は珍しい事と言えた。
口の中の魔銀の欠片を雪輝が飲み下すのと同時に、後方に跳躍していた最中にあった籠手使いへと雪輝の後ろに隠れて走っていた狗遠が襲い掛かる。
ようやく周囲の六人の妖魔改の女隊士が反応を見せて、籠手使いを助けるべく動きを始めるがそれよりも狗遠の牙の方が早い。
いまだ首筋を庇ったままの籠手を避けて、狗遠は籠手使いの腹を食い破りに掛った。そのまま臓物に牙を立てて思い切り捻りあげた上で食い千切ってくれると、狗遠は残酷にそして冷酷に考えていたのである。
妖魔改達が着用している忍装束は、法儀式による霊的防御力の強化はもちろん、素材からしても繊維状に加工した鉄や塩をまぶした女の髪を織り込んであり、更にその下に鎖帷子を着込んでいて例え全力で斬りつけたとしても、あるいは銃弾を受けたとしてもわずかに衝撃を通すだけだという品だ。
しかしながら上級妖魔の末席に名を連ねる事が出来るだけの力を持つ雪輝と、雪輝にやや劣る程度の力を持つ狗遠ならば、例え国家規模の補助を受けて用意された防具といえど量産品の守りらなば十分に貫ける。
であるのにも関わらず狗遠の牙が籠手使いの腹はおろか忍び装束さえも貫けなかったのは、一瞬にも満たない時間差を持って間にあった第三の輪の術師達が展開した、重ね掛けの防御術式の成果であった。
籠手使いの忍び装束の表面に七層にも渡って重複展開された淡い白い光の膜の六層までを貫いた所で、狗遠の牙は止まっていたのである。
籠手使いのさらに奥に隠れている術師達に殺意の視線を向けてから、狗遠は自分の頭を叩き潰す為に打ちおろされた籠手使いの右拳を躱す為に牙を放す。
初撃での籠手使い撃破が叶わなかった事態に雪輝と狗遠はすぐさま取るべき行動を選択し、わずかな停滞もなく妖魔改らへと襲い掛かる動きを見せる。
術師の厄介さは既に白猿王が蘇らせた高位の女陰陽師との戦闘で嫌というほど味あわされた雪輝は、狗遠と同様に後方の術師から無力化する事を選んでいた。
だが同時に狗遠の囁きを雪輝の耳は確かに捉えて、その選択肢の撤回をせざるを得なくなる。
――術師どもは私が片づける。お前はその他のを始末しろ。壁の居ない術師など吹けば飛ぶように脆い。
――分かった。一人で大丈夫か?
――答えが必要か?
なるべく殺さぬようにとはこの状況では言えぬなと、雪輝はある種の諦めと罪悪感を胸中で噛み締めながら、籠手使いの脇をすり抜けて行く狗遠を見送り、後方から斬り掛って来た六人の女達の武器を上方に跳躍してかわした。
水と氷の霊力が付与された短刀と短槍に限れば雪輝との相性の関係から、まともに受けたとしてもほとんど傷を負う事は無かっただろう。
足場のない上空に跳躍した雪輝の選択肢を愚かと感じ、六人の女達は一糸乱れぬ動きで雪輝を目がけて刃の軌道を変更して直角的に振りあげる。
雪輝は下方から迫りくる刃をまるで気に留めず、妖気を冷気に変換して四本の肢それぞれの裏に氷の足場を構築する。
その途中で狗遠の方に目をやれば、第二の輪を構築していた七名の妖魔改達が狗遠の足を止めんとしている。
彼らとて妖魔との戦いを幾度もくぐり抜けてきた歴戦の強者だ。敏捷さに富んだ雪輝や狗遠のような妖魔との戦い方も心得ているだろう。
狗遠単独で第二の輪を突破して術師らを殲滅するのはいささか酷、と瞬時に判断した雪輝は足場を蹴って急速に下方に向けて降下するのと合わせて、再び妖気を媒介とした熱操作を行って、狗遠の周囲を取り囲まんと動いていた妖魔改らを阻むように、大地から紅蓮の炎を噴き上げる。
自然現象における炎とは性質を大きく異にする妖気の炎は、実際に炎に接触した部分にのみ熱量を与える物で、例え一寸という間近の距離にあっても一切熱量が加わる事は無いし、燃やす対象を選択する事も出来る。
この時雪輝が地面と妖気を媒介にして噴出させた炎柱の熱量は、摂氏二千度超。ゆうに鉄を融解させる数字だ。
狗遠は自分を守る位置に噴き上がった炎柱から感じられる妖気が雪輝のものであった事から、即座にこれが雪輝の仕業である事を理解して、後ろを振り返る事もなく目の前の術師達へと踊り掛った。
籠手使いに施した防御術使用後の精神力消耗と硬直状況にある三名を除いた残りこれまた三名の術師達が、詠唱や祈りを必要としない分即効性は高いが、その分威力が見劣りする術を狗遠へと叩きつける。
爆光と衝撃とが狗遠を目がけて殺到するのを視界の端に映しながら、雪輝は炎柱の発生を止めて、後方から迫りくる女達と、第二の輪の構成していた数名が雪輝をめがけて動きを見せるのを確認し、こちらを片づけることを優先した。
先ほど視認した術ならば八割か九割方回復した狗遠にはさして痛打を浴びせられまいし、周囲の妖魔改達は大狼と勘違いしている雪輝の方に意識を集中させている事から、雪輝は自分の戦いに集中する。
凛とのいざこざを経験こそしていたが、雪輝にとって本格的に人間と争うのはこれが初めての事であった。
相手がこちらの命を狙ってくるとなればそれが妖魔であれ、野の獣であれ、人間であれいずれも平等に命を対価にして迎え撃つのが、人間よりの思考を持つとはいえ、そこはやはり妖魔である雪輝の基本的な考えである。
しかしながらひなを引き取り鬼無子と暮らし凛と友誼を結んだ事もあって、例えこうして生命を狙われている状況にあっても、いまひとつ雪輝は妖魔改の者達の命を奪う事に踏ん切りをつけられずにいた。
(さて、この者達の力がどれほどの物であるかいまひとつ把握できぬが、できれば殺したくは無いな。どうにも人間を殺すのは後味が悪そうだ)
雪輝は身を捻って後方から突きだされた短槍を噛み止めてその勢いのままに噛み砕き、更にこちらの前肢を切断しに掛って来たそれぞれ炎と風の力を宿した二振りの刀を、回避する事もなくそのまま受ける。
巨躯の表面を高速で流動している妖気の防御圏に接触した刀が凄まじい勢いで風と炎を発生させて、雪輝の堅固な防御圏を突破せんと宿す霊力を全開にして荒ぶる。
それぞれ雪輝の左右の肢に刃を叩きつけた妖魔改の隊士二人は、一向に己が手の中の刃が雪輝の防御圏を減衰させる事も出来ぬ事実に、目を細めてすぐさま後方に飛びのこうとしたが、それよりもはやく雪輝が両前肢を叩きつける方が早かった。
二人の側頭部を時間差を置いて雪輝の前肢が横殴りにし、二人の隊士はその勢いのまま高速で地面にたたきつけられて、意識を根こそぎ刈り取られる。
雪輝の知覚網が八つの殺意を捉えた瞬間、肩高六尺の巨躯からは想像もつかない柔軟かつ敏捷な動きを見せて、横腹を突いてきた雷を纏う槍穂や肩をめがけて振り下ろされた土の魔力を秘めた鉄鎚をひらりと躱す。
それぞれの武器が発する霊力は雪輝の体表上の妖気と交錯する度に無数の火花が散り、雪輝は全身に砕いた宝石の粒を纏っているかのように輝いていた。
妖魔改の隊士たちの中には夕座の伽役も兼ねた多種族に及ぶ美女達もおり、先ほど鬼無子と妙な舌戦を繰り広げた影馬と影兎も雪輝との戦いに加わっていた。
頭巾を被り直してはいたが、その頭巾から特徴的な髪形が零れている為、判別は容易い。影馬は五指の間に投げ刃を挟み、影兎は三節を備えた槍を手にしている。
「鬼無子と言い争っていた者達か」
意識せずに口を出た雪輝の言葉が耳に届き、影馬と影兎は鏡映しにしたそれぞれの美貌に、新たな敵意の色を塗り重ねる。
「大狼、夕座様の御為、御首頂戴!!」
「お覚悟を」
「そう上手くはやらせぬよ」
夕座に対して抱いている怒りに比べればごく微量ではあったが、雪輝は鬼無子を言葉で傷つけた影馬と影兎に対しても、それなりに怒りを抱いていた。
<続>
以前ご感想の中で頂いた会話を参考にさせていただきました。ありがとうございます。
ちなみに雪輝は天地の気を食べて体力を半永久的に補充できるので、精力もほぼ無限という裏設定があったりなかったり。子供は百人単位で出来る予定。
天船さま
狸一家の顛末は夕座の口から遠からず語られる事となりますので、その時までお待ちを。女の戦いは狼VS人間から、一時人間VS人間となりました。鬼無子はあんまり口が上手くないので、同じ様に会話経験の乏しい狗遠ならともかく、大抵は言い負かされる人です。
ヨシヲさま
( ゚∀゚)o彡°修っ羅っ場!修っ羅っ場!(挨拶返し)
とりあえず恋愛的な修羅場から戦闘的な修羅場に移行です。萌え人外はそういう種族だったりハーフだったりクォーターだったりと色々です。詳細は後々文中にて説明するつもりですが、神々がいろいろと好き勝手に種族を作っているので、色んな種族が居て、頻繁に異種族間における婚姻なんかも行われている世界です。チラ裏のは次はアーミアとおまけの刹那を投稿させていただく予定です。来週中までには、なんとか……。
taisaさま
ちなみに鬼無子は外見は純人間風で産まれています。他の同族たちには妖魔や亜人の特徴をもったものも居たのですが、年を経るに連れてそれを抑える術などを学んで外見は人間そのものにしていたという設定です。
仮に雪輝との間に人外の外見を持った子供が生まれたとしても、異種族を受け入れる素地のある人間社会か、異種族や妖魔の国にいかないと迫害にあってしまうかもしれませんね。山にずっと住んでいればその心配もありませんけれども。手足や耳、尻尾は狼、胸はホルスタウロス、とかさらにハーピー系統の羽が背中から生えているだとか、複数の特徴を持った子供も生まれるかもしれません。
ご感想を賜り誠にありがとうございました。大変励みになります。
誤字脱字のご指摘、ご感想、ご助言お待ちしております。これからもよろしくお願い致します。
3/20 20:16 投稿