その三 疑惑
うふふ、あはは、きゃっきゃっ、とほんの五、六歳ほどの子供が挙げる様な、耳にする者がつられて暖かな笑顔をつい浮かべてしまう闊達な笑い声が、朝陽がようやく馴染み始めた樵小屋の中で飛び跳ねていた。
声に惹かれてその主を見ようと思った者は笑い声の主の正体を見たとき、おっと驚きの声を一つ零すかもしれない。
まだ舌足らずな子供に似合う笑い声を挙げているのは、声の調子とはまるで正反対の凛とした雰囲気の中に匂い立つ色香を纏う年若い美女なのである。
街の中を歩けばすれ違う男ばかりか女もうっすら頬を染めて、その場に足を縫いとめられたように止めてもおかしくないほどの美貌であったが、あどけなく純真無垢という言葉がそのまま変わった様な、見た目の年齢とは釣り合わぬ愛らしい笑顔を浮かべていた。
これは無論、四方木鬼無子その人である。
朝も早々に六杯も玄米ご飯をお代わりしてしまい、食事量を自制するという自身の誓いを、一刻もせぬうちに破った己の意思の弱さに、精神をどん底にまで自分で叩き落としていたが、同居している狼の妖魔雪輝の、好きなだけ体を触っていいという励ましの効果により、今や幸せの真っただ中に居ると言わんばかりの輝く笑顔だ。
雪輝の他に同居しているひなが食事の後片付けを進めている中も、雪輝の誇る眩いまでの輝きを放つ白銀の毛並みをいじる鬼無子の十指は動く事を止めない。
今は普通の狼の数倍にも達する雪輝が仰向けにごろんと寝転がっており、鬼無子はその腹の上に寝そべる様にして横になり、指先のみならず雪輝の胸のあたりに頬を擦り寄せて、ほぼ全身で雪輝の毛並みの素晴らしい感触を堪能している。
狼を含めイヌ科の生き物が腹を晒す姿勢はおおむね降伏や服従を示すものなのだが、雪輝は大きさはともかくとして狼の姿をしているわりには、狼としての習性をちぐはぐに持ち合わせており、この姿勢に関しては特に抵抗を覚えないようであった。
ん~~、と鬼無子が子犬のように甘える様な声を咽喉の奥から出しながら、薄桃色の頬を緩めてすりすりと雪輝の身体に頬を擦り寄せるのを、雪輝は黙って好きなようにさせていた。
元々これ以上なく落ち込んだ鬼無子の心を慰めるために提案したのであるから、自分の体一つを差し出して、鬼無子が元気になるのならそこに雪輝は不満など覚えるはずもない。
好きなだけ触っていいというのは、少し言い過ぎたかな、とほんの少しばかり心の片隅で思ってはいたけれど。
雪輝の腹の内側の毛並みをあらかた堪能し尽くした鬼無子は、次の目標を狙い定めて笑顔を浮かべたまま、んふふ、となんともまあ楽しげに鼻歌を零してもぞもぞと、雪輝の腹の上に跨ったまま体勢を変えた。
平均的な成人女性をやや下回る程度の鬼無子の体重なら、腹の上に乗られてどう動かれても大して苦ではないらしく、雪輝はこれまた黙ったままである。
鬼無子の新たな目標は、逞しいがしゃなりと伸びて流麗な線を描き、柳の木のようにしなやかな筋肉を纏う雪輝の四肢や首の付け根だった。
鬼無子は丹念に丹念に雪輝の毛並みを手櫛で梳き、愛しげに雪輝の身体を指や掌全体を使って揉み解していく。
生まれた時から一緒に居る愛犬に対する愛撫の様に優しく情の深い所作であった。
これは雪輝も相応に気持ち良いらしく、長々と板張りの床に伸びた尾が左右にゆらゆらと揺れ、二等辺三角形の耳も不規則にぴくぴくと揺れているし、そろそろと息を吐くのと同時に体から余分な力も抜けて行っている。
そんな一頭と一人の様子を、茶碗や箸を洗いながらひなは、仲の良い兄妹を見守る優しい母親の顔をして見つめていた。
本来、この二人と一頭の中で最も年少であるはずの少女がかような表情を浮かべる辺り、この樵小屋に住む者達の親愛に満ち溢れながらも、一種奇妙な関係が伺える。
「こちらの手触りも素晴らしゅうございますなぁ、雪輝殿」
「ん……それは、良かった」
「ふふふ」
答える雪輝の声も、絶え間なく続く鬼無子の愛撫が効果をあらわしてきたのか焦点がぼやけて、夢見心地のようにどこかうつらうつらとしている。
雪輝が喜んでいる、と分かった鬼無子は心のどこかに火が点いたのか、より一層熱心に手を動かし始め出す。
落ち込んだ鬼無子の心を慰めるという雪輝の行為は、いつの間にか鬼無子が雪輝を喜ばせるというものに見事逆転していた。
にこにこと、ひょっとしたら同居暮らしを始めてから一番の明るい笑みを浮かべる鬼無子は、雪輝の毛並みを好き放題に弄繰り回せる喜びから、今は雪輝を喜ばせる事の出来る喜びに夢中になっていた。
このまま行けば雪輝の身体で鬼無子の指が触れていない場所がなくなるのに、さして時間はかからないという勢いであったが、雪輝の左の脇腹のある箇所に触れた時、不意に鬼無子の指が止まる。
水晶の弦が張られた天上世界の琴を爪弾くのが相応しい繊指は、膿を噴く寸前の腫れものに触れるようにして雪輝の左脇腹のある一帯を、ゆるゆると撫でる。
指先の動きの変化に気付いた雪輝が、仰向けに寝転がったまま首だけを起こしたやや苦しげな姿勢で、鬼無子の顔を覗き込んだ。
「どうかしたかね?」
少しばかりまだぼやけている雪輝の声に対する鬼無子の返事は、常の凛々しさを取り戻したものだった。
「いえ、雪輝殿のお怪我がすっかり治ったようで、安堵した次第です」
すでに何度も確認した事ではあるが、それでも言葉通りに安堵した調子の鬼無子の声に、雪輝が納得がいったようで、ああ、と小さく零した。
「ひなにも鬼無子にも心配を掛けたからな。なに、この通り鬼無子に乗られても何ら支障はない。心配は無用な事だよ」
鬼無子の指が触れていたのは、過日の因縁深き白猿王の邪術によって黄泉帰った怨霊達との最後の戦いに置いて、雪輝が真の怨霊と化した蒼城典膳の一刀を浴びた個所であった。
雪輝は典膳とのごく短時間の、しかし濃密な死闘に置いて右肩に深く脇差しの刃を突きこまれ、更に最後の一撃を放つ際には左の脇腹を横一文字に斬られたのだ。
大小二振りの刃を持って虚実入り乱れ、千変万化の太刀筋を繰りだす伏刃影流の達人が全身全霊を込めた一撃は、鉄砲の鉛玉も通さぬ雪輝の毛並みと、鋼鉄の重装甲に等しい妖気の防御膜を薄紙のごとく斬り裂いて、雪輝を瀕死に追い込んだのである。
刹那の差を持って典膳の首を噛み切り、勝利を収めた雪輝ではあったがほとんど相討ちに近いものだったことは否めない。
ましてや白猿王の術によって半強制的に黄泉より帰参した他の怨霊達と違い、真実、己の怨嗟と万物斬断を持って剣の道を極めんとする狂気の一念によって、怨霊と化した典膳の振るう刃が、ただの物理的な効果のみに留まるはずもない。
典膳が雪輝に与えた二つの傷のどちらにも、物質化する寸前といっても過言ではないほどの濃密な殺意が蟠り、雪輝自身の驚異的な再生能力の発露を阻んで、激烈な痛みと出血を強制した。
右肩と左脇腹からの出血によって、白銀の身体の左右を真っ赤に染めた姿で雪輝はひなと鬼無子の待っていた樵小屋に帰ってきたのだが、見るに堪えない凄惨たる姿の雪輝に、ひなはしばし呆然とした後泣き叫んで雪輝に縋りつき、鬼無子は湧きあがる無数の感情を殺し、何を優先すべきかを第一に考えて雪輝の手当てに奔走した。
右肩の一刺しも骨にまで達するほどの相当に深い傷であったが、それ以上に左脇腹の傷が雪輝の生命の灯火を危ういものにしていた。
本来なら斬られた個所からはらわたの大半をぶちまけている深手であったが、雪輝はこれをひなの所へ帰るまでは、という想いを根源とする精神力と自身の妖気で抑え込んでいただけだったのである。
わずかに気を抜けばすぐさま土砂降りの雨と同じ勢いで残りわずかな血が溢れだし、臓物が尽く流出する様な重傷だった。
ひなの姿を認めたことで雪輝の気が緩み、抑え込んでいた左脇腹の傷から血と臓物が零れ落ちていたら、今こうして鬼無子を腹の上に乗せる様な事は叶わなかっただろう。
幸いにしてひなと鬼無子の元へ帰ってくる事が出来、夢にまで見る思いで求めた少女と剣士の姿を認めた雪輝が、尚更こんな事で死ぬわけにはゆかぬと奮起したことで、最悪の事態は避ける事が出来たのである。
勝者と呼ぶには余りにも痛ましい雪輝の姿からすれば、白猿王一派との戦いの時と同様に、まさに死の淵に半身を突っ込んだ状態での辛勝という他ない。
以前、死の淵をさまよっていた鬼無子に使った天外の薬の残りをありったけ使いこみ、雪輝は体力の温存と回復を最優先にしてぐったりと横になったまま微動だにせず、その傍に常にひなが控えたままで二日が過ぎた頃、ようやく雪輝の脇腹の傷は癒着をはじめたのである。
傷口に残留していた典膳の殺意がわずかに薄まり始めた事と、天外の調合した薬の薬効作用によって雪輝の体力が幾分か回復し、また常に傍らに雪輝の精神を鼓舞する存在であるひなが居た事で、ようやく雪輝の再生能力が機能し始めた事の証明であった。
それから更に三日が経過した現在、雪輝の左脇腹の毛を深く掻き分けても、そこに恐るべき手練を誇った達人の一刀が与えた傷跡は、わずかほどにも残ってはいない。
また傷が完全に癒えただけに留まらず、一度は布団の材料にする為に短く刈られた雪輝の毛並みも、元通りの長さに戻っており、たっぷりと空気を孕んで更に触り心地の良さを増している。
怨霊達の復活の黒幕がかの老獪な魔猿であったために、怨霊達がひなの存在を知らないという前提が誤りであったことや、結局は怨霊達との決着を全て雪輝に委ねてしまった事実を改めて思い出し、鬼無子は臍を噛む思いであった。
肝心な所で役に立てなかった事への申し訳なさが、堤を破った洪水と等しい勢いで鬼無子の胸中に溢れ、黒く苦い感情の領土を広げる。
指先が触れるか否かという程度に、雪輝の左脇腹の傷があった辺りを撫でる鬼無子の表情が、再び苦行の最中にあるかのようにかすかに歪んだのを見て、雪輝はやれやれと言わんばかりに小さな息を吐いた。
「鬼無子は過ぎた事で悩みすぎる。私はここにこうして無事に居るのだから、悔んだ所で変えられぬ事実にいつまでも囚われるのは感心せぬな」
「いや、これは申し訳ございませぬ。大恩ある雪輝殿のお役に立てなかった事が、どうしてもそれがしの心の中でしこりとなっておりまして、こればかりは有耶無耶にしてよい事ではありませぬ」
「そこがまじめ過ぎると言うに」
雪輝の言葉に耳を傾けながらも、あくまで自分の考えを曲げずやんわりと受け流す鬼無子に、雪輝は苦笑せずにはおれなかったが、そんな鬼無子の性分はかえって好ましく感じられた。
とはいえこの話を続ければ再び鬼無子が要らぬ心労を抱え込み、沈鬱とした雰囲気を纏いかねない。
そうなっては体を張ってまで鬼無子を慰撫しようとした甲斐がないだろう。雪輝は途中でむしろ自分の方が鬼無子に気持ち良くしてもらっていた事実は、この際目を瞑ることにした。
雪輝は多少強硬手段に訴えるのも已む無しと、この温厚かつ呑気な狼にしては珍しく果断な決断を下す。
意識のそれていた鬼無子の隙を突く形で、雪輝は仰向けに寝転がっていた巨体をねじり、自分の腹の上に跨っていた鬼無子の身体を、囲炉裏とは反対側へと落とす。
突然の雪輝の悪意の無い行動に対し、悔恨の味を嫌というほど味わっていた鬼無子の反応は遅れて、この剣士には珍しい、きゃっ、という可愛らしい悲鳴を一つ零して雪輝の身体の上から転げ落ちた。
意図の読めぬ雪輝の行動に、居間の床に落とされた鬼無子は事態の変移に理解が追い付かず、不世出の職人の手で磨き抜かれた黒瑪瑙のように美しい瞳を茫然と見開く。
そこへ雪輝の巨体が圧し掛かってきた。もちろん、鬼無子の身体を押しつぶしてしまわないように配慮して、鬼無子の身体に体重を預けるような真似は避けている。
ごろんと床に寝転がる鬼無子に覆い被さる様にしている雪輝、という構図はほんの一瞬前までの両者の位置関係を反対にしたものだ。
餓えた狼がうら若い乙女の柔肌に牙を突き立てんとしている、としか見えぬ構図ではあったが、当の鬼無子には困惑こそあれども雪輝に対して食べられるといった恐怖は抱いてはいなかった。
この剣士の雪輝に対する信頼は、すでに絶対的なものとなっているのだろう。
「雪輝ど……きゃ!?」
雪輝の行動の真意を問おうとした鬼無子の言葉は、顔を近づけてきた雪輝に首筋から頬までをぺろりと一舐めされた驚きと、くすぐったさによって阻まれた。
「まったく、まだこれでもそんな事を言うか」
と、雪輝はまるで鬼無子の言い分を聞く気はないらしく、鬼無子の顔と言わず首と言わず耳と言わず、鬼無子の抗議をまるっきり無視して、幅広で長い舌を使ってぺろぺろと舐め回し始める。
雪輝は野を駆けまわって生きていた獣系統の妖魔にしては珍しい事に、ほとんど匂いというものを持っておらず、また動物は言うに及ばず植物の類も一切口にした事がないために、口臭もまるでない。
強いて言えば水に近い匂いがするといった所で、同じ狼型の妖魔である狗遠や餓刃丸の嗅覚をもってしても、よほど執念深く捜さぬ限りは雪輝の匂いをかぎ取ることは難しい。
そんなわけで不快な匂いが一切しない雪輝の舌に鼻先やら輪郭線やらを舐め回されても、鬼無子の心中には狼の姿をした者に全身を汚辱されている、といった様な嫌悪感や不快感は絶無であった。
肌理細やかな肌に覆われた頬や色香の匂い立つうなじだけに留まらず、着物の合わせ目から鬼無子の豊かすぎるほどに豊かな乳房の合間にまで、遠慮なく侵入してくる雪輝の舌に、鬼無子はくすぐったいやら恥ずかしいやらで、思うように体に力が入らず、ほとんどされるがまま、なすがままの体たらく。
「ゆ、ゆき、雪輝殿、ここここれ以上はお止めくだされ。ひゃん、く、くすぐっとうございま……あぅん!」
鬼無子自身も知らなかった特に敏感な耳の裏をぺろりとされて、鬼無子は自分でも驚くほど甲高い声を一つ挙げる。
雪輝自身には性的な意図はまるでないのだが、その分返って鬼無子を舐め回したり鼻先でくすぐったりするのに遠慮がなく、鬼無子が笑い声の中に時折甘く響く嬌声を交え始めるのにそう時間はかからなかった。
「あ、ひゃぁ、うぅ、ふんんん。ゆき、殿、か、堪忍、堪忍してくだされ、そ、それがし、は……これ以上されたらぁ」
鬼無子の戸惑いにまるで気付けぬ雪輝は、鬼無子の縋る様な懇願が続く間も鬼無子の上半身を中心にくすぐるのを止めようとはせず、器用に柔らかな鬼無子の耳たぶを甘噛みしながら言う。
「もうこれ以上ぐじぐじと悔んだり、落ち込んだりせぬというのなら今すぐにも止めよう」
鬼無子は雪輝にこってりと咽喉を舐めあげられるのに未知の快感を覚えて、これ以上深いものを知ってしまう事への不安と隠しきれぬ期待、ゆっくりとゆっくりと熱を帯びて体の奥底から疼き始める自分の身体に戸惑っていたが、かろうじて理性が勝利を収めることに成功し、
「わわわ、分かりました。もう落ち込みませぬし、うじうじと悩んだりも致しませぬゆえ、おゆ、おゆる、お許しくだされえ!!」
声を大にして叫んだのだが、鬼無子の声はもう恥ずかしいやら情けないやら、いくつもの感情が出鱈目に混ざり合って自分でも判別ができず、半泣きになっていた。
「よろしい」
鬼無子の降伏宣言を受託した雪輝は、最後に少しだけ舌先を出した口で鬼無子の艶やかな朱色の唇を舐め、くちゅっという小さな音と共に鬼無子の身体の上からようやく離れた。
「ひゃん! え、あ、あぅ……ぅうう……」
苛烈な鍛錬にも乱れる事の無かった息を荒げ、世界を白銀に染める雪色の肌を薄い桜の色に上気させた鬼無子は、神経が剥き出しになったように敏感になっていた唇に触れた暖かで弾力のある感触に、ひと際大きな声を挙げると同時に隠しようのない驚きに目を見張る。
(いいい、いま、せ、せ、せっぷ、接吻された!!! そ、それがしの初めてを、ゆ、ゆ、ゆ、ゆ、ゆき、ゆき、雪輝殿に!?)
いまにも湯気を噴き出しそうな勢いで体を桜の色に染め、体温を灼熱に変える鬼無子には気づかず、雪輝は洗い物を終えたひなと話し込んでいた。
ひなの方も雪輝と話しだしたから、鬼無子の異常事態には気づいていない。
「もう、雪輝様、鬼無子さんは確かにお元気になりましたけれど、少しやり過ぎですよ。途中でお困りになっていたではないですか」
「そうか? しかしあれくらいしなければまたすぐに落ち込みかねぬぞ。流石にあれだけしておけば鬼無子も懲りて、そう簡単には挫けたりはしなくなるだろう」
「それはまあそうですけれども、もう少し他に何か方法はなかったのでございますか。傍で見ていてはらはらとしてしまいました」
「ふうむ。そうだな、また鬼無子が何か悩みだした時にはも少しやり方を考えることとしよう」
「そんな事がない事に越したことはないのですれけどね」
「であるな」
うむうむと頷く雪輝とひなの声が聞こえてはいたのだろうが、鬼無子はわなわなと震える指で、自分の唇を触れているばかり。
初めての接吻を好意的な感情こそ抱いているものの、狼の妖魔に奪われた事がよほど精神的衝撃であったのだろう。
いまなら三歳の子供とて包丁一つ持たせれば、呆気ないくらい簡単に鬼無子を討ち取る事が出来るに違いない。
この時だけは雪輝とひなと、鬼無子とではそれぞれが別の世界の住人となっていた。
*
一足ごとに地面を抉り風を撒いて、山が崩れたかのような迫力で、自分に迫りくる茶褐色の毛皮の塊を、鬼無子は冷徹な瞳でじっくりと観察していた。
肩高が七尺(約二百十センチ)にも達する巨大な猪である。咬みあわせた口からは幾本もの牙がぞろりと伸び、黄色に薄汚れたこの牙ならば鉄の鎧もあって無きに等しいだろう。
華奢な女性としか見えない鬼無子など十人、二十人もまとめて木の葉のように簡単に吹き飛ばす事が出来る様な破壊力を秘めた猪の突撃を前にして、鬼無子の瞳に恐れの色はない。
自分とそう変わらぬ大きさなの猛獣が明らかな殺意を持って迫りくる迫力と恐怖は筆舌にし難いが、鬼無子の人生においては三桁以上経験した脅威であり、至極慣れたものに過ぎない。
血走り殺意に塗れる猪の瞳を正面からに睨み据え、鬼無子は猪の鼻先と牙がその柔らかな体に触れる寸前、風に遊ぶ蝶の様に軽やかに横に動きいて刹那の交差の間に猪の首を、自らの左脇に抱え込んだ。
激突すれば分厚い城塞の門も一撃で粉砕する猪の突撃の威力を、左脇に抱え込むだけで鬼無子の膂力は完全に抑え込み、と同時に大蛇のごとく猪の首を締めあげて、鬼無子は自分の腕の中で猪の首の骨が砕ける音を聞いた。
頸椎をはじめとしたいくつもの骨の破砕音の残響が鈍く鼓膜の中に残っている中、鬼無子は脇に猪を抱え込んだまま、更にその巨体を持ちあげて烈風の勢いでそのまま背後の地面に叩きつける。
「ふん!!」
ぐお、と猪の四足が浮いたと見えた次の瞬間には、海老反りの体勢になった鬼無子に抱えられた猪は、地面に激突するのと同時に蜘蛛の巣状の罅を四方に走らせて、大地をめくり上げる。
首の骨を折られただけでなく、背中を大地に叩きつけられた事によって脊髄を粉砕され、内臓を守る肋骨に至るまでが激突の衝撃によって尽くへし折られて、本来守るはずの内臓に突き刺さり、猪の命を一瞬で残酷に絶つ。
ぶらりとあらぬ方向に曲がった猪の首を解放した鬼無子は、海老反りの体勢から背筋を伸ばした体勢に戻り、仕留めたばかりの獲物を見下ろした。
一般的な猪に比べて一回り二回りどころではない体を持った猪であるが、幸いにして妖魔というわけではなくその肉や毛皮に妖気が染みついているわけではないから、すぐに食用にする事が出来るだろう。
あの雪輝に全身を舐め回されて唇を奪われて(雪輝に自覚はない)、もう嫁にいけない、と鬼無子が心の片隅で思った事態から数刻ほどが経過し、太陽が中天に位置する時刻に変わっている。
なんとか心を切り替えることに成功した鬼無子は、ただ食べるばかりではいくらなんでも申し訳が立たぬと奮起し、いつもの農作業や食材の採取以外にこうして積極的に鳥獣狩りに精を出していた。
そこらの熊などまとめて二頭も三頭も相手にして返り討ちにする、妖哭山産まれの大猪ではあったが、妖魔の血を引く百戦錬磨の妖剣士が相手では不運にすぎたという他あるまい。
血抜きや解体は樵小屋に戻ってから行うので、鬼無子はまだ暖かい猪の身体を肩に担ぎ、近くの大樹の根元に置いておいた鳥を左手に持った。
虹色の羽をもったナナイロヤマドリが四羽、すでに息絶えて首を縄で括られている。猪と退治する前に鬼無子が投げ刃や、素手で仕留めた成果である。
雪輝が主な行動範囲としている樵小屋の近辺には、この猪の様な獣は生息どころか足を踏み入れる事すら弄うため、狩りはやや遠出することになった。
もう少し鹿か兎でも獲ろうかと鬼無子は逡巡したが、あまり欲張るのも、と考え直し、肩をいくらか動かして猪の位置を整える。
四羽の山鳥はもちろん、特にその肩に担いだ異常なほど巨大な猪などは、成果を挙げるのに要した時間やその巨体を考慮すれば、普通の猟師など羨望や嫉妬を通り越して茫然と呆れるしかない成果であった。
ふと鬼無子は、咄嗟の襲撃に対応するために空けている右手が、無意識のうちに自分の唇をそっと撫でている事に気付く。
それと同時に朝方の衝撃的な体験が稲妻のごとく脳裏に閃いて、鮮明にその時の様子と感触に音が蘇り、たちまちのうちに首から上に留まらず耳や指先に至るまでを真っ赤に染めた。
なんとか頭を切り替えたようでいて、まだまだ人生初接吻の衝撃は鬼無子の精神に大きな楔を打ち込んでいるようだった。
かつてない羞恥の念が心中で湧き起こり、対処の仕方を知らぬ感情の発露に鬼無子はどうすればよいか分からず、心中のもやもやをすべて吐き出すように叫んでいた。
「ううう…………なあああああーーーーーーー!!」
辺りに鳴り響く鬼無子の叫び声に周囲の木々や草むらに潜んでいた小虫や鳥、小さな獣たちが驚きに目を見張って、その場から脱兎の勢いで逃げ出す。
「鬼無子さん、どうしました!?」
鬼無子が猪と対峙している間、近くの木の裏に隠れるよう伝えておいたひなが、慌てた様子で顔を見せる。
突然、何の前触れもなしに鬼無子が叫んだのであるから、慌てて当然だろう。
鬼無子の身を案じて心配そうな表情を浮かべるひなの姿を見た鬼無子は、すぐさま我に返って自分の痴態を目撃された事に対する恥じらいを覚えながら、なんとか場を取り繕うとする。
「い、いや何でもない。別に怪我をしたという様な事もないから心配せずともよいさ。それよりも、ほら、大きな猪が獲れた。冬に備えて干し肉にでもしよう。毛皮は敷物かな」
と鬼無子が肩に担いだ猪の巨体を示すと、ひなはあまりに大きな猪の姿に眼を見張ってから、予想以上に大きな獲物の姿に喜びの声を挙げる。
「うわあ、大きな猪。こんな大きな猪を仕留めるなんて、やっぱり鬼無子さんはすごくお強いんですね」
「はは、まあ、これ位しか取り柄もないし、自分の食い扶持くらいは稼がねばいくらなんでも面目が立たぬから」
正直者の見本というくらい素直な性根の鬼無子であったが、なんとか鼻氏の矛先をそらす事が出来て、ほっと安堵の息を飲み込む。
まさか雪輝に“初めて”を奪われた事を思い出して、恥ずかしさのあまりに自分でもわけのわからぬうちに、つい叫んでしまったなどと正直に白状することなど、口が裂けても鬼無子にはできそうになった。
この女性にもきちんと恥じらいというものは備わっているのである。しかしなによりひなが機嫌を損ねなかった事が、雪輝にとっては幸いであったろう。
どうやら鬼無子と雪輝との接吻の場面を目撃していないらしいのだが、そもそも雪輝が鬼無子の身体を舐め繰りまわしていた事だけでも、少し前のひななら怒り心頭になっていてもおかしくはない。
この数日で、ひなの雪輝に対する情愛の深さや信頼に更なる変化があったということだろうか。
そんな風にもの想いに鬼無子がふけていると、ひなは手に持った笊の中の松茸を見ながら
「雪輝様が冬は風雪がものすごく荒れ狂うとおっしゃっていましたから、秋の内にたくさん蓄えておかないといけませんね」
と至極真面目に口にする。ひなと鬼無子にとって初めて迎える事になる妖哭山の冬は、長年住んでいる雪輝の言を借りれば、それはもう大変に寒さが厳しく、雪の降らぬ日の方が珍しいという有り様らしい。
それでも冬を越そうとする野の獣の類は居り、魚も幾種類かが川から獲れるので事前の蓄えをきちんとしていれば、暖房代わりの雪輝もいる事だし冬を迎えても問題はないだろう。
「む、そうだな。それがしの住んでいた所は雪など滅多に振る事はなかったし、あまり慣れておらぬから冬の恐ろしさは今一つ分からぬ故、油断はできん。まあ雪女とか氷の妖魔とは何度か剣を交えた事はあるのだが、その時の経験はさほど役には立つまいなぁ」
戦闘でのごく短時間での経験と、数か月を過ごさねばならぬ生活とを同列に扱うわけにもゆくまい。
雪輝の周囲の温度を操作する異能を抜きにしても、あのふんわりぬくぬくとした毛皮にくるまってさえいれば、少なくとも寒さをしのげるのは間違いない。
朝の出来事を忘れようにも忘れられぬ鬼無子は、暫くは雪輝に触る事さえ羞恥の想いに駆られて出来そうになかったが、本格的に冬を迎える頃にはなんとかなるだろうと楽観的な希望を抱いていた。
「雪輝様が頼りですね」
「そうだな」
あの狼の事だ。ひなと鬼無子に頼られれば千切れんばかりに尻尾を左右に振って、やる気を出すのはまず間違いあるまい。
その様子があまりにも容易に想像できたものだから、鬼無子とひなは互いの顔を見つめ合ってから、くすりと小さな笑い声を立てた。
その時である。
二人の背後の茂みががさりと音をたてて揺れ、緑の色彩の中から白銀の巨大な塊がひょっこりと顔を覗かせる。
ひなと鬼無子とは一旦別行動を取っていた雪輝である。
物音に気付いてこちらを見つめる二人の姿に気づいて、雪輝は頬を緩めた。人間がはたして狼の表情の変化を理解できるのか、と問われればこれは極めて難しい事かもしれなかったが、ひなと暮らし初めから感情表現を豊かなものにしている雪輝に限れば、これは実に分かりやすい。
鬼無子が仕留めた猪を見て、ほお、と感嘆の声を一つ零して雪輝が足音一つ立てずにひなと鬼無子達に歩み寄る。
ひなは、雪輝と出会ってからこれまで一度も雪輝が足音を立てた事がなかったな、とふと思った。
「雪輝さ……ま?」
雪輝のもとへ駆け寄ろうとしたひなの足は、不意に石と変わったかのように止まる。ひなばかりではない、鬼無子の目線も雪輝の足元にまとわりつく物体に向けて注がれており、食い入る様にして見つめている。
雪輝の足元にはなんとまあ可愛らしい毛皮の塊がまとわりついている。短い四本の足をのたくたと一生懸命に動かし、愛らしいつぶらな瞳で雪輝を見上げて、しきりにその小さな体を雪輝に押し付けている。
さらにはまるで親に甘えるようにして、くぅん、と鳴いて見せる。
小さな小さな毛皮の塊は、なんとも愛らしい獣の仔であった。
鬼無子は言葉を忘れて眼を見開いて雪輝に甘える仔獣を見つめ、ひなはというと何度かぱくぱくと口を開いては閉じてを繰り返してから、なんとかこれだけ言葉にする事に成功する。
「お、お子様がいらしたのですか?」
愛する夫が自分の知らぬ所で子供を作っていたという事実を突きつけられた妻の様な、ひなの悲痛な言葉であった。
「くぅん」
と、仔獣がひなに、そうだよ、と言わんばかりにひとつ鳴いて答えた。
<続>
巨乳美少女剣士が狼をもふもふしていたと思ったら全身嘗め回された挙句に唇を奪われたでござるの巻でした。頂いた感想へのお返事は又後ほど。ご指摘ご忠告ご助言ご感想、お待ちしております。