3.
勝敗の見えている戦いほどつまらないものはない。
ナルトは常々そう思っているし、ナルトと同様に暇そうに試合を観戦しているサスケもそうだろう。サクラははらはらとしながら戦闘を見守っているが、それは知り合いが怪我をすることを心配しているだけだ。
日向ネジと日向ヒナタの柔拳による同門対決。お互いに相手の技を知り尽くしている戦闘は技の習熟度で決まってしまう。
技量に関して言うとすれば『比べることも愚かなほどの隔絶した差がある』と言う他ないだろう。
動きの一つ一つに明確な技量の差が浮き彫りになる。
ネジと比べたらヒナタの動きは鈍重極まりなく、無駄が多い。それに身体の性能の差もあるだろう。それほどに男と女の力は違うし、敏捷性も男のほうが勝る。
幾度もヒナタの身体に拳を突き刺し、チャクラの通り道である経絡系に直接チャクラを流し込み、チャクラの流れを阻害していく。
封鎖に次ぐ封鎖でヒナタの身体は著しくチャクラの巡りが悪くなり、どんどんと顔色が青ざめていく。
だが、ヒナタは諦めることを知らないのか、ただただ愚直にネジへと向かっていく。
「……実力差はもうわかったでしょう?」
ヒナタの力のない突進。虚ろな眼光。
ネジはヒナタの懐に潜り込むと同時に鳩尾に肘を抉るように撃ち込むと同時にヒナタの右腕を肩に乗せ、勢いそのままに地面へ落とすように投げ飛ばした。
強烈な衝撃が全身を襲い、ヒナタは咳込む。吐き出される息の中には血が混じっていた。
無様な姿を晒すヒナタに憐憫の眼差しを落とすのはネジだ。何故諦めないのか理解できず、このままだらだらとした戦闘を続けることに忌避感を覚えているよう。
「ヒナタ様……そろそろ棄権してはくれませんか?」
「……嫌、です」
呆れた、と言わんばかりに力の抜ける嘆息を漏らしたのはネジ。
腰ほどまで伸びた黒髪を面倒くさそうに掻き毟り、「宗家を守るのが分家の俺の役目なんですけどね。それに、弱い者イジメは好きじゃない」と、わがままな子供に対して言うような声音で話す。
お前なんか相手にならないんだ、つまりそう言っているわけだ。
日向宗家のヒナタ、日向分家のネジ。分家は宗家のために生きねばならないし、宗家は分家を上手く使うことと日向の血を絶やさないために子を為していくのがそれぞれの義務。このままヒナタを痛めつけ、万が一にも子供が産めない身体になってもらっては正直言って困るし、ネジの立場も悪くなる。
だからネジはこれ以上戦いたくなかったのだが……
「……私は、私は……弱くなんかないっ!」
血の混じる叫びとともに、ヒナタは勢いよく立ち上がる。
「人にはそれぞれ持って生まれた義務というものがある。それが俺の考えです。
ヒナタ様――正直申し上げさせていただきますが、貴方の武の才能はない……相手の身を思いやる精神はときに美徳と言われますが、実戦においては邪魔な感情でしかない。
割り切れない貴方のことを軽蔑する気はありませんが、同門の先輩として言わせてもらいますとね……優しすぎるんだ。甘いと言ってもいい」
「……そんなことっ!」
ネジの言葉を遮るようにヒナタは声を荒げるが、対するネジは静謐な色を湛える白い双眸をヒナタに向ける。
「貴方は人を殺めたことがありますか? 身近な人が死んだことはありますか?」
ぴくん、とヒナタの瞳孔が開く。
悲しみすら感じられるネジの眼に魅入られ、動けなくなってしまった。
「先に言っておきますが、どちらもないに越したことはありません。殺すのも死ぬのも、どちらも経験しないほうがいいに決まっている。
けど、忍の世界では違うんですよ。
すぐ隣に死という現実は転がっていますし、殺さなければ死ぬという事実も目の当たりにすることでしょう」
何かを思い出すようにネジは目を閉じて、独白する。
戦闘中にあるまじき行為だが、ヒナタは金縛りにあったかのように動けず、ひたすらにネジの言葉を噛み締める。
「下忍の間ならヌルイ任務ばかりです。甘っちょろい思想でも生きていけることでしょう。
しかし、中忍になるということは部下を持つということ。他人の命を責任を持たなければいけないということ。
貴方にそれができますか? 部下の命を背負うことができますか? 任務と命を天秤にかけて、平静のまま取捨選択することができますか?
ココロが壊れずに、逃げ出すこともせずに、冷酷極まりない無慈悲で理不尽な現実に……貴方は正面から立ち向かえますか?」
「……ッ!」
脅しではない。淡々と放たれる台詞はヒナタの胸を抉り続けるが、ネジに敵意はない。自分の知った現実をヒナタに伝えているだけだ。
覚悟もないのに中忍になるな、迷惑だ、そのようにも聞こえるし、わざわざ向いていない道を進むことはない、と諭しているようにも見える。
「正直なところ、俺だってそんな覚悟はありません。できるかどうかだってわからないです。そんな俺だからはっきりと言わせてもらいます。
貴方は忍の道を諦めて、良き旦那を見つけるほうが幸せに繋がる。きっとヒナタ様は、忍になりきることはできないと思います。
次の日向に血を繋げる。これだって大事な……俺のような分家ではできない大事な使命です。
中忍試験――考え直してもらえませんか」
日向宗家の女に自由恋愛などというものはない。
血を薄めないために日向の血を継ぐ同門の男と結婚するのが習わしだ。
おそらく結婚するだろう相手は好きな人ではなく……そんな考えを振り払うようにヒナタは拳を突き出し、柔拳独特の腹部を守り易い構えをとる。
戦闘の意思を弱めないヒナタに対し、ネジは天を仰ぐ。
そんなネジにヒナタは答える。
「ネジ兄さんの言っていることはいちいちもっともだと思います」
深く頷きながら喋るが、端々から感じられる力強さは諦めないという意思を明確に教えてくれるものだった。
「私は他人の命を背負えるほどの強さはないと思います。恥ずかしながら、そんな覚悟は今はないと断言できます。
それでも諦めることだけはできないんです。
こんな私でも好きな人がいますし、その人に私の諦める姿だけは見せたくないから……」
「想い人は会場にいる――つまり、そういうことですか?」
ヒナタは恥ずかしそうに頬を朱に染めるが、瞳は決して逸らさない。
ネジの白眼は相手の思考すら読み取れる。どうも嘘は言っていないようだし、そもそもヒナタが嘘をつくのが苦手だと知っている。
本音なのだろうな、と呆れるように吐息を漏らすが、その吐息には少しだけ嬉しさが滲んでいた。
「……はい。女の子でも……意地ってものがあるんですよ。格好悪いところ――見せたくないじゃないですか」
「それなら、まぁ……変な理屈をこねられるよりも分かりやすくていいですね」
誰を好きになったのかは少々気になるところではあるが、戦う理由がある以上、人とは退かないものだとネジは知っている。
ネジと同じ班にはロック・リーという奴がいて、そいつが本当にくだらない理由で馬鹿みたいに努力をする。その理由が本当に、ネジにとっては本当にくだらない理由だったのだ。
『忍術が使えなくても、立派な忍者になれることを証明したいっ!』
『ネジッ! 僕は絶対に君を倒せる忍者になる! 絶対に、ですっ!』
などど息せき切っていつも己に苦行の如き修練を課している。
ネジからすればどうにも理解し難い人種だが、その程度の理由で頑張れる奴もいるのだ。好きな人に格好つけたい――そんな理由で頑張れる奴だってそりゃいるだろう、ともネジは思う。
まさかそれが対戦相手、しかも同門で、挙句の果てには自分の上の立場に当たる宗家のヒナタになるとは思っていなかったわけだが……。
(……自信がなくて、いつも人から逃げるように動いていたヒナタ様がなぁ)
感慨深いものがある。
ヒナタは十分に挫折を味わってきていると思うが、本当の挫折を味わったことはないだろう。
今までは逃げてばっかりだったのに対し、今は立ち向かおうとしているのだから。
ここで倒すのはあまりに酷だということはわかっているが、甘い顔をするわけにはいかない。
淡い想いを心の奥に沈め、できるだけ無表情にし、ヒナタのことを睨みつける。
「つまり、ぼろ雑巾になる覚悟はできているということですよね?」
「……えぇ」
「わかりました。では――」
すう、とネジは空気を暴飲し――
「宗家――日向ヒザシ様! ここにいるのはわかっていますっ!
俺はこれから全身全霊をかけて宗家の直系である日向ヒナタ様を打ちのめします!
構いませんかっ!?」
ネジはここにいるだろう宗家に叫んだ。
観客席に座っていた日向ヒザシは驚きに眼を見開くが、にやりと口を歪めると――
「これは公式の場での決闘だ。そこに私情は含んではならんし、宗家と分家の垣根もいらん。故に、一向に構わんっ!」
そう叫び返した。
赦しを得たネジはこくりと頷くと、ヒナタと全く同じ構えをとる。
「再起不能にならない程度にぼこぼこにしてさしあげます。恨まないでくださいね」
「……負けませんからっ!」
ネジは楽しげに笑う。
自分の守るべき対象が自分に牙を剥く。
これはこれで楽しいし、反抗的な女の子とはだいたいにして虐めたくなってくるというものだ。
心が折れたらどんな表情を浮かべるのだろう、という嗜虐心がもたげるが、ネジは何とか自制する。
どす黒い情念が芽生えてくると、抑えてきた辛い過去が起因して、取り返しのつかないことになりそうだから。
「吼えますね。まぁ、戦闘なんだからそれくらいは必要です」
自分の本音が出てくるまでに、ヒナタをさっさと倒してしまおう。
「覆りませんけどね」
そう考え、ネジはできるだけ素早く倒すために本気を出すことにした。
勝負が終わるまでに要した時間は八秒弱であり、ヒナタはあっさりと地に倒れ伏した。
◆
ヒナタが目を覚ましたとき、そこは知らない場所だった。
「……ここは?」と誰にともなく呟いた言葉には、しかし、返答があった。
「病院だ」
聞き覚えのある、少しだけ騒々しい声は犬塚キバのものだった。
ヒナタは身体を動かそうとしたが、指先に少し力を入れただけで全身に痺れるような激痛が走る。
何故こんな状態になったのか、自分がベッドで寝ているのか、無機質な白い個室にいるのか――ふと、思い当たることがあった。
「あ、そうか……私、負けたんだ」
自然とこぼれた言葉と、頬を伝う雫。
生温かいそれは涙と呼ばれるものだった。
「にしても、日向ネジは強いな! 勝てないのも無理はねーよ!!」
「キバ」
ベッドの隣に座るキバは慌ててヒナタを慰めようとするが、個室の端で壁にもたれて立つシノがキバに呼び掛ける。
キバがそちらに視線を向けると、シノは時計を渡してきた。
「あ? わかってるって! そろそろ俺の試合だもんな!!」
テンテンとテマリの戦闘が終われば次はキバの試合だ。
「……あ、応援行かなきゃね」
「無理すんなって! お前は寝とけよ!!」
「……うん」
顔を歪ませて立ち上がろうとするヒナタをキバは抑えつけ――
「キバ、そろそろ……」
「うっせーな! 空気読めよ!!」
「お前にそれを言われることになるとはな……」
「チッ、まぁいいや。おら、行くぞ!」
そのまま個室から出て行くために扉を開いたが、気付いたようにヒナタに振り向く。
優しい表情を浮かべたそれは、正しくヒナタを想いやっていた。
「ヒナタ、安静にしてろよな!」
「うん。キバくんも頑張ってね……」
「おう!!」
扉が閉じると同時に、ヒナタは拳を握りしめる。
とても痛い。
だけど、それよりも痛いものがあった。
「……う、ぐぅ……負けたの、かぁ……」
負けることはわかっていたけど、ここまであっさりと瞬殺されるほどに自分が弱いとは思っていなかった。
ヒナタは自分なりに厳しい修練を積んだつもりだったし、才能がないなりにひたすらに技を鍛えていたのだ。
しかし、八秒。
結果はいつだって残酷なものであり、努力すれば結果が出るとはいっても、その結果がこれではあんまりだ、とヒナタは思う。
弱い。
自分の弱さに涙が滲み、泣いてしまう自分を嫌悪してしまう。
(……向いてない、のかな)
他人を殴ることは嫌いだし、殴られるのも嫌い。
暴力沙汰に関してはヒナタはとても苦手だったが、忍者になるということはそれを許容しなければならない。
しかし――
「見舞いにはやっぱ林檎だろ?」
「いいや、バナナだ。バナナのほうが美味しい」
「お前の趣味なんか聞いてねぇよ……」
「あんたたちはいまいちわかってないわね。やっぱり必要なのはメロンなのよ」
「俺はメロン嫌いだなぁ」
「どっちでもいい」
「えぇー」
物思いに耽っていたせいで、ヒナタは扉の外から聞こえる元気な声に気付かなかった。
豪快な音を立てて扉が開いたときに初めて誰かが自分のところに来たという事実を認識し――
「っと、見舞いにきたぞー」
「……うぇ?」
見舞客はナルトとサスケとサクラのヒナタと同期の七班だった。
その七班のメンバーは部屋に入った瞬間に気まずそうに顔を合わせる。
何故なら、嗚咽を漏らしながら涙を流すヒナタがベッドにいるのである。いづらいなんてものではなく、ただただ沈黙するしかない。
「おい、邪魔したみたいだ。退散しようぜ」
「ナルト、引っ張るな」
「お元気でー」
お呼びではない、と思ったナルトはサスケの手を思い切り引っ張ると部屋から出て行き――
「あ、いや……ちがっ!」
慌てて呼びかけるヒナタは、サクラと二人っきりになってしまった。
扉が閉まる音が虚しく部屋をこだまする。
果物がたくさん入った籠を持っているサクラはてくてくとヒナタに近づいていくと、椅子に座り、棚の上に果物を置いた。
無難に林檎を手に取ると、苦無を取り出して切り分け始め、紙皿の上に皮を剥いたうさぎさん林檎が置かれていく。
無言でそんなことをするサクラから変な重圧を感じ、ヒナタは掛け布団で顔半分を隠して、ちらちらとサクラの方をうかがった。
「……ねぇ、ヒナタ」
「え、え、えっ!?」
ふと問いかけられた言葉に反応することができず、ヒナタはひたすらにどもる。
林檎を差し出されるが、ヒナタは食べることはせず、サクラが喋るのを待つ。
どれほどの時が流れたのか、果てしない重圧は消えることなく、ヒナタの精神力を削っていたのだが、とうとうサクラが口を開いた。
「あの鈍感な金髪男のどこがいいの? 私には理解できそうにないんだけど……」
「あ、いや、え……?」
自分の想い人がばれているという事実は更なる痛撃をヒナタに与えた。
(……もしかしたらナルトくんも気付いてる!?)
恐ろしい妄想が頭の中に浮かんでは消え、ふるふると首を振る。
「ちなみにナルトは気付いてないわよ。まぁ頑張りなさい……」
「……はい」
がっくりと項垂れ、ヒナタはしょんぼりとした。
そして「私も試合会場に戻るね」とサクラは言い残すと、部屋から出ていく。
本当の一人。しかし、さっきのように涙が出ることはなかった。
「……もっと、頑張らなきゃ」
修行も恋も、どちらとも。
どちらに重点を置くかを悩み始め、ヒナタはまた思考の渦に没頭していく。