3.
意識の底に沈めている幼き日の思い出。
「ただいま」「おかえり」という何気ない日常から失われてからの日々。
家に誰もいないという事実は、イルカの幼少時代においてとてつもない傷となった。
「両親が死んだからよ……誰も俺を褒めてくれたり、認めてくれる人がいなくなった。寂しくてよぉ……」
せめて友達には認められたいと思った。
「クラスでよく馬鹿やった。人の気をひきつけたかったからさ。優秀な方で気を引けなかったからよ」
忍術の修行中、池に飛び込んだりもした。
そうすれば、そのときだけは自分のことを見てもらえるから。そのときだけは独りじゃないと思えるから。
「全く自分ってものがないよりもマシだから、ずっとずっとバカやってたんだ」
馬鹿なやつ。
周囲にはそういう烙印を押されるが、誰にも見てもらえない『空気のような存在』になるよりはマシだと思えたから。
そういうポジションを手に入れるために、馬鹿を繰り返し、何度も繰り返し――おかげで友達はできた。
けれど、それは素の自分を認めてもらえたわけではない。
結局のところ、それは自分を認めてもらっているわけではなく――道化を演じていることに対して、苦笑混じりの認識を覚えられていただけだから。
「苦しかった」
媚びへつらう日々に対して、大人になったからこそ、イルカは思う。
間違っていた。ガキっぽい行動だった。気を引くための努力を違う方向に向けるべきだった。
学校で馬鹿みたいに騒いで、家の中ではしんみりと部屋の隅で座り込んで――涙を流していたんだ。
甘える相手もおらず、恨める相手もおらず、何もかもがないない尽くし。生産性のない日々を送っていた。
けれど、ナルトは違う。
毎日、家にも帰らずに夜遅くまで勉強していたこと、忍具の修練を積み重ねていたこと、苦手な忍術に何度も挑戦していたことも知っている。
その努力が実らずに、へばって倒れ込んで、少しだけ休んで、また立ち上がって修練を再開していたことも知っている。分身の術だってそうだ。最初は分身を一つすら作れなかった。それなのに、試験では一つではあるが、立派な分身を生みだして見せた。合格条件に達していなかったので「不合格」と言わざるを得なかったが、本当ならば「合格」と言ってやりたかった。
周囲に疎まれても努力を重ねて、「いつか見返してやるんだ」と笑っていたことが懐かしい。「それは違う。間違ってる」と教えてやれなかった自分の無力が酷く辛い。
「お前は……頑張ってるよ。努力してる。けど、相手にされないんだよな。寂しいよな。苦しかったよなぁ……ごめんなぁ。俺がもっとしっかりしてりゃ、こんな思いさせずにすんだのによぉ……」
自分だけは認めているから。イルカはそれだけを言いたくて、血の混じる言葉を吐き出した。
ナルトはイルカの命を奪い続けている巨大な手裏剣を見て、瞳孔が開いた。
イルカの腕の隙間から抜け出ると、押し倒されたときに飛んで行った巻物を担ぎ上げ、ナルトは潤んだ瞳でイルカの顔を一瞬見つめた後、森の中へ走り出す。その瞳は、揺れていた。
「ナルトォ!!」
振り返りすらしないナルトに呼び掛けるイルカを嘲笑する。
そして、断言する。
「クククク、あの目を見たか? 絶望した奴の目だ。あの巻物を利用し、この里に復讐する気だ」
「ナルトは――そんな奴じゃない」
「まっ! そんなのはどうだっていい。ナルトを殺して……あの巻物が手に入ればそれでいい! お前は後だっ!!」
心底どうでもよさそうにミズキは言い捨てると、イルカのことを放っておいて、ナルトの後を追いかけ始める。
ナルトがミズキから逃げられるはずもない。自分が動かなければ、ナルトは死ぬ。
身体に突き刺さった苦無が何だ。背中を穿つ手裏剣が何だ。
両手を使って、全て引き抜く。
視界が焼けるほどの苦痛。
生命の雫が身体を伝って滴り落ちるが関係ない。
(させるか……!)
すべきことはナルトと巻物の保護。
そこにイルカの命の保障など、関係ない。
喉を逆流する血反吐を思い切り飲み込むと、イルカも森の中へ飛び込んだ。
◆
イルカは森の中を疾走してた。
林立する木々の間をすり抜けるように走り抜ける様は熟練の技巧を窺わせる。
ふと、イルカの表情が変化した。
月明かりに照らされた闇の中、一際目立つ金髪の髪。
イルカとは比べるべくもないほどの拙い走りで森の中を駆けている姿を見間違えるはずがない。背中に担いだ『禁』の書も見間違えるはずがない。
見つけたのは、ナルトの後ろ姿だ。
更に速度を上げてナルトに近づくと、「ナルトッ!!」と呼ぶ。
そして、手を差し出しながら叫ぶ。
「早く巻物をこっちによこすんだっ! ミズキが巻物を狙ってるっ!」
伸ばした手は打ち払われる。
「え?」と困惑するイルカを睨みつけながら、一気に方向転換すると、ナルトはイルカの腹に飛び込んだ。
鳩尾を抉るような蹴り足。
鈍い衝撃が腹部に与えられ、小さな身体から生み出されたとは思えないほどの力で吹き飛ばされる。
受け流すことができず、吹き飛んだ勢いのまま地面に叩きつけられると、信じられないものを見るような目で、ナルトを見た。
「どうしてだ……ナルト」
震える声は動揺を表しているのか。
背からぶつかったおかげで汚れた服を払いながら、イルカは立ち上がると――
「どうしてイルカじゃないとわかった!?」
変化の術がかき消される音ともに、イルカはミズキの姿になった。
それを見て、ナルトはにへらと笑っていて、余裕の姿。ミズキは不思議に思うが、何てことはない。
「イルカは俺だ」
「なるほど……」
お互い、不敵に笑う。
ナルトは少し離れた木の幹の裏から、その様子を緊張した面持ちで覗き見ていた。
手には開封された『禁』の書がある。
膝の上に乗せて、目を皿のようにしながら見つめていたのだが、ミズキとイルカが現れたので視線を外したのだ。
「ククク……親の仇に化けてまで、あいつをかばって何になる?」
聞こえてくる声は、酷く腹立たしい内容を含んでいる。
真実かどうかはわからない。けれど、もし自分がイルカの親を殺したのなら……どうすればいいのだろうか。どの面さげてイルカに会えばいいのだろうか。
考えただけで身体が震える。
まるで体温が下がったみたいに、身体が震えるのだ。
否定してほしい。心からそう思う。だけど、どこかで認めている自分がいるのだ。「俺が化物なんだ」と。
だが――
「お前みたいな馬鹿野郎に巻物は渡さない」
断定するように言いきってくれるイルカは、自分のことを信じてくれているようで。
少しだけ、勇気が出た。
震える身体を無理やり押さえこみ、手に持つ『禁』の書に視線を戻す。
「馬鹿はお前だ。ナルトも俺と同じなんだよ」
「……同じ?」
「あの巻物の術を使えば、何だって思いのままだ。あの化け狐が利用しないわけがない。あいつはお前が思っているような……」
ミズキの言葉に、ナルトは知れず、苦笑が漏れる。
(そうさ。何だって利用してやる。力が欲しい。力がいるんだ。俺は……)
そのためには、禁忌だって破ってやる。
「あぁ……」と頷いたイルカの声が、酷く心に突き刺さる。ごめん、と思う。自分は化け狐だから。きっとそのせいで、力を欲するのかもしれない。
「化け狐ならな。けど、ナルトは違う。あいつは……あいつは」
けれど。
「努力家で、一途で、そのくせ不器用で、おかげで周囲にいらない溝を作って……馬鹿だよな。力をつけて認めさせるんじゃなく、友達になってくれ、の一言で友達なんてできただろうに。あいつは……イイ奴だからできただろうに……それを教えられなかった俺が馬鹿なんだろうけどな」
涙が、流れる。
「あいつはな。この俺が認めた優秀な生徒――うずまきナルトだ。化け狐なんかと一緒にするなっ!」
満身創痍の身体に鞭を打ち、腹の底から出された怒声は、ナルトの心に響いた。
ナルトは今、禁忌を破って書を手にしている。その中にある力を欲している。だけど、イルカはそんなことをしないと断定する。
ごめん、ごめん、ごめん。謝罪の言葉が溢れてくる。信じてくれるイルカの想いを裏切った。それだけが、それだけが心残りだ。しかし、嫌われてもいい。
ぎゅっと拳を握りしめる。『禁』の書に封を施す。もう、力はいらない。これだけで、十分。
「めでてー野郎だな。イルカ、お前を後にするっつったが、やめだ。さっさと死ね」
(これまでか……)
ミズキを倒すには、これだけで十分だ。
踏み込む。
力を加える。
反動で、弾丸と化す。
飛来した黒色の人影は、ミズキに飛来したかと思うと、思い切り米神にぶつかった。
米神に与えられたのは全体重を込めたオーバーヘッド気味の蹴り。小さな身体全てをぶつけた、渾身の一撃だ。
反応できなかったミズキは痛みに眼が眩むのを堪え、必死に現状把握を試みる。
簡単だ。
馬鹿なアカデミー劣等生が、教官である自分に、無謀にも特攻してきた。
イルカを守るように立ち塞がるナルトは、巻物をイルカのほうに放り投げると、ミズキのことを射殺すように睨みつける。
「イルカ先生に手ェ出すな。殺すぞ」
気炎を吐き出すかのようなナルトに「馬鹿野郎! 何で出てきた!! 早く逃げろ!」とイルカは叫ぶ。だが、ナルトは小揺るぎすらしない。ただ、敵であるミズキだけを見ている。
その瞳は『必勝』の意志を宿しており、負けることなど一切考えてない。酷くイラつく目つきだった。
格下の、下忍にすらなれないアカデミー生に、自分が殺される? ありえない。ミズキは即断する。
「ほざくな! てめぇみたいなガキ、一発で殴り殺してやるよ!」
本気の殺意。
実戦に参加したことのないようなひよっ子では耐えられないような、濃密な殺気。
感じただけで死の幻覚を見るであろうそれを感じても、いや、感じていないのか。ナルトは一切反応しない。
「……ぶっつけ本番だ。成功するかどうかはわかんねぇ。けど、俺は優秀な生徒だからな。負けるはずがねぇだろ?」
ぼそりと呟かれた言葉は何なのか。
妙にリラックスした体勢で、静かに、流麗に、試験ですらできなかったような複雑な印を澱みなく切っていく。
見覚えのない印。
それは――まさかっ!
「な、なんだとぉっ!?」
組み終えた印ととともに巻き起こった事態は、ミズキの想像を超えていた。
森の中、木の上や地上、関係なく溢れ返ったナルトの姿。
その数は数えることすら億劫になるほどの膨大な数。視界全てを埋め尽くすかのようなそれは――アカデミー生が使えていいレベルの忍術ではない。
くくく、と唇を歪めながら、憎らしいまでにミズキを睨みつけるナルトの姿が――化物に見えた。
「成功するもんだな」
「さすがは俺だな」
「要は分身の術を少し難しくした感じか?」
「チャクラの消費量が異常に多いだけだな」
簡単に言ってのけるその言葉。
だが、ミズキ以上にイルカのほうが驚いていた。
つい先日までは分身の術すらまともに使えないと言っていた生徒が、急に成長している。
(ナルト……お前……)
よく見ると、ナルトの瞳は縦に裂けていて、金色に染まっている。
それは――人間と言っていいのだろうか。
今から獲物を狩るかのように四本脚に近いほどの前傾姿勢になるのは、本当に化け狐ではないと言い切れるのだろうか。
「それじゃあ、行くぜ?」
宣言ととに、縦横無尽に埋め尽くされたナルトの分身がミズキに襲いかかる。
必死に抵抗するも、圧倒的な数の暴力に晒されたミズキは、次第に押され始めて行く。
おかしい。
分身が、実体のないはずの分身が、ミズキを殴っている。傷を負わせている。
(俺が時間を稼いでる間に覚えたのか。残像ではなく、実体そのものを生み出す高等忍術"影分身"。こいつ――ひょっとすると……)
多重影分身。
禁術指定のそれは、おそらく『禁』の書を読んで覚えたものなのだろう。
そんなすぐに覚えられるほどの難易度の低いものではない。だが、イルカは何となく納得している。
ナルトは潜在するチャクラの量が人より多い。とても、多い。そのせいでコントロールが難しいのだ。しかし、影分身のような多くのチャクラを要する術は、コントロールはそこまで難しくない。拙いチャクラコントロールでも、蛇口を開きっぱなしにするようにチャクラを垂れ流せば術は完成する。分身の場合は、注ぎ込むチャクラが多すぎたのだ。
思考に埋没している間に勝負は終わっていた。
ボロボロの姿になって倒れ伏すミズキ。
その様を酷く冷たい目で見下ろすナルト。手に持つ苦無が月に照らされて、鈍く光っているのが印象的だった。
「……まだ、死んでないのか」
トドメだ、と呟いて首を掻っ切ろうとする。躊躇なく、命を奪い取ろうとする。
殺させるわけにはいかない。イルカは身体に鞭打って、ナルトを羽交い締めにした。
「やめろっ! ナルトッ!!」
「止めんな! こいつはイルカ先生を殺そうとしたんだぞっ!」
「ダメだ。ミズキはきっちりと尋問にかけなきゃならない。他の里と結びついている可能性があるからな」
「……わかった」
必死に暴れるナルトだが、理由を聞いて多少気持ちの整理はついたのか。苦無をホルスターに戻すと、思い切り足を振り上げて、ミズキの顔を蹴り飛ばした。
ミズキの美形といえる整った顔立ちは、見る陰もない。歯すら、残っていない。
当然の報いなので何も思いはしないが、これをしたのがナルトだと思うと、複雑な気持ちになる。
だが、どうだろうか。ナルトはイルカが殺されかけたのを見て、キレた。そのために命を懸けた。だから、責めるべきではない。
少しだけしょぼくれたように地面を蹴るナルトを見て、イルカはにっこりとほほ笑んだ。
「それに、ナルト。ちょっと来い。お前に渡したいものがある!」
不思議そうにイルカのことを見上げながら、とてとてとナルトは近づいてくる。
「目、閉じてろ」と言うと、素直にナルトは眼を閉じる。何をされるのだろう、と考えているのが見え見えだ。そわそわとした態度が手に取るようにわかる。
イルカは苦笑しながら、自分の額に手をかける。そして、額につけていたものをナルトの額につけた。
「先生、まだか?」
「もういいぞ」
違和感。
いつもあるものがない感触。
それもそうだろう。イルカが『木の葉の額当て』をつけていないところなど、ナルトは見たことがないのだから。
「卒業……おめでとう」
笑いながらイルカはそう言う。
意味がわからず、自分の額に触れてみた。
再び、違和感。
いつもつけているゴーグルではない。
もぞもぞと触れて行くと、凹んでいる部分があった。そこを指でなぞると……それは……。
「今日は卒業祝いだ。ラーメンおごってやる!」
「……ッ!」
思わず、涙が零れ出た。
しかし……。
「ごめん。先生――俺は受け取る資格なんかねぇよ。先生の期待を裏切って、『禁』の書の力に頼っちまった……」
懺悔するように吐き出された言葉――それを聞いてイルカは、笑みを深くする。
「いいさ。状況が状況だ。仕方ない。それに、お前に助けてもらったのも事実だしな。でも、書を読んだのはバレたら大変だから……二人だけの内緒にしよう」
それなら大丈夫だろ? と笑いながらイルカは言う。
緩んだ涙腺は決壊し、滂沱の涙が溢れ出てくる。
擦っても擦っても止まらずに、ナルトは顔を隠すようにナルトはイルカの胸元に飛びついた。
「痛い。痛いって!」冗談混じりに言うイルカに遠慮などせず、抱きついた。離れたら泣いているのがバレるから。
「俺、頑張るから! 絶対、先生みたいになるから! 期待しててくれよっ!」
嗚咽混じりの声。震える肩。
全部が全部、イルカにとってはお見通しだ。だが、抱きつかれているのは、ある意味ではイルカにとっても都合が良い。
優秀な生徒が卒業する。そのせいで涙腺が緩んでいる。それが見られなくて済むから。
「あぁ……あぁ、頑張れ。お前なら俺なんか軽く越えられるさ」
「おうっ!」
二人の師弟は眼を擦って、お互いの顔を見る。
目元が真っ赤で、恥ずかしそうににかっと笑う。とてもそっくりだった。