2.
バレないように慎重を期した。
服は闇に溶け込むために夜色のジャンパーに着替え、靴は靴底がゴム製のものに履き替えた。
見つかったときのために準備は入念に重ね、里から支給される孤児のためのお金で貯蓄したものを奮発し、忍具も一新した。
これほどまでの用意をして、火影の住む家へと入り込んだのだが、案外バレないものであり、あっさりと侵入劇は開始される。
最初は心臓が破裂しそうなほどに脈打ち、呼気も少しばかり荒くなっていたのだが、今は冷静そのもの。夜目を利かせながら目的のものがありそうな部屋を探す。
それは呆気ないほどに簡単に見つかった。
書物がたくさん貯蔵されている倉庫のようなところ。忍者アカデミーなどとは違う、古い紙独特の鼻につくような匂いで満たされているそこは、ナルトの知らない奇怪な文字が表紙の巻物が数多く本棚に並べられていた。
(ミズキの言った通りだ。嘘じゃなかったんだな)
『禁』と大きく書かれたそれは厳重に縄で縛られており、分厚い埃で穢されていることからも、長い年月の間、誰にも読まれていないことがわかる。
『その中にはとても凄い忍術が書かれていてね。それを使えるようになれば、間違いなく卒業できるよ』
甘い言葉だった。
その言葉に翻弄されて、ここまで来た。
だが――『禁』と書かれている意味を考えてしまったの。
ナルトは不思議に思う。題名からしてこれは封じられているもののはずだ。それほどまでに凄い忍術が記載されているのなら、もっと広く伝えられていてもおかしくないはず。何故なら、強い忍術――便利な忍術と言い換えてもいい――は多くの忍者に浸透させたほうが里の利に繋がるし、禁じられるならばそれ相応の理由があるはずだ。
馬鹿みたいにはしゃいで巻物を取り出してみたが、中へと仕舞う。
そして、最もリラックスできる立ち姿をとる。
手を胸の前に置き、印を切る。
澱みなく指は動き、試験のときとは違う感触を覚える。
静かに、静かに、静かに、統一された精神の下、チャクラが自分の中で制御されていることが理解できた。身体中を駆け巡るチャクラは。試験中や今までの練習中では何時だってナルトに激痛を与えてきたが、今は違う。満たされるような――力が溢れてくるような感覚を覚えさせる。
印を切り終え、目を閉じて、祈る。
分身が生まれる音が、耳に伝う。
確かな存在を近くから感じるが、怖くて、目を閉じていて、それでも勇気を出して、目を開いた。
「ははっ、できちまった」
そこにあったのは立派な分身だった。
ナルトと同じポーズをとった、ナルトそっくりの分身が五つ。
足から力が抜けていって、へたり込む。ぺたん、と床に尻餅をつき、乾いた笑いが漏れ出てくる。
そんな時――
「使えないな」
聞き覚えのある声が耳に届き、首筋に鋭い痛みが走り、ナルトは気を失った。
◆
夜のこと。
ベッドに倒れ込むように飛び込んだ後、イルカは虚ろな表情で惰眠を貪っていた。
眠りを妨げるように出てくる夢は、昔の記憶。最悪という言葉では生ぬるい――父と母との別れの記憶。
この世の終わりかと思った。
突如現れた九尾に襲われた木の葉の里が窮地に陥った事件。
あの時、イルカは無力だった。
絶対悪である強大な力の根源――九尾の狐に勇敢に立ち向かう父と母の背中。手助けすることが許されない、幼かった無力な自分。全てが全て、忌まわしい。
(けど、それだけじゃない。あれで俺は不幸になった。けれど、もっと不幸になった奴が――)
夢に沈み込んでいくイルカが考える事は――
思考を邪魔するように扉がノックされ、イルカは現実へと戻ってきた。
マナー違反なんていうレベルではないノックの嵐は止むことなく、急いで起き上がると、イルカは扉を開く。そこにいたのは常ならば笑みを浮かべているはずのなのに、随分と切羽詰った表情のミズキである。
息せき切るように話し出した言葉。
それは火影からの召集の伝令であり、その次の言葉が信じられないものであった。
「ナルト君がいたずらで封印の書を持ち出したようで……っ!」
すぐに火影の家へと向かってイルカはミズキと立ち並ぶ家の屋根を飛ぶように移動する。
そんな馬鹿な――心はそんな思いで満たされている。
ナルトは馬鹿ではない。勉強熱心で、努力家で、致命的にチャクラコントロールが下手なだけの勤勉な生徒だ。悪戯だってするような性格ではないし、自己主張が下手ではあるが、いつだって愚直なまでに突き進んできた。イルカはそのことをよく知っている。
『俺に大それた夢なんてないけど、いつかさ。イルカ先生みたいな立派な教師になりたいんだ。俺、先生のこと尊敬してるから……』
ナルトが好きな一楽のラーメンを奢ったとき、イルカが聞いた言葉だ。
恥ずかし気に、しかし、真摯に語るその言葉に胸を打たれ、涙が零れそうになるのを堪えることに必死だった。
その後の言葉も、忘れられない。
『自分みたいに友達ができない奴を励まして、俺が友達になってやるんだ。イルカ先生みたいにさっ!』
堪えることは不可能だと思い知った。
顔を真っ赤にしてそっぽを向いてくれたナルトのおかげで涙は見られずにすんだ。ラーメンを啜ることすらできず、目元を押さえて嗚咽をもらしてしまったのだ。教師をやってて良かった、と何度も思ったことはあるが、あれ以上に自分の心に突き刺さる言葉はない。
イルカはナルトを信じていた。
だが、火影の家の前で巻き起こる騒動は現実としてイルカの考えを否定しに来る。
「悪戯では済まされませんぞ!」
「あんな者を生かしておくから……ッ!」
「火影様ッ! 決断をッ!」
火影の周囲を囲む多くの忍者たち。
必死に形相で火影を攻め立てるように言葉を吐く姿がイルカの視線に入ってくる。
「うむ……初代火影様が封印した危険な書物じゃ。使い方によっては恐ろしいことになりかねん……」
月明かりに照らされた皺だらけの渋面は、辛そうに言葉を吐き出していく。
違うだろ。そうじゃないだろ。あんたまでナルトを疑うのか? イルカは願うように思うが、その言葉は届かない。一個人よりも優先すべきは里の仲間の連帯。そのためには、時に仮面を被らなければならないときもある。
「書が盗まれて二時間以上経つ。急いでナルトを探すのじゃ」
非常な言葉とともに、ナルトの捕縛を命じられる。
まずは自分が探し出し、事情を聞きだす。きっとナルトではないと証明してみせる。
そばで汚い笑みを浮かべるミズキに気づかず、イルカは夜の森へと飛び込んだ。
◆
目を開いたときに真っ先に視界に飛び込んできたのは満月だ。
なんで外で寝ていたのか、靄がかかったようにまとまらない思考は答えを出せない。
何故、月の見える森の中で寝ているのか。何故、縛られて動けないのか。何故、隣に『禁』と書かれた巻物が置かれているのか。全く持って答えが出ない。
とりあえず、身体の関節を外して縄を抜ける。無理そうだったものはジャンパーの袖の中に仕込んである苦無で切り落とし、自由の身となる。杜撰な縄の縛り方にタメ息すら出る。初心者だろうか。それとも焦っていたのか。それとも自分を侮っていたのか。
動き出した脳は簡単に答えを弾き出す。
部屋の中、分身の術が成功し、『禁』の書を持ち帰ることを止めて帰ろうとしたとき、不意打ちを喰らったのだ。聞き覚えのある――ミズキとそっくりな声とともに。
そこから出る結論は、『自分を侮っていた』からだろう。忍術もろくに使えない生徒に対してそこまで真面目に縄縛りをする気が起こらなかったのかもしれない。推測の域を出ないが、たぶん合っているだろうとナルトはあたりをつける。
しかし、次に出る疑問は――『禁』の書だ。
「何で俺を利用しようとした? 失敗したから短絡的に強奪か?」
理由がわからない。そして、何故それが今なのか。利用したのが自分なのか。それらの理由がはっきりとしない。
いつも悪戯をしている悪ガキなら理解できるが、ナルトはそういう下らない遊びに興じたことは一度もない。自分を高めることにすべての時間を注いできた。忍術の成績はいまいちだったが、それ以外は全て優等生だったと言っていい。授業態度だって間違いなく一番良いはずだ。
はてと首を傾げる。あまりにも不明点が多すぎる。
だが、このままここで居座るわけにも行かない。おそらくミズキは自分に対して良からぬことをするつもりなのだろう。身の安全を確保するためにも移動すべきだ。冷静な思考がナルトにそう提示する。確かに、と納得し、ナルトは『禁』の書を背に担ぎ、移動を開始した。ミズキに対してのせめてもの復讐である。書物は渡さない。
「見つけたぞ、コラッ!」
そんな決意を胸にして動き出そうとしたナルトの前に、突如、人影が舞い降りた。
木の上から音もなく着地した影はナルトの尊敬する先生――うみのイルカその人である。
逃げ出そうとした瞬間にイルカと出会えたのは運が良い、とナルトは思う。
「イルカ先生。俺、ちょっと困ったことになってる」
何故か機嫌が悪そうなイルカが不思議ではあるが、それは無視だ。
手を見せる。そこにはキツく縛られた縄の痕が見える。鬱血したそれは痛々しくもあり、長時間縛り上げられていた証明にもなる。
それを見たイルカの表情の変化はわかりやすく、「どうしたんだ」と心配そうに語りかけてくる。
簡潔に説明するために数秒考え込み、ナルトはこれまでの経緯をかいつまんで説明する。
ミズキにそそのかされたこと。火影の家へと侵入したこと。結局盗まずに帰ろうとしたら気づかない内に背後にいたミズキに気絶させられたこと。縄を抜けて逃げ出そうとしていたこと。
「……ミズキ――!?」
信じられない。あいつが? 呆気にとられたイルカは鮮烈な殺気を感じ取り、無意識のうちに身体が反応してしまう。その殺気が向かうはナルトの方であった。考える間なく、イルカはナルトを突き飛ばす。
雨のように水平に降り注ぐ苦無の群れ。
入れ替わりのようにナルトの場所に立ったイルカは、すぐさま腕を交差して急所だけは守る体勢をとる。そのおかげで死ぬことだけは免れたが、身体全身に襲い来る膨大な数の苦無を相手に、ダメージがないのはありえない。
苦無を全身に受けたイルカは踏ん張ることができずに近くにあった小屋に激突する。
痛みに視界が眩むが、歯を食いしばって耐え抜いて、前を見る。
そこにいるのは悠然と笑うミズキの姿だった。木の枝からイルカとナルトを睥睨するように見下ろしている。
「よくここがわかったな」
「なるほど……そーいうことか!」
睨み合う二人をよそに、ナルトは腰に吊るしたホルスターから苦無を取り出すと、いつでも投擲できるように狙いを定めている。しかし、濃厚な殺気を宿したナルトの視線を感じ取りながらも、ミズキは全く緊張する素振りなく、イルカのほうを警戒している。
ミズキは理解しているのだ。満身創痍のイルカよりもナルトは劣る、と。警戒する意味などないということを。
悔しさに歯軋りをし、勢いのままナルトは苦無を投げつけた。修練を怠ったことのないソレは正しくミズキに飛来し、苦無を目で追うことなく、ミズキは受け取る。キャッチボールのように危なげなく、だ。
「巻物を渡せ」
「ナルト! 巻物は死んでも渡すなっ!」
ミズキの言葉を遮るように、イルカは身体を蝕む苦無を引き抜く。
どろりと粘ついた血液が流れ出てくるが、そんなものは無視だ。
「それは禁じ手の忍術を記して封印した危険な書物だっ! ミズキはそれを手に入れるためにお前を利用したんだっ!」
吐き出される言葉はナルトの予想通りのものだった。
背に担ぐ『禁』の書を狙うために、ミズキは自分に近づいたのか。自然と苦無を握る利き手に力が入るが、武器もタダではない。先ほど投擲して無意味に終わったことは記憶に残っている。浪費はあまりよろしくない。
隙を窺いながら、ナルトはじりじりと後ろ足で後退していく。
そんなナルトを見下ろしながら、ミズキは何が可笑しいのか。笑い出した。
「くっくっくっ、利用も何もコイツは全く役に立たなかったけどな。何でか知らないが、巻物を収められた部屋で分身の術をして、成功して、勝手に満足して帰ろうとしたんだからなっ! 本当に役立たずだぜ」
次々と湧き出てくる罵倒に何の感慨も覚えず、ナルトは終始無表情だ。そもそもミズキは嫌いだし、嫌いな相手に何を言われても困らない。
唯一思うことは、自分の直感を信じずにミズキの甘言に少しでも耳を貸してしまったこと。聞いたとき、それは悪いことだとわかっていたのに、けれどその提案を断ることができなかった。惰弱な自分。そのせいで傷を負ったイルカの姿。
俺のせいだ、そう思うだけで怒りが湧いてくる。
そんなとき、ミズキが高笑いを治めたかと思うと、にやにやと不気味に笑いながらナルトを見下ろす。
「そうだ、良い事を教えてやるよ」
「バカ、よせっ!」
らしくもなく、必死に声を荒げるイルカの姿。何をそんなに焦っているのか、ナルトは首を傾げる。
ミズキの話などに興味はなく、欲しいものはミズキが慢心して隙を出すことだけ。
集中しているナルトの姿に気づいているだろうに、ミズキはおしゃべりな口を開く。馬鹿みたいに。顔を歪めながら。
「十二年前……化け狐を封印した事件を知っているな? あの事件以来、里では徹底したある掟が作られた」
「ある掟……だと?」
「しかし、ナルト……お前にだけは絶対に知らされることのない掟だ」
「俺だけ?」
意味が――わからない。
堪えきれなくなったように肩を揺らすミズキに怒りを覚え、手に持つ苦無を投げつけるが、それはあっさりと受け止められる。何個も何個も投げつける。ここから先は聞いてはいけない、と第六感が忠告してくるのだ。
無意味に終わる。
「気味悪く笑ってんじゃねぇ! うぜぇっ! 黙れっ!」
ナルトは声を張り上げる。
森中に聞こえ渡っているのではないかというほどの怒声。それはミズキを喜ばせるだけに終わり、醜く笑いながら――
「……ナルトの正体が化け狐だと口にしない掟だ」
身体が、硬直する。
「やめろ!」と叫ぶイルカの声も耳に入らず、ミズキの言葉だけが木霊する。
(俺が――化け狐?)
意味が、わからない。
意味がわからないが、だが――必死に声を張り上げるイルカの姿が――ミズキの言葉を肯定している。
胸にぽっかりと空いていた穴があった。
すとんとその中に真実が落としこまれる。
「つまり、里を壊滅させた九尾の妖狐なんだよっ!! あげくにお前は――」
「やめろぉぉぉ!!」
「イルカの両親を殺した張本人なんだよっ! 笑えるだろっ!? イルカ先生だってよ! 憧れてるんだってよ! おかしいとは思わなかったのか? あんなに里の人間に毛嫌いされて!」
ミズキは背に担いでいた巨大な手裏剣を取り出して――
「イルカも本当はな! お前が憎いんだよっ!!」
「……なわけねーだろ! 先生は……イルカ先生は……ッ!! あぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
動揺するナルトに投擲した。
風を切る音。
旋回しながら空を走るソレはナルトに当たれば――死ぬ。しかし、ナルトは目の前が見えないほどに、混乱していた。
(俺が、先生の両親を――?)
信じられない。信じたくない。
けれど、何故だからわからないけれど、化け狐だと納得する自分がいる。それが怖い。確信に近いソレがとても怖い。
染まる。視界が染まる。頭の中が焼け落ちそうで、今までの人生が否定されたみたいで。
それに、イルカに嫌われたのなら生きる意味もないのではないか。ナルトはそんなことを思う。
迫り来る巨大な手裏剣は確実に自分を殺してくれそうで。首元に正確に飛んできて。
迎え入れるように目を閉じる。
衝撃が身体を襲う。
「ぐっ……」
だが、痛くはなく、むしろそれは優しくて。おそるおそる目を開くと、そこにはイルカの姿があって――血を口の端から滴らせながら、笑う。
憎んでなんかいない。憎まれてなんかいない。その笑顔を見ただけで、ナルトの混乱は治まった。
だが、少し視線を変えてみると――信じたくない光景が目に入る。
「せん……せい……?」
「……俺なぁ……」
イルカの背中には、深々と巨大な手裏剣が突き刺さり、背中を大きく抉っていた。