9.
筋肉痛で軋む身体に顔を歪ませながら、イナリは窓からぼんやりと空を見ていた。
晴れ渡る青空は昨日までの鬱屈とした自分を変えてくれるかのようだ。太陽のように輝ける人になりたい、と素直に思えた。
強くなる代償と思うだけで筋肉痛が愛おしく思える。
変われる。
自分は変わるんだと強く決意した昨夜から、イナリは少しだけ前向きになりつつあった。
小さな変化――それが悲劇を呼ぶことになる。
ナルトが出かけてから少し経ったときのことだ。不貞の輩がタズナの家に押し入ってきたのは。
悲鳴が聞こえる。
イナリのよく知る声――母であるツナミの悲鳴が居間から聞こえた。
「母ちゃん!」
急ぎ居間へと向かうと、そこには見知らぬ男が二人いた。
腰に刀を差している――侍ではなく、ガトーの用心棒だろう。禿頭の男はゾウリ、長髪の男はワラジという。
白刃を外気に晒しながら、ぺたぺたとツナミの頬に刃を当てている。ひんやりとした鋼の感触に濃厚な死の匂いを感じ取り、ツナミは足を震わせている。しかし、イナリが居間に駆け付けたら気丈に振舞い、自分の身よりもイナリのことを心配する。
「出てきちゃダメ! 早く逃げなさい!」
不意の事態に身体が硬直する。
強くなりたいと願って一日。たったそれだけで身体が一気に成長するわけもなく、イナリはただの無力な子供でしかない。
ゾウリとワラジは下卑た笑いを浮かべる。
「こいつも連れてくか?」
「人質は一人いればいい」
「じゃあ……クク……殺すか」
刃を舌舐めずりして、ゾウリはイナリへと近づいてきた。窓から突きささる陽光で頭を輝かせながら近づいてくる様は笑いを誘うが、イナリはとても笑えない。
殺される。ここで、死ぬ。
抵抗できない自分の無力さが歯痒くて、そして、自分の心が折れかけていることも自覚できる。
恐い。怖い。こわい。コワイ。
足が震えて……股間が濡れる。じんわりと漏れ出すそれは黄色い――小便だ。
失禁した。
弱い自分が情けなくて、笑いがこみあげてくる。乾いた笑いが止まらずに、黄色くぬらつく地面へと膝をつく。
無力だ。
「待ちなさい!」
ツナミは叫ぶ。
「その子に手を出したら舌を噛み切って死にます。人質が欲しいんでしょう!?」
本当に舌を噛み切るだろうという確信を持たせるほどの気迫をツナミは放っていた。
先ほどまで脅えていたツナミとは違う。子を守る母の表情。必死に、形振り構わずに子供を守ろうとする様は美しい。
「フッ、母ちゃんに感謝するんだな……坊主」
「あーあ、なんか斬りてぇなぁ」
「お前はいい加減にしろ。さっき試し切りしたばかりじゃねーか。そんなことより連れてくぞ」
そのまま出て行く三人を、ぺたりと地面に座り込みながらイナリは眺めていた。
ほっとした。
自分が助かるという確証を得て、安堵の吐息を漏らしてしまった。
『そのままじゃお前……一生変われねぇぞ。ちっとは根性出してみろ』
思い出すのはナルトの言葉。
根性とは何だろうか。
『あいつはお前に期待しているみたいだ。俺よりも強いサスケがな』
サスケ――イナリはあまり話したことはないが、期待を裏切ったことになる。
自分は子供で、まだ弱いのだから仕方ない。
『本当に大切なものは自分の両腕で守るんだ』
今は亡き義父の言葉。
勝てない敵に挑み、無様に敗北して死刑された義父の最後を思い出す。
笑っていた。
両腕を失い、磔にされて、民衆の前で死刑にされるというその時、集う人々の中にひっそりといたイナリと目が会ったとき、誇り高く笑ったのだ。
(僕も……僕も強くなれるかなぁ……父ちゃん!)
カイザの息子、イナリ。
子供は父の背中を見て学ぶものだ。今逃げたら何も変わらない。変えられないということを、ようやく知った。
べちゃり。
立ち上がろうとしたとき、水溜りになった地面からそんな音がした。
思い切り踏みつけると、ばしゃんっと跳ねる。
そして、駆け出す。
涙も出した。小便も出した。残っているのは勇気だけ。
そんなふうに自己暗示をかけながら、イナリはツナミの後を追う。
すぐに見つかった。
家の前でツナミに刀を見せつけながらゾウリは笑っていて、それをワラジが諌めている。楽しんでやがる。
「待てェ!」
激昂し、イナリは飛び掛かった。
当然、恐い。歯がかちかちと鳴っているし、力を抜けばケツの穴から出てはいけないものが飛び出しそうだ。だが、それらを出すのは勇気を振り絞ってからでいい。
「何だ、さっきのガキか」
「イナリ!?」
「母ちゃんから離れろ!!」
刀を構えて自分を見下ろすゾウリに対して、地面を這うように走りつける。
上から白刃のきらめきが襲いかかるが、生憎とイナリのほうが速かった。
噛みついた。
思い切り噛みついたところはぶにょっと嫌な感触がし、苦いような酸っぱいような変な味が口内に広がる。
それは金玉。誰しも鍛えることはできない男の証。
激痛に身悶えながらゾウリは女のような甲高い声で苦鳴を漏らすが、イナリは決して離れない。
「……このガキ!」
ワラジがイナリの頬を殴りつけても、決して離れようとはしない。
噛みついたまま、ぎりぎりと歯をこすらせる。ゾウリは痛さの泡を噴きながら、イナリを殴りつける。
気を失ったのか、目から光が消えて、イナリは糸が切れた操り人形のように力を失った。
「イナリッ! イナリィィィ!」
ツナミはイナリの顔面がぼろぼろになっていくのが耐えられない。
イナリを殴りつけるゾウリとワラジに縛られた両手は使えないので。体当たりを何度も喰らわせる。
「暴れるんじゃねぇ! このダボがっ!」
「きゃっ!」
殴られ、吹き飛ぶ。
無造作に震われた裏拳を喰らっただけなのにこの激痛。イナリはどれほどの痛みに耐えているのだろうか。
地面へと倒れ伏して、腰がくだけたツナミをゾウリはつまらなさそうに見下ろすと、何かを思いついたかのように手を叩く。
「おい、切るな。気が変わった。死なない程度にこのガキ痛めつけて、人質にするぞ」
「女は殺してもいいのか?」
「このガキも自殺したら困るだろ。だから、徹底的にやれ」
「へへへ、切れないのは残念だけどなぁ……!」
腹を抉るように蹴り飛ばす。
飛んでいた意識が戻り、イナリは痛みで再び気を失いそうになる。
だが、途切れることない暴虐の嵐は気を失うことすら許さず、イナリに地獄のような現実を教えてくれた。
(僕……弱いんだァ……)
誰も守れない。
父のように死ぬのか。
それは嫌だ。
守れずに死ぬなんて絶対に嫌だ。
「あう……うううううううううぅぅぅ!!」
痛すぎて痛いという感覚すらなくなってきた身体がビクンと跳ね起きて、ゾウリへと飛び掛かる。
「うぜぇ」
飛び掛かるも、頬に拳を貫かれて、何かが砕ける音を感じながら――イナリの意識は薄らいでいく。
(変われないままなのかな……強くなりたい……母ちゃんを守れるくらいに……強くなりたいなぁ……!)
頭から地面へと落ちた。
身体に力は感じられず、ところどころ折れているであろう骨は不気味に曲がっていて、乱暴な子供に扱われる壊れた人形を思い出させる。
「おいおい、死んでねーだろうな」と呟きながらイナリへとワラジは近づいていき、心音を測り、安堵する。
「よかった。生きてる。おい、連れてくぞ」
「女ァ……斬りてぇなぁ」
倒れたままぴくりとも動かないツナミに欲情の混じった視線を送りながら、ワラジは呟く。
「後だよ、全部終わった後な」
「へいへい」
イナリを抱え、二人はこの場を後にする。
少し経ち――
「イナリッ!? あ、ああっぁぁぁぁぁ」
血で濡れた地面と、欠けた歯の断片を見て、ツナミは現状を認識する。
ぼろぼろにされ、連れていかれた。
母なのに、息子に助けられた。
「助けなきゃ……助けなきゃ……イナリ、待っててね。母ちゃんが必ず助けるから」
悲嘆に暮れる余裕などなく、ツナミは何度も転倒しながら、そのたびにこけて町へと走る。
「必ず……」
血の混じる言葉を漏らしながら……。
◆
タズナは心の底から打ちひしがれていた。
自分の夢のために、家族に迷惑をかけている。孫が原型をとどめないほどに私刑に合わせられている。
悪いのは誰だ。
それはガトーだ。考えるまでもなく、それは自然に頭に浮かぶ。
だが、元凶は誰だと言われれば、それはタズナと言う他ないだろう。タズナが橋を作るなどと言わなければ、とりあえず家族はここまで苦しめられることはなかったのだろうから。
卑劣だ。
タズナ本人を狙うだけでなく、家族までも狙うなどと人道に反する。それでも、そんなことはタズナだってよくわかっていたはずなのに……ガトーは正真正銘のクズだと、一番良く知っていたはずなのに、見逃した。
報いをイナリが受けている。
「ったく、このガキに噛み付かれて痛いのなんのって。殺してもいいんじゃないですかい?」
「殺すな。まだ取引中だ。取引次第では殺すことになるだろうがな」
「へへっ、楽しみだ」
地面へと放り投げられて打ち捨てられている姿は、ぼろ雑巾よりもなお酷い。
顔。鼻からは鼻水や鼻血がふんだんに垂れながらされていて、息すらまともにできないのだろう。口から荒々しく息を吸っているが、口も血塗れのせいで息がしづらそうだ。そして、歯がない。欠けた歯、抜けた歯、いろいろあるだろうが、砕かれた顎と相まって、人とは思えぬ顔立ちとなっている。
肌の色は青や黒、赤で見事に塗装され、尖鋭的な抽象画ですらもう少し見れるものだ。さらには汚物にまみれた股間部からは異臭が漂っていて、服なども擦り切れている。
満身創痍。半殺し。いや、ほとんど八割は死んでいる。
「……ぅ、あぁぁ」
腫れぼったい瞼がかすかに動き、くりっとした大きな瞳だったはずのそれは細く薄められている。
光はおぼろげだ。
「気がつきやがった」
「イナリィ!」
「じいちゃん……? ここ、橋の上……」
吐息のような聞き取りづらい声は、異様に響く。
「ぐ、くそ……イナリを返してもらえる条件は何じゃ!」
その声が、タズナの心を叩き折った。
昨日の夜、楽しそうにナルトと喋りながら帰ってきたときとは一転した虫の羽音にすら劣る声量。
枯れたと思っていた涙が頬を伝い、滴り落ちる。
くず折れたタズナを嫌らしい笑みを浮かべて見下ろしながら、ガトーはにんまりと口角を吊り上げる。
「橋を壊すこと……そして、忍に帰ってもらうことだ」
「ここまで、きたのにか……」
少しだけ、本当に少しだけタズナは未練を見せる。
ガトーは顎をしゃくる。それだけでゾウリとワラジは察したのか、イナリの腕を踏みつけた。
激痛に身悶える孫の姿は、これ以上なくタズナを苦しめる。
「イナリィッ!!」
「非道な……」
痛々しすぎる。
人質さえいなければ、カカシは迷うことなくガトーの首をへし折っていただろう。
それほどまでに、怒りが蓄積されている。再不斬にすらこれほどまでの殺意は抱かなかった。
七班の面々も同じようで、全員が拳を握りしめていて――掌の皮を突き破ったのか。血が流れている。口を引き結び、射殺すようにガトーを睨みつけている。必死に、耐えていた。
「良い悲鳴だなぁっ! ゾウリ、ワラジ……タズナさんがまだお悩みのようだから、もっとわかりやすく現実を教えてやれ」
「へへ、さすが旦那ぁ――交渉のやり方をわかってらっしゃる」
「斬っていいんすかね?」
「痛みで死なれても困る。痛めつけろ」
「残念だなぁ……!」
笑いながら、ゾウリは足を踏み下ろした。
イナリのか細い腕が、ぽきん、と軽快な音を立てて折れ曲がる。
「ぐ、ああああああぁぁぁあっっ!!」
「ひゃひゃひゃ! 良い声で鳴く! 人情のないお爺ちゃんを持って幸せだなぁ!」
楽しそうに――本当に楽しそうに――ゾウリは嗤っている。ガトーも同じく、腹を抱えて「辛抱たまらんわ!」と肩を揺らしながら嘲笑っている。
このままでは本当にイナリが殺されてしまう。
脅しではない。
そのためのポーズだ。
「待て!! お前たちの条件は飲む……だから、わしの孫を返してくれ……」
タズナの心は折れるだけでなく、木端微塵に吹き飛んだ。
抵抗する意志は消え失せて、勝ち気な頑固親父だったときの印象も失われ、敗北者のような――負け犬の目に成り下がってしまった。
そのときだ。
ひゅうひゅうと小さな声で、苦痛を垂れ流していただけのイナリの声がタズナの耳も届いた。
「僕……僕……母ちゃんを守りたかっただけなんだぁ……弱いから、こんなんなっちゃったけど……守れたのかなぁ……!?」
その言葉を受けてガトーたちは腹が捩れんばかりに笑い転げてしまう。
滑稽なガキ。お前には何もできてねぇよ。分際を知れ。まじで笑える。ひゃひゃひゃひゃ!!
あらゆる罵倒がイナリに向かう。
悔しくて、それがとても悔しくて、タズナは――
「惨めだな、このガキ。結局足を引っ張ってるだけ……」
死んでも構わないという決意をしてしまった。
涙はようやく枯れ果てて、身体中の水分を出し尽くした。
孫が、守りたかったものが見えた気がして、その粋な心を汲み取ることのほうが大事に思えたのだ。けれど、殺したくはない。死んでほしくない。
どうすれば――
「イナリを返せっ!!!!」
「悪党がっ!」
「町から出て行け!」
ガトーたちの背後から、タズナの下から去って行った仲間たちが現れた。
手には武器というのもおこがましいもの――鍬や包丁、中にはそこらに転がっている鉄パイプなどを構えた町民がいた。先頭にはツナミ。明確な殺意を宿した瞳をガトーに向けている。
「ハハハハ! どうだ、小僧! お前の母ちゃんがお出ましだ! 守りたかった母ちゃんがな!!!! こっちに人質がいるってのに、全く低能な奴らだ! 猿にも劣るなァ!!?」
ふと、サスケは気付いたようにナルトに目配せした。
折れた手を庇いながら、声もなく手による言葉だけで気付いたことを伝える。サクラも気付き、二人ともが頷いた。カカシはわからずにクエスチョンマークを浮かべながら見ていたが、何かを察して、いつでも飛びだせるように身構える。
「もう我慢の限界だ……」
「同じく……イナリが死んでもいいんじゃねーか? 代わりにお前ら全員も道連れにしてやるからよ」
「良い案ね。私も乗らせてほしいわ……」
三人は、すっくと立ち上がる。
各々の武器を手に持って、いつでも戦える姿勢を取る。
「お前ら!?」とタズナは驚きの声をあげるが――意にも止めない。
「ガキ! 見捨てる気か!?」
ガトーもナルトたちを見て、信じられないようだ。
先ほどまで怒りに狂いそうになっていた奴らとは思えない。子供だから短気なのか。交渉の相手にすらならないほどに知能が低いのか。
だが。
「いや、ただの陽動。足元見なよ。死んだかどうかちゃんと確認しないとダメだぜー?」
ナルトが嗤う。
原因は一つだ。
「……秘術・千殺水翔」
殺したと思っていた奴が生きていた。斬りおとされていない、折れてもいない手で印を組んでいる白が足元にいた。それだけのこと。
「写輪眼はチャクラの動きも読み取る。白が生きていることなんか最初からわかっていた」
「ざまぁねぇな」
「悪役らしい呆気ない最後ね」
写輪眼が白のチャクラが尽き、命が失われたことすらも読み取る。
そして、背後にいたカカシのチャクラが爆発するかのように嘶き、閃光となってイナリを助けたことすらも把握する。
戦慄。
不貞の輩たちはあっさりとガトーを殺されて、そちらに気が向いている間に、あっさりと形勢は逆転してしまった。
もう、人質はいない。
前には忍者、背後には怒りに燃える町の人々。
逃げ場などない。
「クソ忍者どもめ! せっかくの金ヅルを殺してくれちゃって!」
「お前らもう死んだよ!」
「こーなったら俺ら的には町を襲って……」
「金目のものを全部いただくしかねーっつーの!」
「そうそう!」
怒れる獅子を前にしているという自覚もなく、愚者は自分の力を見誤る。
「サスケ、サクラ、やれるか」
「問題ない。片腕が折れて無茶苦茶痛いだけだ」
「私はぴんぴんしてるわよ。あんたこそやばいんじゃないの?」
「イナリよりはマシだ」
「でしょうね」
苦笑しながらやりとりをする七班を見下ろし、カカシもつられて笑ってしまう。
「担当の教師だからね。本当ならナルトとサスケは体調不良だから止めるべきなんだけど……お前たちの気持ちも痛いほどわかる」
イナリをタズナに手渡して、カカシも準備万端だ。
「……手加減はいらない。思い切りやれ」
返事はなく、七班の全員は獅子吼をあげながら特攻した。
釣られるかのようにガトーの残党もナルトたちに向かうが、背後にいる町民を忘れている。
挟み撃ち。
作りかけの橋の上は、人々の血で穢された。