8.
「再不斬……さん……」
壊れた人形は意志を取り戻したのか、震えながら立ち上がろうと地面へと手をつくが、折れた右腕では力が入らない。
ぱしゃんと水で濡れた地面へと突っ伏す。水でべとべとに濡れた衣服が身体に纏わりつき、もともと重く感じる身体の感覚が、さらに薄らいでいく。
痛む。先程に幻覚で見せられた光景よりも、心が痛む。
「何ですか。どうしたんですか……それは……」
再不斬の身体はバランスがとれていなかった。あるべき場所にあるはずのものがないということは、とても醜い。歪は姿というものを、人は嫌悪するものだ。
「あぁ? 大したことねぇよ」
「右腕が、もがれてるじゃないですか!」
損なわれたものは――右腕。再不斬の右肩から先は、もう何もなかった。
傷口からは何も流れ出ることはなく、よくよく見れば、焼け焦げた跡がある。ぐじゅぐじゅになった外傷からはつんとした臭いが鼻につく。
もとあるはずはずだった鍛え抜かれた右腕。人の命を容易く奪う凶器そのもの。それが、失われている。
何があった。
「そこか」
いつのまにか濃霧が消えていて、薄らいだ靄から飛び出してくる影があった。
カカシである。
チッチッチッチッ、と音を立てているのは右手に宿る雷光。
把握する。
おそらく、再不斬はカカシの雷光に貫かれたのだと……そして、それは白を守るために飛び出してきたせいなのだろう、と。
再不斬は舌打ちをするだけで、動かない。後ろに白がいるから。それだけの理由。十分に動かないですむ理由だ。
このままでは、再不斬は殺される。目の前で、殺される。道具である自分のために、命を捨てることになる。
(――そんなのダメだ)
折れていない腕に体重をかけて、白は立ち上がろうとする。
生まれたての鹿のほうがもう少し力強いだろう、と思うほどの頼りなさで、白は立ち上がろうとする。
その姿を、再不斬は優しげに見下ろしながら――微笑んだのだろうか。
「終わりだ、再不斬」
「……がふっ」
雷光に、貫かれた。
カカシの手は無慈悲に心の臓があるべき左胸を貫通する。
口から赤黒い水を流しながら、再不斬は――
「再不斬……さん?」
死んだ。
「再不斬さああああああああああああああん!!!」
カカシは無言で手を引き抜くと、再不斬の死体を放り投げる。
殺した。
自分の手で、殺した。
理由は再不斬を生かしておくと大変なことになるから。
後はもう一つ。
再不斬なんかよりも大切なものが、カカシにとって多すぎたからだ。
晴れ渡った視界で、倒れ伏す金髪を見る。
迷彩柄のジャンパーは血色に染め上げられていて、生命の余韻を感じさせる。
殺されたのだ。
カカシの目の前で泣き崩れる白という少年に、命を奪われたのだ。
チッチッチッチッチッ――右手は光を纏っている。手を振り下ろせば、白の命を奪うなど実に容易いことだ。
(殺すのか……大切なものを奪われた……ナルトやサスケ、サクラと同年齢だろう子供を……)
迷いが生じる。
そんなとき、背後に動く気配を感じた。
「ぐ……くそっ、腕が折れちまった」
狂気の光を宿した瞳は六芒星の紋様を刻まれている。カカシの写輪眼とは違う、完成された写輪眼。
大切なものを失ったら手にする強大な力。万華鏡写輪眼を手に入れている。
(それほどまでに……ナルトに心を開いていたか)
手の隙間から零れ落ちたものはあまりに大きく――七班の心を引き裂いた。
ナルトを抱き締めて泣きじゃくるサクラ、左手にチャクラを凝縮し、自分の手が火傷を負うことすら構わずに力を込めているサスケ。
壊れた。
細心の注意を払って積み上げてきた何かが、音を立てて崩れていく。
「まだ、生きてるのか。良かった、本当に良かった。俺が……殺してやるから、ちょっと待ってろ」
関節の可動範囲を大幅に超えて曲がっている右手は、折れている。激痛に苛まれて、動けないはずなのに、サスケは精神で痛みをねじ伏せて、一歩一歩、牛歩の歩みで白へと近づいていく。
ばちばち、ばちばち。
自分の肌を焼かれるほどに濃縮されたチャクラは、次第に色を帯び始める。
雷光。
カカシの手に宿る【千鳥】と呼ばれるものと、酷似している。
このままではサスケは白を殺した後に、壊れてしまうだろう。復讐に走ってしまうだろう。ナルトやサクラと出会ってから変化してきた精神が、アカデミー時代へと戻ってしまう。
失う悲しみを、思い出したから。
サスケに殺させるわけにはいかない、とカカシは結論する。
【千鳥】のためのチャクラを霧散させ、サスケの後ろへと瞬時に移動する。音もなく、背後を取る。
首筋へ手刀。意識を奪うためだけの攻撃。
「な……くそ……」
断絶する。
前へと倒れ込むサスケの身体を、カカシは優しく受け止めて、横たえた。
カカシは白を見る。
顔面を蒼白にした、生気のない少年を見る。
「で、どうする。そこの少年。まだ、やる?」
「僕は……僕たちは……理想のために戦ってきました」
かすかな声音は、カカシに届く。
理想とは――などとは聞かない。無粋な行為だし、今となっては意味のないことだから。
「僕は役立たずのゴミにも劣る存在ですが……諦めるわけにはいきません。僕は、道具です。道具に意志は必要ないんです……」
ゆらりと立ち上がる。
限界を超えている。動けば死ぬ。それを本人もよく理解している。
厄介な、敵だ。死ぬことを望んでいる、哀れな敵だ。
「やるわけね」
「殺し……ますっ!」
カカシへと向かって、白は駆ける。
遅い。なんという遅さか。
目を瞑っていても問題ないほどに弱体化している白は、哀愁すら漂っていた。
無防備に、カカシへと蹴りを放つ。本当に無防備で、殺して下さいと言っているようだった。
「サスケに何をされたのは知らないけど、そこまでボロボロになって動けるわけないでしょ」
軌道はでたらめ、力も入っていない、速度もない。驚異の欠片も感じられない上段蹴りを、カカシは避けることすらしなかった。何故なら、その軌道だと当たらないのだから。
カカシの手前を通り過ぎた蹴足は目標に当たらず、バランスを失った白は、転倒する。
ぎしり、ぎしり、歯を噛み締める音がする。
牙も爪も失った獣のようだった。
◆
サクラの腕の中では、穏やかな――まるで眠っているような表情で、ナルトが仰向けに倒れていた。
今にも「よっす、おはよう」と言って起き出しそうなほどではあるが、手から伝わる体温が全てを教えてくれる。
そんなことは、ないのだと。
小刻みに震える背中を見下ろすタズナは、かける言葉が見当たらない。最初から最後までずっと任務を嫌がっていたナルトが、死んだ。何という皮肉だろうか。しかも、仲間をかばっての死だという。
あまりに残酷な結末にタズナの涙腺も緩んでしまう。涙はもう枯れたと思っていたのに。
「こんなに……冷たくなって……"忍はどのような状況においても感情を表に出すべからず"だっけ。テストでいつも出た問題。答えるのは簡単だけど、実践するのは……難しいなぁ……!」
ぽろぽろと涙を流しながら、サクラは呟く。
アカデミー時代では決して仲が良いとは言えなかった。サクラにとって、ナルトは空気に等しい存在だった。害もなく、恩恵もない。真面目に授業を受けているただの一般生徒だった。
印象が変わったのは、アカデミーの卒業式。
喧嘩をした。たぶん、あれはサクラにとっては喧嘩だったと思う。
次に会ったときはいきなり土下座をされて、「友達になってください」と言われた。馬鹿みたい、と思う。そんなことをしなくても友達はできるものだろう、と考えるが、ナルトには友達がいないことを思い出して、サクラは友達になってやった。このときの印象は『変な奴』だ。
次第に変化していく。
卒業試験でカカシに一杯食わせたことはよく飯時の肴として用いられる。全員で騙して、それでも騙されていただけというオチはなかなかに面白い。どうすれば勝てたんだろう、今なら勝てるだろうか、などと戦術論を交わし合うことも多い。
サクラにとって、本気で戦術の話をしてついてこられるのはナルトが初めてだった。とても貴重な存在。サスケが隣で意味深に頷きながらも、質問をすれば「わかるか!」と怒鳴り返すこともよくあった。そんなこんなで、七班で楽しく日々を過ごしていたのだ。
奪ったのは、カカシの前で膝をつく少年。
憎い。
素直に憎い。
「こいつがナルトを殺したんですよね?」
「……勝手に、殺すな」
そう言って立ち上がろうとしたとき、ぴくりと腕の中で動いた。
おそるおそる見ると、そこには目を見開くナルトがいた。
ぽろぽろとナルトの身体中から土が落ちていく。サクラの腕は泥まみれになるが、気にしない。
先ほどとは別の涙が溢れてくる。
きょろきょろとあたりを見回しながら、弱弱しく腕を差し出してくるナルトの姿を見ると、涙が流れるのを抑えられない。
何度も何度もナルトの名前を呼んで、そのたびにナルトは頷いて――どんどんと腕を伸ばす。
むぎゅ。
「……え?」
一瞬、思考が飛んだ。
「何……これ?」
わからず、鷲掴みにされている場所を見た。
胸。
膨らみ切っていない――いや、年齢にしてはそれなりにあると思われるサクラの乳房が、服の上から見事に揉まれていた。
「硬い表情してるからさ。ほら、笑えよ。笑ったほうがサクラは可愛い」
にへらと笑いながら堂々と言い切るナルトに、サクラは頭突きを喰らわせたのは言うまでもない。このための面積である。
喜びの温度は、一気に冷めた。
◆
それからの対応は凄惨を極めた。
身体中傷だらけのナルトを応急手当てをしたと思うと、サクラはナルトの腕の関節を取った。
逆十字腕拉ぎ――関節技である。効果は簡単に言うと、超痛い。
「痛い、痛い、痛い、痛い、痛いいいいいいいいいい!!!」
いつも冷静なナルトがくだらないことをしたので、サクラはナルトの頭がおかしくなったのではないかと本気で心配しているのだ。もしかしたら洗脳されているのかもしれない。だから、激痛を与えて幻覚を解こうとしているのである。それ以外の理由はない。やましい気持ちも全くない。全力でタップするナルトの姿を見て溜飲を下げていることなど断じてないのだ。
カカシが凄い冷たい目線で見ていることと、ナルトが生きていることを喜ぶタズナのことも無視だ。まずは、痛めつけることが大事だ。
「吐きなさい。なんで死ななかったの?」
「……優しくしてくれたら喋る」
「へぇ、これ以上の優しさを私に求める気?」
口角を吊り上げるだけの冷たい笑みに、ナルトは悪魔を見た。
「土遁・硬化術です。土の鎧をうっすらと纏っていました」
「なるほど……じゃあ何で死んだフリしてたの?」
「本気で気絶してました」
「なんで?」
「大量出血によるショック症状です」
戦闘をこなして死ぬ想いをして、何となく茶目っ気を出したらこれである。ナルトとしても泣きたくなる。サクラが恐いのだ。自然と敬語口調になってしまうのも無理はない。
「まぁ、生きてたならいいんだけどね……貸イチよ」
「貸イチ?」
「おっぱい揉んだこと」
「お、おう……」
揉まなきゃ良かった、と後悔するナルトに現実の刃が襲いかかる。
サスケが、起きた。
のそりと起き上がり、目が合った。急いで目を逸らすが、サスケの視線がナルトをとらえて離さない。
「……おい」
声をかけられても、ナルトとしてはどうすればいいかわからない。
最初から対策を練って庇ったのだし、生きられるだろうという予測もあった。だけど、仲間は美談として自分の死を信じていたのだ。それなのに、どの面さげて「生きてました」と言えばいいのだろうか。
震える。
サクラであれだったのだ。サスケだとどうなるのだろう。腕を折られるのではないだろうか。それは勘弁願いたい。
「……おい」
声が近づいてくる。
それでも、ナルトは目を逸らし続けた。
だが、衝撃が身体を襲う。
「……お前、生きてるのか」
鼻声になりつつあるサスケの声とともに、肩を掴まれた。
おそるおそる見ると、サスケは泣いていた。眼を充血させて、ナルトに抱きつく。
「……良かった!」
生きている白のことも忘れ、サスケは喜んだ。
六芒星を描いている瞳は車輪が三つの模様に戻り、力が失われていくことを自覚する。でも、どうでもいい。ナルトが生きているのなら、どうでもいい。
「お前、抱きつくなよ! 男同士で気持ち悪いだろ!」
「……良かった! 本当に良かった!」
「こらこら、サスケ。ナルトが悶絶しそうになるくらいに力を入れちゃダメだよ。死んじゃうからね」
カカシが止めるまで、サスケはナルトから離れなかった。何故だかサクラが「もったいない」と呟いているが、原因は不明のままだ。
七班は、元通り。
意識の外に白を追いやって、ナルトの生還を祝った。
束の間の休息。
本当に、一瞬だけだった。
ぞろぞろと大量の足音がこだまする。物騒な足音。時折、地面を擦る奇怪な音が響く。
そちらに目をやると、そこには――
「おーおー、ハデにやられて……がっかりだよ、再不斬」
小太りの小さな男がいた。歳は随分ととっているのだろう、顔には深い皺が刻まれており、髪を白くなっている。
しかい、長い年月は品性を培うためには使われなかったのだろう。醜悪な笑みを浮かべながら、他人を見下す視線は男の程度の低さを知らしめる。
男の名はガトー――ガトーカンパニーの総帥であり、再不斬たちの雇い主であり、ナルトたちの敵だ。
多くの手下を連れて、ナルトたちと対峙している。そして、放り捨てられた再不斬の死体を見下ろしながら、腹を抱えて笑っている。
「ハハハッ! お笑い種だな! 鬼人と言われているコイツは実はただの小鬼ちゃんだったわけだ! 計算違いも甚だしいな!」
蹴り飛ばす。
命の灯が尽きた再不斬はやられるがままだ。ガトーの鬱憤をぶつけられても反抗することなく、甘んじて暴虐に耐えるだけ。
がぎん、と何かが砕ける音がした。
音の発生源は白。口からだらりと血が零れ落ち、砕けた何かを吐きだす。
それは、歯だ。力を込めすぎて砕けた歯。
「再不斬さんの悪口は……許さない」
精神の力のみで立ち上がる。
いつ死んでもおかしくないほどの満身創痍なのにも関わらず、命を賭して――
「おっとぉ? そこのガキは生きてるのか。お前だけなら簡単にブチ殺せそうだなぁ!」
ガトーの言葉を無視して、白はナルトたちに向き直る。
「すみません……申し訳ないのですが、貴方たちに殺されるわけにはいかなくなりました」
「……ナルトが生きていたのならお前の命に興味はない」
「私も同じよ」
ナルトは、答えない。
白は頷くように、小さく礼をすると――駆けだした。
群れと称してもいいほどの不逞の輩たちへと、突進する。
残っている片手で印を組み、術を発動。
【秘術・千殺水翔】――周囲の水を、自分の血を刃に変えて、ガトーたちへと放つ。
ガトーに届くことはなかったが。
壁のように並んでいる男たちの命を摘み取るだけに終わる。
白は崩れ落ちそうになる膝に力を込めて、突進する。
殴る。
蹴る。
投げる。
数人の男たちまでは倒せた。
必死の決意で突き進むも、そのたびに傷を負う。
背中を刀で突き刺され、折れた腕を斬りおとされ、足は蹴り砕かれ――
白の命はガトーに届かない。
「く……ハハハハ! 弱い! 弱いな! 意味もなく死におったわ!」
ガトーに、頭を踏みつけられた。
終わり。
白の抵抗は空しく潰える。
「さて、残るはお前たちだけだが……取引をしないか」
血で汚された橋の上で、ガトーは手を掲げる。
指し示すのはカカシ。見るからにこの場にいる忍者たちの首領だ。
提案する。
「どうやらお前らは報酬無しで働いているみたいだな? どうだろう。金をくれてやるから退いてはもらえんか?」
忍者は金で動く。それは常識だ。だから、買収する。これ以上に無駄な戦闘は避けたいから。それは当り前のことであり、相手が頷くことを前提としての交渉だ。
相手は損をしない。ならば、受けるのが当然だ。
だが。
「義を見てせざるは勇なきなり。勇将の下に弱卒なし。ま! お前らみたいな下種にはわからん考えだろうがね。金だけで忍が動くと思うなよ」
カカシは言う。カカシに連れられた下忍たちも、頷く。
「じゃあ、こんなのはどうだ?」
人の群れから、小さな影が現れた。
ぱっと見ではわからないほどに膨れ上がった顔。あらゆるところが痣だらけで、本当に誰だかわからない。
ふうふう、と荒く息をつきながら、その影は地面へと倒れ伏す。
これは何だ。
よく見ると、見覚えのある顔立ちで、見覚えのある体格で、見覚えのある服装だ。性格は良いとは言えず、ずっと不貞腐れていた子供を思い出す。
「イナリッ!?」
タズナは気付く。
あれは、孫だ。ぼろぼろになるまで殴られた、孫の姿だ。
「どうする。私としてはどちらでもいいのだが……」
皮肉に笑うガトー。
震えるタズナ。
「タズナさん……」
七班のみんなは、怒りに身を焦がすが――何よりも優先すべきはタズナの言葉。
「……夢ってのは、犠牲がつきものなんだろうがのぉ……これはあんまりじゃあ!!」
戦いはまだ終わらない。