麻雀で一番強い者を決めるにはどうしたらいいか。
それは、ノーレートの公式試合。万人が観る大会。言い訳のきかない場所で打つ。それが最も近い回答だと思う。
そう信じている一方で、僕はこうも思う。そもそも一番強い者、最強ってなんだ、と。
少なくとも、結果を残した者はそれに近いはずだ。強者と打ち、対策をし、そして、ちょっとばかし運が味方し、勝利した者が、強い。弱いわけはないはずだ。
だけど麻雀は基本四人、あるいは三人で打つ競技だ。少なくとも公式試合で一対一、というのはそうは見かけない。去年の個人戦だってそうだった。爆岡がいて、八崎さんがいて、茶柱さんがいて、そして、僕が居た。その対局の勝者は、僕だった。でも、八崎さんや茶柱さんがいなかったら、おそらく僕が爆岡に勝つことはなかっただろう。
そして今、僕は積倉に挑んでいる。彼の打ち筋は、分析できるだけ分析はした。だけど、直接的対策が、結局は見つからなかった。
僕が見つけたのは、彼が阿知賀次鋒、松実宥の特性をまだ見抜けていない、という点だけだった。Aブロック準決勝においての違和感。僕はそれを見逃さなかった。おそらく、彼はぶっつけ本番で対戦相手に臨みたかったのだろう。
僕は、阿知賀、松実宥の特性を知っている。これは、麻雀打ちとしての強さになるのだろうか。先鋒戦、清澄の傀もそうだった。他の三人の特性を理解し、利用していた。それが強いと言えるのだろうか。
それが麻雀の魅力なのか。僕は、その魅力にとりつかれたから、今も麻雀を打っているのだろうか。
南4局 親 積倉 ドラ 7索
宥(南家) 95700
鉄壁(西家) 96600
染谷(北家) 94900
積倉(東家・親) 112800
「ツモ…4000オール…」
予想通り、彼はツモあがりを見せた。だが、その形は彼が望んだ形であっただろうか。
積倉 手牌
三四五③④⑤3467888 ツモ 2索
一発も無く、赤牌も三色も無い。これが満潮のツモあがりか?違う。これは、満潮の読み間違えだ。
阿知賀、松実宥。赤い牌が集まるという彼女の特性はもはや異能と言っていい。妹の松実玄程の絶対性はないけど、その力は場全体に影響を及ぼしている。少なくとも、僕の支配色の定義をある程度は捻じ曲げている。
であるなら、積倉の満潮の哲学にも歪みを生じさせるはずだ。
読み間違えが発生した場合、打ち方自体ににも間違いが出てくるはずだ。積倉は潮の状態に合った打ち方をする。逆に間違った打ち方をすれば、流れは変わる。
積倉は崩れ、そして流れを掴めれば……。
だけど、そんなことをして勝ったって言えるのか。まるで不確定要素の大介を現場に置いているかのようだ。今回だって、たまたま阿知賀、松実宥がそこに居たから起きた現象じゃないのか。
馬鹿な…。自分が納得できる場ならいいのか?
だめだ、今は考えることが出来ない。今は、この状況で一応はチームに貢献するように打つしかない。僕だけの試合では無いのだ。
これが、麻雀だっていうのか。
◆
南4局一本場 親 積倉 ドラ 八萬
宥(南家) 91700
鉄壁(西家) 92600
染谷(北家) 90900
積倉(東家) 124800
9巡目 鉄壁 手牌
三三三六八④⑤678発発発 ツモ ⑥
(役牌暗刻にドラ1……。やはり、満潮の読み間違えはあったと言っていいだろう。だが、完全に流れが消えたわけでも、その流れがごっそりこっちへ来てくれたとも思えない。ここは)
鉄壁 打 発
(三萬切りの七萬待ちでも、六萬切りのドラ単騎でもない。ここは、まだ受ける)
10巡目 宥 手牌
四[五]③④[⑤]⑧⑧44[5]566 ツモ 七萬
(赤土先生の言っていた『満潮』……。でも先生の言った通り、手は来てくれた。【読み間違い】はあったんだ)
打 七萬
「チー」
鉄壁は宥から切り出された七萬を鳴き、打発。次巡二萬をツモり、残りの発を河に置いた。
西家 鉄壁 手牌
二三三三④⑤⑥678 チー 七六八
河に連続で並んだ三つの発を見て、宥はまた晴絵の言葉を思い出した。
(先生の言っていた【爆守備】……先生は、彼の打ち方を良く観ておくようにって言ってたけど…)
同巡、染谷から一萬が切られ、そして積倉から四萬が切られた。
(ん…同巡でアタれない…。嫌な所で一萬を切ったな清澄)
次巡、鉄壁は五萬をツモり、打二萬。
だがさらに次巡、鉄壁のツモは六萬。彼は手を止め、小考した。
西家 鉄壁 手牌
三三三五④⑤⑥678 チー 七六八 ツモ 六萬
(現在支配色は萬子…。好調者の和了牌も萬子になる筈だ。この六萬は、阿知賀のアタり。僕の予測なら、流れは、満潮を止めた原因である阿知賀に行くはずだ。この牌は先ほどの鳴きで喰いとった結果だ。なら…)
彼はその六萬で待つことを選択し、全ては彼の理論通りに運んだ。
「ツモ!600・1100!」
鉄壁 手牌
三三三六④⑤⑥678 チー 七六八 ツモ 六萬
(私の和了り牌が、止められている…)
宥の三、六萬待ち…それらをかわした上での和了という結果。彼女は身震いした。
(なんちゅー受けじゃ…)
一方、染谷はそのアガりに感嘆した。結果として現れたのは不可解な受け、和了であり、形だけなら彼女が時として行う非論理的な打ち回しに近いが、実際はそうでは無い。感性、感覚では無く、思考に思考を重ね、己が掲げる論理を信じる、哲学の麻雀である。
前半戦終了
宥 91100
鉄壁 94900
染谷 90300
積倉 123700
「なるほど、赤い牌ですか……。てっきり萬子と中だけかと思っていました…」
積倉が呟いた。
(気付いて、しまったか……。いや、半荘三回も打っていれば、さすがに彼なら気付くだろう。でも出来るなら、後半戦の最中に気付いてほしかった。それなら、体制を立て直す前に……)
そう鉄壁は思ったが、すぐさまその考えを否定した。そんな積倉に勝っても勝ったと言えるのか。再度その考えが過ったからだ。
(それより…)
彼には気になることがあった。積倉の個人戦への不参加。その理由を彼に訊こうと席を立った。
「積倉君、一つ訊きたいことが…」
鉄壁の言葉を遮るように、積倉は言葉を挟んだ。
「すまない。あなたの言いたいことはわかります。ですが、その質問には、今は答えたくありません。今は、この試合を楽しみたいのです……」
「僕が何を訊くのか、わかったのか?」
「表情を見れば、おおよそは」
鉄壁はそれ以上踏み込むことはしなかった。自分が臨海の人間であり、積倉が白糸台の人間。答えたくない、の一言でおおよその察しがついたからである。彼はそうか、とだけ言い残し、舞台を降りた。
試合が終われば、積倉は答えてはくれるだろうが、しかし、この大会は何かがおかしい。彼はそう思う。だが、同時にこうも思っていた。自分達のような人間は、ただ打つことしか出来ないし、そうしたい。余計なことに関与せず、考えもせず、ただ純粋に打つ。それでいいはずなのだ。
彼は廊下で宥を迎えた阿知賀のメンバー達に目をやった。『ああいった温かさ』が普通なのだ。自分達にはそれが無い。誰もかれもが自分の目的だけで打っている。これは、団体戦だというのに。
(出来るなら、ああいったメンバーと一緒に大会に参加したかった。ここは…冷たすぎる……)
◆
「前半戦、お疲れ、宥」
赤土晴絵は、労いの言葉と共に自販で購入したホットのココアを渡した。
「あ、ありがとうございます」
宥は、晴絵の予想通り、積倉の満潮の読み間違いがあったことを話した。
「うん。そのようだね…。臨海にあがりを喰われちゃったけどね」
「後半は、準決の時のように白糸台は崩れてくれるでしょうか?」
「いや…気付いたみたいだからそれは無いと思う。出来れば後半戦に気付いてくれればよかったんだけど、そこらへんがさすが、と言ったところだろうね。……このまま行くと、私の予想は当りそうだね」
晴絵は軽い笑いを交えて言った。しかし、その表情は晴れやかなものでは無かった。
「温かい牌が……消えてしまうこと、ですか…」
宥は恐る恐る確認した。
「白糸台……積倉手数が宥の特性に気付くのが後半戦だったら、それも無かっただろうけど、もう彼は間違いなく、正確に宥の特性を理解しているだろうね。正確に理解さえすれば、正確な満潮打法を駆使して、確実な満潮を造る。それが彼だよ」
「よく…知っているんですね」
「あんた達の対戦するであろう相手は、ちゃんと隅々まで調べているよ。先生だからね。あと、飲みなよ。あったかいうちに」
晴絵は、渡したホットココアを、まだ宥が口をつけていないことを見て、言った。
「あ……ありがとう…ございます……」
宥は一口だけそれを啜った。
「………前にも言ったけど、この決勝は、臨海の鉄壁保のする麻雀をよく観察して」
「はい……」
積倉の完全な満潮が始まれば、宥は【赤い牌】を失う。それは、積倉の麻雀が、かつて赤土晴絵が対戦した小鍛治健夜のものと同質のものであることから導き出した結論である。
これまで築き上げてきた経験、努力、自信、熱意。ありとあらゆるものを剥いでいく麻雀がそれである。建てた家を破壊されるように。着ている衣を剥がされるように。残るのは、ただただ冷たさだけ。松実宥は、そういったものと戦わなくてはならない。
「先生は、一度だけ小鍛治プロから直撃を取ったことがあるんですよね。それと同じことは、私には出来ないんですか?」
宥は数日前、晴絵にそう質問した。赤土は否定した。
「あれは対策と呼べるものじゃ無いよ。ペテンに次ぐペテン。異能者の思い込みや絶対性の隙を突いただけのもの。一回しか使えないし、何より意味がない。宥には出来ないし、してほしくない。それにそもそも、積倉は小鍛治プロや宥達のような異能によってあの流れを造り出しているわけじゃないから、たぶん通用しないだろうし」
しかし、晴絵が宥に示した対策というものも、対策と呼べるほどのものでは無く、論理性の無いものであった。
結局の所、晴絵は積倉に対する直接的対応策を見つけることが出来なかった。
晴絵は、宥が決勝で同卓するであろう相手に目を光らせた。少なくとも臨海が勝ちあがってくることは想像に容易く、その次鋒、鉄壁保の麻雀を調査し、そこに打開策を見出した。
晴絵は、この決勝が始まる何日も前から、宥に、臨海の鉄壁保の対局の映像、牌符をいくつも見せた。鉄壁の麻雀の根幹には、例え不ヅキがあっても、それを真正面から受け止める、というのがある。それが、宥に訪れるであろう『寒さ』を克服する後押しになる。晴絵はその一点に可能性を見出した。
赤い牌を失う。晴絵はそのことを宥に告げることに躊躇いがあった。その言葉を聞いた後の彼女の不安げな表情がその理由の解答であった。しかし、彼女には知っておく必要がある。たったの一半荘。それが、きっと彼女にとって大切な半荘。
彼女の母がどのような麻雀をしていたのかは当然晴絵も知っている。彼女がその血を受け継いでいるというのなら、『赤い牌』の彼女の麻雀には先がある。そう晴絵は読んだ。
そして、宥自身予感はあった。もし赤土の言うように赤い牌が消失するとしたら、どのような手牌が自分に降りてくるのかということを。
それは、かつて彼女が恐怖した、母の最期の手牌。
「お姉ちゃん」
晴絵との話を終えた宥に、玄が話しかけた。
「お母さんの手は、冷たくなんか……なかったよ」
「……でも……玄ちゃん…」
宥は否定した。自分がかつて見たもの、触れたもの、あれは紛れもない氷だったのだ。
「ううん…」
それでも玄は続けた。母の手は、冷たくなんかなかった。
「もし、お姉ちゃんの言う通り冷たかったとしても、たぶんその冷たさには先がある…」
「冷たさの…先?」
「そう……うまく言えないけど、お姉ちゃんにもしそれが訪れたら、きっとわかる…」
宥は、わかった。とだけ言って、一口しか口をつけなかったココアを玄に渡し、舞台の方に歩を進めた。
玄に渡されたそれは、もう冷たくなっていた。
◆
後半戦
積倉(白井台) 123700
染谷(清澄) 90300
鉄壁(臨海) 94900
宥(阿知賀) 91100
東1局 親 積倉 ドラ ⑦筒
積倉(東家・親)
染谷(南家)
鉄壁(西家)
宥(北家)
後半戦が開始された。
前半戦、トップで抜けることが出来た積倉であったが、その起家、手牌には覇気が無かった。
8巡目 積倉 手牌
四五五六七七1234567 ツモ 五萬
1、4、7索のいずれかを切れば聴牌。しかし、その形は五、七萬の悪形のシャボ待ちである。満潮の香りのかけらも無く、典型的干潮の形。
付け加えると、もうその段階で他家の三人はそれぞれ一鳴きをしており、既に聴牌気配を放っていた。三人は三人とも、積倉の満潮が途切れたのを察し、攻めに転じていた。
(さすがに、干潮スタートに戻ってしまいますか…。ですが、完全な干潮と言うわけでもないですね)
そんな状況に置いて、積倉は微笑む。満足である、と。
(親リーチが打てる贅沢!)
彼は1索を切り、リーチを選択した。ブラフぎみのリーチ。
対して、三人の攻めは優秀だった。
南家 染谷 手牌
一二三②③789北北 ポン 発発発
西家 鉄壁 手牌
二三四六八⑥⑦⑧22 チー 768
北家 宥 手牌
一一③④[⑤]4[5]中中中 九九九
同巡、染谷は七萬をツモる。満潮が過ぎ去ったとはいえ、トップ親のリーチ。彼女は積倉の捨て牌を観た。
積倉 捨て牌
北一2①中二
⑤1(リーチ)
(さすがにこれは打てんのう…)
彼女は現物の北を選択。
同巡、鉄壁の番。ツモって来たのは6索。
(打てない…。少なくとも、僕が攻めれる局では無い)
彼も降りる。現物の打2索。
そして同巡、宥にはドラの⑦筒が訪れた。
(ドラ…。清澄も臨海も降りたから、本来なら私が行くべき、なのかな…。でも、一発目にこれは切れない…)
宥も降りる。現物の一萬を河に置いた。
そう。三人の攻めは優秀だった。だがそれは、現物を抱えた攻め、いつでも降りることが出来る、と言う意味での優秀さだった。
故に、積倉に一人旅の機会を与えてしまった。それが彼の狙い。
結果は流局に終わった。
鉄壁は倒された手を見て、戦慄した。
(効果的だ…。間違いなくその戦術は効果的だ。今のは、哲学的には攻めるべきだったんだ。だけど、数学的には、というか常識的には攻めてはいけない。攻めることが出来ない場面を作り出してきた…このままでは)
状況は彼の危惧した通りになった。次局も彼はまたも先制の親リーをかける。手の形は先ほどと同じように悪形。だが、またも彼は満足する。親リーそのものが贅沢、と。
鉄壁の考えている通り、哲学的には攻めていい。しかし、常識的には攻めることが出来ない。
哲学と常識の狭間にある者は、現在の状況でどちらかを選択する。三人にとって不運だったのは、確実なる逃げ道が存在してしまっていたことである。負けられない戦い。三人が安全を優先してしまうのは必然であった。
(だが……【手】をクリアされてしまう…。このままでは、また彼に流れが…)
「ツモ。2000オールは2100オール」
積倉手数の【哲学】は、次第に、そして確実に三人の足元を浸し始めて行った。
東1局 一本場 親 積倉 (リー棒一本)
積倉 133000(+6300+1000)
染谷 87200(-2100)
鉄壁 91800(-2100)
宥 88000(-2100)
(さすがにこの局で何とかしなくては)
東2局 二本場 ドラ 7索
西家、鉄壁は宥から西を叩き、動いた。
鉄壁 手牌
11157888発発 西西西
5巡という早い段階で張ることが出来たが、表示牌の6索待ち。捨て牌にも染めを臭わせている分出あがりは期待できない。満潮を作りつつある積倉に抵抗できる待ちだろうか。鉄壁にとってそれは自信のある待ちでは無かった。
6巡目 積倉 手牌
七八①②③⑦⑨2228発中 ツモ ⑧筒
(嵌⑧筒のツモ…。また満ちてきました。ですが、対面の鉄壁さんが押し気味……イーシャンテンか、もしくは聴牌。飜牌を鳴かれては太刀打ち出来ない。だから一呼吸遅らせる)
打、2索。彼は役牌に手をかけなかった。7、9索、もしくは九萬のいずれかを引き、2索が頭になった形が、飜牌を押せるタイミングと読んだ。
しかし、次巡引いてきたのは赤の⑤筒。意外な牌であった。
(面白い。こっちを引いてきますか。と言うことは、彼女の【赤い牌】も引き始めていると読んでもいいかもしれませんね)
基本方針に変更はないが、彼は先に飜牌の『中』に手をかけた。
反応無し。状況が自分に味方し始めていることを彼は感じ取った。
そして次巡7索ツモ。打赤⑤筒。
(支配色通りなら、和了牌は索子になるのですかね。鉄壁さん)
積倉はトドメの九萬をツモり、予定通りの打発で、さらにリーチをかけた。
鉄壁はその牌に反応する。
(間に合わないかもしれないけど)
そう鉄壁は思った。
「ツモ。2800オール」
積倉 手牌
七八九①②③⑦⑧⑨2278 ツモ 6索
結果は鉄壁の予想通り積倉のツモあがりで終わった。
もし、発を先に打って鳴かれていたらもう中では勝負が出来ない。発か中、どちらが先かは不確定。その不確定要素が自分に傾き始めたら、それは満潮の兆し。
(何か…胸が苦しくなってきた感じが……)
最初に変化を感じ取ったのは松実宥だった。準決勝の時や、前半戦の時に感じた満潮宣言前の感覚は違っていた。真の満潮は、徐々に彼女達を包みつあった。
3本場 ドラ 五萬
7巡目 積倉手牌
二三四六七八九③④2388 ツモ 1索
兆しは手にも表れてきた。満潮気味の形。だが、彼は即リーを自重した。
(おそらく、普段ならこの局で訪れていたんだろうね。でも、今は阿知賀がいる。松実宥によってもたらされた状況。それが今)
次巡彼は②筒をツモってくる。リーチをかけていれば一発であった。
(でも、それは【間違った打法】。準決勝の時や、前半戦の時のように、満潮打法は崩壊してしまいます…。ここはツモらない。うつぼ打ちです)
打 1索
海の穴の中に潜むうつぼのように、目の前の気に入った餌だけを目的とする。宥によってもたらされた『満潮のズレ』の状況に対する彼の修正策が、そのうつぼ打ちであった。
次巡ドラの五萬をツモってきた彼は、八萬を河に置き、またダマを継続した。
(満潮は、完成前が肝心。ここは慎重に行きます)
「リーチ」
(ほら来た…)
鉄壁からのリーチが入った。
鉄壁 手牌
三四五①②③⑥⑦⑧⑨⑨56
捨て牌
九北発89七
西①5(リーチ)
(もし危険牌をツモったら、あっさり現物の8索を落として穴から出ない)
そう彼は考えた。
宥は鉄壁の捨て牌を見て、ツモらずに小考した。
宥 手牌
⑤⑥⑦⑧⑧⑧1234679
(手が……冷たくなってきている……。先生の言った通り。ここで、ここで何とかしなくちゃ…)
有はその5索をチーした。このまま【それ】が訪れてしまったら、本当に手は凍りついてしまう。
恐怖が、彼女を走らせた。
だが、その『鳴き』を見て積倉は微笑む。
(まわりの動きが自分に利すれば…)
「ツモッ!6300オール!」
二三四五六七②③④2388 ツモ 4索
(あっ……)
宥は声を出しそうになった。
今のは鳴いてはいけなかった。
取り返しのつかないことをしてしまった。
彼女は震えた。
東1局三本場
積倉 161300(+18900+1000)
染谷 78100(-6300)
鉄壁 81700(-6300-1000)
宥 78900(-6300)
(まずいのぉ・・これはもう……)
その局、染谷は自分の手を見て確信した。
染谷 手牌
二二四六六七八④⑤⑥456 五萬待ち
(あの手出しの八萬の時、恐らく六、七、八萬の形に五萬をツモっての打八萬じゃの。捨て牌を見るにフリテンリーチも拒否っとる。フリテンリーチならわしがあがっとった。さすがに『つかまれた』かのぉ…)
圧倒的質量と、冷たさが迫ってくる。地の底から、それは這い上がってくる。
(何も……出来なかった…)
唇を噛みしめ、鉄壁は目を閉じた。
(寒い…)
宥の震えは強くなった。そして彼女は感じる。訪れてしまったと。
その時、積倉は本日二度目となる『確認』をした。
「12時、14分……【満潮】…」
四本場、その言葉と共に、彼は牌を曲げた。
「ツモ。16400オール」
三四五五③③④④[⑤][⑤]34[5] ツモ 赤五萬 ドラ 五萬 裏ドラ ④筒
東1局四本場
積倉 210500(+49200)
染谷 61700(-16400)
鉄壁 65300(-16400)
宥 62500(-16400)
後半戦、東1局にして、勝敗は誰の目にも明らかだった。
◆
【解説室】
「決まったーーーッ!積倉選手、爆発の16400オーーールッ!これはもう他校は絶望かー!?」
こーこちゃんの割れそうな声が部屋に響く。相変わらず、こーこちゃんの実況は抑揚が無いというか、ずっと上がりっぱなしで、聞いてるだけで疲れる。
「これはもう白糸台の優勝で決まりでしょうか?小鍛治プロ」
「あ、はい。さすがに今の役満は大きいですね。彼の言う、満潮の完成でしょう」
「でも、前半戦では宣言してもあっさり終わっちゃいましたよね?」
「あ、それは前半戦の時も言ったけど、松実宥選手の特性が彼の満潮打法にノイズを加えていたから。今はそれを考慮して打っているからそれもないです」
「てことは、結局小鍛治プロの期待していた鉄壁選手も、もう駄目な感じでしょうか?」
「彼も彼なりに抵抗はしていたようですが、さすがにここまでの流れを造られてしまうと、さすがに厳しいですね」
「おーと!ここに来てついに小鍛治プロの予想が外れてしまったー!意気消沈の残念顔をお見せ出来ないのが残念です!」
「ちょ、ちょっと予想って、あの時オンエアしてなかったよね!?それと、残念顔なんて言うのやめてー!」
似ている。卓を包んでいる空気、雰囲気が、あの鬼の巣に。
狩る者と狩られる者、奪う者と、奪われる者。
今、積倉手数の造り出した流れは、他の三人を呑みこんだ。状況は、傀君や松実さんの生み出す状況に近い。対峙している三人は今、冷たさの中にいるはず。
もしかしたら、松実宥がそれをすると思ったけど、どうやらそれもなさそう。妹の方が、母の血が濃かったのだろうか。
私はいつか、あの状況に立ち向かわないといけない。
あの人に勝って、これまで助けることが出来なかった人たちに対する罪悪感が祓われるとも思えない。でも、前に進むためには、そうするしかない。そんな気がする。
局は進む。
このまま、白糸台の優勝でこの大会は終わりを迎えるのかと思ったその時、状況は意外な方向に進んだ。
◆
もう、松実宥の『赤い牌』は無い。
積倉が役満をあがり、5本場、6本場と連続で和了した頃には、もうその場の誰もが確信していた。勿論、彼女自身もである。
赤い牌とは、単に赤色を含む牌が彼女に集まりやすい、というだけのものでは無い。彼女自身の手は勢い、覇気、そういった類のものは既に無く、凍りついていた。イーシャンテンどころか、リャンシャンテンになることも困難。そういう状況。
彼女には触れる牌すらも冷たく思えた。触れた指さえ凍るような感覚。その冷たさは、腕、肩、首、胸と広がって行き、吐く息どころか内臓さえも凍る思いが、彼女を包んだ。
(寒い…)
彼女の心の声すらも震えていた。
赤土晴絵の予言は、訪れてしまった。
二位との差ですら約20万の点差がある。まだ東場、南場と残っており、そもそもまだ次鋒であるが、積倉が見せつける流れは、他を絶望させるに十分であった。
はずだった。
積倉はその者の表情を見て疑問に思う。何故だ、と。
松実宥では無い。彼女は震えている。
鉄壁保では無い。彼の表情は硬い。
染谷まこである。彼女だけ、この状況下において平然としている。表情にも、動きにも淀みは無い。
何故だ。
そう思いながら積倉は微笑む。興味深い、と。
何故彼女だけ違うのか。それが知りたかった。
これから彼女は何をするのか。それを見たかった。
彼は期待を胸に、リーチ棒を場に出した。
(さあ。僕のこの満潮を、どうするんだい?清澄…)
そのリー棒に対する染谷の答えは、鳴きでも、不可解な打ち回しでも無かった。
「リーチじゃ」
追っかけリーチであった。
(リーチ……?張れる、というのですか?この状況で)
次巡。ツモ和了をみせたのは積倉では無かった。
「ツモじゃ。4700・8700」
(な……に…?)
あっさりと倒されたその手を見て積倉の表情は一瞬固まった。その手は、自分の手と殆ど変らない、満潮の形であった。
偏りのない、純粋な両面の平和の形。
(偶然か?それとも…)
彼はそれが偶然では無いことを、次局彼女に親倍を振った時に知る。
その局も彼の勢いが落ちたというわけでは無かった。先制リーチも打つことが出来、待ちの形、手役の大きさ、共に異常は無かった。だが、ツモ和了ること無く、振り込んだ。不可解でも不自然な形でもなく、自然な形への振り込み。
(何が、起きている?)
染谷まこの自然な和了。しかし、彼の哲学には無い不自然な状況。これはなんだ。彼は思考する。
彼が思考するとほぼ同じころ、鉄壁はすでに答えを出しつつあった。
鉄壁は、彼女の過去の試合を思い出す。その中で、この状況に近い対局を検索し、そしてヒットした。
それは、長野県大会決勝の次鋒戦である。
その次鋒戦は、先鋒戦、傀が作り出した圧倒的流れが、他校に移ってしまった対局であった。その対局では、染谷まこは20万点以上点数を吐き出した。
彼女は、現在の卓上と似た過去の対局を引き出すことが出来る。そして、その状況に感性で対応できる。
これは『既に経験した対局』。『つまりはそういうこと』。
そう鉄壁は結論付けた。
(あの時に比べれば、今回は大したことはないのぉ。)
鉄壁の推察は半分以上的中していた。だが
(あの時は『傀が三人おった』からのぉ…)
染谷が経験していた『流れ』は、その三倍であった。
満潮を作る『過程』は染谷はまだ経験していなかったが、満潮が生み出す結果は、既に彼女は経験していたのだ。
(この『流れ』は、場をかき混ぜて歪ませてっちゅうのは効かん。じゃが、自分もその『流れ』に同化できりゃあ……)
「ロンじゃ!36300!」
海の底に根を張る生物のように、彼女に『満潮』は意味を成さなかった。
(これが……全国区ですか…・・・面白いです……本当に、実に興味深い……)
「ここに来て……良かった……」
積倉は笑みをこぼし、小さく呟いた。
東2局 2本場 終了時
積倉(北家) 190800
染谷(東家) 125000
鉄壁(南家) 43500
宥(西家) 40700
(何てことだ……完全に見落としていた……)
異能に偶然など無い。
(十分予期できた状況じゃないか……何故見落としていた…。ちょっと考えれば、満潮において起きる状況と、傀が造り出す状況は似ていることくらい分かるじゃないか。なら……何で『染谷まこが【傀】に負けた試合』にもっと注目しなかったんだ…)
彼は積倉の弱点、穴ばかりに注視していた。そして【松実宥】という答えを見つけてしまった。見つけることが出来てしまったが故に、もう一つの答えを見つけることが出来なかった。
彼は自嘲する。
爆岡を攻略できたと天狗になっていた自分を。
答えを見つけることが出来た自分を。
だが、本当は自分はまだ何も見つけていない。
自分は麻雀の二割どころか、一割も理解できていない。
「何が、『麻雀で一番強い奴』だ!」
彼は心の中でそう叫んだ。
彼は瞳を閉じ、ゆっくりと、深く呼吸した。
その後、両頬を力強く叩き、開いた。
(………でも、今、何が大事なのかはわかっている。これから僕がどう打つか、それが大事なんだ)
自分がこれからどう打つか、彼は既に答えを出している。
その彼の目を、積倉は見た。
(雰囲気が……いや、空気が変わりましたね…。それも、彼の周りだけじゃない。場、全体の空気を変えました。これが……去年個人戦優勝者ですか……)
東2局2本場。積倉と染谷の配牌は満潮のそれを表していた。
(これまで経験したことの無い現象ですが、どうやら満潮は二人居る、と思っていた方が良いようですね)
積倉は打ち方を変えるということはしなかった。
積倉は満潮後、染谷が和了した局を思い出した。染谷の待ちはどれも、自分が待っていた色と同じであった。彼は、鉄壁の支配色の定義から、自分も染谷も『好調者』であると結論付けた。
(つまり、僕の満潮は消えていない)
二人の満潮において起きる現象は未知数だが、彼はシンプルに和了するものは、二人に一人、二分の一と推測した。
(点差は十分あるし。このまま進み、この推測を確かめに行くことにしましょう。してはいけないことは、自分から満潮を崩してしまうことです)
その局も、二人は牌を曲げた。
(来た……。でもこの局、僕のすることは一つだ)
そして鉄壁は、それを受けた。
一枚、二枚、三枚と、彼は『壁』を河に造った。
彼の河に並ぶのは『壁』『壁』『壁』。
絶対に振り込まないという意思が、そこにあった。
当然、ツモ和了を主流とする満潮打法に対してはまったくの意味の無い行為である。
壁を造り、振り込まない意思を見せようとも、積倉や染谷はただツモるだけである。
はずなのだ。
だが、鉄壁の河には壁が並ぶ。
次巡も、そしてさらに次巡も。
積倉も、染谷もツモ和了を見せず、河には彼の壁が次々に並ぶ。
まるで押し寄せてくる波を、防波堤が塞き止めているかのように。
(なんじゃあ……こりゃあ……)
(これは…面白い……)
オカルトを超えたオカルトに、二人は驚愕した。
(意思……ですか……)
積倉は、八崎真悟が去年、県予選個人戦にて優勝した際、WEEKLY麻雀TODAYのインタビューにて言った言葉を思い出した。
―――麻雀にあるのは流れなどではなく、意思だけだ。
その言葉が意味している状況と、今の状況が同じものである、と言うわけでは無いが、意思の力は時として、麻雀の理を捻じ曲げることもある。そう、積倉は思っている。偶然などとは考えない。
(そう考える方が面白いですし、なにより楽しいですからね)
流局。
誰もが予想もしなかった結果が、そこにあった。
(助かった…。満潮が二人の状況下で起きる現象はまったく予想がつかない。なら、ここは…耐えるしかなかった。少なくとも、一人の独壇場は無くなったし、流れも完全と言うわけでは無いようだ…)
彼はホッと一息付き、牌を手前に倒し、ノーテンを宣言した。
(今のは……【爆守備】……)
凍りついた手を手前に伏せ、同じくノーテン宣言をした宥は、晴絵の言葉を思い出した。
(爆守備。それは吹雪を真正面から受け止め、それでもいつか過ぎ去るのを待つ、雪原に一人立つ針葉樹のようなもの。そう先生は言っていた)
その局、血の出るような気持ちで打ち出された一つ一つのその牌は、切られたたびに宥の胸を叩いた。
(寒さの中を生きる……生きている……)
―――お母さんの手は、冷たくなんか、なかったよ……
―――その冷たさには、先がある……
(玄ちゃん……)
頭に妹の声が過る。
彼女の全身は氷のように冷たい。まるでかつての、そして『あの時』の母のように。
だが今、胸の奥に、微かな温かさを感じ始めていた。
冷たかった母。でも優しかった母。
冷たい手。でも温かい言葉。
冷たい風。でも、生きている命。
冷たい麻雀。でも……母は……
◆
東2局 流れ3本場 ドラ 中 親 染谷
4巡目 南家 鉄壁 手牌
②②⑥⑦12567899 ツモ 3索
北家 積倉 捨て牌
⑧七六
東家 染谷 捨て牌
(積倉は索子に寄せている。清澄は、筒子…。僕のツモが索子……支配色は索子。二人満潮現象に歪みが生じている……)
鉄壁 打 ⑥筒
同巡 積倉 手牌
二四③④234[5]568中中 ツモ 7索
(さすがに、ちょっと潮が引き始めましたね)
積倉 打 四萬
鉄壁も、積倉も手牌を索子に伸ばし始めた。
8巡目、先に聴牌したのは鉄壁だった。
112334567899② ツモ 2索 打 ②
(流れは、来ている……)
3、6、9索の聴牌。手替わりもある手であり、当然リーチはかけなかった。
次巡、彼は1索をツモり、選択を迫られた。
2索を切り、九蓮を含む待ちにするか、待ちの数の多い9索切りを選択するか。
(清澄が9索を一枚切っている。積倉は持っているだろうか。どの道、アガリにかけるなら9索切りだけど……)
彼は打2索を選択した。
(やはり、ここは32000が欲しい。ここは、チャンスな気がする……)
1巡遅れて、染谷も聴牌した。
③④[⑤]⑤⑧⑧⑧白白白発発中 ツモ 赤 ⑤筒 打 中
積倉 手牌
2344[5]567788中中
染谷から切り出されたドラ。鳴けば聴牌だが、彼はこれをスル―した。
(歪みのある状況では鳴きません。この手は門前で仕上げます)
目的通り、彼は門前のまま手を完成させた。
11巡目、彼は6索をツモり、打2索 聴牌。
344[5]5667788中中
(う…打9索ならその2索を…)
鉄壁に後悔の時間も与えず、染谷は④筒をツモり、打③筒で、さらにリーチをかけた。
④④[⑤][⑤]⑤⑧⑧⑧白白白発発
(これは攻めれる流れじゃ。臨海や阿知賀からは出んじゃろうし、ここはツモか、攻めてくる白糸台からの出アガリじゃろう)
そして、鉄壁のツモ番。
ツモって来た牌は、3索。
(まずい……。打ち取っていた2索……ツモっていた3索……清澄のリーチ……一度あがりを逃した上に、この3索はおそらく積倉のあがり牌……)
彼は2索に手をかけた。
(後手を踏んだ。ここは、九蓮を崩す!)
そもそも、この局にもう自分の和了は無い。そう鉄壁は受け入れた。
しかし、次巡、染谷から5索が切り出される。
(ん…、まだ手はあるか…)
「チー」
鉄壁 打 8索
1113356799 チー534
あがるための鳴きでは無かった。あくまで目的は積倉のツモをずらす。それだけであった。
(今の鳴きは…おそらく正解ですね)
その通りであり、次巡に本来なら彼はツモ和了を決めていた。
掴んだのは染谷まこ。9索。
(流れを、信じすぎとったかのぉ)
悪寒はあったが、彼女は切るしかなかった。
「ロン。8900……」
あがったのは鉄壁。
(頭跳ね、ですから倒せませんか……。これは、取られましたね……)
東2局 流れ三本場
積倉(北家) 191300
染谷(東家) 116600(-8900)
鉄壁(南家) 52900(+8900+1000+1000)
宥(西家) 39200
その和了は、彼女…松実宥にとって決定打だった。
たとえ不運に見舞われても、自分のミスによって流れを失っても、折れない。
その闘牌は、強く彼女の胸を打った。
ドクン。
大きな音が、胸の奥で鳴った。そんな気がした。
殻が今、破れた。
奥から溢れてくる温かさの潮流が、彼女の全身に広がって行く。
その熱と共に、彼女の頭の中にあった、キーワードが一つずつ、繋がっていった。
冷たさ。
温かさ。
母。
生命。
麻雀。
そして……
東3局、流れを掴んだ鉄壁は連続で和了を見せた。
積倉からも二度直撃を成功させ、その点を10万まで戻した。
そんな中、宥はじっと耐えていた。凍ったままの手牌を抱えて。
そして待っていた。
だが、それは鉄壁のように寒さが過ぎ去るのを待つ、と言うだけものでは無かった。
命を刻む時。
その時を、静かに、ただじっと待っていた。
そして、東3局三本場、『その牌』がついに、河に置かれた。
「ポン!」
彼女は………哭いた。
牌が、青白く閃光った。
染谷まこは、目を見開き、彼女を見た。
それは、まぎれもない『竜』だった。
哭きの竜が、そこにいた。