水精霊との邂逅から一ヶ月、あれからグラムは水精霊に一度も会えないまま日常を過ごしていた。
あの日から何度もラグドリアン湖まで赴いたのだが、どう呼びかけても一向に出てくる気配はない。
今の所、水精霊を確実に呼び出す事ができるのは伯爵だけなので、彼に頼む事も考えたが、転生云々の話を父親に聞かれる訳にはいかなかった。
そんな訳でなす術無く悶々とした日々をしばらく送っていたのだが、人間とは不思議なもので、次第にその事を考える時間が少なくなっていき、何も進展しない現状に段々と興味も失せていってしまい、一ヶ月を過ぎた頃にはもうその疑問は頭の隅にまで追いやられてしまっていた。
確かに気にはなるが、水精霊に会えない今の状態じゃ考えても仕方がない、また何か進展があった時に考えよう、といった感じだ。
そうしてある程度の頭の整理がついた頃の朝、半月ほど前に学院に入学したフレイからグラム宛てに手紙が届いていた。
他に家族全体に宛てての、現状報告の手紙も同時に届いていたのだが、なぜ俺個人にもう一枚来るんだろうかと疑問に思いながら、グラムは現在自室で受け取った手紙を読んでいる。
手紙の内容は、学院にカトレアが一緒に入学してきた事に始まり、最初はそれにフレイも喜んだのだが、その美貌、人格、家柄、メイジの格やプロポーションのどれをとっても非の打ちどころがなく、入学して数日で瞬く間に人気者になってしまったとの事。
初日で同クラスの男子の多くが心を射抜かれてしまい、彼女の周りには常に付き従うように人が群がっているらしい。
その後他クラスは勿論、上級生までアプローチを仕掛けて来て、競争率がとんでもない事になっているのだとか。
本来嫉妬深いはずのトリステイン女性貴族も、その慈愛に溢れた笑顔や包容力にことごとくやられてしまい、『あの方ならば仕方がない』と言って諦める人もいれば、『お姉様』と呼び慕う女子も出てくる始末。
そんな訳で、彼女に近づく事ができない。自分はどうしたら良いだろうか? などと言った相談が、最後にグラムに向けて書き添えられていた。
その手紙を読み終えたグラムは、最後の一文にパチパチと目を瞬かせた。
それからフレイの真意を読みとったグラムは、苦笑して困ったように首を傾げた。
いや、兄様、どうしたらいいかって聞かれてもどう答えていいか困るのですが。
それ以前に7歳の弟に恋愛の相談を持ち込むってどうよ?
男のプライドとか、そう言った物が、ほら、ねぇ?
突っ込みたい事はグラムの頭の中に山ほど浮かんだが、取りあえずそれを仕舞い込んで、ペンを持って返事の内容を考える。
思わず『そんな事弟に相談する暇があったら、とっととカトレアさんにアプローチしてこい!』と書きそうになったが、ぐっとこらえて、こらえ切れなかった分をオブラートに包んで書く。
――前々から少しは面識があった分、自分の兄はある程度有利な状況にあるはずなのだ。
実際自分の兄の顔は悪くない、むしろ良い方なのに、いつも頼りなさげな顔をしているからそれが損なわれてしまっている。
性格だって弱気だが、裏を返せば優しいという事だ。
魔法の腕だって悪くないんだから、もっと自分に自信を持って、思い切って話しかけてこい。
と言った様な内容を書いて、伝書鳩に返事を括りつけて送ったが、あの程度でどうにかなるなら苦労はしないんだろうなと、グラムは飛び去っていく鳩を眺めながら思った。
その後、部屋に立てかけられていた杖剣を引っ張り出して、グラムは裏庭に向かった。
この一ヶ月、水精霊に対する疑問で頭がいっぱいになる事もあったが、剣や魔法の訓練も毎日欠かさず行っていた。
最近グラムは、自分で作った半自立機動型ゴーレム相手に演習のような事もしていた。
だが、まだまだ未熟なその姿は、客観的に見れば子供のチャンバラ遊びの様に見えるかも知れない。
そんな中、今日は一つある事を試してみようと思っていた。
昨日息抜きにスケートをしている時に閃いたもので、『移動法にスケートを使いながら戦う事は出来ないか?』というアイディアだった。
その気になれば普通に走るよりも速く移動できるし、足場を氷に変えてやれば、自分に有利な状況に引き込めるのではないか、という思惑もあった。
小回りが利かなくなるなどの欠点も出てくるだろうが、とにかくやってみようという事で、グラムは裏庭に到着した。
「“氷結”」
いつも氷を張っている場所に、今日も同じように呪文を唱えて杖剣を振り降ろす。
グラムがラインメイジになった事で、この“氷結”の魔法には、同時に“固定化”の効果も付与できるようになった。当然ラインスペルである。
普通の“氷結”よりは詠唱が長くなるが、二つの魔法を別々に唱えるよりも詠唱が短く済むので、グラムはこの詠唱を率先して使っていた。
続いて靴の裏に“錬金”で刃を取り付け、氷の上を滑って中心まで行く。
取りあえずゴーレム相手に斬りかかってみようかと思い、氷の張っていない所に自分と同じ位の大きさのゴーレムを生成した。
少しだけ“硬化”魔法の付与をされた、ただの土ゴーレムを、自分の1メイル程前まで来させる。
そこでグラムはゴーレムに向かって剣を構え、次いで氷を滑ってそのゴーレムに近づくと共に剣を振りかぶると、すぐに振り降ろした。
結果、ズボッとゴーレムの頭部に杖剣が少しめり込んだが、グラムがそこから更に切り崩そうと足に力を入れると、そのままツルリと氷を滑って転んでしまった。
ゴーレムの前に、前のめりに倒れ、それから「いってぇ!」と言いつつ氷の上を2,3回転げ回った後、グラムはぽつりと呟いた。
「あー、そりゃこうなるか……」
氷の上なのだから、敵を斬る際に必要な、足に力を入れる事ができないのは当然である。
なんでこんな事に気付かなかったんだろうなぁ、とグラムは仰向けに寝転がったまま呟いた。
何にせよ実験は失敗である。
グラムは諦めて氷を元に戻すと、中庭に戻って普通に訓練をする事にした。
――――――――――
―――――――
――――
「――第四中隊の定期報告は以上です」
「そうか。御苦労」
「はっ、では、失礼いたします」
モンモランシ私設軍第三大隊第四中隊長のガンツは、伯爵への定期報告を終えると一礼してその執務室を後にした。
短い赤髪と、鷹のような鋭い碧眼、日焼けした浅黒い肌を持つその姿は、190サントを超える体躯と相まって、見るだけで常人を怯ませてもおかしくはない。
しかし、彼が腰にさしているのは杖ではなく剣。それも杖剣などと言う類の物ではなく、魔法の発動体とならない何の変哲もない剣だった。
これはモンモランシ軍とモンモランシ家の人間、及び使用人の間ではそれなりに有名な話だが、彼は貴族以前にメイジではない。
通常の軍では、圧倒的なメイジ不足の時に、稀に非メイジが小隊長に抜擢される程度で、非メイジが中隊長以上になるとすれば、それはほぼ不可能だろう。
しかし、三十代半ばの彼がそれを実現している所を見れば、その実力と伯爵の信頼が異常な物だとわかる。
ましてやここはモンモランシ軍である。
ここモンモランシ領は、領の南西はラグドリアン湖に面しているが、南東はガリアのオルレアン公領と隣合わせだ。
それはつまり、ガリアとの戦争になれば、このモンモランシ領はその最先鋒に立たされ、平時も国境に軍を配備しなければならないという事。
それゆえに、このモンモランシ家はかなり大規模な軍隊を持つ事が許されており、その軍の練成具合もそれなりに有名である。
それを考えれば、その軍の中隊長に平民が就任し、尚且つ軍が荒れていないというのはまさに珍事だと言えるかも知れない。
当然、彼に対する風当たりはとても強い。
それでも伯爵の後ろ盾もない訳ではないが、その役職を繋ぎとめているのは彼のカリスマも関わっている。
それだけに、ガンツの実力もまたその名に負ける物ではない。
傭兵時代は数々のメイジをその剣で屠り、凄腕のメイジ殺しとして『赤狼』と呼ばれ、戦場で恐れられていた事もあった。
今ではその事は、傭兵達に伝説として語り継がれているが、大体の貴族は「平民の妄想だ」と言って信じていなかったりする。
そんな彼は、がっちりと鍛え上げられた体を揺らし、見る人が見れば全く隙が見つからない動きで正面玄関から外に出た。
私設軍本部は、ここから馬で3分も走れば着く事ができる。
置いてきた自分の馬の所に戻る為、馬小屋に向かって歩き出そうとしたが、あるものが目に入り、ガンツは足を止めそちらへ目を向けた。
その視線の先では、金髪翠眼の少年が、普通より一回りも二回りも小さい剣を持ち、上から下へ素振りをしていた。
ある程度剣の教養がある者が見れば、それは太刀筋が滅茶苦茶で構えも間違っており、ただの子供の遊びか素人のようにしか見えないだろう。
しかし、ガンツはその様子を見て少し不思議そうな顔をすると、丁度傍を通り過ぎようとしていたメイドに声をかけた。
「あぁ、失礼、そこのメイド、あそこにおられる方は次男のグラム様で間違いないか」
「え? あ、はい。グラム様で間違いありません。少し前からああやって剣の稽古をしているんです。やっぱり男の子なんでしょうね」
にっこりと笑って答えたメイドに彼は礼を言うと、素振りを続けているグラムに再び目を向けた。
ガンツの目に映るグラムは、普通の子供とは少し違っていた。
貴族が剣の稽古をしているだけで随分と奇妙ではあるが、彼の感じた違和感はそう言った事ではない。
一心不乱に剣を振り、真っ直ぐに前を睨みつけるその眼が、何か明確な目的を持っているように――どこか未来を見据えているようにガンツは感じられた。
別に、目的を持って剣術を鍛える人間なら、ガンツは今まで何人も見てきた。
しかし、彼の目に映る少年はまだ7歳のはずだった。
そんな子供が、何か明確な目的をその眼に宿して剣を振る所など、彼は未だ見た事がない。
少し、興味が沸いた。
「グラム様」
グラムの素振りが一段落したころ、ガンツはグラムに声をかけて近づいて行った。
声に気付いて、グラムが顔を向けると、ガンツは一礼した。
「あなたは確か、私設軍の“赤狼”のガンツさんでしたか?」
一メイルはあろうかという身長差で、グラムはガンツを見上げて首を傾げた。
それを見てガンツはますます興味が沸いた。
普通の子供なら、ガンツの風体や低い声に少なからず怖がるか怯むはずだった。
それくらい自分は厳ついとガンツは自覚していた。
しかし、目の前の少年はそんな素振りは全く見せない。
「名前を覚えて頂けていたようで光栄です。あなた様の剣を振る姿に興味が沸き、僭越ながら声をかけさせて頂きました」
そのガサツな雰囲気とかけ離れた至極丁寧な物腰で、赤髪の大男はそう言った。
もっとも、本来の彼は概ね見た目通りの人物だったりする。
今の彼の物腰は、誰かに仕えるという立場に就いてから身に付いた仮初の物だった。
「そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ。お互い気疲れしますし。それで、興味が沸いたというのは一体?」
見かけ以上に大人な対応と声色に驚きつつも、ガンツは言葉を続けた。
「はい、グラム様が剣術を鍛えている目的は一体何なのかと」
「目的? 目的ですか。うーん……」
ガンツの質問を聞いたグラムは、頭に手を当てて唸り始めた。
やがて、その唸り声が収まると、グラムは難しそうな顔をしながら再び口を開いた。
「……自分がしなければならない事をできるようになる為、でしょうか」
「しなければならない事……? それを為すために、剣術が必要だと?」
「まぁ、剣術じゃなくても、戦闘技能が身に付けば何でも良いんですけどね。実際魔法も鍛えるつもりですし」
“戦闘技能”という言葉に、ガンツは反応した。
半分解ってはいたが、この少年はこの年で、チャンバラなどとは違う純粋な戦闘力を欲している。
この翠緑色の眼が本当に未来を見通しているのだとしたら、その力を使って為そうとしている事は一体何だろうか?
「……して、その“しなければならない事”とは何なのでしょうか?」
それを聞いたグラムはまた悩み出した。
ただ、今度は『答えを考えている』と言うよりは『答えを話そうか迷っている』ようにガンツの眼には映った。
「笑わないでくださいよ?」
話そうと決心したのか、グラムは上目がちにそう聞いてきた。
ガンツがゆっくりと頷くと、それを確認したグラムはガンツをまっすぐに見て口を開いた。
「仲間と世界を守り、助ける為です」
その答えに、ガンツはしばし呆気にとられた。
『仲間を助ける』というのはまだ良い、だがこの少年は『世界を守り、助ける』と、まるでヒーローに憧れた子供が答えそうな言葉を発したのだ。
――そんな無垢な子供がする様な目とはかけ離れた眼差しを彼に向けて。
「……くく、くはははははは――」
気付けばガンツは笑いを噛み殺していた。
決して嘲笑ではない。
この子供がこんな眼をしていなければ、何もおかしい事はなかった。
剣を振っているのも今の言葉も、子供の憧れとして一笑に付す事ができた。
この世界を一体何から守るのだと、そもそもの前提条件を突っ込む事もできたのだ。
だが、その眼がそれを許さなかった。間違いなくこの少年は“現実”を見ていると、ガンツにははっきりと解った。
まるで、本当に将来この子供が世界を何かから救ってしまいそうな気がして、そう感じた自分が可笑しくて、また、楽しかった。
「ちょっと、笑わないでくださいって言ったじゃないですか!」
くつくつと声を漏らすガンツに向かって、グラムは若干引きながらも抗議の言葉を口にした。
ごつい体を揺らしながら、厳つい顔に手を当てて笑いを押さえつけるその姿は中々に不気味で、それを見たグラムも平気では居られなかったらしい。
「あぁ、すいません。グラム様に向けての笑いではないので」
ようやく笑いが収まったガンツの言葉に、グラムは「分からない」とでも言いたげに首を傾げた。
そんなグラムに、ガンツは最後になるであろう質問を投げかける。
「先程『世界を守る』と仰いましたが、それは一体何からでしょう?」
「あー、正直わからないです」
グラムが頬をポリポリと掻きながら、目を逸らしてそう答えた。
正史から外れた今の世界では、どのような危機が来るのか、それ以前に来るのかどうかもグラムには予測不可能だった。
自然災害である“大隆起”は確実にくるだろうと思ってはいたが。
そんなグラムを見ても、ガンツの確信は揺るがなかった。そして心の中で思う。
この少年の将来に一枚噛んでみるのも悪くないかも知れない、と。
故に、彼はある一つの申し出をする。
「あなたの剣術、私がご教授させてもらってもよろしいですか?」
「え? いいんですか教えてもらっても!?」
ガンツの言葉を聞いた途端、グラムは目を輝かせて彼に詰め寄った。
“赤狼”の噂はグラムも聞いた事があったのだ。
その本人から剣術を教わる事ができるのならこれ以上の事はない
「あ、でも父様の了解が取れるかどうか……」
「私が伯爵様に頼んでみます。おそらく承諾してくださるかと」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
それからグラムは自分が必要以上にガンツに迫っていた事に気付き、慌てて距離を取った。
次いで、何か思いついたかのようにガンツを見上げる。
「じゃあ、早速ですけど、さっきの素振り見てましたよね? ちゃんと形になってましたか?」
「そうですね――」
これから剣を教える相手に、お世辞を言う必要はないだろう。逆にそれは失礼に値する。
何より、この人物になら言っても癇癪を起こしたりはしないだろうと、今までの会話から確信していた。
その顔をニヤリと歪め、一種凶悪とも取れる顔をして彼は答える。
「――構えも振りも無茶苦茶。基礎体力も筋力もまだまだ無いでしょうし、正直お話になりません」
全否定を宣告されたグラムは「うっ」と呻いて頬をヒクつかせた。
「一応指南書を見て訓練してたんですけど、そんなにダメでしたか?」
「えぇ、ダメダメです。指南書が悪かったか、グラム様の解釈が悪かったか……おそらくどちらもでしょう」
再びの辛辣な言葉に、今度はグラムは「ぐぅ」と音を上げると軽く俯いた。
「心配はいりません。私が全て矯正してみせましょう」
「……ならばこちらからも一つ!」
ガンツの言葉を聞いていたのかいなかったのか、グラムはバッと顔を上げると、挑む様な視線を向けてそう言った。
「その顔や風体に敬語は全く似合いません。あなたはこれから僕の剣の師になるんですから、その薄気味悪い態度はやめていただきたい!」
今度はガンツが顔をヒクつかせた。
「……薄気味悪いとは、まったくもって人聞きの悪い」
「いや、だって似合ってないんですもん。それも壊滅的に」
ガンツの表情を見たグラムは、まるで子供が悪戯に成功した時のようなしたり顔でそう言った。
ちょっとした仕返しのつもりだったのである。
それを悟ったガンツは、先程とは別の意味で「クククク……」と笑い始めた。
「……肝っ玉だけは立派なようだな。みっちり鍛えてやるから覚悟しておくように」
「えぇ、これからお願いしますね。“師匠”」
獲物を見つけた猛禽類のような顔をするガンツにグラムは内心竦み上がったが、何となく負けたくなくて無邪気な笑顔を捏造してそう返した。
早速伯爵と話を付けるため、ガンツは背を向けて再びモンモランシ邸へ歩いて行く。
そんなガンツは、後ろから発せられた「うっわー、怖ぇー」という小さな声と、地面に腰を降ろす音を聞き逃さなかった。
――――――――――
―――――――
――――
夜、空にかかった雲が不規則に双月の光を遮り、それに伴って外の景色をうっすらと見え隠れさせる。
ハルケギニアの夜は暗い。
主な光源となっている月光が頼りないのならば、それは尚更だった。
そんな薄暗闇の中、ヴァリエール邸の一室で天蓋付きのベッドの上に寝転がっていたルイズは身を起こした。
――寝られない。
カトレアの快復記念にトリスタニアへ行った日を最後に、ルイズの行動範囲は大きく制限されていた。
あれから約一ヵ月、一日の大半を屋敷の中で過ごす生活を強いられ、アンリエッタやグラムやモンモランシーとは手紙を交わしてはいるものの、一度も直接会ってはいない。
そんな生活にいい加減ルイズは辟易していた。
これほど退屈な日々を送っていては、遊び盛りの7歳の体は夜中に覚醒してしまう事も少なくはなかった。
少し散歩でもしようと思い、ルイズはベッドの端に腰かけるとその細い脚を履き物に滑り込ませた。
暗く広い廊下に、足音も無く素早く進む黒い影が一つ。
夜闇に紛れるように全身を黒い装束に包んだその人物は、周囲の気配へ念入りに注意をしながら足を進める。
いつでも魔法が使えるように杖を握りながら、その影は雇い主から言い渡された今回の標的の特徴を頭の中で反芻する。
――ピンクがかったブロンドの髪をした7歳の少女――
この暗闇の中では髪の色は判別しにくいが、この屋敷には子供らしい子供はその標的しかいないので問題はない。
客人も今日は来ていないはずだ。
巨大な屋敷のとある一室に向かって、それは一直線に歩を進める。
その様は異様に静かで、外から虫や蛙の鳴き声が聞こえるのみ。
ふと、その人影は足を止めた。
前方に耳をすませる。
そのまま待つと、前から足音が聞こえてくる。
歩幅は小さい。
もう一度その影は周囲の気配を探る。
前方から来る者以外他に人はいない。
それを確認すると、その人物は廊下に置かれていた像の陰に隠れた。
足音の主が徐々に近づいて来て、その像の前を通り過ぎる。
歩幅から想像した通り、像の陰から見えたその姿は小さかった。
そう分かった瞬間、その影は少女の斜め後ろから飛びかかった。
それと同時に、わずかに顔を出した月が、窓越しにその少女を仄かに照らす。
その目に映ったのは金と桃色の中間とでも言うような色。
確信を持ったその影は空中で“ブレイド”を唱え、杖に纏わりつかせる。
標的がその光に気付いてこちらを向き目を見開くが、もう遅い。
その命を絶つべく、その影は杖を持った腕を振り降ろした。
瞬間。
ルイズの背後から、ブオオォ、と突風が吹き、それは器用に襲撃者だけを後方へ吹き飛ばした。
同時に、廊下に備え付けられた魔法仕掛けの灯りが点く。
襲撃者は床に叩き付けられる瞬間、受け身をとって素早く立ち上がった。
今まで全く他者の気配を感じられなかったにも関わらず、接近を許していた事に動揺しつつもその人物を確認しようとするが、いきなり点いた強い光に目が眩んでよく分からない。
その刺客が必死に見ようとしているのは、ルイズと同じ色の髪をした、現在公爵家を取り仕切っている存在。
「ユビキタス・デル・ウィンデ……」
カリーヌはルイズを一瞥して無事を確認すると、一瞬でスペルを紡いで二体の“遍在”を作り出した。
それらをルイズの守護に当て、本体は更に呪文を詠唱する。
これだけの事を、彼女は敵が灯りの強い光に眩んでから立ち直るまでの僅かな間に成し遂げた。
明かりの下に晒された全身黒づくめの刺客は、回復した視界の中でスペルを紡ぎだすカリーヌを捉える。
それを見て慌てて詠唱を開始するが、それで彼女の詠唱速度に追い付ける筈がない。
カリーヌの突き出した杖から風の刃が放たれるのを見て、刺客は詠唱を中断し横へ跳んで回避した。
しかし、
「なっ!?」
一瞬前までその刺客が居た所まで風の刃が到達すると、そこでその刃は唐突に向きを変えてその刺客の軌道を追いかけた。
それは正確にその両脚首の腱を切り裂き、刺客から驚きと苦悶の声が漏れる。
低い声から男だろうとカリーヌは当たりを付けた。
足を切られ、着地する事ができずに、その男はゴロゴロと廊下を転がった。
横たわったまま自分を切り裂いた女の方へ顔を向けると、彼女は警戒しつつゆっくりとこちらに近づいて来ている。
その身に一分の隙も見受けられない。
――聞いてないぞ!
刺客は心の中でそう叫んだ。
なぜ公爵夫人がこれ程の戦闘力を保持している。
一瞬の内に“遍在”を作り出し、尚且つ次の手に移る早さ。
“エアカッター”を放った“後”で、寸分の狂いもなく操作し敵に当てる正確さ。
どれをとっても常人のそれではない。
いや、スクエアの中でもそうそういない。
しかも、おそらくは始めから自分を生け捕りにするつもりだったのだろう。
そしてたった今この夫人は、腱を切るという必要最低限の怪我でそれを達成しようとしている。
化け物じみている。
一瞬の嘆きを中断し、その男は次の思考に移る。
彼我の実力差は圧倒的。
しかしこのまま自白剤で洗いざらい吐かされては暗殺者の名折れ。
ならば、と刺客は杖をカリーヌに向けた。
それに対し彼女は防御の為に一瞬動きが止まる。
しかし、それはその男のフェイント。
その一瞬の隙を突き、その暗殺者は“ブレイド”を唱える。
その意図に気付いたカリーヌは一気に距離を縮めて取り押さえようとするが、それより早くその男は自らの喉をかき切った。
血を吹き出しながらその男は少しの間痙攣し、その後動かなくなる。
物言わぬ死体となったそれの傍まで辿りついたカリーヌは男が死んだ事を確認すると、もうその様には目もくれず、しばらく他に敵がいないか周囲に全神経を張り巡らせていたが、やがて敵がいないと解るとため息をついて杖をしまった。
「何事ですか!?」
次いで、明かりと物音に気付いて屋敷の衛兵が数人駆け込んでくる。
「あなた達は一体何をしていたのです!? 侵入者を許すなど言語道断!!」
それにカリーヌは鬼のような形相をして怒鳴った。
カリーヌの表情と、その傍らで血だまりを作って事切れている人間、そして床に座り込み、震えながら二人の“遍在”に介抱されているルイズを見た衛兵達は揃って顔を青ざめさせた。
事が片付いたと分かったルイズは、緊張の糸が切れたのかそのまま気絶してしまった。
そのルイズを抱え上げたカリーヌの“遍在”は、その目じりに浮かんだ涙を見つけて沈痛な面持ちをしながら指先でそれを拭き取った。
――その日々は、未だ始まったばかり……