セージは、己の耳を触ろうと接近する手をむんずと捕まえると、細目で牽制した。相手は白い歯を見せて笑いつつ手を引っ込める。こいつめ。油断ならぬ奴だ。
やはりというか鉱山では娯楽が枯渇していた。楽器の類もなければ本もなく遊びといえば話すことや歌くらいなものであった。外部からやってきた新人二人は娯楽に飢えた労働者たちの好奇心を集中して受けるだけの魅力があったのだ。とはいえよそ者がいきなり入ってきても警戒される。唯一、その少女だけが気軽に話しかけてきたのであった。
くりくりとした大きな目。茶色っぽい髪の毛は短く切りそろえている。悪戯っぽい顔立ちはどこか肉食獣を思わせた。肉体はすらりと伸びて筋肉を抱えており、足や腰の線は鍛えられた美しさを湛えている。胸元は悲しいほど薄いが欠点にはならずむしろ肉体の軽快さを強調するようである。
少女はにこにこと親しみやすい笑みを浮かべつつ、胡坐をかき、身を乗り出してくる。
「それでそれで? どんな風に迫られたの? ん?」
「迫られてないから!」
「だってさっきルエとかいう男の子に押し倒されたとか言ったじゃない。どこまでいったの? ねぇ。キスの先。教えてよ。どこまで? どこまでイッたの?」
「何もしてないんだよ! な、に、も! しつこいぞ、この!」
「嘘だぁ~」
「嘘じゃねーってぇ!」
圧倒的な言葉の激流にはさすがのセージもたじたじであり、仰け反って顔をひきつらせていた。
この少女、初っ端からセージにピンポイントで彼氏はいるのか云々の話を吹っかけたのである。セージがうろたえたのをいいことに根ほり穴掘り聞きまくる。メローにも話を振ったがニヤリと怪しげな笑いを浮かべるだけで話そうとせず、結果的にセージにのみ話が矢継早に放たれている。
セージはマシンガントークを躱そうと顔の前で手を翳すと首を振った。
「そ、そんなことよりも名前教えてくれよな。あと仕事の手順とかさ」
話好きは嫌いではないが、まず知るべきことを知りたかった。
すると少女はぱっと手を合わせると僅かに頭を下げて謝罪した。
「あっ、いけない。ごめんなさい。毎日暇で暇で死にそうで……仕事は忙しいけど……つい、ね。名前はガブリエル。ほかのみんなはおいおい紹介するから」
「はぇー。天使かー……かっこいい名前してんなぁ」
「え?」
「え? ガブリエルって天使じゃね。違ったっけ」
咄嗟にガブリエルという名前について感想を述べた。神話が好きで資料本を買いあさっていた時期もあり夢中になって読んでいた頃を思い出した。ガブリエルと言えば天使だ。その筈だと相手に訊ねてみる。
ガブリエルが怪訝な表情を浮かべた。陽気な少女というより司書のような小難しい雰囲気を醸し出して。一方、メローは首を傾げていた。まるで理解できないというかのように。
ガブリエルは笑みを消した真顔となり胡坐を解除するとセージの方に前のめりでにじり寄った。粗末なボロ服故に胸元が丸見えとなったが、気にするでもない。こういう時目を背けるべきか、自然な風を装うのか、わからなくなる。
ガブリエルは片手でメガホンを作ると、おもむろに部屋の隅を指差して見せた。セージの肩に手を置き半ば引き摺るようにしていく。
「ちょっと隅の方で話そう…………」
「別にいいけど。ナニ、なんなの」
拒絶する理由もないので壁際に移動する。二人きりの環境を作りたいという意図はわかる。メローに聞かれたくないことなのだろうか。一抹の不安を抱いた。
ガブリエルは深いため息を吐くと前髪をかき分けて、壁に寄り掛かった。そして腕を組み咳払いをする。
「ガブリエルが天使ってなんで知っている?」
「え、天使じゃん」
相手の言葉の抑揚が微妙に変化している。疑いと不安を綯い交ぜにした濁りあるものへ。
ガブリエルは快活な笑みではなく、眉に皺を寄せ、壁の向こう側を窺うかのような目つきで問いかける。
「ガブリエルが天使ってのはキリスト教での話だろう。この世界にキリスト教はない。ガブリエルなんて名前もな。珍しい名前って反応なら、こんなこと言わないが……天使って知ってるとなると、な」
お気楽そうな目が色合いを潜め思慮深さを宿しセージを見つめている。口調も女のそれではない。むしろセージと同じような男言葉である。
心臓がぴくりと跳ね上がった。高所から落下する際に味わう内臓が持ち上がる感触である。
「…………え、え? つまり! ……つまり」
口から出てくるのは意味のない言霊ばかりであった。手と手を組んでみたり、暇そうに地面をほじっているメローを見てみたり、無駄に髪先を整えてみたりする。心音が耳で認識できた。脈拍が高まっているのだ。冷静に分析する己を意識した。
ガブリエルが次に何を言ってくるのかを正確に予知できた。
「お前俺と同じ世界の出身だろ」
「………ああ!」
強く頷いた。同時に心臓が痛いほど働き始める。背中に汗が染み出す。
この世界にやってきて、自分が唯一の異世界人ではないことを知っていた。手紙という形で記録されていたからだ。まさか生きた姿で対面することになるとは予想だにしていなかったが。
ガブリエルはおもむろにセージの髪の毛を指で触れた。次に頬に指を沈める。しばらくして離し唇に指を当てて熟考すると、ややあって面をあげた。
「セージ。ついでに性別とか違ってるんじゃないのか。俺みたいに。こう見えて男だったんだぜ」
「……その通り。元の世界というと地球か?」
「この星が地球かどうかにもよるが二十一世紀だったぞ」
「マジかよ! 握手してくれ!」
感極まるとはこのことだろうか。セージは相手を視界の一種の歓喜に打ち震えていた。強引に相手の手を取るとぎゅっと握る。同郷の者どころか同じような境遇だったことに感動を覚えた。
ガブリエルも口元を緩ませて手を握り、軽く振った。二人の様子は親交を深めているだけにしかみえないであろうが、時間と空間を越えた巡り会いの瞬間である。
セージは半ば興奮状態であり頬を上気させながらしかし緊張を心の内側に秘め訊ねてみた。
「もし……その良ければ俺と行かないか。元の世界に帰れるかもしれないんだ」
「あー………いや、別にいい」
ガブリエルは逡巡をみせたが、すぐに首を横に振った。静観、達観、悟り、の類の吐息を言葉にのせて。
「……なに?」
ありえない。聞き間違いではないのか。耳がおかしくなったと思った。元の世界に帰りたくないと堂々と口にできるなど、どういう経緯があるのか、セージには理解できなかった。
ガブリエルはセージの掌を包み込むようにすると、次に肩を叩いた。頬に朱をのせて物語る。表情は至って真面目であり真摯さが滲んでいた。
「絶対に元の世界に寸分の狂いも無く戻れる確証があるならまだしも可能性なら勘弁してほしい。これでも、こっちの生活楽しんでるんだ」
「……捕まってるのにな」
「まぁな」
にやりとガブリエルは笑みを浮かべると音程を掠れさせた。手で口に囲いを作り音の出る方角を制御する。セージの背後のメローでさえ一言も聞こえぬようにしているようである。
「ここだけの話、脱獄計画考えててさ。外に仲間がいる」
顔だけは笑っているが目はその限りではない。言葉は真面目かつ冷静であり説得力に溢れていた。
だがセージは脱獄と元の世界に帰ることとの繋がりのわからず質問を重ねる。事情に詳しいならば質問は不必要だが生憎違う。
「脱獄……ガブリエル。元の世界には帰りたくないのか?」
するとガブリエルはますます音程を低くして囁き声の声量も絞り、語る。腰に手を置いてみせ、くびれを強調して。
「いまのところはな。諦めたんだ。それに女も悪くないんだぜ。外に俺のこと好きって男がいてさ、まぁ盗賊なんだけど、出たら子供でも作ろうってな。作る側から宿す側になるのも悪いもんじゃない」
「でも、男だったろ」
「昔はな。人間諦めが肝心だぜ。第二の人生貰ったとして生活する。それが俺のスタンスだ。ヘマしちゃったけど脱獄して華麗に楽しんでやるつもり」
食い下がろうとするセージにガブリエルはウィンクしてみせた。
そう、彼女は諦めたのである。割り切ったとも表現できよう。ネガティブをポジティブに変換したのである。あっさり元の世界を手放してこの世界に順応することを選択した。かつてエルフの村に落ちてきた地球人のように。
割り切れず諦められないセージにとって理解しがたい価値観だったが、心のどこかで賛同してしまう自分もいるのだから余計に自己嫌悪が強くなる。
片目をつぶって見せるお茶目な仕草を前に、思う。
――もし帰ることも元の体に戻ることも叶わないとしたらどう生きていけばいい?
ふとセージは無性にルエに会いたくなった。
ガブリエルはセージの顔を覗き込むと頷いてみせ、相手の若さに感づいた。ガブリエルの中身はセージとは比べ物にならぬほど年老いていた。新しい人生を得て感謝しているくらいだったのだ。人生の酸いも甘いも知り尽くした先輩と、まだ大人にさえなっていなかった後輩とでは、価値観に相違あって当然なのだ。
息を吸い吐いて咳払いをすると、先ほどとは打って変わって違う女言葉へと切り替える。カチリとスイッチが別の属性へと境界線を越える。
「ま、とにかくこの話は極秘事項ということで、お仕事についてなんだけど」
「………ガブリエル。男性組の連中と面会できたりしないかな」
「仕事は………ン、いいよ、教えてあげる。あっちのチビさんに伝えておくから」
何かを察したのかガブリエルは深く追求せずに場所だけを教えた。仕事内容についてのレクチャーはメローにすることとなった。
セージは難しい顔で腕を組んだまま、他の労働者たちの視線の中をものともせず歩いていくと、男性組と接する設備へと到達した。そこは岩をくり抜いた空間を鉄の柵で区切った場所であり、カップルらしき労働者らが雑談したり柵越しにスキンシップをはかっていた。人間もいれば獣人もいる。
その中で、いかにも居心地悪そうにカップルらを避けるようにして柵の隅の方で佇む銀髪の男がいた。誤認しようがない。
「ルエ!」
「セージ? セージ!」
セージと全く同じことを考えたかは定かではないが、ルエもまた同じ場所にいたのである。
二人は、駆け寄るとお互いの様子を観察した。
ルエも同じように薄着であり、装備品の類は指輪を除いて一つもない。身包み剥がれたのだろう。
ルエが柵越しに両手を出した。彼は柵を掴むつもりだったのだろうが、セージは何を思ったのか無意識に握り返すと体を寄せた。ルエはドキマギしつつも受け入れる。嫌なはずもなく、しかし予想外だった。
相手の安否を自らの目で確かめられたことで気が緩んだのと、ガブリエルの出自について知ったことで迷いが生じた二点から会いたくして仕方なくなったことが無意識に手を握らせたのだ。
柵越しに愛を語らっているようにしか見えないが、周囲のカップルはカップルでエルフ二人など気にも留めずいちゃついているため、咎める者も野次馬もいない、クリーンな環境である。
「よかった……」
「セージ……手が……」
「……? あっ」
気恥ずかしそうにルエが手について指摘すると、セージは己から握っていることに気が付き、慌てて離すと両手を背中にやった。手に恥ずかしいものがくっついておりどうしても取れなくなったのだと言わんばかりに。
唇を尖らせ罵倒した。
「ば、バカ野郎! 触るなお前!」
「おかしいじゃないですか、セージから握ってきたんですから」
「うるさい! だーもう調子が狂う! この話は終わり! いいな! 終わり!」
「了解しました。終わりですね」
罵っておく。恥ずかしさを隠すための防衛術の基礎中の基礎。誤魔化し。足を踏み鳴らし柵から離れ、口をへの字に曲げて手を大げさに振ってあっち行けの構え。
だがそれが通用するどころか和やかに顔を緩められてはかえって恥ずかしさが倍増するもの。酷い言われようされてもむしろ嬉しそうなルエには暖簾に腕押し糠に釘であった。
セージは話を強制終了して別の話題をもとい本題を切り出した。聞かれると困る話故、近くに寄ることを手で要求してから耳打ちする。即ち働くか否かである。ルエの意見はセージと同じであった。打ち合わせをした二人はやがて別れ元の部屋に戻って行った。
セージは歩きながら自分の掌をじっと見つめていた。皺を見ているのか、それとも別のことか、答えは神だってご存じないであろう。