暗がりで、一人の名が囁かれる。それはテンポを変えて何度も。
螺旋が徐々に上へと近づいていた。
熱が熱を薪にして燃え盛り縮小と融合を繰り返す。僅かに冷たい物体と高温を宿した物体が触れ合い温度を平均化していく。螺旋を構成する意識が俄かに加速すると、角度を急にしていった。螺旋は徐々に高度を上げ、角度はもはや垂直と化す。その直線は高みへとせり上がっていく。線は稲妻のように角度をつけて何度も折れ曲がり、それでも高みへと昇っていき――限界を飛び越えた。熱はビックバンとなり勢力の枝を伸ばして拡散して、徐々に速度を失っていった。熱量の増大は停止し、融合と接触も沈静化を余儀なくされた。熱はやがて海へと吸い込まれていった。
熱が消えれば、冷たさがやってくる。その冷たさは高揚を奪い不安を齎すものだ。
溜息とも、あくびともつかぬ、曖昧で長い吐息が空間に吐き出された。唇は唾液に濡れて艶に彩られ、褐色の肌はほんのりと血潮を湛えている。
もぞもぞと肢体が動くとぴんと張りつめた緊張を解いた。
涙を纏った血のように赤い眼球が暗闇を睨む。
「……っ」
目の持ち主、メローという小柄な少女は、不審な物音に気が付き、意識を活性化させた。眠っていたわけではないのだ。眠れなかった、がより正確である。
胸に抱き足の間に挟み込むようにしていた杖を起動させると、毛布を除けて、目に魔力を通した。血のように赤い瞳と、全身に施された刻印が官能的な燐光を放つ。ロウにより無毒化された魂を強制的に引き離し魔力を搾り取る機構――刻印。ただ魔力に反応して輝いているだけであると理解しても、かつての苦痛が蘇ってくる。
杖が変形して宝石が励起状態となり弦を張る。イメージを矢として弦を引き威力を調整すると照準する―――扉の中央へ。
「こん……ばんは…………〝矢よ〟」
そしてメローは扉の鍵を解除しようとした闖入者へ挨拶をくれてやると同時に矢を発射した。絶大な威力を乗せた矢は衝撃波で部屋の内装をぐちゃぐちゃにしつつ空間を飛翔すると、扉を穿ち、鍵穴を開こうと試行していた不届きものの胴体を完膚無きままに破壊せしめ、反対側の扉へと吹っ飛ばした。
「〝拡散矢〟」
辛うじて被害を免れた輩が短刀片手に飛び掛かってくるのを、毛布を投げつけることで視界を奪うと、神速で次の矢を紡ぎ、手元から無数に散らばる矢で射殺す。弓兵が接近戦に弱いと誰が決めつけた。
「わ、とと」
射撃の反動を抑制できず体が宙に浮いたが、白い服の裾から覗く黒っぽい素足にて着地すると、踏ん張った。
「奴を殺せ!」
「俺が行く!」
二人組が立ちふさがる。何せ部屋が狭いので大人数が入れず動きが制限されるのだ。
「……んふふふふふっ!」
笑いが止まらなかった。
威力を制限することを止めた。魔力を徹底的に絞り出して行使してやろうと。
メローは、接近しようとする黒服共を拡散する矢の連射で悉く片づけると、ロウから譲り受けた杖に軽く口づけを落とし、靴を履いて、屍の山を踏み越える。頬にべっとりと返り血が付着していた。上の服だけ着て下を履いていないが、小柄故に上の服の裾がスカートのような役割を果たしていた。
何事かと宿に泊まるものらが扉から飛び出してきてメローを見ている。
半裸の髪の毛を乱した褐色肌のエルフが扉から出てくる。その手には弓。足元には穴開きにされた死体。誰かが盗賊と叫び声を上げると場は一時騒然とした。あるものは武器を取りに走り、あるものは宿から我先にと逃げ出す。
メローはおもむろに目線を建物の隅に向けると、倦怠感を湛えた瞳に危機感を宿らせ、瞬時に身を翻し矢を構えた。赤い目に強い光が宿った。魔力に反応した大気が艶やかな黒髪をはためかせる。
魔力を浸透させていき壁を抜く。
「あ、あっ………やられ……る?」
敵の姿が“見える”。セージとルエの二人に今まさに襲いかかろうとしている。間に合わないかもしれない。
弦を指に挟み、引く。指と弦を繋ぐ一条の棒が出現するや、もはや槍のような長さへと伸長する。直径は糸のように細く。
「〝天の矢〟!」
メローが指を離すや弦が光の矢を射出し、旋風を作る。
矢は天井を易々と貫通すると建材を消滅させつつ前進していきあろうことか二人の部屋の床を突き抜けると盗賊の一人の腰から胸にかけてを貫いた。視線の先では、二人が反撃に移る様子が映っている。
瞳から光が消えていき、全身の刻印が沈静化した。
「………ふぅ…………大丈夫……? かな……?」
僅かに首を傾げるとぶつぶつと呟きながら階段を登っていく。状況を飲み込めない宿泊客たちは黒髪の少女の背中を見送ることしかできず唖然としていた。
メローは階段へと逃げ込んできた盗賊の一人をコンマ数秒で構築した拡散の矢で瞬殺すると、廊下へ達した。二人がいる部屋の前には死体がいくつも転がっている。どうやら撃退したようだ。しょせんは賊の類。奇襲にしくじればチェックメイトも同然。扉からひょいと顔が覗くとセージが姿を現した。続いてルエが。
「メロー! 助かったぜ。危うく死ぬとこだった!」
「さっきのはメローですか? まさか壁ごと抜くとは……」
二人は驚嘆を露わに死体を乗り越えて廊下へ進んだ。合流した三者は顔を見合わせる。
セージは血濡れた銀の剣を布で清めつつ、死体を顎でしゃくる。
「さっきこいつらエルフに死をとかどうとか抜かしてた。ひょっとして王国の残党とか、残党を騙る盗賊連中なんじゃねーの」
「噂は聞いたことがありますが、本当にいるなんて予想外でした」
エルフを迫害することで国内への不満の矛先を逸らさせようとした王国は既に崩壊してしまったが、残党は確かに存在する。エルフを狩る名目を共有した盗賊もいる。残党を名乗る盗賊もいる。いつの世も盗み暴力を働く輩は一定数いるということだ。
セージは剣を鞘に納めると、野次馬連中が押し寄せてくるのを無表情で眺めていた。強い云々と感想を垂らすもの、顔を真っ青にするもの、もう一度術をやってみせろと催促する酔っ払い、その他大勢である。
「………なぁルエー。俺ら建物とか壊したわけだが」
「そ、そうですね!」
セージはおもむろに背後の部屋を振り返らず親指で示した。ルエは恐々としつつ肯定した。
乱闘のせいでベッドはひっくり返り壁は焦げて調度品はボロボロになっており、盗賊たちの焼死体や血だまりが床を汚している。また、メローの矢で天井に大穴とは言わないまでも風穴が穿たれてしまった。誰がやったのかは明らかであるが、原因を作った連中は悉く死んでいる。
正義の味方が戦い街が壊れてもお咎めなしになるのはお約束だが、実際にはどのように判断されるか見当もつかない。
セージは、二人の姿を交互に見て声を落とした。
「俺ら、弁償とかしないでいいのかな……? こいつらが仕掛けてきたんだからいいよな? な?」
「正当防衛と言いますか、やらなければやられていたわけですが…………」
「おかね、もってないから、逃げる………得策……」
逃亡計画を立て始める三人だったが、そうは問屋が卸さない。
人込みをかき分けて寝間着姿の主人が姿を現すと悪魔のような笑みを浮かべて見せた。野次馬がさっと左右に分かれて道を譲る。モーセの十戒を彷彿とさせた。
主人は眠っていたところをたたき起こされて不機嫌であった。おまけに宿がボロボロである。二部屋は最低でも使用不可能となってしまった。盗賊は全滅しており金銭を請求できない。主人も鬼ではない。盗賊の仕業とはわかっているのだが、このやりどころのない怒りをどうしてくれようと考えつつ、ニコニコと笑う。
セージは凍り付いた微笑みを顔に張り付けて人形のように首を回した。
「主人………まず最初に言っておくけど好きでやったわけじゃなくてさ! こいつらがドンパチおっぱじめたから仕方がなく反撃したんだってば! わかってくれよ! な?」
「わかっているとも。わかっているけれど、暴れてくれた分はしっかりと返してもらわないとこっちも商売あがったりだわ」
「………つまり」
「働いてもらう」
こうして約三名の短期労働者が増えたのであった。