酷い気分だ。調子に乗って飲み過ぎて翌朝から夕方まで吐き気が止まらなかった時以来の心象である。
目を開く。満月が迎えてくれた。雲一つない夜の空。星々がウィンク。
息を吸い、吐く。大気に潜む精霊を身に定着させるが如く。
「……うぅぅぅ………」
喉に砂漠を詰め込んだようだった。水一滴ない喉が悲鳴を上げる。粘膜が乾いて粉になりそうで激しい苦痛を感じる。
頭は痛いし、お腹も痛いし、吐き気がする。二日酔いと生理と打撲を同時に食らったようだった。
頭を起こしてみると着込んでいた鎧の上半身が無くなっており、白い下着と包帯だけである。白い腹部に青い痣が浮いており緑色の草が擦りつけられている。薬草だ。匂いで瞬時に分かった。傍らには槍と剣と鎧がある。誰かが脱がしたらしい。とりあえず銀の剣を腰に差す。
回転してくれない頭脳で考える。ここはどこか。辺りを見回すと、そこは小さな湖――井戸に毛が生えた程度だが――の畔であることが理解できた。すぐ向こうには小高い山が聳えている。山の頂上から運ばれたらしい。
息を吐くと、喉の奥がかぱかぱと嫌な音を立てた。
「喉………水!」
喉の渇きを癒すべく四つん這いで湖の水面に寄ると髪の毛が盛大に浸かるのも意に介さず直に水を吸い取る。冷たく清らかな液体が口蓋を満たし喉を潤す。食道から胃へ直撃する冷たさが心地よい。全身の細胞が歓喜の歌を奏でる。
人心地ついたところで口を拭い、髪の毛の水を払う。
水面に映る己の顔を見遣る。酷いさまだ。前髪はばらけ、他の箇所は嵐が通ったよう。それとなく前髪のばらつきを直す。いや、直してどうするのだ。女々しいではないか。男子たるもの云々と理屈を並べてから髪の毛を意図的にばらしてみる。かっこがつかないので諦め水面という鏡を捨てた。
体育座りとなり、天を仰ぐ。
「あれ? 俺………死んだんじゃ?」
ふと思い出したことを口にしてみた。ウェアウルフに襲われて意識を失ったところまでは記憶している。するとここは死後の世界なのだろうか。辺りを見回す。大自然。死後の世界にも湖があるかは知らなかった。
頭を振ると、よろめきながら立ってみる。息を吸う。瞬きをする。どうにも死後の世界のように思えない。
セージがどうしたものかとぼーっと突っ立っていると、背後から男が現れた。
「目を覚ましたか」
「誰だ!」
足元の槍を爪先で拾うと左手背中右手と一回転させて切っ先を向ける。
男は上半身裸の銀色の髪をした筋骨隆々の大男であった。下半身を包む粗末なズボンの他にものを持っていない。
セージはミスリルの槍を掲げたまま男の間合いの外から相対距離を調整した。あくまで警戒心は捨てない。
すると男は両手を挙げて降参のポーズをとって見せた。更に跪いて敵意がないことを示す。表情は晴れきっていた。あえて表現するならば、断頭台を前にして諦めの境地に至った罪人のように。
男は僅かに頭を傾げ、言った。
「先ほどお前を蹴ったウェアウルフと言えばわかるか。先に言っておくが襲うつもりはなかった」
「………納得できない」
「だろうな。何せ俺自身も納得していない。誰が好き好んで人間に危害を加えるものか。襲った理由は、制御が効かなくなったからだ」
「制御が効かない?」
「そうだ」
男は淡々と説明した。
セージは素っ頓狂な声で聞き返した。ウェアウルフというものは制御できるできない以前に獣そのものになる現象である。人間の姿を取っていても獣のような行動をするのが普通。人間のように会話できるなどあり得ない。元の世界だと満月の時だけ狼男になる人間を指したが、この世界では少し違う。病のようなものなのだ。
男は大きく頷いて見せると、おもむろに唇を持ち上げて犬歯を露出させた。異常に尖っている。獣人でさえあり得ない尖り方。
「これが証拠と言えば弱いか……。ともかく俺のウェアウルフ化は特殊でな。人間として意思を持ちつつ―――……獣になってしまう。そして、獣として行動する。獣となり狩りをする。そして戻る。こんなことなら意思もない獣になってしまえばよかった」
いつの世も、普通ではない存在はあるものだ。それが特異体質であれ、なんであれ。
男がゆっくりと腰を上げると、己の胸を叩いて見せた。やや左寄り。心臓。
「もう俺は耐えられない。俺は、いつか人を食い殺すだろうことが嫌なんだ。だが自分で死ぬなど、俺にはできない。恐ろしいからだ。そこで何かの縁だ。お前に殺してもらいたい」
「……随分自分勝手な奴だな。嫌だと言ったら」
セージは槍を慎重に握りなおしつつ、いつでも攻撃に移れるように重心を調整した。男がどこか和やかな顔を浮かべる一方で険しい顔を崩さない。
蹴られて気を失い起きてみれば俺を殺してほしいという依頼があった。唐突過ぎる。
いっそ罠ではないかと疑いたくもあった。
男はぎらりとした眼光で槍を見つめて、己の心臓の位置を指で示した。
「無理にでも殺してもらえる努力をする。人を殺した経験はあるか?」
「ある」
即答。初めてナイフで人を殺めてから、何人も殺してきた。剣で、魔術で、ありとあらゆる手段で。今更何人殺そうが悩むことはないだろうという確信を持っている。
男はセージの耳を再度確認すれば、精悍な顔に僅かな笑みを染み出させた。
「まだ若いエルフのように見えるが戦士なのだな。安心した。さぁ……心臓を貫いてくれ。その槍ならば俺を紙切れのように殺せるだろう」
「何が何だかわからないのが本音。そんなに死にたいなら、殺してやるけど」
相手の許可を得ているのだ、躊躇う必要はないのだろう。己を殺しに来る相手なら遠慮なく槍を繰り出せるが、死にたいだけの相手に殺意が湧いてこない。切っ先を静止させたまま、息を吸って吐きの作業が繰り返される。槍にしろ剣にしろ最後に殺意を行使するのは使い手である。武器が殺すのではない、ヒトが殺すのだ。
男が一歩前進して槍で突き易いようにした。言うならば断頭台に登り首を台にかけたところだ。
セージは、男の哀愁漂う瞳を前にどうしても槍を先に進めずにいた。殺しても後悔の気持ちはないだろう。見ず知らずの他人なのだから。だが、殺してもいいものか。
決心をつけるために、何となしに自分の姿格好を確かめる。上半身はシャツと包帯。下半身は鎧。痴女のようだが恥ずかしさは感じられない。
相手を見遣る。相手はズボンのみを着用。
やっと決心がついたセージは、槍の柄を握り直し、上半身で槍を使い切っ先を定めた。仮想の攻撃を脳裏に描いてシミュレーションする。成功。心臓を貫くことは容易である。
セージが息を吸い込み肢体に緊張の糸を張り巡らせた。
「じゃあ、あばよ。見知らぬ奴。せめて楽に死んでくれ……っておい」
そして槍は男の心臓を――――貫かず、宙を切った。
男が直前でバックステップからのバク転更に後転からの低姿勢への姿勢移動を行ったからだ。さらには地を蹴って転がって後退する。まるで軽業師のようだ。
セージは男が避けたのを怖気づいたと解釈して、再度接近をかけた。槍を戯れにバトンのように操ると、右側に構え、切っ先を中段に置く。犬のように肢体を投地して固まっている男のもとへ。
男は上目遣いにセージを見ていた。がたがたと肉体が震え始める。
様子がおかしいことに気が付いたセージは槍をしっかり握りなおすと、恐る恐る問うた。
「お、おい、どうしたんだよ。殺されるんじゃなかったのか」
「逃げろ…………俺の中の獣が……! 暴れている! 早く………! はや……く、殺して……くれ!」
男は言葉を最後に頭を掻き毟ると、身を丸め、絶叫した。人間とは思えない大声。彷徨。数秒と掛からず全身に銀色の毛が成長していく。骨格が劇的に変わる。背骨が大きく張り出して皮膚を伸ばす。手足が構成を変化させ始めた。理性的な声さえ、くぐもった狼のそれへと音程を拡大していく。
殺すなら今しかない。
徐々に男が獣へと変貌していく異常事態を前に心が騒めくのを堪え、戦闘姿勢に移行する。腕に力を込めて目を見開いて敵を捕捉。
「悪く思うなよ……やあッ!」
セージは腰溜めの槍を肩の高さに調整すれば、上半身を傾けつつ、可能な限りの射程と威力を維持して、突いた。
またも空を切る切っ先。男が地面を転がって回避。幽鬼の如く立ち上がる。上半身が膨れ上がり筋肉が膨張して肢体を押し広げて骨格から何から何までが変わっていった。男の銀髪は今や全身を覆っており月光を反射する毛皮と成り果てた。
男――ウェアウルフが月を仰ぎ吼えた。悲しげに、涼しい声で。
逃げ場はない。静かな湖畔は戦場と化したのだ。
さっさとやっておけばよかったと歯噛みしてもすべて遅すぎる。
相手は、まだ安定しないのか体のあちこちを異常に膨張させてみたり、爪で宙を掻いてみたりしている。
セージは相手の間合いであろう距離を測定、じりじりと後退して己の射程距離を調整した。そして、おもむろに槍を地面に突き刺し、腰から黒い糸を手繰ると指に唾液を塗って染み込ませ、髪の毛を後頭部の高い位置で縛り上げた。槍の頭を蹴って地からずらし中段に置く。
「くっ! ルエもメローもいないってのに。いいさ、殺してやるよ! かかってこいウェアウルフ! 俺が相手をしてやる!」