LXXXII、
村を出て、山を越え、旅を続けたセージは、首なし騎士やら熊やら化け物の苦労がなんだったのかというスムースさで進んでいった。街道を進むこともあった。賊の出現を警戒して夕方夜間の暗闇に紛れて歩くことも。この世界に来てから歩いて歩いて歩きまくってきたセージは常人以上に歩くことに慣れており朝から夜まで歩くこともできるようになっていた。
そして、ある日の夕方に、合流地点まで到達することができたのである。
小高い丘の上にキャンプがある。連合軍を意味する印が誇らしげにはためいている。いや、本当にそうなのか? 罠ではないのか。合流地点が戦場になっていたという、事前情報との齟齬にセージは戸惑いを隠せなかった。
革の鎧もあれば鉄の鎧もある。人、馬、生けるものはない。死体だけだ。
槍が大地を埋め尽くしている。ある槍は馬の顔面から胴体へ。ある槍は一人の男の胴体をしっちゃかめっちゃかにしていた。
剣が墓標のように散らばっていた。ある剣は折れて復元せず打ち捨てられている。ある剣は首の半ばまで埋まっている。
腐臭。戦場跡を満たす不快な臭いに鼻がおかしくなりそうだった。
セージは比較的綺麗な一体を見分した。傷を負っているせいか腐敗が進行している。肌の色は黄銅色を通り越して青白い茶色の域である。目は落ち窪み口から得体のしれない液体が地面へと伝っている。これでは死亡時期を知ることはできない。病死した死体などなら、ある程度推測できるのだが。
ともあれ、長居して愉快な気持ちにさせる環境ではなく、不快になるだけだ。
セージはテントが張ってあるキャンプへと近寄って行った。
キャンプにはためく連合軍の旗。そして、連合軍のエンブレムが刻まれた武器。ここに至ってようやくセージは安心を確信した。
護衛の兵士を認め、駆け寄っていく。擬装用の指輪をはずしてポケットへ。魔術による隠ぺいが解除されて耳が露わになった。手を振りつつ駆ける。キャンプに顔見知りがいるに違いない。胸が高鳴った。
「おーい! エルフだよエルフー! 連絡いってると思うけど、セージってもんなんだけどー!」
「そこで止まれ!」
「へっ………。止まったけど、なに、身体検査かなにか? 変なとこ触るなよな」
「違う。貴様に要件がある」
キャンプを取り囲むようにして護衛の任務にあたっていた男たちが、セージを見るや槍を向けた。ある兵士は手に魔力をたぎらせ、ある兵士は拘束用らしき縄を持って、セージを包囲する。
ただならぬ雰囲気にセージは両手をあげて敵意がないことを示した。兵士たちの中でリーダー格らしい屈強な男は何やら紙切れとセージの顔を見比べると、合図した。
慌てたセージは後ずさろうとするも、後ろにも兵士がおり、逃げ場がなかった。
「ちょ、待って! 捕まる理由が……!?」
訳が分からず首を振って弁解しようとするも、顔の前に突き出された槍の迫力に押し黙らずにいられない。兵士たちの顔は皆無表情だ。もし魔術を使う素振りを見せようものなら即座に槍で肉体を刺し貫かれるだろう。イメージ構築に二秒として発音から作動まで三秒と見積もっても一秒目に心臓が槍で潰される。
抵抗がないとみるや兵士がセージの腕を強引に後ろにやろうとする。
痛い。
「いてっ………わかったから、無理にやんな! ……ほら。結べよ」
抵抗すればかえって怪しまれる。セージは腕を折らんばかりの乱暴さで腕を縛ろうとする兵士に吼えると、自ら腕を後ろで組んで見せた。
リーダー格の男はセージに詰め寄ると、手配書らしきものを突き出した。セージの人相書きと容疑と指示が連なっている。
「セージと言ったな。お前にはスパイ及び裏切り容疑がかかっている。拘束後連行することになっている」
「スパイぃ?」
声が裏返った。
キャンプから運ばれたセージは腕を縛られ胴体も簀巻きとされ、目隠しと猿轡を施されたのち、馬車へと放り込まれた。酷い扱いは慣れたものだが不意打ちにもほどがある。
スパイ、裏切り容疑。エルフは一枚岩のような印象を受けるものの、必ずしもそうではない。長老の円卓会議に参加すればわかるとおり、里には里の、個人には個人の意見があるのだ。それはエルフにしても人間にしても普遍的な事実である。だからエルフの裏切者がいても不思議などない。
―――だけどよりによって俺かよ。
連合国側に属する小さな城の牢屋に服一枚で放り込まれたセージはむくれていた。魔術を阻害する術式が組まれた簡素な牢屋は薄暗く蜘蛛やネズミが徘徊する場所であり、異様に湿気が高いことも重なって、気分は最悪だった。
「食事だぞエルフ」
「ありがとさん。いただきまーす」
のんびりと歩いてきた看守が牢屋備え付けの食事を入れる箱にパンとスープの入った容器を入れ、中に押し込んだ。粗末な食事だが栄養は満点だ。手に取ってぱくつく。焼きたてのパンをちぎって咀嚼するとスープ皿に直に口をつけて流し込む。程よい塩気と野菜のうまみが凝縮されていておいしい。
看守はやることがないのかセージの食事を観察していた。
セージは、食事をじろじろと見られて多少気恥ずかしさがあったが、看守の人間性を知っていたので追い払わなかった。
看守がしゃがみ込むと顎髭を弄りつつ呟く。
「にしても大変な目にあってるなぁ。スパイ容疑だって」
「そうそう。どう、おっさん。俺はスパイとか裏切りものに見える?」
試しに質問をぶつけて見せた。食事の手を止めて、肩のあたりでひらりと手を広げ、体をアピールする仕草。
看守である男は唸ると首を振る。
「俺には、手違いで連れてこられたみたいにしか見えないぜ。スパイにしろ裏切者にしろ手違い人違い勘違いが九割と相場は決まってるわけだし、エルフのお嬢ちゃんも、そうなんじゃないか」
この看守、辺境の城にいるせいかやけにのんびりとしたお人よしであり、話をしてみると、犯罪者が収監されること自体ほとんどないため、暇していたそうである。
犯罪者ならしめたものだとほくそ笑むだろうが、善良なものは好感を抱くだけだ。
最後の人参のような野菜を口に放り込んだセージは、皿を箱に入れて外に押しやった。
看守が去ると、途端に暇になる。容疑がかかっているだけなので、強制労働やら拷問やらはされない。少なくとも、尋問官やらが来るまで、やることがなかった。暴れると立場が悪くなるのは目に見えている。社会から外れた盗賊か何かなら脱出を計画しただろうが、今のセージはエルフという社会の一員なのだ、不用意なことはできない。
ということで、筋トレをすることにした。セージの本職は前衛である。筋肉がなくては戦うことなどできない。
まずは硬い床の上で両足を広げて体を倒す。日課のストレッチ。体を横にねじる。左右澄ませば、ようやく筋トレだ。
「1、2、3、4……」
腕立て伏せ。ほかに囚人がいないことが分かっているので数を声に出しながら。
ほんのり汗をかいてきたところで腹筋。牢屋の鉄格子に足をかけ下半身を固定して、始める。首に腱が浮く。歯の隙間から漏れる吐息が微かに高音を伴った。布服の裾から小さなお臍が覗く。
筋トレに集中しすぎたのか、セージは地下牢へ人が入ってくることを察知できず、接近を許した。
「セージ! 大丈夫です……………か?」
「………んー?」
悲壮感を滲ませ息を切らしたルエが牢屋の前までかけてくると、セージが夢中で筋トレをしているのを見て、固まる。
ルエは、きっとセージはあらぬ疑いをかけられてさぞ怖がっているだろうと駆けつけたのである。ところが会ってみれば呑気に筋トレしているではないか。拍子抜けしてしまったのだ。
セージはルエの鳩がまめ鉄砲食らったような顔を見ると吹き出した。運動で呼吸が乱れていたのに吹き出して苦しい。埃っぽい床に転げて顔を覆う。
「くっくっくっくく………っ。んふふふ、変な顔しやがってよーっ。……ぐへっ、ごほっ!? ほごりが……!」
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫! だいじょーぶ!」
埃を盛大に吸い込んで咽る、セージ。ルエが鉄格子にしがみつくようにして顔を近づけた。あきれ顔。
ひょっとして。セージの脳裏にあることが過る。尋問官とやらはルエなのだろうか。すぐに考えを打ち消す。顔見知りに尋問させる無能はいない。となれば答えは一つしかないではないか。
セージは床でごろごろと転げてから、やっと体勢を起こすと、格子を挟んでルエと顔を合わせる位置に寄った。
「ふぅ苦しかった。解放のお知らせでも持ってきてくれたわけ? 岩と鉄格子も見飽きたんだけど」
「はい。解放ですよ。実は、エルフ族の中に裏切者がいたようで、巻き込まれたようです。怪しいものたちは片っ端から捕縛されました」
合点した。セージはずいと顔を鉄格子にはめ込むようにすると、声を潜める。
「裏切者は見つかったのか」
「はい。近く、罰が執行されるそうです。どのような罰かは秘密とされていますが……」
「よかった。じゃあ、俺の容疑は晴れたということ」
「長老たちによる指示があったそうです。彼女はスパイでも裏切りものでもない、と」
「か、彼女………。うーん。まぁ、いいや。ルエの兄貴も噛んでるんだろうな、今度会ったらお礼を言わなくちゃ」
「兄も喜ぶと思います」
長老たち。感謝してもしきれない。最初の里で出会ったジェリコ。渓谷の里のルーク。巨老人。ヴィーシカ。おそらく、彼ら彼女らがセージの潔白のために政治という縄を操ったのだろう。今度会ったらお礼を述べようと心に誓う。
潔白ならば、埃塗れの牢屋で筋トレする必要もない。セージは手でメガホンを作ると、入口の方にいるであろう看守に声を張り上げた。
「看守のおっさーん! 鍵!」
「ほいほい、叫ばなくても聞こえてる」
待ってましたとばかりに看守が柱の陰からぬっと姿を見せると、頑丈な鍵を外した。警戒しているそぶりはない。ルエが看守と話し始めたのをしり目に悠々と牢屋の扉を背後にする。
伸びを一つ。成長段階の胸と、すらりと締まった腰回りが僅かに伸長した。
心なし空気もおいしい。
「荷物は外で渡すからな」
「はいよー。おっさん後でな」
看守はセージに手を振って別れを告げると入口の方へと歩いて行った。
セージは存分に伸びを楽しむとルエの方へ向き直って両手を広げて見せた。
「ほらほら。久しぶりの再会だから抱き合おうぜ。ぎゅっと」
ほとんど冗談に近い誘いである。セージの口元は緩んでいたし、手の開きに真面目さはない。埃と汗で汚れているのだから、汚くて抱き合えないとも考えていた。
だがそれは、セージの考えである。冗談が通じないことはよくあること。ルエは僅かに瞳を潤ませて、セージを腕の中に抱きとめたのであった。男性特有の硬く凝縮された胸板の厚みがセージの体を包み込む。
セージは困惑の度が超えて石像と化した。顔面に血液が集中する。
ルエが、声を震わせて、至近距離にいる人へと言葉をかける。
「逢いたかったです……とても心配したんですよ。もし、怪我でもしていたら、とか……。もし、死んでいたら、とか……。心配で心配で……胸が張り裂けそうでした」
「え、おまえ、………。うぅ……ほんっと隠すのが下手というか……」
「はい?」
ルエが、セージの髪の毛を優しく撫でた。埃やゴミを手櫛で綺麗にする。
こそばくて頭を振ると、すぐにやめてしまった。
「なんでもない。ルエは……」
言葉を切る。隠すことをやめたのか、と。
セージは、ルエを前に、再認識した。いずれ答えを求められるだろう。答えを濁すことはできない。
きつく抱かれて動けない。悪い気分はしなかったが、離れなくては、という心情がこみ上げてくる。
やんわり、それとなく、自然な風を装い、腕で己と相手の距離を作ると、出入り口の方へつま先を向ける。ルエが名残惜しそうに離れた。目線はセージの汚れた頬を追っていた。
セージが腕のにおいをかいだ。汗のにおい。水浴びしなくては。何はともあれ、牢獄を出よう。出入り口を親指で示し、歩き始める。すぐ後をルエが続いた。
「行こうぜ。牢獄で食っちゃね生活は二度とごめんだ」
「そうですね」
そして二人は横に並んで部屋を後にした。