LXXIX、
(……しにたい)
セージは最高に死にたかった。無論、本気で死にたいのではない。いっそ殺せという心境である。例えるならば女子高に女装して入学する羽目になった男子生徒の心境である。ハーレムだと歓喜するなかれ。女しかいないに男一人はつまり、淡水魚を海水に放流するに等しい。
セージの肉体は今、心とは無関係に動いている。悪いことに女性らしい振る舞いをしているのだ。口を開けば女言葉。歩き方や仕草まで女。服も女。精神的には男性を保つ彼にとって苦痛の連続である。
神に仕えるという服とは異なる純白の衣装。頭をすっぽり覆うヴェール。袖まで伸びた布地。黒い神官服が着物ならば、白服はまるで白無垢のようだった。
セージの肉体は神に対する歌を口にしながら書物に目を通している。神もとい化け物がこの地にやってきた経緯やら赤い光を浴びたものがどうなるやら、これから何が起こるのかやらを詳細に知ることができた。
穢れ無き白い服を着込むというのは神へ生贄を捧げるため。身も心も捧げることで化け物はより強大になるという。
赤い光は精神を洗脳する作用があるらしい。人間には効きやすく、人間から遠ざかるほど通用しなくなる。洗脳されると化け物に付き従う信者となるという。
――ならば、この体を動かしているのは、誰なのか? という疑問が浮上する。セージの意識は通常通りだ。体が制御できないだけ。洗脳などされていない。
書物へ目をやってあれこれ考察した結果次のような結論を得た。
肉体のセージが嬉々として神のイラストに色を塗っているのを不気味と思いつつ呟いてみた。
(あのバカ野郎が魂弄ったせいで一部しか洗脳できなかったんじゃないか?)
セージの出自は複雑だ。別世界から異世界へ魂を運ばれた経緯を持つ。以前にも魂の構造が他とは違うとヴィーシカに看破されたことがある。一度抽出して別の肉体に繋ぎ合わせたことで歪な構造になったと。不幸中の幸いというべきなのか。〝神〟の高笑いが聞こえてくるようで壁を殴りたくなったものの、精神の世界では殴る手も蹴る足も存在しない。
いずれにせよ、このまま行けば生贄にされてしまう。魂がどうのという議論はともかくとしても、現実的な危険を回避しなくてはならない。
生贄。イラストでは生贄の言葉の意味通りにムシャムシャと頭から食われる信者もいたが、触手で全身を弄られ苗床にされるエロティックなシーンもあった。食事か、繁殖か。改めてこいつは神というより動物寄りという認識を深める。
もし仮説が正しいなら、こういうこともできるはずだ。セージには確信があった。
(一部しか洗脳できなかったとしたら、制御を奪い返すこともできるはず)
そうと決まれば行動である。強く念じる。俺の体を返せと反発する。
セージの肉体が止まった。作業を中断して目を見開いたまま硬直する。だが十秒もすると動き始めた。頭を振って目頭を揉んで。
「私、疲れているのね。健康な肉体と精神を保つのもまた神への奉仕♪」
(…………くっ)
悔しいが、口を塞いでやることができない。歯ぎしり。
ルンルン気分で本を閉じ、胸を反らせて伸びをすると、薄く口紅の乗った唇に触れて起立して部屋を出る。神の像に祈りを捧げると本堂を出て村のはずれにある水浴び場に向かっていく。思考が読めた。水浴びして身を清めようというのだ。
即興の鼻歌と、スキップにて、進んでいく。
「水浴び水浴び♪」
(精神が不健康だよ、俺! 不健康極めてるから! 精神も肉体もおかしいんだぞ!)
ぎゃあぎゃあと喚いてもどこ吹く風。反逆も虚しくセージの肉体は小川の近辺までやってきていた。服に手をかけるとヴェールを外し白い衣服を取り去っていく。すっかり脱いでしまえばセージなら絶対につけないであろう女性ものの下着。それも脱いでしまう。やりたくないが、水浴びをしなくてはならない。正確には、水浴びのシーンを見て感じなければならない。
水浴び開始。
桶で水を汲んで肩にかける。透明な液体が肩から胸そしてスマートな腰を濡らし脚から地面へ伝う。
そして、一言の感想を漏らした。
「冷たーい」
(ひぃぃ! なんでこいつケロッとしてるんだ!?)
肌を突き刺すがごとく冷たい水を被っても平然としている肉体と、伝わってくる感覚に思わず悲鳴を上げる心。性格も異なれば我慢強さも異なる。
桶で汲み、被る。単純作業の繰り返し。肩にかけて、腰にかけて、背中に、頭からかぶる。体が冷水を何度も浴びることで白い肌が赤らんでくる。鳥肌が立つ。ブロンドのショートカットは水分を吸ってしんなりしていた。
あらかじめ持ってきていたタオルで水気を取る。頭をごしごし擦って髪の毛の水分をタオルで挟み込んで取る。首を拭き、背中を拭いて。胸は優しく。皮膚を傷つけないよう、そっと。下も、上から被せて水気を吸い取る。
他人に体を弄られるような気分を存分に味わったセージは絶対に体を取り戻すことを心に誓った。
白い下着を履く。するりと足から通して定位置に持ち上げる。くすぐったさに声が出るも、心の中にしか響かない。ブラジャーもどきも、膨らみかけの胸元をすっぽり覆う位置で止めて固定する。手つきが手馴れているのがかえって羞恥心を煽った。
自分で服を着ているのか、着せられているのか、区別が曖昧だった。
(確かに下着云々のやり方は教えてもらったけどさぁ………)
下着やら女性に必要な知識はアネットやクララに教えてもらっているとはいえ、実践してこなかった。下着は『まだ胸大きくないし!』『別に下は男のでいいじゃん』と無視してきただけに、いきなり着せられて頭が爆発しそうだった。
仕草といい、言葉遣いと言い、今現在体を制御しているセージは実に女らしい。本人より女らしいのは、喜ぶべきか悲しむべきか、セージは困惑していた。
服を着終わったのを見計らったように誰かが小川にやってくる。女性だ。布の服にバンダナ。スコップを肩に担いでいることから農民らしい。印象的なのは燃えるような真紅の髪を無造作に肩に散らばせていることである。
赤は、つかつかと歩いてくると、スコップの柄で肩を叩きつつ、セージをねめつけた。
至近距離で見ると、若さあふれる顔立ちをしていることがわかる。悪戯っぽい目つき。ソバカスのある鼻元。例にもれず他の村人と同じように顔が暗い。
「ちょいとアンタ。見ない顔だ。この前村に来た人だね、違うかい」
「はい。そうですよ。どちらさまですか?」
「アシュレイ。アンタは」
「私は、セージと申します」
(お前はセージだけどセージじゃねー……)
いい加減突っ込みも飽きてきた。
セージの心をよそに二人は会話を続ける。
「白い服………はぁん……へぇ……なるほど。神へ身を捧げるってわけ。たんなる旅人さんがご苦労なこった」
「無論です。私の身は御心のまま………」
陶酔した表情で白い服を弄り己の胸元に手を置くセージ……の肉体。心は全力で首を振ってなんとか体の制御を奪い返せないか戦っていた。
アシュレイと名乗った女性―――外見年齢はセージと大差ないようだが――は、相も変わらずスコップで肩を耕しながらセージを無遠慮に観察している。
スコップを操る手が止まった。顎でしゃくる。
「で、それは本心なわけ? 見ず知らず、この村と何のかかわりもない旅人がものの一日で神に誓いを立てて生贄になろうとする。随分と都合の良い話じゃない」
「違います。私は神の道を歩くためにやってきたのです。これは私の運命です」
(ちげーよ。帰りたい一心だよ)
セージは、大真面目に神への愛を説く自分へ毒づきながらも、精神を集中させて、洗脳された心を解凍しようとする。魔術と同じだ。イメージで心を糸にして暗闇を泳ぐ。赤い光に惑わされた心という場所を探して進む。
一方で肉体は心とは裏腹に会話を続行中だった。
アシュレイはスコップを下して地面をほじくりつつセージから目を離さない。懐疑、疑惑、敵意、不安、あらゆる感情がこもった目つきで。
「運命。そう、それはよかった。確か儀式は………」
「予定が早まりまして二日後となりました。儀式には村の皆さんを集めてお祈りを捧げたいとルィナさんが仰っていましたわ」
そう、生贄の儀式とやら三日後だったのだが予定が早まったのだ。
アシュレイはスコップを両手で保持すると大きく頷いてみせ、その場を後にせんとして歩き始めた。
「二日後、教会に行くから。私は仕事があるから」
「アシュレイさん。お待ちしてます」
アシュレイが垣間見せた雰囲気に露も気が付かずにセージの肉体は微笑みを湛え手を振り送ったのであった。心のセージはアシュレイの視線に込められた意味をなんとなく察した。おそらく彼女は神もとい化け物の存在を快く思っていない。あわよくば排除する魂胆なのだろう。アシュレイを上手く使えば化け物を始末できるかもしれない。一条の光を掌に掴み取った気がした。
だがその前に。
(体を取り戻さないと………化け物の餌はまっぴらごめんだ)
セージは、鼻歌を唱えながら教会に帰る肉体の中で、奪還に向けた試みを進めるのであった。
セージが教会の扉の奥に消えた後、アシュレイは井戸で水を汲むついでに考え事をしていた。教会を睨みつけてため息を吐くとバンダナを結びなおす。水桶を井戸の底に落として縄で引き上げる。新鮮な水で口を濯いで地面に吐いた。
じっくりと思考に沈む。水桶の中の透明を眺めながら。
――なんとしても、化け物をやっつけなくては。
「…………」
ついこの前村にやってきたセージという女の子は利用できそうだ。
アシュレイの視線の先にはセージとルィナそして化け物がいるであろう教会があった。