LXXVIII、
目が覚めた。森で怯えながら短い睡眠を繰り返すのより、風邪で寝込んだ時より、おそらくは最悪の目覚めの指三本に入るであろう、目覚めだった。
頭を数時間揺さぶられたのではという頭痛と二日酔いにも似た倦怠感。
「う………」
目を開き状況を確認する。地下牢らしき部屋の壁際に両手足縛られている。磔というより動けなくするための戒めらしく足場が設けられていた。拘束を取ろうと筋肉に力を込める。外れない。魔術ならばあるいは。イメージを集中させて火で拘束を――――。
「あっ………頭が………痛い……」
頭痛が再発。何も考えられないほどの激痛に顔をしかめ耐える。拘束用の革がきゅうきゅうと乾いた音を鳴らす。無駄だ。魔術で肉体強化しても引きちぎれるとは到底思えない。脱出は不可能に近い。
痛みが引いた。目を開いて頭を振れば、それに気が付いた。正面にあからさまに怪しい鉄の観音開きの扉があることに。その扉は人間が使うには大げさなサイズであり、馬車でも楽に通り抜けできそうである。壁の横にはドアノブの付いた普通の扉。その奥から冷気が漂ってくる。部屋の暖かい空気は上に逃げている。
そういえば。セージは悔しさを滲ませた。
「あのやろー……迂闊だった。とっとと姿を見せやがれ」
「はい?」
がちゃり。ドアノブが回転すると扉からルィナが現れた。まるで人形のような無表情。ただし頬は真っ赤だ。黒一色のゆったりした服と不吉な雰囲気を纏いて優雅に入室。後ろ手に鍵をかける。そして熱いため息を漏らすとセージのいる拘束台へと一歩一歩を確かめるがごとく歩み寄る。
セージは、ただならぬ気配を滲ませるルィナを睨みつけると、唾でも吐いてやろうかと画策した。顔面を気の済むまで殴りたい気分だが叶わぬ夢。
ルィナは己の酒に酔ったように上気した頬を撫でると、ねっとりした手つきでセージの腰を触った。
背筋に嫌な汗が染み出る気さえした。嫌悪を隠そうともせず敵意を顔に浮かべて威嚇。
「うふふ。動けない。魔術も使えない。もはや逃げる術なんてない。あなたも神の慈愛を受けるのです……」
「何が何だか知らないが気色悪い奴だ。離せよ。睡眠薬なんて卑怯な真似しやがって」
もはや口調や身振りを偽装する意味も無い。歯をむき出して今にも噛みつかんばかりに顔を寄せて言葉を吐く。
「卑怯などではありません。これは愛の道なのです。あなたのような美しい子を世俗に放ったままでは正義は濁ったまま。あなたにこそ神の道は相応しい………」
「…………」
何言ってんだコイツ。意味が分からない。翻訳機が必要だ。
セージの暴言など意に介せずという風にルィナは解答すると、まるで無邪気な子供のような屈託のない笑顔を見せた。底知れぬ暗闇の気配が部屋中に満ちた。
ルィナの口ぶりは精神を患っているようにしか思えない。ろくでもない奴という認識に情報が更新。嫌悪感がグレードアップして敵意に変わる。
逃げ出す算段がつかない。拘束を破り扉を開かない限り状況は同じである。
セージはルィナが鍵を服のポケットらしきところに入れるのをしっかり記憶に焼き付けると、次の行動を見守った。どうせ自分にとって有利なことはやってこない。ならばじっくり観察して脱出の手段を探るのだ。
ルィナはふらふらと怪しい足取りで観音開きの扉の閂を外した。驚くべきことに扉はルィナの手によらぬ別の力で開き始めた。扉の奥に光る禍々しい赤い光の点が左右に小刻みに揺れている。
「なんだこれ…………」
「神よ、我が永遠のお方よ………」
「これが“神様”だあ!? ふざけんな! ただの怪物じゃんか!」
扉のすぐそばで跪き祈りを捧げるルィナをよそに、セージは絶叫した。恐怖ではない。生理的嫌悪感だ。
粘着質な音を立てて扉の奥から何か巨大な物体が姿を現した。子供の胴体はあろうかという直径の蛇の頭を巨大な眼球に置き換えた異形。目は人間のものそっくりながら表面には細かな体毛が覆っており粘り気のある粘液が床に滴っている。それは、無数の蛇もとい触手を連れて這い出てくると、眼球らしきものでセージを睨みつけた。恐ろしいことに本体は扉の奥に続いている。どれだけ大きいのか、もしくは長いのか、見当もつかなかった。
唖然として固まってしまったセージの瞳に、眼球から赤い閃光が迸る。
刹那、頭の痛みが急変し、あたかも脳みそがはみ出ているのではという領域へ突入した。
「あああああああああああううううううぅぅぅっ!!」
セージが気が狂ったように頭を仰け反らせ暴れる。何も考えられない。ただ痛さだけだ。
光を傍らでじっと見つめても変化の無いリィナは、セージの肩を慈しむように撫でて、囁く。
「もうじきですよ。もうじき生まれ変わることができるのです……」
痛さは別の感覚を生み出す。快感だ。脳内麻薬の異常分泌。脳の中心から発生した痛さと快感が混ぜこぜになって思考を侵食する。瞼を閉じているのに眼球内に光源があるかのように光が容赦なく神経を刺激して、耐えがたい苦痛が肉体を痙攣させる。
セージは言葉にならない絶叫をあげながらも、首に筋を浮かして、必死に耐えていた。
だが徐々に意識が遠のいていき別の感情が生まれ始めた。同時に、痛みなどの感覚が消失。意識という船がひっくり返るのを感じた。不思議なことに自分の体と心が分離してしまったように状況を俯瞰することができた。
セージは――セージの心は、肉体が勝手に動くのを止められないでいた。もう一人の人間が肉体を支配しているのを止められないような感じである。肉体という機械の主導権を別の存在に握られてしまったよう。
(どうなってんだ? 俺どうかしちゃったのか?)
言葉を発してみるも、内面に反響するばかりで声帯が動いてくれない。
意思とは裏腹に肉体が勝手に弛緩した笑みを浮かべるとぞっとするほど色気を含んだ甘い声をあげた。
「ああ、神よ…………」
そして眼球をうっとりと撫でまわし微笑する。眼球の化け物は相手が己の配下に下ったことに満足したのか光を止めると極めて聞き取りにくい甲高い鳴き声をあげた。ぽたぽたと液が床に滴る。
内面のセージは思わず仰け反った。
(嘘だろ。え? どういうこと。操られてる? ちょ、体がおかしいぞ)
心は健在だが体がおかしい。状況は既にセージの理解の範疇を超えていた。ああでもないこうでもないと独り言を呟いていると、ルィナが歩いてくるのが見えた。ガラス越しに相手を見るような現実味のない映像だけが心に届いてくる。
ルィナは微笑を浮かべて、拘束具を外しにかかった。あっという間に外してしまうとセージを引き寄せて腕に抱く。温かさと柔らかさが届いて赤面した。ただし心の中のセージである。肉体のセージは当然のように享受するとルィナと手を取り合う。恋人同士のように結んだ手を胸元まで引き上げる。
「あなたも愛を知ったのですね」
ルィナが問いかける。
するとセージの肉体は平素作らぬ柔和な笑みを浮かべて頷いた。
「はい………神の深い愛を心から感じました………」
(感じてねーよ気持ち悪い)
自分で自分に突っ込みを入れるも反応はない。気色の悪い愛やら慈愛やらの抽象的な単語が口から出ていくのを止められず鳥肌が立った。もっとも肌を認識できないが。
洗脳されたにしては心は無事。けれど肉体が勝手に動く。摩訶不思議な現象を前にセージはお手上げだった。一つ言えるのは神様とやらは化け物だったということである。
ルィナとセージが、神の前で跪くと祈りを捧げる。聞いたこともない文句を唇が紡ぐ。
最後に二人は眼球にキスをした。
(………吐きそう)
眼球の臭いと感触だけを味わってしまったセージは激しい嘔吐感に襲われるも、肉体は反応してくれなかった。毒づきながら眼球を睨みつける。充血していた。
二人が祈りの言葉とお辞儀を合図に神を見送る。神もとい化け物はずるずると扉の奥に引っ込んでいった。リィナが閂で扉を封鎖した。セージの視界には扉の奥に大穴が大地の底まで伸びている様子が見て取れた。
「参りましょう。神のために祈るのです」
「わかりました、向かいましょう」
セージの肉体はルィナに導かれるまま本堂へと向かったのだった。
無論、心は今すぐに本堂に放火したくてうずうずしていたのだが。