LXXIII、
この世界の蜘蛛は少しどころかだいぶ違うと“女の子”が感じたのは、この世界にやってきてすぐのことだ。確かに元の世界と同じ蜘蛛もいた。両掌に収まるような、小さい種類である。
犬、馬、それ以上の大きさを誇る大蜘蛛は、いなかった。
始めは獲物や外敵にしか見ていなかったが、戦い、殺し、食べて、様々な文献を読んでいくうちに、人一人なら容易く捻ることができる馬力と、生半可な剣ならば弾く強靭な外殻、仲間とコミュニケーションを取り共同できる知能など、およそ蜘蛛とは似ても似つかぬ生物であることを理解した。
それは良いのだが、実際に世話をするとなると、ことはそううまく運ばなかった。
蜘蛛は雑食なので残飯やらキノコやらをごっちゃにした混ぜ飯を運んできて適当にブチ撒ければよいのだが、まさに犬が如く食欲をもって集まってくるために危険が伴った。運んでくるや否や金属製の柵を破壊せんばかりの突進で集まってきて、足を打ち鳴らし、盛んに跳ねるのである。柵が壊れないことが疑問であったが、話を聞いてみるとミスリル合金製だそうである。ドワーフの技術力侮りがたしと感動した。
バケツ一杯に詰め込んだ混ぜ餌を抱えて、柵に歩み寄る。
五匹の蜘蛛が複数並んだ眼球を興奮で蠢かせながら、多すぎる足をシャカシャカと動かして猛烈な速度で駆け寄ってくる。蜘蛛は重く、硬い。人をひき殺せる破壊力を有している。檻がなければ死を覚悟する必要があったであろう。
頑丈過ぎる柵に、五匹が一斉に衝突した。檻が軋み、不快な音を立てるも、まるで歪むことが無い。セージはミスリル剣を使っていたことがあるのでわかるが、ミスリルは恐ろしく硬い。それこそ剣にすると、岩に叩き付けても毀れひとつ無く、逆に岩を両断する強度を有している。
檻に近づき過ぎると脚にやられるので、バケツを振りかぶって、中身をブチ撒ける。
蜘蛛の真上に落ちたそれが地面に落ちる。蜘蛛が血眼で餌を貪り始める。恐ろしいのは、雑食ということはエルフだろうがドワーフだろうが構わず食べることができるということである。餌になるのが自分にならないように、注意しなくてはならなかった。
が、である。
セージはもう一杯のバケツをブチ撒けると、蜘蛛が餌を貪る様子を体育座りで観察し始めた。
「かわい………わけねーよなぁ……殺されかけたわけだしさぁ」
ぼそりと呟くと、蜘蛛を睨む。蜘蛛三匹に寄ってたかってボコボコにされたことは記憶にしっかりと刻み込まれていた。訓練を積んだ今ならば火炎放射で炭にしてやる自信があったが、どうあがいても愛玩の対象として認識できないのであった。
「おう、さぼってんじゃないぞ、|長耳(エルフ)」
「………」
横合いから作業服を着込んだドワーフの中でも更に低い部類に入るであろう毛むくじゃらのオッサンが叱咤してきた。彼は餌を満載した籠を抱えてくると、セージの横に置いた。普段ならば一人で世話するのだという。
セージは黙々と籠から餌をバケツに詰め込んでは、檻の中に放り込んだ。仏頂面は崩れることがない。
オッサンは何かにつけて長耳だの色白だのと呼んでくる。仕事するにあたって名前を教えてあるはずなのにも拘らず、一行に呼び名が変わらない。ドワーフに『チビ』と呼べば怒るのと同じように、エルフの身としては耳や肌の色を取り上げて呼ばれるのは嫌いだった。が、感情を露わに声を荒げれば面倒が増えそうなので、ぐっと我慢して仕事を続けた。
餌やりの次は、労働用に調教を受けた蜘蛛の掃除である。
話によれば、蜘蛛は主に地底にトンネルを掘ったり資源を採取する際の運搬係になるそうであり、全身にびっちりと砂が付着してしまうそうである。
外殻に目印となる番号を振り分けられた蜘蛛が三匹居る。やけに大人しく、静かに佇んでいる。顎をかちかちとすり合わせて、ただ目前に居た。
かつての敵が触れる距離にいることに不安を抱いたセージは、陽気なドワーフの男性に質問してみた。人差し指で蜘蛛を指して、やや仰け反りながら。
「これ襲ってきませんか」
「ほとんど無いから安心しな。たまにしか襲わないさね! ヌッハッハッ!」
「………」
笑えない。
取りあえず一匹目に近寄るとブラシで乾いた土を払って、こびり付いた分はよく使い込まれたピックで削ぎ落とす。作業がやりにくいので寄りかかってみても蜘蛛は襲い掛かってこない。一通り綺麗にしたあとは濡れた布で泥を拭う。
一匹目、終了。作業工程が終わったのを確かめた陽気なドワーフが手綱(鞍もあった)を引いてどこかに連れていった。
三匹終了するのには恐ろしく時間が必要であったが、ただ黙々とこなした。
――案外、簡単な作業ではないか。比較的早く解放されるのではと胸に期待を抱いたのが原因では無かろうが、まるで牧羊犬のように蜘蛛の群れを別の部屋から連れてきた。それも十匹に十匹という規模で。
作業が終わって部屋に戻ったセージは腕と腰の酷い痛みに苦しんでいた。
次の仕事は、翌日であったが、腕と足腰の筋肉痛を抱えた状態でのスタートという難行を強いられた。トンネル掘りで出る土や岩を満載した蜘蛛を指定の位置に連れていっては戻ってくるという単純な作業なのであるが、朝から始まり夜まで連続するという重労働であった。おまけに三日間続けての作業ともなれば、最終日を迎えたセージの顔はもはや悟りを開いた仏のような穏やかなるものとなった。それなりに鍛えていると自負していたものの、限界を越えた労働は、その自信を打ち砕いた。
しかもただ歩くだけではない。蜘蛛を鉄の棒と縄で誘導して只管歩き(乗るスペースが無い)、帰りもやはり歩き(操縦技術がない)である。言うことを聞かない蜘蛛に悪戦苦闘したり、遅いと罵られたりと、散々な目にあった。
二つの労働を乗り越えて、三つ目の労働が始まった。
またも蜘蛛だった。蜘蛛の死骸から外殻をはぎ取るという、牛の解体作業にも近いものであり、汚れ仕事なのは間違いなかった。
慣れた手つきで鋼鉄の刃を使い蜘蛛の足を叩き落とすと、体液が付着するのも気にせずに死肉に刃を突き立て、手前と奥を行ったり来たりさせることで殻を剥いでいく。内臓の鼻が曲がりそうな匂いにさえ顔色一つ変えずに解体作業を進める女の子というのは狂気さえ孕んだ光景であり、里に来る際に初めに話した男でさえ多少気後れしていた。
しかも作業はどの外殻を使うからこのように剥げとだけ指示しただけで、まさか本当にできるとは考えていなかったらしく、周囲のドワーフ達は呆気にとられていた。
初めに出会った男は、黙々と作業を進めるセージをじっと見つめ、髭の生えた口元を微かに開いていた。
視線を上げ、問いかける。作業も既に半ばである。とっとと終わらせて里から出ていきたかった。
「なにか?」
「いや、なぜ解体できるのだ。できるとは思っていなかったのだが」
うっかり内情を滑らせてしまった男はしまったとでも言う様に口を押さえたが、既に遅かった。殻を剥いで横に投げやったセージは口を尖らせると、ふん、と鼻を鳴らした。
「それって無理難題を押し付けたってことですよね」
なるほどと納得するセージ。
二つの作業は子供でも出来たであろうものであったが、最後の作業だけは子供ができるようなことではなかった。無理なことを押し付けて帰らせないようにもしくはこき使ってやろうという意図があったのだろう。
だがそうは問屋が卸さない。セージはもともとその昔、蜘蛛を相手に格闘して食料としてきた経緯があった。世話だろうが解体だろうがどんと来いだったのである。
解体作業は意外と楽であった。作業後にいつまでも臭いが残ってしまうのが難点であったが水浴びを繰り返すことで落とすことに成功した。
三つの作業を終えたときには、一週間という時間が経過していた。
男から自分の装備を受け取り、若干の食料と水の携行を渡されたセージは、手早く身に着けた。男はついてくるように言い、トンネルの中を進んでいった。一時間弱ほどして井戸とは違う出入り口に辿り着いた。廃牧場にはもう一つの入口が隠されており、セージはそのもう一つのほうから出ることとなっていた。見上げてみれば、民家を四段積み重ねた深さの縦穴が空いており、梯子で出られるようになっていた。
セージは男の方に顔を向けると、梯子に足を乗せて第一段を登った。梯子を構成する縦棒と横棒を結合する縄が乾いた摩擦を鳴らした。
「それでは。えーっとお元気で」
「社交辞令はいらない。縁があったらまた会おう。無ければ、二度と会うこともあるまい。いいか、ここのことは他言無用だ」
しつこいくらいに隠匿について誓わせようとする男に、ひらりと手を振って応じた。その首に、例の首輪は無かった。ドワーフは約束通りに三つの労働を済まし次第、首輪をとってくれたのである。元々侵入したのは自分であるという自覚があるので、例え親しき友人にもしゃべるまいと心で誓っていた。
セージは梯子を登り始めた。ややあって見下ろすと男の姿は消えていた。板に泥を塗って作ったらしき隠蔽用の壁が通路を塞いでいた。黙々と手足を使って地上へ向かう。右手、左手、順々に、交互に梯子にかけては体を上に上に。
地上が近づくと、ハッチがあった。金属製の頑丈なものだ。閂を横にずらして開くようにすると、取っ手を掴んで薄らと開けてみた。空気の奔流が隙間からなだれ込んだ。
セージは目を細め、外の光の強さに耐え忍ぶと、そっと顔を覗かせた。
「………」
周辺に人の気配がしないか、耳を澄ます。聴覚に反応したエルフ特有の耳がぴくぴくと震える。セージは瞳をぱちくりさせると、匂いも嗅いでみた。新鮮な大気が肺を満たし心地よい気分になった。ハッチを体が外に出られる面積分開いて身を滑らせると、窮屈な『窯の中』から四つん這いで這い出す。
「よっし、外だ! ………」
やっと自由になれた嬉しさに腕を引いてガッツポーズを決めたセージは、一転して沈黙してしまった。窯に中腰姿勢で半身を突っ込むとハッチを閉めて藁屑を詰め込む。
そして、その場に足を投げ出して座り込むと、頭を抱えた。
「どうすんだよ俺……みんな行っちゃったよ」
目下の問題は、ここが王国の真っただ中であり、仲間は恐らく作戦を遂行するためにどこかに行ってしまったということであろうか。片付けるべき問題の多さと危険性の高さにセージは眩暈を覚えた。
まずはともあれ立ち上がる。膝とお尻を叩いて起立すれば、指輪と剣とナイフを指に触れた。装備が安心感をもたらした。心のざわつきが落ち着いていき波紋程度の揺らぎへと終息をする。
セージは足元にあった藁を拾うと指に巻き付けて遊びつつ、歩き始めた。
「誰か置手紙でも残してればいいんだけど」
そう呟くとまずは井戸に向かおうと歩調を早めた。