LXXII、
呻く。意識が境界線を潜り抜けて覚醒の領域へとたどり着いた。
淡い色の瞼がぴくっと震えるや、薄らに持ち上がった。
「うぐ……。ん? ここは……」
目が覚めると、知らない天井があった。正確には知らない壁だった。なぜならセージは仰向けではなく、ベッドに寝ているのでもなく、壁に磔にされていたのである。体が垂直になっているということは顔は壁を見つめることになるのが道理である。
体を動かそうとして、まるで鉛でも括り付けられているような倦怠感が全身を包んでいるのに気が付いた。そして、己の体が物理的に身動きできないのだと思い知らされた。肢体ががっちりとした革製の拘束具で縫いとめられており、金属製の鎖が体に巻き付いていたのだから。おまけに革は革でも、質感からドラゴン革と推測できた。得意の火の魔術を全力で集中させても焦げ目を作ることすらできないであろう。
「……く、この」
大の字に両手足を広げて拘束されている状態は、好ましいとは言えない。
腕の筋肉に力を込め、足を捩り、拘束が緩まないかを試みた。無論、革がギシギシと鳴り、鎖が擦れただけであった。ヴィーシカならあるいはであるが、セージには無理である。
ふと、己の指を見つめた。
指輪が無い。魔除けの指輪と、外見擬装用の指輪が、指から失われていた。腰に目をやる。剣とナイフも無かった。
顔から血の気が引く。エルフであることが漏れれば連合側の作戦が露呈することになる。指輪が無いのが自然現象とは考えにくい。当然のことながら外したのであろう、誰かが。外した人物は間違いなく耳を見たはずである。そして、磔という体勢。脳裏に阿鼻叫喚の地獄がちらついた。
人の気配を感じ取った。耳に力が入った。細い耳朶が傾ぐ。
部屋のドアを開いたのは、小柄な髭面の男性であった。
きっと拷問するに違いない。覚悟を決めることなどできず引き攣った顔をしたセージは、ますます逃れるために身をじたばたさせた。ドラゴン革がきゅっと鳴っただけであった。
「暴れるな、害するつもりはない」
「嘘つけ。ならこれを取れ」
出現した男性は無表情でセージを見つめ、発言した。敵意やザラザラとした欲望の類は感じ取れず、あくまで事務的な対応であったが、信頼できる相手ではなかった。背が低いのと、髭を生やしているのも不審な点と認識した。
その男はつかつかと歩きで寄ってくると、正面で止まった。低身長、猫背、髭、濃い目の体毛、たくましい筋肉。セージの記憶のページが自動で捲られた。外見的な特徴に合致する種族が存在した。それはドワーフである。
恐らくドワーフであろう男は、岩づくりの部屋においてあった椅子を引き寄せてくると、セージの前において腰かけた。
「言うまでも無かろうが我らドワーフは密かに生きてきた。そこへお前がやってきた。秘密の入口からな。あれは本来、我らの協力者のみが通ることを許される道だ」
「………長い話は好きじゃない。俺を、どうするつもりなんだ」
ドワーフ族はその昔、現在のエルフ族と同じような理不尽な迫害を受けて各地から姿を消してしまったとされる。山奥や、渓谷に秘密の里を築いているという噂があったが、まさか人里からほど近い牧場の井戸の底に住み着いているなど考えもしない。恐らくそれがねらい目なのであろうが。灯台下暗し、である。
が、セージにはドワーフの境遇や隠れ家の位置などどうでもよいことであった。重要なのは、無事で返してくれるかの一点のみだった。
顔が引きつるのをなんとか堪えて、恐る恐る、しかし勇敢さを滲ませて声をあげた。
すると相手は懐から鏡を取り出すと、鏡面を節くれだった手で叩いた。
「首のところを見ろ」
「首輪……っていつの間に」
鏡には、肢体を拘束され、武器も装備も無く、年齢の割に筋肉の乗った少女が映りこんでおり、その首には白磁色の首輪らしき物体が巻き付いていた。
相手の説明は続いた。
「それは命令に逆らうものを戒めるアーティファクトだ。我が里の者を害するか、里から逃げ出すかで“起爆”する。首が飛ぶことになる」
「冗談……ですよ……ね?」
不穏な言葉が口から出た。文字通りに解釈しても、しなくても、致命的なものである。
セージは思わず表情が崩れ去りそうなのをぐっと腹の筋肉で堪えると、語尾が消え去りそうな質問を投げかけた。
「冗談は時と場所を選ばなくてはならない。これは冗談などではない」
「ああ、つまり奴隷になれと」
「そうではない」
「何をすれば解放してくれると?」
殺すならば、とうに殺している。奴隷にするならばなれと迫るだろう。手籠めにするならば、やはりもうしている。しないということは別に目的があるという意味である。
セージは暴れるのを止めると、相手を真正面から見つめて問うた。
相手は椅子から立ち上がると懐を弄って鍵の束を取り出した。
「里のために三つの労働をすれば解放しよう。ここの位置を決してしゃべらないと誓ってな」
「いい条件だとは思うけども、いまは急いでいるからあとで戻ってきて労働というのは」
「解き放った小鳥が戻ってくるものか。これでも条件は随分と緩めたのだ。長老はお前を殺して埋めてしまえと仰せになられたが、周囲が反対したのだ」
「あ、やっぱり働きます。働かせてください」
ドワーフの里で時間を食えば、地上の戦争からは置いてきぼりにされる。牧場で突如行方不明なったというのが現実であり、労働をこなして地上に戻っても、味方がどこにいったのかさえつかめなくなっているであろう。
が、それも命ありきの話である。逆らえば痛い目に合いそうな予感が、直感を通さずとも言葉で伝わってきたので、首をぶんぶん上下に振る。
セージはいつ磔を解除してくれるのかと、相手の手元にある鍵束を熱っぽい視線で見つめた。相手は無表情のままで拘束具の錠前に鍵を突っ込んでは取り外しの作業を始めた。主要な固定具を外され、ようやく肢体の自由が取り戻された。鎖を退けて、床に降り立つ。
手首、足首、腰回りを握ったり擦ったりして拘束時の緊張を解す。腰を捻りつつ片足を上げてストレッチ。腰回りの服が締まり、線が浮く。
セージの主観にして中年に分類できる年齢の相手は、鍵をしまうと部屋の扉を開き、ついてくるように背中で促した。木製の扉がギシギシと咳払いをした。
扉を潜ると、岩と木と金属で補強を受けたトンネルが待ち受けていた。あちこちには光り輝く鉱石が埋め込まれており、ぼんやりと淡い光を放っていた。甘いような、それでいて鼻腔を刺激する土の香りが満ち溢れた中を、二人は歩いていく。
トンネル内部は鉱山のようないつ崩れるのだろうという不安を抱きかねない軟な構造をしておらず、がっちりとした木の柱と金属および岩による堅固な筒状であった。地面に値する下部は岩を寸断して作り上げたと思しきブロックで神経質なまでにきっちりと舗装されており、下手すれば地上の無舗装の道よりも歩き易い。
セージは、ドワーフは優れた技術を持っていたという文献を目にしたことがあり、生きた実物を目にして興奮していたものの、いつまでも果てなく続くトンネルを黙々と歩くことに焦燥感にも似た心の小波を感じていた。何せ、かつて生活したこともある渓谷の里の地下とは違い、この里において彼女は|よそ者(アウトサイダー)なのである。
縦穴に備えられた螺旋階段を下って行って、相手の背中が止まった。足を止めると、相手が懐から鍵束を取り出して、扉の開錠を行っているところだった。
通されたのは部屋であった。やたらと箱が多く、絹状に集合した蜘蛛の巣があっちこっちを占領していなければ、快適と言えるそれなりの広さの。机、タンス、ベッド、と一通りの家具は揃っていた。が、少なく見積もっても半年以上は放置されていたような、過ごすだけで不健康になれるという画期的な部屋であった。
次に案内されたのが彼らの居住区がある先にある食堂であった。老若男女のドワーフの視線を浴びつつ食堂の位置やルールを教え込まれた。
最後に通されたのが、家畜の飼育小屋であった。ただし家畜とは豚や牛のことではなかった。
それは蜘蛛だった。
馬と同等のサイズを誇る蜘蛛が部屋中を闊歩しているという光景に、一瞬言葉を失う。蜘蛛がいることに驚いたのではない。蜘蛛が家畜化されて部屋中にわんさかいるという光景に驚いたのだ。
隣に佇む男はこう言った。
「こいつらの世話をしばらくの間やってもらう。それが一つ目の労働だ」
そしてセージは、かつての懐かしい食糧兼外敵の世話をすることになった。