LXXI、
大まかにおいて、ことは順調に進んでいたと言える。
まず王国への侵入。発見されることも無く成功した。痕跡の隠ぺいもほぼ完ぺきといえよう。
作戦遂行にも穴は無かった。賊を装い、襲撃を行う。時に敵の拠点を。時に敵の交易路を。
セージら一行が次に目指したのはより前線に近い王国の主要道路が交差する地点であった。いよいよ連合軍と連動した作戦が始まる。最前線をかき乱すのは危険が大きいため、兵員が終結する地点で騒ぎを起こして攪乱することとなった。他の隊も同程度の脅威に対して行動を起こすであろう。
戦争のために国中に張り巡らされた道の恩恵で発達した街、それがねらい目であった。
問題と言えば先の作戦でもあげられた、投入可能な人員の少なさである。質で言えばヴィーシカという名だたる戦士が居るとはいえ、しょせんは少人数。物量押しされたら無傷では済まされない。必要なのはいかに効率的に混乱をもたらせるかということ。年密な偵察の上で作戦を練らなくては、破滅が待っている。
そこで一旦、一時的な拠点を街の郊外に置き、偵察班と待機班に分かれることとなった。
メンバーは長老、ルエ、そして数人。そして待機がセージとヴィヴィとその他である。
待機班のやることと言えば主に待機であり、偵察班のように困難な事象は無い。あるとすれば敵の襲撃に備えること。偵察班が任務をしくじった際の救出を行うこと。であり、エルフ側の勢力と勘付かれないように気を揉む偵察班と比較すれば、容易と言える。
待機班が待機するのは、街外れで朽ち果てつつあるかつての牧場である。放棄された施設を活用する理由の一つに、身を衆人の前に晒さないということと、ゴロツキと誤認させるためがあげられる。治安の悪い街外れの、よりによって放棄された牧場にたむろする集団となれば、まさかエルフの部隊だとは考えもつくまい。
輪郭の淡い月が空にぽっかりと浮かぶ静かな夜。酷い濃霧が隆起の少ない大地をねっとりと舐める、視界の効かない天候下。月の銀色が、大気中に満ちる靄に乱反射して、ますます視界は閉ざされていた。
かつての牧場は、見るも無残に藪だらけの牧草地と、年月と植物の侵食で半壊した建物しか無く、視界の悪さも手伝って天然の迷路と化していた。視界が効かないのならば、皆で集まっていればよい。廃墟――もとは牛小屋――のすぐそばに固まった隊の一同は、悪視界を利用して接近してくる者がいないかを警戒していた。牧場の周囲には糸と鈴を利用した原始的な罠を仕掛けて、更に牛小屋の天井に人員を配置していた。
セージも一応の警戒を行っていたが、他の仲間と同じく気が抜けていた。濃霧の中、荒れ果てた廃牧場にノコノコとやってくる人間が居るとは思えなかったからである。
牧場で使えないものが無いかを探索しようと、掌に乗せた欠片ほどの火を頼りに、うろつく。視界はあまりに悪く、馬三頭四頭も空間に挟めば真っ白という有様であり、多少の灯りをつけていても遠方からは目視できまいという考えがあった。
牛小屋に入ったセージは、農具が無いかを探した。壁、収納部屋をあちこち探る。壁には無かった。収納部屋らしき扉に近寄ってみれば、ドアノブを捻る。腐った扉は耐え切れんと言わんばかりに砕け、セージに伸し掛かるように倒れ込んできた。咄嗟にそれを足で食い止め、後退した。
中身を覗き込み、溜息を吐く。
「しけてんなぁ」
農具があった。鋤、スコップ、鍬、その他。どれも予想に反さず農具であり、利用できる物資に分類するには、弱い。長物武器として運用することもできたであろうが、セージは好んで剣を手にしてきたわけで、扱いきれるとは言い難かった。閉める扉が無いので放置して次に赴く。
外に出て、仲間の一人に挨拶をすれば、何気なく井戸に近寄る。
滑車のついた、オーソドックスなタイプ。手に宿した火を井戸の空洞に近寄せて中を覗きこむ。果てしない奈落へと通じているのではと錯覚させるほどに深く、底が見えない。果たして水があるのかさえ不明であった。火を消すと、ロープを掴んで、いまだに井戸の底にあると思われる桶を引っ張り上げようとした。滑車がからからと滑らかに駆動する。真新しいロープにより伝導した力が滑車を動かし桶を手元へと引き上げた。
「枯れてんのか? 変な井戸だ」
が、手元にやってきた桶に水は一滴たりとも付着していなかった。首を傾げると桶を投げ入れ、手を離す。滑車がからからと耳障りのいい音を鳴らす。底についた桶が、乾いた金属音を奏でた。
―――はて?
傾げた首を戻したセージは、ロープから手を離すと、何気なく掌に火を灯すと再び底を覗き込んだ。果てない底は、やはり見えない。掌の火を増大させて光を底にやっても、見える気配すら無い。まるで墨汁のような暗闇が立ちふさがっていた。
井戸の底に水が無いのはよくあることだが、金属のような音を立てるだろうか。疑問が頭をいっぱいにした。
井戸について考察を深める。廃墟のような牧場において、井戸は一見して『普通』に思える。囲いは植物の蔓に覆われているし、桶もお世辞にも新しいとは言えない。がしかしロープや滑車などの部位は新しくまるで誰かが定期整備しているよう。おまけに整備している割には水が無く、底からは謎の金属音がするなど、不審な点が多すぎた。
――どうせ暇なのだ、調べてみるのもいいか。
セージはロープと滑車を丹念に調べ上げ、それが十分人ひとり分の重量に耐えきれるかを検分すると、ロープが動かないように井戸の滑車を支える横棒にしっかりと結び、腰に巻き付け、保険とする。そして手袋を嵌めると井戸の中にするすると進入した。
井戸の両壁に腕を付き、ブロックの凹凸に足をかけて、順々に降下していく。こういった軽業染みた真似は一応最低限の訓練を受けていた。
底についた。ロープを腰から緩めて落とし、手のひらを広げる。
「〝灯れ〟」
肉体と魂を繋ぐ力が零れ、流動して、渦を巻きながら掌に集中すると想像という型に当て嵌められて温度を上昇させ灯火と化す。火を灯すという単純な魔術でさえ使えなかったころとは月とすっぽんの手慣れさである。
底は、まさに底であった。地下水脈など無く、水の溜まりさえもない。それどころか井戸としてあるまじき構造であった。底一面に黄銅色をした金属を敷き詰められていた。かがんで目を凝らす。かつて水が使ったらしき汚れが浮いていた。視線を横に滑らせてみれば、井戸の岩組みにも微かに水が流れた痕跡があった。がしかし、肝心の水脈に繋がる地面が無く、言うならば岩の筒の底を金属で止めたような、少なくとも井戸ではない何かであることが判明した。
セージはしゃがみ込むと、じっくりと金属の地面を見つめた。もう何年も使い込んだナイフを抜くと、擦り付ける。金属とナイフ。軍配が上がったのは金属の床であった。傷一つ、曇りひとつつけることが叶わない。
「ん………なんか書いてある」
よく観察してみれば、解読しにくい文字列が金属の表面に彫られていた。金属を加工した後からノミのようなもので刻み付けたような、細く、不揃いな文字が、丁度隅の方にあった。砂が上を覆っており、見難いことこの上ない。セージは頬に空気を溜めると、空圧で砂を払った。
ひょろひょろしたそれは、どこかで耳にしたことがある文字の並びであった。声に出して読んでみた。
「何々? 地にも天に劣らぬ輝きあり………? 聖書じゃあるまいし」
たしか神や人間と戦争やるよりも金銀財宝集めてるほうがよほどいいと言ってのけた悪魔がいたな、と記憶を手繰る。
次の瞬間、視界が移った。
金属板がまるで初めからそうであったかのように一回転すると上に乗っていたセージを奈落の底へと叩き落としたのである。
「ああああっ!?」
可愛い悲鳴――など無くて、喉が千切れんばかりの絶叫。眼下に広がるは暗黒。落下死が脳裏をよぎる。魔術で風を操作して逆噴射をかければ減速できたかもしれないが、生憎専門外であった。
空中で身を捩り、目を瞑る。腕で頭を守り衝撃に備えた。
刹那、セージの身は暗き水の中に投げ込まれていた。水柱が上がった。着水の衝撃に内臓が歪む。衝撃により一瞬思考が切断された。みるみるうちに沈み行く肉体が、ばたついた。必死の形相で水中で姿勢を正すと、腕と足を振り回して頭を上に向けて、ドルフィンキックで水面に上がった。
「ぷはっ! はぁ、げほ、げほっ………うぇっ、ちくしょう……」
気道に侵入を企んだ水に咽る。苦しい咳をした。
ブロンドの前髪が濡れて顔に張り付いている。
セージは、唾液を吐き出すと、両手両足を規則的に開いては閉じる立ち泳ぎに移行して、周辺に視線を走らせた。暗い。狭い。見えぬ、わからぬ。
動物という生き物は見えないものに恐怖を感じる性質がある。例外なく、セージも目隠し状態で踏ん張りの効かない水面に投げ出されたことで恐怖を感じていた。キョロキョロと暗黒の中で首を振って、声を張り上げる。わんわんと反響して耳にうるさい。
「なんだこれ……罠? それにしちゃ槍が足りないぞ~……誰かいませんかー? いねーか」
灯りの存在しない地下においては、光源が無い限りは暗黒の世界が当たり前である。水に満たされているということもあり、目を瞑って風呂に身を投じたように感じられた。
手を伸ばしてみれば、何かが触れた。硬い感触がした。それも、土などではありえない硬質さと、平たさ。何者かに加工されたのであろう硬い壁があった。全周を探ってみた。右も左も後ろも壁。唯一正面だけが空いていた。上を見上げてみれば、暗黒。金属の地面もとい蓋の密閉は完全だった。光の筋一つ目視できない。
「〝灯れ〟」
再び掌に光を宿すや、全身に衝撃が走った。視界が発光し肉体が燃え上がる。歯がカチカチと鳴る。腕、足、腹、背が震えた。
それが電流であると気が付いたときは時すでに遅し。周囲の水から伝導した電気の奔流に意識がシャットダウンし、水面に浮かぶこととなった。
「………あいつではない……となれば、侵入者か……」
何者かの声をセージは聞いた気がした。