XLIX、
旅の手段は徒歩ではなかった。当然である。仮にも技術支援団ともあろう者たちに危険な徒歩で行ってこいと言う訳も無い。エルフの里が連合の支配領の中にあるとはいっても、大陸全土がそうではないのである。歩き続ければ、いずれ王国の領域に辿り着く。もしくは物取りやら奴隷商人やらが低丁重にお出迎えしてくれるであろう。寄ってたかって攻撃を受ければエルフと言えど全滅は免れぬ。
では馬かと言えば、違う。何か。答えは、ワイバーンである。
人間側がワイバーンの飼育に成功しているため、絶対的な安全が保障されているわけではないが、少なくとも地上からの攻撃は届かない。高度と言う防壁を破るのは通常困難を極める。
ワイバーンは巨大なドラゴンと比べれば戦闘能力に欠けるが、飛行能力に関しては優れている。その気になれば操縦者を含めて三人を乗せたうえで二人を足にぶら下げて戦闘機動だったこなすのである。もちろん、足にぶら下げるのは基本的に敵であるが。
一団は、ワイバーン隊に送ってもらうべく、里の最上部にやってきていた。
セージは一団が皆平然としている中で、顔を強張らせていた。他の人が子供のころなどにワイバーンに乗せてもらった経験があるのに対し、剣ばかり振っていたので、初体験だったのだ。
トラック程の空間を優に占有するそれは、独立した腕を持たない飛ぶための生物だった。色合いは深い黒緑。翼の先端、尻尾の先端共に棘が生えていた。全身が硬質な鱗で覆われており、弱点になりうるであろう頭部は皮の鎧で守られている。操縦者の趣味なのだろうか、長い首に青い宝石のついたネックレスがあった。
ワイバーンが、擬音に起こせば『クェェェェェェッ』と鳴き声を上げた。腹に響く大音量。耳が痛い。
操縦者が、つまりワイバーンのマスターが、長首を乙女の肌を扱うように撫でた。鱗の無い口元の柔肉をむにむにしたり、白い角をノックしてみたり、ワイバーンは男の胸倉に鼻を寄せてみたり、すんすんと匂いを嗅いでみたりと、親密さが窺えた。否、親密さを越えている気がした。愛に片足突っ込んでいると感じたのだ。
男は頬の肉を蕩けさせ、気持ちの悪い声をワイバーンにかけていた。
「よぅし今日も美人だなお前はー? んー? 可愛いぞ! 可愛いんだよ!」
『クェェェ……』
「よしよし! よしよし!!」
『クゥゥ……』
この人は何をやっているのだろう。
セージは、一緒に乗ることになった人の横に立って、マスターの奇行もとい愛情表現にあんぐり口を開けていた。この上なく幸せそうなので、『早く乗せてくれ』とは言えなかった。
他のワイバーンらが飛びたとうというときになって、ようやく乗せて貰えた。鐙に足をかけ、マスターの手に掴まって一息に登る。指示通りに革製の固定器具を装着した。
「君は初めてかい?」
「そうです。飛んだことなくて……」
後ろに乗った男が、声をかけてきた。もし落ちそうになった時、後ろから支えてくれるというので、セージは操縦者と男に挟まれる位置に乗っていた。
酷く緊張していた。知らぬ生き物に身を任せて空を飛ぶことに胃が痛んだ。己が落下し地面に叩き付けられる想像が頭から離れなくなっていた。
男が、セージの肩にぽんと手を置いた。
「緊張しなくても大丈夫さ。うちの里のワイバーン乗りは優秀だから――特に彼はね」
「え?」
男が肩に置いた手の人差し指を立てると、マスターの短く刈り込まれた頭を指した。
彼はルンルン気分で地図に目を通しつつ、暢気に歌などくちぐさみ、頭を左右に振っている。ワイバーンは岩の地面に頭を擦り付けていて、どちらにも緊張感が無い。
「………」
セージは本当に大丈夫かと、ますます怖くなるばかりだった。
一団が全員ワイバーンに乗り込んだ。マスター達は一堂に会し、地図を片手に最終確認を始めた。ワイバーンの体力や体調はもちろん、敵の襲撃、時間帯、風の流れ、もしはぐれた時はどこに向かうべきかなど、手短に話す。
ようやく戻ってきたマスターの顔は、先ほどとは打って変わって凛々しく変貌していた。ワイバーンの鱗に足を引っかけ鐙にまたがり、てきぱきと身支度を整えれば、空を仰ぐ。晴天、雲一つ無し。
ぱむと手を打ち鳴らしたかと思えば、手綱を握った。
「うし、行くぜ。お二人方よ。本日はお日柄もよろしく絶好の旅日和でございます。当旅の案内を務めさせて頂く者です。我ら旅路に幸あらんことを精霊に祈りましょう」
すらすらと口から流れる台詞は丁寧かつハキハキとしていた。
口笛。里の上部の端から順々にワイバーンが翼を広げると、強靭な足を用いて跳躍し、湖に向かって飛び降りた。
セージの乗ったワイバーンも同じく翼を広げた。
「掴まってくれぃ!」
マスターの言葉に反射的に固定器具を握った。次の瞬間、体が鐙に押し付けられるや、セージは羽になった。放物線よりなお鋭い角度にて上昇し、下降に移行。翼が展開して風を孕む。足元に水面が見えた。
湖面を滑空して速度を得たワイバーンが次に起こしたのは、高度に変換することだった。筋肉が俄かに盛り上がる。猛禽が如き脚部が水平に近づく。揚力が生じた。固定器具がギシギシ鳴る。巨躯はセージの甲高い悲鳴を伴い、空高く舞い上がっていった。
翼が上下に揺れて、大地はみるみるうちに遠ざかる。身を強張らせている間にも高度は上がっていった。木々が皿に盛られたパセリのように小さく見えた。
動かそうに動けない下半身はそのまま、上半身をまわして情報を得る。久しく味わっていなかった高速移動。心臓が高鳴る。
「は、はは……すっげぇ! 飛んでる!」
セージは固定器具に爪を立てているのにも気が付かず、快活な笑い声をあげた。眼下には木の海。上は青い雲。前はマスターの後頭部とワイバーンの首。後ろを向くと、相乗りの男が興味深そうに周囲を見回していた。
ワイバーンの隊列は縦に一定の間隔をとって飛行しているようだった。理由をマスターに訊ねてみると、固まっていては全滅する恐れがあるからだそうだ。
空を飛んでいる。ワイバーンという生物の背に乗って。その事実は、気分を高揚させた。
物足りなさを感じたセージは、マスターにお願い事をした。風に負けないように声を張り上げて。
「スイマセンけど、もっと速くならないですか? 風を感じたいんです!」
「速くだって? フフン、俺と相棒に速度? 悪いが体力を無駄に使うわけにいかんのでね。また今度、暇な時に華麗な空中舞踏を披露してやんよ」
マスターはあっさり首を横に振った。要人を運ぶ任務中に危険は冒せない。彼は変わった性格とは言っても、職業意識は持っていたのだ。
ワイバーンの旅路は快適だった。何せ、操縦はマスターに任せておけば、寝ても進むのだ。止むを得ない用事を除けば鐙にお尻をつけているだけで事足りる。朝の清々しい太陽を拝みつつの食事も、また乙なものだった。セージはこの世界に来て初めて楽しい旅というものを経験した。
困ったのは寒さである。何せ風に当たり続ける構造なので、それなりに着込んでいても夜は堪えた。準備のいいことにコートが備え付けられていたので、鎧の上から羽織った。
道中、雨を避ける為に雲を迂回したことを例外にすれば、旅の計画は順調に遂行されたのだった。
数日かけて大陸を行くと、街が見えた。目的の国に到着したのだ。
ワイバーンは一団を降ろすと、一騎を残して帰路についた。記録を取りたいという国側の意向を反映して一騎が残ったのだ。
一団は大いに迎えられた。歓迎会が開かれ、酒と美味しい食べ物が振る舞われたのだった。旅の疲れを癒すにはうってつけだった。興奮気味だったセージが無理して酒を何杯も呑んでぐでんぐでんに酔っ払い部屋に運ばれたのはまた別のお話。
数日後、セージはとある人物らと再会した。
それも、二人も。