XLV、
ワイバーン。翼竜。前足と翼が一体となった飛行に適した竜で、飛行速度や持続距離だけならば龍をも凌駕する。
戦闘能力は極めて高く、凶暴で、たった一匹のワイバーンにより村一つが地図から消えたという話はそう珍しいことではないという。
古くから家畜として一部の少数民族――エルフなどに飼育されてきた。
人間も飼育を試みてきたのだが、成功例は無かった。捕獲の難しさ、繁殖の難しさ、飼育の難しさ、調教の難しさと、難しい揃いであったからである。
人間の技術ではワイバーンを飼育できない。
その常識は今日で終焉を迎えた。
ワイバーン隊を率いる青年は手の合図で味方に高度を上げるように指示し、自分の半身にも同じ指示を出した。
人間側はワイバーンの操りに不慣れなせいなのか、戦闘経験が薄いせいなのか、回避に移らずに後を追いかけて高度を上げ始めた。
「いくぞ。空中戦を教育してやる」
ワイバーン隊の隊長たる青年は自身の半身へ語りかけ、急降下を実行させた。
ワイバーンの身のこなしと柔軟な翼が空中で一回転を実現させる。重力の底に体が落ちていく。地に向かって優雅にロールをすれば、のろのろと上昇している最中の人間の乗ったワイバーンの頭をものの一撃で蹴り潰した。
上昇性能が一緒であるならば、先に高い場所にいる方が、より早く行動に移した方が高みに昇れる。ワイバーンの機動性をもってすれば上昇途中で一回転して格闘戦に持ち込むなど造作も無い。だが人間はそれを知らない。
他のワイバーン隊員も急降下攻撃で一撃を食らわし、各々で戦闘に入っていた。
経験、攻撃手段共に劣る人間のワイバーン隊は、近接戦では圧倒され、射撃においても圧倒されていた。遠距離攻撃が弓しか使えないらしい人間と、火炎やら雷撃やらを投げつけられるエルフとでは、射程距離が段違いであった。
すれ違いざまにワイバーンの翼を雷で粉砕すれば、螺旋を描くように落ちると見せかけて誘導し、空中で停止、勢い余って前方に飛び出した人間搭乗のワイバーンの背中を取る。
「やれっ!」
相棒に命じる。ワイバーンが吠え、背中から襲い掛かる。人間を足で鷲掴みにして固定具から引き千切れば、地面に投げつける。搭乗者の居なくなったワイバーンはあさっての方向に逃げ出した。
ワイバーン隊は対ワイバーン戦闘に慣れていた。なぜなら味方内の訓練として空中戦を行ってきたからである。
残り数騎が不利を悟ったのか、逃げ出した。
青年は追撃を命じた。
人間側のワイバーン隊の勢力は風前のともしびであった。
「ワイバーン隊より報告。敵軍団、約一万! 植民地人を主力とする大部隊が接近しています!」
「馬鹿な! それだけの部隊をどこに隠しておけたと言うのだ」
「事実です! 後方、山岳から少数の部隊の接近も報告されています。正確な数は不明!」
「王国め、本気を出したか? いや、王国の本隊ではあるまい……巨老人に報告せよ! 里中に通達。戦えるものは武器を持てと! 女子供を避難させよ! 急げ、時間がない」
敵勢、一万。
報告を受けた司令室は嵐が訪れたかくや撹拌されていた。
一万の兵というと大したことのないように思えるかもしれないが、その人数が船に乗って押し寄せてくると考えれば途方もない戦力である。打って出るだけの余裕の無いエルフの里には危険極まりない。
行動察知の防止、ワイバーンによる奇襲。人間側の行動は今まで考えられなかった戦略性を含んでいた。
岸に船を運び込まれるまで接近に気が付けなかったということは、湖の周囲の見張りが倒されてしまったということだ。植民地人だけで編成されたお雇い軍だけではなく、本職の兵士が混じっている可能性があった。
幸いなことに、里は湖の防衛線の強化をつい先日終えたばかりであった。船侵入防止用の杭、バリスタの増設、罠の設置など。
司令官は、砦の上部の投石器から放たれる岩が放物線を描いて飛んでいくのを見つめた。
まず、射程に優れる投石器による攻撃を行う。ただ岩を放り投げるだけでは命中を期待できないので、面に対して岩礫をばら撒く。小舟の上と言う逃げ場のない足場の上で、霧の向こうから飛来する物体が襲い掛かる。
だがいかに面で制圧できようと、投石器の再装填速度は決して早くない。一万という軍勢は水に垂らしたインクのように広がって、接近してくる。
次に、貫通力に優れたバリスタによる射撃が船を襲う。
鉄板をも容易に貫通する鋭利かつ巨大な鏃が、観測手の指示のもとで照準され、撃ち放たれる。
ぎっしり人が乗り込んだ一隻の真っただ中に鏃が飛び込む。男の胸を鎧ごと撃ち抜いたそれは、背後の男の腹部すら紙屑のように貫通し、船底に穴を穿った。沈没が始まる。
しかし、いくら投石器とバリスタがあっても、一万という数を削り切るには足りない。
あと少しでクロスボウなどの武器の射程に入るというときに、司令官が新たな指示を出した。投石器にそれらが装填され、威力を絞って投擲される。緩い放物線を描き、水面に落ちて中身を飛び散らす。
兵の何人かは気が付くだろう、それが壺であると。だが、直接被害をこうむった船が皆無だった故、構わず進行する。
人間軍の指揮官の一人が異臭に気が付く。水面が臭っている。戦闘中にも関わらず、隙を見せ、考え込んだ。類似するものは油だった。なぜ油が。なおも投石器で壺が投擲されては水面に散っていく。
とあるバリスタを指揮する男はじっと腕を組んで待っていた。
そして、小舟の密集した場所に狙いをつけさせた。
号令を待つ。
「放て!」
号令が聞こえた。射撃員に見える位置で手を振り下ろす。
バリスタに装填されていた火炎矢が放たれるや、油と接触し、たちまち火の手が水面を舐めるように侵略して船を包み込む。黒煙があちこちで上がった。
それでもなお進軍は止まらない。さながらリビングデッドが攻撃に怯むことのないように、船は進む。漕ぎ手を失えば兵士が漕ぐ。船を失えば……沈むだけだが。
怪物は船を次々沈めては中身を穿り出して食っている。食欲は底知らず。怯える兵士、怒る兵士、どれも無差別で触手で拉致しては水面に引きずり込む。矢や槍が水中に繰り出されるも、次の瞬間には水泳をする羽目になる始末。
そして、とうとう矢の射程に人間軍が到達した。近すぎて魔術の霧による視覚阻害は期待できない。
船上で一斉に弓兵が射撃準備を整え、射掛けてくる。強固な砦の壁には傷一つつけられはしないが、人員に命中すれば被害が及ぶ。エルフ側も応射する。人間側は木の板や盾を防御に使うも、高みから降り注ぐ矢には対抗できず、また一人、また一人で斃れていく。
「ようし射撃中止! 各員矢を番え、待機! 魔術を準備せよ」
司令官の大声が響く。伝令が走る。砦中の弓兵達が、バリスタが、矢を番えたまま攻撃を中止した。
これ幸いとさらに船を進める人間軍。
時折エルフ側に矢が飛来するも、射撃を中止して身を守ることに専念している彼らには当たることはありえない。
突如として先頭の船が止まる。勢い余って後続の船が衝突し、隊列が乱れ、うろめきたった。水面下に打たれた杭と杭の間に張られた鎖に引っかかったのだ。動きが止まる。
「放てェー!」
砦の各配置にて号令の声が高らかになされ、雨あられと矢と魔術の嵐が船の群れへと叩きつけられた。
「バリスタに伝えよ! 梯子を運搬する船があるはずだ、それを狙撃せよと!」
「はっ」
戦況の報告を受けた司令官は、新たなる指示を伝令に言付けた。
砦に侵入するには三つの道がある。
一つ目が砦と湖の岸辺をつなぐ扉である。こちらは敵の侵入を予測して頑丈なミスリル製であり、例え破城槌だろうとへこませることすらできない強度を誇っている。
二つ目は、迎撃用のバリスタや弓兵などが配置される場所から侵入する道。数で押されれば侵入されること必至なため、接近を許さないように戦うことが肝要である。
三つ目の道は砦の上部を乗り越える道であるが、登り切られる前に矢や魔術などで叩き落とすことが十分可能である。
二つ目の道を塞ぐには、梯子を運ぶ船を沈めてしまうのが最も手っ取り早い。
司令官が覗き穴から外を窺おうと席を立った時、扉が乱暴に叩かれ、頼もしい姿が現れた。
「儂の里に押し掛けるとは懲りん奴らだ」
「巨老人!」
そう、完全武装の巨老人が入室したのだ。