XLIII、
「そんな……解毒薬くらいあるんでしょう!」
セージは震えあがった。
怪物の粘液には催淫効果があると伝えられたからである。言うまでもないが頭からつま先までびしょ濡れになるまで浴びてしまった。既に症状は出始めており、風邪をひいたかのような熱に苛まれている。
一線を越えるのは避けたい。男とあるためには、女性の要素を排さなくてはならない。
だから催淫効果に乗せられて自らを慰めるなど、地球が割れてもあってはならないのだ。
ならないのだ。
ところが現実は非情である。お使いを依頼したロウは何のその、首を振るのみ。
「いや……何しろ無害だから作ってない。性的興奮が高まる効果しかないのでな」
「まさか……実験って! くっ……薬を作るために俺を利用したんですね」
「薬を作るのに必要だったからな」
「ひどい!」
悔しがるセージを、ロウは心外だとでも言わんばかりの顔で対抗する。
そう、ロウは怪物の粘液を材料にした催淫剤を作って取引していたのである。だからこそセージに実験の内容を喋ることをためらったのだ。
どこの世界に声高々と『性的な用途で使うお薬作ります』と発言できる者がいるのだろうか。狭いエルフの里ならばなおさら世間体を気にして公言できない。
ロウは右手をセージの方に突き出すや、己の胸元にやった。ジェスチャー。
「酷い? 俺は報酬を約束し、君はそれを了承した。正当な契約だ。医者のところにいけば治してもらえるかもしれんし、体がどうとなるわけでもあるまい」
「普通の女の子ならね! でも俺は男なんで!」
「なるほど、体と魂の性差に苦しんでいるのか。医者相手なら気恥ずかしがることもないと思うが」
「お・れ・が恥ずかしいんだよ!」
などと問答をしている間にも症状は悪化しつつあった。
顔は紅潮し、体の感覚は敏感になっていき、呼吸も荒くなっていく。医者に駆け込むのは己が許せない。誰かに助けを請うのも。ロウが何とかしてくれると思い込んだのが間違いであった。
もはや一刻の猶予も無い。
聞くことを聞いて、すべきことをしなくてはならない。
がっと掴みかかるようなことはせず、いつでも部屋を退室できるように戸の方に後退した。
「魔術で治療は可能?」
「治療を行った例を聞いたことがない。無理じゃないか」
「そうですか。効果はどれくら……持続します、かね」
「一日だ。丸一日続く。不都合だから薬は薄めるのだが」
ロウが悪魔を背後に連れた笑みを浮かべた。
「俺が慰めてやろうか?」
「断固お断りします!」
「そりゃよかった。冗談だ。かくいう俺は童貞なもんでね」
「童貞さん、あばよ!」
お話に花を咲かせている時間はない。手も振らずに部屋を飛び出せば、全力で己の部屋に帰る。脇目も振らず、道行く人に何かあったのかと訊ねられても答えず、両手両足総動員して風になる。
己の部屋に飛び込むと、扉を閉めて、服を脱ぎ捨てる。湖で行水しただけでは落としきれなかった粘液が、脇や足の付け根にべっとりくっ付いている。
成長途上の肢体は、催淫効果により薄ら朱を帯びていた。顔は言うまでも無く、作りの細い鎖骨の下に広がる平原も艶めかしい体温を発している。凸の少ない腰回りは小刻みに震え、年の割には筋肉の乗った足は内側に寄っていた。
手際よく布きれを準備。水で濡らして拭き取ろうとせん。
眉に皺が寄る。
「ふ、っ……ぁっ」
セージは、己から漏れた声の艶めかしさに腰を抜かしそうになった。
皮膚に布地が触れただけで、ビリビリと電流に似た感覚が脳髄を走り抜ける。水を付けても清涼感は訪れず、かえって熱さが増した。
脇を拭く。手が他人のように感じられた。あたかも擽られたかのように、腕が跳ねる。
股を拭く。布を手に巻き付け、爆弾解除に挑むつもりで粘液を取る。腰、足の付け根、そして体の中央と表現されることもある場所。
接触即前のめり体勢で地面に伏せる。腰の力が抜けて、顔面から地面に突撃しかけたのを、両肘で食い止めたのだ。
セージは地面におでこをくっつけ、四つん這い体勢にてその場所を丁寧に拭き取った。布を片付け、服を洗濯籠に放り込み、清潔な服を着ていく。体調が十全なら簡単な作業も、催淫効果が暴れ狂う現状では、重労働であった。
やっと服を纏った頃には、ベッドに入るのにさえ一苦労になるまで怪物の粘液の効果が高まっていた。
セージはベッドに転がると布団を被って団子になった。暗闇の中で、熱い呼吸をする。
「っ……っく、ぅ……ぐぐ………しないんだ……しないんだぞ、俺……耐えろ………」
うわ言が口をついて出る。
人差し指中指を口の中に突っ込み舌で舐る。口から離す。粘度の高い透明な液がとろりと布団に垂れた。
犬のように舌を出して、呼吸する。布団の中の酸素は次々消費されて二酸化炭素が充満し始める。苦しい。布団から顔を出す。第三者からは風邪をひいて寝込んでいるように見えただろう。
布団の中では紛争が勃発していた。
全身を撫でまわしたい欲望と、やらせはせんとする理性がせめぎ合う。悪魔と天使のように、耳元で囁いてくる。目を瞑って振り払う。ところが一層纏わりついてくる。
セージは布団を口に含んで噛み締め、背中を丸め、股の間に腕を挟んで足で締め上げた。そうでもしなくては腕を擦りつけてしまうから。
「ハァ……ハァ………誰か俺を縛ってくれぇ……どうにかなっちまうって……ッ」
天井を仰ぎ囁く。
体の自由を物理的に封じてさえくれれば、理性が壊れても問題ない。腕も足も使えなくなれば自己を慰めるようなことはできないのだから。だが、『俺を縛れ』と頼んで、了承してくれる優しい人は居ない。変態扱いされたくない。醜態をさらしたくない。プライドを守るためには自分で対処しなくてはいけなかった。
ロウの言葉を信じれば効力持続時間は丸一日。現在は昼過ぎ。夕飯は抜きに決めた。クララが部屋に入ってこないように戸に風邪だから寝ると板をかけておいた。
性的欲求に苦しみながらも、夕方までなんとか耐えた。
汗の他の理由で服が濡れてしまい、対処に困った。どことは描写するまい。布で拭くしかなかった。
セージはうつ伏せになって枕に顔を押し付けていた。涎で染みができていた。足の指がひっきりなしに伸縮を繰り返し、布団の布地に皺を作っていた。
こんな状態にも関わらず、他の欲求は通常営業をしている。三大欲求の一つ、食欲。後生大事に抱えた蜂蜜の瓶を手に取り、蓋を開ける。甘い香りがすきっ腹に染み込んだ。
ブロンドの髪を掻き揚げ、潤んだ瞳をパチクリ。
「いただき、ます……」
息絶え絶えに日本式の食前の挨拶。匙を取るのももどかしく、指を突っ込んで舌で舐める。足りない。逆さにして掌に落とせば犬のように食らう。
「あむ、んぐ、おいしぃ」
舐めずにいられない。指を舐めなくては、枕を舐めてしまう。
ぴちゃぴちゃと掌を舐め、指を舐め、新たに蜂蜜を指に付けては舐める。舐めるのでは不足と感じ、瓶を傾けて中身を一気に口に運ぶ。とろみのある液が口内の唾液と乱交する。
セージは瓶を舐めた。口を淵にぴったり密着して舌を伸ばして、全てを食らおうとした。やがて全てを胃に収めると、手に付着した粘着を舌で絡み取り、唇の上下を清める。
血のように赤い舌は、手から手首に唾液を付ける作業に移った。
淫魔が乗り移ったかのように目のピントがずれる。理性という堤防が緩やかな崩壊を開始した。
舌は、手首、腕、そして―――。
「――――ッ!!」
我に返ったセージは全力でベッドに頭を叩きつける。痛みはない。それでも何度も何度も餅つきのように往復すれば脳が揺れて吐き気がしてくる。眩暈がした。
ところが平坦な胸に両手を置くと言う行動をやってしまった。
腹筋が伸縮。肋骨が浮く。咽頭が微動した。
「んっ」
胸を揉み解したい。撫でたい。抓りたい。女体の柔らかさを自分で味わいたい。
頭の中はピンク一色。
そしてセージは、とうとう服を脱いで――――……片手を腿の内側に這わせ―――。
「いかんいかんいかんいかんいかんいかんいかんいかんいかんいかんまずいまずいあぶないあぶないあぶないおれはどうなるおれはふぁっくふぁっくゆー!!」
念仏が如く抑揚の無い文章群を肺の空気の限界まで連呼。己の手を叱りつけ、布団にくるまると、転がって簀巻きになる。足だけが突き出している。エビフライのようである。
時の流れは無情にも同じ間隔を刻む。
眠気がやってくる気配も無く、それどころか催淫効果の影響らしく、目が覚めきっているのだ。
眠ってしまいさえすれば勝ちとしても、眠れなければ意味がない。
ふとセージは閃いた。眠れないのなら、眠くなればいいのだ。
ベッドからのたのたと這い出すと内股気味の足を使って歩いていき、戸棚を捜索する。ほどなくして目的のものは手に入った。睡眠薬。悪夢に対する処方箋。夢を見ないで眠りにつける優れもの。
セージは薬を適量飲み、ベッドに戻った。
暫くすると睡魔が舞い降りてきた。救世主だった。瞼が落ちていった。何も見えず、何も聞こえず、体が浮遊感に包まれた。瞼越しの光も無くなった。
翌日。
怪物の粘液の効果は相変わらず粘り強く持続していた。熱っぽさと体の敏感さは変わらず体を包んでいたのであった。
こっそり朝食を食べに行こうとしたところ、クララが来訪した。朝食を運んできてくれたのだ。
「風邪大丈夫?」
「え、ええ、ダイジョウブッスヨ」
布団に潜り込んで顔の下半分を隠したセージは、今にバレるのではないかと肝を冷やしていた。
クララはあれこれと話をしてくれて、世話も焼いてくれた。怪物の粘液のせいなんですとは口が裂けても言えなかった。
困ったのが、体を拭いてあげると言い出したことである。
自分で拭くだけで過敏な反応をしてしまったのに、他人に拭かれでもしたら、正気でいられる自信が無かった。
クララが帰り際にさりげなく額に手を置いてきた。喉が鳴ってしまう。笛のように。
「ひっ」
「熱いわね。でも、一日寝れば治るわ」
セージは涙目になった。クララの手と接触した途端、額であるにも関わらず脇腹を愛撫されるに等しい衝撃が走り抜けたのである。
クララはセージの瞳に涙が浮かんだのを見遣り、頬を撫でてくれた。
「ちゃんと寝てないと駄目よ? 組のみんなには私が説明しておくから、ゆっくり休んでね」
「はぃぃ」
そしてクララは泣く子も笑う素敵な笑みをくれると、去って行った。
額と頬に順番に手をやった。温もりが残っている。セージはこみ上げる快感を堪えるため、ベッドで一人簀巻きになるのであった。
効力が切れたのは粘液を浴びてから丸一日が経過した頃だった。