XLII、
腹と腰そして太ももにぬるつく何かが絡み付いた刹那、世界が下方に流れた。
否、己の体が上空に持ち上げられた結果、相対的に地面が下に落ちていったように見えたのである。
それが何かと熟考する暇も与えられず、水面から触手が湧き出してきて、次々と体に絡まっていき、アッと言う間に湖中へと連れて行かれたのであった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁごめんなさいごめんなさいぃぃぃ!?」
セージの悲鳴がドップラー効果を伴って岸辺から遠ざかる。
人生初の触手に拉致されるという体験の前には喉も枯れよと絶叫せざるを得ない。叫び過ぎてせき込んだが、再び叫ぶ。
だが悲しいかな、湖の中程まで連れて行かれては、悲鳴は両岸のいずれにも届くことがない。
「ひぃぃぃ食うなぁぁ! あ、離せっ、くそ、こ、これは死ぬ死ぬ死ぬ!」
じたばた暴れて触手を振りほどかんとしたが、触手の数が増えれば増えるほど、力と言う力を吸収され、逆に押さえ込まれていく。
食われはしないとロウが言っていたが、実際に触手で拘束されてしまっては冷静さは電離圏辺りまで吹っ飛ぶ。食われるどころか別の想像まで湧き上がる。触手に絡まれた少女から連想することである。
「くそ、やるならやれよ!」
開き直ったセージは腕を組もうとして組めないことに気が付き、口をヘの字にして暴れるのを止めた。触手を食いちぎろうとしてどうにも止めた。ヌルつく粘液が異臭を放っていたから。
水面から10mはあろうかという地点に縫い付けられ、まさに絶体絶命かと思われた。
ところが、怪物はセージが暴れるのを止めると、触手を緩め、眼球のついた触手で見ることに専念するのであった。巨人に虫眼鏡で観察される気分を味わう。
セージは、眼球に向かって語りかけることにした。
「お前のヌルヌルを貰うぞ。お前、人間の言葉分かるんだろ?」
言葉に反応したか定かではないが、眼球の中央がセージの口元に向いた。その隙に触手を纏めて引っ掴み、手にへばり付いた透明な液を金属容器に納めていく。怪物は抵抗しなかった。
容器の蓋を閉じて金具で固定すれば腰に装着する。怪物の粘液を手に入れた。
怪物はじっと見つめて、時折セージの体を触手で弄るだけで、陸地に戻してくれない。
触手による締め付けこそ緩くなったものの、何本も絡まったまま時間が経過していけば、服は粘液塗れになっていく。感触はボディーソープのとろみを強くしたような。片栗粉の水溶液のようでもある。
体液を持ち帰るためには、自分が帰らなくてはならない。ところが怪物が離してくれない。
幸いなことに食ってやろうだとか、危害を加えてやろうだとか、そういったことを企んでいるとは思えず、言葉を理解するというロウの言葉を信じて、必死に語りかける。
「陸地に連れてってくれよ、怪物君。そんなに俺が面白いのか? 中身は違うけど正真正銘のエルフだぜ」
エルフ特有の耳を引っ張って見せつけると、怪物の眼球が耳を追った。動きの一つ一つに知性を感じるものの、意思の疎通には程遠い。
触手を解いて泳いで帰ろうかと画策していたところ、怪物に変化があった。
突如として水面の一部が不自然にチラついた。次の瞬間、湖と思っていた部位が黒と茶に変わった。驚くよりも早く、それは本来の姿を見せつけたのであった。
それは、小規模なビルと同程度の空間を占有している、もしくは船と同規模の体躯を誇る生命体であった。
イルカと同じく水の抵抗の少ないであろう細長い体とヒレを持ちながら、無数の触手があちこちから冒涜的に乱立していた。最も触手の密度の高い頭部と思しき部位は、もはや触手がより集まって構成されたと表現できるほどで、繁殖期の蛇の群れのよう。
あるべき口などの器官は一切目視できない。全てが触手で覆い尽くされているため、頭部の構造把握は不可能であった。触手が各器官の役割を担っているのだろうか。
怪物は体の色を水と同化させては元の色を示し、己のカモフラージュ能力を誇示する。
擬態をあえて解いたということは、どういうことなのだろうか。
固まるセージをよそに、怪物は触手の中でも細いものを一斉に頭に向けて伸ばしてきた。そして肩やら腰やらを執拗なまでに突いてくる。一本が咽頭に巻きつく。呼吸の阻害はそれなかった。
何事か。あんなことやこんなことされるのか。
触手達はあろうことか腕や腹や腿をずるずると擦り始める。眼球がひっきりなしに活動してまじかで観察を続ける。人間に対して強い興味があるのかもしれないが、やられる側のセージはくすぐったいやら粘液でぐしゃぐしゃやらでたまったものではない。
セージは触手を腕力の許す限りの力で叩いた。
「触んなボケ!」
『グルゥ!?』
水面下からうめき声が響いた。体を締め付けていた触手が緩む。
本来なら慎重になるべきであるが、粘液の効果か否か風邪っぽい症状を自覚したので、とっとと帰るべくやってみたのである。下手すれば食われたかもしれない。
ところが怪物はセージに怯んでしまったらしく、大人しく陸に帰してくれた。
セージが説教をかまそうと意気込んでいると、とうの怪物はセージを陸に戻すや全速力で泳いで消えてしまった。臆病な奴めとセージは鼻を鳴らした。
ともあれ、目的は達成したのであるが、体中が粘液だらけになってしまった。
服もテカテカ、液が下着にまで浸透しており、早急に着替える必要があった。袖を摘まんでみる。ねちょりと糸引いて肌との間に橋を架ける。靴も見事にずぶ濡れ。歩くたびにじわりと液が染み出す。
悪いことに奇妙な臭いがするものだから、セージの鼻は限界寸前であった。
セージは首筋の粘液を手で削ぎつつ、一歩を踏み出した。里を守る壁を睨む。高く、大きく、頑丈そうだった。
「ロウめ……熱が出るなんて聞いてないぞ………なんだこれ」
セージは二歩目を踏み出し、手の平を額にやってみた。熱い。風邪で寝込んだ時のように。ところが平衡感覚は普通であるし、咳も出ず、倦怠感も無い。体だけが熱くなっているのである。
粘液が原因であると断定し、湖に服を着たまま入水する。全身粘液塗れなのだから、今更ただの水に濡れようが構わなかった。
しかし、落とせるところの粘液を落としても体の熱さは止まるどころか強くなっていく。異常な事態だった。
一大事と熱い体を引き摺ってロウのところに戻ると、金属容器を返した。
そして詰問した。ロウの襟首掴んでがっくんがっくん容赦躊躇戸惑いの微塵も無く。
「体が不調なんですが、どういうことです!」
「いや、まぁ、その……なんだ、あれの体液の効果だよ。ふむ、そういうことで、今日は忙しいからだな、離れてくれると助かるよ、うむ」
ロウはしどろもどろ。目線を合わせようともせず、額に浮かべた汗をぬぐおうともせず、理由をつけてはセージを追い払いたがった。報酬はまた後日渡すとだけ言って。
そうは問屋が卸さない。卸させない。
最低でも解毒してもらわなくては。
「だーかーらー! 効果って、なに!」
ロウの首をがっしり掴んで揺する。ロウの方が身長が高いが、頭にきた少女の腕力は病弱な男を凌駕していた。
年上だろうが関係ない。誤魔化すのならば言いたくなるまで続けるのみである。
ロウはセージのしつこさに折れた。肩を落とし、セージの手を払いのけつつ、じりじりと部屋の隅に後退する。
「……だよ」
「はい!?」
もごもごと何事かを呟くロウを、セージは部屋の隅に追い詰めて、飛び掛かろうと両手を前に、腰を落とす。
逃げ場はない。もしあるとすれば壁や床をすり抜けられるだとか、時間を自在に制御できるだとかである。
ロウは俯き、大声を張り上げた。
「催淫効果だよ!」
「はぁ……さいいん……催淫? は……はぁ!?」
放たれた言葉に一瞬沈黙したセージは、意味するところを正確に捉え、戦慄した。