XXXVIII、
「さて、儂について言いたいことがあるのではないかと思うのだが、どうだ」
「………それはっ~~~~」
「例の作戦についてか、それとも王国に忍び込みたいという希望か?」
「どっちもです」
「なるほど。で、どうする。若さに任せて殴るも良いぞ。儂も昔はやったものだ」
「………」
巨老人の間。身の丈に整えられたローブを着込んだ巨老人の前に、疲労した面持ちのセージが立ち竦んでいる。
いよいよもって目標と活力を喪失した今のセージには、不満を口にすることができても反論に展開させることができなかった。まして殴打などもってのほか。力不足なのは事実であるし、敵を餓死させる作戦は効果的だったわけで、残る余地は感情論しかないのだが、怒りも憎しみも憤りも矛先を失っていた。
いっそ王国が倒れてくれればいいのにとすら思ってしまう。ある日突然王国内部で反乱が起こって政情不安定になれば望みが叶いそうである。起こりそうにないのが致命的な点である。
セージは押し黙り、そして沈黙し、口を閉ざした。この場において一言たりとも言葉を発せなくなった。何を言おうと無駄ではないのかと思ったのだ。
氷漬け状態となったセージに対し、巨老人は髭を弄りだした。
「セージ、お前の目的が王国の魔術を盗むことというのは分かっているし、それ自体が下らんと言ったのではない。お前が無謀な自殺行為をやろうとしたから下らんと言った」
「では、実力を付ければよいのですか?」
「そうだな。一人前の戦士になればよかろう。儂とて何か使命を有する者を束縛するほど頭の固い老人じゃなかろうて」
もしくは―――。
巨老人はローブをはためかせつつ背中を見せれば、腕を組み、言わん。
「王国を倒す……さすればお前の道は拓かれるのではないか?」
それは明白な反抗宣言であった。
セージは思いもよらなかったであろうが、巨老人の言う通りに王国を倒してしまえばエルフへの弾劾は止まるであろうし、魔術の回収も容易となる。
絶句したセージの顔を巨老人はにやりと見遣り、退室を命じた。
その日、セージは武器の運搬作業に駆り出されクタクタになって自室に戻ってきた。
いつものように死人のような表情は無く、部屋で本を読んで過ごすつもりも無くなっていた。
光が見えてきたのだ。より現実的で、エルフに恩も返せる一石二鳥の道が。
王国を打倒すればよいのである。巨老人程の男が口にしたのだから、虚でもなければ言い訳でもあるまい。
強大な力を持つ王国とて無敵の最強集団ではない。領土拡大を狙う王国にいい気持ちのしない諸国が立ち向かっており、それをいまだにねじ伏せられないところからもわかることであろう。
ふとセージは、焦って王国に突っ込もうとしたことを馬鹿だったと省みる自分を発見した。
ベッドの上であぐらをかき腕を組んで目を瞑る。今までのこと、これからすべきこと、総合して思考する。冷静かつ論理的に考えという繊維を糸にしていく。
結論が出た。
簡単なことだ。よく食べ、よく飲み、よく学び、よく鍛え、よく働き、よく遊ぶ。成長が必要なのである。早く帰らなくてはという強迫観念に囚われて物事が見えなくなっていたのだ。目的達成のためには段取りを踏むことが肝要である。何年かかるか不明だったが、確実に歩むほかに無い。
―――……妄執にも似た〝神〟への復讐心と、心の傷は消えなかったが。
翌日、セージの部屋にとある人物が訪問してきた。
扉を開けて腰を抜かしそうになった。里にやってきて一番最初に言葉を交わした美しい女性がにっこり微笑みながら立っていたのだから。
最初の感情は驚愕。
「!?」
脳細胞がスパークした。
脊髄反射的に扉を閉めて、失礼ではないかと思い直し、再度開く。赤面。じっとり汗が浮く。何を喋っていいか分からず口をパクパクさせる。
女性は口を手で隠し、おかしなものを見たようにニコニコ笑っていた。瞳がきゅっと持ち上がって弓を作っている。
「あらあら」
「あ、あの時の方ですよねっ!?」
「ええ。私はクララと言います。初めましてではないけれど、握手しましょう?」
セージが食いついた。差し出された手を握る。顔が赤く、息も早く、第三者視点では恋する乙女のように見えたに違いあるまい。
相手は笑みを絶やさず、手を握り返してくれた。
セージは度々舌を噛みそうになりながらも、唇を動かした。
「クララさん? わた……俺はセージです! 汚い部屋ですが入ってください」
「お邪魔します」
セージの後に続いてクララが入室する。
セージはクララの座る場所を工面せんとああでもないこうでもないと部屋中を駆けずり回った。散らかった本もさりげなく仕舞う。全てクララに丸見えだったのはご愛嬌。
ようやく準備が整い、椅子を引いてクララをご案内。
クララは楽しげに腰かけた。
「いいのよ、気を使わなくても」
「俺が気にします」
「あらあら。とにかく座りましょう」
「ええ…………」
セージはクララに促されて座った。これではどちらが部屋の主なのか分からない。
セージとしては色々と訊ねたいこともあったが、その前に観察してみた。淀みの一粒子も見られない絹のような肌。柔和な瞳は蒼海色。金糸は艶やかに鏡面が如き滑らかさをもって肩より垂れ、毛先が内側に向いている。鎖骨の下にある双丘、腰、足、いずれもため息ものの造形美を備えていた。疾しい気持ちは湧かない。彫刻や絵画を鑑賞した時の心境だった。
ユニコーンが化身に変化したとするならば、彼女がそうだった。
穴が開くほど見つめてしまう。美しく、可愛く、安堵できる。異世界に落とされて以来の不思議な感情だった。クララは視線を真っ向から受けた。しかも羞恥するどころか顔を寄せた。
生粋の日本人なら顔が近いと口に出す距離と距離。西洋文化だからであろうか。
「本日はお話があって来ました」
「なんでしょう」
クララは一拍置くと、
「本日より貴方は私の受け持つ組の一員です。外からやってきたと言うけれど、組制度は分かります?」
「はい。学校みたいな制度ですよね?」
「正解です。手続きで時間がかかってしまって……ごめんなさい」
「構いませんよ。楽しみにしてます」
セージは心の中で納得していた。クララの醸し出す雰囲気や会話の運び方は教師のそれだったからだ。中学校の頃の世話焼き女性教師を思い出した。
ただし、教師と言えば教師なのであるが、いかんせんしっくりこない。クララを前にして感受する情報は教師という枠でくくれそうにないのである。腐れ縁の親友と幼馴染を『友人』の枠でくくれないように。
「それにしても、船であった時と印象違いますね」
「あのときは私が緊張してました。どんな人が来るんだろうって。まさかセージちゃんみたいなかわいい子が来るなんて思ってなかったんですけどね」
クララが恥ずかしそうに頬を手で覆う。外見は立派な大人の女性である。が、仕草は年頃の娘だった。
一転してクララは真面目になった。
「さて、セージちゃん。話を戻しますね。組についてのお話なんですが」
「はい」
その後、組に関することについて一通り説明を受けた。学校と大差ない仕組みであったが、元の世界とは違って魔術やら戦闘訓練やら狩りやらを教える時間が設けられていた。
他にも、組の指導者――すなわち教師役の人の指示で里の仕事をこなすのであるという。
この世界において子供は労働力である。日本でも一昔前では子供も大人と働くのが当たり前であった。
話を聞いていて、セージは一抹の不安を抱いた。エルフの社会に溶け込んでいくのはいいが、王国の魔術で元の世界に帰還するという目的を果たせなくなりそうに思えたのだ。
里で暮らすというのは、一つの使命を胸に里から里を放浪していた少女という、ステイタスの喪失に繋がらないだろうか。里で日々を過ごすうちに、王国に近づく機会を掌から取りこぼすことになるのではなかろうか。
王国が倒れた時の事を想定してみよう。
すっかり里に慣れた、なんの変哲もない“少女”が王国の技術で元の世界に帰りたいと意味不明な事をのたまっても、周囲は相手にしてくれはしまい。何年も経過したら、元の世界に帰るという主張も色褪せてしまう。
ふと、一つの閃きがあった。
里で実力を付けていけば、王国に近づけるかもしれない。例えば攻撃隊に参加するなど。
話が終わった。クララは、すっかり考え込んでしまったセージの手を握った。
「セージちゃん。あまり思いつめては駄目よ」
「俺は大丈夫です」
「本当に? ……鉱山のこと、聞いたわ」
「大丈夫です」
「お医者様にお薬貰ってることも、聞いてるの」
セージは口元を無理矢理引き上げた。疲れた笑みだった。外見にそぐわぬその表情は、姨捨山に放置されて絶望に暮れる老婆のようでもあった。
「……お見通しですか?」
「ええ……個人的な問題に首を突っ込むのは良くないことだけれども……」
クララが言葉を切り、セージの手を両手で包み込んだ。
記憶が染み出す。遠い昔とは言えない、少し昔のことだ。帰宅してすぐにご飯を食べようとしたら、手を洗うように言われた事。なかなか寝付けないと訴えると、手を握ってくれたこと。
「これから私たちは“家族”になるの。辛いことはなんでも話して欲しいの」
やっとセージは悟った。
この人からは、母親を感じるのだと。