XXXIII、
“少女”の日常は現代社会から比べれば波乱に満ちたことばかりであった。草を口にし、獣の肉を食らい、熱病に浮かされ、夜中に平原を駆けずり回る。だが、いずれもサバイバルという意味での波乱であり、バトルという意味の波乱はさほど無かったと言える。
そう、無かったのだ。
人と命のやり取りをするような波乱は、ほとんど。
己に暴行を加えんとした男を殺害したことを除けば、己の意思で殺そうと思ったことは一度だってなかった。避け、退け、ひたすらに逃げてきた。
だが、今は違った。
己の意思で殺そうと思った。目的を達成する障害物として殺そうと思った。
相手が殺しに来たから殺し返すのではなく、邪魔だから殺そうと思ったのだ。エルフが里を離れてほっつき歩いているという情報を漏らされては、今後に支障が出る。隠蔽するに相応しい方法として選んだのが殺害だっただけのことだ。
というのもタテマエなのかもしれない。
本当に冷酷な判断にて殺害を選択したのであれば、手足の震えと汗の量が増えたりしないのだから。
言うまでもないが覚悟などできているはずもない。
「この!」
単純な突きを繰り出す。顔面狙いの素直な一撃を、相手は後退することで躱した。
剣を引かれる前に、女の子はこれまた顔面狙いの横薙ぎを実行した。
上半身を反らす。首筋を掠める。脳裏に過る血しぶきに漏らしそうになる。踏みとどまり、すかさずミスリル剣をがむしゃらに振らん。
剣による迎撃がミスリルの体を抱き留め、鍔迫り合いが発生した。力と力が鬩ぎ合う。ミスリルの強度も、こうなっては意味を成さない。しかも腕力が拮抗しているとあれば、状況はどん詰まる。
噛み付ける距離に顔と顔があった。
どちらも相手を殺そうと鬼のような形相をしているので、見るに見耐えないが。
「エルフ……! お前を捕えて売れば、私はこんなことしないで済むんだ!」
女の子は眼前のエルフを捕まえる宣言をしておきながら、隙あらば殺害せんと剣を押す。本来なら殺すつもりはなかったが、戦闘に突入してしまい殺す以外の選択肢を失ったのだろうか。
エルフは一般に殺すべきとされているが、一方で“価値”が高い。先天的魔術特性もそうであるが、寿命が長く、それ自体が魔術の素材として利用できる他、肉体の若さが長きに渡って続くこともある。特に女エルフは性的な用途にはうってつけなのである。
それを捕まえ奴隷化して金持ちに叩き売れば一財産築くことは容易い。
エルフと人間が戦争を始めて以降、希少価値はより高まったのだからなおさらだ。
だが、はいそうですか、と阿呆のように捕まるわけにはいかない。殺されたくないし、売られたくも無い。ならばやることをやるだけだった。
剣を押し返す。腰を踏ん張り、叫ぶ。
「なんでそんなこと!」
「金だよ! 治療費を稼ぐのにはお前みたいなのぼせた馬鹿をとっ捕まえのが一番だろ! 大人しく捕まれば、強盗も止めてやる!」
「だが断る!」
「ならば死ね!」
両者は同時に離れ、同時に剣を引き、同時に対抗する角度から斬撃を浴びせかけた。
金属音が空高く響かん。剣と剣が衝突した反動で腕が軋む。剣と剣が跳ね返った。見れば、女の子の剣に鋭い凹みが刻まれていた。ミスリルの強度が齎したものだった。
第二撃。女の子が豹のように素早くバックステップを踏むと、腰の血濡れたナイフを投擲した。
不意をついた攻撃は、ミスリル剣の防壁で防ぐことができたが、怯んでしまう。落ちるナイフ。
その隙をついて女の子が左腕を掲げた。武器は何も持っていない。魔術を行使するそぶりもない。不自然極まりない仕草。
一種のひらめきが脳内を韋駄天が如き速度で駆け抜けた。
横っ飛びに地面を転がった。
次の瞬間、左袖から何かが飛びだし草むらに消えた。仕込み武器。射程、威力の不足を補うために毒を塗られていた可能性が高い。もし命中していたら行動不能に陥ったかもしれない。
女の子は舌打ちをし、駆け寄る――と見せかけて右袖の仕込み矢を腕を振り回すように射掛けた。
「う、おっ」
セージは斬りかかろうとして踏み込んだ足に間抜けな舞踏をさせなくてはならなかった。足元に矢が突き刺さる。つんのめりそうになるのを、足位置の調整で防止した。
だが、この動きは決定的な隙を生んでしまった。疾風が如き踏み込みで至近距離に到達した女の子の下方からの薙ぎがミスリル剣に激しくぶつかって、いずこに吹っ飛ばした。有力な武器は草むらに消えてしまった。ナイフを抜く時間すらない。
第二撃、顔面狙いの袈裟斬り。後ろに倒れることで危なげに回避。第三撃、のしかかって馬乗りの体勢から顔面に向けての突き刺し。
「〝盾よ〟」
「ちぃ!」
呪文詠唱。あまりに弱いイメージはしかし、命の危機に反応して一枚の薄っぺらい防御を構築して世界に放った。それは丁度、顔面を守るために広げた腕に付随する形で展開した。剣がそれに垂直にかち当たった。停止。
切っ先が、蜃気楼を固めたような力場に押しとどめられ一寸たりとも前進しない。
女の子が全体重をかけても力場を破ることができない。まるで接着されたように引くことすらできない。鋼鉄に突き刺さってしまったように。
セージは、眼前の剣が己の脳味噌を串刺しにせんと押し込まれるのを、他人事のように見ていた。生きているのが夢のようだった。死ねば夢が覚めるのだろうか。目を閉じてみる。暗闇が視界を塗り潰した。
イメージをずらす。盾が徐々に斜めに傾けられるように。剣を誘導するために。直線的な力は横からの力に弱い。
力場が波打ち、変形する。丁度セージの頭の右を下に、斜めになるように。必然的に剣の切っ先は滑り出す。狙いは極めて単純明快。
次の瞬間、セージは深く閉ざされた瞼を開いた。
「な ッ」
剣が対象を殺すことなく横に滑走するや、地面に深く突き刺さった。引き抜こうにも体と体が密着している為に力が入らない。なにより、まじかで睨み付けてくるエルフの瞳があったから。
セージは術が途切れるより数瞬早く女の子の首を両手で捕まえた。
術が風を伴い消えたと同時に、首を腕力の及ぶ限りに締め上げ、体勢を入れ替えて馬乗りになった。女の子の首は柔らかく、楽にへし折れそうだった。爪も立てた。血が垂れる。
「ぎ、ぐ………ぇ……ッ……ふの……せに……」
「し、ね」
女の子もセージの首に手をかけて締め上げだした。
首と首の締め合い合戦。お互いがお互いに優位をとろうと葦の中でもみ合い泥まみれになっていく。
魔術の使用――火炎――却下。草しかないような場所で使えば己も危うい。
「この……」
「………っ」
セージの意識は遠くなりつつあった。
闘争本能に任せて首を絞め、隙があれば頭突きをお見舞いし、生きる為に息を吸おうと横隔膜に鞭を打った。
まず耳が駄目になった。自分の声が骨伝導で聞こえるのと、呼吸、心拍意外に外部の情報を受け付けなくなった。次に思考が駄目になった。シャットダウン寸前まで処理が落ち込む。
セージは状況の打破を計るべく、一瞬だけ締め付けを緩めた。
「はっ……あー……」
「食らえッ!」
女の子の顔が弛緩し、息を吸ったのもつかの間。空いた右手を拳にして顔面を殴打してやった。鼻血が飛んだ。構わず二発目を叩き込む。三発目を入れる前に、腕を掴まれた。左手を自由にして殴りかかったが、受け止められた。
双方の顔は赤くなっているが、羞恥でそうなったのではない。酸欠と殺意である。
腕と腕が拘束し合い、二進も三進も行かぬ拮抗状態が再び生まれた。
セージは馬乗りと言うアドバンテージを活かすべく重力を加算した力比べに挑んだ。隙あらば首を絞めるかへし折るか。目を潰してやろうとも画策していた。
「てめ……っ」
「しぶとい!」
お互いが徐々に疲労で鈍くなりつつあると言っても、上をとったセージの方が有利ではあった。
女の子の顔が歪む。腕の痙攣が始まっている。筋肉が悲鳴をあげていた。いずれもたなくなるのが目に見えていた。
女の子は一瞬腕の力を緩めると、セージの顔の真ん中に額を叩きつけた。鈍い衝撃。鼻の骨を折るつもりの攻撃はしかし血を流させるにとどまった。反撃も同じく頭突き。額で受け止める。頭蓋が鳴った。
セージが再び頭を持ち上げたのを合図に、上半身を起こし、跳ね除ける。
セージは立ち上がろうとして、相手の足が攻勢に移行したのを見た。
「この野郎!」
「あっ!?」
慌てて立ち上がったセージの顔面目掛けて右からの蹴り込みが炸裂した。辛うじて腕で受け止めた。打ちつけられた肉が酷く痛んだ。
次、正面突きが放たれん。
セージはそれを腕の横捌きでいなし、カウンターの拳を横っ面に叩きつけた。女の子がよろめいた。ボクシングのように右左の連続攻撃を仕掛ける。
「軽いんだよガキんちょ!」
だがその攻撃は女の子にあっさり見抜かれ躱され、逆に腹に腰の捻りを加えた正面蹴りを貰うことになった。吐き気。胃の中身が逆流しそうになる。
体をくの字に折ったところを、女の子が両手を重ねて作った金槌で打ち据えた。
セージはどっと地面に倒れ込んだ。
まるでナメクジのように地面を這いつくばるセージを、ボーイッシュな女の子は鼻血を手の甲で拭いつつ、背中を蹴りつけた。そして踏みつける。
――とった。
セージは体重が背中にかかるのを合図に体を回転した。女の子は足をとられよろめく。すかさず身を半分起こし、腰のナイフで斬りかからん。その頃には距離を離されていた。
「うらあっ!」
「っつ゛……ッ!?」
腕に一文字の切り傷を刻む。
続いて、腰だめに構えて突進した。
「……ふん」
女の子はいとも簡単に突進を受け止め、手首を拘束して見せた。だが、それが狙いだったとはついに気が付かなかった。
ナイフの切っ先が腹に向いていることが重要なのだ。
セージは魔力を絞り上げてイメージを練り上げて呪文を紡いだ。使ってはならぬ場所で使った。
「〝火炎剣〟!」
ナイフが火炎の塊と化すや、瞬間的に伸長して女の子のプレートを焼き焦がし腹を貫通せしめた。長さなど剣どころか脇差にも劣るものだし、威力は恐ろしく低い。だが、それは貫いたのだ。
火炎に内臓を焦がされてしまっては、命は尽きるしかない。
「――――――おかあさん」
女の子は悲痛な表情を浮かべ、掠れた声で最期の言葉を述べた。力が抜けていく。後ろにばったりと倒れ込む。
セージはナイフを腰に戻すと、その場に尻もちをついた。
女の子が声を上げずに泣きつつ、己の腹をなんとか治療しようとしている。だが無情にも腹から発生した火炎が身を包み、瞬く間に全身を覆った。絶叫。人の燃える臭いが漂う。
一体の火人形と化したそれは地面を転がり火を消そうとするが、あろうことか周囲の草に引火させてしまった。湿地と言えど燃えるのだ。
「ヤバイヤバイヤバイヤバイ………! ミスリル! ……ミスリル!」
セージの顔色が青信号になる。いい意味ではない。悪い意味である。
水にインクを落としたが如く侵略を開始した火を止める術は既に無く、痛む体を引き摺ってミスリル剣を探すほかに無かった。
ミスリルの強度を考えれば、湿地が燃えた後でゆっくり探しても問題は無かったろうが、本人にそのような余裕は無かった。
奇跡的に剣を見つけたセージは、口の中の血を飲み込み、振り返ることなく全力で駆けてその場を去ったのだった。