Ⅲ、
「―――――う」
目が覚めたのは、空腹と疲労と寒さからだった。
目を冷ませば誰かが救ってくれる。奇跡が起きてくれる。そんな甘い考えがどこかにあったのかもしれない。
しかし、現実は非情である。
“青年”―――便宜上“少女”と呼称しよう―――が身体を震わせながら目を開けると、一面の緑があった。雑草だらけ。蟻のようで蟻じゃない虫が草の葉の上で触角を揺らしている。
「チクショウ……寒い」
今なんの季節なのかは知らないが、空気は寒かった。身体は一晩経ったことで乾いていたにしても、寒かった。
とりあえず身を起こし、体中にへばりついていた良く分からない虫を指で落とすと関節がこきりと鳴った。
寒い理由はいくつかあるが、大きいものは全裸であるということ。全身を洗う為に服を脱いでそこらに放置してしまった為だ。その服はどこにあるのだろう。
小川の周囲を探索して数十秒、分厚い草の上に乗っかった布の服が見つかった。
「あった」
手で取ってみると、湿気を吸って草の臭いまで染みついていて、お世辞にも言い心地とは言えなかったが、着ないと寒くて耐えられないので着た。
例の男が上半身の服を破いたのは直って無くて、胸が丸見えだったが、針一本無いのにどう直せというのか。身体こそ少女でも心は男のままの彼には余り関係なかったが。
「………クソ」
男の死に際が突如フラッシュバックした。
少女はまたしても地に膝をつくと胃液を少量吐いた。不幸中の幸いか、胃の中身が空だったのでそれしか出てこなかったが、喉が胃酸でひりひりと焼けた。
連続した吐いたせいなのか、『吐けばいいじゃん』などと考えるようにもなってきた。人の適応力は凄まじいと言うべきか、それを『処理』と考える辺り吹っ切れたのかもしれない。
小川で口を濯ぎ、比較的平らな岩に腰掛けて今後の事を考える。
どこかで鳥が鳴いている。空は青く、風で生まれる草原の吐息は何から何まで清浄 だった。
「俺……もう帰れないのか? あいつに頼めば帰れるか?」
脳裏に浮かぶのは白い靄のような“神”の腹立たしいニヤケ顔。
なるほど確かに、命まで奪い少女の身体を与えた上に記憶を保持したまま異世界に転生させたほどなのだから、頼み込めば帰れるかもしれない。
では、どう頼めば良いのか。人間なら会話なり通話なり手紙なりで意思の疎通は可能だが、“神”となるとさっぱり分からない。呪文を唱えつつ土下座すればよいのか。
……ものは試しだ。
これで家族の元に帰れて、日常を取り戻せるのならなんでもやろう。土下座でも盆踊りでもなんでもやっていい。頼むからお願いします、と祈る。
少女はその場に両足揃えて座ると、深々と土下座した。
「お願いします帰らせて下さい!」
返事は無かった。あったのは空腹に耐えかねて胃袋がぐぅと鳴る音だけだった。
結局、口に出来たのは木の実と水だけだった。
あの後、血濡れのナイフを半泣きで回収した少女は、付近を探索して食べられそうな木の実を手に入れて、食事をした。
毒があったらどうしようと考えるよりも先に食べてしまったその毒々しい赤の木の実は、すっぱかったが確かに美味しかった。
ナイフだけでは心許ないので身長ほどの木の枝を担いだ少女は、今後の方針を考えるべく、また小川の元に居た。
男を殺害した記憶は心に深い傷をつけたらしく、時折涙を浮かばせ、両顔を覆う始末。無柄のナイフを見れば記憶は鮮明な映像として再生されるので、なるべく見ない。
しかし心のどこかでは『正当防衛だ』と思う自分が居たことも事実である。
太陽は既に真上。
「……人里に行って、働く」
方針を口に出してみた。岩の椅子は少女の身体に堪えたが、他に座る場所が無いので仕方が無い。
人里に行けばボロボロの少女に同情して働かせてくれる可能性はある。現代日本と違い戸籍など無いだろうし、仮にあってもそこまで厳密ではない。
それに、労働基準法なんてある訳も無いという確信もあった。
同時に性的な事に従事させられるのではという恐怖もあった。水面に映した顔はゾッとするほど美しく、“神”が言っていたのが間違ってなかったことが分かった。
青い瞳、左右対称に限りなく近くまた鼻や口の位置や造形が整った顔。白い肌。金色の髪。鈴を鳴らしたような声。どれも美しく、自分の身体とは思えなかった。
だがそれが慰めになる訳も無い。
元の世界で普通の男として社会に出て暮らせればそれで満足だったのに、突然妙な世界に流されたのだ、“神”への憎しみは身を焦がすほどの怨恨にまで膨らんでいた。
少女は岩の上で胡坐をかくと、口を開く。
「旅をする」
旅に出て、元の世界に帰れるまで探求を続ける。
それもいいだろが、果たしてこの少女の身体が長き旅路に耐えられるかと言ったら否である。
第一資金はどう稼ぐのか。労働に耐えられない身体なのにどうすればいい。盗賊をやるにしても、一般人である“少女”は経験も才能も無かった。
他にも不安要素はある。もしも魔術の類のあるファンタジー世界であったなら、魔物でも出てきて殺されてしまう憐れな末路があるかもしれない。ナイフで応戦できるものか。
そうだ、と閃いた。
この身が美少女なら、外見でひっかければいいのではないだろうか。
鼻の下を伸ばしてきた男からカネをせびればいいのではないだろうか。そうすれば、旅の資金は楽に稼げるかもしれないではないか。
待て、と少女は考える。
“神”とやらは他にも何か言っていた気がする。
エルフ―――。
エルフ。耳が長く、弓を得意とする高貴なる山の民。
そんな淡い知識しかないが、一つひっかかった。もしもエルフなら、魔術が使えるのではないかと。
冷静になって考えてみれば、耳が長いからエルフとは限らないのだが、例の男達が『生き残りか』と言っていたし、“神”もエルフと言っていたから、そうなのだろう。
人差し指を出すと、集中する。
「……呪文って……なんだ? 〝灯れ〟。違うか、〝燃えろ〟……違う」
火をつける呪文は初歩の初歩とどこかの小説に書いてあったのを思い出し、使える限りの言葉で指先に火を生み出そうとするが、何も起きない。
ひょっとすると使えないのかもしれないと思った少女は、諦めた。
何はともあれ人里に下りて情報を集めなければどうにもならない。
しかし―――。
「道ってどっちだ……」
舗装された道路どころか半分森に食い込んだこの場所で道を見つけるのは不可能なのではないかと思った。
科学技術が発展した未来なら人の居る場所はすぐさまコンクリートで舗装されたが、ここは科学技術の発展乏しき世界。というより、未来だって山中に大きい道を作ることは稀。
少女は途方に暮れて空を見上げると、木の棒を使って草を叩き倒しつつ前進し始めた。
草を薙ぎ倒している最中で少女は声を上げて泣いた。なぜなら、家族と過ごした日々や、なんでもない日常の一幕を思い出したから。
そしてその涙の中には、追手が来るのではないかと言う恐怖も含まれていた。
完全真白空間にて、一つ、否、到底形容しがたい何者かが佇んでいた。
それは“青年”が神と呼んだ存在であった。
“神”はその“青年”の姿を見て笑っていた。
“神”にとって“青年”は駒であり、道化でしかなかった。死のうが生きようが関係なく、道楽の一つでしかなかった。
そう、“神”は清々しいほど傲慢だった。
力を持ち過ぎたものは暇を持て余す。寿命も無く、またやることすら無いその“神”にはこうして人間を弄くり倒して遊ぶことこそ至上の娯楽なのだ。
人ほど弱く、また強く、そして不安定な存在は無い。それを弄るのは無限の楽しさを持っている。
“神”は視点を切り替えると、今度は別の人物を見遣った。
次は何をしようか。
車に轢かせるのは飽きた。
誰かの身代わりとなって死に、別の世界に送れば、両方で楽しめる。そこに強力な力を与えれば大暴れしてくれるだろう。
病でも良い。末期の癌でも面白いドラマが拝める。
いっその事痴情のもつれで刺されて死んだ方が面白いかもしれない。
それか、人生を逆戻しにして観察するのも楽しそうだ。
そう考えている“神”の顔は醜い愉悦に歪んでいた。
視点を切り替えると、その中で“青年”が土下座をしているのが見えた。
「いいね、実に良い」
“神”はそう呟くと口元を緩やかに曲げ、指を鳴らした。
~~~~~~~~あとがき
装備:ナイフ 布の服 木の棒
資金:無し
魔術:無し
はいはい貧乏貧乏はいはい貧乏貧乏