XXVI、
「情けないな、転ぶなんてさ」
セージは案の定こけた。
先ほどまで寝ていた場所からそう離れていない場所。川の中を覗き込める岩場に行こうとして、躓き転倒したのだ。幸い、受け身に成功したので頭部を強打といった致命的なことにならずに済んだ。
肉を食べようと思い立ち、魚を取ろうとしたらこんなことになったのだ。
気を取り直して木の棒の先にミスリル剣を括り付け、銛を作成すると、改めて水面を覗き込んだ。
セージはため息を吐くと、すっかり短くなってしまった右側の髪の毛を手で梳いた。毛が数本抜けた。
「……選り取り見取りってワケないか」
水流でぐしゃぐしゃの川には予想していたよりも魚が居なかった。
いても小魚としか言いようがないちんけなものばかり。銛を使うよりも網を使った方がいいように思えた。カモフラージュ用のネットの使用を考慮したが、網目が大きすぎて役に立たないと瞬時に理解した。
蜘蛛の外殻で細い銛を作っても仕留めるのは至難の業。
釣りをしようにも虫がない。餌もない。探す気力も体力も無い。無い無い尽くしの現状では、木の実や雑草などを採取する他に生きる術がない。誰かが助けてくれるなんて思わない。誰もいないのだから。
そもそも釣り具をするに相応しい針も作ってないし、細い糸も無い。糸は髪の毛で代用すればなんとかなりそうであるが。
セージは一度抜いた剣を鞘に納め、おぼつかない足取りで岩場を歩き出した。
「お、ラッキー」
岩場にヘビイチゴのような木の実を見つけた。食べられるかどうかの確認もせず口に入れる。プチプチとした触感が美味しかったが、渋みしかない。外れだったがとにかく毟って食べる。
今は味など気にしていられない。
次に食べられる草を拾ってくると水でさっと洗って、魔術で熾した火で炙って食べる。ネギのような味がした。食感は髪の毛を噛んでいるようで最悪だった。
魔術の火は、彼の精神を反映したかのように弱弱しく、蝋燭より小さかった。
鍋が欲しいなとセージは思い、それを頭にかぶっている姿を想像した。防具としても良い線いってるのではと考えてしまうあたり、疲れている。フードの中に手を突っ込んで耳を掻いてみれば、そこも熱い。
何より。
セージは右腕をまくると、腫物になりつつある患部の包帯の位置を直した。
傷口は治療魔術の甲斐もあり、ピンクのケロイド状の皮膚で覆われている。腕の傷、肩の傷、その両方を覆う包帯に血が滲むことはもう無い。
白い絹肌が醜く歪んでいるというのに本人が意に介さないのは、根っこの部分が男性だからだろうか。髪の毛を躊躇なく引きちぎったのも、男性だったからであろうか。
否、彼自身が慣れてしまったというのと、女性を必要とする場面が極端に少なかったことが大部分であろう。
魂は体に引きずられるという話がある。
しかし、女性は女性でも成長しきる前段階の幼い体。それが彼が彼であることを保ったのかもしれない。このまま成長していった場合はどうなるか、天もご存じ無いが。
セージは袖を元の位置にやると、大きくせき込み、地面に蹲った。
最悪の体調だった。咳をすれば喉が弾けそうになるし、頭が痛くて涙が滲む。体の熱さは尋常ではなく、平衡感覚が狂っているのか大地が常に揺れているようった。
おまけに眼球の奥が刺されたように痛む。六時間くらいテレビ鑑賞した時並みにピントが合わせ難い。
もはやただの風邪ではないと馬鹿でも感づく。
これは病気だ。原因はきっと怪我に違いなかった。傷口から病原菌が侵入して体の中で戦争をおっぱじめたのだ。抵抗力が『お客さんが来たぜ』と迎え撃っている最中なのだ。
病気を治すには、とにかく栄養を摂り、睡眠をして、体を温めるのが一番である。可能ならば薬を飲むことだ。
しかし、栄養分のあるものを入手できない上に、薬まで手に入らないとなると、辛さは拷問並み。治療魔術も使えない。体力も精神力も限界領域に片足を踏み込んでいるのに、使いなれぬ魔術をどうして使えようか。
「ゴホッ、ガッ……ゴホッ! つー、ぐぐ………ペッ!」
咳が出た。口の粘り気を舌で掻き出し吐き捨てる。顔を擦り、よろめきながら立ち上がる。眩暈。たたらを踏む。
なんでもいいから口にしなくては死ぬ。
セージが、一歩目を踏み出そうとしたその時だ。視界の端にぬっと影が現れたのだ。亀のような鈍さで目を向けると、死の雰囲気を纏った黒毛の獣がそこにいた。
全長2m超。体重は、どう少なく見積もってもセージの質量の5倍は以上あろうかという巨体。ふさふさと生えた黒毛はしかし、胸元だけ白い。顔はがっしりとした作り。腕と足には強靭な爪があった。
どこからどう見ても熊だった。
「ハハハハ……」
シリアスな笑いが零れ出た。
涙も出てきた。脚が震えだした。ミスリルの剣を抜こうとした。右腕の痛さがそれを許さなかった。左手で抜こうとしたが、焦ってうまくいかない。
熊が咆哮して二本足で立ち上がった。“少女”と比較して苗木と大樹程度には存在感が違った。口から唾液が飛んできて頬にかかった。
腰の制御が恐怖に掌握されかけた。
「ヒッ……」
―――死ぬ。
未来が視えた。剣、魔術、いずれも熊に通用するわけがない。諦めに似た安堵が体を包んでいく。拒絶。神に祈ることだけはしない。絶望もしない。諦めない。
セージがとるべき手段は一つだけだった。可能性がもっとも高いものを選ぶほかに無い。
熊を睨みつけながらじりじりと後退していくと、岩の上に立つ。敵は一定間隔を保ったまま進んでくる。目をそらすことは絶対にしない。もし背中を見せれば食い殺される。
岩の縁を足で確かめる。丁度良かった。
熊は、セージを逃げ場のない場所に追い込もうとして、岩に足をかけた。
「鮭でも食ってろ!」
捨て台詞。
セージは熊に中指を立て、全力で背後に跳躍し、川に飛び込んだ。清涼感が体を癒したのも一瞬だけ。
「あぐっ!?」
川の底に右足が接触、衝撃で関節が軋んだ。反動で川の潮流へと流れる。もみくちゃにされながら下流に運ばれていく。
天地もわからなくなる。口、鼻から水が容赦なく侵入を果たすと、気道を占拠した。溺れ死ぬ。手足をばたつかせて安定化を狙う。服が水を吸い込み纏わりつく。呼吸が苦しい。
途中、岩に擦って体が擦れた。
熊はどうなった?
俺はどうなっているのだ?
川幅が狭いところに侵入した小さき体は、ごみのように弄ばれ、何回転もしながら浮き沈みさせられ、下流に流されていく。顔が水面に浮いたのも一瞬。数秒後には沈む。また浮くと、背中が出る。
肺に水が入ったかもしれない。
意識が黒で塗り潰されていく。永遠に目覚めない悪質な眠りが手招きしている。川を越えた向こうに乾いた平地。水中だというのに大地が見えるなどとおかしいと思うだけの余裕すらない。
体を支配していた高熱が冷水で沈められたことだけは理解した。
遥か遠くで音が聞こえた。ダーンッと爆音が響き、甲高い悲鳴が聞こえた。獣が鼻っ面を叩かれたような。空気を切り裂く音。理解不能。怒号。
次に鼓膜を叩いたのは、誰かが飛び込む音だった。引き寄せられ、地面に上げられた。頬を叩かれる。目を開こうとしてしくじる。瞼が言うことをきかない。水を吐く。唇に柔らかいものが触れた。
心臓の脈拍だけが頭に響いている。
意識が遠のく。
目を薄く開いた。何者かの顔。
誰かの腕に抱かれているようだった。男性か、女性か、それすらわからないが、安心感があった。
セージが完全に意識を手放す前に目撃したのは、巨大な岩が横にずれて、奥に隠した空洞を外気に晒したところだった。