XX、
夜。
太陽はとうの昔に地平線の布団に潜り、月が堂々と星空の中央に居座っている。
障害物の無い草原の真っただ中を、黙々と歩き続ける人影一つ。セージである。
彼もしくは彼女がなぜ夜中に草原を歩き続けているのかと言えば、人目を避ける為である。
地図には記されていなかったが、この草原は遊牧民が頻繁に行きかう地帯だったのだ。他にも軽鎧を身に纏った連中まで目撃しており、接触する可能性があった。
遠目にはエルフと気が付かれまいが、リスクは避けたい。万が一顔を合わせてしまった時は目も当てられない。
これからの旅路はあえて森を抜けたりして人目を避け続ける必要があるだろう。
もっとも夜歩くのは見つかる恐れがある場所に限るのだが。
渓谷の里まで一か月かかると長老が言った通り、地図に記された小目標の一つ一つですらなかなかたどり着けない。そもそも、自分が歩く方向が間違ってないとも言い切れないのだ。
コンパスがあれば話は変わっただろうがと愚痴を吐いても仕方がない。
さっそく倦怠感に包まれ始めた足に鞭を打ちつつ、月明かりを頼りに草原を歩く。
夜の楽しみは何と言っても星空である。というよりテレビもゲームも無いので娯楽らしき娯楽はこれくらいである。現代日本のように排気スモッグで汚れていない健やかな空は、雲や靄といった気象条件を別にすれば透き通った素顔を拝ませてくれる。
北斗七星も、オリオンも、十字星も、星の配置すら違う空は、キャンパスだった。
星と星をつないで新しい星座を作る。元の世界の星座をこちらの空で再現する。羊飼いたちがやった遊びは果てが無い。
「オリオンが太ってやがる」
オリオンを再現してみたが、ベルトが一つ多い。食べ過ぎたのか弛んだのかはさておき。
星明りと月明かりでは手元が見えず、魔術を行使して光を指先に灯せば、地図を広げて進行方向の正誤を確認する。草原の向こう側に一本の巨大な木があると記されている。
つい、と視線を地平線の向こうにやっても、木らしき物体は無く。
もしかすると違う方向に進んでいるのかもしれないし、堂々巡りをしているかもしれない。
木を見つけるまでは草原を永延とうろつく羽目になるかもしれない。最悪、出会った人間に道を聞くことも考慮しなくてはいけない。
喉の渇きを覚え、水筒を取り出そうとしてやめた。水は節約すべきなのだ。いざとなれば草を食み水分を補給する覚悟があったが、可能ならば水は保持しておきたい。草原のど真ん中に水源があると考えるのは都合がよすぎる。
明かりをつけっぱなしにすれば精神力が奪われるし、なにより目立ってしまう。人目を避ける為に夜を選んだのに逆に目立っては意味が無かった。
星座を描くのを止めて歩くことに専念する。
歩き続けていると脚の筋肉が熱を持ち出し、体まで熱くなってくる。
呼吸のリズムを一定に保つ。吸って吐いてを繰り返す。歩調を乱さず、慌てず、歩く。力を込めてはいけない。緩めてもいけない。
「馬、盗んでみるか」
口に出して首を振る。どの道、馬の扱い方も知らないどころか乗ったことすらないのに、どうして馬を操れるというのだろうか。精々リアカー替わりである。
リアカー。
馬車があるくらいなのだからリアカーも作れるのではないか。
作れないことは無いだろう、誰が作ってくれるのかという問題に目を瞑れば。金が必要になるのは言うまでも無く、エルフということを隠し通すことが必要である。エルフの里で作ってもらうのが最も安全性が高い。
自転車でもいい。徒歩で移動していると分かる車輪という発明の偉大さ。
手ごろな岩を見つけた。ジャガイモとカボチャに息子がいるならそれだ。小休憩するべく腰かけて、ミスリル剣の柄を弄る。やっと手に入れたまともな武器。
長老から頼まれたことは『巨老人』の里に剣と言付けを届けることである。剣はいいとしても言付けは内容が曖昧過ぎて理解できないものだったが、己に関係ないことである。
峡谷の里までが30日。峡谷の里から巨老人の里まで30日。徒歩で往復したとして4か月かかる。長い道のりだと改めて思う。
4か月の道のりは、巨老人の里からヴィヴィ達が居た里に戻ることを前提とした計画である。そのまま王国に侵入したとすれば2か月と少しとなる。
「……よし」
セージは頭をボリボリ掻くと膝をパンと叩いて立ち上がり、歩き始めた。鼻をぐしぐし手の甲で擦る。鼻水は無かった。
日が昇り始めたところで布に包まって地面をベッド代わりに寝た。
用心の為、耳を地面にくっつけて寝たが、鼠一匹たりとも寄ってこなかった。焚火は起こさない。ここにいますよと宣伝するつもりは毛頭ない。
翌日、目を覚ますと太陽が天頂でふんぞり返っていた。採集しておいた木の実を口に放り込み、唇を湿らす程度に水を飲むと、ストレッチをして出発した。
地図に記された日付が過ぎても木は発見できなかった。とうとう木の実も底をつき、非常食として取っておいた干し肉を食べることになってしまった。焦燥感の中、昼間だろうが夜だろうが手がかりを求めて彷徨った。
木に辿り着くはずの日が過ぎて三日目。いよいよ干し肉の残量も怪しくなり、水の残量に至っては水筒に四分の一入っているだけという危機に陥った。
四日目。自力で探すことを諦め、遊牧民に道を尋ねることにした。
探し出すのに半日を要したが、遊牧民は快く道を教えてくれた上に水と食料を分けてくれた。フードを取ったら大騒ぎになるので手で押さえておいた。
自力で行けないのなら誰かに頼ればいいという発想が出てこなかった辺り、意地になっているのかもしれない。
水と食料を入手したセージは、木に向かって他の物に目もくれず歩き続け、やっとの思いで見つけることに成功した。
「木……これか」
地平線にぽつんと浮かんだそれを正面に捉えて呟く。日も暮れようという時間帯になって、目標らしきものを発見することができたのだった。
遊牧民を除けば人らしき人に遭遇しておらず、怪我もせずにたどり着けたのは幸運であった。
水筒を傾け、蓋を閉じて背中のバックパック(形状が似ている)に仕舞い込む。
草原を吹き抜ける風が埃っぽくて目に染みる。太陽も目に染みる。何日も水浴びをしていないせいか肌は塩気を帯びていた。長老から借り受けた服も汚れていた。
草原を歩き続けて気が付いたことがある。水っ気が無くなってきたのである。湿気もなく、地面の湿り気も無い。
セージは顔を擦ると、足を進めた。
木に近づいてみると、枯れていた。葉っぱは既に無く、表皮も年老いた老人のように掠れて、生気のない茶色を湛えていた。
水が無ければ生きられない。草も、木も、エルフも例外なく死ぬ。
立ち枯れた木の表皮に手を触れる。
例えようのない虚無感が立ち尽くしていた。
地図を取り出して、さらさらと羽ペンを走らせる。周囲の目標物。地形。木の絵の下に枯れていると備考を加えた。さらに、己がやってきた道に線を書き加え、次の目標に点線を引き、四角形が丸く並んで描かれた地点でペンを止めた。
次の目標は岩が円形に並べられた古代の墓地である。所要時間は三日間。ストーンヘンジという代物だろうか。道中は草原の緑色から茶色と黄銅色一色で表現された土地が広がっていることから乾いた場所なのだと想像をつけた。
セージは木に別れを告げた。名残惜しそうに表皮を撫でて叩く。乾いた音がした。
「じゃあな」
水筒の水をかけたい欲求に駆られたセージであったがどうにも止めた。
あれは死んでいるのだ。
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作品を書くのは手間じゃない。ローマ数字が手間なのだ。