XVIII、
アネットに勝利した、もとい勝利してしまったのを知らされた長老は暫し沈黙し、自分の目論見が頓挫したことを自覚した。
里の外の情勢は厳しく、かつてのようにエルフが優秀な技術者としてもてはやされることはなく、犬畜生か何かのように扱われるのだから、なんとしても外に出したくなかったのだ。
だからこそ信頼のおける上に腕の立つアネットと試合をやらせて阻止せんとしたが、まさかの敗北という結果に終わった。
約束は約束である。
彼女を里の外に出さなくてはならぬ。
長老は机の上で目尻を揉み解しながら、打つべき手を模索していた。
王国の技術を盗みに侵入を試みるなど狂気の沙汰であり、熟睡中の竜の鼻先を蹴っ飛ばして起きるか起きないかを試すような自殺行為である。であるにも関わらず、行くというのだ。
何が少女を突き動かすのかは定かではないが、止めなくてはならなかった。
強引に縛り付けることも不可能ではなく、むしろやった方がいいのだろうが、言葉による解決が一番望ましいと長老は考えていた。
言葉で解決を望まず剣と剣を合わせることしか考えない連中もいるのだが。
長老は頭を上げると、音も無く入室した陰気な表情の男を視認した。手招きをして近くに呼び寄せる。男は長老の耳に口を寄せて何事かを呟くと、また音もなく退室した。
「森を破ろうとするつもりか……術をまた強めなくては……」
報告だった。
何者かが集団でエルフの森を破らんとしているという。近頃頻繁に聞かれる報告であるため、動揺はしなかった。
国土拡大を続ける“王国”は、人種問題や軍備拡張に伴う財政負担のツケからくる民衆の不満をエルフという少数派を迫害すること隠蔽せんと企んでいる。
かつての時代にはエルフは神に近き者として崇められていた。規模も大きかったので一つの国として認められるほどにあったのだ。ところが、時代の移り変わりと共にエルフは排するべきものにされてしまった。
幾度の戦争はエルフの国を崩壊させ、里の幾つかを焼き滅ぼした。
長老の座に収まる彼も、里を守る戦いに出かけた戦士の一人であった。多くの人を殺した。また仲間も殺された。戦いは壊すことしか生まなかった。
エルフは強く、長い寿命を持つ生き物であるが、致命的にかけている点がある。
エルフに無くて、人にあるもの。それは物量である。エルフが長い寿命を持った代わりに、人間は数を増やすことで種の保存を狙った。エルフがどんなに優れていても数で押しつぶされるのは目に見えていた。
王国が領土を拡大するたびに、エルフの害悪について宣伝し、民衆は納得する。
そんな世の中に、どうしてか弱き少女を送り出せるというのか。いや、無い。
ふと、長老は一つの案を思いついた。優れたとは言い難い案だ。言うならば、間に合わせ的に同じ種類の木を大量植林するような。だが、山を丸ごと禿げさせるよりマシだった。
「失礼します」
「はいりたまえ」
扉の向こうに気配がした。
通す様に声をかければ、顔を上気させたセージが入室した。勝てたことが嬉しいのか、勝てて里を出ていけるのが嬉しいのか、いずれの判断はつかないが、悲しくなった。
たかが子供が外の世界で生きていけるとでも思っているのだろうか。
「長老! アネットさんに勝ちました!」
「そうか…………いつここを経つつもりかね」
「今日準備で、明日には発ちます」
「わかった。旅に必要な品は用意させよう。森の守りが君を通す様にしておこう。ところで一つ、頼まれごとをしてくれないだろうか」
「ハイ、なんでも」
長老がさりげなく付け加えた一言に、セージはうんうんと大きく頷いた。
「エルフの里に物と言付けを届けてくれ」
「はい……それはどのくらいかかりますか」
「一つの里に行くまでに三十日前後か。もう一つの里に行くまでにも同じだけかかる」
「そんな!」
不満を口にするセージに、長老は人差し指を立てて見せた。厳しい眼光。目頭に皺が深く刻まれた。
「でははっきり言おうか。死ぬぞ。外の世界ではエルフを狩るためだけに雇われたゴロツキ共がうろついている。庶民の間でもエルフは捕縛対象だ。君も何度も殺されかけたのではないかな?」
「………」
「運よく生き残れたとしても、君がこれより行こうとする場所は宗教を理由に国土拡大を行う大国だ。戦争をやっているのだ、国の中枢に潜れば兵士たちが出迎えてくれるだろう」
「……………」
「アネットから勝利をもぎとった力は認めるが……私は君に死なれたくないのだよ。可能ならここにいて貰いたいが約束を破ることはできない……」
「………………」
「エルフは………性的な奴隷として売買されているという話もある。君のような少女のなりをした子は買い手に欠かないだろう………」
「……………………」
「………せめて里と里をたどる道をとることで、君の実力と経験を養いたい。里をたどれば王国は近づく。順路の中に組み込む形だ」
長老の言葉が紡がれるたびに、セージの顔から喜びが引いていく。潮のように。
目標の無人島があるとして、準備も無しに丸太船で漕ぎ出したらどうなるだろうか。遭難か、転覆か、水と食料不足で飢え死ぬか、想像は難しくない。
これより向かう王国は、言うならば荒れ狂う大海原である。丸太船で渡航できるほど甘っちょろい場所ではないのである。
なまじ里までうまい具合に辿り着けてしまったことが、セージを盲目にした。
長老は優しく諭した。
「君が行く二つ目の里に我が古き友がいる……巨老人と呼ばれる男だ。研鑽を積め。千里の道を一歩で踏破しようと試みる馬鹿はやめなさい。千里の道は一歩ずつ歩まなければ」
「わかり………ました」
「そうだ、届けて欲しいものについてだ」
しゅんと顔を伏せたセージの前で、手を上げた。壁にかかっていた留め具が見えない力で抜け、鞘に入った剣を解放した。それは緩やかに向きを変えると、長老の手に収まった。
無詠唱であった。
長老が剣を手の中で確かめている間に、留め具がゆっくり元の位置に収まった。さながらポルターガイスト。
だが、セージが俯いていたこともあり、顔を上げたときには長老の魔術行使は終わっていた。
剣をざっと目で確認し、机の上に置く。なめし革の鞘。簡素な作りの鍔。ロングソードというには短すぎる、それ。
長老はそれを抜くように目で合図をした。
セージは、言われたまま剣を持つと、抜こうとした。抜けなかった。力が足りないのかと、体を丸めるようにして抜こうとしたが、一ミリも動かない。
ふと、剣の鞘に小さなふくらみがあるのを指で触って気が付いた。直観的にふくらみを押し、柄を引っ張った。引っかかりが外れ、剣身が露出した。
それは見事な芸術品だった。
一点の曇りも無い銀色の表面。剛の剣というより、懐に飛び込み一撃をお見舞いするのに使用されるような、華奢なつくり。雪山から湧く冷水を剣の形に押し込めたような、冷酷な美しさがあった。
ほう、とため息が出た。
剣がセージに反応したのか、淡き光の波を表面に生んだ。
「ミスリル合金製だ。折れず曲がらずよく斬れる。巨老人はこれを望んでいる。二か月前に発注を受け、つい先日出来上がった品だ。違う者に届けさせる予定だったが、君にやってもらいたい」
「あの、向こうの里でこの剣は作れないんでしょうか。なぜここで作ったんですか?」
こちらの里で作る必要があるのかを問いかけると、長老は苦々しい顔をした。机の上の地図を示し、三角形の印を人差し指で二回叩く。
「ミスリルを産出する鉱山を占拠されたらしくてね……こちらの鉱山は無事だ。とにかく、この剣を届けて欲しい。道中使っても構わない」
むしろ、道中の危険を退ける意味合いで持たせたかったのであるが、内容に嘘偽りはない。
セージは剣を鞘に戻すと、捧げ持つように両手で握った。体積に対し軽い。
「わかりました………その、えー……」
思わず言葉に詰まり、口の中で言葉をもごもごさせる。言われて気が付いたのだ、いかに外が危険なのかを。そもそも危険な目に遭ってきたのに危険と思えなかった方がおかしいのだ。
悲惨な未来予想図が頭をよぎった。
己の腐乱死体。腹には斬りつけられた痕。髪の毛はバサバサ。鴉たちが食べられる部位にくちばしを突っ込み容赦なくちぎっていく。
瞬きを一つした。
手の中のミスリル剣が頼もしくも危なげに存在していた。