XVI、
「やりすぎですよこれは」
「ごめんなさーい」
「反省してますか?」
「反省してまーす」
「まったく……」
全身に雪玉を食らったセージは、魔術行使の負荷も相成って気を失い救護室に担ぎこまれた。
本人が語ったように鼻からは大量の血が流れていた。
地に倒れたのち、駆け寄ったアルフとヴィヴィが覗き込んでみると血塗れだったので、さすがに顔色を失ったが、出血源が鼻と判明すれば、安堵した。
なぜアルフは途中で割り込まなかったかと言えば、たとえば氷の刃物が射出されるなどという本格的な殺傷魔術なら横から止めようと考えていたからである。雪玉は殺傷能力を持たないのは当然のことであり、止めるのを躊躇したのだ。
アルフとヴィヴィに見守られる格好ですやすや寝息を立てるセージ。白いベッドの上で寝転んでいると、とても元が男性だとは思えぬ人形のような可愛さを醸し出す。そんなこと、本人にとって路傍の石よりどうでもいい事象であろうが。
どれだけ時間が経っただろうか。夕日は地平線の彼方に顔を隠して、空が群青と漆黒の化粧をし始める時間帯になった。
セージの身じろぎが多くなり、シーツの皺が増える。
「………」
無から有が浮かび上がる。スイッチが切り替わるよう、暗闇に一筋の光が差し込む。瞼が薄らに眼球を露出させたがすぐに閉じてしまう。それを繰り返すこと数度、ウーッと息を吐き、覚醒した。
目を開くと知らない天井があった。
目だけを動かしてみれば、真顔で腕を組み椅子に座っているアルフと、うつらうつら涎を流しながら椅子で寝ているヴィヴィ、そしてつい今しがた入室したらしきアネットの姿があった。
そういえば、と“彼”は思い出した。
車にはねられ足の骨を折った時も、今のように家族がベッドを取り囲んでいたな、と。
「目を覚ましましたか」
「私にはわからないよ、セージ。焦らなくてもいいだろうに」
アネットがアルフとヴィヴィに一礼し、椅子に座った。
セージは、アネットの顔をまともに見ることができず、布団で顔を隠した。
そして、ワガママを言ってみる。
「……今夜はここに泊まります。泊まりたいです」
「わかったが、ちゃんと帰ってくるんだぞ……ご飯の時間までには。アルフ氏、あとはよろしくお願いします」
「私というより学校医ですね。わざわざ学校に忍び込む輩もいませんでしょうし、すぐに話は通せましょう」
話しぶりや態度からアネットとアルフが顔見知りであるらしいと推測した。
アネットとアルフは、ヴィヴィを起こしにかかる。残して行くことはできない。彼女の両親が心配するだろうから。
ところがヴィヴィは涎の量を増やすばかりなのである。
アネットはため息を吐くと、ヴィヴィの背中に手を回し、両足を持ち上げたのだった。俗に言うお姫様抱っこ。姫は姫でも眠り姫。すらっと細いアネットの容姿と相成って、姫と騎士であった。
「さほど遠くはないですから私が連れて帰ります」
「助かります。セージ君、本当にここに泊まると?」
アルフが念を押してきたので、布団から顔を出して頷く。
アネットはまるで赤ん坊をあやす様にヴィヴィをゆっくり揺らした。彼女は口を半開きにして気持ちよさそうに寝ている。熟睡しているらしく目を覚ます兆候すらあらわさない。
「はい」
「そうだな……いちいちご飯を食べに帰るのも面倒だろう。私が届けるよ」
「……あ、ありがとうございます」
「本来なら同じ机を囲むべきなのだが……頑張れ。私とて無敵の戦士ではない。隙を見せるつもりはないが、見出すことはできる。君は賢いからできると信じている」
倒すべきアネットに助言を貰ってしまい、宿敵に握手を求められたような不思議な気分に襲われた。
やがて三人もいなくなって、救護室は静かになった。
少しして、救護室の主たる学校医が訪れて話の確認を求めてきたので、礼儀正しく応じるとにっこり笑ってくれた。心中は気後れに溢れていた。
医者もいなくなれば、完全に無人となる。
学校から生徒も消えて、教師も居なくなった。
この世界においても夕方になれば鴉が鳴き始め、群青色は徐々に色褪せて暗黒の空が姿を現す。化学物質に汚染されていない清浄な大気の彼方には満点の星空。
セージはストレッチをすると、救護室を後にして訓練場に向かった。
昼間には見えなかったのだが、訓練場の天井は光り輝く塗料か石が使われているらしく、月明かりが無くともはっきりとものを見ることができた。
セージは唯一まともに使えた火炎の剣を安定して行使するのに一時間をつぎ込み、対アネット用の剣術を生み出そうと四苦八苦の末『時間が無い』と諦めた。
付け焼刃の剣術が通用するような相手ではないと、何度も何度も投げられて理解したのだから。
あぐらを掻き、額の汗を手の甲で拭う。
実力が無いのならこけおどしでもハッタリでもカマでもホトケでも親でも使うしかない。
腕を組み、背中を丸め、訓練場の地面を見つめ、脳に命令を下す。何かいい案は無いかと。
熟考の末、頭に落雷があった。
「それだ!」
その案はこの異世界にはおそらく発明されていないであろう代物だった。
準備すべき品がいくつかある。さっそく明日から取り掛からなくてはと腕をぶんぶん振り回して気合を入れる。光が見えてきた。そう、光が見えてきたのだ。
セージは案を支える魔術行使の訓練を続行しようと勢いよく起立し、髪の毛を掻きむしった。金糸が香った。せっかくの髪がぐしゃぐしゃである。
「腹へったぁ……」
そこでセージは、やっと胃袋の嘶きを認めた。
学校に戻り、救護室の扉を開けてみれば、食欲を擽る香りがした。心臓が高鳴った。ばたばた慌ただしく先ほどまで寝ていたベッドに行ってみる。包みが一つ鎮座していた。
さすがにベッドの上で食事はまずかろうと、床にあぐらをかいて座り、包みをほどいて中身を確認した。パン。干し肉。香草。果物。涎が舌を濡らす。手を合わせ、いただきます。エルフの前では決してやらない習慣が出た。
パンは冷えていたが外の皮が固く中は柔らかい。香ばしさが鼻を通る。美味しい。
干し肉、香草をおかずにパンをもぐもぐ咀嚼する。
干し肉は唾液で濡らしてから何度も何度も噛むことで柔らかくして、パンと香草に絡めて飲み込む。
最後に残った果物を歯で潰し、甘い汁を楽しんだら、包み布をポケットに突っ込んで訓練再開である。
でもその前に。
「ごちそうさまでした」
明日からは忙しくなる。
とっとと水浴びをしようと、駆け足で学校中を探索して、教師用のと思しき水浴び場を拝借する。タオルは無いので、包み布を使う。拭いては絞り拭いては絞りを繰り返し、体の水気を取る。髪の毛は水を拭くだけ拭いて放置する。
そしてセージは、眠りに身を委ねる前にベッドを部屋の隅に押しやり、布団をかぶり、寝た。